イエスと仏陀の説く真理真実とは?

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58神も仏も名無しさん
---続き


 『聖書によれば、罪の性質は人間の本性にまで及んでいます。それは外面についている"埃"(ほこ
り)のようなものではありません。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
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 言い換えるからば、人間の原罪の元となったという林檎をバクつかせた蛇もまた神の作品であり、
蛇の行動についても神は当然のごとく、その全てをお見通しの筈でした(全能の神ならば)。それが林
檎を食べたくらいで、どうして神は怒り心頭に欲し、未来永劫まで人間に罪を背負わせたのか?本当
は神は怒ったり喜んだりなどもしないのだが・・そんな自己の感情も制御できない自分勝手な意識とは
何かわかりますか?
 善悪を知る知識というのは人間として生存し、且つ成長を遂げるためには必要なものなのです。で
は、このときアダムとイヴが林檎を食べなかったら、一体どうなったのだと思いますか?それが望まし
いことだとあなたは考えますか?このときの神の怒りとは何だったのかを理解していますか?ここでは
霊と物質の関係について理解する必要があります。

 これらは仏教でいう煩悩と似たようなものなのです。それは人間存在として生存するには必要不可
欠な部分も含むのであり、そして人間として生を受けたからこそ成長を可能にし、ついに気付きが起
こり、更には仏教に触れて、それについても理解することが可能になります。
59神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 01:03:34 ID:R627J5Cd
 『自分の力で律法の一つ一つを完全に全うし、長い律法の"鎖"を登りきることのできる人は、ひとり
もいません。私たちは、自分の力で鎖を登ろうとするのではなく、天から差し出された力強い腕に、つ
かまればよいのです。
 この天からの腕こそ、神と人との間の仲介者であり私たちの救い主である、イエス・キリストの差し出
された腕です。私たちがその腕につかまりさえすれば、キリストは私たちを難なく、天にまで引き上げて
くださるのです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
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 特に異論はありません。
 ゴータマは法(わたしの教え)に拠って自己の修行によって解脱するよう説きました。イエスもほぼ同
じことを話したと思います。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではな
く、 天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。」(マタイ伝7章21節)  というのは、イ
エスにお願いをすれば救われるというものではないことを意味します。「わたしの父のご意志を行なう者」
とは真理の実践を意味し、これがゴータマの説く修行に相当する部分になります。イエスを信じれば救
われ、信じなければ救われないということはない。人のその行為に応じた結果がある、それだけのこと
です。イエスを知らない者もその行動が正しければそれに相応しい結果があり、「イエス様イエス様!」と
いくら繰り返し嘆願しようとも、悪行はそれ相応の結果(悪果)が返るだけです。天に引き上げる力とは
イエスの説いた教えの実践によるものでしょう。
 ゴータマもイエスの場合も、その本当の有難さとは真理について語り教えてくれたことにあります。もち
ろん信仰心の強さによる効果というのがあり、イエスを想い慕う心により、より困難に立ち向かう精神的
な強さを得ることに繋がります。
60神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 01:05:47 ID:R627J5Cd
 最後の部分として---「キリストによる贖い」〜「信仰による救い」の項に至っては、ハッキリいって誰が
何を信じようともご自由ですが・・ここが全くナンセンスでお話にならない最大の部分です。イエスはそん
なことは教えなかったと思いますよ。
 イエスを尊敬し大好きなのは大いに結構なことです。イエス(の教え)が好きならば、何故そんなキリス
ト教の信者となってるのかがわたしには不思議でなりません。イエスの教えとはあまりに異なる、そしてイ
エスが教えもしなかったことばかりを説く教会などに何故、あなた方は熱心に自分自身の身を置くのか?


つづく