1 :
神も仏も名無しさん:
ニルヴァーナ、宇宙意識、三昧、神人一体等の至高体験後に
より阿羅漢や聖者に近付くための修行スレです。
心の湧き立ちを押さえるのです。
3取りー!!!
アルジュナよ、私は万物の心中に宿るアートマンである。私は万物の本初であり、中間であり、終末である。(バガヴァッド・ギーター)
5 :
神も仏も名無しさん:2008/12/11(木) 02:06:52 ID:+A4DL6kT
存在そのものが至福・アーナンダという体感や、ただ存在しているのみ、無我を実感する等の経験くらいならある。
6 :
教:2008/12/11(木) 17:13:14 ID:wMnGneYs
まあ、ほぼ世界征服に近いな、ヒンズーは詳しくないが、
そうです 経験を礎としてもっともっと邁進するのです。
「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人の識別作用が止滅するのである。」
1111 スッタニパータ〜ブッダのことば〜
ハートにおわす 神のヴィジョン 師の蓮華の御足への
不動の信仰と 家族のしがらみから 放たれること
さまよう心と感覚の制御 それにより 神のヴィジョンは得られる (シャンカラ チャリア 三一の詩)
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
(マタイ5、45)
>>4>>7>>8>>9 太古からの各種経典は
同じ山の頂である不動の梵我一如に人々を導くために存在するのです。
われは彼を知る。老ゆることなく、太初より
在し、万物のアートマンとして、その普遍性に
よりて一切処に存在する彼を。ブラフマンを論
ずる学匠たちは、彼(アートマン)に生死なきと説き、彼を永遠不易と称す。 (ウパニシャッド)
欲望によって執着は深まるのです。
12 :
神も仏も名無しさん:2008/12/18(木) 19:40:10 ID:CAGjaz35
>>4>>7>>8>>9 賢者は、学術と修養をそなえたバラモンに対しても、牛、象、犬、犬喰に対しても、
平等(同一)のものと見る。 ギーター
13 :
神も仏も名無しさん:2008/12/19(金) 01:36:30 ID:3+qm9s2N
フランス人が書いた禅の体験記に、大摂心の時についに見性を得たけど、
それは真の悟りのためのメニューをチラ見したに過ぎない、修行はずっと続けなければならないと
書いてあったな。
空に親しみ続け、湧き出るものは淡々と解消するに任せつづける。
もう手放してしまう。操作しない。
15 :
神も仏も名無しさん:2008/12/28(日) 22:18:53 ID:2ohTTYuP
至高体験後には、多元主義となり他の宗教に対して寛容になります。
そこから更にニルヴィカルパサマーディ、すなわち輪廻からの解脱を目指すのです。
17 :
神も仏も名無しさん:2008/12/30(火) 20:07:24 ID:DrVtMwbr
私は、学生時分から、自分自身に欠けている何か大事なものがあると感じていた。
そしてそれを見い出せるのは外側の何かではなく、自身の内面を探求する事が必要だとも直感的に感じていて、それを探求する為のシンプルなコツの様な事をいつか知る事があるのでは? という予感も漠然とながら感じていた。
そして出会ったのがTMという訳でした。
受講したTMを日々、実習し始めて感じた事は「これと同じ様な事は幼少の頃から無意識にやっていた」という思いでした。
というのは、幼児期より授乳の癖が取れず、それは、無意識に舌を丸める様に上顎側へ付け、舌先をチュウチュウと吸うという行為でした。
外からその様子を見ると、口元を小さくピクピクと動かすカワイイ癖と見られていて、
「あんた、いくつになっても御乳(オチチ)吸う時の癖が取れへんなぁ」と母からよく笑われておりました。
その癖というのは、空腹時やリラックスして落ち着いた時や寝てる最中等に無意識にやっていた事でしたが、それが組織から伝授されたマントラとピッタリ一致するというか、(言葉そのものではなく)、出処が全く同じであり、マントラ=癖とも言えるものでありました。
ですから私にとってのマントラ(癖)とは唱えるものではなく無意識のうちに『100%自発的に内奥より湧いてくるもの』であり、私にとってマントラ=TMテクニックとは、単に無意識にしていたその行為(癖)こそ、内面探求の鍵となる事を理解する為のキッカケに過ぎなかったとも言えます。
因みに今は、マントラ(癖)が出て来なくても、座って目を閉じただけで、至福体験と共に内面に確固たる不動の核を認識出来るものであり、日常生活と瞑想時の隔たりがなくなり、その核と言えるものは、常の私の意識そのものとも言えます。
18 :
神も仏も名無しさん:2009/01/01(木) 13:10:35 ID:KCq5i6kW
心の波立ちを止め、今のみ、風の冷たさや音、只それのみ。
1-1000という
ここに書かれている妄想の終焉
20 :
神も仏も名無しさん:2009/01/02(金) 18:26:35 ID:zIeCaDRB
一度迷妄に迷うなら、たった三種類の色が混ざって何万色にもなるように。
知る者は言わず。
言う者は知らず。
22 :
神も仏も名無しさん:2009/01/11(日) 16:05:05 ID:VB6Qb++j
オウムが何十年人真似をして喋っても、結局人にはなれないのです。
賢者は修行のみです。
迷妄に囚われる人はブッダのスッタニパータとダンマパダだけ読んでればいいのですよ。
世俗を上手に生きる知恵がシンプルに書かれてある。
24 :
神も仏も名無しさん:2009/01/27(火) 03:52:12 ID:fH2BlBJ5
宗教とか神と言った言葉すら知らない未開の地でも
隣人を自分のように愛し、全人類の幸福を願えて、何時いかなるときもサマーディの意識にいられるなら
まさにそれが悟りであり、預言者であり、神の化身でもある。
様々な宗教の教義も不二一元論もその境地に至るための効率の良い方法論に過ぎない。
元々地球上には生物なんていなかったし、当然宗教も無かった、サマーディの意識が実に生物の進化の究極でもあるからだ。
そのように広い視野で考えれば生きるのが宗教であり真理でもある。
戦争で戦死した人たちも仲間と助け合い厳しい規律の生活から学んだことは輪廻しても魂に刻まれている。
むしろ多くの経典を読みながらまったく実践しないのなら、愚かといえるだろう。
人の想いは時として風や光と戯れる。
吹き抜けるようにどこまでも広がり、どこまでも自由だ。
実在のように永遠のように思える理解しあえない夜空の星々も
うっすらと空の白さに負けて消えて無くなってゆく。それは、遠くから離れて観るならば、ひどくむなしいこと
誰でもアートマンとして内在されている神性
愛情、良心に従って行動するのなら、それが宗教であり真理であるとも言える。
私のものと思っている五感さえ神の所有物であり、生きていることでしか味わえない感動や経験をするためにある。
喜び幸せなだけで、それは神に感謝するということ
神に至るには多くの道がある。神は不完全な我々を完全に導く。
さざ波が静かに消えていくように、傷付いた痛みも溶け込み忘れ去られる。
凡人と同じ言葉で語るにしても聖者はサマーディの意識で語る。
死んでみないと死後の世界はわからないは覚者に関しては別。
人の本質は自他がないハートのみ。何かのアイデアを現実の発明に変えるのが困難なようにハートの実践も等しく厳しい。
ハートを現実の世界にまで持ってこれたら世界は変る。今足る。カルマが消滅するのがサマーディ。瞬時に救われ輪廻の杞憂なんてない。
それは海からの風だったり、あるいは日差しだったり、人々のハートだったり。洒落たバラードそのものなのがサマーディ。
座ることでしか悟れないのなら子供も座って生まれてくる。見た目の行為ではなくハートこそ重要。
自分の命を粗末に扱うのは愚かだ。神の所有物は五感だけでなく思考や心、想念すら属性の影響を受けるのに
生きてサマーディの境地に到達するのが真の自由だ。
例えるなら宇宙の無重力はサマーディと言える。そこでは子供でも重たいものが持ち上げられるような明らかな変化が存在する。
ただしそこまで行き着くには相当に地道な努力こそ求められる。
全ては神の神聖奇跡。悟りを得るまでは神の栄光を思うこと。
親猫が子猫を慕うのは神性によるもの。人と等しく
何故、人は死が訪れたら真理を求めて拝むのだろうか?
