280 :
神も仏も名無しさん:2009/03/25(水) 18:46:23 ID:qqsnWbhR
オウム真理教SGI事件中核犯人グループnetwork以下名指し列挙
企画起案
アメリカ合衆国政府
オウムに成りすました創価学会SGI内部組織牙城会
日本政府
各検察庁
最高裁判所
マスコミュニケーション各社及び電通、東京都庁
現場助監督
麻原彰晃尊師(本名不詳にて芸名 松本智津夫)
現場総監督
国松警察庁長官+村山富一内閣総理大臣
総監督
ユダヤ・アメリカ合衆国政府各種機関 ビルクリントン大統領(民主党)+フリーメーソン
スポンサード主幹事
ユダヤ支配下各種大企業(日本経団連含む)隠れ忍者 東京ガス 小沢一郎新進党ら
毒ガス提供特別友情参加
自衛隊(毒ガス提供)、警察庁(毒ガス管理)、消防庁(その他病院工作担当)
>>280 それと比べて GLAカルトの狂信者どもらの バカっぷりには 呆れるばかりだったよねw
気違い狂信者は 間違ったカルト組織が 生産するものだ
コレ 因果応報ネ!wwwwww
教祖は裁判を起こされ
海外逃亡中だと言われる。
日本全国の主要な大学に信者おり、
正体を明かさず、
サークルを通じて伝道活動している。
こういった情報を聞いて、
統一協会のメンバーである
あなたはG○Aに対してどう
思うでしょうか?
先ほど統一協会についてしたいくつかの
質問について、G○Aに置き換えて
問い直してみてください。
統一協会に伝道される前に、
G○Aに勧誘されたら
G○Aに入っていたと
考えるでしょうか?
このことについてはしっかりと
考える必要があると思います。
G○Aと統一協会は別の団体です。
しかし、ふたつはよく似ています。
どちらにも自らが再臨のキリスト
だと主張する教祖がいます。
当然、彼らはそれぞれ
自分の教えが正しいことを主張し、
他の自称メシヤは偽者であると言います。
それぞれの信者の大半は
熱心に教義を信じ、やりがいを
感じながら活動しています。
また、両方とも正体を明かさずに
伝道活動をしています。
そして偶然ではなく、自分たちは
神によって選ばれてこの集団で
信仰を持ったと考えています。
私たちは、統一協会ではなくて
G○Aに入れてよかったと
思えるでしょうか?
統一協会の信者はG○Aではなく
統一協会でよかったと
考えているかもしれません。
彼らはG○Aの価値を何も
知らない愚か者でしょうか?
自称再臨主や自称救世主が
いるのは、決してG○Aと
統一協会だけではありません。
世界にはそういった人が
簡単には数え切れぬほどいるのです。
彼らもまたそれぞれに自分が本物で、
他は偽者だと主張しますし、
彼らの教えに従えば確かに
彼らが救世主になるのです。
また、宗教団体としての正体を
明かさずに信者勧誘活動をしている
団体も多くあるでしょう。
もしかすると、私たちは
G○Aでも統一協会でもなく、
全く見知らぬ宗教団体に
入っていたかもしれないのです。
20世紀以降、日本でも新興宗教、
新新宗教と呼ばれる宗教団体が
実にたくさん生まれ、また
海外からたくさんやってきました。
今は第3次宗教ブームと呼ばれる程です。
近年では宗教という形ではなく、
「自己啓発」を謳ったカルト団体もあります。
日本にあるそういった団体のうち、
どれだけのものを私たちは
認識しているでしょうか。
私たちはたまたま「G○A」
というところだったのではないでしょうか?
