お互いに時には殴りあって、痛みを分かちあおう。 これからも、ずっと。
前世が人間の
犬や猫がたたずんでいる。そんな繊細な想いや感受性は、我々の日常には関係が無い。
冷たい雨、冷たい風こそが友だ。時には殴り合い傷みをわかちあおう。
327 :
291:2010/03/07(日) 01:49:53 ID:vC3r/gwa
このスレの数々の言葉には、いつも本当に勇気づけられます
何か疑問に行き詰って、悩み始めたときに
このスレを覗くと、不思議とその時々の「答え」が
ちゃんと見つかったりする…
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ACIM (A Course In Miracles)
ワークブック 271番
What is the Christ?
Christ's is the vision I will use today.
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昨日も、この課題271番が、実際には何を意味しているのだろうか
と考え始めて、ここに来たら、
>>322 に、ちゃんとその解答らしき
言葉が挙げられていました
>わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる
教会の朗読とかで聞くだけなら、何とも思わず聞き流してしまいそうな
フレーズが、重大な意義を持って、心に染みとおってくる
…というのは大袈裟かもしれませんが、そんな力をスレから感じました
ありがとうございます
>>297-298 返信を忘れていました。共感を大切にするよう心がけます
328 :
神も仏も名無しさん:2010/03/07(日) 13:20:24 ID:7JlzB5WP
2chにも、すごいマハルシ・ラブな人がいるんですね。
独白が面白い。
あまり真面目に受け取らないでください。
ここは私の愚痴スレですから、言いたいことを2ch流に書きなぐるだけの、本気で真理を学びたいなら
シャンカラやラマナ・マハルシらの偉大な聖者の言葉から、直接にメッセージを受け取ってください。
シャンカラはコブラがカエルに対して、あぎとをひろげ、日陰を提供した光景を見て、〈鋭い知性〉で
偉大なる聖者が近くに住んでいるに違いないと勘付きました。
〈神や世界の本質について決める前に、あなた自身を知りなさい。)
あるがままに ラマナ・マハルシの教え ナチュラルスピリット
一匹の鳥が人と目があっても、鳥は私より偉大な意識がそこにありえるなど気付きはしない。
でも、本当に鳥の意識が理解できているのか?
一匹の鳥から逆に人を見たら、私はあなたがたのように、まだ訪れてない未来や終わった過去のことなど
くよくよしたりしやしない、よっぽど鳥のほうが「今」を生きているかも知れない。
何もわからない、何も知らない、汚れたアスファルトに降り注ぐ冷たい雨こそ友の、二元のくだらない妄想。
冷たい雨、前日の疲れがまだまだ身体に残ってるし、今日の寝起きは大変に辛かった。
イライラと早朝のラッシュアワー。
きっと誰もが、そんな時こそ
休日の安らぎを夢見るだろうけど、そんな辛い時に望む平安を忘れないで、それこそが自己の安らぎ。
午後の風が、憂いに満ちた人々の頬をかすめる。
あなたがたの意識は心地よいと、風は人々を誰にも気付かれずに勇気付ける。、それが、一切に遍満する私。
風の行方は、真夜中の海か空かわからない水平線に消えうせる。誰にも気付かれずに
イエスが三度も「わたしを愛しているか」といった言葉は、確かに、ひどく悲しい。
どうしようもなく、お互いがわかりあえない、冷たい雨そのもののような隔絶。
冷たい雨そのもののような意識の隔絶。別々の意識、それがどうしようもない現実の二元。
