座ったり立ったりする修行なんていうの?2

このエントリーをはてなブックマークに追加
1神も仏も名無しさん
教えて

座ったり立ったりする修行なんていうの?
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1147460282/600n-
2ろりぽっぷ ◆epMrs1963. :2008/08/29(金) 22:05:54 ID:67esVTYj
つか、2までスレ行って、疑問解決しなかったのぉ??
3音響:2008/08/29(金) 23:38:06 ID:SXRMW7qN
ヒンズースクワットだろ。
4神も仏も名無しさん:2008/08/30(土) 03:41:32 ID:DbV6MqpG
「ここが変だよ。ろりぽっぷ2」
[PC版]http://www.vote5.net/2kote/htm/1208337146.html
[携帯版]http://www.vote5.net/2kote/ivote.cgi?result=on&room=1208337146

「2ちゃんコテ嫌い投票箱 Part.2」
[PC版]http://www.vote5.net/2kote/htm/1211808089.html
[携帯版]http://www.vote5.net/2kote/ivote.cgi?result=on&room=1211808089
5たか:2008/08/30(土) 09:32:35 ID:IsFWyX6W
>>1
スレをたてて頂いてありがとう。

釈迦は当初女性の出家は認めていなかったようですね。
まぁ、いろいろ理由はあるでしょうが。

大乗仏教では女性は悟れないという小乗の考えを弟子おもに一番弟子のシャーりプトラ、舎利子を登場させて批判します。
維摩経では維摩の見舞いに訪れた菩薩や弟子たちに病室にいた天女が花びらを降らせます。
煩悩に左右されない菩薩たちにはその花びらが付かないのにいまだ悟りに至っていない舎利子たち弟子や阿羅漢にはその花びらが纏わり付きます。
気になってそれを振り払おうとすればするほど一層強く纏わり付いてしまうようです。
服に付いたほこりを振り払い叩き落そうとしますが一瞬離れても静電気ですぐに服にほこりが吸い付くような感じでしょうか。
放って置けば気にもならないものをいじくり始めると気になって仕方がない。
煩悩や苦をいじくればいじくるほど深みにはまって抜け出せなくなります、鬱などその典型でしょうか。
花びらには良い悪いの分別がないのにそれをあなたが分別するから煩悩や執着心や苦を作り出してしまうのではないですかという天女の言葉で舎利子ははっと気づきます。
6たか:2008/08/30(土) 10:19:27 ID:IsFWyX6W
この天女のすぐれた境地を目の当たりにした舎利子は天女が女性なのに何故悟れるのか、悟っているのに何故女性のままなのか疑問がわきます。
釈迦の当時、女性が悟る場合、いったん男性になって初めて悟れると思われていたようです。
それを察した天女は、私は今まで女性の本性を求めてきたが見つからなかったと言い、つまり男女を区別して捉えるべきでないといい、瞬時に舎利子を男性に変えてしまい、男性も女性も本質においては区別などないことを教えます。

法華経にも竜女が出てきて、女性は悟れないと思い込んでいる舎利子を打ち負かしてしまいますね。
大乗仏教では悟りにおいても男女の区別などない、平等であり、菩薩として生きることができるのだということでしょう。
そういえば、観音菩薩は、口ひげみたいなものを生やしていたり、赤子を抱いていたりして、女性にも例えられ、また男性にも例えられます。
音を観じれば、空を観ずれば男女の区別などなく悟りの境地に至れるのだ、到彼岸、これが般若心経の観自在菩薩の教えでしょう。
7たか:2008/08/30(土) 11:49:01 ID:IsFWyX6W
はるか2500年前にインドで釈迦から始まった仏教。
山を越え、中国に伝わり中国の思想も加味されながらさらに練られ、海を渡って日本に至りました。
平安時代には蝦夷といわれた野蛮の地とでも言われた奥州の平泉に黄金の華が咲きました。
観音菩薩は一輪の蓮華のつぼみを持っています。
おそらく釈迦も考えも付かなかったでしょう、蓮華の地下茎を通って日本文化という世界でも誇れる大輪を咲かせました。
それは前スレでもいろんな人の名を挙げて書いてきましたが、単に仏教の教えに留まらず、日本の文化や精神の礎になっています。
それはいつも意識しないあまりに当たり前のこととしてわたしたち一人一人の心に溶け込んでいます。

前スレでも書きましたが
慧能禅師が死を前にして書き残した偈、
 心地含種性
 法雨即花生
 頓悟花情己
 菩提果自成
心という土壌は仏性の種を含んでいる。
教えの雨を受けると智慧の花が開く。
即座にこの花の心を悟ってしまえば悟りの花は自ずから実る。
という慧能の最後の言葉があります。

観音菩薩の手に持つ一輪のつぼみ、是非とも咲かせて、次に伝えたいものです。
8たか:2008/08/31(日) 02:55:53 ID:sScWM8so
仏りんを鳴らして鳴り終わるまでのおよそ30秒間手を合わせて何も考えない、リンの音に身を任せるように。
いろんなことが浮かんできますが何も考えないようにすることです。
そのうちそれなりに慣れてくるでしょう。
そうしたら、仏リンを鳴らした後の一回目の呼吸を少し深く吸い込んだらいいでしょう。
まぁこれを続けてみることです。自分では気づかなくても少しずつ身体がなじんでくると思います。

大乗経典では自然の音、小川のせせらぎの音や小鳥の声、風の音、雨しずくの音などの記載があります。
その音が何を意味するのか、何故音のことを先人、仏が書き残して後世に伝えているのか、自分で感じ取ってください。
仏法は一音なり、仏は一音をもって法を説く、といいます。
観世音菩薩の観世音とは、世の中の音を観る、と書きますが、この音を観じて自由自在な境地に至ったのが般若心経の観自在菩薩ということです。
空を知り、一切の苦厄を渡したもう、つまり、悟りの境地に至るのだということでしょう。

見性し先人の教えを知ることで、その後は、一呼吸一呼吸が、一音一音が安らぎを教えてくれます。
9たか:2008/09/01(月) 23:16:06 ID:LoDr4psl
世の中、あららと思うことは突然あるもので、前スレの座ったり立ったりする修行なんていうの? ももう少し書き込めるものと思い込んで書いていましたが。
そのためそれ読んでいただきながら、それを基に引き続き読んでいただきたかったのですが、どうやら過去ログ倉庫に格納されてしまったようで、でもできればそれを何度か読んでいただいてほしいですね。
まぁ、前に書いたものも取り混ぜながら先人の伝えようとした大乗を少しずつ書き進めていきます。

それにしても今日の福田総理の辞任も突然ですね。
テレビを見れば、投げ出す、放り出す、無責任、という言葉が飛び交っていますね。

でもはるか昔釈迦が釈迦族の王子を投げ出し出家した時も、釈迦族の国民は驚きだったんでしょうね。
経典を見れば、人を苦から救うために出家をしたということでそれはそれでまことにすばらしいですが。
でも、一般人は家族も捨てて、全てをなげだすということは実際はなかなかできないことです。
大乗ではほとんどの人つまり衆生が在家のままでも出家しないままで苦から救われる道を示したものでないでしょうか。
先人のすぐれた人の中には修行の中でそれに気づいた人がいたのでしょう。
それが即ち経典であり先人の教えや生き方にそれが示されてるように思えます。
10たか:2008/09/01(月) 23:37:37 ID:LoDr4psl
禅の六祖慧能はその代表でしょう。
多くの農民や商人から慕われたそうでその姿はまさに十牛図のモデルでしょうか。
だから、その後に続く人は彼を見習って彼の境地に少しでも近づきたいと修行に励んだことでしょう。
慧能禅師は農民でで貧しくて文字が読めなかったといわれています。
でも仏法をよく知っていて、誰それの区別なく全ての人の心に仏性の種があるのだと説いています。
11たか:2008/09/03(水) 23:21:04 ID:IKJERZYz
すっかり秋が深まってくるように、今も外で鳴く虫の声が響いています。
目を閉じてゆっくりと静かに呼吸をするとその虫の声が心に染込んでくるようです。

芭蕉は山寺立石寺で
 閑さや 巌にしみ入 蝉の声
と読みましたが、季節や場所は変われど、音というものは常に心にしみ入ります。
見性後の、音とはまさにこのようなもので、音と一緒、音がその時をつくっているように思えるような安らぎがあります。

前に立石寺に行ったことを書いたことがありましたが、その時は芭蕉のこの句を味わいたくて行ったわけではありませんでした。
インターネットで見ていたら立石寺にマニ車という塔婆が多くあってそれがどういうものか見たくなって立石寺に行ったのです。
立石寺の参道、折れ曲がった石段のいろんなところに、柱の中に南無阿弥陀仏と書かれたくるくる回る車があるマニ車と呼ばれる卒塔婆が多くありました。
参道の途中はもちろん頂上の本堂の奥には無数にありました。
参道の途中にこのマニ車を書いている説明板があってそれによると、
このマニ車を納めることにより参道を行きかう多くの人がこの車を回してくれることでその功徳で若くして無念のうちに亡くなった子供が再びこの世に生まれることができる、
というようなことが書かれていたようです。
それを見て、どんなに苦しい中でも、もう一度生まれ変わってこの世で人生を全うしてほしいと思っている多くの親がいるのだろうと思いました。

人生は一度っきりでしょうが、だからこそ今その時その瞬間を大切に生きる、その瞬間の出会いを大切にする、これを一期一会といいます。
それを知れば知るほど、命の大切さがわかるものだし、慈悲、慈愛も自ずから沸き起こるものでしょう。
今その瞬間の音を観ずるとは、観音とは、その瞬間を心と身体全身で受け入れることですね。
12たか:2008/09/06(土) 00:21:41 ID:J5wla54G
一滴の水滴にその瞬間の世界がそのまま映し出される、その瞬間の世界がそのまま入っている,さらに言えば、その瞬間の世界がその水滴をかたちづくっています。
その一滴の水滴には、同じように、あらゆる音がその瞬間の水滴をかたちづくっています。
その水滴には、光も、音も、匂いも、空気も、温度も、その他のあらゆる一切全てが入って、その瞬間の一滴がかたちづくられているといえます。
だからその瞬間に水滴にかかわりのないものは無く、つまり、あらゆる存在がその時の水滴をかたちづくっています。

このことを維摩経では、維摩居士が何も無い、ガランとした空っぽの病室を使って、文殊菩薩や舎利子たち見舞いに訪れた者たちに空を解き明かします。
文殊菩薩が維摩居士に向かって何故この部屋は空っぽなのかと問答を始めます。
それに対し維摩は、諸仏の国土もまた空なり、無分別空を以っての故に空なり、分別もまた空なり、と答えます。

何も無く見舞い客の椅子さえないのかと疑問を持つ舎利子に、それを察した維摩が、お前は何しにきたのかといい、その狭い部屋にとてもとてもその部屋に入るはずも無いあらゆる一切、巨大な椅子だけでなく宇宙までも一瞬にその部屋の中にいれてみせます。
次に、有名な不可思議解脱の話をします、一粒の芥子の種の中に須弥山のような巨大なものを入れても、須弥山が減少したり一粒の芥子の種が増大することもないと説きます。
諸仏諸菩薩には不可思議と呼ばれる解脱がある、と維摩が話が話します。
私が一音、一音と何度も繰り返すのは、つまり、この不可思議解脱を一音を以って智るのです。
ウーン、頭で考えてもさっぱりワカンネェでしょうか。
不可思議解脱は言葉で解ってももう一つピンとコネェでしょうかね。
一休や芭蕉なら、
13たか:2008/09/06(土) 00:36:02 ID:J5wla54G
まぁね、先人たちもこれを知るために相当苦労したんですから、そう簡単に、理解しろわかんないのか、といわれても苦しむだけでしょうか。
苦を取り除くために話したことでかえって疑問や苦しみが生まれたりして。

私が何度も何度も、考えるな、空っぽにしろ、と言うのが少しは解りましたか。
観察など、観想観念などこの後でゆっくりすりゃあいいこと、逆ではいつまでたっても維摩経は理解できませんぜ。
14神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 12:03:29 ID:S4L3QAfo
やはりたかさんも先人たちと同様、苦労されたわけですか?
15たか:2008/09/07(日) 02:04:22 ID:ttS22zDY
14さんへ、
前スレを読んでいただければわかりますが、名僧や先人のかたがた、今修行をしている僧侶の方々との苦労の比較など、とてもとても私のは苦労に値しない問題外のものです。
経典に音のことが書いてあるから音に何らかの意味づけでもあるかもと自分勝手に思い込んで、時々仏リンを鳴らして手を合わせてただけですからね。
ただその間阿弥陀経以外の経典にも何か書いてあるだろうからと思って、浄土三部経と法華経の現代語訳を読み、ネットで禅も含めいろんな人の書いたものをチョコチョコと読んだりしましたが、結局は仏リンや音のことに関する私の納得できるものはなかったですね。
経典でいうと市販されている般若心経の解説書の内容にもどうも納得できなくていて、自分の母の死を切っ掛けにそれまで自分で思っていた縁起の考えではないことを、空、は示しているのではないかとも思っていました。
仕事をしながらもそんなことをしていて、気づいたら2年がたとうとしていて、自分ではそのことをわかることはできないなとこの2年は無駄だったろうと諦めの心境だったですね。
でもせっかくしてきたのだからもう少し、もう半年続けようという気持ちはありました。
大乗を調べる中で易行道という考えがあって、これは仏に全てを任せてしまおうという考えですが、つまり一切の条件を立てず阿弥陀仏なり観音菩薩に任せてしまおうとしたのです。
私は最初易行道ということにどうも抵抗があったのですが、どうにも自分ではどうしようもなくなって、 見性後なるほどと感じるところがあります
16たか:2008/09/07(日) 02:25:17 ID:ttS22zDY
自我を捨てるためには、自分で自我を無くそう一生懸命になってはかえって自我に縛られてだめで、逆に架空の存在かもしませんが仏に自分の一切を全てを預けてしまおうとした方がいいと思います。
これが自我を放す簡単な方法だと先人たちは伝えているのでしょう。
でも条件をつけては駄目です、つべこべ言わずに、何も付け加えることなくです。
だから諸法実相を説きながら一般には架空とも思えるような仏、如来、菩薩を先人の方々は否定しないのだと思います。
このことはいくら経典を読んでも、いくら有名な人だろうと、体験しなければ絶対にわかりませんね。
この件についても前スレに書いています。
読むのはたいへんでしょうが是非読んでいただきながら、あわせて引き続き読んでいただければと思いますし、何か質問があれば応えられる限り返答します。

なお、先人特に昔の人たちは私などの及びのつかない天才的な人たちですね。
漢文などはすらすらと理解し、自分こそはとみんな思っていた人だったのでしょう。
その自分なら仏法を理解することなど簡単という思い込みが、結局大乗の悟りにおいては邪魔で、苦労の原因であったのでしょう。
わたしのような下手な知識などないものだからこそかえって簡単に捨てられ、手放して、仏に、大自然に身を心をゆだねやすかったのでしょう。
17たか:2008/09/07(日) 02:46:18 ID:ttS22zDY
心の問題などはいっけん自分で解決できること、自分で解決しなければと本人も他人もおもいがちです。
だから心の問題で苦しんでる人を見ても、ついつい頑張ってと声をかけてしまいます。
でもそれは頑張ってということは逆効果で、頑張ってもどうにもならない状況にある本人に更なる負担をかけ追い込んでしまうことも多いものです。
頑張らないでいい、今のままでいいんだよ、とやさしく声をかけて心と身体を落ち着けなければなりませんね。
18たか:2008/09/07(日) 13:25:22 ID:ttS22zDY
>>16で仏、如来や菩薩を架空の存在と書きましたが、私たちが普通架空という言葉から思い描く架空とは違うでしょう。
道元はこれを仏のはたらき、つまり仏性と理解したでしょうし、親鸞は他力といい、これも同じく、仏の働きといえるでしょう。
自然が私たちを活かしているはたらきとも存在させているはたらき言え、だからこそ大乗では、悉有仏性、あらゆる存在が仏性を有しているといい、仏のはたらきの現れというのでしょう。
これを道元は現成公案という言葉で表し、自己というものを明らかにしなさいと導いています。
19たか:2008/09/07(日) 14:31:42 ID:ttS22zDY
先日、テレビを見てたらコロンブスの話がでていました。
コロンブスの所持していたマルコポーロの東方見聞録には多くの書き込みがありました。
やはりコロンブスは東方見聞録に書かれていた黄金の国ジパングを目指していたようです。
中尊寺金色堂はそのジパングの黄金の象徴だったでしょう。
考えてみれば不思議なものでその当時の東の一番端が金色堂で、西の端がコロンブスのスペインです。
地球が丸いならば西の端のスペインから西に向かえばインドなどのめんどくさい所を通らずに目指すジパングに行くのは近いはずと思ったでしょうか。
結果的にはジパングではなく西インド諸島、アメリカ大陸だったわけですが結果としてスペインはインカの黄金を手に入れ、世界を変えることになりましたね。
インドや中国、日本のだれも想像さえしてないことが起こって変化してまた新たな状況変化が起こります。
それにしても極楽浄土を表しこの世を安楽浄土にしようとした黄金文化が、逆にスペイン人によるインカ人の殺りくに切っ掛けにつながるとは奇妙なものです。
20たか:2008/09/08(月) 00:39:35 ID:PJHKEYdb
今日のNHK特殊はボストン美術館の浮世絵の特集でした。
ボストン美術館のスポルディング兄弟の収蔵品には日本を離れている作品でありながら、持ち去ったスポルディング兄弟に頭を下げざるを得ませんね。
スポルディング兄弟は集めた版画をけっして公開しないことを条件にボストン美術館に寄贈したといいます。
そのため、その種贓品は当時のままそのままを今の私たちに伝えています。
まさにまれにみる奇跡ですね。
今に残る浮世絵のほとんどの作品は紫外線の影響で作成当時の色が消えてしまったり、変化したりして美しさも作品全体の印象も違います。
ところがスポルディング兄弟が公開禁止の条件をつけたために奇跡的に当時の色、模様が残っています。
市の色、模様を見ることで作者、写楽、広重、国政の心の動きや、その当時の庶民の風景が浮かびでてきます。
今まで眠っていたものが、突然浮かび上がってきます。
まさに驚きです。
見性体験もこのような感じがありますね。
まさにずっと眠っていたものが起こされるというような観があるでしょうか。
浮世絵の作者が描こうとしたものがボストン美術館のスポルディングでわかるように、見性体験で大乗経典で作者やその訳者が伝えようとしたことが次第に浮かび上がってくるのです。
だから、悟りの後の修行を言うのですね。
見性してこそわかる感動する先人たちの思い、これ決して文字だけでは解らないですね。
感動を伝える、これ即ち、生きる喜びのように思えますね。
21たか:2008/09/08(月) 01:00:26 ID:PJHKEYdb
このスポルディングコレクションの昨年のNHK特集と続けてみて思い出したのが山下清の花火大会の貼り絵です。
前スレで書いた花火師の長岡の花火大会の作品はテレビで見る限りすばらしいものでしたね。
おそらくいろんなところに展示されないため色がきれいに残ったのかの知れません。
何しろ色がついてる部分は色紙ですから紫外線であっという間に色あせてしまいます。
あの作品も是非大切に保存してほしいですね。
その絵には清の感動が詰まっていて、それと同じくそれを見る私たちがそれぞれの思いで感動するのですから。
22神も仏も名無しさん:2008/09/08(月) 21:45:57 ID:vmsvKP6r
仏教に関する本、たとえば維摩経の和訳とか読んでいると、ある思想体系が見えてきます。
聖者と呼ばれる人の書物を読んでてもそうですが、それらは共通している箇所があります。
非二元論とか無分別とかいろいろ言われていますが何かし共通部分があります。
そういった書物は、「無」について、様々な考察・洞察した結果、言葉を使ってそれについて述べています。
読んでいる中、そこにはなにかしらある思想体系を自分が嗅ぎ取り、感じ取られた思想体系が自分の中で固有に出来上がり、その自分で作った思想体系に普通の人はしがみついてしまう傾向があると思います。
それはその思想・観念は自分にとってたいそう高尚で、納得いくもので、憧れで理想だからです。
それは自分で作り上げた思想体系・高尚な観念ということになります。
その理想化された概念を持ち、それに少しでも近づこうと追い求める自分がいます。

恐らく、聖者の書物にはそういった思想体系を手放す方法が書かれているはずなのですが、逆に我々はその思想体系に神秘性と憧憬を引っ付けてしまい、理想化して作り、その理想化したものを携え、答えを追い求めているのだと思います。
悪く言えば、いい悪い関係なく欲とはそんなものだと思います。
その悪循環から私は逃れたいのだと思います。

よく書物などを読むと返って変な知識が引っ付いてしまうと言われるのはそういったことではないでしょうか。
23たか:2008/09/09(火) 12:27:25 ID:dn3fuTIo
22さんへ、
おおかたあなたの言っている通りでしょう。

前スレでも何度も繰り返し書いてきましたが日本に伝わった代表的な大乗経典例えば般若経、般若心経、法華経、阿弥陀経、維摩経、大乗論などは全て鳩摩羅什の名訳といわれます。
そしてそのどれもが今ある宗派の中心的な経典です。
法華経だけでよい、般若心経だけでよい、浄土三部経だけでよいとなどという人がいますがものごとを知らないとはこのことを言います。
例えば最初に日本に仏教の創始者ともいえる聖徳太子の三経義疏は法華経、維摩経など羅什の訳があってこそといえ、またその大乗の仏教思想は十七条憲法に深く表されています。
これらの羅什の表した大乗経典は一見途方もない架空の物語ですが、羅什はことあるごとに弟子たちに、諸法実相、を説いたといわれています。
諸法実相、あるがままの世界これが法なのだよ、と言うことでしょう。
ですから、これらの経典から彼の説く、諸法実相、を読み解かなくてはただ単に唸ったり書いたりしているだけになります。

見性とは、一音とは、無分別の体験です。
これを体験することが即ち、無分別の智、です。
これを別な言葉で、一の如しつまり一如といい、一体といい、不二といい、非二元論とも言うのでしょう。
維摩経では、入不二法門品で痛快にこのことを説いています。
2つの対立したものとして考える分別するのではなく、二にして一である、二即ち一である、という無分別を智ることが大切です。
この対立的にみさせているものは我といえる心でしょう。
その我を無いことを無心というでしょうか。
我がなくなった瞬間、他と思っていた全てが自分に入っているとしり、自他の垣根がなくなった瞬間全てが自分をつくり動かしていると気づくんです。
>>12の、一滴の水滴、と、取り巻く世界、を2つの別とみるのではなく、一滴の水滴と世界、という2にして1として観るのです。
文殊の、全てのことがらは言葉の無く説明も無く示すことも無く識も無く諸々の問答を離れています、という返答に、維摩は沈黙で応えます。
言葉や思考など入る隙ない、空っぽの状態、無。
まさにこの沈黙は、空っぽの病室と同じでしょう。
空っぽだからこそ自他一体、一粒のからしの種に宇宙全体が入っているといえます。
24たか:2008/09/09(火) 13:26:51 ID:dn3fuTIo
空っぽだからこそ自他一体、一粒のからしの種に宇宙全体が入っているといえ、あらゆる法は実相である、ともいえます。

何度も言いますが、捨てるを説かない師は駄目です。
つまり、師に値しません。
だから、仏教なのに、釈迦など殺せといい、仏教知識などいらないと説くのです。
ましてや俺は釈迦になったなどとは悟った人は恥ずかしくみっともなくて言えませんよ。

仏教知識を得ることは必要でないというかとではありませんが、22さんの言われるとおり見性には邪魔になったりします。
でもだからといって黙っていれば間違った考えが仏法のように思われ広められます。
ですからそれを承知で時間をかけて書き込んでいるのです。
道元や法然や親鸞はおそらく仏法を体得するにはまずは知識と思ったのかもしれませんね。
でも最後には自我を捨てることだと気づいたんでしょう。
諸法実相、つまり人は法の真っ只中いるのであり、法に気づけばよいということになります。
仏法の学問や知識に時間をかけるより自我を捨て去り仏に身を任せる方が速いと考えたかもしれません。
念仏や只管打座を言うのはそのためでしょう。
ただね、先にもいったとおり自分の体験と先人の教えを照らし合わせなければいけないでしょう。
それをしないと笑いものになるかも。
お笑いのコントじゃないんだから。

私が言っている仏リン30秒もそういう空っぽの瞬間を身につけることにあります。
常に思い巡らしていることをいったん止めてみる、その時間をつくることが大切です。
一日のうち気が向いた時にどこでも好きな時にしてみればいいことです、どこでもできます。
どこでしなければならないというもんでもないでしょう、ただこれだけなんだから。
後はいつもどうり仕事や家事をすればいいことですね。
仏リンなければ聞こえる音に無心のこころで。
25たか:2008/09/09(火) 13:40:39 ID:dn3fuTIo
維摩居士を観音菩薩と読み変えると非常にわかりやすいでしょうか。
前スレで書いたように、文殊菩薩を法華経の妙音菩薩にしましょうか。
般若心経の観音世菩薩の般若の智慧と、文殊菩薩の文殊の智慧、まあどちらも凡夫を悟りに導く同じようなののでしょうか。
東の妙音菩薩と、西の極楽の観音世菩薩、維摩経は二人の智慧の問答ともいえそうです。

