>>207 「無理な解釈」と言われますが、それが、ブッダゴーサや龍樹菩薩(大智度論)の解釈、
ということになりますが・・・。というか、「人、有情、衆生の輪廻」の「有情」を
「ひと」の意味と受け取っておられるようですが、ブッダゴーサが、ここの註の
「サッタ」(有情)を「ひと」の意味で使っていたのかどうかは、再考すべきだと考えます。
片山先生が書かれているように、別に「アッター」(我)という註もあり、また、齋藤滋「初期
アビダルマ仏教における「我」の同義語について」に「ブッダゴーサが述べているように,
当時の仏教では,プドガラ・アートマン・サットヴァ・ジーヴァという語は,いずれも
人格の主体を表す術語として,承認されていた」とありますから、「サッタ(サットヴァ)」を
「アートマン」の同義語として註釈した可能性もあります。
なお、従来あまり触れられていないようですが、別訳雑阿含経(No.100)では、
この文脈で明瞭に「我」「衆生」などと訳出されている点も、もっと重視すべきかと思います。
(用例) 頗説於“我”死此生彼。/外道復言。“我”於此死。亦生於彼。/又問。“我”此死已。
亦受後有。/若有所問。皆稱順答説。“我”死此生彼。“我”死此不生彼。/
“衆生神我”。死此生彼。爲有爲無。/“我”死此生彼。死此不生彼。/佛終不説“衆生”死已
更不復有死此生彼。/外道問言。“我”死此生彼以不。阿難言。如來不説。など。
「他の箇所と矛盾」という点に関しては、これが『外教の視点に立った質問』であることに
留意すべきでしょう。「諸法無我の視点に立った質問」ではない、という点が重要です。
だから、無記の答え方をしたとしても不思議ではないと考えます。
出家修行者には、そういった問題に触れることなく、諸法無我や縁起(流転門・還滅門)を
説いたわけです。在家信徒に向かっては「施論・戒論・生天論の次第説法」をしたので、
在家信徒にとって「死後は天界に生まれたい」という願望が肯定されているわけです。
〔出家修行者には、「この世もかの世も望まない」(Sn.779)と、その願望は否定されています。〕