「新義真言宗」とわざわざ言ってるのに
「高野山真言宗」ってなによ?
普通の人には密教はわからない
といいつつ、密教の見解と悟りは高いのだろう?
お主は「わたしは只者ではない」と断言した訳だ。
ならば密教の見解と悟りのどこが高いのか
じっくりと語ってくれ。
ま、宗派もわからん奴だからな(苦笑、失笑、嘲笑w
953 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 21:40:49 ID:75BvZzMf
>>952 そりゃ語れんがな、サマヤの問題だ。
密教について語ってるヤツは、おかしいよ。
954 :
暁:2009/09/28(月) 21:46:01 ID:6/UDvRQY
宮崎哲弥の語りは帰謬法ぽいけどね。
昔田原の代わりに朝生の司会やってたときはよかったよ。
でも最近は鬱みたいで、仕事減らしてサブカルの批評家に戻るて話だが。
印や真言を教えろ、というのなら
「越法になるので・・」と逃げられるが
見解と悟りについて語っても一向に
越法にはならんのだが?
では宮坂先生や金岡先生は密教について
語っているからオカシな奴なのか?
おまえさんは密教について何もしらない。
恥を知ったほうが良いのではないか?
956 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 22:11:03 ID:75BvZzMf
>>955 本質的に何も知らないと言って良いだろう。
伝統学者は、加藤精神先生や長谷宝秀先生あたりで終わってるように思う。
じゃ、しょうがないから一つだけ教えとくは、
密教は色即是空空即是色が前提になっている、
五蘊を始めとする一切法が空であり、不浄な煩悩の現れが清浄な智慧の現れに縁起させることこそ密教の本質、少なくともヨーガ・タントラ以上はそう。
本覚門になると現象を意図的に変えることすらしない。
その見方の高さが見解の高さ。思想・哲学的に高いという意味も多少あるが本質的にこっち。
それが分からず、思想的なものと捉えるのは何も分かってない証拠。
日本密教の文献学者は大抵、所作タントラ的理解で儀礼そこ密教と思ってるから、
話にならない。
数すくない例外が羽田野伯猷先生、羽毛田義人先生、生井智紹先生だと思う。
もちろん、他にもいらっしゃるだろうが私は知らない。
サマヤ汚れたぞ
>密教は色即是空空即是色が前提になっている、
五蘊を始めとする一切法が空であり、不浄な煩悩の現れが清浄な智慧の現れに縁起させることこそ密教の本質
一行目は仏教ならどの宗派でも当たり前の解釈。
二行目はわざわざご教義頂くまでもなく
理趣経を少し読めば明らか。
こんなもので汚れる法ならば無用。
釈尊がやるなと仰った焚き火、占い、呪術、マントラを
積極的に受け入れてきたのが密教。
厭離せよ、と仰った生を賛美するのが密教。
ついでに大日を立て一体化を狙うに到っては
梵我一如であり概に仏教とは言えまい。
960 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 23:55:57 ID:N0yXaOSG
「秘密曼荼羅十住心論」弘法大師著
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnron.html 第七住心
覚心不生心(かくしんふしょうしん)
「八不に戯を絶ち、一念に空を観れば、心原空寂にして、無相安楽なり。」
はっぷにけをたち、いちねんにくうをみれば、しんげんくうじゃくにして、むそうあんらくなり。
あらゆる現象の実在を否定することで、実在からの迷妄を断ち切り、ひたすら空を観じれば
なんらの相(すがた)なく安楽である。
「空」の論理によって一切の実在を否定する「空観」の段階(三論宗)。
心は何ものによっても生じたのではない。すべての相対的判断を否定し、心の原点に立ち返って空寂の自由の境地
〔中道〕に入ることを目指す。法相宗の心を示す。
心の本性は生じることもなければ、滅びもしないと悟り、また
森羅万象は全て縁によって起こる、即ち空(くう)と観て中道(ちゅうどう)を歩みだす段階。
物質に実体性がない(無我)だけではなく、自分の心に起こることも、実体がなく、本来不生であると悟る。三論宗の境地。
「心に映るものは本来生じたり滅したりせず、心は本来静かに澄みわたっている。」
この時、心主(心の主体)は自由自在になり、物の有る無しに迷うこともなく、自利・利他の行為を心のままに成すことができる。
この絶対の自由の状態を心王という。
それを悟れば、「遂にとうとう、阿字門(万有一切の本源を不生阿字で象徴する部門)にはいったのである」と
