イエスとブッダの共通点 善悪

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1思慮 ◆AIOdk12HhuOj
―かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきで
 ある―(ブッダのことば)
―ああだろう、こうだろう、と考えても〜何となれば、その愚者の考えは虚妄なのである。過ぎ去る者は虚妄
 なるものであるから。安らぎは虚妄ならざるものである―(ブッダのことば)
―妻のある者はないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしな
 いようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである―(コリント・・)
―悪魔の征服者です〜煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり〜善悪の両者に汚されませ
 ん―(ブッダのことば)
―へびは女に言った〜神のように善悪を知る者となることを〜食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好
 ましいと思われたから―(創世記)

  神を信じる者でさえ、世と交渉あり、五欲の対象や第六の思考を尊んで生きる人々は、神に信仰はない
  ということを知っている。

―ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が聖者なのではない〜もろもろの悪を除く賢者こそ聖者
 なのである〜この世にあって善悪の両者をよく考える人こそ聖者とよばれる―(真理のことば)
―何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえて知るべきであ
 る―(ローマ・・)

  神は霊で、修行僧も世との諸々の交渉を断って彼岸への道を歩んだ。しかし、世俗人として迷い論争を
  繰り返す人々は、本当の愚人なのである。「真理を見る人には何ものも存在しない」ということを知っ
  ている人は、自らを灯明とし他人を頼りとしない人のために、この世にあっての善悪を語る。
  
2神も仏も名無しさん:2009/06/28(日) 12:53:35 ID:SysMxjIS
主に感謝致します。
3思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/01(水) 23:15:55 ID:4Ah1hsif
神は
 諸行無常― 一切の形成されたものは無常である―
 一切皆苦― 一切の形成されたものは苦しみである―
 諸法非我― 一切の事物は我ならざるものである―
  そして、天の測りによって私の様々な欲楽・物質的なこだわり、生活のためのこころづかい、思い煩い、
  世のこころづかい、悪い者への嫌悪感、享楽・快楽などをことごとく「やめるように」言われた。
  この世のものの無い幸せから語られるわけだが、私にはつらく、「目的」がある人だと。やりたいこと
  がある人である。

神の沈黙と不在
 神はこの世の様々な状態、環境の人々に対して、(どうしようか)と思い煩う方ではない。
 神は衣食で足ることを知り、家のある私に対して、部屋の中で世のことから離れ、私の国のように静かに
 暮らしておれと。
 その証拠に、人間救済・世の救済のためなら、話すこともできる神が何もされず、かえって人の嫌がるこ
 とを常々語られる。神は人間にとって、最も信仰しずらい方である。人間の暮らしの中で困った時に、す
 がれる方でもない。
4思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/01(水) 23:16:52 ID:4Ah1hsif
仲保者と真理の言葉を説く釈尊
 神を信じても、この世が人間的に救済されるわけでもない。
 神を信じて、行いを認めてくれるわけでもない。むしろ行いを制し、世のことから離れ、離欲を達成し、
 静かにしていること。

 しかし、人間の状態であっても、神の国・仏の境地は少しは知れる。
 悩み苦しみの無い幸せが、人の状態で、他人の悩みや苦労を厭い、それを取り除いてあげようとあわれみ
 の行いとなる。平穏を愛する心が、無意味な争いを避けようとする。

 しかし、金銭欲・自分の生活のこと、その他諸々の肉欲に熱中している人々は、そういったものが足りな
 くなる場合がある。
 
 教えに肉欲を制すること、あわれみや慈悲の教えがあるのは、―真理を見る人には何ものも存在しない―
 が、一切の悩み苦しみも無い幸せの霊の心が人に宿り、信仰をしようとする人に対してその行いを教える
 ため。
       ―田に植え、橋を作り、休息所を与える― ―肉の主人に誠実に仕える― 
       「目的」のある人々が、恣の肉欲でいるよりも、与え合えば悩みも無くなる。

 
5思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/04(土) 17:40:23 ID:ikbHNvXN
これだけは知っておく必要がある

神は人格的に存在し
 ―地上のものに心引かれるな―妻のある者はないもののように、泣くものは泣かないもののように、世と
 交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである―肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出
 たものではなく、世から出たものである―ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである―
 
  イエスは貧しい人々に福音を述べ、釈尊は出家修行僧らと共に、味わいですら、世のものを貪らなか 
  った。神も同様、地上のものに心引かれるな、一切貪るなという方である。

世の多くの人々は、神に対して、からし種一粒ほどの信仰が持てないだろう。

神の怒り
 神をして、物質的な幸福などを教える人々。愛より物質的な幸福から離れよと語る方である。

神の処罰
 地上のものに引かれる全ての人々は、もう神の「左」呪いの子であり、「下界」。
 我々文明的な暮らしをしている者は、神の左として既に処罰されている。この下界で生き、やがて「土に
 帰り」地の者として生き続ける。
 神からすれば、誰が偉いとか、まともだとか、善い者だとか悪い者だとかそういったことが無い。地上の
 ものに心引かれる全ての人々が悪魔の子=罪人である。罪人は既に裁かれているのである。

多くの人々は神に愛されない者であるから、イエスは教え、釈尊は出家修行僧と在俗信者に法を説いた。
しかし、誰も行いにより神に義とされることはない。イエスも釈尊も神に代わって、この世を愛する法も説
いた。
6思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/07(火) 20:23:21 ID:d+UDCZAq
―忍耐づよく努力する者は財を得る。誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友を結ぶ。信仰あり在家
の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれらの四種の徳があれば、かれは来世に至って憂えるこ
とがない―(ブッダのことば)

―働こうとしない者は、食べることもしてはならない―(テサロニケ・・)
―肉の主人に従いなさい〜だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、そ
れぞれ主から受けるであろう―(エペソ・・)

 神は文明的な暮らしの中で、働くことさえ否定される方である。現代の社会システムの中で、働くことを
 拒否して暮らすことは私にはできない。人間を理解されない方であり、多くの人々も神を理解しにくい。

 イエスや釈尊と修行僧は、労働ということをしなかった。

この世の権威や栄華を貪らせる悪魔
 人々が、自分の権威や栄華などを貪り、あくせく働き、世の中に様々な物を生み出した以上、神にとっては、
 衣食があれば足れりとすべきが「土に帰らない」道であり、世の中で労働するより大切なことだと。

7思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/07(火) 20:24:29 ID:d+UDCZAq
栄華や権威を貪る地の者も「地の者は愛」として隣人のことを思わず、無慈悲で自分勝手なら、この世で幸せ
が得られない。

天の者となろうとする人は、世のことから遠ざかり離れ、衣食で足り、無欲で暮らすこと。
地の者として幸せになろうとする人は、良識的なふるまいを捨てることは、幸せではない。

神にとって「地の者」は神の左であり、悪魔の子=罪人であり、既に裁かれ、ついには「土に帰り」地で生き
続ける。神の処罰は、「人は死んで無くなる」ことであり、善悪のはからいさえ無く、人々を見捨てられてい
る。

―心が煩悩に汚されることなく、心が縛られることなく、善悪のはからいを捨てた人には、悪い領域(=地獄)
に落ちるのではないかという恐れがない―(感興のことば)
―天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らし
て下さるからである―(マタイ)

 「土に帰る」人々には、その人が悪かったからという刑罰さえない。地の者・土の者・肉の者として見捨
 てられず、「神の右」に至ろうとする人、天の者として生き続けるためには、世のことから遠ざかり離れ、
 衣食で足り、無欲で暮らせということである。
8思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/12(日) 00:28:24 ID:rLMCfk0t
神の正義や善は、世のこころづかい・生活のこころづかい、肉の欲や目の欲・その他人間の欲を捨て去り、
土に帰らない人となることで、言語あり人格的に存在するが、世の中の悪を止めさせることをなさらない。
もちろん、土に帰らないようにする人は、世の人々に無慈悲・残忍・冷酷な行いをせず、敵意・憎しみ・怒
り・怨みも無く、全てに寛容な人とならねばならない。

神に中途半端は無い
 「右か左か」世や生活のこころづかい、その他諸々の欲望を捨て去り、衣食があれば足りるような暮らし
 をし、邪まな見解を捨て、土に帰らない人となるか、何も信じず、自分自身や世のことに熱心になって、
 死後は土に帰ることを自然に認めるか、そのどちらかである。天の者となろうとするか、地の者で終わる
 かどちらか。世の善い者・悪い者もそのままで、善悪のはからいを求めても無駄である。

世の多くの人々は、死後はその人と二度と会えない
 そのことは神のとおりであり、人が死ねば『もうその人と二度と会えない』といって悲しむのは人として
 正しい。そして親族や愛する者に危害を加えた者・自分自身に害を与える者に怒り、敵意や憎しみを抱き、
 『目には目を、歯には歯を』といって、それに近い法律などをつくる。
 神は「土に帰る者」に慈しみのこころづかいも無く、人間の肉の思いが神によって満たされることは一切
 無い。物質的なものの喜びと生きる人間は、人間自身がしっかりしていないと、世の中の秩序は保てない。

信じた者に罪意識と善
 神は世と肉とを愛さない。宗教として世を見捨てることではなく、信じた者に罪意識を持たせ、人間教と
 して、この世の善を教えるしかなかったのがイエスの真実。肉の欲を全て捨て去ることに忠実でなくとも、
 善い行いによって、この世の人々が救われるようにと。

9思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/18(土) 17:19:34 ID:lIuMI3fB
神は、人の手で造られたものへの喜びや幸せに思うことを完全に否定され、世のこころづかい・生活のここ
ろづかいさえ否定される。人の手で造られたものを操作し、働くことさえ否定されるのである。
神は、私が家の中に入ってきた蟻を憎み、殺虫剤で殺すことさえ、その心の内と行為とを否定されるのであ
る。一切の生きとし生けるものへの残忍・冷酷・無慈悲・敵対の心と暴力を否定された。
神は、心の内さえ知っておられる方である。私は、神への信仰がいかに難しいか知ってしまった。


愛は地の者=土に帰る者への配慮
 私が神への信仰がいかに難しくできないとあきらめてしまった時、「地の者は愛」との言葉を聞いた。
 地の者は愛を失っては幸せが得られないということで、神への信仰ができない者への神の配慮の言葉であ
 る。人が何か善いことを行っても、それは地の者のためであって、神への信仰ではない。
人の手で造られたものを喜び幸せに思う者は、善い行いをしても神への信仰ではないのである。


