>>424 >素晴らしい情報ありがとうごいました
素晴らしくも何ともない。ちょっと調べればわかることだ。
363のレスを入れた真意は、314さんへの情報提供の他に、もう幾つかある。
それは、
・あれらの訳語は、編纂当時の担当者達が既得の語句、解釈でもってあてはめたものであること。
そして、それは、とりあえず形にする必要性・緊急性から、
思案の結果の(「よくわからないけども、この方向で良いだろう」という)見切り発車でもあるということ。
・個々の翻訳担当者のスキルレベル(或いは思想背景・基盤)に大きな差があるということ。
・当時の翻訳スタイル(解説スタイル)は、(二字或いは四字等の)熟語形式であったということ。
これは今でも生き続けているし、漢字かな混じり文化である日本の強力な武器でもあるわけだが、
デメリットの面―ニュアンスや微妙な色合いを削ぎ落とし、字面や各字の有する
既得の語義・イメージで該当語句を縛る―が色濃いということ。
こうした点は、南伝大蔵経とは言いながらも、
漢訳にどっぷり依存した、既存の日本仏教(或いは中国仏教)による再解釈の経という性格を付与することになる。
(勿論、全てではない。が、そうした面もあるということは留意されていていいと思う。)
その意味で、(且つ手軽に買えるという意味で)、中村さんの岩波文庫による試みは高く評価されていい。
偈を訳す際は、漢訳的熟語の方が(七五調にもし易く)良いのかもしれない・・。
中村さんも苦労したと述べている。(片山さんも頑張ってると思うw)