【甲斐阿闍利】久保川日源師【法章】

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192神も仏も名無しさん
「仏生」に連載されていた「住職の横顔」の中で、妙福寺事件で法難を受けた後に本山に行った際の記述があるので引用するです。

 丑寅勤行は、丑寅の時に行うのでその名があるが、本山では普通猊下が一人で行っており、これに
本山の僧俗が月に五回程参詣させて貰い、これを衆会といっており、丑寅勤行とはいわなかったので
あるが、これをいい出したのは学会であった。
 勤行が終ってから、奥へ帰られる猊下に御挨拶申し上げると、猊下はにこにこしながら「君も折伏
をしたり、座談会に行ったりしているのかね、まあしっかり頑張って下さい」と言われた。衆会の後、
参詣した僧侶達から、妙福寺事件の事について、種々の質問を受けて遅くなり、久成坊に帰って床に
就いたのは三時を過ぎていた。
 翌二月八日、登山中の学会員を四回に分けて御開扉が行なわれたが、本部は二時からであった。御
開扉(正宗では御開帳といっており、御開扉とは学会が言い出した)は土蔵造りの御宝蔵で行なわれ、
広さは二十畳位しかないので、一回に五十人も入ると一杯であった。
 私は本部と一緒に参詣する事になっていたので、十時頃に理境坊へ行った。幹部達は相変らず上機
嫌で話しをしていた。手前の部屋では女子部や婦人部の老達が、各坊から集って来る御開扉御供養の
受付や、集計などをしており、周囲は連絡や警備などの青年で何んとなく、活気づいていた。
 私は昼食を幹部達と一緒にとり、お茶を飲んでいたが、女子部の者が御開扉御供養の受付をしてい
るのを見て、自分がまだ御開扉願を出していない事に気が付いた。それですぐに大坊へ飛んで行こう
と思ったが、しかし、時間もあまり無いし、折角此処で受け付けているのだから、大坊まで行かなく
ても、此処でよいだろうと思い、御供養を包んで「私の御開扉願もお願いします」と言って差し出し
た。
 これで一安心と思って、又、お茶を飲み雑談していたが、暫らくすると、受付の女子部が、和泉秘
書部長や二、三の幹部に何やら指導を受けている様子である。その中、どうもそれが私の出した御開
扉御供養の事についてであるらしい気がして来た。

193神も仏も名無しさん:2009/06/13(土) 12:07:52 ID:qgferjyZ
>>192つづき)

 やがて最終的に会長の指導を受けた後、和泉秘書部長が、私の出した御供養を持って私の所へ来た。
そうして「誠に申し訳けありませんが、此の御供養は先生の手で御本山へ直接出されて戴きたいので
すが」と言って返して来た。私はいわれる侭に、早速大坊に飛んで行って手続をすませたが、後にな
って其の経緯を了解することが出来た。
 要するに学会は、会員から集めた御開扉御供養の中から何割かを取って、学会の運営費にしていた
のであるが、流石に戸田会長の時代は、多分に良心的なところが残っていたので、僧侶の御供養と信
者の御供養と一緒にして、その中から何がしのピンハネするのは気が引けたので、返して来たものら
しい。
 然し、池田会長の頃になると、大勢の登山者から集めた莫大な御供養の中から、ほんの一部を本山
に出すだけとなり、御供養を出し終った後から登山者があったからといって、遅れて来た分の御供養
が追加される訳でもなく、登山会は御開扉に名を借りた学会の収入源となったのである。
 私は、一時五十五分頃、御宝蔵の前に立って猊下をお待ち申し上げた。二号鐘が鳴って猊下は小僧
五、六人と所化七、八人を従えられて出仕された。私は塔中住職と共に後に続いて入って行った。突
き当りの正面に須彌壇が二段に築かれ、上段に戒壇の大御本尊、その右の御宮殿には、中老僧の和泉
公日法が戒壇の大御本尊の同材で、大聖人のお姿を三寸に彫刻したと伝えられる「最初仏」様が安置
されている。左には宝塔があって、大聖人の御霊骨が安置されていて、初めての登山者がある時は、
開いて拝観させていた。
 第一段は五具足を置く場所である。その前は高さ十五センチ位、奥行一メートル二十センチ位の板
間になっていて、正面に猊座が設けられ、東より西に向って御隠尊の座が設けられていた。