>>478 >出典は何でしょうか。
キリスト教徒はイエスを見習おうとすることは恐れ多く、それすら誰にも許されていないものと考える
傾向がある。しかし、イエスはなんていったか?
『天の父が完全であるように(あなたがたも)完全でありなさい。』(マタイ伝5章48節) そして、『わた
しは父のもとに行くのであるから、あなたがたはわたしがなしたことよりも更に大いなることをなすであ
ろう。』(ヨハネ伝14章12節)といい、イエスは、私たちも彼のようになれることを、その可能性を、自ら
手本を示すことで教えたのです。
その私たちに潜在(内在)しているその可能性を「キリストの原理」、または「キリスト意識」と呼ぶ。こ
のことは原始キリスト教の時代ではよく知られていた。これがパウロの『汝らの中に在すキリストにして
栄光の望みなり。』(コロサイ書1章27節)といわれた所以です。いずれ私たちもキリストのように完全な
る段階に達することにより、『キリストの満足れるほどに至る。』(エペソ書4章13節)までになるのです。