まぁ、こんなことを書いているのはおそらく私しかいないかもしれません。
26神も仏も名無しさん:2008/09/09(火) 19:48:33 ID:pSlDQ3dV
某誤爆スレの1です。
きちんとしたお返事ありがとうございました。
お礼にこちらに寄らせてもらいました。
たかさんは、観世音菩薩の境をよくなし、よく示している方です。
まだ粗雑なところもありますが、それはこのまま仏に真正帰命し、観世音菩薩の境をしみこませきり、
そしていずれ観音菩薩の「音」を知ることの機縁が訪れ、さらに法界に入れば、自ずから明らかになることでしょう。
いまたかさんがいう「音」は観音菩薩の音ではなく、妙音菩薩の音だと思います。
現一切色身三昧とはそういうことであると思います。
妙音菩薩は淨華宿王智如来のもとに居られる菩薩ですから、いずれこの音を真に透過して観音菩薩の音に出会うでしょうが。
たかさんがいわれる一音は空海が十住心論で第八住心で示した、一道無為心のことです。
この境涯でのポイントは易経の蒙でいわれるように、
匪我求童蒙。童蒙求我。(我より童蒙に求むるにあらず。童蒙より我に求む。)
に徹することです。
大己貴神が草原の下で火をさけたように、決して火の覆う草原に出てはいけません。

それからこれはたかさんにいうのではありませんが、あまりにも基本過ぎて、一般的に見落とされがちなのは、帰命するということです。
これは表現は違っても、どの経でも書いてあります。
帰命なくして、道を歩むということはありません。
学問だけするものは、そこが抜け落ちるがゆえに、先に進むことが難いのです。
つまり、自分の日常生活で背負った分だけしか、先に進まない。
じつはそこを背負ってくれているものがいるがゆえに、そこにたどりつくまでは、易々として道を歩むことができるのです。
27神も仏も名無しさん:2008/09/09(火) 20:04:40 ID:pSlDQ3dV
ただ信仰心と信心は同じように見えて違うものです。
白隠が識神を認めるが如しと言うように、信仰心というのは、自らの想念に現じたものに向かっているだけです。
つまり何か対象があってそこに心を向けるという意味で、相対的なものです。
信心というのは何か対象があって心を向けるものではない。
何かを信じるのではなく、信は信としてただ屹立している。絶対の信です。
そうすると、帰命と矛盾するように思うかもしれませんが、それは空性を正しく把握していないからです。
絶対の信とは仏道における不生の境であり、その信が真に向かう先を本当の意味でわかることが仏道修行の要点です。

帰命というのはもっと深い意味があるのですが、信はその第一歩です。
そこを通って、空性の無境なることを知り、観自在菩薩の境に入り、空気が透明であるがゆえに、すべての色が現れるように、空性のあるがままに現じるがゆえに観世音菩薩の境に入る。
これがたかさんが語っている世界です。

仏りんの話が上で出ていますが、仏りんというのは不思議なもので、毎日たたく人によって音が変わってきます。
これは一般の人でもわかるぐらい、違ってきます。
だいたい買ってきたばかりのころは、そんなに響かないものなのですが、きちんとした心で向かっている人がたたいていると、よく響くようになってきます。
逆に一応仏壇が家にある、というような人の仏りんは買ってきた時よりも響かなくなってきます。
別に仏りんでなくても良いのですが、きちんと向かった時にその感覚を体にしみこませることが大切です。
ちゃんとした寺や神社で参拝するときのコツですね。
もちろん帰命した上でですが。
28神も仏も名無しさん:2008/09/09(火) 21:19:57 ID:pSlDQ3dV
ただ、体に基礎ができていない人は、いきなりしみこませていくのは結構しんどいので、物実(ものざね)をつかうと良いでしょう。
寺なら数珠を、神社ならお守りなどを使うのが良いでしょう。
そこにいったんチャージして、それを普段身に着けてゆっくりと身にしみこませていく。
2922:2008/09/10(水) 19:55:59 ID:t99Wp49J
>>23-24 たかさん
返答ありがとうございました。
30たか:2008/09/11(木) 13:55:17 ID:3C2WL18k
26さんへ、
私はあなたと議論するつもりなどありません。
なぜなら、私の言っていることは、あなたの言っていること、書いていること、全て一切合切忘れろ捨てろと言ってるのですから。
このことを解らないでいくらかいても何も響いてきません。
そんなことなど知らなくてもどうでもいいことです。
これ仏教知識を振り回すというんでしょうか。
私はそんなこと忘れろとずーといってるんです。
つまりその為に書いてるんです。
邪魔ですよ。
そんなことなどネットを見ればいっぱい書いてあることです。
3122:2008/09/11(木) 20:16:03 ID:rVR8qnOw
できればもうひとつ質問があるのですが。
前スレで埼玉支店長さんと言う方が自分の見性体験について書かれていました。
「おれはすべてわかった。おれは悟ったんだ」という悟ってかえって悟りを持つ、自縄自縛の縄をほどくのが、かえって縄に縛られる、ということについて書かれていました。
これやっちゃうんだよな、見性することによってかえって、悟りを持ってしまう、と言ったいました

>2つの対立したものとして考える分別するのではなく、二にして一である、
>二即ち一である、という無分別を智ること
これが見性であれば、上述した「悟りを持つ」ことはありえないと思いました。
3222:2008/09/11(木) 21:49:08 ID:rVR8qnOw
それとたかさんは見性の際、悟りを持ち歩くことはなかったのですか?
33たか:2008/09/12(金) 13:19:49 ID:JiwtewZb
22さんへ、
見性後、埼玉支店長さんのように見性体験で悟りでかえって自分を特別にしてしまうことは誰もが体験します。
前スレを読めば私がそのことを何度も書いていますのでなんどかよく読めば解ると思います。
二即ち一である、という無分別を智ることが体験することが見性体験であり、それを体験することは大切です。
しかし、それを体験することで他の人とは自分は違う特別の体験をした、場合によっては自分は特別にすぐれた選ばれた人間だとついつい思い込む人が出てきます。
これはそれを打ち消そうとしても身体の中から沸き起こるようにでてきます。
例えば見性後、2ちゃんの宗教版を見ればいろんな人が悟りについて書いていてそのどれもがわかっていないなぁと感じます。
そして俺だけが特別なのだと誤解をしだしはじめます。
俺だけが釈迦を受け継いでいるなどというのはその典型です。
長い間修行をし、ほとんどが絶望を体験し、やっと悟りを取得したと思っているのですからその思いは特別でなんともならない自分を特別に見る自分が出てくるのです。
そういうことを経験した、それを心得ている師がそばにいれば、その師は新たに出来上がった特別視する慢心とも言えるものをつぶしにかかります。
つまり、特別なものなど何もないのだと払い去るのです。
大乗の教えとは、本来無であり、無分別空であり、無分別の智であり、それに気づかせることですから、それとは違う新たに湧き起こった自分を特別視する慢心の我をもう一度すっかり取り除くことが大切なのです。
それを取り除かないと慢心の我が一人歩きをしだします。
悟った後本当の修行が始まると言われる様に、自身の見性体験と、先人の教えや観察を通じてこの慢心の我を取り除きながら、仏法を深めていくことが大切です。
これを自灯明、法灯明というのでしょう。
そして自身それをしながら、また人にそれを伝えていく、これが仏道というものではないでしょうか。
34たか:2008/09/12(金) 13:46:26 ID:JiwtewZb
私の場合、通常言われる修行のようなものはしていなかったわけですので、逆に何故自分が体験したのか、この自分の体験が本当のものなのか、知る必要がでてきたのです。
ですから、もう一度経典を読んだりその他のものも読んだりしながら、少し時間がかかりますが、その特別に沸き起こるものを沈めていったということでしょうか。

般若心経で言うように、誰もが悟りに到達できるのだ、というのが大乗仏教の精神、心です。
観音菩薩の心は、さぁ皆さん一緒にいきましょう、という慈悲の心です。
けして、俺が教えてやるというものでもないし、俺についてくればいいんだというものでもないのでしょう。
般若心経の、ギャーテイギャーテイの最後の部分は特別な力があるマントラ真言とよく言われますがそうではなく、さぁみんなで悟りの世界に行きましょうという大乗の精神が詰まっているところに、価値があると私は思っています。
35たか:2008/09/12(金) 13:57:28 ID:JiwtewZb
私がここに書いているのを読んでも本来の修行になんら差し支えるものではありません。
手を合わせているわずかの間頭を心を空にし無にすることだけをいっているのですから。
もし見性されたならきっと私が書いてきたことがその人には役立つはずと思っています。
36たか:2008/09/12(金) 14:11:55 ID:JiwtewZb
二即ち一である、という無分別を智ることが体験することが見性体験ですからそれを踏まえて上で新たに生まれる我を取り去るこれをふまえてやっとということでしょうか。
悟った後俺は完璧だなどとほえる人がいますが、本当は経典は見性後身にしみて解るものなのです。
3722:2008/09/12(金) 20:23:11 ID:UxiF73hF
たかさん
わかりやすい説明、ありがとうございます。

たかさんのレスを読んでも、既成観念で納得してしまうんですね。
だから二ではなく一である、と理解してしまう。
それが無分別、非二元論、不二と思ってしまう。
またそれが22につながってしまう人は多いと思います。
本来は二即ち一である、というのが無分別を智ることなのでしょう。
38神も仏も名無しさん:2008/09/13(土) 04:14:46 ID:aoNDH4bD
>>30
わたしの書き込みに対して、気を害されたようでしたら、申し訳ありません。
ただわたしもいたずらに議論するために書き込んだのではありません。
たかさんに対しては、観世音菩薩の境においての注意すべき点を(ややそこのところをきちんととらえきれていないように見受けられましたので)、
そしてさらにその先があることを示すことにより、道の本義を示したかったからです。
悟りを開いた人のスレをみていたのでしたらわかるところもあるでしょうが、自らがわずかに得したことをもって、それでことたれりとした結果、
さらにその先があるにもかかわらず、そこでとまってしまう者の多いことはあなたのいうとおり、このインターネット上においてもなんと多いことか。

さらに、たかさんにいうのではありませんが、と前置きした上で、書いたことについては、
大乗仏教での易行の代表的な教えとして、浄土門が説かれています。
が、なぜ、ただ弥陀の本願によりて南無阿弥陀仏と唱えるだけの教えであるのに、それによって仏道を成道するものが多くないのか。
全て一切合切忘れろ捨てろ、ということばは禅においての「放下著」のことばを挙げるまでもなく、仏教においては山ほどあります。
ですが、それによって無上正等正覚に至り、成す者の少なきことはなぜなのか。
その所以を示したかったからです。

その上で、実際に正しき師に導かれ(別に生身を持った師という意味ではなく、真に正しき道を歩むようにと現れた、真の仏の意味を以ってそのように言っています)、
仏道を成する、まさにスレタイ通りのなんていうの?を書いたつもりです。
39神も仏も名無しさん:2008/09/13(土) 04:18:09 ID:aoNDH4bD
あなたの>>30で書いたことばは趙州和尚が放下著といったそのことばと同じことをいっているのでしょうが、わたしが示したことに対していうのには適切であるとは思いません。
なぜならあなたは仏の心の一端を示していますが、わたしの真に示したのは仏の体であるからです。
これについては法界を真に体することなければ、その真意を理解することはできないでしょうが、それがゆえにどのお経においても最初に仏に礼拝することを行うのです。
単に修飾語として書かれているのではありません。
実はたかさんは観世音菩薩の境を示していますが、もし帰命することをおろそかにするのならば、観世音菩薩の境を見失い、いまだ不生の境をも真に得ることも難しいでしょう。
阿弥陀仏の両脇に勢至菩薩と観世音菩薩がいるのは、勢至菩薩が仏道の初門に道をつけ、観世音菩薩が仏道の心の境に導くが為です。
ただそこにとどまれば、真ん中にいる阿弥陀仏の真の意味を見失い、勢至菩薩と観世音菩薩の導きも失われるでしょう。
あまたの宗教者が現在でも多くいますが、はじめはそこそこのものがあるようでも(はじめからダメダメなのは論外)途中で道を間違うのは、
ほんとうの根幹を失うか、自らのレベルを超えたものを語るが故なのです。

わたしの言葉を見て、単に言葉遊びをしているように思うかもしれませんが、きちんと検討すればそうでないことがわかるはずです。
わたしが内実を言葉に出して語らないのは、それを直に内実としてとらえられるだけの向かい方をしていないものに語ることを避けるが故です。
きちんとした帰命なしにただ内実を得ようとするならば、必ず道を間違えるでしょう。
ですから大乗仏教においては授戒を、密教においては灌頂を大切にするのはその為です(もちろん形式上のことではなく、その内実が大切なのですが)。
40神も仏も名無しさん:2008/09/13(土) 04:19:31 ID:aoNDH4bD
もちろん、あなたの境を否定するものではありません。
>>33 で書かれていることも、仏道の初門に入ったばかりの者に対しての注意点としては基本的には適切であると思います。
が、仏道はそんなに浅いものではありません。
般若心経の最後の部分もおまけでついているわけではありません。
その境をもって、仏道の深奥であるとは思っているのでしたら言う事はありませんが、普通に考えても釈尊がその程度でブッダであると言ったとは思わないと思います。
それでももし、まだこれを議論のための議論であるととらえるのでしたら、それはしかたのないことですね。
41神も仏も名無しさん:2008/09/13(土) 17:59:43 ID:aoNDH4bD
ちょっと追加。
趙州和尚が放下著と言ったのは、仏道の初門の境にとどまってはならない、と言ったのであって、いわゆる一切合切捨てろとは意味合いは違います。
たかさんがわたしに言われた、そういう概念を捨てろとは、かぶるところはありますが、そのまま同じとするには適当でないところがあります。
申し訳ありませんでした。
42たか:2008/09/14(日) 21:23:29 ID:VI7QHhra
般若心経は話しているのではないよ。
あくまで、在家の凡夫とも言える人が観音菩薩、観自在菩薩として登場している。
そして、釈迦の教えの言葉として受け継いだ小乗仏教をその象徴として第一弟子の舎利佛を登場させその小乗の拘りを無という字を使いながら打ち消している。
般若心経の前半部分は見性体験の瞬間を表しているともいえます。
同様に維摩経ではこれも在家の市民として維摩居士を登場させ、釈迦の弟子たちが釈迦の教えとして拘っているものを次々に拘りだと気づかせます。

釈迦は空を解き明かしていない、と一休禅師がいっているそうだと前スレで書きましたが、わたしもそう思っています。
当然釈迦も見性を体験したのでしょうがそれなんであるか、どのように理解すべきか、釈迦の代では解明し尽くしていなかったということでしょう。
釈迦に続くすぐれた人の中に釈迦と同じような修行をする中でその違いに気づき修正を試みたのが今に伝わる多くの大乗経典なのでしょう。
そのため、それを修正するため観自在菩薩、維摩を登場させ釈迦の教えを直接批判することなく大乗の考えを伝えようとしたのでしょう。

私は大乗の先人がこのような革命的な変化を試みた理由のひとつがなんと言っても彼ら自身の見性体験にあると思っています。
ですから、ここを読まれる方にはとりあえず見性体験をしてほしいと望んでいます。
43たか:2008/09/14(日) 21:30:21 ID:VI7QHhra
>>42の最初の部分は
般若心経は釈迦が直接般若心経及び空を話しているのではないよ。
に訂正します。
44たか:2008/09/15(月) 00:12:38 ID:lPEkk+m8
慧能禅師が言う本来無一物、般若心経が何度も繰り返す無、維摩経の空や無、なのに何で仏教の理屈がその前にあるのさ。
理屈や知識が、それがあっちゃー無とは言えんだろうに。
私はこんなにも解ってるんですと書けば書くほど、まだまだ解ってないことを示してるようなものだなぁ。
45神も仏も名無しさん:2008/09/15(月) 19:10:52 ID:KRJfv/kv
尼さん萌え必見!尼さんが精進料理を食べされてくれる、尼さんカフェ【香川】
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1221213858/
仏門に入ったきっかけは身体のコンプレックスから Dカップ巨乳住職誕生
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1221234048/
46神も仏も名無しさん:2008/09/16(火) 03:41:27 ID:Q4ZrKR4W
>>41 ゴータマは最初の見性ぐらい最初にたずねた二人の仙人の一人目のところで体験してるよ。
二人目のところで、不生の境にも入っているよ。
先人をなめすぎ。
単に釈尊に大乗の教えを仮託してあまたの釈迦如来を教主にした大乗経典が成り立っていると思っているのなら、それこそ仏教をなめすぎ。
どうして、自らの現在までのものさしで、もっとおおきいものをはかろうとするかね。
もしあなたの言う通りなら、そんなものに仮託などせずに、自ら別の教えを立てているよ。
そうしないのは、無上正等正覚に至り成すれば、そこにゴータマが至り成していたことが知れるからですよ。
さらに、なぜそれまでの道とは別に仏道が立てられたのかを知るからですよ。
そして仏道を歩む者は、遠い過去に説かれたものに導かれたのではなく、たったこの瞬間までここに釈尊がいることを知るがゆえに釈迦如来を教主として経を立てるのですよ。
47神も仏も名無しさん:2008/09/16(火) 03:43:12 ID:Q4ZrKR4W
>>44 そんなものなど、仏道の一端にしか過ぎませんよ。
もっというと仏道そのものでさえ、その先を真に知ればその入り口にしか過ぎないことを知るのですが。それについては語るつもりはないので良いです。
あなたが、仏道の初門に入った者を見て、わかってないなあ、というようにその先に進んだ者の目から見れば、あなたの境涯など仏道の深奥などではないことは一目瞭然なのです。
それともあなたは自らをもってすでに如来であると称するのですか。
これだけ仏が多くの法門を開き、多くの教えが説かれているのに、無上正等正覚に至り成するものが少ないのは、
どの段階においてもそうですが、仏の本願を真に知らず、自分の価値観や自らの境涯に固執するが故です。
仏の本願を見失った者は、どのような境涯を得ようとも、その者は菩提薩捶とするのに足りないのです。
なぜ観世音菩薩といえども、如来の本で修行するかといえば、仏の本願をまず自らの最初に立てるが故なのです。
そのことを忘れなければ、たとえ今生で無上正等正覚に至り成することなくても、必ず成仏するでしょうが、そうでなくては難しいでしょう。
無上正等正覚に至ることは、盤珪や親鸞ですら、生身の体を有していたときには、至っていない境です。
白隠ですら、42歳になるまでそこに至っていなかった。
もちろんそこでとどまらず、さらに進まなくてはならないのですが、>>44程度の見解で無上正等正覚をはかろうなど、古典物理学で、量子論を語るようなものだ。
仏道を志したなら、無上正等正覚に至り成するまでは、たとえどのような境涯に至ろうとも、仏に帰命し、仏の本願を第一として一歩一歩道を歩んでゆくべきだ。
そうでなければ、仏に対して礼を失する(ここでいう礼とは形式的な失礼という意味ではなく、仏に通じる道を失うと言う意味です)。
それでも、たかさんがまだ自らの境涯と見解に固執するならば、それがたかさんが選んだ道なのですから、わたしがどうこういう話ではありませんね。
48たか:2008/09/16(火) 23:51:53 ID:fWdD0UDF
昨日は近くのスーパー伊藤チェーンで三陸産さんまが一匹78円、今日はヨークベニマルで北海道産さんまが98円、大きさはほとんど変わらなかったかな。
必死で泳いでいただけなのにいつの間にやらさんまの揚げ港で値段やイメージが変えられてしまった。
というわけで昨晩はさんまで一杯。
ついでに一句。
風涼し遅い晩酌秋刀魚焼く

秋を感じて、秋刀魚食べて、顔ほころばせているのがいちばんだね。
49神も仏も名無しさん:2008/09/18(木) 23:02:04 ID:cLmZbLgl
下手なエッセイスレだ。
50たか:2008/09/19(金) 02:15:23 ID:+C02l/1j
目黒の秋刀魚という落語があって、話の最後にお殿様が、さんまは目黒に限る、という。
先日ニュースでこの話にちなんで目黒で岩手宮古産のさんまが振舞われていた。
宮古産、大船渡産、気仙沼産、女川産、みんな三陸産のさんま。
よくよく考えればぐるっと回遊して秋ぐちに北海道から南下してくる同じさんま水揚げ港が違うだけだけれど売る方も買うほうもなんか付けて識別しないとしっくりしない。
さんまはやっぱりおらほぉの水揚げしたのが一番だべ。

何言ってんだ、江戸の昔からさんまは目黒だ。
51たか:2008/09/19(金) 02:39:26 ID:+C02l/1j
でも、食べてみりゃァ秋の脂ののってるさんまが美味しいだけだね。
レッテルに惑わされることなくその瞬間を楽しむことが大切、秋を楽しむことが大切だと思うよ、49さん。

先日は十五夜、名月。

春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて、すずしかりけり。

ごちゃごちゃ言っているばかりが大切ってもんでもないだろう。

そのまま観じれば丸く収まる、、言葉もなく、ただ沈黙するのみ。
いやいやたたただ、それだけ。

52たか:2008/09/19(金) 03:12:19 ID:+C02l/1j
ちょっと前までアリコの保険は、格付けがAAA、スリーAでもっとも安心、と朝から晩までテレビをつけるたびに放送されていた。
でもちょっと前から流れるニュースは親会社のAIG我破産するのではないかという話ばかり、この格付け、レッテルは何なんだろうと思ってしまいます。
東南アジアでは多くの人が保険の解約におしよせたとか。
一寸先はわからないといえばそれだけだけれど、この格付け厳正に審査してなどというけれど、人が自分勝手に自分の都合でかってに付けて、それにほとんどの人が踊らされてるようにも見えますね。

でも何らかの基準がないとと思ってしまいしまい、またまた騙されたりします。
産地偽装も、事故米も、みんなみんな騙されましたね。
53神も仏も名無しさん:2008/09/20(土) 01:33:34 ID:AhCYpylb
>>49
> 下手なエッセイスレだ。

実は尊大であることもプラス。
54たか:2008/09/21(日) 01:40:23 ID:BdQ0g786
尊大てか、まぁいいや。

少しは気づいてもらおうと思っていってるんだけどね、解んないうちは仕方がないね。

鬼和尚のところに悟ったぞという人がでてきて、、ちょっといき過ぎかなと思って私が名無しで時々書いて釘を刺すとでなくなっちゃった人が何人かいたね。
でもいじめるために書いてたんじゃないんだ。
もう少し解ってほしかったんだけどね。
それを言葉で伝えるのはなかなか難しいね。

>>22さんへ、
あなたが質問していた埼玉支店長さんは今は別名ただのおじさんででているように見えますがどうでしょうね。
新たにできた特別のものを取り去って初めて一歩前進といえ、それが落ちたのでしょう。

それがなくなるまでは、それまでいくら仏教用語を並べようが、いくら解説しようが、程度というものが不思議と見えてきますね。
だから余計なもの全て、一切合切、空や、仏教知識はもちろん捨てて空っぽにしろというんですね。
これを仏を殺せとか、一度死んで来いといいます。
これが解らないと大乗仏教、仏法は始まらないですね。
だから、これはどうで、これを持っているほうがどうとか書くのを見て、余計だ、邪魔だといったんです。
私に、言われたぐらいでぐだぐだ言うのは解ってない証拠ですよ。
55神も仏も名無しさん:2008/09/21(日) 03:21:14 ID:cKjznfQG
うわぁ

尊大というか文章もひどいし、理解力にも問題を感じさせる。
ほんとうは程度が低い知見解レベルかも・・・
5622:2008/09/21(日) 13:58:36 ID:3eWIH634
>>54たかさん そのようですね。レス内容がたかさんと似て真をついてますね。
57神も仏も名無しさん:2008/09/21(日) 22:30:26 ID:cKjznfQG
22=54

文体が同じ、ID変えて自演。
58たか:2008/09/23(火) 12:39:24 ID:LO97WRgu
世の中にはつまらないことに頭を使っている人がいるものだ。

秋の彼岸の墓参り、手を合わせて胸いっぱいに息を吸い込めば、身体いっぱいに広がる。
生きてるとは、ただそれだけのこと。
でもこれ、喜びの始まりだね。
5922:2008/09/25(木) 00:05:08 ID:K6CD3lFC
たぶん、ただのおやじの前はできそくないというコテをお使いだったと思いますね。

悟った人は小さなことにとらわれないため、様々なことを捨てれる人だと思います。
小さなことにとらわれることこそ、俗世界に生きる人の特徴であります。
とすると、悟ったという感覚自体がすでに俗世の人となんら変わらないことを示しているのではないでしょうか。
だから悟ったときの感覚にしがみついてしまうのかもしれません。
ここではある人はある人よりも悟り(と思われるもの)の段階がより進んでいること等を目にすることができると思います。
十牛図は、悟ったという感覚を持った段階から、最後持った悟りを捨てる段階までを表しているのではないだろうかと想像してみる。
60たか:2008/09/25(木) 13:36:51 ID:X6XTTqx1
>>22さんへ、
できそこないさんは、きっとあなたの言われているとおりでしょう。

見性で無分別空、無分別を智ることで、拘りなく捉われなく生きることが大切です。
私が最初に知った経典は般若心経ですが、どういうわけか小さい時に家に薬師寺と書いてある般若心経があったのです。
また小さい時にテレビに薬師寺の高田管長という人が出ていて、家にある薬師寺の般若心経に書いてある文を毎回唱えていたのを覚えています。
 かたよらないこころ
 こだわらないこころ
 とらわれないこころ
 ひろく ひろく
 もっと ひろく
 これが 般若心経
 空のこころなり

