>>423 > 悪しきカルマの作用は、遺族や被害者の感情を満たすために在るわけではありません。
勿論そうでしょう。
果は、あくまでも「当人(行為者)」にとってのものであり、外野が野次を入れる筋合いはない、と。
たとえ、「評価対象として選ばれた果」が「(そのように選んだ)周囲の者にとって公平感を欠いていても、
筋道・道理・必然性からは、理にかなった・まっとうな・公正な果が表れている、と。
(→で、
>>335内の引用先の「過失があってはならない」旨の発言は、余計な御世話、とw
過失かどうかなぞ、遺族や被害者の感情と同じ、とw
『知り得ない所で』ちゃんと公平性・道理は保たれているから安心しなさい、とw
こういうことですかね?www)
或いは、そのように「評価対象として選ばれた果」は、『まだ「評価対象としての(→業の結果としての)果」ではなかった』と。
「果の選び方、抽出の仕方が間違っていた」と。
いや、そもそも、凡夫が≪他人の業果についてあれこれ言うのが間違ってる≫と。
やれ「それじゃ不平等だ」、やれ「それじゃ報いを受けていない、受けたことにならない」などと、いちゃもんをつけるのが大間違い、と。
>>335内の引用先の2レスなど、愚の骨頂である、と。
こういうことですかね?w