聖地■キリスト教談話室・予備■巡礼

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461やほよろづのかみたち-改_Version2.0 ◆0ryc.81s2s
いやあ、、ちょっと忙しくってすまんかった。。
ここまで反響が大きいとは正直思わんかった。すなわち、「中庸」と俺が(俺の主観で)ユダヤ教は東洋思想側だとした点。

まず、中庸だが、俺の感覚の中庸の定義っていうのは、実にシンプルで、「偏らず真ん中」って意味です。
俺が東洋思想と言ったとき、それは善とか悪とか、「すべての存在を認め」、「その存在を承認」した思想、哲学、宗教であることを前提とする。
ただ、俺のいう中庸とは、かなり古代中華文明の影響を受けていることに注意してもらいたい。易経とか、まぁ〜四書五経とか、諸子百家とか。これは俺の個性だ。

以上を踏まえて、俺の中庸の定義を書くとだね、、定義が無いのだよ。がっかりした?
俺の言う中庸は、真ん中という意味だが、「人類共通の普遍的な真ん中は存在しない」
なぜなら、、
●体質が違う。気質が違う。でしょ?その人の真ん中って100人いれば100通りだ。
●性別も違うわな?これ大きいよね。漢方の最古典である『黄帝内経』には、女は7の倍数で成長するとあるが、男については記述が無い。たぶん、女は生まれつき女だが、男は成長とともに男になっていくからだと思うだな。男は個人差はげしい。これは俺の意見だ。
●年齢が違う。10代の中庸と、20代の中庸と、30代の中庸は違う。いわんや80代をや(笑)。
●環境が違う。時代が違う。民族が違う。国家が違う。…人格障害の診断基準って、アメリカと日本で違うって知ってるかな?母集団の中庸点が違うから。東北大医学部で教わった。

まずここまでで、俺のいう中庸っていうのは、っていうか少なくとも中華文明(たぶんインドも)でいう中庸っていうのは、普遍的な中間点が各個人でまったく違う。

【つづく】
462やほよろづのかみたち-改_Version2.0 ◆0ryc.81s2s :2011/06/25(土) 01:06:45.06 ID:nB/yCsb0
>>461の続き】

さて、東洋では中庸思想を重んじる…と仮定した場合、確かに中庸思想がユダヤ教、仏教、道教、神社神道には見られると俺は思うわけ。
つまり、中華思想の言葉を借りれば、陰と陽の生体エネルギーのバランス制御。中医学(漢方)では体質や状況を問診、触診、舌診など注意深く観察して、薬を配合し処方する。
仏教では、釈迦が中庸に目覚めた話は有名だよね?苦行しても苦行しても求めるものを得られず、断食苦行で弱った釈迦にスジャータという娘がお粥を食わせた話は有名だ。
大乗仏教では、菩薩は悟って仏陀になっても、その悟りにすら執着しないという。また、多くの菩薩が敢えて煩悩を少しだけ残して仏陀になるよね?例えば阿弥陀如来は万人を救いたいという煩悩を残して仏陀になった。
いずれにしても、すべてのこの世の存在を認めている。悪とか善とか、気分が良いとか、悪いとか、熱いとか寒いとか、ハッピーで嬉しいとか、怨念にうなされてるとか、こうした対立矛盾を、どうコントロールするか?これが俺の考える東洋思想。
【つづく】
463やほよろづのかみたち-改_Version2.0 ◆0ryc.81s2s :2011/06/25(土) 01:20:48.08 ID:nB/yCsb0
さて、いよいよユダヤ教なわけだが、、俺とタルムードとの出会いは結構早く、高校生の時にはラビ・マービン トケイヤーの著書を読みながら、キリスト教の母校である東北学院の教えと比較してたりした。
残念ながら、タルムードの日本語翻訳は、タルムードのうち、ユダヤ法ミシュナなど一部分が、ようやく21世紀に入って翻訳が進んでいて、今日現在、全文を読むことは出来ない。しかしタルムードの注釈書だけは手に入る。
以上の時代的限界を踏まえても、タルムード関連の良書は幸い出ていて、タルムード全体が翻訳されるまでのつなぎとして利用は可能だ。