 ねがいまつらんこのくどく
 よろずの人にみちわたり
 われらひとしくみな共に
 うやまい行かん法の道
これ、般若心経、大乗の心、菩薩の心をうまく表していると思いますね。
これに付け加えることはありませんが。
悟りに至れば、拘らない心、捉われない心、かたよらない心、広く広くもっと広くですね。
そして、さぁ、皆さん、一緒に行きましょう、これが彼岸に渡る般若心経の精神です。
普通の生活をしながら、しかも自分だけ悟りに浸っていることを良しとしない、そして人と共に歩もうとする、それが大乗の言う悟りの境地というものなのでしょう。
それを経典にした名作が般若心経であったり、維摩経なのでしょう。
61たか:2008/09/25(木) 14:17:19 ID:X6XTTqx1
ですから単に悟りを捨てるだけには留まらないといえます。

禅の十牛図はおそらくは六祖慧能禅師がモデルでしょうか。
前スレでも書いたように、慧能は商人や農民に仏法を伝え、共に歩もうとしたところが見えます。
この点は王子の子として生まれた釈迦や達磨大師とは少し違うかもしれませんね。

はすの花は混沌とした煩悩という泥沼があってこそ、綺麗な華を咲かせるでしょうか。
それを表して観音菩薩ははすの花を手に持つのでしょう。
人々の境遇そして苦しみはそれぞれ違いますが、でもそれを糧として人に対して慈悲という優しさが染み出てくるものかもしれません。
自らが喜び、気づき、他の人に対してもそれを伝え、気づかせるお手伝いをする、そこに自己の喜びとは違う更なる喜びがあるように思いますがどうでしょうか。
6222:2008/09/25(木) 21:39:48 ID:K6CD3lFC
深いお話ですねえ・・・それを目指すから逆に偏った心になる私はまだまだ・・・

悟りと言うのは自我の終焉とよく目に付くけれども本当にそうなのか。
それは無我ではない、自分、自我があるから大変なんだ、自我を消して無我になるときっと幸せだという考えに行き着いた結果だろう。
自我にして無我であれば、自我も無我も区別していない。
すると自我を消すことが悟りではなく、自我にとらわれないことが悟りだと思います。
結局、悟っても自我は残ってるし、好き嫌いという区別も残っているのではないだろうか。
ただとらわれない、簡単に捨てられるのが凡人ではない非凡なとこと言えます。
また、自我がとらわれることなく簡単に捨てられるから、他人に奉仕することができる、逆に凡人はすぐにとらわれるから自分になにかしら(精神的にも肉体的にもの意味において)利益がないと奉仕できない、これが私が思う慈悲ですかねえ。

確かに自我がなくなれば、好きも嫌いも何もかもなくなるが、自我の終焉が悟りならそれって人間として生存するのは不可能ではないだろうか。
もしも、自我ではなく無我に行き着くことが悟りであれば、肉体精神否定の断食、睡眠を絶つ、禁欲等に走るのは悟りなのだろうが、これはある意味、うんこと飯を区別することなく食べろ、それが無分別・無我であり悟りと言っているのと同じだろう。
だって、腹減ったのに、食欲、食べたいという欲を打ち消したり、身体や精神が疲れきって休みたいのに寝ない(というか眠たいという欲を打ち消す)というのは、人間としての機能を否定することになり、肉体とて精神とて健全ではなくなると思いますねえ。
6322:2008/09/25(木) 21:57:34 ID:K6CD3lFC
そうなると肉体を維持することは不可能になります。
悟りが自我の終焉というのは、それは勘違いしている偏った考えから生み出されてるだけだと思いますね。
64たか:2008/09/26(金) 13:19:25 ID:gjPfS1IR
誰でもそうですが、22さんもそうですが、自我だ、無我だ、なんだかんだと言っている考えてるのを止めなさいといってるんです。
そんなことを今の段階で一生懸命考えていてもいつまでたってもスッキリした答えなど出ません。
もしスッキリしたいならまず常に考えてることをとめなさい、止めなさいと言ってるんです。
そして頭を空っぽにしなさいといってるんです。
ごちゃごちゃグルグル頭の中で回っていたのではすっきりするわっけなどないでしょう。
一日の中で数度、30秒間頭の中を空っぽにする、何も考えない時をつくることからまずは始めなさいといってるんです。
これをしないといつまでも同じことの繰り返しです。
たった30秒間ですよ、どこでだってできそうなものです。
声をだせといってるのでもないし、座禅をしろといってるわけでもない、チョットした合間に30秒間だけなら人目も気にしないでできそうなものです。
でもこれをしないんでしょう。
まずはそれからですよ。しないうちはいつまでたってもです。
65たか:2008/09/26(金) 13:29:58 ID:gjPfS1IR
捨てるというのは、言葉であれこれと考えてるのをやめることなんです。
これが解らないうちは捨てる捨てると何度いっても解ったことにはなりません。
言葉でわかろう理解しようとする気があるから時間がかかるんでしょう。
いくら頭がよくても駄目です。
頭の良し悪しではないんだから。
言葉で理解しようとするそれを止める、即ちそれ、捨てることに通じます。
66たか:2008/09/26(金) 14:09:06 ID:gjPfS1IR
仏法は三宝印、特に諸行無常、諸法無我これを知ることが大切です。
そんなことぐらい解ってらぁ、といわれそうです。
本当に解ってるんですか、問いたいですね。
諸行無常、諸法無我、あらゆる万物、一切合切すべてこれです。
ですから仏法ではこれを真理、真如という。
我々一人一人も同じくこれによって成り立っています。
空とは、まさにこのことです。
仏法とはこれをふまえた上でというところから始まるといってよいでしょう。
これをふまえるとは何か、空っぽにして、なるほどという感動からです。
維摩経は別名不可思議解脱の法門といわれるそうで、不可思議解脱、即ち、見性であり悟りというものです。
見性体験の中に、三宝印の教えがあるといえるのです。

この三宝印が基礎にありその上に自我というものがあって今いろいろと考えながら生きているのです。
自我というものは必要があって生まれてきたものですが、多くの問題や苦しみも引き起こします。
それを解決するため、いつの間にか自我で覆われたこの真理を自分の身体で心でもう一度確認しなければなりません。
確認することで、自我に捉われない拘らない生き方ができるのでしょう。
この確認することを、本来の自己、を知るというのでしょう。
67神も仏も名無しさん:2008/09/27(土) 13:16:20 ID:rjzr24Xi
無我、本来の自己を知る、これ即ち無分別を智ることであり、さらに言うと、自他一如、さらには慈悲、慈愛に通じるものでしょう。
でもこの慈悲慈愛は他人にしてあげようという哀れみの気持ちで起こるのではなく、これもまた自己の内側から沸き立つように生まれるといわれます。
それは自身が今まで痛み苦しみした経験が特にそうさせるのかもしれませんね。
68たか:2008/09/27(土) 13:51:20 ID:rjzr24Xi
67の続きです。名前が消えてしまいました。

文殊菩薩は病気の姿にいる維摩に、菩薩は病気にかかっている菩薩をどのように慰め、励ましたらよいか質問します。
維摩の答え。

病んでいる菩薩に身は無常であることをと説いても、この身を厭い離れよと説いてはならない。
この身に苦があると説いても涅槃を願うように説いてはならない。
この身が無我であると説いても、そうであっても、衆生を教え導くように説かなければならない。
この身は空寂であると畢竟空無であると説いてはならない。
先につくった罪を懺悔するように説いても、過去のものとなったと説いてはならない。
自分の病気から推して、他人の病気を思いやり無限の過去からの苦悩を知るべきである。
一切衆生に利益を与える行為をしようと念じ、これまでつとめたことの福徳を思い、浄らかな生活をこころがけるべきである。
病気だからといって、いたずらに憂い、悩んではならない。
常に精進努力して、すぐれた医者となってもろもろの病気の治療すべきである。
菩薩は、まさにこのように病気でいる菩薩に説いて、かれを慰め励まして心身ともによろこばせるべきである。
69たか:2008/09/27(土) 14:14:26 ID:rjzr24Xi
この中の、自分の病気から推して他人の病気を思いやり、というところは大事でしょう。

話は違いますが、前スレで、見性後この維摩経を読んで涙が止まらなくなったと書きましたがこの病気見舞いの維摩居士の答えを読んだときです。
特に、先につくった罪を懺悔するように説いても過去のものとなったと説いてはならない、という一文は、あの時これを知っていればと涙があふれました。
同時に、何で2000年も前の人が時代も違う遠く離れたものの心を痛烈に打つ凄さに驚きましたね。

多くの人は無上正等正覚などと言葉でさとりを言うわけですが大乗の心はそうではなく、一緒に苦しみを乗り越えていこうとする思いやりの心が大切ですね。
70たか:2008/09/27(土) 16:03:19 ID:rjzr24Xi
22さんへ、
最終的にはあなたの言われると通り、自我も無我にも捉われない拘らないというのが大乗でしょう。
狗の公案、無といい、有という、実は拘らない無。
これ空においても同じ空を意識しているうちは空でなく、悟りにおいては悟りに執着しているうちは悟りでなく。
でも人に伝える時はなかなか難しいから、無といい、空といい、見性といい、悟りといって伝えようとするのでしょう。
不二の法門における文殊の、言葉ではなく、それに続く維摩居士の沈黙、もまぁそれを伝えようとしてるのでしょう。

それはさておきまずは空っぽにしてからはじめるべきでしょう。
それを説くために、見舞いに来る客人を導くために、維摩の部屋、病室を敢えて何も無い、から、空、にしたのですから。
71神も仏も名無しさん:2008/09/27(土) 23:40:31 ID:UDt0R/Zv
たかさんは実践に視点を合わせて話を進めていると受け取ります。

>あわせて引き続き読んでいただければと思いますし、
>何か質問があれば応えられる限り返答します。

質問や疑問、対話と言うこと自体、思考の働きを意味しますので、私は実践以外の遊び(公案というのもこういう類でしょうか)も含まれているのかとこのレスにて解釈しました。
実践にのみに視点を当てていたのなら、このようなことは言わないでしょう。
ところが、私のレスに対しあなたは考えをやめなさい等を言い出したので、よく意図がつかめない次第です。
よって、以降名無しに戻すことに致しましょう。
72神も仏も名無しさん:2008/09/27(土) 23:43:55 ID:UDt0R/Zv
上記は22です。
73たか:2008/09/28(日) 19:31:26 ID:D8hhCt85
まぁね、実践以外の遊び、というんじゃ仕方ありません。
これを聞けば、かの有名な無門関の無門慧開和尚も泣いて喜ぶかもしれませんね。
禅宗無門関(無門慧開の自序)
仏が説く清浄な心こそ要とし、入るべき門の無いのを法門とする。
では、入るべき門がないとすれば、そこを如何にして透過したらよいのであろうか。
「門を通って入って来たようなものは家宝とはいえないし、縁によって出来たものは"始め"と"終わり"、"成る"と"壊れる"がある」と言うではないか。
わたしが集めた仏祖の話にしても、風もないのに波を起こしたり、綺麗な肌にわざわざ瘡(きず)をえぐるようなものだ。
ましてその言葉尻にのって何かを会得しようとすることなど、もってのほか。棒を振り回して空の月を打とうとしたり、靴の上から痒みを掻くようなことで、どうして真実なるものと交わることができよう。
わたしは………これを『無門関』と名付けた。

もし本気で禅と取り組もうと決意した者ならば、身命を惜しむことなく、ずばりこの門に飛び込んでくることであろう。
その時は三面六臂の大力鬼王でさえ彼を遮ることはできまい。インド二十八代の仏祖や中国六代の祖師でさえその勢いに命乞いするばかりだ。
しかし、もし少しでもこの門に躊躇するならば、まるで窓越しに走馬を見るように、瞬きの間に真実はすれ違い去ってしまうであろう。

遊びの中ではてはて、無門和尚をうなずかせることなどできようか。
74たか:2008/09/28(日) 23:19:57 ID:D8hhCt85
自分を投じて初めて無門関ですよ。
それなくては、ダダの言葉遊び。
誰あって、いまだかって、自分を投じなくて悟りに至った先人がいるだろうか。
日本の公案の祖のような白隠にして同じこと。
それができていなくて正受老人に、鬼窟裏死禅和(穴倉禅坊め)、と罵倒され、やっと己を捨てられた。
公案を解くのが悟りではなく、身を投じて自他一体を観ることが悟りの始まりなのだ。
それまではいくら公案の言葉をいじくっても、言葉遊び。
一休が兄弟子を批判したのも、公案の言葉遊びでしょう。
75たか:2008/10/04(土) 17:29:13 ID:YQGd37Rf
隻手の公案、隻手の音声
 両手を打って声あり、隻手(かたて)になんの声かある

お察婆さん
 白隠の隻手(かたて)の声を聞くよりは
       両手を打って商ひをせよ
76たか:2008/10/04(土) 18:53:42 ID:YQGd37Rf
隻手の公案、隻手の音声
 両手を打って声あり、隻手(かたて)になんの声かある

お察婆さん
 白隠の隻手(かたて)の声を聞くよりは
       両手を打って商ひをせよ
77たか:2008/10/04(土) 23:01:02 ID:YQGd37Rf
連続投稿してたみたいです。

両手を打って商ひをせよ 、というお察婆さん の答えはいいですね。
公案、隻手の声音、無上正等正覚、など言葉に拘っていると観えないんだよねぇ。
これがみんなにはわからないんだ。
いつまでたっても、言葉を追いかけるんだなぁ。

私がよかったのは、公案を、言葉を追わなかったことだね。
色即是空の、空、は空を忘れてやっとですよ。
だから、空を空じると言う言葉があるんです。
公案を忘れて、初めて公案、これを現成公案というんですよ。
78たか:2008/10/05(日) 11:15:17 ID:Pxqi+5Mh
昨晩NHKBS1スポーツ大陸で楽天の岩隈投手のドキュメンタリーを見ました。
近鉄時代はよい成績を上げたのに楽天に移ってから昨年までひどい低迷でした。
昨年暮れに肘の手術をしたそうです。
そのため、今年は手術した肘や腰に負担をかけないように投球ホームを変えたようです。
打ち取ろうとしないで打たせてとる、速めに打たせて玉数を少なめにしようとしたそうです。
それが功を奏してチーム低迷の中でまさに球界久しぶりの20勝を揚げ、素敵な笑顔もひときわ輝いて見えます。
今年になって奥さんと子供から二人が作った手製の絵本のようなものが画面に映りました。
色のついた画用紙に色紙がいっぱい貼ってあって春夏秋冬を表していました。
春は満開の咲く桜のイメージでしょうかピンクいっぱい、夏は若葉のの緑いっぱい、秋は紅葉の赤黄の色とりどり、冬は雪の白ですね。
冬が去らないことはない、春はまた来る、奥さんと子供のこの絵本に励まされたのでしょう、それがテレビを見てる私にも伝わってきました。
岩隈投手のグローブには奥さんと子供の名が刺繍されていて、絆、の字も見えました。
言葉あっても言葉では言い表せないものが彼を後押ししていたのかもしれません。
79たか:2008/10/05(日) 11:45:48 ID:Pxqi+5Mh
動物の特性をうまくいかして私たちは生活しています。
前に書いたようにさんまのように季節になると魚が回遊してきてそれを心得ていて漁をしますね。
2日前にテレビで釣り針なしにはぜを釣っていました。
えぇ、釣り針なしでどうしたら魚がつれるの、と思って見ていましたが、見ていてなるほどうまいもんだと感心しました。
数珠っこ釣り、という釣り方だそうで、えさのあおいそめに糸を通して数珠のようにします。
それにはぜが食いついき飲み込んだところを吐き出す前に釣り上げるのです。
はぜも異変に気づいて餌を吐き出す時にはもうすでに船の上です。
この釣り方昔から仙台地方でやっていたそうで、釣り針がないからはぜをまったくいためないそうです。
餌も食われるわけでないから何度も使えて、投げ込んでは船に釣り上げ、うまいことを考えたもんだと感心しました。
仙台では正月用にこれからはぜ釣りが盛んになるようです。
80神も仏も名無しさん:2008/10/07(火) 14:13:05 ID:noJtgLaR
昨日テレビで気仙沼港でもどり鰹が競りにかけられていました。
春に黒潮と共に北海道沖まで北上し、たっぷり栄養を付けて南下し今は三陸沖でしょうか。
市場の人たちも、脂がのっていてマグロのトロと同じくらい美味しいといってました。

山に行けば今はきのこでしょうか。
私はマツタケご飯の美味しさがよく解らないですね。
テレビで美味しい美味しいといっているんですが土瓶蒸しにしろ、人が言うほど美味しいだろうかといつも思います。
きのこ料理で食べたいと思うのは東北地方では、えのはな、という香茸というきのこの炊き込みご飯でしょうか。
乾燥させたきのこによってご飯も黒くなりますが香りと風味がなんともいえないですね。
年取るほどにむかし食べたものが食べたくなるというのは本当ですね。
秋は秋のものを食べる、四季それぞれにその時のものを食べる、そのものを生かした美味しい料理の仕方を伝えながら、むかしから季節の中で生きる喜びをかんじていたのでしょう。
81たか:2008/10/11(土) 12:10:39 ID:BDHJ3hIJ
維摩経の中に光厳童子という菩薩が出てきて仏陀から維摩居士の見舞いに行きなさいといわれますが、彼は見舞いを辞退します。
かって、光厳童子が維摩に出会った時、どちらから来ましたかと尋ねたところ、維摩は、わたしは道場から来ました、とこたえる二人の問答があります。
維摩のここで言う道場はお寺や僧堂、修験道場ではありません。
今その時のあらゆるところそれが即ち、即、道場であると言うことです。
維摩は答えます。
 諸煩悩、これ道場なり。如実に知るが故に。

あらゆる煩悩が道場である。
つまり私たちの生活がそのままで道場そのそのものであるとも言えるでしょうか。
これが、大乗の行き着く境地との言えるものであり、またそれさえも意識しない境地とも言えるものなのでしょう。
出家も在家も区別しない、その時その場所が修行なのだ。
前スレでも書きましたが六祖慧能は次のように民衆に説いたといわれます。
 修行しようと思うならば家にいても良い、寺に居らねばならぬということは無い。
 家にいても良く修行をするならば、ちょうど東の国にいて心がけの良い人のようなものだ。
 寺にいて修行をせねば西方にいて心がけの悪い人のようなものだ。
 心がけが清ければそのまま自己の本性という西方にいることになる。
 寺で座禅を組むだけが修行ではない。
 農作業や普段の暮らしもまた修行になりうる。

何か特別なことが悟り、境地だと思い込む。
まだまだというところでしょうか。
82たか:2008/10/11(土) 12:22:29 ID:BDHJ3hIJ
私は非常に解りやすく書いていますいるつもりですが読んでいる人にはなかなか解りづらいでしょうか。
でもこれほど解りやすく書いているのは他にないと思いますが。

なお、もし引き続き読んでいただく場合、やはり前スレを何度か読み返していただきたいですね。
私がここに書き込む最大の目的は、ただただ、読んでいただいた人に、是非見性体験をしていただきたいからですので。
83たか:2008/10/11(土) 13:08:48 ID:BDHJ3hIJ
以前、テレビを見てたらある禅僧が、学ぶという字は、人のマネをするというところから来ている、と言っていました。
つべこべ言わずに、師のまねをする、確かにそこから始まるのでしょう。
子供も何もいわなくても勝手に親のまねをして大きくなります。
あらゆる動物その通りですね。

ただね、ズーと書いてきて、ふと、思うことがあります。
人に伝えること、特に書いて人に伝えようとすることは、人のためにやっているようでありながら実は自分の学びの為だったんだということ気づきます。
不思議なもんです。
おそらく先人の中にもそれを感じていた人は多くいたでしょう。
書き続けることで考えがはっきりしてくることはもちろんですが、どのようにしたらうまく伝わるだろうかといつも考えます。
例えば私が誰かに返答をする場合でも、単にその人に対して書く場合よりもここを読む人全員を意識して書く場合が多いのです。
また、今はここを読むことはない人でもいつか読む機会ができた時その人にも間違いなく正しく伝えたいと思ってしまいますね。
きっとそれがきっと自分を新たな学びに導くのかもしれません。

何度も書いていますが、これは何も仏法仏道だけでなく、あらゆる技や技能、職業、その他もろもろもまた同様に思います。
師から学ぼうとするのはもちろんですが、伝える方もまた学びの中にいるということでしょうか。
84たか:2008/10/12(日) 00:36:54 ID:yw5XlEfO
大河ドラマの篤姫はたいへんな人気だそうで、確かに時々見ますが面白いですね。
先週朝の連続テレビも面白いですね。
たまたま先週の土曜日に連続したものをみてついつい今週も続けてみてしまいました。
予告を見ると主人公の双子が入れ替わるみたいでどのようにドラマが進むか面白そうです。
85たか:2008/10/12(日) 01:20:25 ID:yw5XlEfO
ニュースを見ると連日の株の大暴落の話でいっぱいです。
前にも書きましたが、AAAの格付けなど完全に吹っ飛びました。
結局、格付けはうまく売って売り抜けて儲けようとしたためにうまくあみ出されたもののように思えてきます。
実際はいろんな商品を組あわせてその中にまったく根拠のないものをまぎこませてあたかも評価が高いもののようにして売る、いろんな詐欺商法と似ているところがあります。
集めた金はそもそも自分のものでないから好き勝手なことができ、たまたま儲かったならあたかも自分たちの能力がいいためだと利益のほとんどをもっ行く。
暴落したら全体相場が悪いからだと開き直る、扱ってたやつらは売り抜けていて、残った損害は投資した人はもちろんですが相場にまったく関係のない人にも及びそうです。
まぁ考えてみれば当たり前でまったく存在しないものに格付けや評価を決めてかってにつりあげていったのですからね、暴落しないのが不思議です。
どこまで広がっていくのか深いのか専門家でもまったく見当がつかないと言うんですから、まだまだ先があるかもしれません。
株式などでもレーディングを高く付けて株価をつり上げて、上がったとたんにつけた証券会社が売り抜けるというのもあるみたいです。

振り込め詐欺や、年金や生活保護受給者に闇金融が金を貸し出して吸い取るのも問題ですね。

次から次とうまいことを考える悪いやつらはいるものですね、まったく摩訶不思議です。
86たか:2008/10/15(水) 23:35:56 ID:LGW7zHtt
今晩は満月だそうです。
先日NHK特集で月のことが放送されました。今晩深夜にも再放送があるようです。
放送を見てると地球と月はあらゆる点で切っても切れない関係にあるようです。
まさに、月あって地球があり、地球あって月がある、過去からそうである様に今瞬時においても互いにかけがえない関係です。
満月に見えるウサギの形が何故あり、いつも地球から見える面が同じであり月の裏面が見えないのか、理由がよく解りました。

月を見るといつも思うことがあります。
それは何かというと、番組の冒頭でも映っていた、山や陸に暮らしていたカニが一斉に海に向かって移動し始め、満月の夜満潮の時うまくこの瞬間にいっせいに海で産卵することですね。
何故陸のカニが満月、満潮を知ることができるのだろう、だって、実際に移動を始めるのはその数日前ですよ。
どう考えてもあの小さなカニが月を見たり海の音で判断しているとは思えませんね。
何か身体全体で突き動かされるものがあるのでしょうね。
まさに生命の神秘でしょうか。
またこのカニが産卵するのを待ち構えている魚もどこでどう解るのか産卵場所に多く集まっていますね。
それを見てるとその多くがたべられるのにわざわざこの時を選ばなくてもと思ってしまいます。
でもきっとこのように無数ともいえる卵をいっせいに放出することこそもっとも効率的なのでしょう。
珊瑚の産卵も同様ですね。
おそらく月の引力がこれらの小さな身体にも自身にわからなくても働きかけてるのかもしれませんね。
87たか:2008/10/15(水) 23:53:34 ID:LGW7zHtt
見性、仏性とはこの月の引力のようなものといえましょうか。
これを音で知るんですね。
これを一音を観るというのです。
だから、目で見るのでなく、耳で聞くのでもなく、と般若心経で観音菩薩が悟った瞬間を示してるんですね。

解りますかね。

月は月でありながら、皆の心に入っている。
音も同じです。
仏鈴が鳴っているようでありながら、実は心が鳴っている。

あはははは。解りますかね。屁理屈言っているうちは屁理屈は解っても、そこどまりですね。
88神も仏も名無しさん:2008/10/16(木) 20:26:51 ID:AgW3Qhcs
解りますって言ってるうちも大して変わらんよ。
89神も仏も名無しさん:2008/10/16(木) 22:38:43 ID:AgW3Qhcs
なにをもって見性というかはしらんが、もしそれが少しでも現れるもの、消えるものであればそれもそこどまりよ。
解ってるだの解ってないだの、結局それも差があるからそんな言葉出るんだろ。
なら屁理屈言ってる奴となんもかわらんだろ。
90たか:2008/10/16(木) 23:56:06 ID:X+PMRbus
88さんへ、
そう思うならここを読まなきゃいいだけさ。
おそらく、他のところより、空、見性について、そして、それにいたるやり方を多くの例を示して詳しく解りやすく書いているはず。
君は自分では見性を知らないと言っていて、その解らないことを私に批判しても言えば言うほど自分に降りかかるもんだよ。

見性に仕方を示しながら、実は本当は、もし見性した人がいたら見性後のその人に対しても書いているんだ。
だから、実践もしないで頭で考えようとしていることがみえると、ついつい辛く厳しく言ってしまうのさ。
私は真剣さ。
誰か真剣にやってみようと言う人がでてきてほしくてね。

ここで名前を挙げた多くの人達先人はは、皆、本当に真剣だったよ。羅ジュウも、道元も、親鸞も、一休も。
真剣でなくて悟った人がいると思うかい。

どうだい、君も真剣にやってみる気はないかい。
その気がなければここを読んでもつまらないかもしれないね。

たった一音をしるだけ、だけど、それが人が書いたものを読むのとはまったく違うということを君にも是非知ってほしいね。
91たか:2008/10/17(金) 00:28:49 ID:qrclg2fi
なにをもって見性というかはしらんが、とよく書いている人がいるが間抜けだよ。
書かないほうがいいよ、みっともないから。

