イエスと仏陀の説く真理真実とは?

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98神も仏も名無しさん
---続き


 イエスの十字架による磔刑(罪を背負ってくれたの)で人類は救われた、などいうことはない。
ひたすら救いを嘆願する贖いの信仰などは、イエスご自身は推奨していない。「わたしに向かっ
て主よ主よ」といってもダメだ、といっているのに、「イエス様、イエス様〜」と嘆願したって、それ
は同じこと。
 懺悔と祈りは自分の心の浄化作用には効果はあるが、しかし、イエスに対する過剰なまでの
崇拝行為を繰り返したところで、それをイエスが喜ばれることはないだろう。イエスならばきっと、
そんな暇があったら道端で倒れて苦しんでいる人々に手を差し伸べてきなさい。などと、多分そ
ういうことをいうに違いないからだ。

 キリスト教はかつて大量殺戮を行ってきた血に塗られた歴史を持つ。キリスト教の(教会によっ
て勝手に作られた)教義に反するものは凡て異端であり、神に対する冒涜であるとみなしてきた。
そして相手をサタンの惑わしであるとして罵って、人の命さえも平気で奪ってきた。中世における
異端尋問、いわゆる魔女狩りでは600万人以上の人間を生焼きにし、12世紀には十字軍を起こ
してパレスチナを奪還すべく、何十万というイスラム教徒を虐殺した。コペルニクスとガリレオに対
する迫害の話もまたよく知られているところ。
 これらの出来事は昔のものであり、ごく一部の異常な司祭らによるものと思いたいところだが、
しかし、残念ながらキリスト教としての基本的性質と考え方は現代でも殆ど進歩がない。
 対する仏教徒の場合には、その根底にはインド思想のアヒンサー(不殺生非暴力の実践)の教
えが息づいており、破壊行為は必ず自己を破滅に導くものであるとして理解している。無害の実
践(破壊行為をしない)は何にも増して最重要であって、これは仏教についての理解や修行の進
歩の云々、以前に最大限に必要なものだとしている。
99神も仏も名無しさん:2008/11/07(金) 12:02:48 ID:fK868WNN
 キリスト教徒たちは、イエスが異なった思想を持つ者にも寛容であり、受容的で広大な愛を説い
た人であったことをすっかり忘れている。キリスト教の伝統的思想から外れる者は皆、地獄に落ち
る運命にあるとする傾向に関して、次の言葉を贈らせてもらう。
 「自分が裁かれないために、人を裁くのを止めなさい。」(マタイ伝7章1節) 「他の人を裁くその
事柄において、あなたは自らを罪に定めているからです。」(ローマ人への手紙2章1節) 「たとえ
わたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい
鐘やシンパルと同じである。たとえ山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わた
しは無に等しい。」(コリント人への手紙13章1〜2節) 「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに
愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ
ネ伝13章34節)
 「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、誰一人、父のもとに来るこ
とはありません」(ヨハネ伝14章6節) これをキリスト教徒は誤解し、キリスト教のみが唯一の真理
であって、これに拠らない限りは天国に行くことはできないとした。しかし、私たちは以下の言葉を
見出すことができる。
 「キリストにあってすべての人が生かされるのである。」(コリント人への第一の手紙15章22節) 
「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。」(ローマ人への手紙8章35節) 「高いも
のも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたち主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたし
たちを引き離すことはできないのである。」(ローマ人への手紙8章39節) 「わたしの父の家には、
住まいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。」(ヨハネ伝14章2節)
 「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリ
スト・イエスにあって一つだからである。」(ガラテア人への手紙3章28節)