【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part45

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429リンゴ ◆oPXbhrKCUQ
わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、
人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。


そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
それを着たなら、裸のままではいないことになろう。


この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。
それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、


死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。


そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。 だから、わたしたちはいつも心強い。
そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。


わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。


そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、
ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。


なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、
自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。(コリント第二5:1-10)口語訳

430リンゴ ◆oPXbhrKCUQ :2008/11/20(木) 16:58:11 ID:CJrKT6qa
このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。
わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。


さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。わたしたちは、あなたがたに対して、
またもや自己推薦をしようとするのではない。


ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなく、
うわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。


もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、
それはあなたがたのためである。


なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。


そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、
自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。


それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。
かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。


だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(コリント第二5:11-17)口語訳

431リンゴ ◆oPXbhrKCUQ :2008/11/20(木) 16:59:47 ID:CJrKT6qa
しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、
かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。


すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、
わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。


神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。
そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。


神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、
彼にあって神の義となるためなのである。(コリント第二5:18-21)口語訳

432リンゴ ◆oPXbhrKCUQ :2008/11/20(木) 17:05:43 ID:CJrKT6qa
わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。
神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。


見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。 この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、
人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。


すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、 むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、
労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、 真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、 真理の言葉と神の力とにより、


左右に持っている義の武器により、 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。
わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、 人に知られていないようであるが、認められ、


死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、
貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。(コリント第二6:1-10)口語訳
433リンゴ ◆oPXbhrKCUQ :2008/11/20(木) 17:07:47 ID:CJrKT6qa
コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。
あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。


わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。
不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。


キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。 神の宮と偶像となんの一致があるか。
わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。


そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。 だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。


そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。 (コリント第二6:11-18)口語訳