前スレ最初から何度も書いているけれど、文章が読み取れないみたいだ。
仏法は一音なり。
仏は一音をもって法を説く。
いいかい、これが見性さ。
たった一音、仏法の始まりであり、そしていうなれば全てさ。
だからこの一音をしっかり解らないから、君の言うようないろんなことを言うんだ。
私はこの一音をここを読む人に知ってほしいのさ。
一音、大乗仏経の全ての教えの基だよ。

この一音さえ知れば公案など、そんなものどうでもいいだろう。
まぁついでに言えば、迷いに迷った白隠があみ出したという隻手の公案も、この一音さ。

92神も仏も名無しさん:2008/10/17(金) 08:47:02 ID:lxYt4v8h
音にとらわれすぎだって
93たか:2008/10/17(金) 22:16:08 ID:qrclg2fi
92さん、
あなた文字の音だけ考えてるから、そう言ってるんでしょう。
そうじゃないんだ。
そこからとてつもなく大きく広がるんだ。
それが大乗という世界観なんだなぁ。
でなかったら、小石が竹に当たった音で悟った香厳和尚にしろ、からすの音で悟った一休和尚にしろ、その他数多くいるわけだけど、この一音が単なる音だったなら悟りもこの人たちの話もとっくにないだろうに。
いくらわかる様に書いても読んでも解らろうとしない人はここをいくらよんでもきっと駄目かも知れないね。
自分なりにやったらいいでしょう。
私はね、音のことなどもうとっくに捉われてなんかいないさ。
でもね、仏法を伝えるためには最もいい方法だと思って書き続けているんだ。

その為に多くの人を例にあげて書いてきたんだ。
その心がわからないなら読む必要などないさ。
道元が中国にいるとき、千人以上の僧のうち悟りに至ったのは二人ぐらいだったという。
道元の師の如浄禅師にしろ、白隠の師の正受老人にしろ、、彼らに伝えたのは二人のよい弟子を見つけてこれを伝えなさいということだった。
確かにそれも、なるほど、というところがあります。
あなた自身が私が書く、音、という言葉に捉われてるから私が示してること全体にに気づかないのですよ。
94たか:2008/10/19(日) 14:10:45 ID:nWKMYDvo
今日午前中にBS2で将棋の100年インタビュー「羽生善治」に 羽生喜治名人がでてました。
1時間半の番組で全部は見れなかったけれどいろんな質問に将棋に対する彼の取り組みや考えが出ててました。
インタビューの最後に100年後の人たちにメッセージで次のようなことをいっていました。
 例えばですね、100年以上も前の江戸時代の人たちが詰め将棋や将棋にこめた息吹を感じ取ってほしいですね、と。
これ、先人のそれを感じ取った人が言い切れるものなのでしょう。
わたしもね、それを感じ取ってほしいんですよ。
ただ経典を読んで、解説書を読んでああなんとなく解ったというんじゃなくて、書き残した人たちと同じ感動を味わってほしいんです。
まず多くの経典や先人の書き残している、音、そのものから感動するのが一番大切ですよ。
自分が至らないから音に拘るななどというのは、氷を触ったことがない人が氷の冷たさを感じたことがないのに、氷を触ってみたらいいとですよというのを根拠なく批判しているようなものでしょう。
多くの人たちが人生をかけて伝えようとした感動、そしてその息吹を感じなくて何が仏道ですか。
自分の人生で感じた感動、喜びを他の人に、また次の世代に伝えることが人生において最も大切なことだと思いますよ。
だから私は一音ということを伝えることで、仏法を知ってほしいし、感動してほしいんですよ。
95たか:2008/10/26(日) 01:04:24 ID:0HyfFK42
12日のNHKスペシャル「病の起源」の読字障害という番組の中で、面白いことをいってましたね。
人は文字を理解する時、視覚野→脳の中で文字の形を識別→39野・40野で音に変換→ウェルニッケ野→ブローカ野→理解という経路を経て身体に伝えるらしい。
音を聞く場合は、聴覚野→ウェルニッケ野→ブローカ野→理解だそうだ。
つまり、脳の39,40野というところで文字を音に変換しているらしい。
この39野、40野の機能がうまく作動していないと文や文字を読んでもなかなか理解できなくて苦手になっている人が多いという。
例えば、アインシュタイン、ピカソなど天才的などといわれている人もこの39野、40野がうまく機能していなかったのではないかと思われてるらしい。
この文字を音に変換できずらい人は空間把握能力がずば抜けて高い人も多くいるらしい。
言語を音に変換する40野と39野は五感を統合するセンターのような役割ももっているらしい。

人間の脳はいったん文字や文を音に変えて身体全体に取り入れていて伝えていて、その変換をつかさどるのが脳中心部にある39野、40野ということのようだ。

音は39野、40野の変換機能を通さずに身体全体に伝えているともいえるだろうか。

音をありのまま、という意味に少し関連があるかもしれませんね。
96たか:2008/10/26(日) 01:08:53 ID:0HyfFK42
音が鳴れば、そのまま響く。
ただそれだけ。
でもそれがまさに、目覚め、の一歩でしょう。
97たか:2008/10/26(日) 12:45:28 ID:0HyfFK42
目覚めの第一歩、これ、見性の一音ですよ。
赤ん坊が母親から離れた時に、つまり、生まれたときに身体全体に雷鳴のごとく響いた音、これが一音です。
私は自分の体験を通して前からそう思ってるんです。
だからね、この一音を体験してほしいんですね、それだけを伝えたいんです。
何度も書いていますが、この一音体験すれば、無門関はもちろん、白隠禅師の公案などもうどうでもいいこと解決済みです。
これが解らないやつらはいつまでたってもぐだぐだやってる。
解ってもいない人の言う、自分に甘い言葉に引きつけられてかえって前に進まないでいる。
98たか:2008/10/26(日) 13:25:32 ID:0HyfFK42
きのう、にっぽん巡礼、という番組をBS2でやっていました。
恐山、山形の杉の巨木、天橋立、東京タワー、人にはそれぞれにその場に立てばその空間に身を預けられる、心を任せる、心も身体も委ねることができる空間があるのだなぁ、と思います。
誰もがそう思うでしょうが神社仏閣はもちろん、道端の観音菩薩、地蔵様の前に立っても同じでしょうが、番組で紹介があった人はそれぞれにそれぞれの場所に感銘や感動を感じてますね。
その場所その空間はその人が本当に落ち込んでいた時に、生きる力、生きる喜びを与えてくれた場所のようです。
だからその場所に立つと、その空間に包まれていると感じて、生きる力を与えられるといいます。
その人にとってはかけがえのない空間ですね、必ずしも霊験あらたかなところでもなく、案外身近なところにもあるかもしれませんね。
この番組今度の正月、来年の3月には特集番組があるそうで応募を募っていました。

99たか:2008/10/26(日) 17:00:42 ID:0HyfFK42
にっぽん巡礼という番組、四国のお遍路さんのように寺や霊地を次々にまわって歩く番組ではないです。
その人が生きる力を感じた所をそこに至ったエピソードと共に各自ひとつずつ紹介するような内容でしょうか。
確かに人生の中ではどうしようもないくらい落ち込む時があります。
でもそれがあるからこそ、逆にかえって生きる力、生きる喜びを感じることがあります。
その切っ掛けが、この番組で言う、その人の巡礼の地、その空間ともいえるでしょう。
子供を亡くし、親を亡くし、自分のふがいなさに泣いた時巡りあえるものかも知れませんね。
100神も仏も名無しさん:2008/11/06(木) 10:17:07 ID:QJW9KYag
一休和尚

空即是色とは何か?
 「白露の おのが姿は 其のままにもみじにおける くれないの露」
仏法とは一口に言えば?
 「仏法は なべのさかやき 石のひげ絵にかく竹のともずれの音」
101神も仏も名無しさん:2008/11/07(金) 11:24:36 ID:T9nyr+wo
一休和尚

心とはいかなるものをいうやらん 墨絵にかきし松風の音

そのままに生まれながらの心こそ 願わずとても仏なるべし

経を見てその善悪を取りぬれば 善悪ともに悪にこそなれ






102たか:2008/11/16(日) 23:39:53 ID:X2J2iTxC
一休和尚はいいですね。
諸法実相、ありのまま、気取らぬ中にそのままに身も心も置く。
103たか:2008/11/16(日) 23:47:22 ID:X2J2iTxC
まさに、入てん垂手(にってんすいしゅ)でしょうか。

104たか:2008/11/17(月) 10:02:38 ID:nREaWxhM
朝のテレビ小説「だんだん」の中で石田という青年が双子の姉妹に、人が最初に聞く音は何か、と聞いていました。
誰もが思うでしょうが、この世で初めて出会う音は母親の心臓の音だと話していました。
確かに母親の心音は胎児と母親をつぐ命の音であり命をつなげる始まりの音ですね。
トン、トン、トン、というツービートの音とはもつとも基本的な音だといってました。
風や波の音を耳を澄まして聞いていると確かにそれを感じて心が落ち着きます。
私も以前そう思っていて、今でもそれを否定するわけではありませんが、見性体験後、少し考えが違っています。
105たか:2008/11/17(月) 10:18:57 ID:nREaWxhM
インターネットを見てたら産婦人科医とみられる人の次のような文がありました。

ピンクベビー
お腹の赤ちゃんは羊水中では呼吸をしていない。
臍帯(さいたい、ヘソの緒)経由でお母さんから酸素をもらって生きている。
肺で呼吸したら溺れてしまうので、羊水中では肺は小さく折りたたんでしまってある。
生まれて来るとまず臍帯の血流が止まり、酸素の供給がなくなると、肺がフワーと拡がる。そして外の酸素を胸にいっぱい吸い込んで人間としてはじめての肺呼吸をする。
この時にオギャー、オギャーという産声をあげて、みるみるうちにピンク色になる。(だから赤ちゃんという?シャレではありません)
このプロセスがうまくいった元気な子をピンクベビーと呼んでいる。この間、数秒から数十秒であるが、お母さんがたにとってはすごく長く感じ、「まだピンクじゃない」と心配する人もいる。
子宮の中では、赤ちゃんの口や鼻の中は羊水で充満している。その状態で、もし肺呼吸をすれば、肺に羊水が入り一大事である。
お母さんが、あまりいきまずに、ゆっくり赤ちゃんを産めば、途中で羊水はほとんど口や鼻から自然に出てしうまうので、この時はすぐに泣いても心配はいらない。もし羊水が残っているようなら私達が急いで吸引してから泣いてもらう。
お母さん方が心配している間に「まだ泣かんとけよ」といいながら私達は羊水を吸引しているのである。(この間はまだピンクではありません)
逆に思いっきりいきんで産むと、鉄砲玉のように飛び出した赤ちゃんはびっくりして、羊水をゴックンと飲んでしまう。そうすると産声をあげることができずトラブルになるのである。

「いきまないお産でピンクベビーを産もう!」が当院での合い言葉である。

最初から赤ちゃんは赤かったんではなかったんですね。
産声を上げて呼吸をして初めてピンクベビー、赤ちゃんになるんですね。
106たか:2008/11/17(月) 10:49:45 ID:nREaWxhM
次男が生まれるとき妻と病院にいって廊下で待っていると、突然先生が出てきて、ご主人ですか中に入って奥さんを応援してくださいと分娩室に入れられました。
奥さんはたいへんなんだから背中を押してあげて手を握ってあげてと看護婦さんにいわれ一緒に呼吸をあわせたのを覚えています。
その時には呼吸を合わせるだけで精一杯でしたが。
小さい声でないたのを覚えています。
107神も仏も名無しさん:2008/11/17(月) 11:16:46 ID:ySSqzHVa
自分の経験上、空(無分別)の状態でいるときは、書き込むというような能動的なことはしない
(特にする気にならない)ように思うけどどうなのですか?
能動的になるのは、そこから日常の状態に戻っているからだと思うのですが
たかさんは書き込まれているときどういう状態ですか?
108たか:2008/11/18(火) 12:14:07 ID:ak6TKYMK
107さんへ、
空を理解するのに水滴で例えるとわかりやすいでしょう。
水滴にはよく観ると周囲の全ての環境景色が映っています。
この水滴はこのときこの瞬間の周囲をそのまま映しだすその時の水滴ですし、風が吹けば水滴の形もゆがみ、温度が上がり乾燥すれば水滴も小さくなります。
近くで太鼓をたたけば直接触れてもいないのに水滴そのものが震えたりします。
生まれたての子も水滴みたいなものです。
周囲の環境がそのまま入り一瞬でピンクベビーに変えて赤ん坊としてこの世での生活が始まります。
このよにでて、音に触れ、光に触れ、空気に触れてはじめてピンクの赤ん坊ですね。

このとき赤ん坊が直接直に初めて環境に触れた瞬間を般若心経の観音菩薩は空という言葉で表していると思ったらいいでしょう。
まさに突き刺さるように身体全体に隅々まで周囲の環境そのものが飛び込んで一瞬にして身体全体を満たしたということでしょうか。
突き刺さるようにと書きましたが、同時に満たされ包まれた喜びが生まれたかもしれないですね。

身体全体で音に触れ、光に触れ、空気に触れ、目で見て耳で聞いて鼻で息してなどということなど飛び越えた、身体全体がひとつとしてうごきはじめた瞬間なのでしょう。
見性体験もまた同様の体験です、ですからこれ般若心経でいつているとうりですね。
音を耳で聞くなどという表現でなく、内側から響くような、雷鳴が全身を貫くような感じがあるのでしょう。

このとき音と自分が一つになっているということを感じます。
これが無分別を智る切っ掛けとなります。
この音を皮切りにして観てみると、なるほど全てのものはこれで成り立っているということが実感として解ってきます。
心もはたらきも同様でしょう。
ただこの段階ではまだまだ不安定ですから何度も書いているように先人が残したものを学びながら心を落ち着け、深めていく必要がでてきます。
多くの名僧が悟りに至った後、何年もかけてふかめていったことが伝えられているのを観れば解りますね。

一休禅師もまた同様ですね、この間に確信をもって言えるものを体得したということでしょう。
だからこそ釈迦と違うことを言いながらも、多くの人を魅了するのでしょう。
109たか:2008/11/18(火) 12:39:25 ID:ak6TKYMK
一休禅師など名僧が体得したとの確信があれば、坐っている時だけが空だ、悟りの姿だなどという間抜けたことは言わなくなります。
座っていても立っていても寝ていても、そして仕事をしているときでも、その時その時が大切な瞬間です。

ましてや能動的、受動的などいうそんな言葉にあまり惑わされなくなります。
私がここに書き込むのは、ただただ、ここと見ていただいた人が是非とも一度、見性、一音の体験をしてほしいと思うからです。
まさに命、生命の始まりの音と思うからです。

無上とか言う悟りに浸るのでなく、それを如何に伝えることができるかということはさらに大切なことだと思えるのです。
110神も仏も名無しさん:2008/11/19(水) 21:01:56 ID:5BTzbqzm
ていねいなレスありがとうございます
自分も一休禅師はとてもしっくりきますし、たかさんの書き込みはどれもその通りだと思うの
ですが、他人に悟りに導くことに関しては多少疑問が残ります
これはたかさんの問題ではなく、むしろ自分の問題として

自分もある種の体験のようなものを何度かしましたが、その中でわかったことは、人はみな
ただ悟りに向かっているのであって、そこに差や違いが見えるのは自分の自我の視点の
せいだということでした

一見悟りとは反対に向かっているような人ですら実はただ悟りに向かっている
というより、本来、悟りと悟りでないものなどない、ということでしょうか
悟りと悟りでないものを分けるのはなんでしょうか、悟りに向かっている向かってないと判断
するのは何でしょうか

このあたりは自分でもまだ完全には見えてない部分なので、へんな自我も残っているような
気もします、よくわかってない気もします
たかさんのご意見もお聞きしてみたいです
111神も仏も名無しさん:2008/11/20(木) 09:00:29 ID:BEun6Hm9
あげ
112たか:2008/11/20(木) 11:08:53 ID:AEC1w4bj
>>105のピンクベビーになる前の子の状態はいうなれば維摩居士の空っぽの部屋ということでしょうか。
空っぽ故に周囲の全てを受け入れてるんです。
これを、一粒の芥子の種の中に宇宙が入っているが如し、といいます。
まさに一瞬にしてです。

この空っぽの身体に宇宙が入る切っ掛けが最初の一音だと私は思っています。
つまり、からだの働きを始まる動き出すきっかけのスイッチが一音ではないかと自分の体験からそのように私は思っています。
最初のはたらきの一番わかりやすいのが呼吸、つまり産声といえるでしょう。
この呼吸と共に脳だけでなく身体全体に隅々まで激しく電流がつながり、新しいひとつの生き物として動き出すのでしょう。
そういう意味も込めて私は一音を繰り返して書いてきました。

前スレで以前かきましたが大人は普通聴覚の部分でしか反応しないのに生後間もない赤ちゃんのそばで音を鳴らすと脳全体が激しく反応するといいます。
まさに身体全身で音に反応しているのでしょう。
113たか:2008/11/20(木) 11:34:09 ID:AEC1w4bj
>>109の能動的、受動的などいうそんな言葉にあまり惑わされなくなります、は維摩経の入不二法門というところでしょうか。
維摩居士は見舞いに来た菩薩に、菩薩が不二の法門に入るとはどういうことか、と問います。
この維摩経のクライマックスの一場面です。
我々は真如、悟りを知ればなおさら、今を大切に生きなければならないでしょうし、またそれを多くの人に伝えたいと思えてきます。
これが大乗の大乗たるところです。
雲門は悟りに浸っている坊主を馬鹿者と言って殴り倒すでしょう。
維摩は釈迦の弟子たちの前に現れてはその未熟さを指摘します。
そして市中に現れてはその人の状況にあったように法を説き導きますね。
これ六祖慧能も同じでしょう。
114たか:2008/11/20(木) 11:52:50 ID:AEC1w4bj
お産する時には妊婦は仰向けに寝て足を開いてするものと思い込んでいました。
このスレ、題名が、座ったり立ったりする修行、ということで、
>>105の産婦人科医のホームページの中に次のようなものがありました。

お産の体位----立ったり座ったり、自由が一番
 分娩の時の体位は仰向け(仰臥位)が普通であると思われている。しかし昔は立ったり座ったりしてお産をしていたようだ。
立った状態で赤ちゃんを産む妊婦の人形が古代インカ帝国から発掘されている。
理論的には蹲踞位(そんきょい)というのが一番お産に適しているらしい。あのお相撲さんがしこを踏む時にする格好である。
 仰向けでお産するようになったのは助産婦や産婦人科医が分娩を介助する時にやり易いからこうなったのである。
ただし、最近は座位または半座位で分娩した方がお産は楽になるようなので角度を自由に変えれる座位分娩台が考案され、もっぱらこれを用いている。
 表現が下品で申し訳ないが、なかなか仰向けになって「ウンコ」をしろといわれてもできないものである。
 最近、側臥位分娩も結構お産が楽になることがわかってきた。少しづつ希望に応じて試みようと思っている。
 要は、どんな体位でもいいのである。
自分が一番お産し易い体位でこだわらずに自由に産むこと。これが理想である。
立ったり座ったり、四つん這いになったりすると、つらい陣痛を乗り越えることができ、スムースにお産ができる。これをアクティブバースと呼び、外国人のかたはよく知っていて実行する人が多い。
 ところで、私は書店で立ち読みをするのが好きである。超速読派なので、書店で一冊読んでしまう。(ただし、悪いので近くにある別の本を必ず一冊買って帰ることにしている。)
机の前に座るより、立ったり座ったりして身体を動かし行儀悪く本を読んだり、原稿を書いたりする方が集中できて効率がいい。
お産も同じなのかな?と気がついた。
115たか:2008/11/20(木) 12:07:26 ID:AEC1w4bj
そういえば、小さいとき家で豚を飼っていて豚が子を産むのを見ることが何度かあった。
一回の出産で10匹ちょっと産むけれども横向けで産む時が多かったけれど、立ったままで産むのも何度か見たなぁ。
時々呼吸しない子があった時など親父が豚の鼻からいきをふきこんでるのを見たことがあった。。
冷たくなった子豚を電気コタツで温めてこともあったのを思い出しました。
書いていると思いもよらないことを時々思い出してついつい脱線してしまいます。
116たか:2008/11/20(木) 13:14:18 ID:AEC1w4bj
生まれた瞬間、空っぽ、無そのものです。
ところが同時に周囲の全てが入っている。
赤ん坊は宇宙のほんの一ペン、ひとかけらにも入らない。
でも同時に宇宙全体がこの赤ん坊というひとかけらにはある。
こうなってくると赤ん坊とか宇宙とか別々に分けるとなどできません。
この赤ん坊さえこの赤ん坊の意思とは必ずしも関係なく周囲のひとつひとつをかたちづくっています。
鼻を見れば花が美しく、山で空気を吸えば、この空気が山全体のすがすがしさを身体いっぱいにくれます。
今あることの喜びが沸き立ってくるでしょう。

以前マチスの生きる喜び、という絵の話を書きましたが、私はこのスレに書き始める前から、この、生きる喜び、を書きたかったんです。
母親や父にこの世に産んでくれたことを感謝することはもちろんですが、すぐ隣にいる人との出会いもまたひとつの喜びにも思えてくるでしょう。
また生きている間に歓喜した感動した喜びを人に伝えたいという思いもわきあがってくるものでしょう。
それを人に伝えていける喜びもまた今の瞬間があってのことです。
この生きる喜びという心、それを伝える喜びの心は、無心が転じて沸き起こるのかもしれません。
117たか:2008/11/20(木) 13:21:16 ID:AEC1w4bj
鼻を見れば花が美しく
鼻の字を間違えました、花です。
鏡に映った私の鼻はどう見ても花には見えません。
でも、この不細工な鼻もよくみりゃ、愛しく思えます。
118たか:2008/11/22(土) 23:03:04 ID:0tHpDElc
2,3日前NHKの朝の番組に村瀬明道尼という尼僧がでていました。
番組の最後の10分位しか見れませんでしたが、前にこの方テレビに出てたのを見たことがありました。
30代で20歳位年上の僧侶と恋愛したとニコニコしながら話していました。
普通仏教では恋愛は苦を生むものなので禁止でしょうが、この方もあの表情からして恋愛に対して肯定的なのでしょうか、私も恋愛、異性を愛することは大切なことだと思っていますね。
苦を生むものではあるけれどそれもまた生きて入ればこそ味わえるものだと私には思えます。
この村瀬尼僧にしても、瀬戸内寂聴さんにしても80才をゆうに越えてニコニコしながら自分の恋愛を楽しく話せるのですから苦を生むにしても恋愛とはたいしたものです。

仏教の理解に対しては寂聴さんはもう少しとは思うのですが、以前源氏物語のことで寂聴さんをかいたのは、実は寂聴さんが源氏物語を話す少女のようなあの輝きを本当は伝えたかったんです。
彼女が源氏物語を読んで感動し、その感動をどうしても今の現代の人に現代語で伝えたいという思い、その姿を伝えたかったんですが中途半端になってしまっていました。
いつかはそれを書き足したいなぁと思っていました。
自分が感動したものを他の人にどうしても伝えたいという思いが沸き立つことが人にはありますね。
それは私利私欲を離れてです。ただ伝えたいんだという思いです。
以前書いた山下清の花火の貼り絵も将にただただ単に清が花火大会を見て感動したその感動をそのまま沸き立つままに表した絵だからこそ見る人に感動を与える、人の心に響くのでしょう。
ところが有名になって金が絡むといろんな人が現れていろいろと言い出す。
純粋に感動を描きたいという心をいろんな知識や欲望が覆い尽くして仕舞いにはその感動が霞んでしまいますね。
この覆い尽くしてるものを時に払いのけられたなら、きっと心も楽になります。
悟りを得るとは、この覆い尽くすものを時に払いのけて心を軽くする点があると言えるでしょうか。
119たか:2008/11/22(土) 23:25:36 ID:0tHpDElc
村瀬明道尼は39才の時に交通事故にあって体が不自由になりますがたくましいですね。
この方のゴマ豆腐は天下一品だそうで、その料理と彼女の体験から学ぼうとする人で多くの人に慕われています。
不自由と見える体も今の自分、これを苦とみるか、今の自分そのままと受け入れるか、ちょっとしたところが実はまったく違うのでしょう。
120たか:2008/11/23(日) 22:21:50 ID:j0oG4Y83
人は今共に生きている人に、そして次につながる人に心を伝えたいと、本能がそうさせるのでしょうか。
いやいや人だけでなくあらゆる動物植物生きとし生けるものそうなのかもしれません。
ミツバチのはたらき蜂の命はたった一ヵ月だそうです。
その間に集められる蜂蜜はたったスプーンいっぱいです。
でも命を伝えることに精一杯でスズメバチなどが襲ってくると自らの命を懸けて懸命です。
遺伝子は女王蜂と雄蜂が伝えるのみですがそれでもはたらき蜂は命続く限り懸命ですね。
このはたらき蜂を懸命にさせているのは何なんでしょうね。