大師は説かれる。本来生起しないとは、「不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来」の八つの不の意味である。
寂滅平等の真実の智恵に住して失うことがない。
961 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 00:04:00 ID:q1LfDAX0
「秘密曼荼羅十住心論」弘法大師著
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnron.html 第八住心
一通無為心(いちどうむいしん)
「一如本浄にして、境智倶に融す。この心性を知るを、号して遮那という。」
いちじょほんじょうにして、きょうちともにゆうす。このしんしょうをしるを、ごうしてしゃなという。
現象はすべて清浄であって、認識としての主観も客観もともに合一している。
そのような心の本性を知るものを、仏(報身の大日如来)という。
「空・仮・中」の唯一絶対の真理、「空性無境」の「法華一乗」の段階(天台宗)。
万物は真実そのものであり、本来清浄なものである。
この境地に入るとき、従来の教えは一道に帰するはずである。法華、天台の境地。
「一念三千(いちねんさんぜん)」や「十界互具(じゅっかいごぐ)」を説く法華経の世界。
凡ての人に仏性、悟りの可能性を観ることが出来る境地。
「白蓮花のような『法華経』の教えによる精神統一」という瞑想にはいって、人びとが本来もっている徳性は汚れに
染まらないと観想し、全ての人の心が清浄であることを知る。
止と観の観想を行なう。(この止観は、澄みきった水そのものと事物を映し出す水のはたらきとの関係のようなものである)
静かであってよく照らし、照らしていて常に静かである。
この時、心の認識する対象(境)は、悟り(心)であり、悟りの智恵が認識の対象であることを知る。
「自分の心は清らかであり、心は外にもなく、内にもなく、その中間にもない。心は欲の世界のものでもなく
物の世界のものでもなく精神世界のものでもない。」ことがわかる。
「心は眼・耳・鼻・身・意の世界にもなく、見るものでもなく、顕現するものでもない。
心は虚空と同じであり思慮や思慮のないことを離れたものである。
自分の心そのままが、真実世界の心と同じである。それは、そのまま悟りと同じ。
心と虚空と菩提とは一つのものである。慈悲を根本として、他の者を救う手段(方便)を満足する。
菩提とは、「ありのままにみずからの心を知ることであると悟る。」と弘法大師はこの状態を説明されている。
無常の哲学って本、面白そうな雰囲気はあるんだけど難しいなー。
チャンドラキルティって人についての本なんだけど。
「秘密曼荼羅十住心論」弘法大師著
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnron.html 第九住心
極無自性心(ごくむじしょうしん)
「水は自性なし、風に遇うてすなわち波たつ。法界は極にあらず、警を蒙って忽ちに進む。」
みずはじしょうなし、かぜにおうてすなわちなみたつ。ほうかいはきょくにあらず、けいをこうむってたちまちにすすむ。
水はそれ自体定まった性はない。風にあたって波が立つだけ。
さとりの世界は、この段階が究極ではないという戒めによって、さらに進むものである。
対立を超え一切万有が連関し合う、重々無尽の「法界縁起」の段階(華厳宗)。
世界には一つとして固定的本性はなく、すべてがそのまま真実そのものであるとみる境地。華厳宗の心の段階。
「法界縁起(ほうかいえんぎ)」や「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」を説く華厳経の世界。
宇宙のなかの全ては互いに交じり合いながら流動していることを悟る境地。
仏は空の悟り(無為)がまだ究極ではないことをさとす。
華厳経には、海印という精神統一に入り、法の性質が互いに溶け合っていることを悟る。
一人の修業者の心が大なる仏の心に等しいことを知る。「一と多が互いに融合している。」
一人一人の心が、仏と何も変わらず、同一のものであると悟る。一つ一つの心が互いに溶け合っている。
初めて悟りを求める心を起こした瞬間に悟りの世界にはいる。という華厳三昧の世界である。
しかし、この三昧はまだ完全な悟りではなく、一切如来より「鼻先に月輪を想い、月輪の中にオン字の
観を成さずして成仏を得ることはない。」と知らしめられる。
>ついでに大日を立て一体化を狙うに到っては