だからこそ、G○Aについて、
またG○Aの外の世界についてよく知り、
考える必要があるのです。
なぜ、統一協会を引き合いに出したのかというと、
人間が自分のアイデンティティーを
傷つけることは困難なことだからです。
生物はみな、その生命存在を維持しようと
最大限の努力をします。
ですから、自分の存在や生命を
害するような事物を、
意識・無意識関わらず避けて防ごうとします。
脳を発達させて高度な知能を持つようになった
人間においては、精神活動においても同じです。
それは、自我、アイデンティティー
(自分が自分であること)と
呼ばれるものについてです。自分の存在、
またそれを構成する価値観、世界観、
信仰観、行動規範、所属集団などを否定する
・されることは誰にとっても
大きな苦痛と抵抗をもたらします。
G○Aのメンバーが自我を強く
構成するG○A自体に対して、直接自らその
正当性を問い直すというのはとても難しいことです。
G○Aのメンバーが外部からの
G○Aの実態や「先生」のスキャンダルの情報を
聞くと、それらの情報は偽りや迫害だと言って、
自分のアイデンティティーが攻撃されるのを
回避しようとして耳をかさないのは
当然のことです。でも、それでは冷静に
客観的に現実に向き合うことができなくなります。
しかし、他者に対しては冷静に判断し、否定する
こともできます。
自分のアイデンティティーは傷つかないからです。
統一協会はG○Aから見て他者です。
他者ですが、「自分とよく似た他者」です。
この「自分とよく似た他者」の問題を考えることで、
自分について冷静に判断できます。
G○Aのメンバーにしてみると、統一協会はダメで
G○Aはオーケーと思いたいところですが、
それはあまりにも合理性がありません。
「よく似た他者」…このように呼ばれる
ことは、あるいはG○Aのメンバーに
とって不本意に感じるかもしれません。
しかし、それを受け入れるか否かにかかわらず、
よく似た他者であることに違いは無いのです。
そして、統一協会を知ることで、
G○A自身の在り方にまっすぐに向き合う
勇気と必要性を知ることができるでしょう。
そして、先にした「あなたの家族や友人が
統一協会に入っていたらどうするか?」
という質問に対して、止めさせるために
説得などの策を講じるとあなたが
考えるのであれば、あなたの家族や
友人があなたがG○Aに入っていることを
知ったときに、あなたに対してどのように思い、
あなたのためにどのように行動するのかを
あなたは冷静に理解することができるでしょう。
●無知の知と唯一絶対価値観 :
私がG○Aを離れてから学んだことうちの大きな
一つは「無知の知」についてです。
無知の知とは「自分が、世界の全てをは知りえない
存在であることを知ること」と言えばよいでしょうか。
つまり自らの無知に気がつくことです。
哲学(philosophy:愛知)
の第一歩は無知の知だとも言われます。
知恵を愛することにおいて、
「自分は知っているんだ」
という固定観念はそれ以上の発展を
妨げるからでしょうか。
「無知」についてはG○Aでも
心行の言霊スタディーの
「無知の中の相克世界」の講義で学びます。
旧約聖書の登場人物、南ユダの王ヨシアは、
北の強国カルケミシを討ちに来た
大国エジプトの王ネコの真意(ひいては神の御心)
を悟ることができなくて、戦に挑み無残にも
戦死したと解釈します。
このエピソードより、無知であることは
死をもたらすことで、無知を
なくさなければならないと教えます。
もちろんこれは、無知をなくすためには、
神理であるG○Aの教義
心行の言霊スタディーをしっかり
学ばなければならないということの主張です。
確かに私はG○Aに入ることで、
それまでは否定していた神という
存在について知り、信仰のもつ豊かな
力について知り、自分が以前は
無知であったことについても知りました。
しかし、G○Aを離れてなお自分が無知
であったことに気づかされたのです。
G○Aの外の世界にも実にたくさんの
宗教や思想や価値観が存在することを
あらためて知らされ、それらの一つ
ひとつについてよくは知らないことを
知りました。
また自分が所属していたG○Aのことでさえ、
多くのことを知らなかったことを知りました。
自分はなお無知であったと知ったのです。
G○Aの外、この世界には幾千もの
宗教が存在しています。
キリスト教や仏教といった四大宗教と
呼ばれるものをはじめ、近代以降に
生まれてきた新興宗教、さらに新しい
新新宗教と呼ばれるものなど本当
にたくさんあります。
その特徴もさまざまで、キリスト教や
イスラム教のように絶対唯一神をもつ
一神教のもの、仏教やヒンズー教や神道のように
八百万の神がいる多神教のもの、
あらゆる事物に霊魂が宿ると考える
アニミズムなどなど。また、世界中に
その信仰者がいる世界宗教に
分類されるものや、ある特定の部族・
民族が信仰している土着宗教など、
形態も活動も教義の内容も本当に多様です。
宗教だけでなく思想や主義主張を
含めた価値観という枠組みまで
広げるとその数はもう無数と言えます。
無神論、科学至上主義、唯物論、
国家主義、民族主義、アナーキズム、
個人自由主義、民主主義、
社会主義、共産主義、自由経済主義、
学歴主義、恋愛主義などなど。
社会に対して過激なも
のから穏健なもの、影響力の大きいものから
小さいものまでいろいろです。
では、どの宗教・思想・主義主張がもっとも
素晴らしい価値観なのでしょうか?
