【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】11

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68013a/13 初代スレ7
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私は、
≪「業報が三世に跨ら【ねばならない】」というのは「願望であり、ファンタジーである」≫
 (→≪「生物学的な“ヒトの誕生”」を認めるならば、「今生に於いて完結する業報」で十分である≫)
 ※≪併せて言えば「(世俗に於いて(凡夫に於いて))来世がなければならない」というのも「願望でありファンタジーである」≫
≪因(縁)と果は、(直接的にしろ間接的にしろ)連鎖を経ていなければならない。
 「たとえスパンを永く取るとしても、その際には」、その“間”は(確認された上での)省略であるべき。
 たとえそれが確認困難であっても、類推し、推定し、理に適った連鎖を見るべき。
 その意味で、直結の難しい(→スパンを永く取り過ぎ、因果としての影響力連結力が弱い)因と果のコネクトには反対する。≫
≪業報は(特に、果報或いは報復の意味を持つ業報は)、一個人の中でのみ考察・判定・結審されるべきであり、
 他者のそれへの当て嵌め・断定があってはならない。(類推による「助言」「異見の提示」は可。)
 また、その果の価値付けも、自身によらねばならない。決して他者が価値判断すべきものではない。
 ましてや、断定的に「貴方の今の《その果は》、過去世のコレコレが因である」などと言うべきではない。
 それは、(過去世であろうと今生のことであろうと)
 『自身が、見、観察し、「確かにそうである。確かに、これによってこの果がある」、と明らかに知られるべき』である。
 果が公平であるかどうかを第三者が判断してはならない。(類推による「助言」「異見の提示」は可。)≫
と考える。