地の者を神は悪魔の配下とされた
 『地上のものに心引かれない』か『地上のものに心引かれる』かで神は『右』か呪いの『左』かに分けら
 れる。神をして、世の物質的な幸せを語る人々に神は怒る。
 ―悪魔の征服者です〜煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり、またこの人々を渡す
 のです〜善悪の両者に汚されません―(ブッダのことば)
10思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/18(土) 17:20:57 ID:lIuMI3fB
地の者はそのまま、あなたのまま
 地上のものに心引かれる者は、「その人のままでよい」と。そして、土に帰る。「あなたは、ちりだから、
 ちりに帰る」。衣食があれば足りるような暮らしをせず、地上のものに心引かれて暮らしているような人
 々は、善いことを行ったとしても「消え行く霧の者」となる。

神は地上のものに心引かれる人々を呪い、権威や栄華を得られる悪魔の配下とさせた
 ―世の中のどこにも、わたしは害いを見ない―(悪魔との対話)
 ―人をさばくな〜人を罪に定めるな〜ゆるしてやれ―(ルカ)

 土に帰る者・地上のものに心引かれる人々を呪い、神が悪魔の配下とさせたので、神をしてこの世に害あ
 りとしてはいけない。

 自分に損だ、悪い環境になった、害を加える人がいるなどとして、人をしてこの世に害いを見ること。
 地の者は「その人のまま」で、自分たちに損をさせる者を訴えたり、争ったり、対立したり、また、世の
 争いに害ありとする人々もいて、法律などをつくったり、地の者はその人々のまま、あるがままにさせる。

 地の者はあるがまま、人々がつくった世の中で喜んだり、苦しんだりして生き、そして土に帰る。

11思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/26(日) 08:46:33 ID:pVQGXXI6
私は神と対話した人間として語る。

地上のものに心引かれ、肉の欲・目の欲・持ち物を得ようと働く者に天国はない・永遠はない・神への信仰
はない。左の神・悪魔の配下・地の者として終わる。地の者として何も信じず「その人のまま」でよい。
自分を愛して、死ぬことは悲しいとか、人の死は悲惨であるとか、多くの人々が死について苦しいことだと
強い嫌悪感を抱くなら、地上のものに心引かれる人々にとって、宗教の教えもない。

神が地上のものに心引かれず、衣食で足ることを知り、永遠の者となれと命令されるから、それを勘違いし、
悪魔の子として終わる者も、兄弟を殺し、父母を殺し、武力で人々を支配し、自分の利益のために他人を殺
しても悪いことではないという、人を人として思わない善悪感のない者に対して、罪のゆるしの信仰があっ
た。神が地の者は、「土に帰る」だけの者としても、人が他人を殺して土に帰らせることに罪悪感の全くな
い者であってはいけない。「地の者は愛」として、神も土に帰る人も、無慈悲で冷酷・残忍では幸福にはな
れないと言われるのだ。

肉の者・地の者・土に帰る者は、死の悲しさ・苦しみを注視して、他人の生命を軽んじてはならない。
衣食で足ることを知れず、肉の欲・目の欲・持ち物を得ようとして働く日本人は、自分と他人の生命を軽ん
じないなら、「その人のまま」となる。
12思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/26(日) 08:47:23 ID:pVQGXXI6
衣食があれば足りる人に対しての、永遠の命の命令
 ―(神通力の)能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねば
 ならなぬ。足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が
 静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない〜いかなる生物生類であっても、怯
 えているものでも強剛なものでも〜長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、
 微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも〜すで
 に生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
 何ぴとをも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして
 怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない〜母が己が独り子を命を賭けて
 も護るように。そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起すべし。
 上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし―(ブッダのことば 慈しみ)
 
 ―敵を愛し、憎む者に親切にせよ〜あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしない
 で貸してやれ〜いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる
 神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ―(ルカ)
 ―ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである―(テモテ)―地上のものに心を引かれてはならない
 ―(コロサイ人)
13思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/26(日) 08:48:11 ID:pVQGXXI6
―罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人―(真理のことば)
―悪人に手向かうな〜右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい―(マタイ)
―身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、―かれは自己を制した人である―(ブッダのことば)
―この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう―(ヨハネ)

肉の欲・目の欲・地上のものに心を引かれ、持ち物を得ようと努力する人々は、左の神(悪魔)の配下
 なぐられてもなぐり返し、拘禁されるのを恐れる。人は痛い思いをさせて世を制したり、暴力を振るう者
 に対して、なんらかの制裁を加えて暴力をなくす。この世の幸せ(左の神)を求める人々が、やがてなぐ
 るなぐられる行いを嫌がり、法律などをつくる。土に帰るのだから、死を恐れ、自分の命を大切にする。
 兄弟・父母の命を大切にし、世の人々は他人の命を第一に尊重するようになり、人の命を救おうとする。
 天国のない者・永遠の命のない者・神に信仰がない者が、肉欲のままで世を良くしようとする。

左か右か、中途半端を嫌う神
 信じた人は、地上のものに心を引かれず、文明的な暮らしの喜びから離れ、衣食があれば足りるような暮ら
 しをし、永遠の命を得よと強く求められる神であるが、そうしない人々は、その人のままで信じず生き、土
 帰る者となれと。中途半端な信仰を最も嫌う方である。
 神に逆らい、地で生き続ける多くの人々は、地で喜んだり楽しんだり、悩んだり苦しんだりして、ついには
 土に帰る。神をして、この世の幸せを言う人は、最もいけないことなのである。
14思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/08/06(木) 21:52:44 ID:XdPs+h4F
―「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む〜愚者がみずから愚かである
と考えれば、すなわち賢者である―(真理のことば)
―すべての人は罪を犯したため、神の栄光が受けられなくなっており〜イエスを信じる者を義とされる
のである。すると、どこにわたしたちの誇りがあるのか。全くない―(ローマ人への手紙)

15神も仏も名無しさん:2009/08/15(土) 08:20:15 ID:aYTv56vb
みんな、わかりにくい
「原因と結果の法則」読もう
16神も仏も名無しさん:2009/08/15(土) 08:29:06 ID:JfusX8DJ
夏とは言え、朝は涼しいものだな
早起きこそ二人の共通点だよ
17神も仏も名無しさん:2009/08/15(土) 08:47:13 ID:GbvmFeX+

僧侶/直伝,博峰による、本物の宗教を伝授いたす
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1248963348/

是非お越しください

18神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 08:42:07 ID:5KLrFBDl
今、ソロモンの箴言を読んでいるが、これも為になるよ。皆さんも読んでみてください。
19神も仏も名無しさん:2009/09/15(火) 15:40:15 ID:nDbcB5pZ
ソロモンとイエスは一千年隔たった存在であるが、クリスチャンは、ソロモンの以下の言葉は、
イエスの言葉であると言っていないか?クリスチャンはソロモンの存在を抹殺していないか?

《第1朗読》-箴言(第8章22-31節) ※数字は節番号の記載です

 【 神の知恵は語る。】22 主は、その道の初めにわたしを造られた。 いにしえの御業になお、先立って。 23 永遠の昔、わたしは祝別されていた。
太初、大地に先立って。 24 わたしは生み出されていた 深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。 25 山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが わたしは生み出されていた。
26 大地も野も、地上の最初の塵も まだ造られていなかった。 27 わたしはそこにいた 主が天をその位置に備え 深淵の面に輪を描いて境界とされたとき
28 主が上から雲に力をもたせ 深淵の源に勢いを与えられたとき 29 この原始の海に境界を定め 水が岸を越えないようにし 大地の基を定められたとき。
30 御もとにあって、わたしは巧みな者となり 日々、主を楽しませる者となって 絶えず主の御前で楽を奏し
31 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し 人の子らと共に楽しむ。

20神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 17:33:45 ID:Wqwwqygf
進化論と創造説を勉強してる。
これは仏教で解明できるような気がする。
誰か、試みてくれ。
21神も仏も名無しさん:2009/10/03(土) 10:00:46 ID:Zaa/suND
http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/00%200%20rei%20sizenn2.htm
  事を成し遂げるのは「神のみことば」(イザ55:11)である。これは、神様が今語っておられる言葉や幻やレーマなどである。
  しかし、その「みことばの種」が蒔かれる土壌は良いものでなければならない。 この「良い土壌」とは、積極的、肯定的な考え方のことであり、
思考を、神の成功へ方向付けなければならないのである。 もし私たちが、”劣等意識”、”貧困意識”、”病気意識”、
”失敗意識”などを持っているならば、神様はご自身のみわざを成し遂げることはできない。
  みことばは真理であるから、私たちは、聖書のみことばの契約に基づいて、
「自分の思い(=思索、思考方式)を一新」し、”勝利意識”、”富裕意識”、”実業家意識”、
”神に愛されている人”、”賜物の人”、”リバイバリスト”などの肯定的、積極的な意識を浸透させなければならないのである。
  思索・考え方は、健康や寿命にも影響を及ぼす。(「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」(箴17:22))
______

 このサイトは面白いよ。
上の引用は、仏教の実相を前提にした修行と同じものだよね。
22神も仏も名無しさん:2009/10/21(水) 19:46:33 ID:5w+GJ7pp
善悪という概念はパウロによってもたらされた。人間から
見るとたいそうなことのようにみえるが、実際のところ
イエスも仏陀もそのような概念を超えているように思える。
23神も仏も名無しさん:2009/10/23(金) 17:50:47 ID:E8tbWWx/
聖者は善悪を分別しない。彼には、一相・無相・空相、神の世界なのだから。
24神も仏も名無しさん:2009/10/23(金) 18:28:44 ID:O/i1gkXG
中村光の『聖☆おにいさん』を読め。

25神も仏も名無しさん:2009/10/23(金) 21:34:21 ID:E8tbWWx/
欧米では進化論・創造論が真剣に論じられているのだ。
頭が下がるよ。
26神も仏も名無しさん:2009/10/23(金) 21:35:47 ID:SgSmH7SC
下がらないよ。
創造論はただのアホ。
27神も仏も名無しさん:2009/10/28(水) 20:11:05 ID:dNMqGvgt
この個体は他人の作ったものではない。原因に拠って生じ、原因が滅びたなら個体も滅びる。
個人存在の五つの構成要素・六つの感官と六つの認識対象とを合わせた十二の領域・十二の
領域に六つの認識作用を合わせた十八の要素。