私はそれは、生きる喜びと、伝える喜び、だと思えてきます。
言葉を変えて、生きている喜びと、伝えられる喜び、ですね。
人によりまちまちでしょうがある時点から少しずつこの喜びが移行していくように思えてきます。
121たか:2008/11/29(土) 09:51:07 ID:9sjwmdk5
>>110さんへ、
煩悩即菩提、と言うのは仏教を知る人なら誰でも知っていることですね。
修行して煩悩がある時点でなくなって菩提に転換し悟りを得る悟りを感じることだ、と思っている人がほとんどです。
ある意味それも間違いとはいいませんが、実はそのように解釈するのではありません。
実は、煩悩即菩提とは菩提即煩悩と言うことでもあると思ったほうがいいのです。
つまり煩悩と菩提は分けられないもの、つまり一緒に共存していると思うことが大切です。
無分別とは煩悩も、菩提つまり悟りも一緒にあるということです。
この一緒にあるということを知ることが大切で、煩悩と悟りさえ分けないのが不二無分別智と言うことです。
維摩経の大きなテーマの一つが、不二の法門に入る、と言うことですが、多くの人はこの点でも不十分でおそらく間違って理解しています。
110さんにおいても、この不二ということはどういうことか、法門に入るとはどういうことか、もう少し自ら維摩経を読んで突き詰めることが必要でしょう。

空を空じるという言葉があります。
空を悟りと言う言葉に置き換えれば、悟りさえ空じる、と言う言葉名なるでしょうか。
いったん空を智るが上で知った上でその上で現実と対するのだ、と言えるでしょう。
これもまた大乗の大乗とといえるところです。
空、悟りに拘れば、見せ掛けの捉われの悟りに過ぎないのだ。
これがあってこそ自由自在といえるということでしょうか。

このことについてはそのうちまた書きます。
122たか:2008/11/29(土) 12:08:13 ID:9sjwmdk5
2日前テレビをつけてら今歌声喫茶が静かに人気が出ているといってました。
中高年の人が多く行っているらしく、みんなで思い思いにというか声を合わせてと言うかロシア民謡やむかしの歌など大合唱でした。
次から次と歌を歌って会場大盛り上がりの様子です。
その放送では歌声喫茶もですが、最近は観光バスツァーで観光地に行くと言うより行き帰りのバスの中でみんなで歌を歌うのが目的で参加するツァーもあるらしいですね。
観光地はそこそこにみんなでバスの中で大合唱するのが目的でいつも参加してますとニコニコ顔です。
それを見ていて、小学校の頃、子ども会や修学旅行などのときバスの中で歌を歌い、合唱したのを思い出しました。
このバスツァーの参加者も子供のときと同じような気持ちでいるんでしょうか、とても楽しそうでした。

20年以上も前一度だけ歌声喫茶に入ったことがあります。
会社の近くにバラライカという名の店があって入ったことはなかったんですが、数人の同僚と居酒屋で飲んだ後酔った勢いで歌声喫茶に初めて入りました。
ところどころしか覚えていないですが、最初は静かに人の歌を聞きながら飲んでたんですが、さぁ一緒に歌いましょうと言われ、最後には肩組んで歌っていたような記憶があります。
みんなと歌を歌ってとにかく楽しかったですね。
テレビを見るまで気づかなかったですが、カラオケとはまったく違う雰囲気があります。
カラオケはマイクを持った人だけが歌う歌い手と聞き手というような雰囲気がありますが、歌声喫茶は一人が歌うと言うより全員が歌う、店全体が一つのを歌う、歌うことで店全体と一つになったような一体感があったような気がします。
それが今、歌声喫茶に中高年をひきつける魅力なのかもしれません。
歌声喫茶も、バスの中も、小さな空間ですが、歌を通して一体感と言う喜びが身体全体で味わえるのでしょう。
123たか:2008/11/29(土) 13:19:22 ID:9sjwmdk5
年末で、合唱となるとなんといってもヴェートーベンの第九の合唱でしょうか。
私が住んでいる市でも毎年市民の第九の演奏があるようです。
小学校の時、テレビで年末は第九だといっているので最初から聞いてやろうと思ってズーとテレビの演奏をみてました。
ところがいっまでたってもお目当ての合唱が始まらなくて飽き飽きしたのを思い出します。
あきあき見て自分の見たいところは最後の部分だけだったんだとその時感じました。

それにしても年末に人々をひきつけるこの第九の魅力は何なんでしょうね。
元となったシラーの詩は難解ですね。
耳のきこえないベートーヴェンが、歓喜の歌の始まりを「ああ友よそんな調べなどではだめだだめだ」とはじめるところに凄さがありますね。
そして、音楽家にとって致命的ともいえる経験の中にあってもそれを人生の賛歌にして人々の心に響かせるます。
演奏者も、歌い手も、そしてそれを聞きながら口ずさむ聴衆にも一体になって心底から湧き出して響くのでしょうか。

もう年末今年の冬は厳しそうですが、心の底には歓びがあると、先人、巨匠たちは伝えているかもしれませんね。
124たか:2008/12/04(木) 14:17:57 ID:/V8OYh9T
少し前、NHKの「病の起源」と言う特集番組で、糖尿病やアレルギーのことを放送していました。
糖尿病では日本人は太っていないのに糖尿病の人が欧米人に比べ非常に多いそうです。
その違いはどこにあるのか、その違いは何千年にも亘る食生活の違いではないかと番組ではいっていました。
例えば青森の三内丸山遺跡では栗などの木の実や穀類を食べていて動物性脂肪をほとんどとっていなかったそうですが欧米人は放牧など牧畜で動物性脂肪を日本人よりはるかに多く取っていたと言います。
日本人は脂肪の少ない穀類中心のぎりぎりの食事に対応したちょうどよい消化吸収の身体になったようです。
ところが現代、豊かな食生活になり体が食生活の変化や環境の変化に対応しきれなくなっているようです。

スギ花粉などのアレルギーも同様に私たちを守るはたらきの抗体反応が今の環境の変化に対応しきれないところに原因がありそうです。
私もスギ花粉がひどい時に、知人から注射一本してもらったらひどい花粉症が一発で治ったと聞いたので、それをかかりつけの先生にしたら、うち医院ではそれはしません、と言われたことがあります。
このアレルギーの身体のシステムがつくられたのは遥か昔爬虫類から哺乳類に進化した時に生まれたそうです。
つまりアレルギーのシステムによって私たちは今日まで守られてきたと言えます。
これも私たちの生活環境が急激に変化してそれに身体が対応しきれないということですね。



125たか:2008/12/04(木) 15:05:04 ID:/V8OYh9T
多くの人が病気は苦だといいますが、その苦の原因には現代人の作り出した食生活や急激な環境変化が大きくかかわっています。
とはいっても、人は楽な生活や美味しい豊かな生活に浸ってしまうとそれは当たり前のことと思ってしまい、それを薬などで治すことばかり考えます。
自分の身勝手さを忘れて、何かと理屈を考えて、それで自分たちの身勝手な理屈で納得させようとします。
でもこの勝手な理屈だけでは問題は解決しなくて、解決を先延ばしにしたり、かえって複雑にすることが多いように見えます。
126たか:2008/12/04(木) 15:42:06 ID:/V8OYh9T
110さんへ、>>110
悟りと悟りでないものを分けるのはなんでしょうか、と言う質問ですが、それは仏性、空、つまり無分別に気づくか気づかないかの違いと言うことでしょう。
また、悟りに向かっている向かってないと判断 するのは何でしょうか と言う質問も、悟りに向かっているとかではなく、本来心の底に具わっているものということです。
道元禅師の言う、本来の自己、も誰もが根底に持っていてそれに気づくかどうかで、悟っているか悟っていないか、の違いがあります。
気づくかどうかそんなことなどお前に言われなくても前から解っているわといわれそうですが、本当にそうでしょうか。
127たか:2008/12/04(木) 15:42:59 ID:/V8OYh9T
前スレ323。慧能禅師の六祖壇経
323 :たか:2007/05/26(土) 09:52:02 ID:QawEHz8h
慧能禅師の教えは町で働く商人にも広がっていったという。
その教えは、死んで来世で救われるよりもこの世で救われたいという人々の現世利益に答えるものだった。
慧能禅師は休むことなく出かけていって説法を重ねたという。
町の中心部に大鑑禅寺という小さな寺があり、この寺で後世に伝わる説法を行った。
その説法を弟子が書き残したものが六祖壇経である。
 正しい悟りの智慧は誰もが本来持っているのだ。
 ただ心の迷いを起こすために自覚することができないだけだ。
 愚者も知者も仏と成る本質にかわりはない。
 ただそれを見失うか気づくかという違いにより愚者と知者との別があるだけである。

誰もが悟りを得ることができる。けして特別なことではない。
慧能禅師の説く禅の教えは多くの人々の心を捉え中国の大地に深く根をおろしていった。
慧能禅師の教えが中国の風土にあった中国の禅として確立されたという。

悟りを得た慧能禅師は最後は民衆の中に入って手を差しのべる。
六祖慧能禅師のその姿は十牛図の入てん垂手(にゅうてんすいしゅ)を思わせるものだ。

慧能禅師が死を前にして書き残した偈、
 心地含種性
 法雨即花生
 頓悟花情己
 菩提果自成
心という土壌は仏性の種を含んでいる。
教えの雨を受けると智慧の花が開く。
即座にこの花の心を悟ってしまえば悟りの花は自ずから実る。

禅の悟りを解りやすく絵で示した十牛図は六祖慧能禅師の人生を絵で表してるようにも見える。

番組の内容をほとんどそののまま書いた。
見る機会があったらぜひ見たらいいでしょう。
128たか:2008/12/04(木) 16:53:52 ID:/V8OYh9T
十牛図の入てん垂手(にゅうてんすいしゅ)のような人は多くいるでしょうが、代表的なのは経典で言えば維摩居士でしょうし、日本では一休禅師でしょうか。
もしかしたら、法然上人や親鸞聖人もそういえるかもしれません。
入てん垂手は大愚がごときです。まさに、理屈を考える人から見れば、念仏だけで何がわかるか愚かなやつらめ、といわれそうです。

>>107
仏性に気づいたからこそ、それを伝える、それはごく自然なことです。
不二の場面の沈黙の維摩居士はいや維摩経の作者は維摩経を書き、羅什はそれを訳すように、只管打座の道元も正法眼蔵を残し、念仏の親鸞も教行信証を書く、同様その他無数にいるでしょうか。

彼らから見れば塵の一片にも至りませんが、まだまだ学ぶことだらけですが、微力ながら私が書くのも。
でも不思議なもので書いていると伝えるつもりので書き始めたのにそれ以上に自分の学びになったり、新しく気づくことがあったりするものです。
当然いろいろと深まってきて、先人たちがどのように感じたかその心に触れるような気がするでしょうか。

伝える、伝わるとは、単に文字や知識や言葉が伝わるのではなく、その人の心が伝わるのだと思います。
文字や言葉を媒介にしながらも実は、実はその作者の心を以って心が伝わる、これ以心伝心であり、それゆえ不立文字と言えるのでしょう。
129たか:2008/12/04(木) 18:34:41 ID:/V8OYh9T
文字や知識や言葉を媒介にして心を伝えているのにその心を知るのでなく、文字や知識言葉に捉われ拘ってしまう。
結局、その心はなかなか伝わらないのでしょう。

昔は思わなかったことの中に、ふとあの時、親父は母親はこのように思ったんだろうか、などと気づくと言うか考えることがあります。ね。
これは誰しも感じるときがあるのでしょう。
ズーと後になって知る心、まさに親の恩、でしょう。

文字や言葉だけでなく音楽、絵、他いろんなことでも伝わるでしょうか。
この時、その中にその時代やその環境などが反映されますね。

そういえば前スレであげた五木寛之氏の番組の中で慧能禅師の直系の寺で住職が慧能禅師の偈を書いて、私達は禅師の空の心に少しでも近づきたいのです、とはなしていたのを覚えています。
この寺の座禅風景は驚きでしたね。
思いもいにリラックスした様子ですわり、団扇を仰ぎ、持ち替えていて、日本のような緊張した座禅風景ではなかったですね。
これで本当に解るのだろうかと思う人も多いでしょう。

そう書いていて、お前だって仏鈴の音で何がわかるもんか、とまた言われるだろうかと思わず笑ってしまいました。
130たか:2008/12/04(木) 22:11:15 ID:/V8OYh9T
慧能は座禅のあるべきすがたを残しているという。
 外相を離るるを禅となし
 内乱れざるるを定と為す
 外若し相に着せば
 内心は即ち乱る
そとから見える形に捉われないことが禅であり
心が乱れないのが定である
形にとらわれてしまうと
内心はたちまち乱れてしまう

形に拘るなと言うのが慧能の禅だそうだ。

拘るな、捉われるな、かたよるな、ということでしょう。
身も心も同じ、不二であり一の如し
131たか:2008/12/06(土) 19:40:29 ID:PzvKqY4+
維摩経の中では清浄な浄土の衆香国から来た菩薩たちの要請で釈迦が「尽と無尽との法門」を説きます。
尽とは滅びるもの消えうせるものの意味で、消滅の世界である現実の世界(有為)を表し、一方無尽は現実の苦楽や汚れを離れた涅槃の世界(無為)をいうそうです。
大乗の菩薩の利他活動つまり慈悲も現実世界(有為)と涅槃の世界(無為)を不二とするところからはじめるのだと仏陀は言いたいのでしょう。
如来の如きは、有為を尽くさず無為にと住まらず。大乗の菩薩と言うものは有為をなくしてしまうこともないし、無為にとどまることもない。のだ。
132たか:2008/12/06(土) 21:24:32 ID:PzvKqY4+
浄土の国の菩薩たちは維摩居士の不思議な力で彼らから見たら汚れた煩悩の娑婆を見せられその中で衆生を導いているのを見て驚きます。
そこで釈迦に説法を願って説いてもらったのが「尽と無尽との法門」ですね。

維摩居士は在家の菩薩です。
ところが出家して清浄な中に留まっている菩薩たちをある意味批判しているようにも見えます。
俺は悟ったんだ、無心の中にいることこそ仏教の教えなのだ、などと凝り固まっているのを批判してるとも読めます。
空、悟り、無心を解ればこそ、悟れば悟るほど、それに留まらずに多くの人にそれを伝えて安楽に導く、悟りに導くのが菩薩の姿であり、仏法のあるべき姿だと言うことでしょう。
そのためには、意識するしないにかかわらず、私はいつもあなたたちと共にいますよ、ということが必要ですね。
それが、経典では、観音経であり、十牛図では入てん垂手といえるでしょうか。
ですから、能動的てきなのはおかしいとか、他力だから全て受動的でなければならないのだ、というこだわりさえも捨てて、能動的受動的という共に受け入れてそれさえも意識せずに法に導くことが大切ですね。
110さん、私の説明で、少しお解りになれたでしょうか。
133たか:2008/12/09(火) 12:55:39 ID:3Ts9Oavu
仏法、仏道は蓮華に例えられます。
悟りに至った最高のの菩薩と言える観音菩薩は蓮華のつぼみを手に持っています。
この観音菩薩も在家の菩薩で娑婆の煩悩、苦しみの中にあってその中でいろんな修行や体験をして悟りの華を咲かせたのでしょう。
このいろいろな体験経験をさせる場を煩悩の世界、あるいは娑婆ともいい、蓮池の底の泥に例えます。
悟りに至りきれいな華を咲かせながらも同時にその教えや心、法を次に伝えていくものが開いた蓮華の華の中に宿る種ということができます。
実際の華の命ははかないともいえますが、心を宿した種はまた煩悩渦巻く池の中で環境にもまれ鍛えられながら大きく花開く時を待つのでしょう。
この時成長と共にその環境に応じて身につけてきたのが自我ともいえます。
ですから前スレでも書いたように自我も必要があるからこそ生まれてきたと言えますが、それが増大することでそれに伴って本来の自己をすっかり忘れ、自己、自我だけに捉われ苦しみに捉われます。
自我だけが自分だとしか思っていない人に空を体験させ、本来の自分に気づかせる。
悟りに至ったものは自分が苦しみを経験したそれ故にその暴走してしまう自我に苦しんでいる人に手を差しのべ救うということでしょう。

私たちが今在るというのは、空、本来の自己と、煩悩にまみれた自我を、併せ持っているからこそ存在しているといえます。
空、無心、無分別を智ること、気づくことで、暴走し自他共に苦しめてしまう自我に捉われすに生きる方法を示し、同時に見性の時に感じる生きる喜びに気づかせることが大切だと言えます。
134たか:2008/12/09(火) 14:34:35 ID:3Ts9Oavu
この悟りに至ったものがそこにとどまらずに娑婆、穢土に戻って、つまり寺ばかりに引き籠もっていないで世間の人に庶民に手を差しのべる。
これ親鸞的にいえば曇鸞の往還回向の環相回向とも言えるでしょうか。
この往還回向の代表され理想とされるのが観音菩薩であり維摩居士でしょうし、禅宗で言えば入てん垂手の人と言えるでしょう。

作家の五木博之さんはこの泥沼に咲く蓮の華を浄土教の生みの親ともいえる恵心僧都源信、法然、親鸞の名を上げて次のように詠んでいました。
 
 泥中にありて花咲く蓮華かな   源信
 泥中にあれど花咲く蓮華かな   法然
 泥中にあれば花咲く蓮華かな   親鸞

まぁ捉え方はいろいろあるでしょうが、案外言い得ているような気がします。

法華経とは、この泥池に咲く蓮を私たちに観たてていると教えともいえるでしょうか。
135たか:2008/12/09(火) 17:47:27 ID:3Ts9Oavu
泥中にあれば花咲く蓮華かな   親鸞
は、泥中にあればこそ、という、こそ、がつけばハッキリするでしょうか。
維摩経でも、穢土だからこそ悟りに至れるのだ、という精神があります。
浄土、穢土、という対立ととらえる二ではなくそれらを包括した一と捉える、これが不二というものです。
穢土があってこそその中に浄土を観ずることができるということでしょう。

健康な時には他の人の病気やその苦しみを見てもそれがどれほどのものなのかなかなか解らないものです。
でもちょっとした怪我や病気なっても辛さや不自由さは言葉ではなかなか伝えられないものです。
いくら言っても伝わらないとなるとついつい当り散らします。
何で俺だけ、などとついつい自分勝手に思い始めます。
でもね、最近よくもまぁ、こんな俺によく引っ付いてきて働いてきてくれたもんだと思うときがあります。
不自由になってこそ解る、今あることの大切さ、というところでしょうか。

136たか:2008/12/11(木) 11:11:17 ID:XtHvwXtE
昨晩テレビで作曲家故遠藤実さんの追悼の番組をやっていました。
遠藤さんの作曲した曲が何曲もも流れていましたがそれを聞いていてそのいくつかでイントロを聞いた瞬間に昔の思い出が場面が浮かび上がりました。
不思議ですね、ほんの数秒聞いただけでですよ。
曲が進むにしたがって印象的な思い出がどんどん浮かんできます。

曲が変わればまた場面や思い出も変わります。
星影のワルツを聴いて、兄が東京の大学に出発する前の日風呂に一緒に入ったとき兄に星影のワルツを歌ったのを思い出しました。
本当に忘れていたことなのに不思議でたった数秒でその場面を浮かび上がらせる音、曲の凄さを感じます。

二年ほど前、森進一さんに「おふくろさん」の作詞家川内康範さんが、森進一にはおふくろさんを歌わせない、とたいへん話題になりました。
切っ掛けはこの曲の前につまりおふくろさんのイントロの前に森進一オリジナルの曲、詩を付けて歌っていたことで川内さんの逆鱗に触れたということです。
多くの人は森進一が歌うのだから付けて歌ったっていいじゃないかといっていましたね。
でもね私はその意見に必ずしも賛成できませんね、当時ここにそれを何度か書こうとしたのですが書かずにいましたが。
遠藤さんの曲を聴いたときイントロをちょっと聞いただけでその聞いた人の心の中にその人の思い出が湧き上がってくるようにどの曲でも同じことがおこるからといえます。
自分があの時どうだったか、自分の母親を思い出しながらその当時を思い出す人は多いと思います。
人によっては涙を流しながらこの曲を聴く人も多くいるでしょう。
この曲のほんの一音聞いただけでそれぞれの人がそれぞれに思い出し、この詩をかみ締めながら母親の優しさを感じ思い出します。
川内さんは多くの人がこの曲を聴き、口ずさむ中でこの詩に込めた母親への思いをそれぞれに感じてほしかったのでしょう。
ところが森進一さんは自分が歌う歌なんだから自分の母親への思いを歌えばいいのだと勘違いしたのでしょう。
まさに作詞家の川内さんの心を知らずというところです。
この曲を聴きながらこの曲に込めた心を感じてたくましく生きてほしいというのが川内さんの気持ちだったかもしれませんね。
137たか:2008/12/11(木) 11:32:52 ID:XtHvwXtE
アンパンマンの主題歌
 そうだ うれしいんだ 生きる よろこび
 たとえ 胸の傷がいたんでも
 なんのために 生まれて なにをして 生きるのか
 こたえられない なんて そんなのは いやだ!
 今を生きる ことで 熱い こころ 燃える
 だから 君は いくんだ ほほえんで
 そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ 胸の傷がいたんでも
 ああ アンパンマン やさしい 君は いけ! みんなの夢 まもるため
 なにが君の しあわせ なにをして よろこぶ
 わからないまま おわる そんなのは いやだ!
 忘れないで 夢を こぼさないで 涙
 だから 君は とぶんだ どこまでも
 そうだ おそれないで みんなのために
 愛と 勇気だけが ともだちさ
 ああ アンパンマン やさしい 君は
 いけ! みんなの夢 まもるため
 時は はやく すぎる 光る 星は 消える
 だから 君は いくんだ ほほえんで
 そうだ うれしいんだ 生きる よろこび
 たとえ どんな敵が あいてでも
 ああ アンパンマン やさしい 君は
 いけ! みんなの夢 まもるため

この歌も「手のひらを太陽に」と同じ作詞者やなせたかしさんですね。

138たか:2008/12/11(木) 11:46:02 ID:XtHvwXtE
さっき、やなせたかしさんがテレビにでてて、インタビュアーの、アンパンマンの詩に込めた生きる意味をどのように考えてますか、との質問に次のようなことをいっていました。

私は、生きる意味、がよく解りませんが、解らないからこそ、
小さい時からアンパンマンの歌を歌ってもらっていたならきっと生きる意味を感じながら生きていってもらえると思うのですよ。
139たか:2008/12/11(木) 16:44:16 ID:XtHvwXtE
どんな花でも散る時がくる。
散って何かを伝えながら、環境に、その変化に対応したかたちに変化し移り変わっていく。
変化に対応し生きるのは実際は非常に厳しいものがあります。
だからこそ優しい心が必要ですね。

不生不滅ではあるけれどどんな人でもこの娑婆から姿がなくなるときがくる。
でもね、心だけは伝わっていきますね。
今気づいてもらえなくとも、伝わることがあるでしょう。
この生きる喜び、生きる力になる心を魂ともいったりしますが、これがいつの間にか霊魂などという言葉に化けるから変になってしまいます。
霊魂などというあやまった言葉に変えられ正しく見えなくなってしまつたりします、これを般若心経では顛倒夢想とでもいうのでしょうか。
般若の智慧で悟りの心で煩悩の迷いから離れる目覚めることを遠離一切顛倒夢想と般若心経では言っています。

まずはこの生きる喜びを体得することが大切なのでしょう。
140神も仏も名無しさん:2008/12/16(火) 18:56:57 ID:hK+0hvhu
世の中大変なことばかり。厳しい年の瀬。
141たか:2008/12/18(木) 11:55:15 ID:Uw4ul6ZL
本当にたいへんなことになってきました。
自動車など今までの半分、下手すると三分の一以下になっているかもしれませんね。
年末もたいへんですが年明け後もっと厳しくなるかもしれません。
自動車など夜勤残業はなくしてしまい、昼間一直体制にするところが多くでてきてますから派遣だけでなく、社員自体がダブついているのでしょう。
まあ、経営者だけでなく、労働組合もその幹部たちもひどいと思いますね。
口ではいいことを言っても結局は自分たちのことしか考えていないように見えますね。

きのうニュースステーションで中東のドバイの様子を放送していました。
夏ごろだったでしょうか、NHKでドバイのことをやっていて凄い高僧のビルや人口のリゾートの島が凄い勢いで造られてるといっていて、おそらくそれを見た人の多くがこんなこといつまでも続くはずはないと思ってはいたでしょうが。
きのうのドバイの様子は夢の後の始まりのような状況ですね。
みんな投資目的でほとんどの建物に人が住んでいないんです。
買って値が上がったらすぐに転売する、その目的だけだから人が住もうが住むまいが関係なく建設してきたようです。
あの800メートルのビルはどうなるんでしょうか。
下から見上げても、上から見下ろしても、どちらも目がくらみそうです。
142たか:2008/12/18(木) 12:37:05 ID:Uw4ul6ZL
このようなたいへんな時だからこそ、互いにいたわり助け合わなければならないといえます。

維摩経では維摩が文殊菩薩に「菩薩の種は何家」と問います。
文殊菩薩は、要約して言えば六十二の誤った見解および全ての煩悩が仏となる種である、と答えます。
つまり、煩悩や執着があるからこそそれを克服して悟りを求める心をおこして仏になることができるということでしょう。

同じように誰にも煩悩や執着があるからこそ互いに助け合わなければならないという慈悲の心、優しさがうまれてくるともいえます。
143神も仏も名無しさん:2008/12/20(土) 11:23:58 ID:bnVHM6ze
昨日のNHKの美の壷は「釣り鐘」でした。
この内容なかなかのものだと思うのでその内容をそのまま。