>梵我一如であり概に仏教とは言えまい。
一体化を狙っているんではなく、衆生は元から仏という立場=本覚思想。
しかし、ここでいう仏性とはウパニシャッドなどが言う「我(アートマン)」
ではない。やはり、仏性といえども『空(無我)』なんだが、この場合の
の『空(無我)』は、「法界縁起」という縁起思想に翻訳されている。つ
まり華厳思想が密教のベースにあるというのは、僕が最初から主張している。
目が覚めて見てみたら随分カキコがあった。
手間かかったろ。
おいらは基本的に大乗非仏説に立ち
本覚思想を否定する立場にある。
どんなに理屈を述べてみても
やってることは三密を使って本尊と一体化することだ。
「十住心論」は理屈である。
大乗が崩壊の危機に瀕し
所謂超能力開発をとりいれたのが始まりであろう。
純密として理論を備えたとしてもそれほど
評価に値するとは思えない。
煩悩を切らずに念をかけるから
立川流という邪教も生み出してしまった
971 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 06:15:17 ID:/f9d9hND
>>957 縁起させると捉えるか、アートマンと合一させると捉えるかで天地の開きがある。
方便を巧みに使うのは大乗以来。密教は生を賛美などしてない。
そんなこというのは何も分かってない証拠。
煩悩を遮断、抑止する小乗の教えと違って、煩悩を智慧に変えるのが密教の本質。
>>958 大日如来を始めとする様々な本尊も空と捉えるのが本来、
それを実在的に解釈するのが現代日本真言宗やチベットのチョナン派で、
それは誤った見解。
972 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 06:19:19 ID:/f9d9hND
>>957 >>密教は色即是空空即是色が前提になっている、
>一行目は仏教ならどの宗派でも当たり前の解釈。
そんなことないぞ。テーラワーダは空即是色を認められないだろう。
一切法現象するのは空だから縁起できるということが理解できない。
あるいは、三昧状態で空は体験できるが、
三昧から立って現象が現れた状態で、その現象そのものが空であることが
常に持続できない違いがある。
973 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 06:30:07 ID:/f9d9hND
>>964 ダルマキールティについての本ですね。
その本はハッタリ本なんで、あんまり読んでもしょうがないと思う。
ハッタリな証拠は引用には大抵頁数が明記されているが、
三浦俊彦『虚構世界の存在論』についての引用に頁数が書かれてない。
なんと帯からの引用だった。つまり、読まずに帯を使って読んでますと言っているわけで、
こういうことをする人は内容もハッタリだと予想できる。
詳細は憶えていないが、分析哲学との比較はあまり内容がなかったように記憶する。
ダルマキールティについては赤松明彦先生、戸崎広正先生、稲見正浩先生あたりを読むといいよ。
974 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 06:33:03 ID:/f9d9hND
>>970 縁起を理解するなら大乗非仏教は、ただの実在論になるよ。
ただただ理解が浅いだけ。
975 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 06:42:41 ID:/f9d9hND
AqoLmfZK はセブンじゃなかったのか。
ああ、なんてことしてしまった。無駄な。
>>971 理趣経では明らかに賛美している。詭弁である。
現在小乗仏教とよばれるものは存在しない。
煩悩を智慧に昇華する方法論について聞きたい。
流をみれば真言宗について語っていることは
わかるだろう。
>>972 >テーラワーダは空即是色を認められないだろう。
ここは訂正する。確かに認められない。
「花は空である。故に空は花である」これは
誤りであろう。
哲学と実践の違いだと思う。
ただしヴィスッディマッガには
42の立場で一切は空であると観じる瞑想がある。
理屈ではない実践法がある。
>>974 大乗が非仏説であるのは理解云々ではなく
史実。
実践の伴わない思弁哲学は無力。
学者が悟ったと聞いたことはない。
ご用心。
977 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 07:59:39 ID:/f9d9hND
>>976 >理趣経では明らかに賛美している。詭弁である。