全知全能の神が創造して、全知全能の神が善悪の罪を犯させた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられ
た。
 人を創造する以前に、創世記を書く人がいたことになる。


何ものかを信ずることなく、作られざるものニルヴァーナを知り、生死の絆を断ち、善悪をな
すによしくなく、欲求を捨て去った人。

 創世記は思考と五つの感官(六つ)で個人存在を意識するようになったたとえ話。


 
28神も仏も名無しさん:2009/11/08(日) 08:50:40 ID:i0hDMD39
>>23
とはいえ>>1

>―ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が聖者なのではない〜もろもろの悪を除く賢者こそ聖者
> なのである〜この世にあって善悪の両者をよく考える人こそ聖者とよばれる―(真理のことば)

とある。少なくとも自分自身についての善悪についてはよく考えたほうがいいような気がする。
29神も仏も名無しさん:2009/11/09(月) 22:07:44 ID:2yjD4FpY
キリシタンが、一切は神の被造物であると考え、常に神ことを思うなら、
彼は一切の変化を認めておらず、いかなる変化にも執着しないことになる。
これが一相であり無相であり空相なのだと思う。神と言う概念については、
キリシタンは、これこれのものと考えるのではなく、唯一なもの、と言う概念に収束している
に違いないのだと思う。この唯一なものを思う導きとなるのが神と言う表現なのだ。
キリシタンについては、この神を思うということに反することが、悪なのである。善とはこの神への思いから離れないことなのである。
 一方仏教徒は、神と言う概念を用いない。彼は現実に相対しているものであるので、
現実はないものと考えるのである。現実がそのまま真実である、一相無相空相なのである。
彼は、時間空間と言うものを思うことがない。時間空間と言うものを思うことが、真実に反する悪であり、
時間空間を思わないことが善なのである。今言った相違も結果として同じことにならないだろうか?
 いずれにしても、不真実なものに執着しないことが善であり、不真実なものに執着することが悪なのである。
理論的にこのようにいえると思う。
30神も仏も名無しさん:2009/11/20(金) 23:50:52 ID:hsG5JElA
理論などどうでも良い。

仏陀もヨシュアも解脱されたのだ。
31神も仏も名無しさん:2009/11/29(日) 09:59:02 ID:cbXe66Zr
共通点というよりも、イエスは若い頃に
仏教やヴェーダをアジアで学んだ可能性はある。

ガンダーラでは、ギリシャ彫刻がみつかってるので
仏教がまるっきり伝わっていなかったとはいいきれない。
32共通点 ◆NiJ/Bbz/ouLf :2009/11/29(日) 21:48:35 ID:+DkG5Xkx
「荒野を四十日のあいだ〜そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。」
(聖書)
「或る修行僧が〜或る林の荒野に住んでいた。」(悪魔との対話)

  荒野で食を節する行い、修行。
33神も仏も名無しさん:2009/11/29(日) 22:29:16 ID:hR4cfafW
>>31
ヨシュアが仏教を学んだことは
ほぼ間違いない、と俺は思ってる。
34神も仏も名無しさん:2009/12/01(火) 09:04:36 ID:o/DwfLP+
パルテノン神殿とかの当時の建築技術見れば、アジアまで
少数の人が行き来してても、別段におかしく感じないよね。

ガンダーラのギリシャ人が里帰りして、他の国の文化や宗教伝えてても
おかしくないし、トマスはインドまで行ったらしいし、
ローマ帝国は宗教に興味無かったみたいだし、3世紀まで資料がないから
仏教、ヴェーダはまるっきり伝わってないは決め付けすぎだと思う。
35神も仏も名無しさん:2009/12/01(火) 09:11:25 ID:o/DwfLP+
虎や山賊が現れるような危険な旅をする商人なら
身分低そうだから、読み書き出来なくてもおかしくないし、
それにパピルスは腐敗するからね。聖書も何回も写されてるから
36神も仏も名無しさん:2009/12/01(火) 12:14:14 ID:hYWZWbSv
聖書は仏典以上に写しまちがいと
故意による改竄があるよね。
37思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/12/06(日) 10:06:47 ID:dgZupvlt
―偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかに神がないことを、知っている。とい
うのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても〜わたしたちには、父な
る唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主
イエス・キリストのみがいますのである―(コリント人への第一の手紙)

 イエスが教える神は、解脱して不死の境地に達して、神通力(仏教)或いは、―この山にむかって『こ
 こからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないで
 あろう」― その神しかないということを教えている。解脱すれば、このことかとわかるものなのであ
 る。
 修行僧も悟りの境地(唯一の神)を知ろうとして、荒野で修行した。

38思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/12/06(日) 10:08:15 ID:dgZupvlt
―すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、―これが仏の教えである。わかち
与える人には功徳が増大する―
―悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は善いところ(=天)に生まれるであろう。
しかし他の人々はこの世で道を修して、汚れを去り、安らぎに入るであろう―(感興のことば)

―善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。このよう
にわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める―(コリント人への第二の手紙)

 荒野で妄執(悪しき者)を全て取り除く修行で、不死の境地に至り完全な者となるか、妄執(悪しき者)
 に従わず、善いことを行い、自己の心を浄める道。

―人がこの世でなす善と悪との両者は、その人の所有するものであり、人はそれを身につけておもむく。そ
れは、かれに従うものである。影がそのからだから離れないように―(神々との対話)

 子や財、自己さえ自身ではない。それらへの執着からくる苦悩を取り去ること。しかし、善と悪との両
 者は、影がそのからだから離れないように、その人の所有するものである。
39神も仏も名無しさん:2009/12/06(日) 10:31:41 ID:nyv4wWC5
両者、鬼籍の人。
40思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/12/06(日) 15:00:38 ID:dgZupvlt
―今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、世と交渉のある者は、それに
深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。わたしはあなたがたが、
思い煩わないようにしていてほしい。未婚の男子は主のことに心をくばって〜結婚している男子はこの世の
ことに心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとして、そこ心が分かれるのである―(コリント人への第
一の手紙)

 ― 一切の事物は我ならざるものである(諸法非我)―
 この世の有様が過ぎ去った世界でしか、神を知れることはない。なぜなら、全世界は悪しき者の配下、
 妄執というものに一切のものが従属したからである。妄執・悪しき者に従い、人の心を得た人間が、
 神を知れることは一切ない。唯一の神は、解脱して不死の境地に至って知ることができる。
 不浄の状態で、唯一の神を知れることは一切ない。
41思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/12/06(日) 15:01:17 ID:dgZupvlt
―究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して〜何ぴとをも他人を欺いてはならない。たといどこに
あっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えること
を望んではならない。
あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対して
も、無量の慈しみのこころを起こすべし〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行う
べし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
諸々の邪まな見解にとらわれず〜諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがない
であろう―(ブッダのことば)

―敵を愛し、憎む者に親切にせよ〜あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで
貸してやれ〜いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が
慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ―(ルカによる福音書)

 この世でも、一切の事物に執着せず思い煩うこと無く、敵意・怨み・憎しみ・怒り・他に対する善悪感
 などを捨て、慈しみのこころづかいによって、清浄な存在に近づくことができる。
 人間の思いは清浄な存在を知ることができず、ただ人間の思いで信じることができる偶像対象物は無い
 のである。
42共通点 ◆NiJ/Bbz/ouLf :2009/12/14(月) 19:38:10 ID:TdhWLTuW
「究極の理想に通じた人が〜足ることを知り、わずかな食物で暮らし」(ブッダのことば)

「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って
行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」(聖書)

 この世で、素晴らしいと崇拝されるような人は、諸々の欲求を捨て、全ての人々に対して、
 敵意や憎しみを捨て去り、慈悲のある人。
43神も仏も名無しさん:2009/12/14(月) 23:51:28 ID:rjJ1/y4l
精神を重んじる宗教ならば
天動説は正しいよ、ついでに世の終わりは
その人が死んだときだ。天動説を主張して、審判を信じるのは
おかしい、あくまでも世界は精神主体で無いとおかしいからだ。

イエスの説く世の終わりは、そういった例えの自分の内面を重んじる意味もあったんだな。
44神も仏も名無しさん:2009/12/14(月) 23:52:09 ID:rjJ1/y4l
罪の贖いとは、死が罪の代償であり
永遠の塵に還ると思い込んでいたユダヤ教に対して
永遠の魂を教えたことで
復活とは輪廻転生のことだろうな。


使徒が書いたとされるヨハネ福音書やトマス福音書を
読めば、浄土真宗のようにユダヤ教ナイズされてるが、これらが隠しきれていないことがわかるはずだ。
45神も仏も名無しさん:2009/12/14(月) 23:53:38 ID:rjJ1/y4l
イエスは精神を重んじた精神至上主義で、けして物質的な表現はしなかったと思う。

復活が生まれ変わりなら、他宗教と何ら矛盾し無いし、精神的には新しい体であり、新しい天と地であるからだ。
良い行いをした弟子ならば現在よりも来世が幸せなのもわかる。

しかもヨハネ福音書では、復活が最終的な救いとは言ってないから、生きている今現在に父やイエスや聖霊と一つになるのが
救いであると言ってるから、これは仏教やヒンズー教の救いとも変らないようなことを言っている。
46神も仏も名無しさん:2009/12/14(月) 23:58:03 ID:rjJ1/y4l
カトリックの聖人は、聖霊に満たされた精神状態を告白してる人が多いから
やっぱり救いとは悟ることなんだよ。
47共通点 ◆NiJ/Bbz/ouLf :2009/12/17(木) 19:55:22 ID:1lQxDcPi

《究極の理想に通じた人が平安の境地に達して 修行をつめば師のようになろう》

「わずかな食物で暮らし」「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」
「上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。この世では、この状態が崇高な境地」
「敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ〜いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人に
も、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。」

「煩悩の矢を離れたわたしがどうして眠らないということがあろうか〜世の中のどこにも、わたしは害いを見な
い。それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐れみながら、われは眠る。」(悪魔との対話)
「人をさばくな〜人を罪に定めるな〜ゆるしてやれ。」(聖書)