そもそも、「釣り鐘」は飛鳥時代、中国から伝わってきました。寺の僧たちに朝夕、仕事の始めと終わりを知らせる道具でした。
やがて「時の鐘」としても使われるようになっていきました。江戸時代には、全国に5万近くの鐘があったといわれています。
しかし、その多くは戦時中に姿を消しました。
物資が不足する中、兵器の材料として供出されたのです。
鐘の歴史を研究してきた笹本正治さん。
釣り鐘には、「時を告げる」以上の役割があったといいます。
笹本「本来、日本人には昼間は人間の時間帯、夜は仏様や神様の時間帯だという意識がありました。つまり、あの世とこの世の接点になる時間帯が、実は鐘のなる時間帯なんです。釣り鐘は、あの世とこの世の双方につながる特殊な道具だと思います。」
釣り鐘には、そんな役割にふさわしい図柄が表現されています

釣り鐘鑑賞、壱のツボ、
「装飾は異世界への誘い」
一つ一つの飾りには、どんな意味が込められているのでしょうか?
鐘をつく「撞木(しゅもく)」が当たる部分を「撞き座(つきざ)」といいます。
その周りを飾っているのは、蓮(はす)の花です。
蓮は、泥水の中でも美しい花を咲かせることから、煩悩に汚されることのない仏の悟りを表しています。
その撞き座を十字に結ぶように走る縦と横の帯。これは、仏の衣を表すといわれています。
鐘の上の方には「乳(にゅう)」と呼ばれる突起があります。この鐘の場合、「乳」は仏の髪の毛、螺髪(らほつ)をかたどっています。

鐘そのものが仏様の姿と重なって見えませんか?
144たか:2008/12/20(土) 11:27:44 ID:bnVHM6ze
極楽浄土を現世に再現したと言われる平等院。
ここの釣り鐘は、国宝として大切に博物館に展示されています。
その表面は、ち密な文様でビッシリと埋め尽くされています。
鐘の上の方には、唐草文様の中に、平等院のシンボル、鳳凰(ほうおう)。
下の方には獅子(しし)が居ます。霊力を使って悪を食べてくれるとされます。
天人(てんにん)の姿も見えます。
天人とは、天に住む性別を超越した存在です。
異世界の住人たちを濃密に描き出した平等院の鐘。
そこには、極楽往生を願う人々の思いが込められているのです。
145神も仏も名無しさん:2008/12/20(土) 11:37:26 ID:bnVHM6ze
弐のツボ 銘の陰影に筆遣いを見よ

奈良県にある栄山寺。
この寺の鐘は、銘のすばらしさで知られています。
この銘の特徴は、立体的に浮かび上がっていること。
厚みを持たせた重厚な趣。輪郭が際立つ、力強い表現です。
鐘に記された文字の美しさにひかれ、研究を続けてきた鈴木勉さんです。
鈴木「偉いお坊さんの書いた字は何か力強い。それが深みなんですよね。その深みを金属の上に表現するのは非常に難しい。文字を立体的に表現できれば、陰影の強弱によって、その『深み』を人に伝えることができる。」
釣り鐘鑑賞、弐のツボ、
「銘の陰影に筆遣いを見よ
こちら、称名寺の鐘には、栄山寺とはまったく違う方法で銘が記されています。
この銘は、直接、刻み込まれたもの。
鐘が出来上がった後、たがねで削って書かれています
紙の上に書かれた、流れるような筆遣いを金属の上にみごとに再現しています。
力を入れて書かれた部分は溝を深く太く、
力を抜き優しく筆を運んだ部分は、溝を浅く細く─。
日本最初の禅寺として知られる、鎌倉、建長寺。
この寺の鐘にもみごとな銘が書かれています
「人」という文字の右払い。
書き始めは細く、厚みもありません。
一方、払う直前、筆を止め、力が込められた部分は、太く厚く表現され、払いの先端へ一気に収束しています
こちらの文字で最も力を込めて書かれているのは、丸で囲んだ部分。
線の力強さを表現するため、太く厚くするだけでなく、上の部分をあえて薄くしています。
技術と計算が生み出した、独特の表現です。
一文字一文字、ていねいに記された銘。
そこには、筆で書かれた文字の息遣いがみごとに写し取られている
146神も仏も名無しさん:2008/12/20(土) 11:47:47 ID:bnVHM6ze
鐘の音は古くから仏の声だといわれてきました。低く重い響きが特徴です。
低い響きを生み出す秘密は、鐘の厚みにあります。底の部分の厚みは口径のおよそ10分の1。
1メートルの口径なら厚みは10センチもあります。
この厚みが低い音を生み出すのです。
しかし、鐘の音の楽しみは「低い響き」だけではありません。
吉津晶子さん。音楽によるコミュニケーションを研究している音の専門家です。
吉津「みなさんはどうしても、お寺の鐘のイメージをゴーンという低い音でイメージしがちだと思うんですけど、実は釣り鐘には、一つの音に聞こえるんですけど、たくさんの音が含まれているということが、とても聞きどころであり、魅力です。」
釣り鐘鑑賞、参のツボ、
「音の重なりに仏の声」
鐘の音を分析してみました。
横軸が周波数、音の「高い低い」を表します。
縦軸が表すのは、音の強弱です。
いくつもの周波数が立ち上がっています。
鐘の音には、低い音から高い音まで幅広い音程が含まれていました 。
この部分にご注目!
これは、最後まで余韻として残る音です。周波数135ヘルツ。
音階では「ドのシャープ」になります。
「基音(きおん)」と呼ばれ、鐘の低い響きを印象付けています
しかし、一番強く鳴っている音は、312ヘルツ、基音より1オクターブ以上高い「レのシャープ」です。
さらに、それほど強い音ではありませんが、1426ヘルツ、基音より3オクターブ以上も高い「ファ」の音まで含まれています。
鐘の音は、いくつもの音が重なり、豊かな表情を作り出していたのです
最後に、鐘の音の美しさで名高い滋賀県、園城寺(おんじょうじ)、通称三井寺(みいでら)の鐘をご紹介しましょう。
含まれる音の数が非常に多く、複雑な響きを奏でます。
鐘の音は、仏の声。
いくつもの音が重なったその響きは、聞く人に、さまざまなことを語りかけてくれます。

再放送がありますので興味のある人は映像と共に是非どうぞ。


147たか:2008/12/20(土) 12:43:23 ID:bnVHM6ze
毎日見ているドラマが連続テレビ小説「だんだん」です。
ここしばらく連続テレビ小説は見たことはなかったんですが、これだけは最初からズーと必ず見ています。
このドラマは私はたいへん面白く見てますね。
特に興味があるのは主人公の双子をミュージシャンにしようとしている石橋という青年です。
石橋は隠岐の島の医師の息子で医学部の学生であったが、離島での献身的な医療活動でおそらく過労で父が死んだことで絶望したようです。
隠岐の島で断崖に立った時、海の波の音が母親の心音の音だと気づいたという。
どうやら、それが切っ掛けで医師になることをやめて音楽を志したようだ。
そして主人公の二人に出会って彼女たちをプロの歌手にして彼女たちの唄を多くの人に知ってもらうことが自分の使命だと感じる。

まぁ、石橋の説明はこんなところですが、隠岐の断崖で石橋が波の音を母親の心音と感じたのはおそらく見性体験を表していると思っているのです。
そして歌手になることを迷っている姉妹に、歌うことで生きている自分を実感してほしい、と強く説得します。
私には非常に興味のある内容で毎日見てみてますが、何故医者になることから音楽に転換したのか、特にそこに関心があります。
このドラマの作者が何をねらっているのか興味があります。
148神も仏も名無しさん:2008/12/21(日) 11:26:34 ID:uX0dakYe
強引すぎるね、彼
149たか:2008/12/21(日) 19:41:53 ID:5uwrPb2a
148さんへ、
石橋に対しては、キモスカ(キモいスカウト)、という言葉があると最近知りました。
確かに石橋は多くの人が言うように強引なところはあるでしょう。
私も、松江でのぞみとめぐみが一緒に歌を歌ったときだったか、カメラを凄く接近させて映していたのをちょっとやりすぎとも思いましたし、彼女たちを歌手にするためにしている様子は強引とも見えます。

でも、生まれた地の隠岐の島での波の音の話を聞いてから石橋が信念を持っていることを感じて好感を持ってみています。
一度は激怒させた彼のお客の雅堂の社長を結局は納得させ自分の味方につけたのも、双子も双子の家族も結局は納得させて歌手にするところまできたのも、変に妥協しない何らかの信念がそうさせているのでしょう。
それはこの「だんだん」の作者が石橋の思いと彼女らの歌を通してこのドラマを見ている人に是非とも伝えたいことがあるからそのようにドラマを展開させていると思います。
だから、この石橋の態度はいっけん自我が強く自分勝手に見えて批判も多いですが私は好感を持ってみています。

最近何度かヤフーの「だんだん」全般のところに書き込みしています。
書き込みするつもりではなかったのですが、彼とこのドラマへの批判が多かったので他の投稿者とは違った見方で時々書いています。
当然ドラマの内容について書いているので仏教のことは書きませんが、私が書いているものを読んでこのドラマの見方が変わって興味深く見ているという返事をしてくれる人もいます。
もし機会があったら覗いてみてください。いままで書いている内容のいくつかを見つけられるかもしれません。

だんだんとの題名の通り、登場人物はみな相手を思いやる優しさがあるのもこのドラマの好きなところでしょうか。
150たか:2008/12/21(日) 22:50:37 ID:5uwrPb2a
ドラマですから仏教的な解釈を求めて見てるわけではありませんが、ただ音楽、音を通して、生きている喜び、または、生きている実感、そして共に生きていることの一体感、をストーリー全体で伝えたいんだろうと思ってみています。
ドラマの中で何故この人はこんなことを言うんだろうかというような不満を言う投稿が多くあり、その投稿に答えるつもりでその言葉の奥にあるそれぞれ登場人物の思いや心を私なりに指摘しましたがそれに感じる人もいたように思います。

昨日はバラバラだった双子への思いがやっと一つになったようですのでずいぶん展開が変わるかもしれません。
まずはみんなの心を一つにするところから始めなければ結局はうまくいきませんね。
それは家族はもちろん、会社でチームを組んで仕事をする場合でも、学校の部活動でも、恋人との関係でも同じですね。
その中で喜びを感じられたならそれに越したことはありませんね。
151たか:2008/12/22(月) 07:39:58 ID:ai2H+h04
>>144で、
鐘そのものが仏の姿に重なって見える、ということですが、「乳」と呼ばれる突起は仏の頭、髪の毛に関係があるとは思っていましたが、撞き座を十字に結ぶように走る縦と横の帯が仏の衣を表すの知りませんでした。
確かに、鐘を仏として観る、ことは大切です。私が言う仏鈴もまた同じです。
最も、そうはいっても意識してみるのではありません。それを考えずです。
撞木(しゅもく)につかれたときに発せられる音としてみるということです。
これを観音、仏の声といえるでしょう。
これも音になりきるのではなく、音になっていた、と観ずるのです。いやそれさえも考えず。
撞木のあたる部分、撞き座(つきざ)」には蓮の花が彫刻されていますが、泥水からつぼみを出して、このつぼみが開く切っ掛けが最初の一音です。

大乗の経典では私たちが死んで最初に迎えに来るのが観世音菩薩であり、観世音菩薩は手に蓮の花の台座を持っているといいます。
また、浄土に生まれるときその切っ掛けが観世音菩薩の説法、観音の声と記されています。
つまり、浄土に生まれる切っ掛けが観音の声、一音といえます。
蓮のつぼみが煩悩の泥水から伸びて浄土に転換し花開く切っ掛けがこの一音、観世音ということです。
鐘の音は鐘を撞く人はもちろんですが、四方八方に響き広がって煩悩の中にある全ての衆生に届いて煩悩を払うきっかけになります。

前に書いてきたように、私たちがこの世に生まれたとき、つまり息を吸い込む切っ掛けが一音であり、また成長し煩悩にまみれ苦しんだ時の見性もまた一音ですね。
音になっていた、音とひとつ、これに気づいた時の歓びを大歓喜、例えようもない喜びといえ、生きる力の基礎になっていると私はみています。

煩悩と浄土、これを分別しない共に成り立っていることが、煩悩即浄土、であり、浄土もまた煩悩と共にあることを知ることが大乗の心であり、即ち、慈悲の心ですね。
152たか:2008/12/22(月) 10:15:28 ID:ai2H+h04
鐘といえば、ミレーの晩鐘を思い出します。
夕方畑作業の時聞こえてくる鐘の音、少し作業を休めて音に身を任せます。
そっと両手を胸の前に合わせて、目を閉じて。
晩鐘の絵を思い浮かべただけで鐘の音が聞こえてきそうです。

きのうテレビを見てたら世界遺産のベルギーとフランスの鐘塔のことを放送してました。
自由の象徴がこの鐘塔の鐘の音。
どこの町でも中心部にあって鐘の音を競ったということです。

この鐘の音が途切れた時があって、それが二度の世界大戦で、ドイツの軍隊が戦争のためにこの鐘をつぶして。
同じことが日本でもあったですね。
鐘に彫られた銘、きっとその鐘ができたいきさつや平和への思いも書き込まれていたのでしょう。
まぁ、歴史上ではこの優しい思いまで粉々にすることが何度もあります。
でも、やはり再び鐘の音を聞きたいという思いが自然に出てきて復興されることも多いですね。
鐘の音には何か心が安らぐ響きがあります。
自分ひとりだけでなく、多くの人がその時を共にしている、という安らぎがあるでしょうか。
153たか:2008/12/22(月) 12:41:11 ID:ai2H+h04
釣鐘は撞木(しゅもく)につかれたときに釣鐘全体が震えて大きな響きとなります。
グワングワン。
衆生、人は撞木でたたかれても響きません。
ところがね、ちょっとした音で響きだすことがあります。思いもよらないときに。
人を響かす全身を震えさせる、つまり釣鐘の撞木にあたるのが一音です。
なにげない音が人生観を根底からひっくり返します。

釣鐘の内側はまさに空っぽですね。
空っぽだからこそ釣鐘が響き渡るのでしょう。
私達も同じです。
空っぽだからこそ大きく全身に響き渡るのです。
外で音が鳴っていると思っていたが、実は自分の内側が鳴っていた。

鐘の内側も外側も響いている、つまり内も外もないんです。
不二一如です。
仏と、鐘と、そして   と。

解りますかね。
154たか:2008/12/23(火) 08:44:39 ID:Y/zUI8uT
前にだんだんに投稿したのをひとつ、(12/15)

私が思わず涙を流したところがあります。
それは女将の久乃とめぐみの会話の最後のところです。
久乃は心が乱れている花雪を立ち直らせるためには花雪からめぐみを離してつまり子離れさせて一人にさせて芸妓しかないことに気づかせることで花雪を立ち直らせるしかないと考えていたのでしょう。
ところが久乃はめぐみの話を聞いて自分の至らなさに衝撃的に気づかされたような気がします。
それが、あなたは本当にやさしいひとやなぁ、という久乃の言葉に表れていたように思います。だからその後久乃は何もいえなくなってしまった。
突き放すことで立ち直る人も確かにいますがおそらくほとんど失敗しまね。しかし、ほとんどの人はこれをしてします。
実は心の乱れている人には突き放すのではなく、そっと一緒にいてあげることが必要です。心が乱れている人は自分独りぼっちになった、又は独りぼっちになるのではという不安がありますね。
まずはそばに一緒にいてその不安を取り除いてあげることが大切なのでしょう。いまめぐみが花雪から離れたなら一層花雪は孤独感を感じるのでしょう。
小さいとき病気になったときなど母親がそばにいてくれただけでも心が落ち着くものです。
母が元気になる時まで母のそばにいてあげたいという、めぐみの心は、子供を思う母の心、と同じように思いますね。これこそ親子の心、結びつき、親子愛ともおもえます。
それを感じた久乃は、思わず、私は子供を産んだことはないけれど、と言ったような気がします。
あんたは本当にやさしいひとやなぁ、という言葉の中には自分への反省も含まっているように思えますね。
何もできるわけではないけれど今一緒にいてあげたい、というめぐみの言葉、これは、優しさ、という心の根本のような気がします。
思わず、涙を流してしまいました。
155たか:2008/12/23(火) 09:52:25 ID:Y/zUI8uT
今から20年近くも前のことでしょうか。
仕事で午前中車で移動中のときNHKのラジオを聴いていたのですが毎日10時になると子供の教育相談、子育て相談というのをやっていました。
ラジオのリスナーからの相談に専門の先生が日替わりで答えるもので、一時間番組でおよそ一日3件ぐらいの相談があったでしょうか。
その多くが引きこもり、家庭内暴力、登校拒否、そのほかに子供の病気などさまざまです。
答えてくれる先生によっても先生によっても少しは違いますが、毎日聞いていると、この先生はこの質問にはこう答えるのだろうな、などと思いながら聞いたものです。
その中で、幼稚園に行きたがらなし、下の子をいじめてしまうのて困っているけれどどうしたらいいだろうか、という質問がありました。
親としては近所の同じ歳の子と同じように幼稚園に通わせる事がよいことだしそうしなければならないと思っていたようです。それが子を速く自立させることだと。教育だと。

お母さんの話を聞いて先生のアドバイスは、
おかあさん、お子さんを無理して通わせてはいけません。まずあなたはそのお子さんと添い寝してあげなさいとい言うことだったですね。
おかあさん、あなたはお子さんと添い寝したことがないでしょう。しっかり優しく胸に抱いてあげあげたことがありますか、きっとないでしょう。まずそれからしてあげなさい。
おっぱいが吸いたいなら吸わせてあげなさい。
それをしてあげたならきっとお子さんの荒れが治まってきますから、もし幼稚園にいけるようになったら帰ってきたらまたしっかり抱きしめて添い寝してあげなさい。
そうするうちにお子さんの心が落ち着いてしっかり幼稚園に通えるようになります。
このお子さんは幼稚園に行っている間じゅう、お母さんが下の子にばかり優しくしているのではないかとそれだけが気になっているんです。
お母さんが口を開けば、お姉ちゃんなんだから、お姉ちゃんなんだからしっかりしてと怒る。
この子に対する優しさが足りないんですよ。その反動が下の子をいじめたり、わかっていながらもお母さんの気をひくような行動をとってしまうんです。
まず抱きしめてあげなさい。そして一緒にいてあげなさい。
まずは、そこからですよ、お母さん。
156たか:2008/12/23(火) 12:44:30 ID:Y/zUI8uT
この子供育て相談に学校でのいじめや、校内暴力、家庭内暴力、引きこもり、登校拒否、子供の病気などいろんな相談がありました。
この回答する先生の中で国立小児病院の小児科の先生の話が良かったですね。
時に優しく、時に厳しく、時には相談してきた相談者親をを叱りつけていました。
相談者は悩んで、苦しんで、どうしようもなくなって相談するわけですが、結局は一番苦しんでるのはそのお子さんであってその子の立場に立たないと何も解決しないというこが解っていないのです。。
でも多くの人は世間体や自分の立場がでてしまうし、子供の将来を心配するのはわかるけれどどうしても今の子供の心、気持ちを考えないで自分の考えを押し付けてしまう。こうしなさいという。
そしてそれができない状態なのに、頑張れ、頑張れといってしまい、そのプレッシャーで状況がさらに悪化してしまいます。
子供たちもいっけん引きこもって何もしていないように見えても、実は心の中はいろんなことが渦巻いて、今の自分を脱したいと狂いそうなくらいに荒れています。
大丈夫、大丈夫、今のままでも大丈夫よ、私はあなたのそばにいるから。安心して。
早く良くならなければと焦っている子供の気持ちを落ち着かせる、今に落ち着かせる、このことが最も大切ですね。

大乗の菩薩の慈悲とはまさにこれが起点のような気がします。

が、なかなかできないのも現実です。
157たか:2008/12/24(水) 00:22:20 ID:4JlspyZp
ニュース23で「凶器の矛先」という特集をやっていました。
非常にいろいろ問題の多いたいへんな時代になってきました。
これについてはまた書きます。
158たか:2008/12/25(木) 10:12:21 ID:zHLO5BDI
このニュース23で「凶器の矛先」という特集を見た後たまたま以前やったNHK特集のチベット仏教の再放送のをまた観ました。
鉄道がラサまで延びて多くの漢民族や資本が急激に入って結局は地元の人が戸惑い、苦しみ、伝えられた文化習慣もずたずたにされる。
経済資本主義一辺倒になってしまった。
この後、四川大地震、北京オリンピック、世界大不況となりますがチベットのラサの暴動のことその後のことは忘れられたように伝わってきませんね。
あの儲け一辺倒の社長のホテルは今はどうなっているんでしょう。
159たか:2008/12/25(木) 14:28:55 ID:zHLO5BDI
ニュース23で「凶器の矛先」
クリスマスで賑わう渋谷、片隅で炊き出しをもらうために並ぶ人たち。
派遣を首になった一人の若者がいて炊き出しのスープもらっている。所持金はほとんどないという。
寒さをしのぐため夜遅くまで開いてる店で立ち読みしたりして、後は段ボールを持って露天の片隅で駐車場でダンボールに包まって仮眠を取る。
厳しい現実がありますね。
段ボウルを持ち歩くと、行き交う人が冷たく目をそらすと言う。
ネットでは、多くの人は努力が足りないから派遣の人たちは仕方ないんじゃない、という意見も多いと言う。

釈迦は六年間言葉にできないほど厳しい修行をしたと言うけれど、日本の冬の寒空に、帰る家もなく飢えと先の見込みのない現実に向かい合うのは厳しすぎる。
160たか:2008/12/25(木) 14:31:53 ID:zHLO5BDI
20年ほど前仕事で南インドに二週間行ったことを思い出します。
南インドのマドラスと言う大都市の空港に夜中に着きました。今はチェンナイと都市名が変わりましたが。
当時小さい空港でしたが人がグワグワいて人を見ると手を差し出します。
迎えに来たインドの人とどうにか会ってこの町の一番いいホテルに向かいました。
街に入って車を走らせると道の両側で突然人が立ち上がるんです、あぁ聞いてはいたけれどインドでは道端に人が寝てるんだと。着いたホテルはいいホテルでした。
次の日の昼間街を車で通ると牛が道路に寝転んでいるんですね。人はその牛を追い出すこともしない。あの牛はつないでいないで盗まれないんですかと聞くと夜になると自分のうちに帰っていくという。
数日後セーラムと言う街でインド人の社長の家に招待されて、門を過ぎて中庭に入ったところ暗闇の中で突然人が立ち上がった。
帰りに先輩にその驚いたことを聞くと「きっとあそこがねるばしょなんだよ。」「あああカーストですね、でも外に寝るんでなく家に入れればいいのに」というと。
「でも奴らだって門の外の道路にいる寝ているやつらをきっと馬鹿にしてるんだよ、優越感があるんだろう」という。

いろいろあったけれど、日本に帰って青山通りを走っていた時に「日本はやっぱりきれいですね」「やっぱり日本はいいなぁ」と言ったら、「ここは日本で一番きれいな通りだよ」と笑われた。

こんなことを思い出しましたが、今考えてみるとあの時のインドと、今の日本もたいして変わらないような気がしてきます
161たか:2008/12/25(木) 19:23:33 ID:zHLO5BDI
以前刑務所のことをテレビでやっていて思わず笑ってしまった。
今、刑務所が満杯だそうだ。そして昔なら独房など凶悪犯が入るところで、当然一番敬遠されるそうなもんだが、実は今は独房への希望者が多くて独房が足りず二人部屋になっているところもあると聞く。
複数の部屋だと人間関係が難しいらしく、一人部屋がいいらしい、希望者が多いらしい。よくよく考えれば贅沢だ。。オウムの松本など考えてみりゃ一番いい暮らしなのなのかもしれない、一日中瞑想してられる。
もっと問題になっているのが受刑者の高年齢化と増大だそうだ。何年も刑務所暮らしだと刑期が終わってもどこにもいけなくて親族もいなくて刑務所の方がいいらしくコンビニでおにぎりなど盗んでつかまってすぐに戻ってこようとする。
年取った受刑者にも仕事をさせないわけには行かない、ところが体が思うようにい動かない、しょうがないから刑務官が一人ずつついてはたから見てるとリハビリのような積み木を積み立てるような作業をさせる。まさに年寄りにも老化防止に運動を。
病気になるとたいへんだ、医者に見せるのはもちろんのこと、一回一回の薬まで刑務官が一回ごとに用意して与えなければならない。
袋ごと渡して受刑者が万が一いっぱい飲んで具合悪くなったらたいへんなことだ、普通の人以上に決められた薬を正しく飲む。そのために多くの薬を数を数えてあげて間違いなく飲ませるのが刑務官の重要な任務になっている。
お風呂も食事も付いている、食事など栄養を考えたきちんとした献立で、下手な社員食堂よりいいらしい。季節の行事を考えて献立を考える恵らしい、人間尊重の食事だ。
近頃はどこでも社員食堂は委託しているわけで、受刑者は自分たちのために心を込めて作るらしい。
国民健康保険も年金も税金も、そんなの関係ねぇ。
162たか:2008/12/25(木) 20:31:15 ID:zHLO5BDI
>>161で何でこんなことを書いたかと言うと、どうやら刑務所に入ることを目指して凶悪な犯罪を犯す人が増えてるらしい。
ニュース23で「凶器の矛先」では80歳の身寄りのない婆さんが生活の希望をなくしてコンビニで物を盗めばと思ってハムを盗んだらしい。
ところがそんなことでは刑務所に入れないことが解って、結局は包丁で見も知らない女性を突然刺したらしい。自分ひとりでは生活ができなくて刑務所に入ったほうがいいと思ったらしい。
受刑者は実社会を娑婆と言う。経典で娑婆で悟りを得るのは難しいと言うように実際の生活をすることはたいへんなことだ。
低賃金で働いてもほとんどお金は残らない、むしろ何かできて突然の支払いができたなら借り入れがするしかなくなり多重債務になる。
そういう不安にいつも囲まれているため突然爆発してしまう場合も多くなっているかもしれない。その矛先が80歳の婆さんにも見られる無差別の犯罪と言う。
もしかしたら秋葉原も元厚生省高官殺人もこれに近いかもしれない。
昔なら意味もなく見知らぬ人を殺すなど考えられなかったのに今は平気でする人が老若男女関係なくでてきている。
それでいて捕まっても無差別を平気で覚悟の上で刑務所に入ることを前提にやっているから反省の弁もない。

