82 :
神も仏も名無しさん:
---続き
「エホバの証人」のバンフにはこういう説明が載せられています。
「サタンは、地に対するエホバの支配権の正当性と、エホバの支配が義にかなっているかどうか
を問題にし、いまや全人類を真の崇拝から引き離すことができると主張して神に挑戦しました。神
は、その挑戦が本当に正しいかどうかをサタンに証明させるために、約6000年の期間をお与えに
なりました。」
つまりは、サタンによる世の支配を認め、そしてサタンによる人類の苦悩を神は見過ごしている
というわけです。このあまりに馬鹿げた矛盾は神学の根本原理なので、何もエホバに限ったもので
はないようです。
いや、そうじゃない!神は人類のためにちゃんと救い主であるイエスを遣わして下さり、そして教
えを残されたのです。だから、あとは我々の選択の側にかかっているのだと・・こういうかもしれませ
ん。もう正直、こうなってくると、殆どまるでゲームのような感覚です。
湾岸戦争の勃発でさえ、ハルマゲドンの始まりだとして---自分らの永遠の生命が近づいたことを
意味するから---ミサイルの雨を歓喜の想いで眺めていたクリスチャンすらもいたという。一部のキ
リスト教徒は戦争で人が死ぬかもしれない、という悲劇に対する当たり前の感覚さえも失っているよ
うです。
ではこの、「キリストによる贖い」が必要とされる根源的理由の、その「原罪」を背負う羽目となった
神学、“林檎パクつき事件”でのあまりの非論理性について、今回は本当にとても良い機会なので、
以下にこのテキストを掲載して紹介することにします(おそらくはネット初登場?となる名文です)。
83 :
神も仏も名無しさん:2008/11/04(火) 08:35:16 ID:ueIHnyH0
「そういうわけでアダムとイヴは枝からリンゴをとったのではない。誘惑者がいたのだ。サタンまた
は蛇が。が、すべては神がつくりたまいしもの、とわれわれは習っている。となるとサタンもしくは蛇も
神の製品なのだ。善なる神がサタン、蛇をつくり、その力で単純な人間二人を欺いたというのか?
もしそうなら、神はなぜリンゴを食べたぐらいで侮辱をおぼえ、その世界に(救い主が現れるまで)
《原罪》が根をはることになったのか? どうなるかはあらかじめご存知のはずなのに・・・・・。
神学者はここで私の袖をひっぱる。そうじゃなかったんだよ! 悪魔ルシファーは神の国で背いた
存在なんだ・・・・・神の国で背いた? どういうことです? 《天国》が(われわれに約束されているよ
うに)《幸福》と同義なら、そこでの反対勢力なんてあるはずないでしょう。これか---あれか。神の国
が完全な幸福状態を保証するなら、ルシファーも神に対抗しようという気など起こさなかったはず。
だが、天国に絶対幸福がなかったなら、神は完全な全能ではなかったことになる。ここも神学論争
の泣きどころ。神とルシファーの争いを神学者はうまく解釈もできないし、論理的動機づけもできない。
ルシファーがアダムとイヴを誘惑に来る前に、それが成功することを神は知っていたはずなのだ。ア
ダムとイヴの《自由意志》という問題は、ルシファーを登場させても、身勝手な解釈というほかない。
ルシファー、アダム、イヴ、もしくは蛇にしても、全知の神の意志で行動したのだから。
教えられたことをそのまま受け取る人にとり、状況はこういうことになる。神は至福なる天国に住み、
そこには反対勢力がある---ルシファーは例のことをやりに楽園に来、アダムとイヴは彼にそそのか
され、神の予測どうりに罪を犯す---リンゴをぱくついたのである。以後、生まれる人間はすべて、お
ぎゃあといった瞬間から《原罪》を背負っている。
84 :
神も仏も名無しさん:2008/11/04(火) 08:37:39 ID:ueIHnyH0
あわれな人類がこの重荷をおろすにはどうしたらいいのか? 救い主によるほかない。聖書はこう
いっている。<神は人間を愛し、みずからの御子を犠牲となりたまえり>
唯一の神が家族を持っているとはちょっと想像しがたいが、いきなり息子なるものが現れてくる。う
らやましい息子である。《天の》父を持つのだから。愛と善と配慮に満ち満ちた父を。と考えたくなるが、
そうではないのだ。息子は(原罪に苦しむ)人類のため、兄弟姉妹を救うべく、犠牲とされる。神の息
子は十字架につけられ、出血多量で死なねばならぬ。しかし、《御子》の死後、神のご機嫌は直った
のだ! この酷い話は野蛮な異教の要素を含んでいないだろうか? この救済ドグマはどうも原始宗
教への後退に思えるのだ。怒れる神を血の生贄によって鎮めるため奴隷を要求するということではな
いか。
十字架での死はシンボルとして理解すべきだ、と神学者はいう。何故それを普通にいわないのだ
ろう? 私の娘リラは---それまでの世代と同じように---イエスは《人の子となった神の御子》で、苦し
み(=原罪)を《人として共に感じた》のだ、と習っている。人として死んだ者は、人として苦しんだのだ。
すべての苦悩を持って。しかし、アダムとイヴが罪を犯したため(それだって神がその気になれば防げ
たはずなのに)自分の息子をそれと知りつつかくも苦しめた神が、息子の死後、彼を殺した人類と和解
するとは、どういうことなのか? (この酷い結末で事実上、原罪はこの世から追放されたということに
なっているが、それは今でも盛んなのだ)」(エーリッヒ・V・デニケン著/奇跡)
イエスが好きでイエスの教えを学びたい、それは大いに結構なことです。ならば何故、イエスが教えも
しないような教会の伝統や教義などを鵜呑みにし、イエスの意志に反することばかり教えるキリスト教
なんかを信仰するのか?
つづく