 物質的な喜びを得なければならない心を捨て去る、公平・平等。他人の過失を見て他人に束縛されない自由
 な心、邪まな見解を捨て、悪を行わない。
 人々が安らいだ心でいるなら世を乱さず、貪欲で自分を正そうとせず、他人のあやまちをゆるさない人々が、
 世の人々を苦しめる。

48共通点 ◆NiJ/Bbz/ouLf :2009/12/17(木) 19:59:09 ID:1lQxDcPi
《欲界からの解脱はその人の自由》

蓮華の香りを嗅いだだけの修行僧に対して、
〔神いわく〕
「下女の汚れた衣のように、汚れて荒々しい男に向かって、わたしは説いているのではない〜罪汚れなくして、
常に浄らかさを求めている人には、毛先ほどの悪でも、雲ほどに大きく見えるのである。」「わたしは、そなた
に依存して生きているのではない。またそなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない。」
(悪魔との対話)

「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」「肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌みきらい
なさい。」
「肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心か
ら神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい〜僕であれ、自由人であれ、それに相当す
る報いを、それぞれ主から受けるであろう。」(聖書)
「この世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば」(ブッダのことば)

 世俗的なことから離れ、離欲まで達成しないと輪廻に堕する。人は苦悩から解脱しないのである。
 何もしないでも、離欲を達成し、安らぎを楽しめば苦悩なきところに生まれる=修行僧の行い
 しかし、五欲の対象を少しでも享受する心があるなら、自分のために仕事をしてくれる人々がいるのでは
 ないと心得て働くこと。行いは霊に尽くす(近づく)ことではなく、その人が報いを受けるため。

 欲得という汚れた心に従わなくとも、誠実に一切の生きとし生ける者どもの幸福や安穏・安楽に努め励め
 ば、彼ら(人々)の功徳は増大する。
49神も仏も名無しさん:2009/12/18(金) 00:47:55 ID:eg+tbKoe
働くと食う、という言葉をイコールにしたかった
勢力があるんだね。
ヨシュアは本当はそんな事は言わなかったと
思う。
一日働かざれば我一日食らわず、と言った
中国の禅者の影響も大きいよね。

君の感性は素晴らしい。
あとは修行に励むだけだ。
50共通点 ◆NiJ/Bbz/ouLf :2009/12/18(金) 21:32:39 ID:P0cmmibf
「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれに過失(道から外れるこ
と)は存在しない。」
「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して〜足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、
生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。」
(神々との対話・ブッダのことば)

「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではないとは』とはどういう意味か、学んできなさい。
わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
「人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日
夜、苦労し努力して働き続けた。〜「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」〜静かに働いて自分
で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧める。」(聖書)

 「識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福
 であれ、安穏であれ、安楽であれ。」(ブッダのことば)
 「丈夫な人は医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえ
 ではない』

 だれにも負担をかけまいと、日夜、苦労し努力して働き続けた。諸々のひとの家で貪ることがなく、わずか
 な食物で暮らすか、自分のために仕事をしてくれる人々がいるのではないと心得て、だれにも負担をかけま
 いと働こうとする心は、修行完成者に近いあわれみの心を得ている人々。
 苦悩なき世界を喜び、世の諸々のことから遠ざかり離れて、所有物を捨て去り、諸々の欲望に関する貪りを
 離れ、静けさを楽しみ、心の安らぎに安住しようとする人々は、罪汚れから離れる修行僧。 


51共通点 ◆NiJ/Bbz/ouLf :2009/12/18(金) 21:33:39 ID:P0cmmibf
《一切の生きとし生ける者をあわれむ・道から外れることはない》
【学び修めた賢明な人】

『貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ』
「信仰心あり、学び修めた賢明な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ。心に喜ん
で、撒き散らし、「与えよ」「与えよ」と語る。かれは、天が雨降らすごとくに、その轟きを発するのである。
その豊かな功徳の流れは、施しを与える人に、降り注ぐ。」(神々との対話)

「空腹のときに食べさせ、かわいているときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ」
「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。」

 人々は苦悩があって信仰対象物に救いを求めるが、その苦悩(思い煩い)の解決は、過ぎ去る世のことから
 遠ざかり離れ、欲から遠ざかり離れることしかない。そこで道を修して、善いことをした人々は善いところ
 (=天)に生まれる。

 「すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、―これが仏の教えである。わかち
 与える人は、功徳が増大する。」
   (感興のことば)
 「貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。」(聖書)
52神も仏も名無しさん:2009/12/22(火) 09:24:19 ID:HGRRJuym
個人的に
イエスと釈迦に差異はなかったのだと
思っているが

ただ弟子のレベルがまるで違ったのが
差異を生じさせている。
53共通点 ◆NiJ/Bbz/ouLf :2009/12/24(木) 20:41:04 ID:26dUG5Kf

「智慧をまず第一に重んじて、善を喜び〜『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』―家を捨て
道を学ぶ人は、これら四つの憂いに導く思慮を抑制せよ。」(ブッダのことば)
「未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。」(神々との対話)

「ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわず
らうな。」
「あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
(聖書)


【善悪】
「悪魔の征服者です、賢者です〜みずから彼岸に渡りおわり、またこの人々を渡すのです。麗しい白蓮華が泥水に
染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ」(ブッダのことば)

「へびは女に言った、あなたがたは決して死ぬことはないでしょう〜神のように善悪を知る者となることを、神は
知っておられるのです。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思わ
れたから」「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも
取って食べ、永久に生きるか知れない」(創世記)

人の思考の及ばない死なない境地を修行で求めながら、道を学ぶ。善悪を知る者となり、われわれのひとりのよ
うになった人が、永久に生きるかも知れない可能性。

54神も仏も名無しさん:2009/12/24(木) 21:26:01 ID:WNbB1Me/
Celine Dion-Oh Holy night
http://www.youtube.com/watch?v=7Jr-2eyRtV4

Oh holy night!                おお、聖なる夜!
The stars are brightly shining        さざめく星たちのきらめき
It is the night of the dear Savior's birth!  愛する主が 降誕された夜
Long lay the world in sin and error pining  罪と過ちの中 世界は待ち焦がれ
Till He appear'd and the soul felt its worth. 主の降誕に 魂はよみがえる
A thrill of hope the weary world rejoices   希望の輝きは 苦しみの世を歓びに染め
For yonder breaks a new and glorious morn!  遠くから始まる 輝く新しい夜明け

Fall on your knees              ひざまずき 耳すませ
Oh hear the angel voices           御使いたちの歌声に
Oh night divine                神が現われ給うた夜
Oh night when Christ was born         主が降誕された夜
Oh night divine                おお、神聖な夜
Oh night, oh night divine           おお、神聖な夜
55神も仏も名無しさん:2009/12/26(土) 11:59:02 ID:ZLYJKeVH
56共通点 ◆NiJ/Bbz/ouLf :2010/01/06(水) 20:16:27 ID:LqaX1dwJ
「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他
のものをよりどころとせずにあれ〜どうして起るのであるか?〜修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よ
く気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。」(ブッダ最後の旅)

「肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである〜
「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」
(ガラテヤ人への手紙)

「律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにと
っては自分自身が律法なのである。」(ローマ人への手紙)

「神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。」

57共通点 ◆NiJ/Bbz/ouLf :2010/01/06(水) 20:17:25 ID:LqaX1dwJ
「自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい〜あなたの父と母とを敬え〜次の約束がそ
れについている。そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう〜子供をおこらせな
いで、主の薫陶と訓戒によって、彼らを育てなさい。」(エペソ人への手紙)

「父母につかえること、妻子を愛し護ること〜悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしない
こと〜尊敬と謙遜と満足と感謝と適当な時に教えを聞くこと〜――これがこよなき幸せである。」(ブッダのこ
とば)

「母または父、あるいは長兄に対し〜尊敬心をもて。」(悪魔との対話)

58共通点 ◆NiJ/Bbz/ouLf :2010/01/09(土) 10:53:16 ID:qoM/+MbV
「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは〜日に一食を取る〜未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在の
ことだけで暮らしている。」(神々との対話)
「全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭い離れ、身を修めて、死ぬ時
の到来を願っている人。」(ブッダのことば)

「荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつき
ると、空腹になられた。」(ルカによる福音書)
「この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」(ヨハネによる福音書)



「自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない。」
「肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく。」(エペソ人への手紙)

「どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他
人にとってもそれぞれの自己がいとしいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない。」
「厚かましく、図々しい人は、生活し易い。この世では、心が汚れたまま生きて行く。恥を知り、常に清きをもと
め、よく仕事に専念していて、つつしみ深く、真理を見て、清く暮らす人は、生活し難い。」(感興のことば)
59共通点 ◆NiJ/Bbz/ouLf :2010/01/09(土) 10:54:28 ID:qoM/+MbV
罪汚れない永遠の命は、人の状態で快楽や五欲の対象を厭い、人里離れた自然を好むが、「母が己が独り子を命
 を賭けても護るような慈しみ」も自己への執着を和らげる。

「唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。」(真理のことば)

 自己への執着を乗り越えた全くの平安の境地に至っていない人の状態では、自分を愛するが故に他人を愛する
 戒めは、この世で妄執(悪しき者)を制している。
60神も仏も名無しさん:2010/01/21(木) 08:50:22 ID:DJ9vVn81
真実が唯一なるものであるのに、無限な相を持つ万物を創造すると言うことは
不可能であり矛盾でではないだろうか?それは幻であり虚妄であるといわねばなるまい。
そうすると人は死ねば神=無相=唯一なるものに帰すと言うべきではないか。
こういう道理を知って信じているものと、これを知らずこの世の虚妄なるものに
執着する者との相違が説かれるのでは?
61神も仏も名無しさん:2010/01/21(木) 23:14:11 ID:Nu57w0RC
世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王
もかれを見ることがない。
身体は泡沫のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。身体をこのように観ずる人は、死王もかれ
を見ることがない。
その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路は知り難い。


あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く
霧にすぎない。 聖書

 神と隣人愛を大事な戒めとする聖書。善悪だけなら、皆が知っている事として、地の者が悪を行い
 互いに害を加えないため。神に対しては罪意識を持たせてのこと。
 もっと高い存在に近づく教えは、世の中と人の状態から解脱する修行。

 主は神ではなく、「この世の君」この世の救い主。
 意識もそなえ心もある一尋の身体に即して・・・意識も心も無い清浄な状態では、創造さえ知れない。
 最終的には、神に対する偶像も無くなる。
62神も仏も名無しさん:2010/01/27(水) 23:28:30 ID:24ow9fIi
人が死ねば自分自身が無くなる。当然のことであるが、それでは宗教の意味がない。
悪が多ければ強力な支配者の想像が必要と考え、支配者があれば不平が生じる。
神を信じながら偶像を捨て去らねばならない。


この世の者で無くなったことを想像してみよう。
二度とこの世に生まれることのできない自分を想像する。
やはりこの世は楽しかった、美しかった、少々のことで思い煩い、敵意や憎しみを
抱いて暮らすよりも、隣人、家族や友と楽しく、また苦しい時もある生活をなつか
しいと思わないだろうか?