これは、なんとなく馬鹿げた質問に聞こえます。
それは、この世界には「絶対なもの」
はないからではないでしょうか。
宗教について考えると、一神教は
それぞれの絶対唯一神による
世界の主観を伝え、多神教や
他の神仏の存在を人間が生みだした
偶像崇拝であると捉えることが
多いようですが、
絶対唯一なる神という存在を
仮定すること無くしては、
この話は成り立ちません。
また、一方で、無神論者は
科学的合理性を見ないという
理由で、神仏の存在を否定しますが、
現在の科学にも未知なる部分は
非常に多くあり、既存の科学の
絶対性を仮定すること無しには、
神仏の存在を完全に否定することは
できないのです。
ある宗教や思想が、まず自分たち
の考えを構成している考えや
事柄を仮定すること無しには、
自分たちの絶対的正当性を表し、
他の宗教や思想を否定し
排他することはできないのです。
あらゆる宗教や思想はまず
自分たちの考えが正しいということを
前提にして成り立っているのです。
ある人が他者の価値観を否定
できたとしても、同様の方法でその
人の価値観も否定され得るという
ことです。
究極的な話をすると、私たちが知覚
しているこの現実でさえ、実際には
現実はでない可能性があると主張する
理論さえもあります。
それは「桶の中の脳」理論と呼ばれるものです。
私たちの脳みそは、本当は、とある
科学研究所にある装置の中の溶液に
浸かっていて、スーパーコンピュータから
伸びるコードに接続されています。
私たちが現実だと知覚しているこの
世界は、実はそのコンピュータから
送られる電気信号を脳細胞が読み
取って反応している、脳の中で
作り出されたバーチャルワールド
であるという状況(またはこれと同質の状況)
かもしれないということです。
ちなみにこの状況を完全に
否定する証拠や論理はまだ
見つかっていないそうです。
この桶の中の脳理論は映画
「マトリックス」の世界観の
もととなっていると言われています。
私たちは現実が絶対であることすら
完全に肯定しえないのです(だからと
いって、実生活になんら影響はないのだが)。
ところで、宗教を信仰している
人の動機の内で、その大半は
慣習によるものだそうです。
つまり、自分の生まれた家が
キリスト教だからキリスト教を、
生まれた民族や国がイスラム教
だからイスラム教を信仰
しているということです。
次に多いのが折伏、つまり伝道に
よるものだそうです。
あなたの知人や突然声をかけて
きた人などが紹介したその
宗教に、あなたが何かしらの良さを
感じたから信仰を持ったというものです。
自ら積極的に捜し求め、
たくさんの宗教の中から比較検討し、
自分が信仰を持つべき宗教を選び
出した人というのは、
本当に数少ないのです。
そういった人であっても、
自分が知りうる範囲での
限られたいくつかの宗教を
比較したにすぎません。
世界のどこにありと
あらゆる宗教や思想といった
価値観を、人生の限られた
時間の内に全てそれぞれ、
その真髄まで体験し、吟味すること
のできる人間がいるでしょうか?
せいぜい、私たちは今までの
半生のなかで出会ったいくつかの
価値観のうちでその時最良だと
思ったものを選んでいるにすぎません。
つまるところ、「唯一絶対に
正しい価値観」なんてないのだと思います。
人類みな、それぞれ自分が納得できる
自分に見合った価値観をもって
生活しているにすぎません。
では、唯一絶対正しい価値はない
という状況の中で、宗教にはどんな
意味があるのでしょうか?
