【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】5

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949宝珠愚者
>端的に言うならば、《五蘊を離れて「意識状態の変化」云々などと言えるのか?》と。
>
>だから、沙門果経77〜88節なのです。この《85・86節をどう評価するか》は、
>
>《各自の、仏教に対するスタンスの取り方、立ち位置の取り方》にとって重要なものとなります。

 85-86は、単にそういうこともできるという話でしょう。この肉体(ただの有機物)を動かし
ているのは意識ですよ。意識が肉体という衣を着ているようなものであり、衣の外にも別の
意識体を出現させることだって(達成者には)可能ということです。これは、ヨーガスートラ
でも殆ど同じです。

>>866
>二つのアートマンが想定されてしまいます。

つまり、自己の二重性質です。
低我としてのアートマン(自己)と高我/大我としてのアートマン(自己)であり、
これが仏教の理想とする自己の姿です。

 『二つの自己-----最初期の仏教においては、二種の異なった自己を想定していたこと
がわかる。 一方は悪徳煩悩の基体としての自己であり、凡夫の日常生活のうちに認めら
れる。--略--これに反して他方は理想として実現さるべき自己であり、その真実の状態は
聖者が具現しているものである。簡単にいえば、小我と大我、と呼んでもよいであろう。た

だその両者は相即しているものなのである。』
(中村 元著『原始仏教-その思想と生活』NHKブックス刊)