ただの誤解。
>煩悩を智慧に昇華する方法論について聞きたい。
それはちゃんとした先生から直接聞くべき、こんなとこで言えないよ。
>大乗が非仏説であるのは理解云々ではなく
>史実。
史実とすると、それら全ては縁起・空ではなく実在になりますね。
歴史というのは知覚者による認識であることは、
例えば新大陸の発見が、原住民にとっては略奪者の侵入に他ならないことからも分かるでしょう。
仏教はもっと微細なレベルまで全て縁起による認識と説くので、
知覚者によって認識が違う。大乗や密教の知覚者、教えを聞いた人の認識レベルが凡夫とは違うんです。
これはシナ、日本、チベットではっきりと確認できインドでは伝説とされているけれど、
シナ、日本、チベットの現象からインドでも、そう縁起したことが明かでしょう。
以下の水野先生論文で『金剛三昧経』と元暁から分かると思います。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006992202 実在論的立場では『金剛三昧経』は偽経でしょうが、元暁はそうとらない。
ここが分かれ目です。信じないのは結構ですが、誹謗するのは止めることを勧めます。
978 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 08:04:54 ID:/f9d9hND
>実践の伴わない思弁哲学は無力。
>学者が悟ったと聞いたことはない。
>ご用心。
もちろん。仏教文献学で悟ったなどという人はいまだ聞いたことがありません。
悟りたいなら、きっちりした先生から学ぶ必要があり、
真剣に努力する必要があります。
確かに、悟りたいならこんなことろで書かずに篭もって行に専念すべきですが。
>>977 17清浄句を説明して欲しい所だが
「こんな所では言えない。師に就け」と
言われるでしょうね。しかし
字が読める人にはタントリズムだとわかる。
世界大戦が存在したのは史実だ。
というレベルで大乗非仏説は史実だと
言ってるんです。
「密教は仏教のヒンデゥー化である」
これは誹謗ではなく批判です。
980 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 09:11:49 ID:/f9d9hND
>>979 >世界大戦が存在したのは史実だ。
>というレベルで大乗非仏説は史実だと
>言ってるんです。
それも縁起でみれば、そんなに強固な事実ではないでしょう。
>「密教は仏教のヒンデゥー化である」
>これは誹謗ではなく批判です。
現在最も流通している密教史は、漢訳年代をそのまま成立年代にしているだけなので信じるに足りません。
例えば、ダルマキールティの『量評釈自註』に所謂後期タントラと呼ばれる、
母タントラが引用されていることから、それは裏付けられるでしょう。
そこで、タントラという名称は、どうも仏教から起こったようであるという説があります。
これは『金剛頂経』はスートラと書かれますが、その後分がタントラと呼ばれるのです。
そしてこのタントラの考え方が、密教の基本となっていてヒンドゥーもジャイナもタントラという名称を用いるようになったのではないかということです。
ということで、仏教のヒンドゥー化というのはあまり当たらない。
儀礼とか文化的要素は、そこにあったから象徴として利用しただけで、あまり意味がないことですよ。
現に、チベットへ行けばチベットの儀礼も利用するし、日本に来れば日本の儀礼も利用してます。
そのような現象や象徴を利用するのは釈尊以来のヴォーハーラ、その場その時の習慣をそのまま用いるやり方ですよ。
ただ一端、利用すると縁起があるから、それ以降はそれを使うということだと思います。
>>980 >それも縁起でみれば、そんなに強固な事実ではないでしょう。
どうやらあなたは現実を認識するのに
いささか不都合な脳をお持ちらしい。
事実に軟弱と強固がある、という考え方は初めてしりました。
>タントラという名称は、どうも仏教から起こったようであるという説があります
どのような説があってもいいでしょう。
現実には密教を仏教と認めるかどうかで
学説もわかれているわけですから。
中期密教でヒンデゥーに対抗する形で理論武装をしたが
叶わず後期密教ではヒンデゥーのタントラ教理、性交などを
取り入れていったことは、いかに詭弁を弄しようとも事実であろう。
もっともあなたにとっては「強固な事実」ではないだろうが
多分大方の認めるところであろう。
ついでに空海はとっそてんで修行中で
弥勒と共に下生するらしいので
涅槃には入っていないのでしょう?
