キリスト教のココが嫌だ!

このエントリーをはてなブックマークに追加
138神も仏も名無しさん
>>131
>森安 達也氏による解説、

森安氏が述べているのはオリゲネスのことで聖書のことではないですね。
それでは、>>105>>109>>111-112を踏まえて話を前に進めましょう。
イエスは完全に神であると同時に完全に人間とされていることも抑えておきましょう。
福音書でのイエスは一般人みたく飲み食いもするし疲れもします。
彼が一般人みたく輪廻転生しても、何ら問題ないんですよ。
キリスト教ではイエスが人性を得たのはマリアに受肉した時とされていますが、
それがイスラエル王国時代だか族長時代だかにまで早まるだけです。

>及びリンクの『聖書の中の再生誕とカルマの教え』を真剣に読むことです。

ヨハネ伝なんてもろにカルマ的業論の否定なのに〔低我パーソナリティー〕なんて
持ち出して付会してますね。三位一体説を笑えたもんじゃないでしょう。
まともな学者ならやらないことだけは確かです。
>>94
>(及び行為の結果が自己に返ってくるという業報の教え)は

人間がやったことに対して神が応報を与ると言うのは旧約からの伝統です。
>>134
そのようにして古代〜中世の教会は莫大な利益を増大していったわけですから、

莫大にゲットは無理みたいです。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/魔女狩り
139神も仏も名無しさん:2010/03/06(土) 21:05:39 ID:mGrHZPc9
mixiに興味深い書評があったので貼りますね。どちらも「フィロ」という方のもので、
引用元は「懐疑論者の集い-反疑似科学同盟-」コミュの「懐疑論・反疑似科学文庫」トピの35

『悪魔学大全』 ロッセル・ホープ・ロビンズ 青土社
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791764722

 ぼく達は「魔女裁判」を笑うことは出来ないでしょう。なぜなら、
21世紀の現在も「魔女裁判」は形を変えて、世界各地で行われているからです。
 それはともかくも、上記の本は、日本で手に入る「魔女裁判」に関する最大のデータベースでありましょう。
 これを読んでいると、クラクラして来ます。恐るべき人間の所業を見ると同時に、「魔女妄想」を終わらせたのが、
懐疑主義であったことを考えると、いかに懐疑主義が大切であるかが分かります。
 現代の形を変えた「魔女裁判」に対抗するためには、懐疑主義が最大の武器でありましょう。

 もう一つ、この本には注目すべき点があります。
 西欧の「魔女裁判」には、ステロタイプがあります。
 それは、魔女裁判はキリスト教会支配の暗黒時代の産物であるとか、教会が魔女裁判を煽動したとか言ったものです。
 しかし、1970年代以降から、史学者たちの研究によって、事実はそんな単純なものではないことも分かってきている。
 魔女裁判はケース・バイ・ケースが激しいので十把一絡げには語れないものではありますが、これをやりたがったのは、
むしろ一般民衆のほうで、教会をこれを止めようとしたことも多い。つまり、魔女裁判は狂信的な教会による恐怖支配の産物というより、
むしろ集団ヒステリーやスケープゴートを求める一般の民衆によって引き起こされることのほうが
多かったということは、だいぶ日本でも知られるようになってきました。
 この本には、こうした新しい研究成果も反映されています。
140神も仏も名無しさん:2010/03/06(土) 21:09:35 ID:mGrHZPc9
『教皇と魔女―宗教裁判の機密文書より』ライナー デッカー 法政大学出版局
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588008757

 この本は、こうした比較的最新の魔女裁判の研究成果を報告した本の1つです。
 「入室スル者ハ破門セラルルベシ」
 これはバチカンの教理省(旧検邪聖省)の秘密書庫に1880年まで扉の上に書かれていた言葉だと言います。
この書庫は20世紀入っても、研究者すら簡単には入れてもらえず、それがやっと公開されたのは1998年のことでした。
 著者は既に1996年から、この書庫の調査を許された研究者なのですが、
この本はこうしたかつての秘密文書を史料として書かれたものです。
 ゆえに、魔女裁判の研究書としても、新しいものを含んだ最新の報告の一つでしょう。

 この本は、ローマ教皇庁が、魔女裁判とどのように対峙したのか? それを中心に研究したものです。
 それによると、まず「魔女裁判にうつつをぬかすカソリック教会」というのは、事実と反するということです。
 教皇庁は、魔女に関しては「一般的な見解」というものがそもそも存在せず、全体像がつかむことすら
難しいほどの複雑怪奇な様相を呈していたということ。 歴代の教皇によって、
魔女への考え方、政策は異なり、一概には言えないこと。
 そして、長い歴史の中で、教皇庁は確かに魔女裁判を積極的に行った時期もあったが、同時に醒めた目でみていた時期も多かった。
特に16世紀以降になると、教皇庁の力の及ぶ範囲では、死刑になる魔女は少なく、
教皇庁の力が及びにくい地域で死刑が多かったことなどが分かります。
(つづく)
141神も仏も名無しさん:2010/03/06(土) 21:12:37 ID:mGrHZPc9
(前レスからつづく)
教皇庁は、魔女の存在を信じながらも、魔女裁判の多くは冤罪であることに気付いており、これを抑えようとしていたのです。
教皇庁は冤罪を防ぐための手引き書を出したり、地方の魔女裁判に介入して、無実の容疑者を救うことすらしていたのです。
 そして魔女裁判の中には、冤罪ではなく、本当に魔術の実践が行われたというケースもあり(もちろん「呪文を唱えたが、
悪魔は現れなかった」と記録に書かれている)、著者はそうした史料をも紹介している。

 また魔女裁判は、しばしばキリスト教的な女性嫌悪の現われだという説もありますが、これへの疑問も呈される。
なるほど、確かに悪名高い『魔女への鉄槌』には、ひどい醜悪な女性嫌悪があります。
これまでの魔女裁判の研究者は、この本を根拠にして、女性嫌悪説を唱えて来ました。
 しかし、実際には教皇庁の力の及ぶ範囲で起こった魔女裁判には、そのようなものは見られない。
男性の被告も多くおり、地方によっては男性のほうが多い所もあったといいます。

 このように、この本では魔女裁判の新しい研究成果がいくつも紹介されてします。
これによって、ぼく達は、これまでの古い魔女裁判の見方に様々な再考を促されるでしょう。

 ともあれ、「思い込み」、「スケープゴート」、「集団の暴走」等によって引き起こされた最悪の事態の一つである「魔女裁判」。
 この歴史を知ることは、懐疑主義を扱う者にとって、非常に有益と考えます。