【大乗仏教】阿耨多羅三藐三菩提についてのスレ

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1神も仏も名無しさん
鬼和尚による悟りスレはありますが、ある程度わかる人はわかるでしょうが、唯識で言うところの未那識の入り口に入ったところ以上の進展はないので、
それから先、盤珪や空海が不生としたところ以上に進んで、法華経如来寿量品で説かれる釈迦牟尼仏を知り、さらに法界にいたるまでについて語るスレです。
もちろんそこまで到っても終わりではないのですが、このスレで語る範囲は一応そこまでとします。
それを超えた範囲について語ることは禁止ではありませんが、一応の区切りとして、そのようにしておきます。
このスレが「についてのスレ」ではなく「を得た者のスレ」であるならばそこまでいっても良いのですが、それだとこのスレに誰も書き込めなくなるでしょうから、「についてのスレ」にしました。
鬼スレで物足りない方、卒業して、その先に進みたい方のスレです。
>それだとこのスレに誰も書き込めなくなるでしょうから
いや「を得た者のスレ」でもわたしは書き込めますよという方、それはそれでお待ちしてます。
ただしひとりよがりなことを一方的にいうのはやめましょう。
それから、いまだ自らいたっていないところのことを、想像で勝手な解釈やとらえかたをして語ることもやめましょう。
2神も仏も名無しさん:2008/09/05(金) 20:41:55 ID:b6U1ZRDs
>>1
わかったから、顔洗って出直せ
3神も仏も名無しさん:2008/09/05(金) 20:44:22 ID:3+I3IIAF
あヌッタラサムヤックサムボーディのことですね、わかります。
4神も仏も名無しさん:2008/09/05(金) 20:48:47 ID:3+I3IIAF
大乗仏教というのは仏教に名を借りてはいますが
仏教ではありませんよね。仏の教えというのは自分ひとり救済すればそれで足りるわけですから。
法華経の成立時期は3世紀といわれ、これは景教が東進した時期とかぶります。
おそらくはキリスト教の衆生救済の思想を換骨奪胎したものなのです。
お釈迦様が説法してたら足元から塔が沸きあがりましたとか笑止ものですよね。
でも法華経の悪口を言うと口が腐るので言いません。おそろしいことです。
5神も仏も名無しさん:2008/09/05(金) 20:57:11 ID:b6U1ZRDs
バカがきた。

1.もともと修行者には「犀角」と言われるように一人で修行する者
 「部行」と言ってパーティを組んで修行する者らがあった。
 釈尊は元々「部行」の行者。六人のパーティを組んでいた。
2.法華経の成立時期は諸説あるが一般的には1C説が有力。
 景教の時期とまったくかぶりません。
3.法華経は仏塔崇拝と経典崇拝が交錯する珍しい経典です。
 大乗佛教は、仏塔崇拝から経典崇拝へ移行する時期に発生したのですが
 最初の大乗経典の般若経典群は、仏塔崇拝を否定して経典崇拝だけを説きます
 最初期の浄土経典の本願には仏塔崇拝がありますが、同じ経典の新しい異本には
 仏塔崇拝が消されています。
6神も仏も名無しさん:2008/09/05(金) 21:30:21 ID:6Wl6uWn8
>>5 いや詳しいですね。わたしは学問的な専門家ではありませんので、そういう学問的な成立過程についてのことは勉強になります。
いろいろと教えていただければ助かります。
ただ、このスレは学問的なこと一辺倒で進めていくのではなく、体験的なことや、自らの心を観察して得たもの、仏道における生活、さまざまな幅広い視点で進めていきたいと思います。
もちろん学問的な視点で語ってもらっても良いです。
それだと鬼スレと変わらん、といわれるかもしれませんが、>1で書いたように、その先以降について語っていく目的でこのスレを立てました。
白隠も『おにあざみ』の中で宮様に苦言を呈したりしていますが、仏道的な視点でものごとを見通していくことには意味があるはずです。
でなければダライラマはあれほどの政治活動はできないはずです。
もちろん仏道者であるのならば、仏教は生活のためのツールなどではなく、仏道の中に生活がある、ということになり、どちらが主体になるのかは明らかですが。
不生に入る以前と以降ではそこに決定的な違いがあるはずです。
そういう目的で、このスレを立てました。
7神も仏も名無しさん:2008/09/05(金) 21:49:16 ID:6Wl6uWn8
>>4 最初の二行、そういうものがゴータマが語った本当の仏教だ、という立場であれば、それはそれで否定はしませんが。
大乗仏教はそのような立場はとっていませんので、たぶんそこには接点は生まれないと思います。
別にゴータマを取り合うつもりはないので、というより取り合う対象ではないので。
それはゴータマがどうのとかというよりも、世界をどのようにとらえるのか、という問題ですので。
少なくとも大乗仏教ではそのように世界をとらえていないということです。
8神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:08:51 ID:M4WlmYri
一応書いておきますが。
阿耨多羅三藐三菩提はサンスクリット語「Anuttara samyaksaMbodhi」の音写訳です。
一般的には無上正等正覚と意訳されます。
大乗仏教でいう悟るというのは、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることです。
9たか:2008/09/07(日) 02:01:58 ID:ttS22zDY
14さんへ、
前スレを読んでいただければわかりますが、名僧や先人のかたがた、今修行をしている僧侶の方々との苦労の比較など、とてもとても私のは苦労に値しない問題外のものです。
経典に音のことが書いてあるから音に何らかの意味づけでもあるかもと自分勝手に思い込んで、時々仏リンを鳴らして手を合わせてただけですからね。
ただその間阿弥陀経以外の経典にも何か書いてあるだろうからと思って、浄土三部経と法華経の現代語訳を読み、ネットで禅も含めいろんな人の書いたものをチョコチョコと読んだりしましたが、結局は仏リンや音のことに関する私の納得できるものはなかったですね。
経典でいうと市販されている般若心経の解説書の内容にもどうも納得できなくていて、自分の母の死を切っ掛けにそれまで自分で思っていた縁起の考えではないことを、空、は示しているのではないかとも思っていました。
仕事をしながらもそんなことをしていて、気づいたら2年がたとうとしていて、自分ではそのことをわかることはできないなとこの2年は無駄だったろうと諦めの心境だったですね。
でもせっかくしてきたのだからもう少し、もう半年続けようという気持ちはありました。
大乗を調べる中で易行道という考えがあって、これは仏に全てを任せてしまおうという考えですが、つまり一切の条件を立てず阿弥陀仏なり観音菩薩に任せてしまおうとしたのです。
私は最初易行道ということにどうも抵抗があったのですが、どうにも自分ではどうしようもなくなって、 見性後なるほどと感じるところがあります
10たか:2008/09/07(日) 10:19:55 ID:ttS22zDY
>>9は別のところに書くものを間違って書き込んでしまったようです。
今気づきました、申し訳ありません。