つぎに、ユダヤ人の特性だが、彼らは少数意見をすべて記述して残す。ユダヤ教に異端は無い。タルムードにも少数意見は削除されることなく書かれている。これが教理を公会議で決定するキリスト教との大きな違い。
だから、ユダヤ教には原罪の思想は無いと言われるが、実際には原罪があるっぽいことを言ったラビの意見もタルムードには保存されてる。
そもそもユダヤ法では、多数決での全会一致は否決とされる。ユダヤ人の感覚では、全員賛成っていうのはバランスに欠くから否決ってわけだ。この原則はイスラーム法にも受け継がれた。
【つづく】
464やほよろづのかみたち-改_Version2.0 ◆0ryc.81s2s :2011/06/25(土) 01:51:12.99 ID:nB/yCsb0
>>463のつづきね。
さて、いよいよ本題です。
ユダヤ教では、キリスト教と比較して、創世記冒頭の解釈がまったく違う。
つまり、みんなが知りたがる、アダムの堕落のシーン。。あれをどう解釈するか。

まず旧約聖書…旧約という概念はキリスト教徒の概念だから、ユダヤ人はこのヘブライ語聖書をTNK(タナハ)と呼ぶのだが…
創世記の2章の7節ね…人間を造るシーン。ここだけ「造る」の単語がヘブライ語で「wayitzer」ではなく、y(ヤッハ)が重複されて「wayyitzer」になっているのだよ。。
これは決してスペルを間違ったわけじゃない。ヘブライ語聖書写本は、欄外に、正しく写本が出来たか文字数をカウントして、メモしたり、その書物の真ん中の文字だけ大きく書いたりと実に几帳面だ。
まして、人間が創造されたもっとも重要なシーンでのスペル・ミスなど考えられない。

【つづく】
465やほよろづのかみたち-改_Version2.0 ◆0ryc.81s2s :2011/06/25(土) 01:55:36.41 ID:nB/yCsb0
>>464のつづきね。

で、y(ヤッハ)が重複している理由だが、ユダヤ人は、ヤハウェは善と悪とを人間の中に創造したからだと解釈している。これをもってユダヤ教に原罪思想無しといわれる所以なのだ。
ヤハウェは初めから「善の衝動」と「悪の衝動」を人間の中に造った。アダムの堕落は必然であって、彼の罪は彼だけの問題であり、人類の子孫においても聖書を通じてヤハウェのごとく完璧な人間はひとりとしていない点に注目する。
人間は「善の衝動」と「悪の衝動」というふたつの生体エネルギーを持って生まれてくる。ユダヤ教にとって重要なことは、「悪の衝動」が、キリスト教とは違い、良き被造物であることと解釈すること。
ここ重要なんだが、「悪の衝動」なくしては、「善の衝動」も働かないと考える。このふたつのエネルギーをどう操作するか?これがユダヤ教の教えだ。
ユダヤ人はその民族の歴史的経験から奴隷状態を嫌う。したがって、「悪」と向き合うとき、「悪の衝動」の奴隷となるのではなく、「悪の衝動」を操る主人とならなければならないと強調する。
この対立矛盾エネルギーの操作…キリスト教徒はまったく違う。キリスト教では悪を完全に否定する。ユダヤ教とキリスト教はまったく違う思想・哲学・宗教であることは明らかだ。

俺の東洋思想の定義は先に述べた。
この世のすべての存在を認めたうえで、それをどう操作するのか?悪と善のエネルギーを自分の中でどうコントロールするのか?
対立矛盾エネルギーの中での、中庸点の模索…これを教える思想を東洋思想だと俺の主観で仮定するならば、ユダヤ教はまさに俺の脳内では東洋思想だ!!ということになる。

【以上】かな?