『イエス・キリストは、罪のない清いかたでしたが、私たちの代わりとなって罪をその身に負い、
身代わりに十字架上で死んで、裁きを受けてくださったのです。神は、積もり積もった私たちの罪
咎を、すべてキリストに負わせ、キリストはそれを、私たちのために背負ってくださいました。
これをキリスト教では、「贖い」と呼んでいます。贖いとは"代価を払って買い戻す"という意味で、
キリストの命が、私たちを神のもとに回復させるための代価となったのです。』(仏教の「修行」キ
リスト教の「贖い」)
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あのような非論理的で実に愚かな原罪思想(
>>83-84)を、いつイエスが認めたというのか?
キリスト教徒らは、人間は原罪を背負っているからキリストの贖いにすがる以外に救いはないと
いい、だからイエスが磔刑によって人類の罪の身代わりになったのだと教える。更にはなんと、
我々も全員イエスにひたすらすがる他には道がないとして、無力な人間は今でも原罪に毒されて
いるのだと主張している(十字架の磔刑で救ってくれたのではなかったのか?)。
そんなことは断じて絶対に有り得ない。イエスが永い転生の繰り返しの中で、自らの意志による
困難な霊性の歩みによって、己れの神性を完全なまでに具現するほど高い意識境に到達した非
常に稀なる人間であったことは賞賛に値いします。しかし、如何にイエスといえども、他人の罪を
代わりに背負ってあげるなどいうことは、決してできよう筈がないのです。
自己の行為による果報を自ら受けるという、原因と結果の因果律はこの宇宙の絶対法則。懺悔
(反省と祈り)することは良いけれども、それによって行為の結果を受けないで済むなどということ
にはない。
「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたも
のを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、
霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、
実を刈り取ることになるのです。」(ガラテア人への手紙6章7-9節)