この世の者ではない神と、彼岸を目指して慈悲を説いたイエスとブッダ。

断食や苦行により死ぬ一歩手前で悟った教えは、完全な慈悲こそ教えるべきだとの
結論に至ったのだろう。かの世もこの世も望まず、神の国はいつごろでもない。
彼岸で悪を封じ、苦しみの彼岸と説いて、悪から遠ざかり離れて、家族愛や貪欲で
妬みのない普通の生活が幸せだと教えたかったのだろう。
63神も仏も名無しさん:2010/01/28(木) 08:13:24 ID:iTzpDzSQ
キリスト教の、イエスが人類の罪を自分で背負い、詰まり人類の罪を自分の責任として、
その罪滅ぼしとして十字架に掛かり神に謝罪したとし、その故に人類と
神との和解が成立したという、教えは重大な間違いではないだろうか?
そうだとして、キリスト教に入信した人は、その故に神との和解を得られたとして、
幸せになれるというのか、そんなことは絶対にないと思われる。
 これはパウロの教えのようである。パウロと言う人は、イエスの言葉を少しも
引用しないのである。もっぱら自分の見解を強引に説くものである。
 しかし、イエスの教えと釈迦の教えは、同一の源から来ていると見做すのが、このスレの主流なのである。
64神も仏も名無しさん:2010/01/28(木) 08:24:56 ID:iTzpDzSQ
つづき
イエスの事件は、現代流に言うと、冤罪事件である。
真犯人として、人類が居るのである。
 イエスを冤罪に貶めて、それで人類が神の怒り、詰まり神からの処罰を受けない
で居られるというのは、日本の裁判所と真犯人の関係ではないか。
この真犯人は、処罰こそ一時的に免れたが、それだけで、処罰を免れたことにより、
真っ当な人間になれたのであろうか?其れならイエスの冤罪は価値あるものであろう。
しかし、そうでなければ、人類は、一相神に敵対する集団となったのである。
 
65神も仏も名無しさん:2010/01/28(木) 08:44:14 ID:iTzpDzSQ
>>62
>彼岸で悪を封じ、苦しみの彼岸と説いて、悪から遠ざかり離れて

彼岸じゃなくて、此岸だろう?

>家族愛や貪欲で 妬みのない普通の生活が幸せだと教えたかったのだろう。

これが大乗から非難された小乗と言われるものだと思う。これは厳密には
正法を知らないものの究極の善というもので、六道輪廻の最高位置にある
天界と言われるものであると思う。
66神も仏も名無しさん:2010/01/28(木) 21:26:26 ID:HCowGa5W
れいなちゃんいますか〜?

いたら未来技術板へカムカム!

お呼びだしを申し上げま〜す

ぴんぽんぱんぽーん
67神も仏も名無しさん:2010/01/28(木) 23:50:18 ID:wiyjp8Ga
念をおちつけて、苦しみの彼岸に達する。

信仰と、喜びと、意と、念いとが、わたくしを、ゴータマの教えから離れさせません。
わたくしの心は、かれと結びついているのです。
師ブッダ 汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。



神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。



信仰とは人(隣人)への思い通りにならないことをゆるし、自分の利益にならない人
への愛と、執着を完成させるものだと感じる。行っても思い上がらない程度の愛は、
誰に対してか自分自身が決めること。

68神も仏も名無しさん:2010/01/30(土) 16:09:12 ID:0O9puLLw
>師ブッダ 汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。

真実が何であるかを知ったものは、妄想を捨てる。そして、神とは妄想であると知る。
なぜなら、その神とは創造主であるから。
69思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/01/31(日) 12:21:11 ID:oPfYSN0q
―不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである―(ローマ人への手紙)

―かれらには無が有であるのごとくに見られている。真理を見る人には何ものも存在しない〜
  世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死
  王もかれを見ることがない。身体は泡沫のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。身体をこの
  ように観ずる人は、死王もかれを見ることがない―(感興のことば)

―あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く
霧にすぎない―(ヤコブの手紙)
―この世の有様は過ぎ去るからである〜偶像なるものは実際は世に存在しないこと―(コリント人への第一
の手紙)
―過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理で
あると知る―(ブッダのことば)
―その人々の解脱の境地は空にして無相―(真理のことば)

 人間の境地は悪しき者(妄執)に従い神を知れぬ者となった。創造を思考できることも、神に対して偶
 像を抱き信仰対象とすることも、妄想することも、意識することもできない。悪い者に従い、そのよう
 な行為ができるのである。
 妄想せず、思考を静め、いかなる行為もない人のほうが、偶像を抱いて信じている人々より、悪しき者
 (妄執)に従わず、清浄な存在に近づいている。
70思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/01/31(日) 12:22:27 ID:oPfYSN0q
―荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされ、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつ
きると、空腹になられた―(ルカによる福音書)
 修行僧も荒野でわずかな食物で暮らす生活を守り、常に清浄な存在を求めていたのである。
―わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣
食があれば、それで足れりとすべきである―(テモテへの第一の手紙)

 『主よ、主よ』という言葉も無ければ、神を信ずるという身体の行為も無い。権威と栄華を求める欲念を
 一切捨て去るように努める行為が神を知れる行為で、悪しき者(妄執)を滅ぼしつくして、解脱しないと、
 清浄な存在(神)を知れる者とはなれない。

イエスは、
 ―もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとして
 も、その言葉どおりになるであろう―
  と、善悪感もある人間の状態では、清浄な存在(神)に信仰のある人は誰もいないと説いている。

神は、罪(欲念)のある人間どもを呪い、人間の境地を得させ、そのままの人間にさせた。権威や栄華を得よ
うとする悪しき者の配下とし、悪もある人間とし、罪(欲念)のある者どもを下界の暗闇の中で、生じては滅
び、生まれては土に帰る、苦しみから離脱できない呪いの子としたのである。

神は、「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」など人間の欲念を捨て去るなら、神の右に生まれることができるし、
あなたを愛すると言われ、欲念を捨てきれない人々を、そのままの人間で「神の左」とし、あなたを呪い続け
ると言われる。
71思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/01/31(日) 12:24:17 ID:oPfYSN0q
―妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。人は、苦悩から解脱し
ないのである―(神々との対話)

 ブッダと修行僧の行為は、このような生存状態から解脱する忠実な行為で、誰かがその人を救うことはな
 い。

神はイスラエルでイエスを目覚めさせ、釈尊も目覚めた。
 ―悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい―
 (マタイによる福音書)
 ―罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人―(真理のこと
 ば)

 解脱し煩悩の可能力を滅ぼし尽くさないと、誰も神に義とされない。からし種一粒ほどの信仰のない者も、
 悪しき者(妄執)に従わなかったら、反抗や抵抗することさえ無い。怒りや敵意、憎しみさえ無い。それ
 らが正しいことだと思いなし、はじめから罪を正しいとするな。つくられざる存在(神)とつくられない
 ような者に人々が近づくなら、地の者も罪を正しいとするより、平和になるだろうということ。

神は罪を犯した人間どもを、悪もある人間とし呪ったばかりではなく、世の人々が罪汚れの無いつくられざる
存在(神)と不浄から目覚め、つくられざる者とは何かを求めることによって、世も救おうとされた。

罪(欲念)をもった人間の状態では、単純に神頼みはできず、かえって神の怒りの人々となる。偶像礼拝は貪
欲他ならないのである。人々がつくられざる清浄な状態は何かと求めることによって、下界が暗闇だけになる
ることを回避する。

 もちろん、神の望みの人々、ブッダと修行僧のように、欲念を捨て去ろうと日々努力して暮らし続ければ、
 苦悩のない国に生まれることができる。
72神も仏も名無しさん:2010/01/31(日) 18:44:53 ID:n8jDzvA5
全人類に警告する。
悪魔があらわれ、全人類に「獣の数字」をつける。
獣の数字をつけられた人間は、巨大コンピューターで管理される。
全人類すべての個人情報を、書き込むコンピューターが
開発される。

レーザー光線で人間の皮膚に、目に見えないイレズミを
つける機械を、悪魔が発明する。
悪魔は、人類に獣の刻印を、ひたいと右手の手首につける。

「獣の数字」をつけられた人間は、
悪魔の奴隷にされる。
悪魔にさからう者は、生存権をうばわれる。

ここで予言する!!獣の刻印をつけられた人間は、
イレズミしたところから悪性の腫瘍(シュヨウ)ができる。
「獣の数字」にきをつけろ!!!         ミカエル

73思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/02/04(木) 19:09:00 ID:x+hIr1vS
―この世は虚妄の束縛を受けていて、未来に変化する可能性のあるもののごとくに見られている。愚者
らは煩悩に束縛されていて、暗黒に覆われている。かれらには無が有であるかのごとくに見られている。
         真理を見る人には何ものも存在しない―(感興のことば)
―心も無常である―
―神通力―(仏典)―からし種一粒のどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と
言ったとしても、その言葉どおりになるであろう―(ルカ)

 決して死を味わうこと無く、何でもできる神とともに在る境地は、世とこの身から遠ざかり離れ、思
 考も及ばず、意識も無く、心さえ無く、愛も無く、一切の苦悩から遠ざかり離れ、欲の無いことを喜
 び、ありとあらゆる人間の思いも消滅し、何もないような状態で、全くの清浄で善である。
 神に対する偶像も無く、創造したとか、つくられたとかつくられなかったという思いも存在しない。

