【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part45
では昨日の第二コリントの聖句の続きより、
☆あなたがたの所に再び悲しみをもって行くことはすまいと、決心したのである。
もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませているその人以外に、だれがわたしを喜ばせてくれるのか。
このような事を書いたのは、わたしが行く時、わたしを喜ばせてくれるはずの人々から、
悲しい思いをさせられたくないためである。
わたし自身の喜びはあなたがた全体の喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからである。
わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書きおくった。
それは、あなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたに対してあふれるばかりにいだいているわたしの愛を、
知ってもらうためであった。
しかし、もしだれかが人を悲しませたとすれば、それはわたしを悲しませたのではなく、控え目に言うが、
ある程度、あなたがた一同を悲しませたのである。
その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰でもう十分なのだから、 あなたがたはむしろ彼をゆるし、
また慰めてやるべきである。
そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない。 そこでわたしは、彼に対して愛を示すように、
あなたがたに勧める。 わたしが書きおくったのも、
あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった。 もしあなたがたが、
何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、
それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。(第二コリント2:1-10)口語訳
そうするのは、サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。
さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれたにもかかわらず、
兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニヤに出かけて行った。
しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、
わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。
わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。
後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。
いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。
しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、
キリストにあって語るのである。(第二コリント2:11-17)口語訳
わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、
あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。
わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、
すべての人に知られ、かつ読まれている。
そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、
墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく、
人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。 こうした確信を、
わたしたちはキリストにより神に対していだいている。
もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。
神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。
それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、
モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、
まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。
もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。
(第二コリント3:1-)口語訳
そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。
もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。
こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、 そしてモーセが、
消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、
その同じおおいが取り去られないままで残っている。
それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、
モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。
これは霊なる主の働きによるのである。(第二コリント3:10-18)口語訳
このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、 恥ずべき隠れたことを捨て去り、
悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。
彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。
しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、
ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。(第二コリント4:13-)口語訳