キリスト教徒を虐殺した日本人は世界最悪の残虐民族

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987神も仏も名無しさん
この事業の原動力になったものは、十字軍の遠征以来、ヨーロッパ人の間に高まっていた、
アジアの物産に対する欲求であった。
「豊かなアジア」というイメージを作ったマルコ=ポーロの「東方見聞録」も、このようなヨーロッパ人の欲求をかき立てるものであった。

この新航路発見を機にスペイン・ポルトガルは争って通商・植民地活動に乗り出し、
両国の間で発見した土地・島の帰属を巡っての紛争が続出しはじめた。

スペインは、まずコロンブスが最初に上陸したサンサルバドル島、キューバ、ジャマイカなど
西インド諸島(メキシコ湾東方のカリブ海域の群島)を、我が物顔で次々と支配し、
1521年にはメキシコのアズテク(アステカ)帝国を撃滅、1533年にはペルーのインカ帝国を撃滅していった。
 その間スペイン人は原住民を大量虐殺し、生き残った者もことごとく奴隷として酷使した。
 またスペイン本土よりの粗末な品物と原住民の銀とを交換して大量の銀を本国に持ち帰った。
988神も仏も名無しさん:2009/06/17(水) 23:37:09 ID:+4XQyoOh
そしてアフリカの西海岸地域のギニアやアンゴラでは黒人奴隷貿易を行った。
 ポルトガル人は、スペイン人と同様に南米のブラジル地域の原住民を大量虐殺し、
このために中南米の原住民人口は激減し、その労働力は底を着いてしまった。
 そこでポルトガルは、この深刻な労働力不足を補うべく、黒人奴隷貿易でアフリカから
中南米に向けて多くの黒人を送り込んだのである。

1549年にスペインのフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸したのも、日本が丁度、2つの勢力の激突地点にあったことを裏付けるものであった。
(2) 当時の日本は戦国時代末期にあった。
 すなわち、国家の分裂状態の中で、日本も2つの植民地支配勢力の餌食となる可能性は充分にあった。
 しかし、これを防いだのは、織田信長の迅速な国家統一事業であった。

1565年、スペインは大砲や小銃で武装した300人ばかりの騎馬軍隊を本国から派遣してフィリピンのルソン島を占領し、
1571年にはマニラに首都を建設してマゼランのフィリピン群島の発見を理由にフィリピンを領有した。
 これ以降、スペインは約330年にわたってフィリピンの植民地支配を続け、絹などの物産資源を大量に本国スペインに持ち帰り、
原住民をことごとくカトリック信徒に改宗させた。

http://www.history.gr.jp/~showa/310.html