【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】11
※反感を買いそうなw事例をもう一つ二つ挙げておこう。
・朝、いつもは左足から履く筈の「靴を右足から履いた」。
.昼、職場の「段差で(右足から)つまずいた」。
.夜、「右靴下の先が破れている」ことに気がついた。
・(昨日、友達と喧嘩した。)
.朝、(腹いせもあって)通学途中、路駐してる「車を500円玉で擦った」。
.昼、購買部の前に来て、「500円玉が無い」ことに気がついた。
.夜、「家の車に硬貨で擦られたような傷が付いていた」。
いずれも、ここに有意な関連性を設けるのは、荒唐無稽で、およそあり得ない考察だ。
おそらく誰もが、このような『因果の拾い上げ』は却下するだろう。
しかし、ここにも「因果を【見ること】は可能」だ。 そう。 【見ることだけ】は・・・。
(もしかしたら、本当に全て連なって生じた事象群かもしれないが・・・www)
人が、こうした関連性にさえも因果を見る癖があることは、「地鎮祭」や
「赤子の初参り」「七五三」「厄落とし」等が今でも多く続けられていることからも推察できる。
時代劇でよく見られる「外出前の火打石」も同様の側面を持つ。
そう、「どちらの足から靴を履くか」と類似した側面を・・。
「或る行為をすることによる、どのような果が期待されているのか」。
「或る行為をしないことによる、どのような果が恐れられているのか」。
私は、『三世に跨る業果』について、上の二つの例と同じ構図を見ているのだ。
上の二つのような例と、ベトちゃんドクちゃんの例(→彼らが、前世の業によりあのように生まれたということ)と
どこに違いがあるのか?
こうした結び付け方が「同じ構図でない」というなら、その違いを、明確に、論理的に説明してほしいものだ。
「上記二例のようなこと」と「前世の業&今生の果」が同じでない理由を・・・。
(ロングパスとしても長過ぎやしないか?・・とw)