あなたは私のことなんて、何にも知らない。そして私もあなたがたのことは何もわからない。ただ雨はだけはひどく冷たかった、それだけはひどく共感できる。
「本当にあの日の雨は冷たかったな」と
ただ人々を勇気付ける、虚空のように一切に遍満する一元の風だけは、真夜中の海なのか空なのか
まったくわからない水平線の彼方に消えうせていく。誰にも気付かれずに。
イエスが(三度も)「わたしを愛しているか」といった。キリスト教では、何億もの信徒に聖人として尊敬を集めてる弟子に対して
そして道端で自動車に惨めに撥ねられて、ほったらかしの猫の死体は、人々の興味すら引かないことすら
それすら当たり前の我々の日常。
イエスが三度も「わたしを愛しているか」といった。わたしは誰の痛みもわからないし、何も知らない。それが冷たい二元の現実。
イエスは(三度も)「わたしを愛しているか」といった。
イエスの処刑も、ただの休日の見世物でしかなかった。
完全に結果的には見捨てて、怖かったのだろうが、なんであろうが、見世物として惨めに殺され、処刑された。
そのイエス・キリストが綺麗な淀みの無い瞳で、真っ直ぐに弟子を見つめながら
(三度も)「わたしを愛しているか」といった。
それが二元の日常、冷たい雨そのもののような意識の隔絶。誰のこともわからない、誰のことも知らない。
誰も知らない、誰のこともわからない。誰も知らない私が在るだけ
いや、そもそも本当の自分さえわからない。
夕日が虚しく沈むように、二元の人生が、暴れまわる非我なる我の太陽が、虚しく幕を閉じて地平線に消えてゆく。
振り返ればお互いに傷付けあってばかりだったけど、あの日の冷たい雨のことだけは互いに忘れない。
あの日の冷たい雨の記憶さえ、何時かは渇き、跡形さえ残らなくなる。
振り返れば互いに傷付けあってばかりだったけど、あの日の冷たい雨のことだけは互いに忘れない。
冷たい雨さえ、何時かは渇き、跡形さえ残らないのだから
許しあい、ひとつになる時はきっと訪れる。
無数の非我なる我の太陽が、無数の夜空のちっぽけな輝きのひとつと気付かず、暴れまわっている。
アルジャーノンのように、生きてる間に二つの意識に触れれたら
でも、きっと、子供時代の記憶は忘れていくように。
ぼやけた意識が、凄く集中して明晰になったとしても
悟ったら、その状態が当たり前になり、すぐにそれに慣れる。
そんな程度のものだ。
炎に触ったら熱い、そのことに「何故」は要らない。
今までだってそうだったし、きっと、これからも。
私が、私であるのに、私ではない。
成りたかった理想の私がここにいる。
住みたかった、理想の海のある安らぎの場所、ついに私は
その理想の場所を、安らぎの風景そのものとなって手に入れた。
私が、私であるのに、不思議なほどに私ではない私がいる。
午後の風が、憂いに満ちた人々の頬をかすめる。
あなたがたの意識は心地よいと、風は人々を誰にも気付かれずに勇気付ける。、それが、(虚空のように一切に遍満する私)。
風の行方は、真夜中の海か空かわからない水平線の彼方に消えうせる。誰にも気付かれずに
イエスの処刑も、ただの見世物でしかなかった。
哀しいほど意識は別々、心底に後悔しなければならない時にも、そんな瞬間にも他人事なのが
普通の二元のいつものありふれた光景。
イエスは(三度も)「わたしを愛しているか」といった。
何時の日か、その言葉が意味するものを理解でき
心底後悔する時が訪れるのは確かなのだが、今は哀しいほどに改心できない。
イエスの処刑も、ただの見世物でしかなかった。
哀しいほど意識は別々、心底に後悔しなければならない時にも、そんな瞬間にも他人事なのが
普通の二元のいつものありふれた光景。
別段に珍しくも何でもない、ありふれた日常。
そんな日常でも、日差しは優しかった。
あの日の日陽しは本当に優しかった。
風と日陽しだけはどのような日常も瞬間にでも優しかった。
光のコントラスト