11神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 11:24:25 ID:5TYdGnyf
別のところとはどこですか。
121:2008/09/07(日) 16:42:37 ID:By2REw0z
>>9 私も別のところを知りたいw。

すこうしわたしの体験を話しましょうか。
わたしが意識して、大乗仏教でいう悟り、無上正等正覚を得ようと志したのは学生のころ。
ある導きにより、ある人を介してあるところに道ができて、そのあるところに通うようになり、そこでそこのものから直に道を歩ませてもらいました。
19歳の春、臨済宗でいう見性をして初門に入る。それからもあるところでずっと学ばせてもらっていたのですが、あるときもうこなくてよい、と。
そこで学べる基礎は徹底してたたきこまれた、だからもう来なくて良いということですね。
それから一年位して、久遠実成の釈迦牟尼仏をみて、仏性が失われることはないという真の意味を知る。
その年末、空海が第九住心で書いているように、観じて阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得る。
ざっと書くとこんなものですかね。
ただ、ゴータマが乳粥を飲んで、白隠がコオロギの声を聴いて、悟った
(このときの悟りは、久遠実成の釈迦牟尼仏をみて、仏性が失われることはないという真の意味を知るという悟りですが)
というようなエピソードは省いてあります。

ただ、正直、そこからのほうが、道は長い。
阿耨多羅三藐三菩提を成ずることぐらいでは、本当の意味で不幸をなくすことはできません。
見性が仏道の初門であるのなら、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることは○○の初門です。
ただ、このスレのテーマは>1で書いたように阿耨多羅三藐三菩提ですのでそこまでは語りませんが。
こういったことを書くと、それこそ>1で書いたひとりよがりじゃないかと言われそうですが。
まあ、これだけをみたら、そういわれても仕方ないかもしれませんね。
ですから、それは自ら確かめてください。
13たか:2008/09/07(日) 19:15:58 ID:ttS22zDY
1さん、失礼しました。
鬼和尚のところを読んでいたのなら私が時々書いたのを読んだことがあるかもしれませんね。
わたしはいつも、座ったり立ったりする修行なんていうの?2、というスレにいます。
先日まで、座ったり立ったりする修行なんていうの? 、に2年3ヶ月続けて書き込んでいましたが一杯になり今は過去ログ倉庫に格納されてしまったようです。
誰かがまたスレをたててくれたので、先日からその続きをまた書き込んでいます。
>>9の間違いはそのスレの中の返答が長文になって書き込むことができなくなって、2つに分けて書き込もうとしたとき、ここのスレをたまたま見つけて開いていたのを忘れて知らないうちにこちらに移し間違ったようです。

私も大乗仏教、特に音について中心に書いていますが、読んでいただければわかりますが仏教宗派に限定しているわけではなく文化、一般生活にについても書いているでしょうか。
ですから、道元、一休の禅宗、法然、親鸞、空海、のほか芭蕉、利休、雪舟、長谷川等伯、マチスなどいろいろ書き込んでいます。
彼らの生き方、伝えたかったこと、作品を通して、般若心経で言う、空、ということについて私なりに伝えることができたならと書き込んでいます。
また、悟りや見性についても書いていますので、私が書いたのも読んでいただき、1さんの参考になれば幸いです。
141:2008/09/09(火) 02:10:43 ID:pSlDQ3dV
>>13 前スレ見れないw。専ブラをお使いであればdatをどこかにあげてもらえると助かります。
ので2を見ての感想を。