宗祖が涅槃に入れないのに
その弟子は・・・
983 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 12:42:59 ID:/f9d9hND
>>981 >どうやらあなたは現実を認識するのに
>いささか不都合な脳をお持ちらしい。
>事実に軟弱と強固がある、という考え方は初めてしりました。
縁起から考えれば、あらゆる現象はただの認識で空に過ぎないと言うことです。
これは仏教であればそう考えるはずですが違いますか?
それとも現象が自立的に実在して我々がそれを認識するとでもw
それなら、ただの素朴実在論ですよ。
歴史というのは、共通の存在にとってある程度の共通認識があるということに過ぎません。
>どのような説があってもいいでしょう。
>現実には密教を仏教と認めるかどうかで
>学説もわかれているわけですから。
これは密教を認めたくない学者の恣意的、あるいは政治的な説でしょう。
現実には、インド、ネパール、チベット、ブータン、モンゴル、シナ、日本で
密教が仏教として縁起し、共通認識されてきた縁起があるだけです。
984 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 12:44:14 ID:/f9d9hND
>中期密教でヒンデゥーに対抗する形で理論武装をしたが
>叶わず後期密教ではヒンデゥーのタントラ教理、性交などを
>取り入れていったことは、いかに詭弁を弄しようとも事実であろう。
いやいや、その説は初期の文献学でドラヴァレ・プサンなどの時代のもので、
今、そんなことを言う学者は笑われるだけです。
なにせ、仏教に先行するタントラは見つかってないはずですよ。
実在史観的にもパンチャラートラ、シャイヴァ、ジャイナもタントラの成立は遅いはずです。
まあ、この辺は最近はリサーチしてないので確信ありませんが。
密教にしろ仏教にしろテルマですよ。『金剛三昧経』と同じ。
実在史観的に言うなら、『華厳経』のサマンタバドラ・チャリヤー・マンダラ、普賢行が一切智成就の因であることに対して、
『華厳経』の浄観を一切法空本性清浄という本質に従って、
身による行でなく意による行によって行う高度なものが密教です。
985 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 12:45:53 ID:/f9d9hND
>>982 大乗の菩薩は涅槃に入らず、利他を行うんです。
これを普賢行とか菩薩行とかいいます。
ダライラマ猊下が化身するのもそれです。
勝儀と世俗。
>縁起から考えれば、あらゆる現象はただの認識で空に過ぎないと言うことです
こんなことは言いたくはないがオウムを彷彿とさせます。
>いやいや、その説は初期の文献学でドラヴァレ・プサンなどの時代のもので、
今、そんなことを言う学者は笑われるだけです。
なにせ、仏教に先行するタントラは見つかってないはずですよ。
実在史観的にもパンチャラートラ、シャイヴァ、ジャイナもタントラの成立は遅いはずです。
まあ、この辺は最近はリサーチしてないので確信ありませんが。
密教にしろ仏教にしろテルマですよ。『金剛三昧経』と同じ。
実在史観的に言うなら、『華厳経』のサマンタバドラ・チャリヤー・マンダラ、普賢行が一切智成就の因であることに対して、
『華厳経』の浄観を一切法空本性清浄という本質に従って、
身による行でなく意による行によって行う高度なものが密教です。
いやいや縁起から見ればそれほど強固な事実ではないでしょう。
>大乗の菩薩は涅槃に入らず、利他を行うんです。
これを普賢行とか菩薩行とかいいます。
ダライラマ猊下が化身するのもそれです。
これを信じられる感性が凄いですね。
でも縁起からみれば強固な事実ではない・・・でしょう?
