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まず、各節の「○は無我である」の○(色乃至識)部分に付けられた註86。(p.165)
五蘊の中、色(rUpa)とは、暑さ、寒さなど反対の原因によって変化する地水火風などの物質、
受(vedanA)とは対象(所縁)の苦・楽を感受する【心所】、
想(saJJA)とは対象を想念する心所、
行(saNkhAra)とは対象へ働きかける思(cetanA)を中心とする心所、
識(viJJANa)とは対象を知る種々の心である。
続いて、「もし色が我であるならば、」の所に付けられた註87。(p.165-166)
我(atta)には最高我(parama-atta)と霊魂我(jIva-atta)との二種がある。
最高我とは世界や有情を創造する【主宰】神であり、霊魂我とは【個人的な】実体である霊魂を言う。
霊魂我を更に詳しく説明すると、
体の中に霊魂という我があって、あらゆる【行為の作者(kAraka)】である。つまり足を運ぶのも、
礼拝するのも、善・不善などを作るのもすべてこの我が身語を動かすのである。
またこの我は善・不善の異熟を【感受するから受者(vedaka)】である。
またこの我は五蘊の家が朽ちても新たな次の五蘊の家へ移って行くので居住者(nivAsA)である。
ある人はこの霊魂我を自在者(sayaM-vasisI)とも称する。五蘊を自己の思うがままに従わせるからである。
【このように我見者は】、体の中に霊魂が常住すると説くが、更にある人たちは、
五蘊の一々を我である主張するのである。