実はこの文章を書く前にかなり長文で書いていたのですが、パソコンが突然落ちてしまって全部吹っ飛んだので、短めに。
たかさんは真正観世音菩薩の人ですね(仏に真正帰命している限り)。
ただいまだ観音菩薩の「音」を知らない。
が、このまま仏に真正帰命し、観世音菩薩の境をしみこませきれば、いずれ観音菩薩の「音」を知ることになるでしょう。
15神も仏も名無しさん:2008/09/17(水) 16:26:35 ID:WE37oyZM
Pink Floyd - One of These Days
http://jp.youtube.com/watch?v=DQvG2SMVl84
16妖輝緋 ◆is1mRve2Rk :2008/09/18(木) 10:42:41 ID:0abaWc7w
(*⌒ヮ⌒*)ゞきゃは
17神も仏も名無しさん:2008/09/18(木) 18:51:46 ID:7Omol8kQ
歴史的発見!念仏を唱える日蓮宗が実在した!
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1181050412/
18神も仏も名無しさん:2008/09/23(火) 10:48:19 ID:QQBfRUUy
密教に至っては最早既に仏教というよりもヒンドゥ教だからな
19神も仏も名無しさん:2008/10/01(水) 08:12:05 ID:wEqpzOvs
1はどこへ
20神も仏も名無しさん:2008/10/02(木) 18:51:50 ID:ZYxi/Gxd
いますよ。
ちょっと考えることがあって、しばらく書き込んでなかったなかっただけです。

別に教理的なことを追求したいわけでも、自分の勝手な感覚を語りたいわけでもなく、本義があればよい。
ですが、やはりどこまでいっても、その本義を真に求めるものはない、とまでは言わないが、絶無に近いものだなと。
本義を求めるものがなければ、無上正等正覚といっても、ただの話のたねにしかならない。
話のたねに、なにか書いても、なにかなるのかなと。
だれに語ることなく、本義を成すことは不可能ではなく、
しかも仏道の本義を最上のものとしていないのに、それをあらためて、いだすことに意味があるのかと。

もちろん何か書けと言われれば、何か書きますけど、ここでスレを立てただけのただの名無しにネタ以上のものを求める者などたぶんいないでしょう。
人生相談なら悟りスレで十分間に合っているし(そういう意味で、別に悟りスレそのものを否定しているわけではない)、
1で書いたような、その先を真に求めているものなど、ほんとうにいるのかなと。
その先を求めていると本人は思っていても、実はその先など全然求めていなくて、
ただ自分を肥大化させたり、自分を肯定してもらいたいだけのものの相手を、語ることで相手にしたいとは思わないし。
そんなかまってかまってという者同士で語り合っても、全然本義という意味において成することに近づかないでしょう。

ですので、スレを立てたものの、どうしようかな。と思ってこのスレについてはおいたままになっていたわけです。


ですが、まあそれについては一定の結論を得たので、何か書いてもいいかもしれませんが。
それには、完全に仏道そのものの存在を否定しきることになるので(仏道がわからないからではなく、それが現れた所以を完全に理解してなお否定するのだが)、
1で書いたことに即するのならば、書かないほうが良いのかもしれません。
ただ、それでも真に仏道を求めるものがあるのならば、それにおいて何か書くこともあるのかもしれませんが・・・。
ただその本義そのもののありようについても、本義として肯定することも難しいので、少し違ったものになるかもしれませんが・・・。
21神も仏も名無しさん:2008/10/02(木) 21:51:31 ID:aVpkZ7Ih
2ちゃんは語りの場やから色々かたってええと思う
22神も仏も名無しさん:2008/10/03(金) 21:06:28 ID:gB1VicqY
そうですね。
>20のように書き込んでいる時点で、語ってるやんか、と言われればその通りですし。

20のようにいいながら、なぜこのスレを立てたかというと、「人の本義」は仏道にあると思うからです。
そして現時点で、わたしは人の生身の肉体を有してこの現世にいるので、ならばやはりこのことと係わらないというわけにはいかない。
かな、と。
その「人の本義」の結論は、人などいない、ということなのですが。
よく仏教について語る時によくたとえとしてだされるのは、たまねぎの皮をむいていくようなものだ、と。
では、ほんとうに最後まで皮をむいていったら、本当に何もないのか。
仏教で何もない、という表現をするとき、そのまま虚無の意味で何もないととる者が多くいますが、別にそういう意味ではない。
人という主体がないだけで、とりあえずの別のものが指し示されます。
ルシャナ仏と華厳において出会うとは、その別のものとの出会いに向けての道しるべです。
ゴータマが二度と生まれ変わってこない、とは当たり前で、生まれ変わってくる主体としての人をなくしているから。
ではブッダとなったあとのゴータマとは何者だったのでしょう。
即身成仏とはいったい何なのでしょう。

別に訊いているわけではありませんよ。
ただ仏道と「人の本義」は、この世(現世という意味ではない)においては切り離すことができないこと。
そしてそれを真に明らめることこそ、無上正等正覚を求めるものにとって必要なことであると。
そしてたとえ無上正等正覚に至り成しても、そこにとどまれば真に尊きことを失うと。