987 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 14:31:12 ID:/f9d9hND
>>986 あれ、あなたはテーラワーダを信仰する方ではないのですか?
縁起なんだから宗派だって空なんですよ。
たとえテーラワーダの人間だって
縁起から見れば強固な事実ではないでしょう?
それにヴィスッデマッガにも空は実践として
説かれていますよ。
989 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 14:57:54 ID:/f9d9hND
>>988 テーラワーダの教義は信じますか、信じませんか?
信じる、信じないの二辺を離れております。
991 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 15:12:55 ID:/f9d9hND
>>990 私は世俗的言語習慣の中で聞いているのですが。
>>世界大戦が存在したのは史実だ。
>というレベルで大乗非仏説は史実だと
>言ってるんです。
それも縁起でみれば、そんなに強固な事実ではないでしょう。
わたしも世俗的言語習慣のなかで発言しましたが?学習しました。
さて、助さん、角さん、もういいでしょう。
993 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 15:49:04 ID:/f9d9hND
>>992 言語習慣の中でも大乗非仏説はありえません。
大乗非仏説は実在論に基づくからであって、大乗非仏説のような縁起はない。
では、あなたは輪廻は認めるのですか?
妙法蓮華経「如来寿量品第十六」 ・・・あるいは己身を説き、あるいは他身を説き、
あるいは己身を示し、あるいは他身を示し、あるいは己事を示し、あるいは他事を示す。
もろもろの言説するところはみな実にして虚しからず。(中略) 実に非ず、虚に非ず、
如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るがごとくならず。かくのごときの事、如来明か
に見て錯謬あることなし。
http://nanbadenwa.sarashi.com/ 釈迦は”あらゆる存在”が本質において物質性を離れ(無生法忍)、あらゆる存在は相
互に”一如”であり、自分の生命も宇宙の生命も一如であることを悟ったのです(自分の
生命も宇宙の生命も一如であるからこそ、釈迦は肉体[時間空間]に束縛された自我から解
放され[無我]、生きとし生けるもの・在りとし在らゆるもの、すなわち仏性として働きか
けることができる)
http://nanbadenwa.sarashi.com/
どなたか次スレをおねがいします
>大乗非仏説
まあ、上座仏教(説一切有部)が唯物論に堕ちいったことを考えると、
大乗非仏説は原理主義的になって、結局、釈迦の根本義を曲げることに
も成りかねない、と思う。
大乗非仏説を採用しているのが、日本では阿含宗とアーレフ(元オウム)
というのもあるが・・・
>十七清浄句を説明して欲しい所だが
そのままでしょ。般若理趣経の立場は、空→不空ですから、現実肯定主義。
男女の営みもそのまま菩薩の位である。それでこそ在家の修行も可能とな
るのであって、出家して梵行(非接触)しなければ悟れない、とする従来
の仏教に対するアンチテーゼでしょ。
それが何か?
>『華厳経』の浄観を一切法空本性清浄という本質に従って、
>身による行でなく意による行によって行う高度なものが密教です。
同意。
そもそも、チベット密教の主流派はツォンカパ大師を祖とする「中観帰謬論証派」
だからね。「中観思想」と密教が並存していけることが実証されている。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。