スレも序盤。燃料投下も兼ねて、ある意味不遜な暴論を吐いてみましょう。(どうせ外道の戯言だしwww)
私が今考えているのは、
「業報思想の不完全さ」及び「輪廻(生まれ変わり)は、その不完全さを補完する」ということです。
別の言い方をすれば、
《「輪廻(生まれ変わり)」により補完されることによって「業報思想の完全性」が保たれる》 ということです。
肯定論者の方たちの骨子は、まさにこの点にあり、
このスタンスであれば当然、《「輪廻(生まれ変わり)」を欠いたならば、「業報(思想)」が崩壊する》
という考えしか導けません。(端的に表れている直近のレスが
>>37(
>>20)となります。)
勿論、カラス氏が言うような「根源」や「第一原因」(或いは「世界の始原」)とも絡んできます。
そして、私が各論として掘り下げていければと思うのは、
「不完全さ」の内容である
《「スパンの切り取り基準」や「知覚認識の“際(きわ)”・“限界”」、「“果”の抽出・“因”の抽出及びその基準」、
「“因”や“縁”の(直接に)及ぶ範囲」、「“果を受ける”主体が仮設されてしまうこと(≒
>>37(
>>20))」》 などです。
※(或いは、
《「“果”からの逆算」(その帰納的・経験的積み重ね)により、「“因果”の確実性」は見出された(≒担保されている)》
という点も加えるべきかもしれない。)
そして、
《「輪廻(生まれ変わり)」を導入することで、そうした「不完全性」を隠蔽している形になっていないか?
不問に付し、見て見ぬふりになっていないか?》 という点です。