ここまで書いて、別にこの世の価値を認めてこういっているのではない、ならここに至ってそんなこと語る意味ないやん、と。
まあ、そうなんですけど。でも俺ここに居るし。
ここに居る意味をもっときちんとつめていかないとなあ、と。
23神も仏も名無しさん:2008/10/03(金) 21:07:44 ID:gB1VicqY
ここまで読んで、生活観がないなあ、と思われるかもしれません。
まあ、頭の中で遊んでいるように思われて当然ですね。
しかし、これをこのリアルな現世において、通身成していこうとしたならば。
それこそ、ほんとうに。
教えに随って生きていくのと、道を成していくのと、さらに道を超えて行くのと。
格段の差をこえて、次元の違うものとなっていくでしょう。

ただこのスレでここまでいってしまうと、阿耨多羅三藐三菩提の内側は完全にこえてしまいますね。
ただ、阿耨多羅三藐三菩提そのものを、ひいては仏道そのものをどう取り扱うか、という視点からは語れるかもしれません。
ただこれから先、真に仏道が求められているのか。
そして、仏道で今要求されていることにこたえられるのか、というのはまたひとつの問題ですね。
ただ、自身を人であると認じるなら、このことを避けては通れないでしょう。
そして人の姿としてここにいるわたしも。

なにか悪いものでも食べたん、と言われそうですが。
逆にただの電波なら、何も思うことなくいられるのかもしれませんね。
ほんとうに向かい合い続けることを思うことなく・・・。
24排列も所属も数量も同一も違う?:2008/10/05(日) 19:55:27 ID:FB8J58ic
空と言う用語は漢字の空の義に反する、誤解の元だ。
無の類、空虚とか空白とかの熟語に表れるのが漢字の
意味(語義)=字義で見た「空」の正当な登場場面のはず。
色という文字にも日本語の「いろ」:感覚の意味と
般若心経などにおける特色・色相…の意味がある。
空は五大の空大で、五行なら土行と呼ばれるだろう。
この大枠の他に加減乗除に比する4つの大枠がある。
(→加減乗除の順に火・木・水・金行=火・水・風・地大)
 「空」同一性の大枠には残りの四つを借りた拡張として
 有(所有・所属など)に代表される四つの応用がある。
 それらは同一には似て非なるもので互いにも違う。

大枠としての空と、実用例で下位分類の色(色相)には
「即」と呼ばれる種類の「拡張された同一性」があって、
その関係記述の対象の位置を交換しても成り立つ。
 風星=自在天=数量的単純化=評価順序性は
 そういうのがダメなので、その種の拡張同一性は
 除外される…それに、おそらく色相でもないだろう。
 色相型の類同一性なら「色とりどりの花のお経」で、
 詳細に記述されるので、ここでは「後でね。」扱いだ。
※「互いに同一でない」という種類の類同一性もあって、
これが釈尊の本地=得意分野な事と否定文の連発から
『即』というのは本来はこの意味だった可能性があるな…。

空=形容詞類には数量型と方向・傾向性=形式型と
「容」=正義・特色型と同一性否定型に大別される。
中国なら天球などカタチ・角度・数を天円と呼んで、
大小の量だけの世界の地方とは呼び分けるだろう。
地方の区切りは罪・罰の冠の象形の対応排列幅で、
「不正」な権利(=仮・借り⇔貸し=義務)なら「歪」む。
語義は登場文脈許可(義)の裏打ち=検証(疑)だから、
違反する取り幅の拡大は邪=ななめ・よこしま(横縞)だ。
25神も仏も名無しさん:2008/10/05(日) 19:56:18 ID:FB8J58ic
真理は所有物の類ではないし実体との関係もないから、
数学的な公理系のように書かれているのではないかな…?
26神も仏も名無しさん:2008/10/05(日) 22:41:11 ID:eZ0hlYZQ
あまり、分類・分析法に偏ってしまうとほんとうのことをかえって見失ってしまうので、あまり勧めませんが・・・。
せっかくの書き込みなので、わたしも少し。

たぶん、>>24で書かれていることを私がきちんと理解しているとは思いませんが。
空と仏教でいわれているものについては、チベット密教のゾクチェンなどでいわれている表現の方が、より直裁的で、理解はしやすいかもしれません。
ただ、それを存在として、扱ってしまうのが、普通の人間なので、あくまでもチベット仏教がとっている中観帰謬論証派のとらえかたを通った上でとらえるべきでしょう。
真言密教でいうならば、空海が十住心論第七住心で言っているように、不可得としてとらえるべきでしょう。

ただ、>>25のようにとらえるなら、悟りスレに行った方が良いと思います。
実体をどうとらえかという問題はありますが、
>実体との関係もない
と言っている点で大乗仏教的な空理解上はアウトだと思います。
不生の境は
>数学的な公理系
ととらえていると、入ることはできませんよ。
27神も仏も名無しさん:2008/10/15(水) 21:02:40 ID:t8n2B8kC
くえびこさん
28神も仏も名無しさん:2008/10/15(水) 22:07:41 ID:5dRg0Vhu
紙風船
29神も仏も名無しさん:2008/10/26(日) 16:29:22 ID:t3+Rwowz




葬式仏教乙wwww
まじで最低な奴多いよな、宗教家って、、、

檀家から巻き上げた金で、キャバクラ行き放題。
檀家の御布施が少ないとその檀家の悪口を流布させる。
ってか、僧侶って何であんなに酒飲み多いの???