死は属性、法則によるもの、人の人生でなくとも訪れる。
真の人間なら生きてサマーディの境地に到達して死を克服するのが人生であり囚われからの開放、釈迦の説く真理なのに。
実際、同じ死でも食卓の動物の死のほうがよほど尊く拝むに足る。
根本的に地球に住むのならどこまでも重力の影響はうけるように、
天の国、解脱、ニルバーナ、サマーディ等、神に至る道は様々だがそこに至れば法則外で重力の影響は受けない。
だが世俗そこに留まるかぎり一つの細胞が何万と増えるように、三色の色が何万となるように、一つの種が何千となるように、日が昇りまた沈むように
迷妄に翻弄されいつまでも同じことを繰り返すことになるのだろう。
昔からよく生まれつきな性格による黄昏るというか妄想壁があった。
だからこのようなサマーディの体験がどうだとか、まったく他人には参考にならないのかも知れない
だが思いつきでも何かを書いてれば何かのヒントになるのかも知れない。
お経の説く意味はともかく志すハートはよほど浜崎あゆみのほうがサマーディに近いと感じる。
そういった愛の想いを世界中に広げるのが実に真理であり宗教であるとも言える。
全ては神の神聖奇跡。一切の全ては神の所有物。
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みに会わせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
個人的に主の祈りは傑作だと思いますね。
神の完全さは人間には理解できない。全ては神の神聖奇跡。一切の全ては神の所有物。
すべてのものは神のくりひろげる芝居。神のみわざを賛美せよ。
神は不完全な我々を完全へと導く。神のおかげで心と感覚を制御する機会が与えられている。全ては神の栄光のあらわれ。
魂は永遠。全ては神の神聖奇跡。一切の全ては神の所有物。
夜であろうと昼であろうと万物は神のみ。
神から離れるほど一つのものが何千にも何万にも感じられる迷妄に落ちる。全ては神のみ
息を吸うのも吐くのも神のみ。全ては神の神聖奇跡。
一切は神の栄光。天にも地にも神の栄光が降り注ぐ。虫けらにも人々にも等しく神の栄光は降り注ぐ。
雲が風に流され刻一刻と形を変えてゆくのも神の栄光。それらを観て感動に心揺れ動かされるのも神の栄光。大地がもたらす日ごとの糧も神の栄光。
夢のなかであろうと目を覚ましていようと全ては神のみ。一切の全ては神の神聖奇跡。
わたしのものなどどこにもない一切の全ては神の所有物。全ては神の栄光のあらわれ。
神を忘れる者には幻力が覆いかぶさる。神を忘れる無かれ。
魂は永遠。全ては神の神聖奇跡。一切の全ては神の所有物。神の偉大さに感謝。
多様に感じる世界も悟ればアートマンとブラフマンのみ。全ては神の栄光と神聖奇跡。
太陽も月も地球も神の所有物。綺麗に円を描くのは神の神秘。一切は神の栄光であり戯れ。
サマーディも綺麗に円を描き広がる。そこには宗教を超えた事実しかない。全ては神の所有物。
宇宙であろうと天であろうと地上であろうと一切は神聖奇跡のみ。そしてクリシュナもイエスもアッラーも等しく神。
しずくが水面に落ちると綺麗に円を描いて溶け込んでいく。どれだけの量の知識よりもその境地が勝る。
魂、ハートに刻むこと。神の至福を体感すること。
知識、心、感情でない。それくらい自我を捨てる心を滅するのは難しく価値があること。
夜空の星も神の所有物。昼間の暖かさも神の栄光。風を感じるならそこに神が在る。
夢の中でも目覚めているときでも神と離れないように、この世を真実とせず肉体を真実とせず。
一切は神の神聖奇跡。夢の中でも目が覚めていても神の栄光から離れず迷うことがないように。
知識、心、思考、感情ではない属性に囚われない意識を集中して研ぎ澄ますこと、魂に刻むこと。
寝ていても目覚めていても、この世を真実とせず、肉体を真実とせず、神から離れず神の栄光を忘れないこと。
夢の中でも目覚めているときでも神と離れないように、この世を真実とせず肉体を真実とせず。
夢の中でも目が覚めていても神の栄光から離れず迷うことがないように。全ては神の所有物。一切は神の神聖奇跡。
わたしのものなどなく一切は神の所有物であり神聖奇跡であり全ては神の栄光のあらわれであります。
夢の中にいても目が覚めているときも、この世を真実とせず、肉体を真の自分とせず
夢の中にいても目が覚めているときも、神の栄光を思い出して迷妄に落ちることがありませんように。
世間の常識と本当の真理とは、まったく違いそのことを忘れないこと。
自我の働きは、もの凄く根強く、度々、自分自分の迷妄に落ちる、そのことを忘れないこと。
わたしのものなど、どこにもなく一切は神の所有物であり神聖奇跡、神の栄光のあらわれであります。
夢の中にいても目が覚めているときも、この世を真とせず、肉体を真とせず、私、私の利己心に囚われませんように
夢の中にいても目が覚めているときも、神の栄光を忘れ心が迷うことがありませんように。
肉体を超えた属性に囚われない神の意識に導かれますように、どうか安全に生死の輪廻を渡らしてください。
わたしのものなど どこにもなく、この世の全ては神の所有物であり、神聖奇跡、神の栄光のあらわれであります。
目覚めているときも、夢の中にいるときも、この世を真とせず、肉体を真とせず、私、私の利己心に囚われ迷いませんように。
目覚めているときも、夢の中にいるときも、神の栄光を忘れて心彷徨うことがありませんように。
どうか肉体を超え属性を超えた神の永遠なる愛の意識によって安全に生死の輪廻を渡らせてください。
神よ。今日一日無事に過せたことを感謝いたします。全人類に平和が訪れますように
私のものなど どこにもなく、この世の全ては私の体を含め神の所有物であり、神聖奇跡、神の栄光のあらわれであります。
目覚めているときも、夢の中にいるときも、この世を真とせず、肉体を真とせず、
私、私の利己心に囚われ迷いませんように。神の栄光を忘れて心彷徨うことがありませんように。
どうか肉体を超え属性を超えた神の永遠無限なる愛の意識によって、
全ての雫が渇きの輪廻から、神の意識、大海へと渡り通すことができますように。
平和の祈り
主よ、わたしを平和の道具とさせてください。
わたしに もたらさせてください……
憎しみのあるところに愛を、
罪のあるところに赦しを、
争いのあるところに一致を、
誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところには喜びを。
ああ、主よ、わたしに求めさせてください……
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け、
自分を忘れてこそ、自分を見いだし、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に復活するからです。
今日も良き一日でありますように、雲から青空が覗くような希望のある一日でありますように。神に感謝。
どうか子猫を舐める母猫の中にも神の信愛を感じられるようになれますように。誤りのあるところに真理を。神に感謝。
神様。今日も良き一日でありますように,目覚めているときも、夢の中に居るときも、誘惑に陥らせず悪からお救いください。
天地の創造主である神様。どうか今日一日平和で過せますように。わたしだけでなく世界中にも平和をお与えください。
憎しみのあるところに愛を、罪のあるところに赦しを、
争いのあるところに一致を、誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、悲しみのあるところには喜びを。
天地の創造主である神様。光のなかに、涼しい風の中に、わたしたちの満たされない心が神の導きの力で癒されますように。
この世の全ては神の所有物であり、神聖奇跡、神の栄光のあらわれであります。
目覚めているときも、夢の中にいるときも、この世を真とせず、肉体を真とせず、
私、私の利己心に囚われ迷いませんように。どのような時でも神の栄光を忘れて心彷徨うことがありませんように。
どうか人のように不完全な言葉でなく、欲や執着のない暖かい日差しや涼しい風で真理の意義を教えてくださる神の愛によって、
肉体を真とする愚かな我々が私、私の自我の迷妄から解き放たれますように
今すぐ瞬時に人を救いへと導く神の偉大なる御力により、乾きの輪廻に彷徨う全ての雫が
神の愛の大海に満たされ潤わされますように。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし
わたしの願いどおりでなく、御心のままに」 マタイ 26、39
本日も平安の内に過せたのは神様のおかげです。特に今日は心地よい一日でした。
神に感謝。
一切は神の神聖奇跡。全ては神の栄光のあらわれ。
父なる神様、どうかわたしのどのような欠点もお許し下さい。あなたの愛のお力を私にお与え下さい。
全ては神様の神聖奇跡であり所有物です。本日も天気が素晴らしく良い一日をありがとうございます。
天地の創造主である神様。人々は無知による迷妄に覆われ彷徨っています。どうか霧が晴れ正しい真理に導かれますように。
疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、闇のあるところに光を、悲しみのあるところには喜びを。神様に感謝。
憎しみのあるところに愛を、
罪のあるところに赦しを、
争いのあるところに一致を、
誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところには喜びを。
神に感謝。
万物の夜において、自己を制する聖者は目覚める。万物が目覚める時、それは見つつある聖者の夜である。
海が水に流れ込む時、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが
彼は寂静に達する。欲望を求める者はそれに達しない。
すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。
アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。
臨終の時においても、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。
(バガヴァッド・ギーター 岩波文庫)
御心のままにおこなわれますように、神に感謝。
わたしの願いどおりでなく、御心のままに。神に感謝
もはや祈ることさえ私には必要では無いのかもしれませんけど、今少し祈らせてください。
全てはわたしの願いどおりでなく、御心のままにおこなわれますように、神に感謝。
「私のさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、
思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。
ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。
……だからわたくしが理法(教え)を説いたとしても、
もしも他の人々がわたくしのいうことを理解してくれなければ、
私には疲労が残るだけだ。わたくしには憂慮があるだけだ」と。(パーリ律蔵、マハーヴァッガ、I.5、中村元訳)
自己を制御することは、実に難しいものである。
自己こそ自己の主である。
いかなる主がほかにあろうか。
自己のよく制御されたとき、人は得難い主を得たのである。
法句経
父なる神様、どうかわたしのどのような欠点もお許し下さい。あなたの愛のお力を私にお与え下さい。
773
欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。
他人が解脱させてくれるのではないからである。
かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)
欲望または過去の欲望を貪る。
774
かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、
(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、
「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。
スッタニパータ〜ブッダのことば〜岩波文庫
虚空のように「一切に」遍満する私には、飢えも渇きもなく、憂いも迷妄もなく
老衰も死もない。身体をもたないから。
虚空のような、無身の境地が、充分に研究された聖典と推論にしたがって述べられた。
もし人が、「私の」「私」というこの観念をすっかり捨てて、この境地に対して確信をもつにいたれば、解脱する。
ウパデーシャ・サーハスリー 岩波文庫
103 :
神も仏も名無しさん:2009/03/17(火) 12:20:00 ID:QDGHxCqx
「私のさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、
思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。
ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。
……だからわたくしが理法(教え)を説いたとしても、
もしも他の人々がわたくしのいうことを理解してくれなければ、
私には疲労が残るだけだ。わたくしには憂慮があるだけだ」と。
困苦してわたしに得られたところのものを、
どうして今説いて「理解させる」ことができようか。
貪欲や怒りに負けた人々に、この真理は容易にさとり難い。
これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で、見難く、微細であって、
欲を貪り、暗闇に覆われた人々は、 見るをえないのだ。
マハーヴァッガより
77 イエスは言われた。”私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである
。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。木を割りなさい。私は
そこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出
すであろう”
トマスによる福音書
私よりも高いものは他に何もない。アルジュナよ。
この全世界は私につながれている。宝玉の群が糸につながれるように。
私は水における味である。私は月と太陽における光である。
すべてのヴェーダにおける聖音(オーム)である。空における音、人間における雄々しさである。
バガヴァッド・ギーター
保守あげ
サマディは法則、重力や空気と変らない普遍の法則
欲、執着のない善人であれば、誰にでもサマディは訪れる
実は生きてるだけでも宗教、万教同根
ただ意識だけが存在する 「真我として在りなさい」 ラマナ・マハルシ
もし主が内にも外にもいますことが悟られたなら、なんで苦行の必要があろう ラーマ・クリシュナ
いかなる執着もなく、ただ真我の中だけにとどまった純粋な存在状態、それが静寂である。
その静寂として、永遠に、あるがままに在ること、それが真理である―ラマナ・マハルシ
丸い地球のどこの上空にも無重力は均等に拡がっているように、有神論、無神論、宗教さえ問わず
欲や執着のない愛に満ちたとびっきりの善人なら、誰にでも訪れる それが普遍の法則サマディ
シュリ・ラーマクリシュナは、「至福が、甘い、生命を与える甘露水があふれるように!」
という言葉をきくやいなや、深いサマーディに没入しておしまいになった。
彼はそこに、両手の指を組み合わせ、まっすぐに、顔を東の方にむけてすわっていらっしゃった、
美の大海 至福そのものなる母 のなかに深く沈んで。外界意識はまったくない!
呼吸はほとんど止まっていた。手も足も、動く気配はまったくない。
絵に描かれた姿のように、そこにすわっていらっしゃる!
この国を、この感覚の世界を去ってどこかに行っておしまいになったのだ!
(ラーマクリシュナの福音)
マタイ8:23
イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
どのような方法でもいい、宇宙に飛び出したら、認めまいと信じまいと個人の意思と関係なく無重力を体感できる
同じようにエゴのない愛そのものになりさえすれば!
