イエスと仏陀の説く真理真実とは?

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39神も仏も名無しさん
それでは、
 更に『仏教の「修行」キリスト教の「贖い」』
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/bukkyokirisuto06.htm
についての見解を述べます。


 『仏教では、「仏になる」方法として、おもに「自力仏教」と「他力仏教」の二種があります。自力
仏教の代表は「禅」、他力仏教の代表は「念仏」と思えばよいでしょう。』(仏教の「修行」キリスト教
の「贖い」)
>
 大乗仏教(一般にいうところの仏教)では確かにそうです。しかし、ゴータマ本来の教えには自力
と他力の二つというものではなくて、>>38で「法を島とし他を頼りとせず、自らを頼りとして生きる人
々」とあるように、「(法)ダルマ=真理=ゴータマの教え」を頼りに自己を拠り所として修行せよ、
というものでした(自灯明法灯明)。
 では、何を修行するのか?ゴータマの教えであるところの三十七道品であり、これを修行しなけ
れば成仏(解脱)はできない。わたしにいくら成仏を願ったところで、決して成仏することはできない、
とハッキリいいきったのです。
 ましてや、大乗には悪いが・・仏は願いごとをする対象でも、苦しみを救ってくれる(願いを叶えて
くれる)存在でもありません。有難い阿弥陀如来なる仏などはどこにもいません。阿弥陀信仰ほど
ゴータマから程遠い宗派はなく、紀元後200年頃にゾロアスター教(開祖/紀元前630年生)のアフラ
・マズダ神から取り入れたのが、おそらくは起源のようです。尚、禅は確かに大乗諸派の中ではゴ
ータマの教えにかなり似た形態を持つものだとはいえます。
40神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 03:00:46 ID:1pHBPNmv
 『仏典には、人が「仏になろう」と決心してから成仏するまでの期間は、じつに、「三阿僧祇百大
劫」(さんあそうぎひゃくだいこう)だと記されています。「三阿僧祇」とは、仏教学者によると、3×
10の59乗という数字だそうです。「百大劫」は八〇〇〇劫と同じで、一劫=四三億二〇〇〇万年
ですから、これはなんと約一兆年の10の61乗倍を意味します。またはもっと控えめに、「三劫」
(一二九億六〇〇〇万年)だという仏典もあります。数字の上ではずいぶん違いますが、長大な
期間という点では同様です。
 いずれにしても大変な期間です。仏典にはそんなに長い間、一心に修行を積まなければ決して
仏になれない、と記されているのです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
 そういう数字そのものには、殆ど意味はありません。途方もない大きさや長さ時間といったもの
を示す際の仏教的比喩であり、経典特有の文学形式にしか過ぎません。
 しかし、ゴータマはそんな無意味な記述に過ぎない大乗のものとは異なり、もっと明確で具体的
な指標を示しました。それが四向四果(四沙門果)と呼ばれる修行の成果にみる解脱の段階につ
いての解説です。
 以下に原始経典の一つから掲載します。これを読めば、ゴータマが如何に大勢の在家信者を
抱えて育成、指導されていたかが瞭然とします。出家者だけにしか役立たないかのような誤解を
生ませる「出家仏教」との大乗からの批判は的を得ていません。またこれらは、主に在家信徒の
ケースを上げていますが、当然、出家僧の場合であれば解脱の進歩は更に格段と早いでしょう。
 修行せずは仏にはなれません。お願いごとで成仏できる、そんなオメデタイできごとは無いの
です。そういった話は全てマルチな嘘(だまし)に過ぎません。この世界にインスタントはない。
41神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 03:02:02 ID:1pHBPNmv
  『アーナンダよ。修行僧サールハは諸々の汚れが消滅したが故に、すでに現世において汚れ
の無い【心の解脱】【智慧による解脱】をみずから知り、体得し、具現していた。したがって、この
比丘は今さとりの世界におり、再び迷いの生存を受けることはない。
 アーナンダよ。尼僧ナンダーは、ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくした
ので、おのずから善き世界に化生した。この比丘尼はその天界から直接さとりの世界に入り、再
びこの世に戻ることはない。
 アーナンダよ。在俗信者のスダッタは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、欲情と怒りと迷い(貪り
・怒り・愚かさ)という三つの心の毒がしだいに弱くなっているので、【一度だけ戻ってくる者(=一来)】
となった。この信者はもう一度だけこの世に生を受け、苦を残りなく滅ぼし尽くしてさとりの世界に
入るであろう。
 アーナンダよ。在俗信女のスジャータは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、【聖者の流れに踏み
入った人(=預流)】となった。この女信者は、もはや悪しき世界に堕ちることはなく、必ず正しいさ
とりを得ることが確定している。
42神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 03:18:49 ID:1pHBPNmv
 アーナンダよ。在俗信者のカクダは、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので、
おのずから善き世界に化生した。この在俗信者はその天界から直接さとりの世界に入り、再びこ
の世に戻ることはない。同じように、アーナンダよ。カーリンガ、ニカタ、カティッサバ、トゥッタ、サン
トゥッタ、バッダ、スバッダなどの在俗信者も、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくした
ので、おのずから善き世界に化生した。これらの在俗信者たちはその天界から直接さとりの世界
に入り、再びこの世に戻ることはない。
 アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ五十人以上の在俗信者たちは、ひとを下界に結びつけ
る五つの束縛を滅ぼしつくしたので、おのずから善き世界に化生した。これらの在俗信者たちはそ
の天界から直接さとりの世界に入り、再びこの世に戻ることはない。
 アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ九十人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつ
くしたから、欲情と怒りと迷い(貪り・怒り・愚かさ)という三つの心の毒がしだいに弱くなっているので、
【一度だけ戻ってくる者】となった。これらの信者はもう一度だけこの世に生を受け、苦を残りなく滅
ぼし尽くしてさとりの世界に入るであろう。
 アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ五百人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつ
くしたから、【聖者の流れに踏み入った人(=預流)】となった。これらの信者たちは、もはや悪しき
世界に堕ちることはなく、必ず正しいさとりを得ることが確定している。』 (大パリニッバーナ経/ナー
ディカ村にて)
43神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 03:39:45 ID:1pHBPNmv
四向四果(四沙門果)
 ・須陀桓(預流)(シュダオン・ヨル)
   =三結(身見・戒取・疑)を断ずる。天上界と人間界を
    七回往復する
 ・斯陀含(一来)(シダゴン・イチライ)
   =三結(身見・戒取・疑)を断じて、貪欲・瞋恚薄らぐ。
    天上界と人間界を一回往復する
 ・阿那含(不還)(アナゴン・フゲン)
   =五下分結(身見・戒取、疑、貪欲、瞋恚)を断ずる。
    天上界に生まれてこの世には還らない
 ・阿羅漢(仏陀)(アラカン・ブッダ)
   =以後、『有』を受けないと自覚できる意識境。無餘涅槃の人