自分で酒豪とか自慢しておいて、病気になって、
病院に対して「酒が飲めねーだと!あ?ふざけんな!!!」とか言ってきたりする
飲みたいなら飲めよ、そして勝手に死ね。

葷酒山門に入るを許さず、三省堂の辞書で調べた。
「禅寺の門の脇の戒壇石に刻まれる句。清浄な寺門の中に修行を妨げ心を乱す不浄な葷酒を持ち込んだり、それらを口にしたものがはいることを許されないの意。」

おまえら僧侶は医師全員に陰口言われてんよw
ざまぁwwww

あと、僧侶のくせに人の葬式に純白のスポーツカーで来るのはやめとけwwwwwwwwww




30神も仏も名無しさん:2008/10/31(金) 00:21:17 ID:HxxAlYAb
>>29
あらしに何か書くことはないのでしょうが。
一応書いておきます。

そのようなこともあるでしょうが。
このスレのテーマである、阿耨多羅三藐三菩提には本質的にはあまり関係ないことです。
つまりは基本的にはスレ違いです。
31神も仏も名無しさん:2008/10/31(金) 00:34:42 ID:HxxAlYAb
ネットをみていたら、結構良い理解のことが書いてあるHPをみつけたので、紹介しておきます。
ttp://www.chohoji.or.jp/houwa/
あれ、と思うところもありますが、かなり理解としては良い線いっていると思います。
大乗仏教で本当に大切なのは、空に対する理解よりも、法界に対する理解です。
これは、わたし個人の見解ですが、この日本で本当に道を完全に成そうと思ったら、真言、天台ともに身に体しておいたほうが良いです。
32神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 03:20:52 ID:Vhsngz5S
日本的なものを排した(つまり日本仏教でない)大乗仏教を語るのはスレ違いですか?
33神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 18:47:17 ID:fiQ1iHVT
>>32
いえ、ぜんぜんスレ違いではありませんよ。
阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚)にかかわることを語るのでしたら、もちろんOKです。
たとえば、チベット仏教などにかかわることなどでも、もちろんOKです。
34神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 19:03:28 ID:/sFN/Su7
日本にだって教会もモスクもある。キリスト教やイスラム教が日本的だと
言うのなら別だが。
35神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 19:03:33 ID:fiQ1iHVT
これは、ほかのスレで書いたことですが・・・。

地域的なありかたや、文化圏の視点も大切でないとは思いませんが、
それは無上正等正覚に至り成するという釈尊が開いた仏道ということに関すれば、本質的な意味ではないと考えます。
そうでなければ普遍性を持ったものにはなりませんから。
もし、地域ごとに語られる仏道がそもそも違うものを語っているとすれば、それは単に自分の意見の表明にしか過ぎません。
あくまでも普遍性を持った仏道が、それぞれの地域や宗門でどのように語られているのか、そのような視点で仏道は語るべきだと思います。
あまたの仏や菩薩もみなそうです。
すべてをさとらしめるという仏道の根幹を別の視点から語っているに過ぎません。
八万四千といわれる法門もすべてそこに至り成するための、入り口に過ぎません。
ですから仏道を語るときにはあくまでも、仏道そのものの視点から語られなくてはなりません。
そうでなくては、仏教者とはいえても、仏道者とはいえないでしょう。
もちろんそれぞれの見解は尊重します。
それは仏教だけではなく、他の宗教や、宗教以外のそれぞれの人が持つさまざまな意見もそうです。
ただ、その見解や意見がどれほどの普遍性をもつのか、それとも単なるローカルなものに過ぎないのか。
(本質的な意味でのローカルはもちろん大切です。ですから単なるとつけました。)
それをきちんと見極めていくことが大切です。
36神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 19:39:23 ID:z3ZnLlar
できることなら、ぽったん さんが、あちこちを荒らすのを諌めてもらえまいか?
一音にて事物の無常を感得し、
音の余韻が消えるに伴い
情想の遷ろうを観る。

悪くはないが常辺の遮断に偏りがすぎる。
早い話が夢見勝ちに自分を棚上げして恥じなくなる。
その禍陥にうっすらと自覚はあるでしょ。

皮肉な事である。
有部の粗さ、挟量さは捨離一事で総てを統括せん、としたゆえ。
口に大乗を唱えつつ上座以下の小さい器で何を運ぼうとするのか。
初めから乗車拒否するつもりなら大乗なんていいなさんな。
そのように穴蔵に潜っていることも
自由であり、縁によっての故、なんでしょう。
見性した自分を握っているつもり、悟りをひらいたつもり。結構です。

目が開いているなら自分が何を握っているのか?
腰を据えてから見てください。
38神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 21:07:26 ID:MieMVgk6
ぽったんさん が恥を知らないのも

捨離一事で全てが足る

この思想が根底にあるからです。
39神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 23:32:52 ID:/sFN/Su7
ただの異生羝羊心だろう
40神も仏も名無しさん:2008/11/04(火) 01:01:03 ID:1DcBpKD0
「阿耨多羅三藐三菩提」っていうとなんか難しそう(難解なものには違いないんだが)だし、もっとバカにもわかりやすい言葉に変換出来ないもんだろうか?
41神も仏も名無しさん:2008/11/04(火) 01:12:36 ID:RceD6mWT
【神の】俺は選ばれた人間だ。【選民】 (78)
真理が示されたスレ。熟読せよ。
42神も仏も名無しさん:2008/11/04(火) 01:41:59 ID:s2m4zcUd
弘法大師は曼陀羅を基にされている。
だから十住心の羊心は誰の心中にもある。