いつもと変わらない風。どのような日常の傍にでも佇む友達。
光のコントラスト
何時もと変わらない風
(虚空のように一切に遍満する私)。
どのような日常にでも
絶望的な日々であっても、あなたはわたしであり、虚空のように一切に遍満する私。
私が、私であるのに、私ではない。
成りたかった理想の私がここにいる。
私が、私であるのに、不思議なほど私ではない私がいる。
どのような絶望的な日々であっても、どのような日常の傍にでも佇む
あなたはわたし。
光のコントラスト
いつもと変わらない風。どのような日常の傍にでも佇む。
どこに居ても、影響などされない
あなたはわたし。
何故なら
どこにでもある、何時もとまったく変わらない、風や光の中に私は佇むから。
恒常な光の中を通り抜け、春の息吹の妖精が
鳥や植物の命を育み、日常の幸や不幸に汚されず、ふわふわと踊っている。
どこに居ても、影響などされない
あなたはわたし。
恒常な光の中にさえ、鳥や植物の命の中にさえ、微細に常に変わらず存在する私。
あなたはわたしよ。
こんにちわ
それが、唯一不二なるアートマン。
清らかな、冷たい水のような広がり
あまりの清らかさに想念の淀みは消えうせていく。
その広がりと一つになるのが、わたしはあなた。
眩しすぎて、見れなくとも、光に包まれ
何時しか、ひとつになる。
ひとつになったと気付く我さえ、もう居ない。
ようこそ、わたしはあなた、こんにちわ。
真我から離れる程、精妙で複雑な世界が拡がっている。
知らず知らずのうちに迷い込む。
精妙で複雑な世界に、自らが、それ、そのものと同化して
迷い込むから、更に抜け出すのも困難。
〜自己の安らぎに学べ〜
真我から離れる程、「生と死というワニが出没する輪廻の大海」に
知らず知らずのうちに迷い込む。
これだけの複雑で、多であって、精妙で複雑で、あらゆる煩悩や想念の渦巻く世界から
逃れるには
「真我を実現しなさい。」との聖者の言葉
聖者の灯台無しでは、とてもとても、私はこの「生と死というワニが出没する輪廻の大海」を
安全に渡りきれそうにない。
私は身体であるといった確信が、ヴァーサナや激性が、体内に入り蝕むバクテリアのように
「生と死というワニが出没する輪廻の大海」に、不治の病に知らず知らずのうちに迷わせ、誘い込む。
それらが自分自身であるならば迷ったことすら、まるっきり気付けない。
聖者の灯台無しには、「生と死というワニが出没する輪廻の大海」を、無事に渡りきるのは困難。
私は身体であるといった確信である。
ヴァーサナや激性が、眠気である鈍性や劣った知性が、多種多様な煩悩が
それらが(自分自身であるならば)
迷ったことすら、まるっきり気付けない。
ああ、恐ろしい「生と死というワニが出没する輪廻の大海」
聖者の灯台無しでは、とてもとても
安全に渡りきれそうにない。
知れば、知るほどに
わかれば、わかるほどに、聖者の存在は大変に貴重である。
聖者の存在は大変に貴重
人々の知りたかった真理は確立され、答えは出た。
後は
どれだけ聖者の言葉を血肉に出切るかどうかは、個々の器による。
海の海水のような聖者の無限の知識を、どれだけすくい取れるかは、個々の器しだい。
フランチェスコや空海の時代では無いのだから、本物の聖者の言葉に触れて
血肉に出来ないなら、自らの器の小ささを問うべき。
何も感じられず、血肉に出来ないのなら、それは己が悪いのだから。
フランチェスコ、空海さんは偉大。
聖者の本にも翻訳者さんにも感謝しなければ
フランチェスコは、おそらく信仰の最初の頃は教会でしか
聖書に触れ合えなかったと思う。
マザーテレサは
そのフランチェスコの祈りの言葉を聞いただけで、大変に改心したらしい。
(自己こそ自己の主)法句経
釈迦も人々の病老苦を見て、大変に大変に、非常に胸を痛めたらしいが
何と言うか、わかる人だけがわかるような
そのような視点が世の中にはあるものなのかも知れない。