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>>192つづき)
やがて最終的に会長の指導を受けた後、和泉秘書部長が、私の出した御供養を持って私の所へ来た。
そうして「誠に申し訳けありませんが、此の御供養は先生の手で御本山へ直接出されて戴きたいので
すが」と言って返して来た。私はいわれる侭に、早速大坊に飛んで行って手続をすませたが、後にな
って其の経緯を了解することが出来た。
要するに学会は、会員から集めた御開扉御供養の中から何割かを取って、学会の運営費にしていた
のであるが、流石に戸田会長の時代は、多分に良心的なところが残っていたので、僧侶の御供養と信
者の御供養と一緒にして、その中から何がしのピンハネするのは気が引けたので、返して来たものら
しい。
然し、池田会長の頃になると、大勢の登山者から集めた莫大な御供養の中から、ほんの一部を本山
に出すだけとなり、御供養を出し終った後から登山者があったからといって、遅れて来た分の御供養
が追加される訳でもなく、登山会は御開扉に名を借りた学会の収入源となったのである。
私は、一時五十五分頃、御宝蔵の前に立って猊下をお待ち申し上げた。二号鐘が鳴って猊下は小僧
五、六人と所化七、八人を従えられて出仕された。私は塔中住職と共に後に続いて入って行った。突
き当りの正面に須彌壇が二段に築かれ、上段に戒壇の大御本尊、その右の御宮殿には、中老僧の和泉
公日法が戒壇の大御本尊の同材で、大聖人のお姿を三寸に彫刻したと伝えられる「最初仏」様が安置
されている。左には宝塔があって、大聖人の御霊骨が安置されていて、初めての登山者がある時は、
開いて拝観させていた。
第一段は五具足を置く場所である。その前は高さ十五センチ位、奥行一メートル二十センチ位の板
間になっていて、正面に猊座が設けられ、東より西に向って御隠尊の座が設けられていた。