なぜ童心にも劣る羊心が彼の主心になるか
と言えば根本には如来蔵の身勝手な理解と
それから付随した捨離の思想がある。

彼は口だけ。何も捨てずゴミを山と積む。
かと思えば恥の意識や他の意見は捨てる。


彼が禅にこだわるのは偶然ではない。
43神も仏も名無しさん:2008/11/04(火) 02:51:34 ID:qQOYZUyX
>>37さん。
>>1を読んでみてください。
そのようなところの先を語るスレがなかったので、このスレを立てました。
ですから、何か書き込むところがあるのでしたら、前向きにその先について書くことを望みます。

>>40
>8
44神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 02:17:52 ID:JOPuMVoG
>一音にて事物の無常を感得し、
>音の余韻が消えるに伴い
>情想の遷ろうを観る。
突然このように書かれているので、何に対してこのように書かれているのか、と思いましたが。
ただ、その後に書いたものをみて、だいたいおっしゃっているところは、たぶんこういうところだろうというのは理解しました。
ただ、逆に不生の境を過ぎてからだと、まったく別のものになります。
>>31で紹介したサイトで光の瞑想というのを勧めていますが。
ここで紹介している瞑想は、>>37さんが語っているものとは違います(別に私は長保寺の回し者ではありませんよw)。
もちろん、わたしはこれを書いた人に全面的に賛成ではありません。
ただ、観るというのも当然いろいろあって、観世音菩薩も観ているわけです。
ただ、無常を感得し情想の遷ろうを観る、というのがあなたのいうものだけであるなら、テーラワーダスレにいって瞑想のしかたを習った方が速いです。
ただ、それは大乗仏教的にいうと、止観の本質ではありません。
そういう意味で、上座部と大乗は止観のとらえかたが基本的に違います。
それは空性のとらえ方に違いがあるからです。
45神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 02:19:33 ID:JOPuMVoG
ただ、>>31で紹介したサイトの光の瞑想というのは、密教をふまえているので、大乗仏教で行う止観とも違います。
ただ、説明は省きますが、最終的には大乗仏教でふつうに行う止観と同じ事を行っていることになります。
しかももしひたすらこれをやったら、たぶん無上正等正覚に至ることも可能です(わたしはまったく同じことはやったことないけど)。
うそみたいだけどほんとのはなし(これを書いた人はまだそこまで至っていませんけど)。
ただ、自分の方に引き寄せてやるのはだめですよ。
あくまでも仏道の本義である、すべてをさとらしめる、ということをふまえつつ。
だから、そのために仏があらわれて導いてくださっているのだと。
そういう気持ちで向かい合わなくては、だめです。
ただ、ほんとうの意味でそういう気持ちを持つことは、よっぽどの純粋な大バカしかできませんから。
ですから正直いってこれをふつうの自分の自室でやるのはおすすめしません。
だいたいはふつうの自分の自室でやると、光りの向こうに釈迦牟尼佛ではなくへんなものが現れるのが、まあふつうは常です。
ですから、ここはきちんとしてるな、という寺か神社にでもいって、そこの本尊か祭神においてやるのがいいでしょうね。
(まあつまりはふつうにきちんとした参拝をしろということですね。そしてふだんは家の仏壇の奥の仏か神棚の神霊にでもきちんと向かって。しごくふつうのことですが。)
(この人がこれができるのは、すでに仏と結縁しているから。そしてたぶん寺の中というほかのものが入りにくいということもあると思います。)
そういう意味で、わたしは白光真宏会の五井昌久というひとは評価に値すると思っています(今の白光真宏会は評価しませんが)。
まあ、第一に自らにおいての神や霊そのものと真に向かい合うことは大切です。
仏道の本義である、すべてをさとらしめるということがほんとうのほんきにできたら、だれでもさとれます。
ただこれをほんとうのほんきにできないのが凡夫なのです。
46神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 02:52:44 ID:yGTtB725
あなたは他からの指摘に対して、言を左右にして逃げる。
あなたの態度はあなたの縛られているところを明白に顕す。
あなたが言い訳しても足を引きずれば足の怪我は判る。
47神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 03:05:38 ID:yGTtB725
あなたが繰り返し「私には咎はない。貴方は誤解している」
と書くように、あなたの対象も本来は不可知なんですよ。
あなたが対象を確かに知るというなら、あなたも同様に知られているはず。

わかりますかね。
48神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 09:02:56 ID:cW30Aq0y
わたしは大乗と上座の空は基本的には同じだと思います。
ただ粗密はあります。渡る川は一緒で筏の作り方が違います。
49神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 15:25:56 ID:JOPuMVoG
>>46 たぶん、大王さんですね(笑)。
突然説明もなしにそのように言われるので何のことかと思いましたよ。

