【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】11

このエントリーをはてなブックマークに追加
6651/13 初代スレ7
以前、この板に因果応報に関するスレが立っていた。(PART5くらいまで続いてたか?)
御想像の通り(?w)、そこでは
「理不尽な殺害、災害、事故等による死(死傷)は、如何なる因によるのか(≒悪業の結果なのか)?」
という問いが主軸であった。(意外なことに、どちらの意見も仏教色は薄目だったように記憶する。)
私はそこで、「仏教として」や「仏教では」という形でなく、
「人は、事象の中に見られる因果を“どのように拾い上げるのか”」という点でのレスを入れた。
「仏教という枠を設けずとも、人は事象に因果を見る」からだ。
乱暴に略記すれば
「或る事象に於いて、《何を因と見、何を(その)果と見るか(どこに因を見、どこに(その)果を見るか)》は恣意的なものである」と。
そこには必ず「(主観的)枠組み、基準が必要」だということでもある。
 ※実際には、《「或る事象」という切り取り》からして恣意的であり、分別の第一歩であるわけだが・・・。
ヒトという生物の“認識に於ける切り取りの基準”は(生物学的・文化的社会的制約を含め)哲学的考察の範疇ともなるので措くとしても、
いずれにしろ、「そこに線引きが為されている」ことに変わりはない。
その線引きの基準は(個々人の用いる枠組み、既得の(前例としての)基準、顕著な差異への着目、
知り得る範囲、考察・類推可能な範囲等)種々あろうが、因と果を拾い上げる際にどうしても要請されるものだ。
もっと言えば「拾い上げるという行為そのもの」が「線引き(取捨選択)」に他ならないからだ。
差異の捨象や無分別、一相、無相など、そのような包括的視線もあり得る。が、それは「現実的対処」には力不足だ。
我々は、何らかの基準で因果を拾い上げなければ日常生活を送れない。社会生活が成り立たない。
(それが、“世俗”というものであろうし、“世俗と接して生きる”ということでもあろう。)

  ※ちなみに、
    原始佛教 その23 http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1175249680/
    の終盤、及び
    原始佛教 その24 http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1177993402/
    の序盤には、このスレ的にも面白いレス群が散見されると思いますよw