それだけで大いなる意識と一体となり海上を吹き抜ける風のように自由になれる
それが普遍の法則サマディ
サマディに在れば、札束も金塊も公衆トイレのタイルも全てが等しく
リゾート地の風景と太陽系の端の宇宙空間、どちらが虚構でどちらが真実かとの違いもない、身体が無いから
世界に充満する「エゴのない愛そのもの」として私は在る
普遍の法則だから存在を疑う必要もなく、大いなる意識と等しく「エゴのない愛そのもの」として私はただ在ればよい
毛虫の立場に心底慣れてしまって
確信してまったく疑わずに、繭を作り美しい蝶のように自由に飛びたてることを考えないで
毛虫の生活をいかに快適に過すかに終始する
何回も輪廻して地道に生きて、何かの才能あって性格良い人とか前世からの積み重ねとかそんなの、その集大成がサマディ
サマーディはサヴィカルパとニルヴィカルパの二種があります。
サヴィカルパにおいては、知る者、知ること、知られる者、この三つの性質がなお残存しています。
知る者はブラフマン、知ることもブラフマン、知られる事物もまたブラフマンであることを実感認識するならば
そのときヴィカルパ< 波立ちと活動>はもはやありません。
それがニルヴィカルパサマーディです。
サマーディは、それに向かっていっさいのサーダナ<霊性修行>が流れ込む大洋といえましょう。
ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラナヤマ、プラティヤハラ、ダラナ、デイヤナの
七つの流れは、ニルヴィカルパサマーディをもって究極とします。
名とすがたは大海に流れ込んで痕跡をとどめません。奉仕する者と奉仕を受ける者
瞑想する者と瞑想の対象である者、そのような二元はすべて吹き散らされ滅ぼされます。
経験しているという観念さえ経験しません。かれには自分が経験しているとの自覚がありません。
自分自身があるのみ、他のなにものも存在しない。それがサマーディです。
何か他のものがあるならば、サマーディとはいえず、それは夢、空想のようなもの、
せいぜいよく言っても過ぎゆくヴィジョンです。サマーディはブラフマン以外のなにものも認めません。
御名の響き ジャパムと瞑想 N・カスツーリ著
サマディに在れば、自分の生命を信じるだけで究極の有神論者
「エゴの無い、慈悲そのもの」「私はあるがままに在る」それぞ不滅の意識
いかなる執着もなく、ただ真我の中だけにとどまった純粋な存在状態、それが静寂である。
その静寂として、永遠に、あるがままに在ること、それが真理である―ラマナ・マハルシ
あるとき、タークハド夫人がシルディのある家に滞在していました。
昼食の支度が出来、料理が皿に盛り付けられた時、野良犬が入ってきて吠え立てました。
タークハド夫人はすぐ立ってパンを投げてやりました。
すると犬はよろこんでパンをひとのみに食べました。
午後、夫人が回教寺院へ行き座っていますと遠くに座っていられたババが彼女にこう言われました。
「お母さん、おまえがいっぱい食べさせてくれたお陰で、飢えていたわしのプラーナ(生命力)が元気になったよ。
いつもあのように振舞いなさい。そうすればおまえは困ることはない。
この回教寺院に座っているわしの言が真実を語らないことはない。いつもあのようにわしをいたわってほしい。
まず飢えたものに食を与え、それから自分が食べなさい」。夫人ははじめババが何を言っていられるか解りませんでした。
そこで彼女は答えて言いました。「ババ、わたくしがどうしてあなたさまに食事を差し上げられるでしょう。わたし自身
他の人のお陰で食物を得ることが出来、お金を払って食物を買っているのです」。ババは言われました。
「あの美味いパンを食べてわしはすっかり満足している。食事のまえに犬が来たのを見てお前が与えたパン、
あれをわしが食べたのだ。つまり諸々の生物(猫、ブタ、牝牛)はみんなわしなのだ。
わしはそれら動物の姿をして歩き廻っている。すべての生物の中にわしを見る者をわしは愛する。
だから二元論、自他の区別の意識を捨て、今日おまえがしたようにわしに仕えなさい」。
蜜のように甘いこの言葉に彼女は心を打たれ、眼に涙を浮かべたまま、大きなよろこびでいっぱいになりました。
「サイ・サッチャリータ」より
宗教書は、基本的にサマディにない我々が相手なので、大衆の次元まで真理を下降せざるを得ないから道が別々になる
サマディに在れば、イエスも例えによらず、釈迦も無記で通す必要もなくなるはず、ハートで理解しているから宗教書はいらない
子供の善良さを見てればわかるが「エゴのない愛」から来た者が「エゴのない愛」に、元居たところに帰ればよいだけ
現世に囚われてはならない
何気ない犬にパンをあげるとかの行動に嘘偽りのない輪廻の積み重ねがある
その集大成がサマディ
神に対する見返りや結果を求めない「エゴのない善」であれ
現在のように忙しく落ち着かない世の中では、バクティ・ヨーガこそ最適な道らしい
タンスに小指をぶっけて不機嫌になるのと、心に波立ちがない平安にあるのとでは
天地ほど違う、どれだけの量の知識よりもその境地が勝る
私は罪深いとか
選ばれた者しか悟れないとか考えるのは障害になるらしいから、そのような想念は破棄なのですね
サマディにとどまれれば、それが一番だけど、そうでないなら師の言葉はなにより大切
129 :
神も仏も名無しさん:2009/05/31(日) 22:54:36 ID:T99sy1pS
阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕
警視庁防犯課
二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
今足ることなく、動き回る想念こそ不幸
灯に何回でも突進していく虫のように
癒しや奇跡ですら二元のヘビナワから生じている、サマディこそ究極
地球も中心こそ、もっとも大切だが、奇をてらったようなものは何も無いはず
サマディも等しく、赤ちゃんのように覚醒した「今在る」が地球の中心
ことさら天使が迎えに来たり、世紀末に神に選ばれたりは別に起こらない、サマディは意識として「今も在る」から
思考とか心とか余分なものを取っていくだけ、深い愛や結びつきを育むだけ
欲や執着に依存すると、私は肉体だと確信する
「エゴの無い愛そのもの」となると、身体がない不二一元の境地が私となる
近くを見るか、遠くを見るか、両方はハッキリ見えないのと同じように
自分自身があるのみ、他のなにものも存在しない。それがサマーディです。
何か他のものがあるならば、サマーディとはいえず、それは夢、空想のようなもの、
せいぜいよく言っても過ぎゆくヴィジョンです。サマーディはブラフマン以外のなにものも認めません。
サヴィカルパサマーディなら、一時的で永久でないためボランティアや戦争や仕事
我を忘れたエゴのない状態に偶然でもいい至れば誰でも万人に起こりうる、生きるのが宗教の境地だが
ニルヴィカルパサマーディに関しては
アジアのどこか辺鄙な山奥にでも生まれてインドの霊性で修行を完成させる選ばれた者にしか至れない特別な恵まれた境地だろう
まさに神の御心のままにだ
例えばイエスや釈迦のような特別な存在であれば
格闘技を見て興奮したり、賭博にのめりこんだりとか生まれはどうあれ影響されたりしない
特別な魂の持ち主であろうと思う
濁った生暖かい川を好む魚は綺麗な冷たい川は冷たすぎて逆に居心地は悪かったりするから難しいところだ
好んで住んでおきながら濁りに文句を言うような愚かなところは正直私にも誰にでもあるのかも知れない
土曜日の夜は奇声を上げたり酔っ払いとか、どこにでもいるものだが
本当にやりたいことをやって開放された心地よさも感じる、街中に漂う私は嫌いではない想いだ
サマディも同じように、釈迦も苦行だけでは駄目だと中道を説いたように
好んでやりたいことをやって「エゴのない愛そのもの」に自然にとどまらなければ駄目な境地なのだろうとは感じる
難しいところだ
イージーな救いではない極端に走ってはいけない
輪廻において魂は地道に完成される
波の数は永遠だ、夜の静寂も平安そのもののように
あせってはいけない、蟻のように着実に
今足ることなく、動き回る想念こそ不幸
灯に何回でも突進していく虫のように
そうした想いが人を輪廻に導くわけだが、
それを、私もあなたも自ら喜び楽しんでいるわけだから実に難しいところだ
なにやらマハーサマーディというものがあって、そう善人でなくても悟った人でなくても
神の恩恵さえあれば解脱できるらしいが、その線引きはよくわからない
好きなことをやってるのに「エゴのない愛そのもの」に至れるのは
ミュージシャンとかがそうだろう
そういったうっとりした理想境を思い描くロマンチストが
お金を騙し取られても他人から馬鹿にされたとしても人を信じたい想いのほうが強く
現実に打ち勝てるならそれはたいしたものだろう
イエスはその最たる特別な存在だったと思う
神とひとつになった後も、それより更に上の他人のカルマまで癒せるほどに
「エゴのない愛そのもの」になって人を憐れまれた
人生をよりよく知れば、身内との戦争であっても結果を恐れずになすべき行為を果たせと説く
神の化身クリシュナのほうが実は奇跡よりも癒しよりも最高の教えなんだけど
神の化身クリシュナの説いてることは、世界全体のことを神視点で説いてるから
教えの本質が理解されずに誤解されやすいのかも知れないけど
説得を重ねた上での避けて通れない戦争だったから、その上で永遠不滅のアートマンは外界に左右されない
結果を恐れずになすべき行為を果たせ心は平安にあれと説いたわけだから、生きてたらそのようなことはある
奇跡や癒しは人を迷わすし、カルマも実は学びだからクリシュナの説いた真理は実に深い、
イエスは後世のことまで考えたらやりすぎたのかも知れないのかなって
イエスの教えを実践出来てるような人格者ならいいけど、
万人には悟りのステージが高すぎるように思える
釈迦も基本的に出家者のみに説いたのだろうし、騒がしい現代に生きながらも
神の化身クリシュナの世俗にありながらも世俗に汚されなく生きよと説く教えこそ
実に深い万人に説いた真理
バガヴァット・ギーターは神の意思が働いて現在まで残っているようにさえ感じる
英知を知ってて、正しい師の言葉が聞けるなら別だけど、奇跡や神通力は唯物主義にならない程度で充分
マハリシによれば、エゴさえ捨てれば動物でも悟れるらしい
なら毎日殺されている豚や牛が悟りを得ているというのだろうか?答えは否だろう
イエスも博愛主義で甘いように見えて、その生涯は壮絶だった、使徒もほとんど殉教したくらいだ
釈迦は出家した修行者なので当然厳しい
クリシュナは万人に教えを説いているだけあってイエスや釈迦ほどではないがやはりそれなりに厳しい
やはり少々お祈りしたくらいで悟りを得れるほどには甘くはないようだ
エゴさえ捨てれば動物でも悟れる
難しくなくていい、要は個我意識を捨てればいいだけ、それだけのこと
ラマナ・マハルシとか近年にもイエスや釈迦レベルの覚者はいるから、
2千年以上も前の書物に拘る必要はないわけだけど、20億もいるクリスチャンとか仏教徒とか何故それが見抜けないのか
不思議に感じる
実際、イエスの奇跡や聖書は難解すぎて、それらを理解するには人類の霊的成熟度は低すぎる気がするのだが、、
聖書のイエスの言葉は相当な悟りのステージの高さを感じさせる
イエスの言葉を実践することは並大抵な覚悟では無理だろうから
ラマナ・マハルシは虎が行き来する洞窟で平然と瞑想してたらしい、本物中の本物
何十億人に1人の逸材、釈迦やイエスと等しい大聖者
私も奇跡や神通で大変悩まされてた時期があった、それがラマナ・マハルシの本を読んで本当に救われた
それくらい肉体を私だとする確信を振り払うのは難しい、自我の幻は大変に根強い
インドにはラマナ・マハルシ以外にも大聖者はいつの時代にも居ると思うが
まずラマナ・マハルシの本の場合はQ&A方式で質問者の質問内容がとにかくよい、
答える内容も万人に説いておらず真剣な求道者を真我にシンプルに導くのみにとどまっているのが実に良い
サイババ=クリシュナの言葉も凄く参考になるが、いかんせん悟りのステージが高すぎるのと
基本的に万人に説いていると思うので、私は真我のみに興味があったのでラマナ・マハルシのほうが参考になった
自己を制御することは、実に難しいものである。
自己こそ自己の主である。
いかなる主がほかにあろうか。
自己のよく制御されたとき、人は得難い主を得たのである。
法句経
自己を制御することは、実に難しいものである。
自己こそ自己の主である。
いかなる主がほかにあろうか。
意識が別々なのは大変に深いように思える
動物の肉は美味しいが痛みはわからないのが普通だから
例えば、ビルゲイツやアインシュタインにためになるアドバイスをされてもピンとこないのとかそうだろう
釈迦やイエスに直接アドバイスされてもそうだろう