ただ、
>>37 >捨離一事で総てを統括せん
>捨離一事で全てが足る
わたしが書いていることはもちろんその先のことです。
たぶんあなたがいう「不可知」とわたしがいう「不可得」にたぶん見解のレベルに相違があるのだと思います。
あなたは「不可知」であるならば、知そのものがない、ととらえていますが、
「不可得」というのは、とらえることはできないけど、じゃあ、それではおのれが今この時に直面しているものはなんなのだ、いうことです。
これをつかまえようとすると、けっしてつかまえることはできない。
しかし、確かに今ここで、わたしはみているしかんじている。
つかまえることはできないけれど、ここにいる。
それはいくら否定しても否定しきれない。
だから八不が法門になる。それはなぜか。
たしかに我空法空であるけど、我も虚無、法も虚無ということではない。
固定した自性はないが、今私という存在はここにいるということは、私がいくらそんなものがないといってもいるのですよ。
今ここに。
そのことを真に受け止めるがゆえに、仏道に対する真の理解が生まれるのです。
つまり、不生というのは、生ぜず、では終わらないということです。
生じないのにここにいるのはなんなんだと。
それはとらえることができない。
固定した自性がなきゆえに。
故に不生を「境」とする。
「不可知」であるがゆえにそれでも直面するものは、「不可得」というしかない。
ここをもって中とする。
ここがわたしがいうその先です。
50神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 15:40:48 ID:JOPuMVoG
まあ、理屈でいうとそういうことになりますが、たとえ頭でそうなのだと思っても、不生の境には入れません。
ほんとうに、それまでの自分の価値観を100%否定して、そしてさらにそのことを受け止めなければなりません。
もっと簡単に言うと、それまでの自分の価値観では100%受け入れられないようなことを、それでも受け止められるかということです。
そのためには、真に自分をなくしてでも、成し遂げたいことがなければ、とてもそこには踏み込めないものなのです。
だから、一旦、ほんとうに死に切らなくてはならない。
それで、ほんとうになにがそこにあるのか、はまったくわかりません。
ただ、ほんとうの道理そのものに自分のすべてをあずけてでも成したいものはなんなのか。
そこにおいて真に自分がなくなり、自らにめざめるのです。
もちろん、そこに入っても、まだ自らのすべてを体するわけではありません。
ほんとうにそのことの意味がわかるのはまだまだ先です。
しかし、そこでようやく自らに入るのです。
ですから、
>捨離一事で全てが足る
の先に進み、「不可知」までいっても、まだあまい。
そこはまだ不生の境ではない。
まだそこは穴ぐらのなかにしか過ぎないのです。
それでは正受老人は得したりとは言ってくれません。

そのことを真に通った上でさらにその先にずっとすすんでいってはじめてようやく、
>あなたが対象を確かに知るというなら、あなたも同様に知られているはず
ということを真に問いかける機縁を得ることができるでしょうが。
まだこの問いかけを本当の意味で発するにはまだまだ通らなければならないことが多すぎます。

ですから、あなたは先を急ぎすぎているのです。
ほんとうの意味での正師ときちんと向き合っていれば、そのことはきちんと伝えられるはずなのですが。
(ここでいう師とは別に生身を持った師という意味ではなく、真に正しき道を歩むようにと現れた、真の仏の意味を以ってそのように言っています)。
そういう意味では、あなたは、見失っているところがあるということです。
51神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 18:12:51 ID:JOPuMVoG
>>48さん。
わたしも、大乗仏教と上座部のヴィパッサナー瞑想での空は基本的には同じだと思います。
というよりも、違うものであるのなら、そもそも大乗仏教で、上座部で行うような瞑想を行うことはないでしょうし、そもそも釈尊がそのようなことを行わせなかったでしょう。
ですから、上座部で行う瞑想で、禅でいうところの見性には至ることはできると思います。
ただし、とらえかたは違うと思っています。
空性をあくまでも鏡のようにおいておくか。
それともその空性に真に入ってその空性の境におのれをおくか。
それは上に書いた通りです。
ではその真の違いはどこにあるのか。
それは帰命ということにつきます。
つまりは、上座部においては体はあくまでも自分の体をでません。
しかし大乗仏教においては、仏の体を受けて自らの体とするのです。
そのために仏は自らの体を裂いてくださっているのです。
そのことがわからなければ、本当の意味での大乗仏教、というより仏法ひいては仏道の意味はわかりません。
ですから、>>31
>大乗仏教で本当に大切なのは、空に対する理解よりも、法界に対する理解です。
と書いたのです。
52神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 18:17:57 ID:JOPuMVoG
ですから、
>ただ粗密はあります。渡る川は一緒で筏の作り方が違います。
というのは、半分はあっていますが、半分は間違っています。
単に粗密の違い、筏の作り方の違いだけではなく、体のとらえかたが違うのです。
つまり空性はそれだけではとりだすことができないのです。
それが中観自立論証派の空のとらえかたと中観帰謬論証派の空のとらえかたの違いです。
ここのところがほんとうにわからないと、維摩経でいう、衆生病むがゆえに我も病むということが、
ひいては仏道でいう大慈悲心ということがいかなることであるのか、わかりません。
逆にこのことが本当にわかれば、たとえ無人島でたった一人の状態であったとしても大乗行を行うことができます。
ですから、空海はこの文字と別に真言があると思ってはならないといっているのです。
そのことがほんとうにわかれば、浄土の門で極楽往生するというのは、別に生身がなくなってからのことをいっているのではないことがわかります。
白隠があげた真箇浄業の人とはそういうことです。
そしてさらに修していって無上正等正覚に至るのですが。
それは、まだまだ先の話ですので、とりあえずはそういうものだというぐらいの理解で良いと思います。
53神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 21:03:54 ID:Su7f8uTY
やれやれ
もし初めから>>51-53のような理解があるなら、
チベ*のスレでの回答や書き込みは悪意以外の
何物でもないのではないですか?


