>>224 >マタイ17章12〜13節
「人の子」は称号です。単に人間という意味にも使われるほか、預言者への呼びかけにも使われてます。
ダニエル書では「人の子のようなもの」の出現(7:13)が予言されてます。
高慢な「獣」が裁かれた後、この出現によってすべてが彼に服従し永遠に続く統治が行われるという、
新しい時代の到来を予言した。それにあたる人は誰?ということで
世間でこの人だろう、と言われてる面々が列挙されたわけです。
それだけの話ですね。イエスをほめるヨハネがエリヤと称されるのは
マラキ書3章23節で「恐るべき主の日」の前にエリヤを遣わす、と書いてあるからでしょう。
続く文章によれば、彼は、地上を破滅させないよう、父の子の心を、子の父の心を向けさせる存在とされます。
エレミヤ書には新しい契約が結ばれるという予言もありますが、
新約聖書にはイエスをこうした「新しい時代をもたらす存在」
「聖書に予言された存在」にしようとする記述にあふれてます。
彼がロバに乗ってきたことすら予言されていたことにするほどです。
先に書いたように、(旧約聖書では)エリヤは天に引き上げられ、死んでません。
イエスの臨終の言葉を聞いて「エリヤでも呼んでるのか」という人がいたことは、
彼が(遠く離れたその時代でも)地上の人々に手をさしのばす存在だという
信仰・考え方があったことを示しているのでしょう。
そして、福音書にある通り、エリヤやモーセ(こちらは死んでます)は天に住まっています。
少なくとも福音書記者にとって、エリヤが死んでおらず、加えて天上にいるのに、
別の人を「エリヤ」と呼ぶことは矛盾するものではなかったわけです。
イエスがよくたとえ話で教えを説いたこともこれを了解しやすくしたと思います。
>>225 旧約での罪への応報もまた「神の業」です。
罪への罰として神が災いを人やイスラエルにもたらすわけです。
親の罪でもなく、本人の罪によるものでもないということは
「前世」が現世での状況に影響する、という教義が否定されるということです。
現世での「生まれつきの盲目」という結果を生む罪は、「生まれる前(前世)」にしか犯せないからです。
そして人間は生きている限り、善行したり罪をおかします。
よって、イエスのその発言は「前世」の存在を肯定するものではないということになります。
「低我パーソナリティー」という概念を新たに導入して辻褄を合わせようとしているということは、
ジニーン・ミラーさんもそこらへんの矛盾を自覚なさってるんでしょう。
フィルターを用意しないとその場で否定されてしまいますからね。
この当時、他宗教の観念が実際にそこに流入していたのかもしれませんね。
ともあれイエスは「本人の罪により、生まれながらに盲目にもなる」という考えを否定したわけです。
それに対して、あくまで「神の業」が人間の生を定めると述べました。
各人が歩む運命という重大事についてナンセンスで済ませるわけにはいかなかったのでしょう。
相手にしたら認めていることになる、という理屈こそナンセンスです。