イエスと仏陀の説く真理真実とは?

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224神も仏も名無しさん
 「一般的にいって、新約聖書の中には、まぎれもない生まれ変わりについてはっきりと語られて
いることに人々は気付いていない。事実、多くの人々が、宗教的観点から生まれ変わりのことが
それほど大切なのであれば、聖書の中でそれについての言及が殆どないのは何故か、と質問す
る。それに対する明白な答えの一つは、少なくとも新約聖書の中では生まれ変わりが事実である
ということが、当然のこととされていたことである。---ではこのような結論を導き出す根拠となる証
拠を調べてみることにしよう。

 再生誕の教えが当然の事とされている第一の徴は、マタイ伝11章13〜14節と16章13節とにある。
イエスが弟子達にこう尋ねていらっしゃる。《人々は人の子を誰と言うか》(マタイ伝16章13節) す
ると弟子達はこう答えている。《或る人はパプテスマのヨハネ、或る人はエリア、エレミア、また預言
者の一人》(マタイ伝16章14節) 過去世においてそうであったのでない限り、イエスがこれらの人々
の内の誰であったと考えることがどうして人々にできたであろうか。エリアとエレミアとは何世紀も前
の人物である。洗礼者ヨハネに至っては、その頃殺されたばかりで、生まれ変わりは有り得なかっ
たはずである。しかし、彼の霊がイエスを鼓舞したはずだと考える人々がいたようである。当時の
人々にこのような話し方ができたとすれば、それは明らかに生まれ変わりを当然のものと受け取っ
ていたからである。イエスが実際に質問に答えていらっしゃるということは、イエスが生まれ変わりの
教えを承知し、かつ、それが正当であると考えておられることを示す。イエスご自身は弟子達に対し
て洗礼者ヨハネが過去世において本当は誰であったかを語っておられる。《すべての預言者と律法
との予言したるは、ヨハネの時までなり。もし汝ら我言を受けんことを願わば、来るべきエリアはこの
人なり、耳ある者は聴くべし。》(マタイ伝11章13〜14節)
225神も仏も名無しさん:2008/12/07(日) 16:21:41 ID:j3NU/a1S
 したがって、イエスご自身の考え方によれば、エリアは洗礼者ヨハネの人格に宿って地上に戻っ
てきたのである。この事はマタイ伝17章12〜13節の中でも繰り返され、確認されている。《[我汝らに
告ぐ。エリアは既に来たれり。然れど人々はこれを知らず、反って心のままにあしらへり。かくの如く、
人の子もまた人々より苦しめらるべし。]ここに弟子たちパプテスマのヨハネを指して言い給ひしなる
を悟れリ。》(マタイ17章12〜13節)

 ------(生まれ変わりについての)第3回目の言及は、一盲人についての質問として行なわれて
いる。弟子がイエスに尋ねる。《ラビ、この人の盲目にて生まれしは、誰の罪によるぞ。己のか、親
のか》(ヨハネ伝9章2〜3節) 他の生において罪を犯さぬ限り、どうして人間は生まれ出る前に罪を
犯すことができようか。使徒達は盲目という結果をきたした罪の種類を聞いているのではなく、誰が
罪を犯したかを聞いているのである。このことは、罪を犯す行為自体が、このような悲惨な結果をも
たらすことを当然のこととしているのである。さらに又、罪はその男が前世において犯したかも知れ
ないし、或いは彼の両親が犯したかも知れないのである。ということは、両親の罪は子供達に報いと
してかぶされる(これは聖書の教えである)こと、および、魂は〔生まれ変わって出てくる低我パーソ
ナリティーよりも〕前から存在すること、したがって、前世での〔低我パーソナリティー〕の過ちに対して
は、返報をする・・・ということを暗々裡に意味する。イエスは使途達がこのような質問をするのをはね
つけてはいらっしゃらない。もしも生まれ変わりの教えが、イエスの御心に合わないものであれば、イ
エスは弟子達に、ナンセンスなお喋りだとおっしゃったであろう。彼は単に違った態度をとられただけ
である。
 (即ち)《この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顕れん為なり。》(ヨハネ伝9章
3節)というお答えは、カルマ(したがってその当然の帰結である生まれ変わり)が必ずしも正しくは理
解されていないこと、および、人間の身に降りかかる災難は必ずしも、人間の責任とすべきではない
ことを意味する。-----」(聖書の中の再生誕とカルマの教え/ジニーン・ミラー)