【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】5

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959旧7
 >>866
 >二つのアートマンが想定されてしまいます。
そうでもないし、
 >>949
 >低我としてのアートマン(自己)と高我/大我としてのアートマン(自己)であり、
このように考える必要もない。
≪同じ「自己」が、その在り方を変えた≫と見るだけで十分だ。
『自分自身が、自分自身の言動を誘(いざな)うべきである』
 (→他者からアレコレ言われ、或いは影響され、或いは強制されて言動がなされるのでなく、
   自ら考え、判断し、分別し、適切なベクトルで言動を為す。)
この意味での前者と後者の「自己」で何の不都合がある?
 (※これが“正しい読み”というのでなく、可能な読み方の一つとしてある、ということ。)

また、次のように見ることもできる。
よく「自分に勝つことが大事」などと言われたりする。
(ここでの“勝つ”は“克つ”が使われたりもするが・・・。)
たとえば「ついつい怠けてしまう時、これではいけない!」「自分に勝たねば!」と思ったとする。
この時、「怠けている時・怠けそうな時・くじけそうな時」というのは、
まさしく【現に、今、まさしく“怠けている”自己】である。だから、この瞬間について言うならば、
≪【その自分】が負けることで、理想とされる【怠けない自己・怠けていない自己】が現れる≫、
≪【その自分】が負けることで、理想とされる【怠けない自己・怠けていない自己】へと変じる≫。
当然、『常に一つの様相・在り方でしかありえない』のだから、「二つの自己がある」ことにはならない。
この質的な差異を『低我/高我』としても良いが、全く別物である必要はない。
そこに質的な変化(・向上)があればそれでいい。
そのような質的差異を含む、(時間的先後を考慮に加えた)、二種の「自己」と見做しても文意は通る。
これは、固有名詞の「アートマン」と読んでも全く同じ。二つのアートマンを想定する必要はない。
 (※これが“正しい読み”というのでなく、可能な読み方の一つとしてある、ということ。)