事実、聖書にはイエスの言葉に呆れて多くの弟子が去っていったとさえある
現在20億もの信徒がいるキリスト教の創始者の言葉さえそうだったのだから
賢者の言葉が染み渡るほど共感できるように自己を高める以外にない
自己のよく制御されたとき、人は得難い主を得たのである。
この言葉は
悟りの境地を表しているように思える
まさにこの境地にあれば、人は得難い主を得たのであろう
そもそもサマディとは世界そのものであるから、夏の暑さであり、秋の切なさであり、冬の冷たさであり、生命であり
人や動物の意識の違いさえ生死さえ超越したものであるから、少々本の知識を手に入れて悟れるような安っぽいものではないわけで
本気のハートでなければならない
現実の重さに打ち勝たなければ悟れないから、一歩一歩、あるくしかない
釈迦のような賢者が輪廻をするよと、動物に生まれ変わる恐れも、もしやあるかもしれないと
神通力を有して
例えるなら二人で草原に居たとして、視力のとても良い人がライオンが来ていると忠告しても、見えなければ他人事のように緊張感はない
なぜなら意識は別々だから、残念だけど救えない場合もある
憐れみから伝えても、残念だけど伝わらなくって救えない場合もある
宗教板のことではないけど、他人事のように緊張感はないから仕方がないのだろう
余裕すら感じられるくらいに
イエスから去った多くの弟子やイエスを非難したファリサイ派は、
多数派で私たちのほうが圧倒的に正しいと確信しきってたのだろうし
一羽の鳥が、自ら私は人から見たただの一羽の鳥であると理解できるには
鳥の意識が人の身体に宿ってしばらく生活して、鳥を指差して自分も
昔はああだったのだと気付くくらい、そういった個我意識の確信は実に頑固で固い
シャンカラや釈迦が我々と同じく身体に依存した境地から物事を説いているのだと
思い込んでるなら理解できるわけがないから、議論のくり返しになるだけだし
そういった内在された事柄や自我意識の迷いを振り切るのは実に困難だといえる
アートマンと感覚器官の結びつきとか、
夢の中でも夢と気付き迷わない偉大な釈迦やシャンカラの境地に至ってから初めて語れること
迷う想いが人を転生へと導くから
鳥や野生の動物は真剣に今を生きているから見下せない
緊張感のない幻想がないから
サマディにある悟りを得た人は、実際鳥と人以上に意識に大きな違いがある
それだけの偉大な意識にありながら、何故人類に全てを話してくれないのかと思うかも知れないが
エゴを捨てることで人になれる、人になれたならイエスのように例えによらず全てを伝えるとこういったことなのだろう
このことは自分の能力に自信のある学識ある者とかのほうが
イエスを否定したファリサイ派や律法学者のように認めたがらないのかも知れない
だからこそマハルシやクリシュナのような偉大な解脱した意識が光臨してきて
民衆を導くその偉業に人々はもっと感謝しなければならないとおもうのだが
不幸な事があると、何故私だけがと感じたり、病や老いや死や何故何故となるが
我々の居る世界はけっして天国でも涅槃でもないから、不幸なことが起こるのはあたりまえだとも言える
そういった内在された事柄や自我意識の迷いを振り切るのは実に困難だといえる
本当に救われたいならサマディに真我意識に在るしかないのだが
いくら賢かろうと能力があろうと鳥のままでは人間の生活の真髄は理解できるわけがない
本当に全てを知りたいのなら、鳥のままでの知識だけにこだわらず
エゴを捨てて個我意識から脱っして鳥から人に生まれ変わってそれから人間の生活を学ぶべきだ
クリシュナやイエスの本当の姿から見たら、世俗の我々など庭の蟻の巣の働き蟻みたいなものだ
いや、もしかしてまだ働き蟻のほうが我執なく行動しているかもしれない
オバマ大統領や億万長者のビルゲイツですら女王蟻のような存在でしかない
それだけの偉大な存在でありながらも、
世俗の人々を導くためにクリシュナもイエスも誰よりも低みに立ち捨離の思いで
偉大な力も自らのためには何一つ使わず行動した
イエスも釈迦も、まずはエゴを捨てて、捨てて捨てて、もしも捨てきったなら
世に勝ったなら、もはや例えによらず
アートマン否定とか釈迦は無神論者だったとか
無駄な議論の答えもそのときに全てを伝えると、そういった道理なのだろう
悟りを開いたサマディに在る人は、鈍性などの属性に囚われないから眠気などなく覚醒していて
頭の回転も速いが、普通の意識に在る我々はエゴを捨てるならエゴを捨てると何かに心定めたほうがよいと思われるが
マハルシはおそらくこのあたりも考慮して思いやって真理を説いているから本当に偉大な聖者だ
オバマ大統領は世に勝ってはいないけど立派だ、たいしたものだ
ヨハネ福音書の16、33「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしは既に世に勝っている」とはおそらくサマディのことを言っているのだろう
サマディにないと同じ機械を動かす電流が別々に感じられる2元のヘビナワに迷う
世俗にぞくする私は身体であるとする確信にあるか、イエスと釈迦の教えや至った境地が実は等しいと感じられるか
それらに迷うのとかもそうだし、その意識の違いはあらゆることに現れるのでハッキリしている
サマディに無いと人はみんな狂ってるとまでは言わないが、まずはサマディを知らないと話は始まらない
特に宗教的な事とかは、そのさじ加減が難しいように感じられる
至高体験に拘るのは危険だとよく言われるが、それでもサマディを知らないと話は始まらない
地図を見ないでも迷わないセンスみたいなものだからだ
自分の身体のように世界との一体感をハッキリと感じられないなら夢か幻想だから
そこまでの強烈な変化を感じられないなら、まずサマディではないだろう
イエスのことを知らないと言ったペトロは怖かったのだろうが、それは実に死に時だった
裏切るべきではなかった
生きていたらいずれ遅かれ早かれ死んでいく、死んだ後どうなるのかとか
そういった混乱や迷いの答えがサマディにはあるから
サマディに無いと人はみんな狂ってるとまではさすがに言わないが、まずはサマディを知らないと話は始まらない
プランクトンのころからの二元は根強い
視覚が発達し真実のように感じられるビルや道路も本当は幻
自分の身体のようにビルや道路がひとつに感じられるなら世に勝っている
ビルや道路が別に感じられるのならこの世の住人
机もパソコンも無機質に身体とは別々に感じられるなら悟ってもいないし世にも勝ってはいない
それは実にハッキリしている、神の御心のままにその境地は訪れる
道路もビルディングも机もパソコンも無機質で
身体とは別々に感じられるなら、この世の住人だからエゴを無くすべし!
道路もビルディングも机もパソコンも無機質で
身体とは別々に感じられるなら、熟睡してるときのように想念無くすべし!
知識豊富な宗教者だろうと、類稀な富豪だろうと、
机もパソコンも無機質で身体とは別々に感じられるなら、悟ってはいないし世にも勝ってはいないから
この世の常識や法則に従って生きていかなければならない
それは実にハッキリしている
アスファルトが冷たく、他人もよそよそしく、鉄柱が無機質に
身体とは別に重く感じられて、風も冷たい、そのように世界が感じられるならば
間違いなく悟っていない、それは確かなこと
眠っている間の夢のなかで夢と気付かず彷徨うなら、間違いなく悟っていない、それは確かなこと
悟っていないなら、この世の住人、猿より少々マシなだけだ
熟睡してるときのように想念無くすべし!エゴを無くすべし!
マハルシのような聖者が>186みたいな具体的なことを言わないのはおそらく理由がある
悟っていないならエゴを無くすのみだから
だから悟りを得た聖者は多くを語らないし、最低限度のことしか語らない
悟りを得たなら、改めてサルで無くなったなら、
初めて話を始めよう、全てを語ろうとそういった道理だろう
不二一元の意識を体感出来なければ世俗を断ったとは正確には言わないわけだけど
食あたりを起こした小鳥に餌を運ぶ母鳥のような愚かさは非難するべきではなく
奇跡や神通力を見て一を聞いて十を知るような有能さや悟りを開いたものでなくても、例え二元のヘビナワに
一生を終始したとしてもそれが精一杯生きた結果なのだから、
失敗したとしてもお互いを許しあえるような器の大きさは欲しいところだ
いじめられて困った、体が生まれつき弱いとかは
そもそもお金さえあれば働かなくてもいいのと同じ発想で
悟りさえ開けば生まれてきてさえ居ないから、最初からそのような苦労さえない
不二一元の意識を体感出来なければ世俗を断ったとは正確には言わないわけだけど
世俗の荒波に揉まれまくって成功しているビルゲイツやオバマ大統領は下手な出家者より悟りに近いのかもなあ
何回生まれ変わっても上手に器用に生きそうな天性を感じるから
世俗を生きるのが辛い負け犬にこそ悟りは最高の救済措置なのだが
不二一元の意識を体感出来なければ世俗を断ったとは正確には言わないわけだけど
宗教知識のみで終始するような人生なら、宝くじを買ってもいないのに
当たればこれをしてあれをしてと妄想して一生を終えるようなものと、もしや似てるのかも知れないな
不二一元の意識を体感出来なければ世俗を断ったとは正確には言わないわけだけど
イエスのような博愛主義やあの世のルールは悟りを実感できて初めてそれが現実のものとなるわけで
出来もしない理想論ばかりでは仕方がないからバガヴァッド・ギーターのクリシュナのほうが人間というものを
よく理解して真理を説いているそんな気はする
マハルシのような偉大な聖者の教えを学校の道徳の授業で教えるような
そんな時代に はやくなればいいのに、今のように新興宗教や霊能者の沢山の本に紛れてポツンとあるだけじゃなくて
マハルシのような聖者の言葉の重要性をもっと人々が気付いてありがたがるようなそんな時代が
それが何万年後のことか、それともその頃には人類がどうなってるのか
凄く遠くの未来に生まれ変わっても現代のように容易に情報が入手できるかどうかわからないから
梵我一如までいけばクリシュナやイエスがどれだけ遠い存在か逆に気付く
空海のような時代でないマハルシのような本物の書が簡単に手に入る現代に感謝
ラマナ・マハルシは偉大な選手タイプでなく
偉大なコーチタイプだと思う
教えを授かるなら、真似出来ない選手タイプよりもそちらのほうがよっぽどいい
ぜひイエスや釈迦のように何千年後も後世に教えを残して欲しい
ラマナ・マハルシは偉大すぎる
一円もお金を持たずに暮らすとか、半端が無いそれだけで相当な苦行だと思うけど
年中を通して裸でいたり、ラマナ・マハルシはまったく凄い
シルディ・サイババはそのうえ、寝るときも気を許さずに、
板を吊るして寝返りすると落ちる修行までしてたとか
肉体意識のエゴを無くすことの人生の深い意味を生き様で教えている
現代にもイエスや釈迦は姿は違えど存在する
悟ったラマナ・マハルシでも、それだけ厳しい苦行をしているのに
きっと人は肉を食べて美味しさはわかるが動物の痛みがわからないのと同じく
いつまでも死なないし、適当に生きていても天国行けたり来世幸せになれるような
幻想でリアリティがないのだろう
正直ネット上で動物に転生を導かれるような悪カルマの幻影を感じたことがある
だからこそ本当の真理を説くことに意味がある
昔のことだが成仏していない霊の想いを感じたことがある
あまりに緊張感のある研ぎ澄まされた想いだった
あとで調べたら有名な幽霊の出るところで何年も前に殺された人らしい
あの想いは、変な言葉だが生きている人間以上に生きていた
その時は怖かったが、生きている人からあそこまでの緊張感を感じたことは一回も無いから
凄く印象に残った
サマディを知っている視点から見たら、ある意味あれこそ人間なのだとも思える
成仏するのはおそらく楽な方向だから、その流れに逆らっているのは凄い精神力だと
あの意識の力を暗いところを好まず光を求めるような方向性ならば良かったろうに、よほど無念だったのだろう
ともかく人の本質は身体ではなく生も死も超えた想いだ
聖書にもあるようにイエスと共に惨めに死んでいくとしても、あの世で笑って絆を確かめ合う
そのような光を求める想いであれば
鎖に繋がれた犬であろうと、生きていない幽霊であろうと、
サマディの視点から見たら、生きている人以上に真理を教えてくれる仲間だ
悟りを得たラマナ・マハルシでも、厳しい行をしていたのに
悟っていない普通の人間が当たり前の快適な生活をしてて
よいわけがないとは思える
幽霊も幻影も真我からみたら所詮は2元、サマディこそ究極
客体と主体の二元が在る時点ですでに迷妄はある
たとえ天使が現れようと、病気が奇跡的に治って枕元に菩薩が立とうとも、二元の無い真我こそ究極だ
身体を私と思わない、この世を真実と思わない
生も死も無い真我意識こそ究極
いくら悟ったって暑いものは暑い、痛いものは痛い。
なんだここは。一人芝居の舞台か?