毎日のニュースを見れば、今多くの人がそれに近いような状況に追い込まれているようにも見える。

でも多くの人はそれをしないで青いビニールシートや段ボウルに包まれながらも必死で生きている。

この違いが何だろうか?
163神も仏も名無しさん:2008/12/26(金) 21:12:34 ID:wtUazoV5
         刑務所            さらりいまん
----------------------------------------------------
労働時間  8時間厳守         大体10時間以上
----------------------------------------------------
始業時間  7時50分          8時30分〜9時
----------------------------------------------------
終業時間  16時30分         21時〜24時
----------------------------------------------------
通勤手段  徒歩数分          満員電車1時間
----------------------------------------------------
昼食     食う              食えない日がある
----------------------------------------------------
夕食     食う              食えない日がある
----------------------------------------------------
夕食後    テレビや読書など自由  仕事
----------------------------------------------------
残業     全くない           ない日がない
----------------------------------------------------
残業代    残業がないから無い   残業あっても無い場合がある
----------------------------------------------------
休憩     午前午後それぞれ15分 上司次第
----------------------------------------------------
土日祝    確実に休み         出勤する日もある
----------------------------------------------------
年数     刑罰に応じる        自動的に40年
----------------------------------------------------

164神も仏も名無しさん:2008/12/26(金) 21:26:26 ID:42GIUkEk
刑務所って土日祝、休みなんだ
165たか:2008/12/27(土) 00:10:28 ID:RaD4h8f4
163さん、
あらあら、解りやすく書いてくれてありがとう。
まだ健康で働いているうちはいいのよ。
問題は、特に今問題になっている最近路上に住むようになった人たちとこれから路上に投げ出される人たち。
そして人に迷惑かけたくないと思って生活保護を受けないで年金でぎりぎりの生活をしている老人たち。
失業すると国民健康保険を自分で払わなきゃいけなくなるはず。これがきついから払わないので病院へもいけなくなるんだ。
例え75歳以上の老人の一割負担の人でもその一割さえきつくて行かない人もいるはず。
よく犯罪者の人権ばかり言う弁護士がいるけど、それも最もだけど、もっと広く見ないと間違ってしまうような気がする。
老人の受刑者に毎食後薬をわたす刑務官が言っていた、これがかなり時間がかかるんですよ、毎食ですから。一人で食事できなきゃ手伝わなきゃ行けない。オムツも用意する。
完全看護の高級老人ホームみたいにも思えてくる、しかも本人はボケてるから自分が何でここにいるのか、ここがどこなのか、さらに言うと、自分が誰かさえ解らない人も多くなってるらしい。

ニュースを見るたび不思議に思いますね。

166たか:2008/12/27(土) 14:21:53 ID:RaD4h8f4
いや本当にボケ老人が増えてきていてここが刑務所かどうか、自分が何をしてきたのか解らない人が多くいるらしい。
時々僧侶や教会の牧師が来て静かなところで説法、教えも説くらしい。また時には歌手などの慰問などもあるらしい。
経典では浄土においては仏の説法を聞き、そこは食事の心配もなく、寒さなど考えない、不安のない世界、だから安楽の地であり極楽という。

おにぎりを盗んで、一口だけ食べてそのまま交番に出頭する。そこの店でおにぎり盗みました。
元厚生省高官殺人の小泉は警察が張り込んでいるところに行けば袋叩きで痛い思いをするからへんてこな理由をつけて自分から出頭する。
精神鑑定を受けてうまくいけば無期懲役と思っているかもしれないね。

外にいる人は説法すら届かない、寒さの地獄にいる。
まあこんなことを書いてもしょうがないけれど、とりあえず、少なくとも国や県はボランティアだけに任さずに、緊急的にあいている施設や体育館なんかを解放して寒さで凍えてる人を年末年始だけでも暖をとらせるべきだと思う。
そうでないと、おそらく今健康な体でさえ壊れて結局仕事ができなくなってしま、そのまえに。
きのうから雪が降って、北風が厳しいですね。。
167たか:2008/12/27(土) 14:32:56 ID:RaD4h8f4
心が冷えきている人にはまず心の優しさで暖をとらせるのが大切だ。
そんなことでは付け上がるんだと批判する人がいるけれど、間違いだ。
まず心の奥底にある、優しさ、生きる力、生きる喜びに気づかせることが一番大切なんだ。
それからだよ、次のことは。
168たか:2008/12/28(日) 10:19:02 ID:RTd82j+Y
今日、先ほど教育放送の日曜美術館のあとの、「NHK映像ファイルあの人に会いたい」に東山魁夷
(日本画家)さんが出てました。
10分間の番組ですがかなりすばらしい内容だと思います。

 普通の風景も心が純粋になれば生命にあふれる

このインタビューを見ると、東山魁夷さんが仏教的な見地でそれに目覚めて、他力、無の境地で作品に向かっていたのかよく感じられます。
再放送は、今晩、2008年12月28日(日)午後8:45〜8:55で、日曜美術館のあとです。
かなりいい内容ですので、ぜひご覧あれ。
169たか:2008/12/28(日) 10:33:30 ID:RTd82j+Y
今日の日曜美術館では、宗教画の巨匠ルオーと色彩の巨匠マティスの交流を放送してました。
二人とも一時期世間の酷評にさらされましたが今では誰もが認める巨匠ですね。
絵を通して心を描く、その作者の心の内面が自然に絵に表れるのでしょう。
それが見る人の心に響きます。
170たか:2008/12/28(日) 11:44:37 ID:RTd82j+Y
絵にしろ、歌にしろ、メロディーにしろ、陶芸しろ、その他芸術品にしろ、日頃使われる日用品にしろ、文字や言葉で表したものにしろ、その奥にはそれを作り出した人それを伝えてきた人の心があります。
そのものをただ見るだけではだだそれだけです。そこからは何も広がりません。それは人を真似て座禅の真似をしても同じで座禅の格好をして自己満足でそこからの広がりなどないでしょう。
何かの切っ掛けで、それを自分で始め、それに感動しそれを伝えてきた人の心を知りその心に触れてその人なりに震えるような感動をすることなんですよ。
それこそ先人の魂を引き継ぐことです。
魂とは永遠普遍のものがどこかにあるのではなく、人の心に共鳴して気づいて先人の心が自分の心、魂として甦ることなんです。
そしてまたそれを自分のものとしてまた次に伝えていく、その受け継がれていくことが永遠の心、永遠の魂といえます。
受け継がれていく中には少しずつ形が変わりますが、行き過ぎた変化しすぎた時には不思議と自然にまた、元の精神、心をにたちかえることを繰り返しますね。

座っていても「本来の自己」を見失っていてはただ、それだけのこと。
本来の自己に気づいて動き出す、動かされる、動かずにいられない、これこそ大乗の仏法が説くところだと私は思います。
これを菩薩の心ともいうのでしょう。
171たか:2008/12/30(火) 11:29:42 ID:KRWTo8GO
もうすぐ今年も終わりです。
大晦日には除夜の鐘の音。
煩悩にまみれていれば、本来の心、に届く前に澄んだ音も煩悩にまみれて心に響かない。
無心になって、ただただなにもおもわずに、音に身を任せる。
誰の心の中にも必ずある小さなつぼみにその音が届いた時、心の華、法の華が開き始めます。
この法の華の教えが法華経ということでしょうか。
一瞬、今その時に立ち返る。今が大切ですね。

いくら南妙法蓮華経を唱えれも、その法の華の開く一音を素直に心に響かせなければつまらないですね。

手を合わせて音に心も任せる。そしてゆっくり深く息を吸い込む。
音が心の芯に届くように。

ただそれだけですのでどうぞやってみてください。
172神も仏も名無しさん:2008/12/30(火) 15:12:46 ID:eFJ0JLs7
たかのオナニースレ
173たか:2008/12/31(水) 22:04:22 ID:BynLglya
172さんへ、
私はそれを否定するのではありません。
でも同時にあなたに読んで頂いたことであなたの心に確実に刻まれたこともそれなりに喜んでいます。

羅ジュウが漢語に訳した時も、道元が正法眼蔵を書いたときも、親鸞が教証信行を記した時もある程度批判は承知の上でしょう。
これは大乗の経典を記した人は皆同じでしょう。
でも、何故彼らにそうさせたのか、それをあなたもじっくり心におかなければならないでしょう。
人を批判人の多くは自分では意識していないようでも案外何らかの固定観念を持っているものです。
批判する場合の多くは自分では気づかずに何かを引きずっている場合も多いものです。
別にあなたに何か言おうとするものではありませんが、その点を自分にも省みることも大切だと私は思います。

まぁ、どうにせよあなたがここを読んでいただき、少しでもあなたのこころに留められたならそれで充分です。
何か私の心に響くような意見でもあれば是非記してください。参考にします。

是非
いい新年を迎えられますように。
174たか:2008/12/31(水) 23:35:01 ID:BynLglya
訂正
教証信行でなく、教行信証です。

新年を迎えて皆様のご多幸を祈りもうしあげます。
175たか:2009/01/01(木) 22:02:19 ID:7UxGL9dl
あけましておめでとうございます。
昨日は途中からですがベートーベンの第九を聴き、今2009年ウィーン交響楽団ニューイヤーコンサートを見ました。
ニューイヤーコンサートは演出も凝っていて本当に楽しめるものでした。
年始の番組というとお笑いだけが目立ってだんだんあきあきしてきますが、音楽で暗いニュースも少し和らいだ気がします。
176たか:2009/01/01(木) 22:07:23 ID:7UxGL9dl
テレビ小説「だんだん」の脚本家の森脇京子さんを検索したらこんなのがあり、目に留まりました。

神戸新聞(2004/01/06)
西脇市生まれ。京都の短大を卒業後、幼いころからの夢だった俳優を目指した。生活費を稼ぐため応募したシナリオコンクールで、運良く入賞したのがこの道に入るきっかけだ。
小さいころから相手が自分をどう思っているか、を敏感に感じとれた。だから人と深くつきあうのは苦手だった。「好きなことだけやって一人で生きていくつもりだった」人間にとって、先のことなど頭になかった。
しかし、偶然の出来事がその人生観を変えた。三十九歳で、「できちゃった結婚」。そして生まれたばかりの赤ん坊を実家に連れ帰った時、老いた両親がポツリと漏らしたひと言が追い打ちをかけた。「この子の成人した姿を見届けられないかもしれないねえ」
自分の人生のゴールが近づきつつある。そんな恐怖にも似た感情が一気に襲ってきた。 授かった小さな命を見守りながら、今、取り組むテーマは命と人生の重さ。「人って世の中に突然投げ出された命。そう考えると、存在だけでいとおしい」
「勝ち組になりたい」。テレビから流れるCMに耳を疑った。かけがえのない生を勝ち負けで測る価値観は断じて許せない。「人生に勝ち組も、負け組もないはず」。世間に振り回されず、自分の信じることを精いっぱいやっていく。それが美しい生き方だと思っている。

「人の世は短い。夢のようにはかない。だからこそ、人は人を愛し、暮らしを愛し、今、生きている実感を求めるんやないでしょうか」―
177たか:2009/01/01(木) 22:36:23 ID:7UxGL9dl
文章を書くとき大きく二つの目的があるでしょうか。
ひとつは今の自分の考えを書くことによってまとめる、ということがあります。
書かないで頭で思っていると考えがまとまっているように見えても書いてみると案外まとまっていないのだなァと解ります。
書いてしまうとその時どのように考えていたか日付けも時刻も記されて残ってしまいます。
ある面、その時の自分がそこに映し出されるということになります、それが良かろうが悪かろうが。

もうひとつは何らかの切っ掛けがあって私の書いたものを見て、その人に何らかの参考になればという思いです。
私のつたない文章でそれほど影響を受ける人もないでしょうが、少しでも残って仏教を深められることに繋がったらいいなぁと思っていろんな観かたで書いていますね。

書けばその中に自然にその時代が映し出されます。
私はそれは大切なことだと思っています。

178たか:2009/01/02(金) 08:26:09 ID:67ZyZbqs
今朝、ヤフーを見てたらこんなのがありました。それを載せたくなりました。

難聴の息子と向き合う 歌手・今井絵理子さん
1月1日11時0分配信 琉球新報
 2004年10月、東京都内の病院。
 1990年代後半の音楽シーンを代表し、絶頂期の中2000年に解散した人気グループSPEEDのメンバー・今井絵理子さん(25)は3492グラムの礼夢(らいむ)君(4つ)を出産し、幸福感に満ちあふれていた。
 妊娠中は胎教として自身の曲を聞かせた。生まれたら「ママの歌を聞かせたい。ギター、ピアノ、いろんな楽器に触れさせたい」と夢は膨らんだ。言葉に表せない喜び。「初めて誰かを守りたい」と思った。
 3日後。病院で新生児聴覚テストを何の迷いもなく受けさせた。
 息子はなかなか戻らない。不安がよぎり始めた時、医師から「耳が聞こえていない」と告げられた。先天性高度感音性難聴。音がほとんど聞こえない重度の障害だった。
 「神様は残酷だ」。そんな憎しみさえわいた。涙がこんなにも出るのかと思うほど泣いた。
 だが、泣くうちに「子どもだってお母さんの笑顔を見たいはずだ」と自身に言い聞かせた。「あすから泣かないから今日だけは泣かせてね。どんな時も笑っていようね」。息子を何度も抱きしめた。
 出産時の「守りたい」との意志が一層強くなった。「前だけを見て、今いる息子を見詰め、すべてのことを受け止めよう」。そう誓った。
 礼夢君の障害が分かって6カ月後。
 ギターを弾き「おうちへ帰ろう」という曲を歌った時のことだ。おもちゃで遊んでいた息子は手を止め、長い間じっとギターを見つめた後、はじける笑顔を見せた。
 「ママ、歌っていいんだね」。
 おもちゃをマイク代わりに遊ぶ姿を見て、今井さんは歌う意欲がわいた。「音楽は耳で聞くのではなく、心で聞くものではないか。障害のある子どもたちに歌、音楽の素晴らしさを心で感じてほしい」。再びマイクを持つことを決心した。
 それは息子の笑顔に「すべてが救われた」瞬間だった。

179たか:2009/01/02(金) 08:29:40 ID:67ZyZbqs
 そのころ、唇の動きを読む口話法の学校で、多くの母親たちと出会った。
 母親たちは悩みを話しながら「芸能人の子は何の障害もなく、健康な子が生まれてくるだろうと思っていたが、同じ立場で話せてうれしい」と笑顔で語り掛けてきた。
 触れ合う中で「障害は一つの個性だ。それをみんなで認め合い、一緒に生きていく社会になってほしい」と思うように。そして息子のすべてを受け入れることを決心した。
 07年9月に夫と離婚したが、仕事と両立させながら息子を育て、昨年4月から手話を覚えた。
 障害のある子の母親たちとの出会いが後押しとなり「伝えられる立場にいるわたしの使命」との思いから8月に「24時間テレビ 愛は地球を救う」にSPEEDのメンバーと出演し、息子の障害をテレビで告白した。
 メンバーから激励を受け、絆(きずな)を確かめ合った。
 それを機にSPEEDは完全復活。大みそかのNHK紅白歌合戦にも出演し、今年はコンサートツアーで全国を駆け回る。(新垣毅)
180たか:2009/01/04(日) 11:01:37 ID:ySjqwuUw
今日の日曜美術館は俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一、の琳派をつまり三人のつながりを説明してました。
この三人、それぞれ一世紀ぐらいずつ間隔があいていて普通いわれる師弟関係はないわけです。でも世間では琳派といわれます。
このことについて見ていて感じるところがありましたのでまた書きます。
特に光琳の国宝紅白梅図屏風について
181たか:2009/01/05(月) 15:36:03 ID:ypcfon7W
ずっと前何年も前ですが、仏リンのことを知り合いに話していたとき、この音に近い模様は何かないかなぁ、と話したところ数日後小さな紙切れを見せられました。
その時、おお、なるほどと、その時は思ったのですが、家に帰って考えた時どこかで見たことがあった模様だと思いました。
その前に見た模様というのが、光琳の国宝紅白梅図屏風の金箔を、左右の白梅紅梅を引き裂くように渦巻いて黒々と流れる光琳の流水の模様でした。
その人はその流水の模様の部分だけを私に見せたのですが、それを見せられた時、私はこの模様の中に音の広がりを感じたのを覚えています。
変に思えるでしょうが、仏リンの音の響きとこの模様が一つとして感じられたということでしょうか。
182たか:2009/01/05(月) 21:54:37 ID:ypcfon7W
尾形光琳の紅白梅図屏風を話すとき、切っても切れないのが俵屋宗達であり、俵屋宗達の晩年の作といわれる国宝風神雷神図屏風ですね。
傑作中の傑作といわれる風神雷神図屏風はどういういきさつなのかは知りませんが、京都の禅寺、建仁寺が所有権を持っているようですね。
燦然と輝く金箔の左に雷神を描き右に風神を配しています。
この雷神と風神、この屏風の外からスゥーとはいってきて彼らの間にある金箔の空間に近づいてきたようにも見えます。
実はこの絵は、空、を描こうとしているのではないのかな、私はと思っています。

右から黒雲に乗り風の音と共に舞い降りる風神、左からは力強く雷鳴を轟かし飛び込んでくる雷神、向かうは何も無い空間です。
空間に飛び込んでくる風神雷神ですが、本当は、この絵を見ている人の心に飛び込んできたのかもしれませんね。
風の音と共に瞬く間に飛び込んでくる風神、轟くような雷太鼓を打ち鳴らしながら凄い形相で飛び込んでくる雷神、共に音とその響きと共に空っぽの心に飛び込んできます。

雷神や風神の太鼓や雲が屏風をはみ出していてこの屏風に納まりきれない果てしない広がりさえも感じさせます。このはみだしている世界も含めて宇宙というのでしょうか。
183たか:2009/01/06(火) 10:29:17 ID:+Dvo1FJ6
俵屋宗達といえば本阿弥光悦との関係がでてきます。それぞれの才能はいうまでもありませんが二人で手がけた作品も名作があります。
「鶴下絵三十六歌仙和歌集」の鶴の群れ、「月に秋草図屏風」の金箔の中の草花は尾形光琳のもう一つの傑作「燕子花図」に大きな影響を与えてるようです。
俵屋宗達の絵を模写し技巧を修得しながらその中で一世紀近くの時空を飛び越えて、光琳は宗達の心も受け取っていったのでしょう。
光琳は宗達の風神雷神図屏風を写し取り、風神雷神図屏風を描いています。少し宗達のものとは広がりが違いますが、この絵が100年後の酒井抱一の傑作を作らせます。
184たか:2009/01/06(火) 11:53:05 ID:+Dvo1FJ6
さて、光琳の最高傑作『紅白梅図屏風』をみることにします。
その前に、俵屋宗達の風神雷神図屏風の風神を風の音、雷神を轟く雷鳴に置き換えた場合どうでしょう。
この世は万物一切無、仏さえ無ですから、右の風神と左の雷神の姿を消し、その姿を消し彼方から飛び込んでくる音だけにする。
風神の風の音と雷神の雷鳴の響きはそれが中央で激しく交じり合って大きな波になりうねりになり、遥か悠久の彼方からうねりくねりながら大きな河となってその絵『紅白梅図屏風』を見る人に押し寄せて来ます。
俵屋宗達の風神雷神図屏風から風神雷神を消し音だけを描けば『紅白梅図屏風』のあの大きくうねった激しい河になり流水の紋になるのでしょう。
でもこれだけでは物足りません。
そこで描かれたのが、大きくふすまからはみ出した老木の白梅と、今育った若々しい勢いのある紅梅です。
私は、ほとんど姿さえ見えない白梅を仏教の真理と観ることがいいのではないかと思っています。
そしてこの若々しい紅梅はその真理(白梅)を追い求める人(その心)と思えるのです。
また、同時にこの白梅を先人俵屋宗達とみて、紅梅を尾形光琳自身と見ることも大切です。

一見すると、よどんだ河が、対立するように立つ白梅と紅梅を黒い渦で大きく隔てているように見えますが、実はこの河が音となって流れることで時空を越えて二つを結び付けているというようにも見えます。
ほとんどの評論は、金箔に黒、紅梅に白梅、老木に若い木、金箔や梅ノ木の静と河の激しい動きの動、抽象的な川に対してリアルな梅、同様にその他多数、対比的対立的に物事を見ようとばかりします。
しかしそうではなく、いっけん対立しているように見えるものを不二一如としてみることが大切です。つまり画面全体が一の如しです。

先人俵屋宗達を慕い学ぶ中でやっとあなたの姿が見えてきました、あなたのこころを感じ受け取ることができました、と晩年に描かれた『紅白梅図屏風』が尾形光琳の宗達への畏敬の気持ちを表しているのではないでしょうか。
そう見てくると、この絵は今までとは違って見えてこないでしょうか。
185たか:2009/01/06(火) 13:59:16 ID:+Dvo1FJ6
師から直接指導してもらったわけではなくとも、その心を知る。

およそ尾形光琳の一世紀後、この光琳を猛烈に慕う人がでてきます、それが酒井抱一ですね。
光琳の後を追って光琳の作品の模写をします。
その数多くの模写の中で抱一が見つけたのが光琳の金箔に対し、銀色の世界です。
あるとき、俵屋宗達の描いた風神雷神図屏風を光琳が模写した屏風の裏面に絵を描くチャンスが訪れます。

抱一の夏秋草図屏風は光琳の風神雷神図屏風の裏に描かれたものであり雷神の裏面には雷神の雨に打たれて頭をたれる夏草を、風神の裏面には野分の風に吹きあおられる秋草を描いています。
夏草は雨にぬれ滴る草花を描いており、いっぽう秋草は風神の風にあおられて草花が葉を翻している姿が銀色の背景に浮かびます。
雷神が降り注いだ雨で右上部に小川が流れていますね。

この酒井抱一の夏秋草図屏風は表面の光琳の風神雷神の仏のはたらきを受けた形をとっています。
銀面で少し地味に見えますが、次のように見ることはできないでしょうか。
表面の風神雷神の黄金のまばゆい世界を仏の世界(浄土)、そして裏面の銀箔の落ち着いたどこにでもある風景をこの世(娑婆)と。

仏教では煩悩即菩提といいます、つまり浄土と穢土は背中合わせ、浄土即穢土であり穢土即浄土でしょう。
浄土の仏の心の働きがその時の風や雨を降らし今の私たちの姿を世界をかたちづくっていると。

夏秋草図屏風の中にも尾形光琳に対し敬い慕う気持ちが現れていますね。
なにはともあれ時空を越えて俵屋宗達から尾形光琳へそして酒井抱一へと確実に伝わったものがありそうですね。
186たか:2009/01/07(水) 11:44:29 ID:qOAJWjTW
酒井抱一の代表作に白蓮図があります。
細く長く伸びた先に満開に開く白い蓮の花が浮き立つように描かれています。
蓮の花は盛りを過ぎたのかひとひら今にも落ちそうな気配です。
視線を下に移すと蓮の葉に隠れていたのが少し伸びてきたのか、白蓮のつぼみが見えます。
この絵を見ると観音菩薩像ととその手に持つ蓮のつぼみにも見え、また、観音菩薩の足元で遊ぶ赤子のようにも思えてきます。

>>184の『紅白梅図屏風』の解釈は私のオリジナルなものですが、そらは私が、音、からこの絵を見ているからそう思うのは当然といえます。
他の人は絵に描かれていることだけでそれからいろいろと空想しますが、私は、音、又は、真理を中心に観たいと思っています。
例えば、俵屋宗達の風神雷神もほとんど全部の人が絵の風神雷神の描写の凄さにだけ注目しますが、わたしはこの描写の凄さを音の凄さとして観て感じます。
同じく尾形光琳の紅白梅図屏風の中央を濁流のごとく流れる流水紋も音を図案化したものと観ます。
そしてかたちさえハッキリしない途方もなく大きささえ感じる老白梅を仏、真理、俵屋宗達とみて、また若々しいこれかさらに延びる紅梅を私たち衆生、娑婆、そして尾形光琳自身と見ています。
白梅と紅梅の間には大きくうねったくらい河があり三途の川にも見え隔ててるのではないかとなくもありませんが、実はそうではなく仏の世界と私たちの今いる世界、師とそれを慕う弟子、それをつなぐ音の大河、響きの波と見たらどうでしょう。
観音菩薩は浄土と娑婆をつなぐ菩薩、この河を観音と見れば納得がいくように思えます。
尾形光琳の風神雷神図屏風の裏に描かれた酒井抱一の夏秋草図も同じで風神雷神の響きや音がこの世に生きる草花(私達衆生)に常に働きかけているとも思えます。
光琳は宗達を師と仰ぎ無心で模写する中で、同様に抱一は光琳を師と仰ぎ無心で写す中で彼らの中に観音という響きが心の奥まで届いたのでしょう。