私は「宗教」とは、「人間として
生きることを豊かにする」ための
価値観や世界観や行動規範などと
いった教えと、それを共有する
組織・集団だと思います。
そして、そのことは誠実に神理
の探究と人々の救済に向き合っている
宗教団体ならばみな同じことだと
思います。たとえば、一神教である
キリスト教と多神教である仏教を
比較すると、一見全く違った性質の
宗教のように思えますが、
根本的に両者が望み目指しているものは
同じで、人々が救われ、より豊かに生きる
ことではないでしょうか。
仏教は四季の変化が豊かな東アジアの
環境で育まれ、多くの神仏や生命が
調和をとる性格特徴をもち、他方、
キリスト教やイスラム教などの
一神教は比較的厳しい気候の
西アジアの環境から生まれ、力強く
民を導く絶対唯一神を熱心に崇める
性格特徴となったのではないでしょうか。
それぞれの宗教の表面的な相違は、
それぞれの宗教が生まれ発展してきた
環境や歴史的背景の違いによる
ものだと感じます。そういった
宗教間の形態の相違に対して、
その教えを説いた聖人たちの考えに
は多くの共通性を感じます。
イエス・キリストやブッダが、
人が豊かに生きるための
教えは、「平等」と「自制」の
精神だと思います。
ブッダがその教え「四諦八正道」
の中で説いたことは、人生の苦しみは
欲望が原因であり、愛欲をコントロール
することであり、そのために正しく
物事を見て、考え、行なうことです。
イエス・キリストもまた「天にいます神を愛し、
隣人を愛しなさい」と教え、「着る物や
食べる物で日々、惑うな」と自らの
欲望をコントロールすることを説きます。
そこにあるのは、利己的に生きることではなく、
他者をよく尊重する生き方ではないでしょうか。
G○Aもまた、聖書とイエス・
キリストの教えを踏襲しているようですので、
こういったエッセンスを多分に有しているの
だと思います。心行の言霊スタディーの
「カインの性格」で挙げられる54項目
(序論はさておき)は、一つひとつを
見ると自分に当てはまっているか
否かという次元の程度にとどまります。
しかし、54個全体を眺めて
うかがえることは、
共通して自己中心的・利己的・自欲に
もとづく行動であって、正しく生きる
ために必要なのは、それとは反対の
利他的な精神と行動であることを学びえます。
私はその利他的精神と行動こそが、
聖書に記され、「愛」
と呼ばれるものではないのかと考えます。
もし、宗教を信じる多くの人たちが、
互いの違いにばかり目を向けて、
自分たちの価値観から見た相手の
間違いを指摘し排他するのではなく、
互いの共通性に目を留めて
対話をするのであれば、
実に多くの意義あることを
互いに学びあえるのではないかと思います。
全ての誠実に活動している宗教には、
人が豊かに生きるための働きなす
共通性があると思います。
そして人が豊かに生きるための力を
与えるのは決して宗教に限ったこと
ではありません。スポーツ・文化芸術・
福祉・社会・経済・科学・学問などなどの
誠実な活動には、人々を豊かに
生かす力を有しています。
そして、宗教を信仰していない人でも、
愛情深く、礼儀正しく、感情豊かに、
闊達で誠実に生きている人
はたくさんいるのです。
それらは彼らの良心にもとづく
ものでしょう。つまり、人が豊かに
生きるための方法は、宗教か否かを
問わず、人間として共通している
のではないでしょうか。
ちなみに、ここで私が言う
「豊かに生きる」とは、もちろん
物質的・経済的・社会立場的に
恵まれているという意味においてではなく、
その人の幸・不幸といった境遇によらず、
その人が人生を歩むことに対し
て、意欲的である、積極的である、
生きがいを感じているという
意味であることを記しておきます。
チベット仏教の最高指導者である
ダライラマ14世は
宗教やカルトについて次のように語ったそうです。
「人が幸福になるには、必ずしも宗教が
必要だとは思わない。が、1つの宗教を
信仰するのであれば、まずは正統に
継承された教えを勉強すること。経典に
書いてあるから信じるのではなく、
分析的に確かめ、なぜこれが必要なのか、
自分の頭でゆっくり考えることだ。」
「そして、土台をしっかり築いて、
段階的に進むことが大切で、
いきなり密教の修行に
飛びつくべきではない。
ましてカルトは危険である。
師についても、その人が
正統な教えを正しく継承しているか
確かめ、その人格を含め、
あらゆる角度から十分に
調査することが必要だ。」
「信じる前に、まず研究せよ。
教師然とした態度をとる者には、
警戒すべきだ」
この内容は実にもっともだと思います。
宗教に本当に精通している人は、
宗教が持つ素晴らしさや
価値を充分に認識しながらも、
宗教が決して絶対ではないことを
知っているのではないでしょうか。
思想や宗教、主義主張、価値観
といったもので人の価値が決まる
ことはないと思います。その上で、
人は思想や宗教や生き方を自由に
選ぶことができる
のではないでしょうか。
そして、価値観は多様です。
価値観とは人生をはかるものさし(指標)
のようなものかもしれません。
世界にはたくさんの単位があり、
多様なはかり方があります。
自分のものさしのはかり方と
数値だけを参考にして、他人の数値が
間違っていると主張するのは
愚かな話です。それぞれの人
がそれぞれのものさしを用いて自分の
人生が豊かになるようにと日々はかり、
努めているのです。
ですから、G○Aはキリスト教に対して、
信仰が眠っていて、文字通り信仰の
無知な存在であると認識しています。