梵我一如で全て終わり、よかったよかったでは話は済まないんだがあ。
梵我一如で全て終わります、よかったよかったなのですよ
ラマナ・マハルシいわく真我こそ最高の奇跡であり神通力なのです
客体と主体の無い梵我一如から見たら地球レベルの天変地異ですら宇宙から見たと同じ小さな物事なのです
ただエゴの在る者ほど自我に迷うので不二一元は理解しにくくなっています
そこが単純だけど難解
輪廻しなくてよい至福それだけで充分なはずなのに
おまけに宝箱が転がっていた、入ってるものは、せいぜい宝石や金の装飾品だろうと開けてみて驚く
なんと宇宙の銀河が入っていた、それが梵我一如、人の想像を大きく超えた境地なのです
>いくら悟ったって暑いものは暑い、痛いものは痛い
悟れば、身体そのものが髪の毛や爪のように世界のごくごく小さな一部分のようになります
どうでもいい消耗品なので病や老いに朽ちても囚われなくなる
梵我一如、悟りは健康な人が病気で見えなくなったり聞こえなくなる以上に
ハッキリしてるから、それを信じるとか信じないとかも関係がない
生きてて、そこまでの変化を感じたことがないなら、それを追い求めても仕方が無いので
地道に個我意識、エゴを無くしていくしかないのかも
>>212 どうでもいいと精神的に思えるのと、肉体的苦痛がどうしても付きまとうのは別でしょ。
気温50度の場所にいて梵我一如だから構わないと言ったって、肉体はそのままだと破壊されるから涼しいところに移動せよという悲鳴を脳に言い続けよ。それを無視したら死ぬだけ。どんなに梵我一如だからと言ったって、体とは関係無い。
そのまま死んでも構わないのかもしれないけど、肉体という乗物に乗り続けるならば、その間は乗物のコンディション維持に気を配るのは当然でしょう。
暑いものは暑いし、痛いものは痛い。刃物が刺さったらすぐ抜かないと。刃物も他では無いとか言ってたら出血多量で死ぬだけだ。刃物という異物を肉体から取り去らねばならないという二元論はその意味では真実なんだから、梵我一如とか言ってる場合じゃないでしょう。
215 :
神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 08:15:44 ID:Q25tqp31
まさか、映画マトリックスのようにこの世は幻だと分かったら、刺されても死なないとか言い出すわけじゃないよね?
どんなに幻だろうが刺されて出血多量になったら死ぬというのはこの幻想社会のルールなんだから、悟ったところでそのルールを書き換えることは出来ない。
梵我一如が完全に分かったら壁もすり抜けられる、空も飛べる、刺されても死なないとか言い出すのなら、もう勝手にしてくれ。
>>214 そもそも梵我一如の前提が間違ってます
身体を真実とするから苦しむのが二元の世俗の意識なのです
梵我一如の不二一元の意識では生も死も存在しないのです、
身体が朽ちても意識はいぜんとして存在するのですから
そこまでして生き続ける意味もありませんし、むしろ身体という牢獄から開放されるのですね
>>214 もちろん肉体的苦痛や暑さや刃物で刺されたら致命傷を負うかもしれませんが、常人のそれとは違い
世界の一部分としての髪や爪のダメージのように悟りを得た人は痛みから離れています
他にも刺されても何ともない死なない等の奇跡もありえますけど、梵我一如や奇跡も個人の体験こそ重要なので
それを実感できない共感できないうちは残念ながら万人に共通する真理ではなくて、ただの妄想でしかないですね
つまりは身体が朽ちても魂は死なないのが事実だとしても常人は実際に死んでみないとわからない
だけど信じようと信じまいと現実は変らないとこういったわけです
梵我一如や奇跡も同様に山の頂に実際登って確かめてみるまでは知りえない
個人の体験こそ凄く重要になるのです
219 :
神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 12:17:03 ID:QqYUHXWA
>>216 上のレベルから見れば身体なんか真実じゃないというのはわかる。
わかるどころか、俺自身がその境地に達した事があるので、体験として真理であることは理解してる。
だけどさ、その境地からこの現象世界に返ってくると、痛いものは痛いわけ。
夏は暑くて寝苦しいの。
瞑想やって梵我一如状態にあるとなんも感じないんだけど、そのままじゃ点滴でも挿しっぱなしにしない限り肉体は死んじゃうしね。
精神的にはそのまま死んでもいいのかもしれないけど。
精神は梵我一如を体得しうるし、そのレベルで見れば肉体なんてゴミのようだよ。確かにね。
だけど、この肉体は悲しいことにこの現象世界のルールに捕らわれてる。精神のように自由には羽ばたけない。
その肉体が暑い、痛いと言う信号を精神に送ってくる以上、それを無視するわけにはいかないのよ。
220 :
神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 12:23:23 ID:QqYUHXWA
つまり、肉体がどんなに虚構の幻であっても、その次元にいる以上そこのルールに従わざるを得ない。
それが精神と肉体の大きな違いなのさ。
心頭滅却して火を涼しく感じたって肉体は燃えてしまう。いくら涼しいと言ったって肉体的にはやせ我慢でしかない。
そんな我慢は真理を体得しなくたってトレーニングでどうにでも出来る。
あの世界に完全に身を放下しきるなら構わないが、どういう理由であってもこの現象世界で生き続けることを選ぶなら、これはどうしようもないことなんだよ。
体の感覚と精神を切り離し感受を自由にするなんてのは、梵我一如という体験を通して得られる成果ではあっても、この世界において暑さや痛さを無くなったわけではない。それはこの世界の中に限って、今も現に存在し続けている。
>>219 それはラマナ・マハルシのような完全に解脱した梵我一如ではないようですね
そこまで悟りきれば痛みや暑さも苦にならないはずですから、
とはいえ、もちろん私もそこまでではないのですから机上の空論
それを最高の悟りを実感できない間はただの妄想でしかありませんけど
222 :
神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 12:33:39 ID:QqYUHXWA
>>221 ラマナ・マハルシは暑くても汗をかかなかったのかな?
刺されたことはないだろうけど、刺されても痛みを感じなかったと仮定できる?
精神が苦と感受しないことと、肉体が苦という信号を発している以上対応しないといけないというのは別の話だよ。
それに心というのは脳だけにあるわけではなく、全身にくまなく広がってる。
いわゆる自我意識を形成する魂だけでなく、細胞一つ一つすべてに。
この現象世界で生きるために、暑さや痛みを苦と感じるようなシステム形成がなされている。
それが機能不全を起こすと、この世界から退場を迫られる。
迫られたって精神的にはまったく構わないんだが、曲がりなりにもこの世界で生を続けようとするなら、それを苦と感じるシステムの存在と真理は別に考えないと。
223 :
神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 12:38:20 ID:QqYUHXWA
一度あの世界を体験すると、この世のあらゆるものが幻覚だとよくわかる。
すべてがひとつなのもね。
だけど、早々に退場するのではなく当面はこの世で生きることを選んだ以上、この世界のルールに従うのがマナーってものだ。
痛いものは痛いと捉え、病院にいく。
精神ではどうだっていいのにと思うけど、肉体が悲鳴を上げてるならケアしてあげるのがやさしさだよ。
暑さなんか妄想だといってクーラーもかけないのはただのバカ。
乗ってる車が調子悪かったら直しにいくようなもんだ。普段からメンテナンスも欠かさない。ラジエーターが悲鳴を上げてるならちゃんと水を上げよう。
それが、ほんの一時でも乗ることになった乗り物への礼儀ってものさ。
>>222 ラマナ・マハルシは釈迦よりも悟りを得るのに苦労を要しなかったと言われるような何十億に1人の特別ですから、
普通ではなかったと
もちろん普通の我々のような感覚の持ち主は痛いと感じるなら、それが全て
現在の悟りのレベルをその痛みが象徴しているのだとも思います、無理は当然しないほうが良いし、痛いのに痛く無いと言い張る意味もありませんね
225 :
神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 12:56:51 ID:QqYUHXWA
>>224 こうなると本人に確認するしかないけど、もう亡くなってるしなぁ。
俺自身の体験としては梵我一如を体験しようがしまいが、悟りの境地がどこにあろうが、
この現象世界では暑いものは暑い、痛いものは痛いから、幻覚と分かっていても痛いと言わざるをえないし、
逆に涼しい顔を出来る人がいたとしても、悟りの成果なのかトレーニングの賜物なのかは外から見たら分からないし。
>>225 いやいや、梵我一如や悟りの境地をもっと信じても良いと思いますよ
絶するような痛みから離れた者やそれこそイエスのように死んでも生き返るような
そのような不可能を可能にするような人生の答えが梵我一如や悟りに
奇跡に走るのではなく信じられないと、真理を追い求める熱意が希薄になるような気がしますから、
いったん死んでから生き返った、蘇生した伝説を持つ聖者はイエスだけではありませんよ
シャンカラ・チャリアや特に近年の聖者シルディ・サイババとかも似たような逸話はありますから、他にも体の感覚をコントロールできる
ヨガ修行者は心臓の動きさえ止めたり、呼吸の回数を少なくして無酸素状態でもある程度平気だったりするらしいです
実際、私自身死んだ人間が生き返ったのは流石に見たことはありませんけど、聖書に出てくるような奇跡は身の回りで起こったことがありましたし
自らの梵我一如の体験からも痛みや暑さは常人のそこまでではないラマナ・マハルシの言葉通りそのままの体験でしたから、
それはもちろん信じられますね
死んだ人間が生き返ったわけではないですけど、霊現象の
気配や誰も居ないのに人の声が聞こえる、夢に出てくる等ならかなりの経験がありますしね
なんだ、死は終わりでも何でもないんだってのはその経験からわかりましたけど
梵我一如とは自我を無くすこと、
奇跡や体験の考察など遠回りにしかならない
そのような議論で沸き立つ想念がエゴそのものだからだ
自分の世界観や思想が絶対正しいと思い込み主張するのが自我
寝てる熟睡してるときは心が無いのでそのような疑問や主張すら起こらないのが自我が無い状態
自分という意識が所詮二元の幻想なんだと気付くのが梵我一如
何故と問う疑問の想念すら無くさないと悟れないらしい
ラマナ・マハルシいわく
最終的には、何故と問う疑問の想念すら無くさないと悟れないらしい
グルと真我意識は究極には等しくなる
それが梵我一如
釈迦のアーナンダに言い残した自灯明・法灯明はそのような意味で伝えたのだろうと思う
釈迦を神格化しつつも究極的には客体と主体の二元は離れないとならない
健康であるとか、お金持ちであるとか、生まれ持ったカルマこそ神の意思で
一気に不幸を何とかしたいから、奇跡にしがみつくのかもしれないが
鉄が金に変ろうと、死んだ人間が生き返ろうと、どのような奇跡が起こったにせよ
身体を私とする限り二元の不完全さに終始する
梵我一如こそ最高の奇跡、本当に不幸をどうにかしたいなら悟るべき
肉体レベルを脱して一元にとどまる釈迦やラマナの地道な悟りを説かずイージーな奇跡に走るのは回り道だ
>>233 釈迦は無我論であって梵我一如じゃないだろ
>>234 自己を肉体を制するだけでは釈迦の神通力はありえません
原始仏教でもブラフマン=梵我一如思想は否定していないらしいです
原始仏教も前世とかカルマとか
ヨハネ福音書もよく読めば梵我一如の重要さを弟子に説いていたり、ある程度の霊性がないと
それらは理解できない難解さだけど、ラマナ・マハルシやラーマクリシュナの不二一元論を理解できる霊性があれば
自らの体験と照らしあわせて全ての真理は一つだとの釈迦の言葉がそこで理解できるとは思える
ラマナ・マハルシの本には
不二一元の境地、すなわち梵我一如では世界、神、真我は等しいとかサラッと書いてあるけど
世界で一握りのある程度の悟りを得た人しか理解できない凄く難解なことを言ってるとは感じる
梵我一如は昔の人間のほうが理解しやすかったのかも知れない