このようにしてゴータマは、
 どのような境地になれば、あと何回の転生が必要であるかかを明確に解説されたのです。
44神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 03:41:08 ID:1pHBPNmv
 『けれども、「シャカは二九歳の時、王宮を出て求道生活に入り、六年後には悟りを開いて、仏に
なったではないか。いったいいつ、彼がそんなに長い修行を積んだというのか」という疑問を持つ人
もいるでしょう。しかし、仏教は輪廻説に立っている、ということを思い起こしてください。
 シャカは何度も何度も過去において生まれ変わりながら、「前世」(前生)で長いあいだ一心に修行
を積んできたと、仏教では考えているのです。そしてついに悟りを開いて、仏になったのだと。
 ですからもし仏教の考え方で行けば、あなたが先ほど述べた長大な期間の修行を、すでに「前世」
で終えているとすれば、あなたは現世を最後に仏になれるでしょう・・もっとも「前世」というようなもの
が、本当にあったとしての話ですが。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
 それは正解です。
 ゴータマも6年間だけの出家修行だけで仏陀になったわけではありません。この人生の歩みその
ものも云わば大きな修行そのものなのであって、今生は前世からの継続であり、そして今生の人生
のあり方が来世にまた引き継がれていくのです。そしていつか学びの必要がなくなった段階に達す
れば、ピタッと転生は止むことになる。
 人間、死ねばそれで済む話はなく、自分の行為の結果は次の生において自分に返ってくることに
なります。善行は善果を受け、悪行は悪果の報いがあるのは当然のこと。あの世でどうこうではな
く・・人生経験について学ぶ必要があって生を受けているのですから、必要な学びが終了して卒業で
きるまでは繰り返し転生します。

 前スレで詳しく投稿したように、イエスの時代も生まれ変わりの考えはごく当たり前として民衆に浸
透しており、イエスも転生というものについては認めていた。そしてパプテスマのヨハネがエリアの転
生者であると名言しました。
 《[我汝らに告ぐ。エリアは既に来たれり。然れど人々はこれを知らず、反って心のままにあしらへり。
かくの如く、人の子もまた人々より苦しめらるべし。]ここに弟子たちパプテスマのヨハネを指して言
い給ひしなるを悟れリ。》(マタイ17章12〜13節)
45神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 03:49:34 ID:1pHBPNmv
 転生の教えはキリスト経の教義からは削除されたのです。
 イエスを絶対的な唯一の神の子とするには、あまりに邪魔な思想だったからです。イエスとて生ま
れ替りを繰り返してきた人間の一人に過ぎません。ただ、内なる神性をほぼ完全に具現した稀なる
人間であり、だから聖なる者でした。教会はこのような当たり前の見解でさえ、それは神に対する冒
涜として排除し、全ては力ずくで弾圧してきました。

 原因と結果の法則-転生については、また後で改めてやります。



 『密教では、即身成仏を説くために、有神論的な教理を持つようになりました。言い換えれば、有
神論にならなければ、"この身このままで救われる"という教えは、生まれてこないのです。---略---
 宗教的な感情の高まりによって、自分がそのような体験をしたと思い込む時があっても、ふと目覚
めてみれば、再び罪深い人間である自分の現実に舞い戻ってしまうのです。
 仏教の神秘主義である「密教」も、同様な理由で衰退していきました。"大日如来と合一する"という
理想を掲げながらも、実際にそのような体験をすることは、多くの人々にとってきわめて困難だった
からです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
 密教、そんなものはゴータマの教えではありません。
 大乗徒の主張は誰でも簡単な修行で成仏できるというものでしたが、そんな程度で成仏できる筈
がないとして大衆からも飽きられ始めた時期と、ヒンドゥー教の勢力の拡大によって教団が圧迫さ
れていた事情があり、インド仏教最後の切り札として編み出されたものがこの密教でした。彼らの手
法はより具体的な修行体系を構築することと、そこにヒンドゥー教の要素を取り込むことでインド大
衆の人気を図ったことでした。
 しかし結果的には、逆に仏教としての独自性を失って、拡大するヒンドゥー教の大きな流れに飲み
込まれていきました。教団がこうして衰退を始めた時期において、更に決定的な打撃を与えたのは、
イスラム教徒の侵入によりナーランダーなどの僧院が破壊されて彼らの拠点を失ったからです。こ
うしてインド仏教は壊滅したのです。 


つづく