よくよく今まで御自身が書いたこと、
その時思ったことを見返してみるように。
54神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 21:39:23 ID:Su7f8uTY
あなたの言いたいことは判らないでもない。
だから、今回はあなたに合わせた。


しかし本来はもっと基本的な勉強がなければ話すべきではない。
なぜなら、話しかけるべき対象は未経験者であるからです。
あなたが中観派をきどるのは自由です。が実質上あなたが
おこなっているのは有部の実践なんですよ。
55神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 23:01:56 ID:i9r6Wf1y
加えて言えば、
相手が話してもいないことを勝手に補足して
勝利宣言をするのは下品だと思う。

でも
趣味の問題であるから必ずしも止めるべきとは言いませんよ。
56神も仏も名無しさん:2008/11/09(日) 01:27:44 ID:wuAoPWCy
>>5355
相変わらずですね。
わたしがチベットスレで

>大王さんのいうところは、仏道にもとづいて何か語っているというより、ただの個人的感想ですね。

>きちんとした反論というよりも、個人攻撃が目的の書き込みをしているように見えます。

と書いたように、あなたの書き込みには内容に対するきちんとした反論がないのですよ。
毎回。
今回は別にスレ違いのことを書いているわけではなかったので、返答しましたが。
(それでも何の脈絡もなくいきなりの書き込みでしたので、あれ、とは思いましたが。)
>しかし本来はもっと基本的な勉強がなければ話すべきではない。
>なぜなら、話しかけるべき対象は未経験者であるからです。
>あなたが中観派をきどるのは自由です。が実質上あなたが
>おこなっているのは有部の実践なんですよ。
わたしは未経験者であるからこそ、仏道にはいろいろな法門はあっても、基本的なところは同じものであることをきちんと伝えるべきであると思っています。
各宗門はあくまでも現れ方の違いにすぎないと。
それにはきちんとした仏道の理解に基づいてその骨格となるところを語るべきであると思っています。
個人的な感覚をいくら語っても、それが仏道に対する正しい理解につながるとは思いません。
逆に未経験者にとっては、自分勝手にそういうものに近づいていって、危ない方向に迷い込むもとになりかねません(というよりもあなた自身がそこに迷い込んでいるとわたしは思っていますが)。
それよりもあくまでも仏道の根幹に基づいて語るべきです。
>実質上あなたがおこなっているのは有部の実践なんですよ。
というあなたの意見に、わたしは賛成できませんが、もしそうであるならば、そうであると考える理由をきちんと書くべきであると思います。
そうでなければ、わたしも反論しようがありませんから。
ただ、これまでのあなたの仏道に対する理解をみていると、反論しようがないようなことを書きそうなので、そのような書き込みであるのなら、ひかえてください。
57神も仏も名無しさん:2008/11/09(日) 01:43:28 ID:wuAoPWCy
それから
>チベ*のスレでの回答や書き込みは悪意以外の何物でもないのではないですか?
というのは、たぶんテーラワーダについての書き込みについてのことであると思うのですが、
わたしの立場を示した上で、そうでないとの書き込みに対しての質問ですので、もちろん悪意をもってのものではありません。
そのあと、訂正としてありませんと断じたのは、確認がとれたからです。

>相手が話してもいないことを勝手に補足して
わたしはそのような書き込みをしたこころあたりはないのですが、具体的にどの書き込みを指しているのでしょうか。
>勝利宣言をするのは下品だと思う。
というのは、チベットスレの72の書き込みを指しているのでしたら、別にもちろん勝利宣言のつもりではありませんし、
ですから反論があるのでしたら、きちんとそれにあったスレに書き込んで、と書いたのです。
(ですから今回はきちんと返答しています。)

別にこれは、個人攻撃のつもりではなく、逆に忠告のつもりなのですが。
あなたは、仏道云々以前の問題として、基本的なコミニケイション能力に欠けているように感じます。
そういう意味ではぼったんさんがいわれることもわからないではないです(もちろんわたしはぼったんさんの仏道に対する理解には全然賛成ではありませんよ)。
まあ、わたしも自身がそんなにできた人間であると思っていませんがw。

これ以上このスレを個人間の言い争いのようにみえる書き込みで埋めたくないので、内容に対する質問や反論以外の書き込みに対しては、返答することは基本的にないと思います。
もし、何か書き込むことがあるようでしたら、読む人の参考になるような書き込みを望みます。
58神も仏も名無しさん
了解しました。
あなたはあなたの道を行かれるがよかろう。

最後に一つ。
仏はあなたの召使いではない。あなたの意思に沿うもの、
が必ず善い物であるという保証はない。忘れないでいただきたい。