【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】3

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931宝珠愚者
>>868
>同じ中村元訳の大パリニッバーナ経の該当部分に「自己(アートマン)」
>なんか書かれてないけどね。

 中村氏がこの大パリニッバーナ経の該当部分での「自己」もアートマンを意味していると理解して
いることについては、まず間違いのないことです。

 『全宇宙を含むが故に偉大であるところの自己というものは、まさに全宇宙を含むが故に、死ぬこ
ともなく、滅びることもない。また<不生>であるともいえよう。生れた始源が無いからである。
 この自己が普遍者を具現する。自己にたよるということは最も普遍的なものにたよることである。ゴ
ータマ・ブッダ最後の説法の一つは、<自らにたよれ。法にたよれ。>ということであった。』
(中村 元著『自己の探求』青土社刊p97/1980年刊)

 『二つの自己-----最初期の仏教においては、二種の異なった自己を想定していたことがわかる。
一方は悪徳煩悩の基体としての自己であり、凡夫の日常生活のうちに認められる。--略--これに反
して他方は理想として実現さるべき自己であり、その真実の状態は聖者が具現しているものである。
簡単にいえば、小我と大我、と呼んでもよいであろう。ただその両者は相即しているものなのである。
--略--
 他方これに反して理想として実現さるべき自己は、人間が常に追求すべきものである。それは当為
的模範的性格を有する。『自己は自己の主である。』(Dhp.160) したがって自己にたよらなければな
らぬし、このような理想的自己は大海の中の島のようなものである。『汝は自己の良き島を作れ。け
だし汝には他のよりどころが無いからである。』(Therag.412)
 よりどころとしての島を漢訳仏典では「燈明」の意に解しているが、いずれにしても、その趣意に相
違はない。釈尊も『われは自己に帰依をなした。』(DN.U,p.120)と説いた伝えられている。しかるに愚
者はこの道理を理解していない。愚者にとっては自己が失われている。』
(中村 元著『原始仏教-その思想と生活』p88-89/NHKブックス刊)