現代の人も、もちろん昔の人と同じく自覚はあろうと無かろうと命は賭けている、ネット上にも来世に動物に生まれ変わる人も居ると思うし
くだらないお喋りや無駄に時間を潰している我々も何時かは老いや死は誰でも訪れるし、生まれ変わりもする
根拠の無い余裕なんて本来は無いのだけど
現代のほうが昔に比べて生きるのが楽だから、釈迦やイエスの教えが現実に直結しない、本の知識のみで終わる
梵我一如まで行ききれないギリギリの命まで超えるハートが育まれにくいのかも知れないな
ラマナ・マハルシの本には世界、神、真我は等しいとかサラッと書いてあるけど
この意味がもし現実に直結するならば、それが梵我一如
本の知識のみでは絶対に超えられない一線だ、人生とは命まるごと賭けたゲームかも知れない
カルマ
悟れないなら善い行い
カルマは大きい
生まれつき金持ちだとか健康だとか凄く大きい
高学歴の親は統計でも経済力があるらしい
そう考えたら医師でボランティアとかしてる人は最上だろう
宗教してるとかしてないとかより、天性で身に付いたものはそれだけ大きい
悟りはカルマを超えているが、これも中々険しい
厳しい行をしている坊さんのなかでも、そうそう悟ったなんて聞かない
そりゃそうだ
夢見や起きてるとかを超越した、生きながら死を超えた境地なんて並大抵ではない
釈迦やシャンカラとかそれだけ半端ではないと言うこと
とにかく少々薬を飲んでラリッて悟ったとか
祈ると大金が手に入って病気も全快なんて、そうそう起こらないということ
地道に行くしかない
梵我一如はコップの重さが地球上なら、どこに行っても
そんなに変ることがないと言っているような普遍の真理、現実のことを言っています
釈迦やイエスの真理が梵我一如とまったく違うように感じてる間は、ようするに頭の知識のみで
現実に反映されてはいません
どのような道であれ山の頂に登るなら全体が見えてきます、結局は一つの真理しかありませんね
悟るためには地道な忍耐と努力こそが一番の近道
シャンカラの本が一番鋭さを感じる、弟子のレベルも高かったのだろう
まさしく覚者の言葉だ、例えを使ったり伝承で教えもボケていない
ただラマナ・マハルシもそうだが、欲を捨てるとかでも食後のケーキを我慢するとか
そのような甘いものではなく、文無しでもお金を求める想念を捨てるとか、そのレベル
世界、神、真我は等しいとかもサラッと不二一元の悟りの境地から説いているので
ただの言葉とは違うのに注意しないといけないとは思える
世俗は実感だけど、わりと地獄に近いのではないのかと思える時がある
動物に転生を導かれる悪カルマや自殺の名所の成仏していない想いや
見てきたそれらは、テレビや普通の人との温度差があったから
思うに農業ひとつでも数えられないくらいの人の命を左右している
人間は賢いから生活が便利になり、本来の立ち位置がわからなくなって楽勝ムードの幻想のなかに居るのかも知れない
今現在、紛争地帯の貧民層が来世に幸せに
鎖に繋がれた犬が、来世に幸せに
そして我々は現状より悪くなる
それでも仕方が無い、私が神でもそうするかもしれない
それくらいで無いと、人は変れないから
不二一元の境地は三界を超える
何も心配することは無い、本気の祈りやハートがあれば誰でも瞬時に救われるから
それくらい幸福は願うべきだ
シャンカラやラマナ・マハルシの言葉は、例えるならサラリーマンが一生をかけて頑張って払った家のローンを
金持ちがポケットマネーで簡単に支払うくらいの言葉にレベルの差があるので、そこは注意して読まないといけない
なにしろ日本の高僧が苦労して得た一瞬の悟りのなかに何時も在るくらい、レベルがそれぐらい違う化身だから
思うに万人に共通の真理なんて無くて、教えを正確に後世に残すのなんて物理的に無理
リアルタイムで目の前の弟子の長所や短所に合わせてのアドバイスがベストに決まっている
病院だって、お金の貸し借りだって誰でも、相手に合わせてそうする
釈迦もイエスもそれくらいお見通しに決まっているし、シャンカラやラマナ・マハルシが本物と見抜けないなら
仮に釈迦やイエスと同時代に生きていても本物と見抜けないのではないのかとか多少思ってしまうが
前世のカルマや仏縁があるので、よくわからないと言うか何とも言えないw
他人を変えようと思うくらいなら、まずは自分が変ろうとは思う
心地いい風のように今足り、平安の中に無いと
それが悟りだから、外の世界に追い求めるものでもない
イライラしても仕方がないね
原初の音、オーム、オーーーーーム
ただ、黄昏の平安、今在る、今足る
梵我一如まで体験したのなら、心をあれこれ彷徨わせることはない
答えは自分の内にあるのだから
潮風の匂い、海辺の街に風が運んでくる
風が運んでくるから、自他無く混じればどこまでも広がる
虚空のように「一切に」遍満する私には、飢えも渇きもなく、憂いも迷妄もなく
老衰も死もない。身体をもたないから。
覚者の意識は属性を超えた不二一元に在る、
レベルが違いすぎるから共感が出来ずに言葉がハートに届かないことは間々ある
レベルの違いをじっくり反芻して現実に反映させ、じっくり落ち着いて言葉を飲み込まないと理解は困難だろう
ラマナ・マハルシの言葉だけど「私は身体である」と思い込むのが不幸の原因、この言葉は大変に大変に深い
仮に解っていたとしても人は度々迷うからだ
ラーマクリシュナも似たようなことは言っています
「この時代には、われわれにくっついている自分は肉体であるという確信を捨てることはほとんど不可能である・・・・
肉体のこれらの必然性の支配を受けながら哲学者を自称する人は、トゲのある植物に刺されて激しい痛みに苦しみながら
苦しくないと言い張る人のようなものだ」
それだけ人にとって、真我と身体を同一視することをやめることは困難であって深い意味がある話なのですね
今日はヨハネ福音書をパラパラと読んでみた
さすがの神意識にあるイエスもアートマンやブラフマン、真我とかの確立された言葉がないユダヤ教文化では梵我一如思想の
表現の仕方も弟子に対しての伝え方も他にはなかったのだろうなとは感じた
それを考えたらシャンカラのあのレベルの会話が成り立つインドの霊性文化も弟子のレベルもまったく凄いとしか言いようがない
シャンカラが師を訊ねたときに、師の「汝は誰か」との問いに、「我は地にあらず、水にあらず、火にあらず、風にあらず、空にあらず
唯一の普遍のシヴァなり」と答えたと言う
いきなり弟子のレベルじゃなく悟っているやないかいと、しかもこれが千年以上前の話
アートマン,ブラフマン、真我、2元の意識でヘビを縄と間違える、マーヤ
これらの言葉は不二一元の境地でのみ本質を理解しえる。
世間では美味しい肉を食べたと、それのみが常識だが、決して殺された動物の痛みが語られることはない
それくらい他者の意識は理解されないものなのだ。
一匹の鳥が人と目があっても、鳥は私より偉大な意識がそこにありえるなど気付きはしない。
そのように偉大な師の言葉も、二元のエゴのフィルターを通して解釈している限りは真の理解が得られることはないと思われる。
エゴの無い不二一元の境地なら、実に星の重力のように均等で平等に
宗教の違いなどないのだが。
どこまでも均等に拡がり、不変であり、不老であり、清浄であり、不二であり、絶対者であり、解脱しており
虚空が一切のものの中にあるように、私は、実に、その虚空の中にすら存在している。
そのような境地に覚者はあるのだから、より低い感覚意識の状態ではエゴによって絶対性は隠されるわけです。
エゴ、自我が無いのなら、世界は平等な法則性のみ
中毒性のあるモルヒネも疾患があれば強力な鎮痛剤になります。
奇跡や神通力も同じく科学で解明されて無いだけのただの法則
良いことがあって天使が現れるなら幽霊ではない、不幸の呪いなら悪
老いや病気を悪とするのも善とするのもエゴしだい
梵我一如も宗教によって、様々な呼び方に変り、自我によって囚われ、様々に世界は変化する。
不二一元の境地以外では、不完全な感覚器官の2元に囚われるのも神の定めた法則でしかない。
水に雫が落ちると波紋が広がる、二つの波紋が交わるなら言葉はいらない、お互いの気持がわかる交わり
更に雫が大海に交わり等しくなるなら、それが梵我一如。
エゴのために、意識が身体に宿るために
起こるゴタゴタ、幸、不幸、それは神の定めた法則だから、法則は全てに対して平等だから、仕方が無いな。
エゴさえ無くせば、地球から離れるほど重力の影響を受けないように、自由になり救われるから。
悟るとは、宗教によって呼び名は違っていても同じ法則を指しているのだろう。
科学とかで割り切れるものではないから、主観みたいになるが
法則に逆らっても仕方が無い。
生きていたら、世界に対して上手に器用に進化するように出来ている。
意識が内側に向こうと、外界ばかりを重要視しようと、、いずれは悟りに到達する
真に自由なのは真我のみだから。
法則やカルマからも、真に自由なのは真我意識のみ
tst
d
271 :
神も仏も名無しさん:2009/10/16(金) 11:19:14 ID:Q5AN1hO0
ブッダ
ラマナ・マハルシの教えを何千年もの後世に残せないとしたら、本当にもったいないなと思う。
ここまで神秘主義やオカルト要素を排除して純粋に真我、ヨーガを説いた聖者は今後もなかなか現れないだろうから
ただ見地が高すぎて、発する言葉に共感できないところもあるけど、そこはラーマ・クリシュナの教えも併用して
ヴェーダーンタ哲学を学べば完全になると思う。
ラマナ・マハルシとラーマ・クリシュナはヴェーダーンタ哲学の二大巨匠
ラマナ・マハルシは、30分くらい信者と目と目が合ってるのに
意識がどこかいってる、起きながらも熟睡してると言うか
瞑想中は想念が消えうせてる表情の無さだったという。
(喋ってるときは想念があったらしいが)
周囲の信者は、平安の空気に包まれたらしい。
「秘められたインド」での記述読んだら、ラマナ・マハルシは,
信者と目があっても、彼方を見ている、ピクリとも動かないトランスで
軽く二時間経てたらしいから、瞑想にも集中力を持たなければならない。
それ以前にも、16で家を出た後に何年も山で、髪は伸びっぱなし、爪はカールするくらい
瞑想に没頭していたらしい。
なんか、三昧が悟りの境地だと勘違いしてる人ばっかりのスレですね
釈迦が出てきたとき真っ先にやったことは梵我一如の否定で
アートマンなんて存在しないってことは空観、縁起の思想によってはっきりしてる
それで「仏教すげえ!」ってことになったのに
なぜ釈迦以前の遅れた思想に戻るのか・・・
三昧による快楽にとらわれずに、あるがままをヴィパッサナー瞑想で観察し
それで悟りに至りましょうっていうのが本来の釈迦のオリジナルの仏教だと思うよ
無我、空観、縁起は仏教の初歩の初歩
私は身体であるとの確信が無明の根本にあります。
その確信を振り払うには、サマーディ(三昧体験)が必ず必要になりますね。
279 :
神も仏も名無しさん:2009/12/27(日) 10:39:03 ID:ncvFU8se
age
>>276-277 ブッダのおっしゃったことは否定でもないんですよ。
よく理解すればわかると思いますが、逆に非常に偏ってますよ、あなた。
じゃあ解説してください
282 :
神も仏も名無しさん:2010/01/16(土) 13:28:51 ID:pKt2CDfv
>>277 でも仏教の悟りは梵我一如だ、と説明している
サイトもありますけど。
ウパデーシャ・サーハスリー
シャンカラ著、岩波文庫は
覚者が真我意識を、そのままに表現した貴重な書
T 韻文篇 第13章 十九
虚空が一切のものの中にあるように、「私は、実に、その虚空の中にすら存在している。」
私は不変であり、不動であり、清浄である。不老であり、解脱しており、「つねに不二である。」
虚空のように「一切に」遍満する私には、飢えも渇きもなく、憂いも迷妄もなく
老衰も死もない。身体をもたないから。
身体をもたないから。
黄砂が渇いた風に乗って、異国に辿りつくように、我々も何れは自由に風の中に消えうせる。
まったく自由に
身体を持たず、実に何気ない
日差しの中に私は存在している。
77 イエスは言われた。”私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである
。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。木を割りなさい。私は
そこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出
すであろう”
トマスによる福音書
千の風になって
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
あの大きな空を
吹きわたっています
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
ヨハネによる福音書
291 :
初心者ですが:2010/02/01(月) 01:17:39 ID:o98ooq7C
神との対話を読んでも 啓かれず
神の使者を読んでも 啓かれず
不死というあなたの現実を読んでも 啓かれず
ACIMのテキストを読んでワークブックを実践しても 啓かれず
新聞の土曜版で初めて知った千の風になってで泣いても 啓かれず
ニサルガダッタ・マハラジを読んでスレも立ててみたが 啓かれず
ラマナ・マハルシを紹介され熟読し毎夜瞑想を試みるが 啓かれず
クリシュナムルティを少し読んでも 啓かれず
中村元氏訳スッタニパータを読んでも 啓かれず
いつまでも初心者のままで途方に暮れている… そんなとき
ふとこのスレをみてシャンカラの原典が岩波文庫で読めることを
初めて知りました。これも何かの縁かと思い、さっそく通販で発注しました
また言葉の洪水に溺れるだけに終るかもしれませんが、とりあえず
ウパデーシャ・サーハスリーという書の存在を紹介してくれた
>>283-290 に感謝
わたしと父とは一つである。
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。
あなたがたのところに戻って来る。
しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。
わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
かの日には、わたしが父の内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
ヨハネによる福音書
九三七
世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。
わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを
見つけなかった。
九三八
(生きとし生きるものは)終極においては偉逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。
またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。
ブッダのことば スッタニパータ 中村 元訳 岩波文庫
八八四
真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。
かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一のことを語らないのである。
ブッダのことば スッタニパータ 中村 元訳 岩波文庫
本当の真我(勝義の立場)を見なさい、そうすれば身体とのこの混同は消えていくでしょう。あなたは永遠です。
ラマナ・マハルシ
虚空のように「一切に」遍満する私には、飢えも渇きもなく、憂いも迷妄もなく
老衰も死もない。身体をもたないから。
韻文篇 第13章
ウパデーシャ・サーハスリー
シャンカラ著 岩波文庫
>>291 法律では信仰は自由なのだと定められているのですから
あれこれ語り合う要素は皆無なのだと感じます。
勝義の立場に求められるものは、そのような〈信仰〉などではなく〈共感〉がもっとも大切なのですから
そこには初心者も上級者もありません、ただ光を見てキラキラ眩しい
そのような、あるがままの素直な共感だけで良いのだと思います。
素直な共感こそ、ブッディとかダルマとか呼ばれている言葉では
無いでしょうか?
痛いのに痛くないとか、在るのか無いのか分からないのに、在ると言い張ったり
それらは良いことにはなりませんね。
心から素直に共感出来るなら良いのですが、理解できないなら無理に合わせる必要はありませんから、
本当に自然体のあるがままで良いのですね。それがカルマと呼ばれるもので
世界は人の想像以上に上手く出来ているものなのだと思いますけど
個人的にはそのように感じます。
50
他人の過失を見るな。
他人のしたこと、しないことを見るな。
ただ自分のしたこと(過失)、しないこと(怠惰)だけを見よ。
真理のことば ダンマパダ
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、
なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
マタイによる福音書 7、3
質問者 若干の人びとは、シャンカラは一知識人にすぎず、真我を実現していなかった、と言います。
マハルシ なぜシャンカラについて心配するのですか。あなた自身真我を実現しなさい。
他の人びとは自分で面倒を見ることができます。
不滅の意識 ラマナ・マハルシとの会話 ナチュラルスピリット
自己を制御することは、実に難しいものである。
自己こそ自己の主である。
いかなる主がほかにあろうか。
自己のよく制御されたとき、人は得難い主を得たのである。
法句経
自己のよく制御されたとき、《人は得難い主》を得たのである。
二〇六
このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、
かれは(見る視力が無い)という以外の何だろう。
ブッダのことば スッタニパータ 中村 元訳 岩波文庫
756
見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、(名称と形態)(個体)に執着している。
「これこそ真理である」と考えている。
ブッダのことば スッタニパータ 中村 元訳 岩波文庫
雨にも、風にも
負けてもいい。
そのような我こそ、雨風とひとつになって、消え去れ。
勝義の境地とは、自分の身体や何十年も住んだ町は
隅から隅まで知り尽くしているといった思い込みと違い、例えるなら、これらが私は身体であるといった
世俗諦で、ヴェーダンタ、キリスト教、仏教を詳しく調べ学んだから、その道を極めたとか、あるいは釈迦やイエスと共に居た仲間だったから
勝義の境地であるとか、そのようなものでは無くて、自分の身体でも、何十年も住んだ町でも、DNAや電子の動き、粒子がどうとか
そんな細かいことを指摘されたら、まったく何のことやらわからず戸惑うように、そのような根本から視点の違うような境地のことであり、
それくらい、私は身体であるといった無明は大きい。
つまりは〈自己を制する〉のは、レース用の車をとことんまで乗りやすく、扱いやすくデチューンしたような
シンプルな教えであり、それらはけして勝義の境地ではない。
世間では美味しい肉を食べたと、それのみが常識だが、決して殺された動物の痛みが語られることはない
一匹の鳥が人と目があっても、鳥は私より偉大な意識がそこにありえるなど気付きはしない。
二元の意識よ、雨にも風にも負けてもいいから、非我なる我と共に、雨風とひとつになって、消え去れ。
理屈はともかく、宇宙に行けば
赤ちゃんでも浮くし、どれだけの金持ちでも悟りは買えません。
そのようなものです。
ヴァーサナー、生まれつきの気質、落ち着きの無さ
カルマ、知力。
他人の痛みが理解できるような人格者なら、覚者の言葉にも共感できる。
一匹の猫が車に撥ねられ、ほったらかし
それが、我々の日常
他人の痛みが共感できる、知力であれ、ヴァーサナーであれ、純質であれ
それらが備われば、聖者の言葉がハートに届く。
真我=勝義の境地から離れて、一が多になると
カルマ、ヴァーサナ、神に対する瞑想や清らかな食事、生活制限とか
必要最低限な真理の言葉だけでも、色々と複雑になっていく。
だからこそ、「真我実現」は究極のシンプルであり全てを集約している言葉だ。
真我の内にしっかり確立していること
つねに不二である。
冷たい雨、冷たい風
でも、自分は生きている、ここに生きている、そこにシャンカラの語った虚空がある。
それがリアルだ。
きっと今在る、今生きている。前世でも
似たような風景を、冷たい雨の虚空を二元の意識で見たのだろうか。
まるで真我のバーゲンセールだが、嘘はつけない。誰でも生きているし、それが痛みだ。
二元だろうが、何だろうが。
重たければ、重たいほど、心地よく、今を不思議と生きている実感がある。輪廻の言葉は安っぽいが、それが誰もの共通のリアルだ。
風の歌を聴け。きっと誰も彼もの痛みが聴こえるから
一生かかっても、見えない何かを、知らない風景を
イエス・キリストや釈迦は見ている。
一匹の鳥が人と目があっても、鳥は私より偉大な意識がそこにありえるなど気付きはしない。
そうだ、私が一匹の鳥なのかも知れない。
二元の意識であっても、冷たい雨や風こそ、今生きている私の仲間。
成仏できない、無残に殺された霊。
あの人たちは成仏できたのだろうか?
事故現場の「助けて」
あの声は、きっと、きっと忘れない。
一匹の猫が車に撥ねられ、ほったらかし
それが、我々の日常
わたしはきっと近い将来に、二元を終わりにする、今の人生ではないけれど、、、あなたがたの痛みは忘れない、忘れたくない。
世間では美味しい肉を食べたと、それのみが常識だが、決して殺された動物の痛みが語られることはない。痛みを共有するんだ。それが、それが人間の進化
真我を実現してないから、他人の痛みを癒せるまでいかない。
雨や風に負けてもいいから痛みを共有できたら、人類の進化、魂の進化
動き回る雲や風
二度とまったく同じ風景は見れない。二元でしか味わえない。
悪い夢であっても、何時か
お互いに笑って許しあえる。それが
冷たい雨、冷たい風
梵我一如はひとつの意識。
でも多の意識は深い、信号待ちでもイライラする人、信号のうつりかわりをのんびり見てる人
無邪気な子供、自らのエゴはそれらの多くの多であって、オリジナルでも何でもない。
カルマ、ヴァーサナ、二元である限り、それらの法則の範囲内であるから。
一匹の鳥が人と目があっても、鳥は私より偉大な意識がそこにありえるなど気付きはしない。
世間では美味しい肉を食べたと、それのみだが、決して殺された動物の痛みが語られることはない。
イエスはまことのぶどうの木、愛によって、濃厚芳醇な意識となって、イエスとつながる。
〈水滴がは波紋となってひとつとなるように、煙が風に吹かれて消えていくように。〉
たったの一週間で、聞いたこともない外国語を流暢に話す天才もいる。
多の意識、覚者の一言で全てを理解する偉大なる魂もある。イエスはまことのぶどうの木
イエスの愛につながるのも、そのような偉大な意識。
愛の深さ、濃厚芳醇な意識、本当の仲間なら、自らの命を捨てても裏切ったりなんかしない。それがぶどうの木
かの日には、わたしが父の内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
ヨハネによる福音書
冷たい雨、冷たい風、痛みを伴わなければ共感できない、何気ない日常。それが二元の友
優しい日差しの中に、過去の記憶を結びつけ、素晴らしい芸術にして表現する感受性も無いし、ランプの灯し方ひとつのことで神の意志を知る純質も知性も無い
そんな我々なのだから。
お互いに殴りあって、痛みを分かちあおう。 これからも、ずっと。
冷たい雨、冷たい風、痛みを伴わなければ実感できない。今、生きている。
お互いに時には殴りあって、痛みを分かちあおう。 これからも、ずっと。
前世が人間の
犬や猫がたたずんでいる。そんな繊細な想いや感受性は、我々の日常には関係が無い。
冷たい雨、冷たい風こそが友だ。時には殴り合い傷みをわかちあおう。
327 :
291:2010/03/07(日) 01:49:53 ID:vC3r/gwa
このスレの数々の言葉には、いつも本当に勇気づけられます
何か疑問に行き詰って、悩み始めたときに
このスレを覗くと、不思議とその時々の「答え」が
ちゃんと見つかったりする…
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ACIM (A Course In Miracles)
ワークブック 271番
What is the Christ?
