キリスト教を信じたら人は幸せになれますか?

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161神も仏も名無しさん
ただ教会の教えを受け入れそして洗礼を受ければ幸せになるかということなら、ならない。
しかし辛抱強く教会に通うなりなんなりして、本当に心の変化・生き方の変化が変わるのを待つならば、
幸せになるかもしれないと思う。

心に変化がないうちには決して洗礼を受けないほうがよい、と私は申しておきます。
いくら信仰を頭で理解し受け入れ、日々祈り、その上(心をこめて)信心業など行ないまでしたとしても、
人格そのものが神によって変えられぬうちにキリスト者の身分を頂いてしまうと、
まず無理・不自然が生じます。そして、真面目であればあるほど辛いことになるでしょう。
本来、キリスト者らしい神と隣人とへの愛から自然と守られるはずのさまざまな掟も、
ただの掟、律法となります。
経験者は語る・・・。

私はカトリック(ただし教会からは数ヶ月前から離れている)だが、このあたりについては
私の知人が何人か行っている某バプテスト系教会の姿勢が、聞いている限りではたいへんよいなと思います。
心から信仰告白ができるようになって初めてクリスチャンと呼び、それを待ってから
洗礼を授けるそうです。
実際、その知人たちは皆、本当に救われているなということを感じさせる人たちです。

ひとつ言えるのは、よい先輩クリスチャンを見つけて交わることはまず欠かせないだろうということ。
これは私にもないわけじゃなかったが、
やはり求道期間中の、いわばまだよい子の顔をしなくていいうちに、たっぷりお付き合いするといいと思います。

教会員を増やしたくてさっさと洗礼を授けてしまう教会と、
焦ってさっさと洗礼を受けてしまいたい自分とにご用心。
古代の教会が洗礼準備に3年から7年もとっていたらしいのは実に正しかったと思う。