【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】6

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743神も仏も名無しさん
一般的な仏教徒の理解では、
輪廻がなければ、解脱することもできないし、
その輪廻も死んで終わる程度のものだったら、
やはりそこから長い努力をして解脱に向けて修行する意味もない、
ということになるのではないかと思います。

そのような輪廻と、そこにおいて長い間修行して解脱する、あるいは、
一切衆生を解脱させる、という過程が世俗で、それを前提にしなければ、
そもそも勝義などあり得ないし、考えられもしない、という関係で
考えるべきだと思います。

だから、世俗と勝義の二諦は、価値的に両方とも同等の意味を持っていると
考えられるのではないかと思います。
744神も仏も名無しさん:2009/01/23(金) 16:25:41 ID:4NosKZzO
なんだ、なんだ?きちがいカラスがきてるじゃねえか。
お前まず、>>612 に答えてみろや。それとも、自分に都合の悪い
問いは全てスルーで通すか?

その後、お前の妄想業報輪廻説、こっぱにしてやるから楽しみに待ってろ。
745神も仏も名無しさん:2009/01/23(金) 16:31:27 ID:f0oJVYJs
輪廻は人々を導くために都合のよい方便というわけではない。
大部分の仏教は輪廻を前提にして教説が形成されている。
しかし、輪廻があると教えているわけではない。
輪廻は仏教の教えの前提である。
無明によって輪廻があると思い込んでいるのではない。
仏教は輪廻を前提とすると考えますが、実際に輪廻があると思って、感じて、苦しんではいないのです。
ではどうか。無明だと思うんです。倶舎論や声聞地にも説かれていますが、
無明とは三際の愚痴です。「私は過去誰であったのか、未来死んでどこへ行くのか、
我とは何かを知らないこと」が無明です。
輪廻を厭うといってもその存在を確実に知らないのが我々だと説かれています。
輪廻を輪廻と知るのは既に輪廻を超えた立場です。
その無明を明に転換するのが仏教ですので、大事な点だと思いますが。
746神も仏も名無しさん:2009/01/23(金) 16:32:35 ID:Wz1K60b5
>>743
「輪廻」に怯えて、日常生活をすてて修行すること自体が、煩悩の権化
であることを知れ。解脱など程遠い話。「脅迫」に屈するようでは、悟り
など到底不可能。

日常生活という「最大の修行」によってこそ、悟りが可能になる。

他者や生活を忘れた修行は、典型的な「エゴの行為」。最大の悪業である。
747神も仏も名無しさん:2009/01/23(金) 16:34:13 ID:gyRqkood
いろんなスタンスで発言が行われているので、議論がすれ違っている。
俺も含めて輪廻肯定派の論拠は、次の点ではないか。

・初期仏教教典、大乗教典、密教教典、論書を通じて、輪廻を前提に
した主張が広範に見られる。
・それらの教典・論書において、輪廻を前提とすることを否定する
ような主張は見られない。
・それらにおいて、輪廻に直接関わらない主張も見られるが、それは
別の箇所で輪廻を前提とする主張があることと矛盾しない。
・以上の点は、輪廻を否定する君らを含めて現代の日本人の多くが輪廻を信じない
こととは関係がない。

仏陀が14無記で言おうとしたことは、あなた方が認識できないことに
こだわって、大事な修行をそっちのけにするのは愚かなことだ、
ということであって、輪廻を否定しているわけではない。