欲望も無い、つくられざる存在(神)に安住できず、『権威と栄華の拡大を抱き、他を打ち滅ぼす野望』
悪しき者・妄執に従い人間の境地を得た。冷酷・残忍・無慈悲・怒り・敵意・憎しみなど、何もないよう
な清浄な状態から、悪をも行えるそのままの人間の状態になった。

74思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/02/04(木) 19:10:09 ID:x+hIr1vS
―あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない―
(ヤコブの手紙)

 神は人間的な幸せを微塵も思われていない。―地上のものに心を引かれてはならない―(コロサイ人)
 地上のものに心を引かれた不死なる霊の境地の者どもを、悪しき者(妄執)に従えさせ、人間の境地
 を得させた。つくられざる存在(神)は欲望も無く、霊の境地に安住できなかった者を怒り、なんで
 もしでかす肉体を持った人間にした。

イエスや釈尊と修行僧は、神の義を示すため、荒野でわずかな食物で暮らす生活を守り、不死の境地を目
指した。悪しき者(妄執)を打ち滅ぼし、何でもできる霊力に達し、神の義の存在となったのである。
 離欲を達成し、この世で自分の命を憎むこと、
 ―全世界のうちでも内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭い離れ、身を
 修めて、死ぬ時の到来を願っている人―(ブッダのことば)

  労働することもなく、地上のものに心を引かれず、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを捨て、衣食が
  あれば足りるような暮らしをし、欲の無い、朽ちることも無い、霊の国に生まれることは、善悪よ
  り、神は望んでおられる。
75思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/02/04(木) 19:21:18 ID:x+hIr1vS

―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない〜自分の妻を自分自身のように愛しなさい―
―肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのではなく、キリストの僕と
して心から神の御旨を行い―(エペソ人)
―どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのよ
うに、他人にとってもそれぞれ自己がいとしいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならな
い―(感興のことば)
―信仰あり在家の生活を営む人〜もしもこの世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものが
あるならば―(ブッダのことば)

 『―天上にいる悪の霊に対する戦いである―』(エペソ人)
不死の境地に至らず、つくられざる存在(神)とともに存在できなくなった罪人(人間)を、ほしいまま
の肉欲にし、冷酷・非情な行いもさせ、下界に更なる苦難と困難を与えるのが、悪の霊である。

修行を積んで不死の境地に至り、この世の苦悩を乗り越えた者しか神の義とされないが、その他の人々も
ほしいままの肉欲に従って、悪しき者の配下とならないように、戒めの言葉が語られた。

 ―何ものかを与えて交友を結ぶ―与えよ―
 修行完成者の慈悲・あわれみ・寛容は、それを行ってもつくられざる存在(神)を知れることはない
 が、天上にいる悪の霊に従わない人々にするためである。

 意識もそなえ、心もある通常の人々の身体では、「愛」が悪しき者(妄執)と戦う武器となる。
 
76神も仏も名無しさん:2010/02/09(火) 23:26:19 ID:xULirU7H
善悪?
77思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/02/12(金) 22:17:58 ID:lRcNrd10
自然を楽しむ趣味があった。
ある時、何かの縁があって、不死の境地を知った。

―すべては水の泡か陽炎のごとし、一切は虚妄である― 決して死を味わうことの無い境地とともに、自
己やこの世から遠ざかり離れ、全ての悩みから遠ざかり離れる境地。生存状態の境地は重荷であったと感
じられる境地。「悟りの境地は空であり無相」「この上なき最上の喜びの境地、ニルヴァーナ」
―あなたがたは何でもできる―という言葉が真実であるという境地でそれで釈尊やイエスが神通力があっ
たと受け入れられる。

釈尊と修行僧・イエスが自然の中(荒野)でわずかな食物で暮らす生活を守り、或いは断食し、世の欲望
を断つ修行をしなかったので、

―妄執が人を生まれさせる〜生存するものが、輪廻に堕している。人は、苦悩から解脱しないのである。
世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のものが
従属した―(神々との対話)
―全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている―(ヨハネの第一の手紙)

「権威と栄華を拡大しようとする野望の妄執」に―真理を見る人には何ものも存在しない―ような状態から
人間の境地に戻った。

 それで仏典に興味を持ち、「あなたがたには何でもできる」と書いてあることから、新約聖書にも興味
 を持った。
78思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/02/12(金) 22:21:11 ID:lRcNrd10
平安の境地に達した修行完成者の一切の生きとし生けるものの慈悲、イエスの人によくしてやり、何も当て
にしないで貸してやる、父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれとの教え、一切の生き
とし生ける者をあわれむ修行完成者・・・仏典や新約聖書には、あわれみや慈悲の行いを奨励する教えが多
く書いてある。

―すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが仏の教えである。わかち与
える人には功徳が増大する―善いことをした人々は善いところ=天に生まれるであろう。しかし他の人々は
この世で道を修して、汚れを去り、安らぎに入るであろう―(感興のことば)

 (何も無いような不死の境地から、妄執(悪しき者)に従ってしまったが、人間の境地を得て、善いこ
 とも行える人間となった。「あなたがたは何でもできる」と書いてある新約聖書や平安の境地からこの
 世では一切の生きとし生けるものの幸福・安穏・安楽を思い、慈しみのこころづかいが説いてある。)

とそのように思っていたが、ある時、言語ある霊(神)が、善悪の行いを全く語らず、
―悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり〜麗
しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません―(ブッダのことば)
―作られざるものを知り、生死の絆を断ち、善悪をなすによしなく、欲楽を捨て去った人、かれこそ実に最
上の人である〜人のいない林は楽しい〜愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからであ
る―(神々との対話)
79思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/02/12(金) 22:22:14 ID:lRcNrd10
神は作られざるものに入ることを望まれ、欲楽やその他人間の欲望から遠ざかり離れることを望まれるが、
慈悲やあわれみの行い、愛は望まれない。『地の者は愛』地の者であるから愛。

欲念を断ち切れず、妄執(悪しき者)によって、地で生じては滅び、造られては朽ちる人々の救いの仮の
教えである。妄執に生み出され、悪い心も持たされた人間への正反対の戒めの言葉。
善い行いは、作られざる神ではなく、人間のための救いの教え。

―意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して〜世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあ
り得ない。それ故に、世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となる
であろう―(神々との対話)

―万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますの
である―(コリント)

 しかし、つくられざる存在(神)は、欲求など人の諸々の欲望によって、人間につくられるのだから、
 釈尊や修行僧・イエスのように、荒野での修行まではしなくとも、人間の欲望から常に離れるよう努力
 し満足すれば、それらの無い神の義の国に安住できると。人間の苦しみから解き放たれ、神の望みに従
 うことができるのである。
80神も仏も名無しさん:2010/02/13(土) 20:35:33 ID:kD+eUPYU
「アルジュナよ、私は万物の心中に宿る自己である。私は万物の本初であり、中間であり、終末である」(ギーター10:20)
「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはαでありωである」(黙示1:8)

「私は万物に対して平等である。私には憎むものも好きなものもない。しかし、信愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある」(ギーター9:29)
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハネ17:21)

「梵天の昼は一千世期で終わり、夜は一千世期で終る。それを知る人々は、昼夜を知る人々である」(ギーター8:17)
「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(Uペトロ3:8)
キリスト←クリシュナ
81神も仏も名無しさん:2010/02/21(日) 12:00:02 ID:rEW5Y9A1
ギーターを仏陀とイエスの教えの中に加えるのは、良いと思う。
しかしギーターとは何だっけかなw。そこで早速検索。

 バガヴァーン・シュリー・クリシュナは語る。

    博識なことを君は話すが、

    悲しむ値打ちのないことを君は嘆いている、

    真理を学んだ賢い人は、生存者のためにも

死者のためにも悲しまぬものである。

 
    私も君も、ここにいる王たちも、かつて存在しなかった事はなく

    将来存在しなくなる事もない、

    始めなく終わりなく、永遠に存在しているのだ。

 
    肉体をまとった魂は、幼年、青年、壮年を過ごして老年に達し、

    死後捨身してすぐに、他の体に移る。 

    自己の本性を知る魂は、この変化を平然と見る。
82神も仏も名無しさん:2010/02/21(日) 12:10:03 ID:yA1tQkED
83神も仏も名無しさん:2010/02/21(日) 12:43:13 ID:GTuz1rmE
キリストは妄想の創造物
仏陀はただ事実を述べている。

理由
キリスト:聖書に書かれているだけで根拠なし。ただ信じるしかない。
仏教  :瞑想という実践方法がある。自ら理解できる。
84神も仏も名無しさん:2010/02/21(日) 21:58:37 ID:rEW5Y9A1
失礼ながら、あなたは教えのコアとなるものを把握していないのでは、と思う。
コアとなるものを基準に考えるなら、イエスの教えも釈迦の教えも同一の源を持っている
と理解できると思うのです。コアの教えは同一でも、それが表面上異な装いをするのであります。
85神も仏も名無しさん:2010/02/21(日) 22:17:03 ID:rEW5Y9A1
しかしヒンズーとは、このような教えを持っているとは考えなかった。
ねずみを神様としたり、サルを神様としたりと、そういう本質の教えから
離れたことばかりを見る機会が多い。
 しかしギーターの教えは、どのように信者に浸透してるのだろうか?
86思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/02/22(月) 00:02:00 ID:6AthRpdR
唯一の神は、私たち人間の境地から全く離れた=正反対、無くならねばならない
 ―この世は虚妄の束縛を受けていて、未来に変化する可能性のあるもののごとくに見られる。愚者らは煩
 悩に束縛されていて、暗黒に覆われている。かれらには無が有であるかのごとくに見られている。真理を
 見る人には何ものも存在しない。人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている―
  (感興のことば)
 ―人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安―(ピリピ)
 ―「安かれ」と言われた―(ヨハネ)
 ―この平安の境地―安らぎは虚妄ならざるものである―(ブッダのことば)
     
