イエスと仏陀の説く真理真実とは?

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88神も仏も名無しさん
---続き



 『キリストは、永遠において神より生まれ出た神の御子であって、父なる神と一体になっておら
れるおかたです。そのかたが、今から二千年前に、肉体の姿をとって、ユダヤのベツレヘムに
降誕されました。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
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 「処女懐妊」及びマリアの「無原罪の御宿り」なる教義については、ここで強く否定させて頂く。
人間には、一人とて例外的な特別というものはなく、それぞれが個々の持つ神性の具現する度
合いが違うだけのこと。

 キリスト教徒ご自慢の「処女懐妊」の奇跡なるものは、何もイエスに限った専売特許ではない
といっておきます。インドの聖英クリシュナ(紀元前3000年頃)はデバキという貞淑な処女から産
まれた。ゴータマにもマーヤー(マリアと名前が似てるという指摘もある)が白象に脇腹を牙で刺
し込まれる夢を見て懐妊、それまでは処女だったという伝承がある。ペルシャのゾロアスター(ゴ
ータマよりも170年ほど前)や王キュロスもそうであり、タイや中国にも処女出産の聖者がいる。
ゾロアスターはイエス同様、誕生以前から数々の奇跡現象によって予言者たちによって未来の
誕生が知られていた。エジプト神話のホルス神は処女神イシスから産まれたというのも同じこと・・。
 これらが意味するものは何か?ちょっと感のイイ人ならばすぐに分ることです。つまり、これら
は後世の人間(信奉者)による神格化の意図で作られた逸話であり、処女性の持つ汚れ無き神
聖なイメージを結びつけたものに過ぎないということ。
89神も仏も名無しさん:2008/11/06(木) 11:07:39 ID:oVOU0KoQ
 『イエス・キリストは、罪のない清いかたでしたが、私たちの代わりとなって罪をその身に負い、
身代わりに十字架上で死んで、裁きを受けてくださったのです。神は、積もり積もった私たちの罪
咎を、すべてキリストに負わせ、キリストはそれを、私たちのために背負ってくださいました。
 これをキリスト教では、「贖い」と呼んでいます。贖いとは"代価を払って買い戻す"という意味で、
キリストの命が、私たちを神のもとに回復させるための代価となったのです。』(仏教の「修行」キ
リスト教の「贖い」)
>
 あのような非論理的で実に愚かな原罪思想(>>83-84)を、いつイエスが認めたというのか?
 キリスト教徒らは、人間は原罪を背負っているからキリストの贖いにすがる以外に救いはないと
いい、だからイエスが磔刑によって人類の罪の身代わりになったのだと教える。更にはなんと、
我々も全員イエスにひたすらすがる他には道がないとして、無力な人間は今でも原罪に毒されて
いるのだと主張している(十字架の磔刑で救ってくれたのではなかったのか?)。

 そんなことは断じて絶対に有り得ない。イエスが永い転生の繰り返しの中で、自らの意志による
困難な霊性の歩みによって、己れの神性を完全なまでに具現するほど高い意識境に到達した非
常に稀なる人間であったことは賞賛に値いします。しかし、如何にイエスといえども、他人の罪を
代わりに背負ってあげるなどいうことは、決してできよう筈がないのです。
 自己の行為による果報を自ら受けるという、原因と結果の因果律はこの宇宙の絶対法則。懺悔
(反省と祈り)することは良いけれども、それによって行為の結果を受けないで済むなどということ
にはない。
 「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたも
のを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、
霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、
実を刈り取ることになるのです。」(ガラテア人への手紙6章7-9節)
90神も仏も名無しさん:2008/11/06(木) 11:09:29 ID:oVOU0KoQ
 『私たちは、善行によって救われるのではありません。善行によるなら、救われる者はひとりもいま
せん。善行は、救いの"条件"ではなく、むしろ"結果"なのです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
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 もう、完全にあべこべです・・。
 キリスト教徒はイエスを見習おうとすることは恐れ多く、それすら誰にも許されていないものと考
える傾向がある。しかし、イエスはなんていったか?
 「天の父が完全であるように(あなたがたも)完全でありなさい。」(マタイ伝5章48節) そして、
「わたしは父のもとにに行くのであるから、あなたがたはわたしがなしたことよりも更に大いなるこ
とをなすであろう。」(ヨハネ伝14章12節)といい、イエスは、私たちも彼のようになれることを、その
可能性を、自ら手本を示すことで教えたのです。

 その私たちに潜在(内在)しているその可能性を「キリストの原理」、または「キリスト意識」と呼ぶ。
このことは原始キリスト教の時代ではよく知られていた。これがパウロの「汝らの中に在すキリスト
にして栄光の望みなり。」(コロサイ書1章27節)といわれた所以です。いずれ私たちもキリストのよ
うに完全なる段階に達することにより、「キリストの満足れるほどに至る。」(エペソ書4章13節) 
までになるのです。
 『あなたは、生まれたばかりの神の子(赤ん坊)なのです。あなたが成長することを、神は楽しみ
にしておられます。その成長は、あなただけの力によってできるものではありません。あなたの内
におられるキリストが、助けてくださるのです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」) 
 と、ちゃんと解かっているようですが・・ならば何故、イエスが教えもしない贖いなどというものにす
がろうとするのか?



つづく