Christ's is the vision I will use today.
-----
昨日も、この課題271番が、実際には何を意味しているのだろうか
と考え始めて、ここに来たら、
>>322 に、ちゃんとその解答らしき
言葉が挙げられていました
>わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる
教会の朗読とかで聞くだけなら、何とも思わず聞き流してしまいそうな
フレーズが、重大な意義を持って、心に染みとおってくる
…というのは大袈裟かもしれませんが、そんな力をスレから感じました
ありがとうございます
>>297-298 返信を忘れていました。共感を大切にするよう心がけます
328 :
神も仏も名無しさん:2010/03/07(日) 13:20:24 ID:7JlzB5WP
2chにも、すごいマハルシ・ラブな人がいるんですね。
独白が面白い。
あまり真面目に受け取らないでください。
ここは私の愚痴スレですから、言いたいことを2ch流に書きなぐるだけの、本気で真理を学びたいなら
シャンカラやラマナ・マハルシらの偉大な聖者の言葉から、直接にメッセージを受け取ってください。
シャンカラはコブラがカエルに対して、あぎとをひろげ、日陰を提供した光景を見て、〈鋭い知性〉で
偉大なる聖者が近くに住んでいるに違いないと勘付きました。
〈神や世界の本質について決める前に、あなた自身を知りなさい。)
あるがままに ラマナ・マハルシの教え ナチュラルスピリット
一匹の鳥が人と目があっても、鳥は私より偉大な意識がそこにありえるなど気付きはしない。
でも、本当に鳥の意識が理解できているのか?
一匹の鳥から逆に人を見たら、私はあなたがたのように、まだ訪れてない未来や終わった過去のことなど
くよくよしたりしやしない、よっぽど鳥のほうが「今」を生きているかも知れない。
何もわからない、何も知らない、汚れたアスファルトに降り注ぐ冷たい雨こそ友の、二元のくだらない妄想。
冷たい雨、前日の疲れがまだまだ身体に残ってるし、今日の寝起きは大変に辛かった。
イライラと早朝のラッシュアワー。
きっと誰もが、そんな時こそ
休日の安らぎを夢見るだろうけど、そんな辛い時に望む平安を忘れないで、それこそが自己の安らぎ。
午後の風が、憂いに満ちた人々の頬をかすめる。
あなたがたの意識は心地よいと、風は人々を誰にも気付かれずに勇気付ける。、それが、一切に遍満する私。
風の行方は、真夜中の海か空かわからない水平線に消えうせる。誰にも気付かれずに
イエスが三度も「わたしを愛しているか」といった言葉は、確かに、ひどく悲しい。
どうしようもなく、お互いがわかりあえない、冷たい雨そのもののような隔絶。
冷たい雨そのもののような意識の隔絶。別々の意識、それがどうしようもない現実の二元。
あなたは私のことなんて、何にも知らない。そして私もあなたがたのことは何もわからない。ただ雨はだけはひどく冷たかった、それだけはひどく共感できる。
「本当にあの日の雨は冷たかったな」と
ただ人々を勇気付ける、虚空のように一切に遍満する一元の風だけは、真夜中の海なのか空なのか
まったくわからない水平線の彼方に消えうせていく。誰にも気付かれずに。
イエスが(三度も)「わたしを愛しているか」といった。キリスト教では、何億もの信徒に聖人として尊敬を集めてる弟子に対して
そして道端で自動車に惨めに撥ねられて、ほったらかしの猫の死体は、人々の興味すら引かないことすら
それすら当たり前の我々の日常。
イエスが三度も「わたしを愛しているか」といった。わたしは誰の痛みもわからないし、何も知らない。それが冷たい二元の現実。
イエスは(三度も)「わたしを愛しているか」といった。
イエスの処刑も、ただの休日の見世物でしかなかった。
完全に結果的には見捨てて、怖かったのだろうが、なんであろうが、見世物として惨めに殺され、処刑された。
そのイエス・キリストが綺麗な淀みの無い瞳で、真っ直ぐに弟子を見つめながら
(三度も)「わたしを愛しているか」といった。
それが二元の日常、冷たい雨そのもののような意識の隔絶。誰のこともわからない、誰のことも知らない。
誰も知らない、誰のこともわからない。誰も知らない私が在るだけ
いや、そもそも本当の自分さえわからない。
夕日が虚しく沈むように、二元の人生が、暴れまわる非我なる我の太陽が、虚しく幕を閉じて地平線に消えてゆく。
振り返ればお互いに傷付けあってばかりだったけど、あの日の冷たい雨のことだけは互いに忘れない。
あの日の冷たい雨の記憶さえ、何時かは渇き、跡形さえ残らなくなる。
振り返れば互いに傷付けあってばかりだったけど、あの日の冷たい雨のことだけは互いに忘れない。
冷たい雨さえ、何時かは渇き、跡形さえ残らないのだから
許しあい、ひとつになる時はきっと訪れる。
無数の非我なる我の太陽が、無数の夜空のちっぽけな輝きのひとつと気付かず、暴れまわっている。
アルジャーノンのように、生きてる間に二つの意識に触れれたら
でも、きっと、子供時代の記憶は忘れていくように。
ぼやけた意識が、凄く集中して明晰になったとしても
悟ったら、その状態が当たり前になり、すぐにそれに慣れる。
そんな程度のものだ。
炎に触ったら熱い、そのことに「何故」は要らない。
今までだってそうだったし、きっと、これからも。
私が、私であるのに、私ではない。
成りたかった理想の私がここにいる。
住みたかった、理想の海のある安らぎの場所、ついに私は
その理想の場所を、安らぎの風景そのものとなって手に入れた。
私が、私であるのに、不思議なほどに私ではない私がいる。
午後の風が、憂いに満ちた人々の頬をかすめる。
あなたがたの意識は心地よいと、風は人々を誰にも気付かれずに勇気付ける。、それが、(虚空のように一切に遍満する私)。
風の行方は、真夜中の海か空かわからない水平線の彼方に消えうせる。誰にも気付かれずに
イエスの処刑も、ただの見世物でしかなかった。
哀しいほど意識は別々、心底に後悔しなければならない時にも、そんな瞬間にも他人事なのが
普通の二元のいつものありふれた光景。
イエスは(三度も)「わたしを愛しているか」といった。
何時の日か、その言葉が意味するものを理解でき
心底後悔する時が訪れるのは確かなのだが、今は哀しいほどに改心できない。
イエスの処刑も、ただの見世物でしかなかった。
哀しいほど意識は別々、心底に後悔しなければならない時にも、そんな瞬間にも他人事なのが
普通の二元のいつものありふれた光景。
別段に珍しくも何でもない、ありふれた日常。
そんな日常でも、日差しは優しかった。
あの日の日陽しは本当に優しかった。
風と日陽しだけはどのような日常も瞬間にでも優しかった。
光のコントラスト
いつもと変わらない風。どのような日常の傍にでも佇む友達。
光のコントラスト
何時もと変わらない風
(虚空のように一切に遍満する私)。
どのような日常にでも
絶望的な日々であっても、あなたはわたしであり、虚空のように一切に遍満する私。
私が、私であるのに、私ではない。
成りたかった理想の私がここにいる。
私が、私であるのに、不思議なほど私ではない私がいる。
どのような絶望的な日々であっても、どのような日常の傍にでも佇む
あなたはわたし。
光のコントラスト
いつもと変わらない風。どのような日常の傍にでも佇む。
どこに居ても、影響などされない
あなたはわたし。
何故なら
どこにでもある、何時もとまったく変わらない、風や光の中に私は佇むから。
恒常な光の中を通り抜け、春の息吹の妖精が
鳥や植物の命を育み、日常の幸や不幸に汚されず、ふわふわと踊っている。
どこに居ても、影響などされない
あなたはわたし。
恒常な光の中にさえ、鳥や植物の命の中にさえ、微細に常に変わらず存在する私。
あなたはわたしよ。
こんにちわ
それが、唯一不二なるアートマン。
清らかな、冷たい水のような広がり
あまりの清らかさに想念の淀みは消えうせていく。
その広がりと一つになるのが、わたしはあなた。
眩しすぎて、見れなくとも、光に包まれ
何時しか、ひとつになる。
ひとつになったと気付く我さえ、もう居ない。
ようこそ、わたしはあなた、こんにちわ。
真我から離れる程、精妙で複雑な世界が拡がっている。
知らず知らずのうちに迷い込む。
精妙で複雑な世界に、自らが、それ、そのものと同化して
迷い込むから、更に抜け出すのも困難。
〜自己の安らぎに学べ〜
真我から離れる程、「生と死というワニが出没する輪廻の大海」に
知らず知らずのうちに迷い込む。
これだけの複雑で、多であって、精妙で複雑で、あらゆる煩悩や想念の渦巻く世界から
逃れるには
「真我を実現しなさい。」との聖者の言葉
聖者の灯台無しでは、とてもとても、私はこの「生と死というワニが出没する輪廻の大海」を
安全に渡りきれそうにない。
私は身体であるといった確信が、ヴァーサナや激性が、体内に入り蝕むバクテリアのように
「生と死というワニが出没する輪廻の大海」に、不治の病に知らず知らずのうちに迷わせ、誘い込む。
それらが自分自身であるならば迷ったことすら、まるっきり気付けない。
聖者の灯台無しには、「生と死というワニが出没する輪廻の大海」を、無事に渡りきるのは困難。
私は身体であるといった確信である。
ヴァーサナや激性が、眠気である鈍性や劣った知性が、多種多様な煩悩が
それらが(自分自身であるならば)
迷ったことすら、まるっきり気付けない。
ああ、恐ろしい「生と死というワニが出没する輪廻の大海」
聖者の灯台無しでは、とてもとても
安全に渡りきれそうにない。
知れば、知るほどに
わかれば、わかるほどに、聖者の存在は大変に貴重である。
聖者の存在は大変に貴重
人々の知りたかった真理は確立され、答えは出た。
後は
どれだけ聖者の言葉を血肉に出切るかどうかは、個々の器による。
海の海水のような聖者の無限の知識を、どれだけすくい取れるかは、個々の器しだい。
フランチェスコや空海の時代では無いのだから、本物の聖者の言葉に触れて
血肉に出来ないなら、自らの器の小ささを問うべき。
何も感じられず、血肉に出来ないのなら、それは己が悪いのだから。
フランチェスコ、空海さんは偉大。
聖者の本にも翻訳者さんにも感謝しなければ
フランチェスコは、おそらく信仰の最初の頃は教会でしか
聖書に触れ合えなかったと思う。
マザーテレサは
そのフランチェスコの祈りの言葉を聞いただけで、大変に改心したらしい。
(自己こそ自己の主)法句経
釈迦も人々の病老苦を見て、大変に大変に、非常に胸を痛めたらしいが
何と言うか、わかる人だけがわかるような
そのような視点が世の中にはあるものなのかも知れない。