 神を人間と同様の存在だとして、偶像を思い描いてはいけない。人間は神に対して罪(悪しき者・妄執)
 に従い生み出された存在。神の右・神々といわれる存在が、天に或いは地に存在するようではあるが、
 誰も人間を救おうとしないのであるから。
87思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/02/22(月) 00:03:23 ID:CRpggY+n
―林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである―(ブッダのことば)
―何ものかを信ずることなく、作られざるものを知り、生死の絆を断ち、善悪をなすによしくなく、欲求を
捨て去った人〜人のいない林は楽しい〜愛著なき人々は楽しむであろう―(真理のことば)
―荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数
がつきると、空腹になられた―(ルカによる福音書)

―草や木に〜腹を足として背の長い〜水の中に生まれ棲む魚ども〜翼を乗り物として虚空を飛ぶ鳥どもにも
種類の区別のあることを知れ〜人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろ異なっているというこ
とはない―長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも〜一切の生きとし生けるも
のは、幸せであれ―(ブッダのことば)
―地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって〜地は生き物を種類にしたがって〜這うものと、地の獣と
を種類にしたがっていだせ〜われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の
鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう―(創世記)

  肉欲を全て滅ぼした存在=神を知る存在=一切の悪から遠ざかり離れた存在=死の無い境地
 この世では、神が創造された自然の中で楽しみ、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りなどを捨て去った
 人々、生物として肉欲を得た人々、その他の生物に対して、敵意や憎しみ無く、慈しみのこころづ
 かいのある人。
88思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/02/22(月) 00:05:20 ID:CRpggY+n
神は神を信じながら、「肉の欲・目の欲・持ち物の誇り」など人間の欲求を何も問題ないように生きる人々
に敵意を抱いていらっしゃる。ただ、「衣食があれば足りる」ような心がけで暮らしをせよと。釈尊は、
        ―神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ― 
 と語って、「肉の欲・目の欲・持ち物の執着」を断って、神への信仰を貫いた。
 ―自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり―(ルカ)
 ―すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが仏の教えである。わか
 ち与える人には功徳が増大する―(感興のことば)

神への信仰は、ただ信じただけで神への信仰があると言えない最も厳しいものである。
イエスも―もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、「抜け出して海に植われ」と言った
としても、その言葉どおりになるであろう―と。信仰により、人間の肉欲を捨て去ろうとしない人々は、信
じるが故に神の敵であると。

「そういった人々に永遠があると思うな」信仰をしながら肉欲を捨て去ることができない人々の罪をゆるし
たのがイエスである。「土に帰る」人々の罪をゆるした。そして、誰も誇るなと。ただの生物として終わる。
 ―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じることを行うなら、たとい律法を持たなくても、
 彼らにとっては自分自身が律法なのである―(ローマ人)

神によれば、肉欲を捨て去ることのできない人々は、誰でも「土に帰る」。はかない命の生命を尊重する人
々、家族や兄弟・隣人を愛することは、死んで終わるが故に生じる第二の神の摂理である。
89神も仏も名無しさん:2010/02/27(土) 13:20:34 ID:8RDrCyzT
http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html
老子も真実を悟っていたのではないだろうか?さもなければこのように教えられないと思う。
90神も仏も名無しさん:2010/02/28(日) 12:02:48 ID:aZkGoACN
http://www.chonmage-eigojuku.com/magetan/roushi00.html
これのほうが原文を掲げ、さらに英訳、現代口語訳を試みている。
 
 道徳経を見ると、パルメニデスの、不完全な遺稿を思い出す。
愚民政策などと、誤解をしてる解釈も今に残っているようであるが、残念である。
仏教と出会ったのであった。中国において老子が尊敬されていたのは、善かった。
中国にも真実を見出し体得し、それを教えた人が居たのを、今知った。
91神も仏も名無しさん:2010/03/01(月) 08:32:08 ID:vA6XRICV
http://www4.tokai.or.jp/kyuguan/rousi_syaka/17_03rousou.html
老荘思想、これは仏教である。これはイエスキリストの教えである。
唐の皇帝が、仏教を拝して道教を採用したのは、当時の仏教は大乗教であり、
それは、仏教の根幹が掴めるに容易ではないかったからであり、現代人が、
大乗経典以上に原始仏教に目を輝かし、そこに仏教の根幹を見出すのと、同じであったのだ。
 
92神も仏も名無しさん:2010/03/04(木) 01:47:00 ID:lw5/nNvb
簡単に言えばヨシュアは「赦し」
仏陀は「慈悲」でいいんじゃないの。
93神も仏も名無しさん:2010/03/04(木) 20:43:44 ID:totmQhb5
老子や荘子の、そして彼らに同意した仲間たちの、活躍したその土地、そこを聖地とし、
仏陀の活躍した土地やイエスや、パルメニデスの活躍した土地と同様に、巡礼の土地とするのが善いと思う。
 中国にはギリシャ人のオリンポスの神々に相当する神話や、釈迦のインドにおける
バラモン教のような宗教も無かったのである。最も先帝というものを模範とする思想やあったようだが。
 あらゆる哲学書、宗教聖典の中で、老子荘子の教えを留めた経典が、その教えの教えらしさの点で、足りないというところが無いという点で、
一番価値があると思う。
94神も仏も名無しさん:2010/03/04(木) 23:47:36 ID:lw5/nNvb
もう少しわかり易い日本語で頼む。
95神も仏も名無しさん:2010/03/05(金) 18:26:46 ID:7jsd4pop
>>94
意味が解れば良いとしてください。歴史的知識です。
96神も仏も名無しさん:2010/03/06(土) 03:54:26 ID:PenSc8r2
意味がわかれば「良い」として・・ではなく、
「良し」として、だね。
日本人ではないか、ゆとり世代かね?
97神も仏も名無しさん:2010/03/07(日) 11:46:49 ID:awmu3nFd
 全ての物には「あれ」と「これ」が存在する。しかし「あれ」の立場から見れば、それは「これ」であり、自ら知れば、それは「これ」と成る。つまり全ては是も非もない。
生じれば死し、死すれば生じるのだ。可なれば不可に、不可なれば可であり、是であれば非である。この真理を「道枢」(どうすう・道の要諦)と呼ぶ。道を体得した人は、
道が枢(扉の中心軸)を中心に無限に回転するように、物の変化に無窮に対応してゆけるのだ。是も無窮、非もまた無窮、この対立を裁けるのは「明」しかないのだ。
                    荘子
98神も仏も名無しさん:2010/03/07(日) 12:54:17 ID:awmu3nFd

 可を可とし、不可を不可とする。道は人が通るから道であり、物は人がそう呼ぶから然(自然にあるもの)である。なにが可であり、不可なのか、
なにが然であり、不然なのか、事実可も然も同じである。単なる相対のことばでいっているにすぎないのだ。人はこの相対にかかずらわって果てしない議論をする。
これを解決するには天や自然の立場に立って裁くほか無い。世俗の是非の立場を超越し、自然の道で裁く。そこでは是非を越えた知域で、
ものはひとつになり、一切の差別と対立がなくなる。
                  荘子
99神も仏も名無しさん:2010/03/07(日) 13:28:43 ID:awmu3nFd
               (8)

 無駄に労を尽くして是非を論じるものがいるが、その是非はもともと同じなのだ。これを「朝三暮四の議論」という。
ある猿好きな人がたくさんな猿を飼っていたが、ある日猿に餌のドングリを与えていて「餌代がかさむので今日からは朝三つ、
夕方は四つにする」といった。これを聞いた猿たちが怒り出し、手がつけられない。そこで「分かった、分かった。
では朝四つに、夕方は三つにする」といったら猿たちは満足しておとなしくなった。結局餌の節約は成功したのだ。

 実質上は何の差異もないのに、一つは不満、ひとつは満足。実際の学者の社会でもこうしたことは多い。
道を究めた聖人は是非を越えた自然の調和の立場で事を裁くのだ。

 【解説】万物には是も非も無い、可も不可も無い、全て同じだというのが斉物論です。さらに続きます。
                 
                      荘子
100神も仏も名無しさん:2010/03/07(日) 14:59:44 ID:PkftrCZI
>>99
その話を聞くと思うんだが、人語が通じて、数が数えられて、その大小と時間の前後関係が
分かる猿って、平均的な宗教馬鹿よりだいぶ知能が高いんじゃないかと。
101神も仏も名無しさん:2010/03/07(日) 16:42:43 ID:awmu3nFd
>>100
同じだと言っていると思う。
102神も仏も名無しさん:2010/03/08(月) 20:39:42 ID:FCKonX+g
老子荘子は、根本のタウ(道)を理解していないと、理解できない表現が多々ある。
しかし、その根本は、あくまでも、他の宗教と同じに、一であり、無相、である。
仏教でも原始経典にしろ大乗経典にしろ、この一という真実が、幻とがどのように関係してるか
に多言を費やすのである。であるから、初心者は仏典を読んでも、何を言っているのか、さっぱり解らないのデあル。
荘子老子も同じと思われる。
103神も仏も名無しさん:2010/03/09(火) 08:42:01 ID:JBIpvQkn
パルメニデスの弟子にゼノンという人が居た。ゼノンは四つのパラドックスで有名である。
荘子の友人に恵子という人が居た。この人もゼノンと同じパラドックスを発表している。
以下がそれである。
 
(1)究極の大きさとは、その外側を囲むものが無い事である。これを大きな一と言う。究極の小とは、その内側を満たすものが無い事である。これを小さい一と言う。
(2)厚みを持たないものは積み上げるわけにはいかないが、その大きさは千里四方に及ぶ。
(3)天の高さは地面と似たもの、山の高さは沢地と等しく平らかだ
(4)太陽が真上に来ることはちょうど西に傾くことである。万物が生まれることはちょうど死ぬ事である。
(5)大きな類同と小さなり類同とでできる同異を小さい同異と言う。万物はことごとく同じでも、ことごとく異なるという同異、これを大きな同異と言う。
(6)南方といえば果てしなく極まりの無いものであるが、また極まりがあるとも言える。
(7)今日、南の越の国に旅立って、昨日到着する。
(8)繋がった知恵の輪は解きはずす事ができる。
(9)自分にはこの世界の中央が分かっている。北国の燕の南の土地が、それである。
(10)万物を広く隔てなく愛すれば、天地も一体となる。
104神も仏も名無しさん:2010/03/09(火) 08:45:49 ID:JBIpvQkn
つづき

