770 :
神も仏も名無しさん:
工夫坐禅の時、念の起こるのを厭うのも執着するのもいけない。
ただその念の源の自心を見窮めねばならぬ。心に浮かんだり目に
見えたりすることは、みな幻であり、真実ではないと知って、恐れるのも、
貴ぶのも、執着するのも、厭うのもいけない。
心が物に染まることなく虚空の如くであるならば、臨終の時も
天魔(仏法を害する悪魔)につけ入られることはないはずである。
また、工夫の時にはこの様なことやこの様な道理をいささかも心
にかけることなく、「ただ自心これ何ぞ」とばかりにならねばならぬ。また、「ただ今一切の声を聞く
主は何物ぞ」ということを
悟れば、この心が諸仏・衆生の本源である。
観音は声について悟られたが故に、観世音と号するのである。
「ただこの音声を聞いている者は何物か」と立ち居につけてもこ
れに心を集中し、坐ってもこれに心を集中する時、聞くものも知
られず、工夫も更に絶え果ててにっちもさっちも行かずに切迫す
る様になる。
この最中にも音声が聞こえることは中断しないのであるから、
ますます深くこれに心を集中する時には、切迫した状況も尽き果
てて、快晴の空に一片の雲もないが如くの心境になる。この中に
は我というべき物もなく、聞いている主も見当たらない。この心
は十方の虚空と同様で、しかも虚空と名づくべきところもない。
この様な境地になれば、これを悟りと思うものである。
771 :
神も仏も名無しさん:2008/09/15(月) 12:04:47 ID:kYFHJqTh
この時また大いに疑わねばならぬ。「この状態の中で一体誰が
この音を聞いているのか」と、一念も起こすことなく参究して行
けば、虚空の如くにして一物も無いと思えるところも絶え果てて、
更に味わいも無くなり、暗夜の様な黒漫々になるところで、精進
心を失うことなく、「この音声を聞いているものはこれ何物ぞ」
と力を尽くして疑い十分になれば、疑いが大いに破れて、死に果
てた人が蘇ったようになる様になるが、これが悟りである。
この時初めて、十方の諸仏・歴代の祖師に一挙にお目にかかる
ことができるのである。もしその様になった時は、次の公案を
挙揚してみるが良い、「僧、趙州に問う、如何なるか是れ祖師西来
意。答えて曰く、庭前の栢樹子」と。この様な公案に少しでも疑
いがあれば、打ち戻って以前の如くに、「音声を聞いているもの
は何物か」と参究せねばならぬ。
今生に明らかにしなければ、いつになるか知れたものではな
い。ひとたび(死んで)人である身を失えば、三悪道の苦しみか
ら決して永遠に免れることはない。
誰が隠した悟りであろうか。ただ自ら無道心なるが故であると
思い知って、猛烈に精彩をつけねばならぬ。