 恵施は以上の命題を優れたものと自負して、これを天下中に公表し、論理学派の人々を説得した。そこで天下中の論理学派はともどもにこれを楽しんだ。

(1)卵に羽毛が備わっている
(2)鶏には三本の足がある
(3)楚の都の郢(えい)の土地に天下がある
(4)犬は羊ともいえる
(5)馬も卵を持つ
(6)蝦蟇には尾がある
(7)火は熱くない
(8)山も口の働きをする
(9)車の輪は地面に接していない
(10)目は物を見ない
(11)指し示す事は物の実体には行き着かない。行き着いたとすると  断ち切れなく密着してしまう
(12)亀は蛇より長い
(13)差し金では方形は出来ず、規(コンパス)では円形は作れない。
(14)のみでくりぬいたほぞ穴は、はめ込んだほぞを囲んでいない
(15)飛ぶ鳥の影は決して移動しない
(16)矢がすばやく飛んでいくのに、進みもせず止まりもしない時が  ある。
(17)狗は犬でない
(18)黄色の馬と黒い牛とで三となる
(19)白い犬は黒い
(20)みなしごの馬はもともと母がない
(21)わずか一尺のむちでも、毎日その半分を取りのぞくと万代かか  っても無くなることはない

 論理学派の人々は、以上のような命題を掲げて恵施と渡り合い、生涯を通して果てしない有様だった。桓団(かんだん・弁者の仲間)公孫竜(こうそんりゅう・恵施と並ぶ論理学者)
はこの論理学派の一味で、人の心を飾り立て、考えを改めさせ、弁舌に打ち勝つ事ができたが、人々の心の服従はついに得られず、それが論理学派としての限界だった。
恵施も日ごとにその知を傾けて弁論を戦わせ、ただただ天下の弁者たちと奇怪な議論にふけるばかりだった。以上が論理学派のあらまし。
105神も仏も名無しさん:2010/03/09(火) 08:47:06 ID:JBIpvQkn
イエスの教えであろうと、仏陀の教えであろうと、老荘の教えであろうと、みんな
逆説というべきではないか。
106神も仏も名無しさん:2010/03/09(火) 18:20:39 ID:JBIpvQkn
この位置とか夢想とかを理解しないならば、教祖の教えを理解できないのであるが、
実際に、今の教団で、一とか無相を理解していないために、教祖の教えを誤解して教えている。
これらの教えは、恐ろしい苦痛をもたらし、信仰とは恐ろしい結末を耐えねばならないということになる。
 仏教と老荘思想の信者は、ゆったりと度量が大きいと、経典に言われている。
それが正しい信仰の態度である。
107思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/03/09(火) 22:59:38 ID:6nOZO7Cv

神も不死と永遠もあなたが被造物でなかったら、「肉の欲・目の欲・持ち物の誇り」は全く無い。
―色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと、わたしはこれではない。またこれは、
わたしに属するものではない。このように観じて、わたしはそれらについての執著を離れる―(悪魔との対話)
―肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去
る―(ヨハネ)

神が創造されたのは自然と意識されない善(聖霊)
 ―イエスは聖霊に満ちて〜荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて〜そのあいだ何も食べず、その日数が
 つきると、空腹になられた―(ルカ)
 ―わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し〜『主よ、いつ、
 わたしたちは、あなたが空腹のであるのを見て食物をめぐみ―(マタイ)
 
―森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが―(神々との対話)
 ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった―(ブッダのことば)
―貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ―(神々との対話)

人の状態でも、「衣食があれば足りる」ような心得で暮らし、「肉の欲・目の欲・持ち物の誇り」を捨てる
 ように努め、自然くらいを楽しみとし、目の前の人が飢えたり苦しんでいるのを助けても、信仰をしたから助
 けました、または、自分は善人であると思わない善でないと神に義とされない。
108思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/03/09(火) 23:00:42 ID:6nOZO7Cv
誇らない・愚者と考える
 離欲を達成しないと神に義とされない。被造物を乗り越えて、不朽の神を知れない。肉欲もある人とは、正反
 対である。肉欲を捨てなければ、つくられざるその人は知れない。全く悪から遠ざかり離れ、善悪さえ意識さ
 れない。

 神にとっても、つくられざるあなたにとっても、世にあるものは欲なだけで、正しいとか、私は善い者である
 とか意識しない。
 つくられた者は、離欲を達成し、つくられざるあなたのようにならなければ、本当の善は知れない。人々の思
 考によって生み出されたもの、正しい・正しくないことに冒されない。

 ―世の中のどこにも、わたしは害を見ない―(悪魔との対話)
 ―人をさばくな〜人を罪に定めるな〜ゆるしてやれ―(ルカ)
 ―他人の過失を見るなかれ〜自分のしたことしなかったこととだけとを見よ―(真理のことば)
 ―人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう―(マタイ)

 ―「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のもので
 はない〜もしもみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である―(真理のことば)
109思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/03/09(火) 23:06:04 ID:6nOZO7Cv
神に義とされる道は容易いものではない
 荒野で修行して離欲を達成しなければいけない―この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る
 であろう―(ヨハネ)
 ―内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願
 っている人―(ブッダのことば)

  それ以外の人々は、人であり続ける。

 ―世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない〜かれは、悪を静めて、世界の終極を知り、
 この世もかの世をも望まない―(神々との対話)

 ―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない〜自分の妻を自分のように愛しなさい〜肉による主
 人に従いなさい〜あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、そ
 れに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう―(エペソ)
 ―父母につかえること、妻子を愛し護ること〜これがこよなき幸せである―信仰あり在家の生活を営む人に〜
 誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば―(ブッダのことば)

  自ら神への義の道を行い、この世の肉欲を全て捨てきれない多くの人々の悪を静める道を説き、信仰対象
  となられた。

―見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えら
れたことはまた同様に考えられたものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知っ
たならば、苦しみが終極すると説かれる―(感興のことば)
110神も仏も名無しさん:2010/03/15(月) 00:59:20 ID:yiz0UaOX
キリスト 霊(悪魔)
仏教   餓鬼(霊)
111思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/03/20(土) 16:27:34 ID:K1J/CSfm
神を頼りとして信じるなら
 ―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている―(マタイ)
 ―人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽
 を求めないからである―(真理のことば)
 ―肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ
 去る―(ヨハネの第一の手紙)
 ―色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと、わたしはこれではない―(悪魔と
 の対話)

  神に信仰深いと思いながら、神を信仰しようとする人々に、
   「肉の欲・目の欲・持ち物の誇り」など、世の欲は何も問題ないと教えるなら、
   ―大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる―(マタイ)

    神と人の世の欲とは、正反対な方である。信じながら、神の敵・怒りの者となってはいけない。
   「衣食があれば足り、富やその他の人の世の欲のためにあくせくしないこと」を強く望まれている方
   である。
112思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/03/20(土) 16:28:35 ID:K1J/CSfm
―世間は妄執によって導かれる〜妄執という一つのものに、一切のものが従属した―(神々との対話)
―全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている―(ヨハネの第一の手紙)
―もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである―(エペソ)

 信じても離欲に努めなければ、『そのままの人』であると。多くの人々は、そのままなのである。
―あなたがたの父なる神―
―人をさばくな〜人を罪に定めるな〜ゆるしてやれ―(ルカ)
―世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐れみながら―(悪
魔との対話)

 ―人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。」この奥義は大きい。それはキリス
 トと教会とをさしている〜あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう〜主の薫陶と訓戒とによ
 って、彼らを育てなさい―(エペソ)

【神】神が創造されたのは自然で、離欲を達成しようとする人々・世に打ちひしがれた人々を世の者どもから護る。
【天上の悪の霊】肉の欲・目の欲・持ち物の誇りなどを得ようとする人々を、善も悪もしでかすかもしれない、そ
        のままの人間とした。
113思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2010/03/20(土) 16:29:37 ID:K1J/CSfm
―からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉ど
おりになるであろう―(ルカ)
―人は父母を離れ〜この奥義は大きい―

 ―そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう―(エペソ)

―あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、苦労し努力して働き続けた―(テサロニケ)
―そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない―(悪魔との対話)
―自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ―(マルコ)
―自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己がいとしい
 のである。それ故に、自分のために他人を害してはならない―(感興のことば)

―かれは、悪を静めて、世界の終極を知り、この世をもかの世をも望まない―(神々との対話)

 地の者は、行いにより誰も神に義とされることはないが、人々が戒めの言葉を保って悪を制するなら、この世
 から悪を取り除くことができる。
114神も仏も名無しさん:2010/03/20(土) 17:20:46 ID:uIso5c+G
>>101
メタボ対策には、同じ総カロリーでも朝に比重をおいた方がよいとかw
115神も仏も名無しさん
あるものAがあるものBと密着している状態があるとしよう。
AとBは一体なのである。一体とは、AとBとは消滅しているのである。
密着してるが故に。
 今長方形の紙を真ん中でカットしてみよう。片方をA,片方をBとしよう。
AとBを分離する存在をCとしよう。Cがないなら、AもBもないのである。
それともCがなくともAとBが存在するとは言うまいね?
 しかし、AもCもBも一体なのである、だから、AもCもBも無いのである。
どうしてか、というと、AはCに密着し、CはBに密着しているからである。
 この密着している状態が鍵である。この密着の解釈が鍵なのである。
 Aの内部はすべて密着状態である。AとCとの間も密着であった。
密着している限りAとCとは一体で、なんら変化は無いはずではないか。
 異なるもの同士が密着するということは無いのである。異なるもの同士の間には、必ず、
さらに異なる存在が無ければならないのである。先の説明ではCに当たるものが、それである。
 ところがそのCなるものが、Aと密着しているのである。
そして、密着とは、離すことが出来ない状態で、一体として行為するという状態である。
 それならば、CはAと密着して行為するのであるから,一体である。BもCと密着しているのだから、
一体である。そうするとAもBもCも密着しており、一体であるといわなければならない。AもBもCも一体として
行為し、切り離すことが出来ないのである。
 こういうことが宇宙すべてにいえるのである。であるから、宇宙は一体であり、その一体は
一相という言うことであり、一相である以上,無相である。

 今色についていったものであるが、心の変化についても説明されなければならない。