根底には風神雷神図がありますが、単に師の書いたものを写すのでなく、その風神雷神図を一片も描かずにその心だけを引き継ぐかたちで光琳も抱一もまったく新しい世界を描いたように感じられます。
187たか:2009/01/07(水) 11:51:45 ID:qOAJWjTW
無心であるがゆえに、その心に気づくといえそうです。
188神も仏も名無しさん:2009/01/07(水) 12:56:50 ID:UNVmiVV6
悟りは、空であると悟り、空であるという悟りすらも無くならなければ、と言いますが、それが
どういうことかわかりますか?
わかるようでしたら、なるべくわかりやすく教えていただければと思います
空であると悟り、自己などどこにもないということは体験しました
ただ空であると認識している主体(自分?)はいまだいます
189たか:2009/01/08(木) 11:42:14 ID:yx6HkgcY
188さんへ、
そのことについては前スレ座ったり立ったりする修行なんていうの? から何度もかいています。
もう一度ゆっくり読み直してみてください。

捨てきって捨てきってさらに捨てきって、それで初めて無分別智ではないでしょうか。
187さんが空をどのように理解しているのか、とらえているのか、この文だけでは私にはわかりません。
空であると悟り、自己などどこにもないということは体験しました 、という文章は宗教版を見ればごまんとでてきます。
でもその人の話を追っていくともう一つと思うところが多いですね。

例えば何らかの体験をしたとして、さァ私は凄い体験をしました、として体験を特別なものにしてしまう。
本来一切無分別なのに、体験自体を特別にしてしまいがちです。
私が見性を仏法の入り口と何度も書いているのが何故か解りますか。
自身が見性体験を踏まえた上で新たに生まれた分別を捨て去り消し去っていく中で、それを自身で確信し、またそれを人に伝えて安楽に導くことが大切なのでしょう。
見性後の修行というか、学びが大切です。
見性体験自体は六祖慧能禅師が言うように、仏性に気づけばいい、だけのことでしょう。
それ自体は激しい体験ともいえますがわずかな時間のことです。
そのことに安住し、先に進むことをしないことのほうが心配なのです。
何度も書きますがもし本当に確かな体験をしたのならまずは先人の伝えたものを学ぶことが大切です。
私はそれを多くの例を挙げて繰り返し書いてきました。それはあなたのような人の参考になればという思いからです。
自分でこう書くのも変ですが、どの人が読んでも他のどれよりも解りやすいと思っています。

なお、ただ空であると認識している主体(自分?)はいまだいます 、とかいていますがそんなことは当たり前です。
まずは、仏性に気づくところから始まるのですから。

話は別になりますが、空を説く金剛般若経には空の文字がないそうです。
いろいろ理由が思い浮かびますが、もしかしたらあえて、空、の文字を使わなかったのかもしれません。
何しろ仏法は空の文字・言葉はもちろん思想以前を説いているのですから。
188さんにはこれが解りますか。
190たか:2009/01/08(木) 12:32:30 ID:yx6HkgcY
前に書いた長谷川等伯の国宝「松林図」も墨絵の最高傑作といわれ、それを見る人をその絵の中に引き込むというか、又はその絵が見る人の心に飛び込んでくるような気がします。
等伯は雪舟の弟子だったか孫弟子だったかを自称しています。
直接指導を受けたわけではないですが等伯もおそらく時空を越えて雪舟の心を受け取ったのかもしれませんね。
まえにも書きましたが、私はこの絵は空を描いたものだと思っていて、そのことを書きたくてここに書き始めたのも理由のひとつでした。

俵屋宗達を見出した本阿弥光悦の代表作に焼き物の国宝「不二山」というのがあり焼き物の最高傑作といわれています。
技巧に技巧を重ねた光悦の傑作の作品の中で技巧を超えた世界が自分の考えを超えた世界があることに感動しそしてそれに触れることができたという感動があったようでこの不二山の箱書きには光悦の署名があるそうです。
自分が今まで思ってもいなかったものに出会う歓び、そして自分に伝わるまでにそれぞれの人がどのように感動し感じた伝えてきたのかを思いめぐらしながら、それに触れたと感動できることはたいへんな喜びですね。
作品に引き込まれるというのは、先人に学ぶというのは、きっとそういうものなのでしょう。
191たか:2009/01/08(木) 14:35:49 ID:yx6HkgcY
ここをはじめて読む人の中には宗教版なのだから宗教のことだけ仏教のことだけ書けばよいだろうに、と思う人もあるでしょう。
禅宗なら禅宗の教えだけ、浄土系なら浄土系のお教えだけでいいのだ、と。
確かにそれもありますね。
でもそんなことならここに長々と書く必要もない。何ぼでもそれぞれの教えだけを書いているところはある、というかそればかりですね。
そしてそのおしえだけにはまってしまうとその教え以外受け付けなくなる。その教え以外受け付けなく逆に徹底的にあらを見つけて批判すらする人もでてくる。
確かに世の中全てが水の流れのように上から下に流れるものだけならそれでいいでしょう。

音や光は波によって伝わるようで必ずしも真っ直ぐに来る一本道だけではなくて何かに跳ね返って時に壁などに跳ね返って届いたりするものが多いですね。
一見間接に届くものそんなものなくてもいいようですが、実際はこの幾たびも間接的にかかわりながら自身に届くものの大切さがよくよく解ってきます。
各宗派の教えも大切でしょうがそればかり聞いていては凝り固まったものになりかねません。
本来自由自在を説いているのにいつの間にか固まったものだけに縛られてしまうことも多いかもしれません。

空とは一滴の水のごとくであらゆるもの(間接的に跳ね返ってくるものも含め)のはたらきでかたちづくられています。
これを仏性といい、自由自在というのでしょう。
192たか:2009/01/08(木) 14:58:08 ID:yx6HkgcY
>空であると悟り、自己などどこにもないということは体験しました
>ただ空であると認識している主体(自分?)はいまだいます

金剛般若経でしたか。
AはAではない、ゆえにAはAである。
193たか:2009/01/08(木) 23:37:45 ID:yx6HkgcY
AはAではない、ゆえに、AはAである。

本来の自己とは、本来の面目とは、何かということです。
自分が消えさえすればよいというものではないのです。
大乗仏教では、悪取空、という言葉があるそうです。
例えば、苦しみにある人に、諸行無常だから死ねば治る、という。
そうではなく、諸行無常だから、諸法無我だからこそ、苦しんでる人に勇気と生きる希望を与えるはげましが大切なのでしょう。

見性すればなおのこと、己の空に拘ることなくそれを消し去りながら法の道を歩まなければならないのでしょう。
つまりそこにおいて悟りもなく、空も無い、つまり空も悟りも意識しない世界があるということでしょうか。
これを十牛図では入てん垂手というのでしょう。
まぁ、そこに至るために見性後かなりの年月をかけている禅僧も多くほとんどが名僧といわれていますね。悟りの後の修行、これもまた一生ものでしょうか。

なんでも理屈で説くのは簡単です。しかし、理屈では心に響かないですよ、何事も。
理屈など違う理屈がでれば、状況が変化すればいとも簡単に崩れてしまうことが多いのが現実です。

194神も仏も名無しさん:2009/01/09(金) 22:35:43 ID:VgPZ/1D6
たかのマスターヴェーション・スレ
195たか:2009/01/10(土) 18:29:23 ID:2J4/9bpU
無心だからこそ心が伝わる、受け取れるということがありますね。
これ無心を経験しないとわからないですね。そのために、

ということで、次は>>168の「NHK映像ファイルあの人に会いたい」の東山魁夷 (日本画家)さんのインタビューを書きましょうか。
本当は私は書きたいことは無数にありますね。
なにしろ先に書いたように、何をしなければならない、何をしてはならない、などということもないですから何でも書きたいことはあります。
例えば、維摩経をとってもまだまだ書きたいことなどはいっぱいありますが。
ただすぐれた先人の言葉も私以上に響くものがあります。
先日の東山魁夷さんのインタビューもその一つだと思います。
196たか:2009/01/11(日) 11:41:52 ID:qY8utC/4
「NHK映像ファイルあの人に会いたい」の東山魁夷 (日本画家)をそのまま書きます。
何故そのまま書くかというと東山魁夷さんがそのまま出るからですね。
途中何度も女性のナレーションが入ります、段を分けますが雰囲気で察してください。

絵を描くということはですね、祈ることだと言う気持ちが多かったわけですわね。

東山魁夷さんは日本を代表する風景画家の一人です。
大学を卒業後三年間ドイツのベルリン大学に留学して外国から日本画を見つめ直し西洋画の持つ写実精神を取り入れようとしました。
その画戦争の時に大きな転機が訪れます。

私なんか若い時に、絵を描いてました時人の絵と違う絵をじぶんでかきたい、なんかこう珍しい構図や色彩でそういうものを自分の気持ちを表したい、と言う気持ちも多かったときですから。
展覧会でいい成績をあげたいという気持ちもあったわけです。
私なんかなかなか成績の上がらなかった方ですのでね。
だけど自然と自分の心が通じ合ったのはですね戦争の最中のような気がしますね。
197たか:2009/01/11(日) 12:23:00 ID:qY8utC/4
召集がきましてね、二等兵で熊本へ行ってまして毎日爆弾を持って戦車を攻撃する練習をするのですが、ある日熊本の城跡からですね、眺めた肥後平野の風景がたいへん感動的に見えたのです。
普段ですと私くし、もっとなんか誰も見たこともない風景を書きたいという希望もあって見逃してしまうような風景なんですけれども、それが命にあふれて見えまして。
そういう経験をしましてから戦後はその時のような気持ちで絵を描こうと思ったわけです。
それは自分の心が純粋になってたからだと思うんです。
欲というものが他力によってぬぐい去られていたような気がします。
例えば、芭蕉の、静かに見ればみな自得すといえり、という言葉がありますね。
あの静かにというのは、心を無にする利害得失を離れてという意味で私は理解しているのですが。
その時、物の生命が見える喜びといった言葉じゃないかと思っているんですが。
198たか:2009/01/11(日) 12:53:57 ID:qY8utC/4
風景画家東山魁夷は自分に語りかけてくる自然の声が聞こえるといいます。

こういう木を見ていましてもね、自分の心が向こうへ投射したのでしょうか、木のほうからいつも私に何かを語っているように聞こえるんですよね。
そうして自然の風景を歩いていますと、例えば有名な観光地であってもですね全然観光地らしくない一隅が私にここを書いてくださいというように聞こえるのですね。
だから外国旅行をしてもいつでもそうなんですけれどもこういうところを書こうと思って歩くのではなくて、そういう気持ちを捨てて歩いていると相手の方から声が聞こえてくる。
向こうの方から発信音がでているんだろうと思うんですけれども。
こちらの機械ががですね、雑音ばかり入っていると感度が鈍って聞こえない。だからそういう関係だろうと思います。
それとですね。波長が合っていないといけないわけですね。
それですから、両方が一つに結ばれるというのは両方の生命の源泉が一つだと感じるからだと思うんですね。
これが木は植物で、人間は人間で、生命の中で一番人間が偉いんだ、という気持ちを持っていたんではいつまでたっても、発信音は聞こえないし生命が繋がっているのですよという声が聞こえない。
199たか:2009/01/11(日) 15:09:04 ID:qY8utC/4
昭和48年東山魁夷65歳の時に生涯で最大というべき仕事に出会います。
奈良唐招提寺の障壁画に取り組むことになったのです。
この時東山魁夷にとって初めての試みである墨絵の技法がもちいられました。

絵を描くことは祈ることだということだという気持ちが多かったわけですね。
そういう具合でその唐招提寺の障壁画に関わらず、そうなんですけれど、障壁画を描くようになって一層その気持ちが強いような気がします。
やはり自分というよりもむしろ、その鑑真和尚にささげる障壁画ですので自分というものは無になっているわけですね。
私の絵は色彩の絵が多かったけれどもただ感覚的な世界でなくて精神的な世界を目指していてわけですけれども、墨絵というのはですね色を無くしてですね一色で描く場合になりますとどうしても感覚的な要素は薄れて精神的な要素が深くなることは確かですね。
それは私の望んでいる世界の一つですけれど、ね。

日本に仏教をもたらした唐の高僧鑑真にささげた障壁画は68面という大規模なもの。それをおよそ10年の歳月をかけてようやく完成させました。

私たちの道はやはり際限の無い道をですね、誰でも歩いていって途中で期限が切れるわけです。
その意味でですね、与えられたものですから、生命も自分としてはより良くもう少しこの深い境地へ達したいと思いますし、自分の心がもっと澄んで生きたいと思いますね。
大きなエネルギッシュなことではなしに小さな仕事でもいいから自分の心のこもった仕事をできるだけしたいですね、それが念願です。
200たか:2009/01/11(日) 15:25:16 ID:qY8utC/4
東山魁夷は唐招提寺の障壁画を描くため中国にスケッチ旅行に出かけ、仏教の無我の境地で風景を描きました。
ところがその後、ドイツで展覧会が開かれた時に評論家たちは、そこに仏教的なものではなく木や滝を神とする日本古来の精神をみたと伝えます。
東山魁夷は再び外国から日本の美を見つめ直し、新しい旅を続けていきました。

見逃してしまうような風景なんですけれども、それがね、もう本当に命にあふれて見えましてね。
そういう経験をしましてから、戦後、その時のような気持ちで絵を描こうと思いましたね。
それはやはり、自分の心が純粋になっていたからだと思うんです。

以上。機会をみてテレビで見てください。
201たか:2009/01/11(日) 22:01:32 ID:qY8utC/4
面白いですね、今日の日曜美術館は。
私がここに書いたものの繋がりのように感じました。
202たか:2009/01/15(木) 12:37:41 ID:9GpjMVCO
>>201の画家は日本画の田渕俊夫さんという人でした。
昨年秋、真言宗智山派総本山智積院の講堂に60面の襖絵を納めたのですがその制作模様やその作品が放送されました。
見る予定はなかったのですが、番組表で智積院の文字があって長谷川等伯を連想して見ることにしたのですが、一言で言えばいい番組だったと思います。
この田渕さんの代表的な襖絵では、大本山永平寺の「雲水」、鎌倉鶴岡八幡宮に納めた「美しき大地」があり、その絵も解説付きで映されてました。
まぁ、あまりに感じるところが多くて書き切れないですが、おそらくそのうち再放送でもあるような気がします。それだけいい内容だったですね。
智積院は等伯の国宝「楓図」、息子久蔵の国宝「桜図」でも有名ですが、墨絵で描いている点では国宝「松林図」が頭に浮かびます。
田渕さんは60面の襖に身近な植物を四季に分けて描いて、また同時に時のうつろいも描こうとしたようです。
花びらを描かずに咲く満開の桜、夏の日差しをいっぱいに浴びたたくましく伸びる近所にあった欅の木、春から晩秋までの時のうつろいを一画面に描いたススキの絵、冬は深い雪に根をおろす杉木立、そして一日のうつろい。
203たか:2009/01/25(日) 21:09:45 ID:0oYnAHkT
番組では言ってはいませんでしたが、田渕さんの絵を見ていて多くのの先人を受け取りながら田渕さんの絵ができあがっているのだなぁと強く思いました。
204神も仏も名無しさん:2009/02/02(月) 11:17:53 ID:/+C90WEz
無心になって初めて観ずるもの。
この観ずるとは何か。これが法であり、真理でしょうか。
自己、己を知るとは何か。
205神も仏も名無しさん:2009/02/10(火) 10:12:27 ID:TeqBhP7j
無心になろうとすると、無心にならない。
観ずようとすると、観ずることができない。

でも、常に観じているのだと気づくことが大切だ。
206神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 10:59:33 ID:T0kY4m3S
◆漢訳  (玄奘三蔵訳)

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故 
心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多故 
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 
菩提薩婆訶 般若心経 


207神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 11:05:10 ID:T0kY4m3S
訂正(文字が抜け落ちました)

◆漢訳  (玄奘三蔵訳)

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故 
心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 
菩提薩婆訶 般若心経 

208たか:2009/03/09(月) 19:33:35 ID:5O8diu8V
一昨日、昨日と彼岸が近づいたので、岩手に行って墓参りをしてきました。
昨日、実家の近くに住んでいる叔父さんが米を持ってきてくれて、一昨日近くの地区で捕まえたという鹿の肉をもってきてくれました。
私が小さい頃この地域に鹿や熊など出たと聞いたことがなかったのに最近は特に鹿は多くいるらしいですね。
三陸海岸の近くに五葉山という所があって昔からそこには鹿がいたのですが、私の実家の地域に鹿がいるという話は聞いたことがなかったので五葉山から移動してきたのでしょうか。
猪もだんだん北上してきてるみたいで、昔は宮城南端の角田丸森地域が北限といわれていたのに今では岩手県南にきているらしい。
自然の中で暮らす動物たちはまさにその真っ只中で暮らしているということでしょうか。
だから、環境に適したとところに移動するということでしょうが、移って来られた方は困ったことだと思って、鉄砲を。
鹿は3頭捕まえたみたいで、私がもらった肉は半分ほどを塩コショウでいただきましたが、思ってた以上に癖もなく美味しかったですね。

この鹿の肉を持ってきてくれた叔父さん、昔から本業は農業で、乳牛を飼い、葉タバコや稲作なのですが、家の前が前に書いたことのある猊鼻渓の砂鉄川上流で夏は鮎やうなぎなどの川魚取る名人で、冬はキジや山鳥を鉄砲で撃つ名人ですね。
私はここに書くまで考えたこともなかったですが、前に書いた池大雅・与謝蕪村の国宝十便十宜を思い出します。
特に池大雅の釣便が思い浮かびますね。
209たか:2009/03/09(月) 19:38:10 ID:5O8diu8V
十便十宜(じゅうべんじゅうぎ)は、清の劇作家李漁(李笠翁)が、別荘伊園での生活をうたった詩。
草蘆を山麓にむすんで、門をとじて閑居したところ、客の訪問を受け、静は静であろうが、不便なことが多いであろうといったのに対して、便と宜とそれぞれ十則の詩をつくってこたえたというもの。
また、これに基づいて1771年に池大雅が「十便帖」、与謝蕪村が「十宜帖」を描き、合作した画帖が「十便十宜帖」である。

この絵も何でこの絵が最高峰の国宝なのと最初は驚いたものでしたが、よくよく考えてみると、自然と共に生きる人の豊かさが憧れのようにも感じられるのでしょうか。
それが見る人の心に響くのでしょう。
冬は冬と共に生きキジを撃ち、時節が変わり暖かくなれば家の前の川で魚を取る。
季節と共に生きるその真っただ中にいるということでしょうか。

春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり。道元

この句、川端康成がノーベル賞でスピーチしたことで有名ですが、川端康成が死ぬまで自分の元に置いたといわれているのが、国宝の池大雅の「十便帖」と与謝蕪村の「十宜帖」ですね。
川端は、家を買うのをやめてこれらの絵を買い集めたといわれています。


210たか:2009/03/20(金) 17:41:44 ID:VPeSNOmK
今日は春分の日、穏やかな日和です。
鳥は鳴き、日差しも柔らかく、頬を通る風も優しいですね。
これ生きていればこそ感じられる、いや、観ずられるものですね。
今を観ずる、いや、今ということさえも忘れて、そのままに、それこそ、観ずる、だけということでしょうか。

同じものを遥か昔の人たちも観じたのでしょうか。
そう思えてくると、胸が熱くなってきます。
時を越えて同じように観ずる、ここに感動というものが突然湧き上がることがあります。

芭蕉は西行と同じものを観じたくて、いてもたってもおれずに、奥の細道の旅にでたのでしょう。
面白いのは、芭蕉を慕った後の人たち、例えば、与謝蕪村も、正岡子規も、奥の細道を尋ねる、これもまた、いてもたってもおれずにでしょうか。。

同じように、音を観ずる、多くの先人もまた、これで感動しますね、これとは一音です。。

玄奘三蔵は般若心経の菩薩を観自在菩薩と訳した。
玄奘のほうが原文に近い訳だそうですが玄奘三蔵が肌身はなさず持っていたのが羅什の般若心経ですが、鳩摩羅什(くまらじゅう)はあえてこの菩薩の名を観世音とした。
その羅什の心が解るのと解らないのとでは、感動そのものが全く違います。
これが解って読めば、鳩摩羅什が訳した法華経も、阿弥陀経も、維摩経も、金剛般若経も素直にスッキリ納得できます。

それは当たり前のことであって、この観世音から始まってます。
羅什は死を前にしてこんなことを言い残したといわれています。
「自分が亡くなって焼かれても、もしも私の訳した経に間違いが無いのならば、
必ずや舌だけは残る。」と。
この舌を我々が毎日唱える私たちの舌と解釈したならよく解ります。
日本の宗派は多くありますが、必ず、般若心経か、法華経か、阿弥陀経を毎日唱えています。
羅什の舌を私たちは知らすに読んでうごかしていたといえそうです。
211たか:2009/03/24(火) 16:09:39 ID:S/WDSBqD
般若心経はもちろんのこと、南無妙法蓮華経も、南無阿弥陀仏も、これらの言葉はどれもが鳩摩羅什(くまらじゅう)が訳した言葉から始まっているといえる。
つまり、鳩摩羅什の心を理解しなければ解ったことにならないともいえるだろう。
昔、日蓮が霊力で南無妙法蓮華経の言葉を感じ取ったとか言っていた人がいたけれど、それは間違いで、それを強調すればするほど何らかの魂胆があるように思えてくる。

212神も仏も名無しさん:2009/03/28(土) 21:07:44 ID:MrwB9Hpn
それは確かに理屈では解決されませんよ。
そうしちゃうのは今までそうやって生きてきたから、知識でそれを分かっちゃうだろうと勘違いしちゃうんですね。
一回それを知らないといけない。もちろん、知るってもんも最終的には落とさなきゃならないけど、とはいえ一回それを分からなきゃならない。
それは知識ではなく、たった今を見ればいいだけ。これだって分かる時が来る。
これが分かって初めて坐禅やら瞑想やらができるんです。
そして瞑想もそっから始まり、だんだんと深まっていく。
それまでは瞑想と日常生活は切り離され、だからどっかで山とかにこもらなければ悟れないと思っちゃう。自我がそうさせる。
一回分かれば、坐禅と日常生活が分かれることもなくなる。それは一つになります。
日常生活が座禅そのもの。そこから初めて本とか理解ができる。
体験から理解できる。だからそれまでは知識と記憶の残骸です。

だからと言って悟ったら欲がなくなるとか、思考がなくなるとかそれはない。
腹も減りますし、眠たくもなります。考えたりもします。
ただそれに捉われなくなる。変に恐怖したり、必死にきばんでみたりしなくなる。

無心無我、放棄ってのはこっちから働きかけてできるもんじゃない。
無心になるには無心になってないといけない。
もう無心そのもの。今に浸る。すると放棄は自然に自動的に起こります。

213たか:2009/03/29(日) 19:38:25 ID:C/3D5HLJ
212さんへ、
あなたがおっしゃるとおりだと思います。
そういう意味で、およそ三年前から書き続けています。。
ここを読んでいただいた人の多くはおそらく仏教に興味がある人でしょう。
日本に仏教が伝わったのは大乗仏教ですが、インドから中国に伝わり、少しずつ内容が深められて日本に伝わり、日本の文化の下地に大きな影響を与えながら花開きました。
私が単に仏教だけでなくそれ以外のものもとりあげているのはそのためですが・・。
仏教は蓮の華に例えられますが、まさに多くの国、多くの人そしてそれらの人たちの心に華を咲かせ、先人をを通して今に伝わっています。
それらの人の心を蓮の華に例えればよいわけで、それを仏心と呼んでもいいかもしれません。

先週でしたかNHKで法隆寺のことを放送していました。
ご存知のように、日本に仏教を始めて定着させた人は聖徳太子で、太子がいなかったら日本の仏教も、日本の文化も今とは違ったものだつたでしょう。
最初の法隆寺は今の場所ではなかったそうで、最初の建物は焼失して次に建てられたのが、今現存する最古の木造建築の法隆寺だそうです。
その当時の仏像として、国宝の釈迦三尊像、国宝救世観音像が残っています。
モデルはどれも聖徳太子だといわれているそうです。
聖徳太子が学んだ経の中に法華経と維摩経があります。
これらはの鳩摩羅什が漢訳したものですが、おそらくこの経の心が十七条憲法に大きく影響してたはずです。

大乗の経典の心は救世観音の華のようなものです。
私たちの元に届く前に多くの先人が同じ心を観じ、そして次の世代に渡してきた、人の身体は無常で消え去っても、そのこころだけは今の私たちも同じように伝わり、観ずることができます。

この心をしっかり受とけるためには、212さんが言われるように、まず無心・無我になることが大切だと思います。
これがどうしてもおおくのひとにはわからないですね。
どうしても知識を先にしてしまいますね。
無我・無心を説く為に、般若心経では、無を連発してるのです、そこに至った時に、初めて般若の心が身体のなかから沸き起こります。
これを如来といい、菩薩とも言っていいのでしょう。
だから、鳩摩羅什は観世音菩薩と訳したと私は思っています。
214たか:2009/03/30(月) 17:15:21 ID:OdLeMVxT
先週土曜日のNHKスペシャル、私の声が聞こえますか〜植物状態からの帰還〜を見ました。

目は覚めていても、呼びかけには応えることがない「植物状態」の患者。交通事故や脳卒中などで脳に損傷を受け、意識を失っている状態だと考えられている。
“回復の見込みが薄い”としてこれまでは積極的な治療は行われてこなかった。
しかし最新の脳科学によって、植物状態の患者でも回復の可能性があることが明らかになってきた。
日本大学医学部では、患者の体内に埋め込んだ電極から、脳に直接電気刺激を送る治療を行ってきた。
電気刺激によって残った脳細胞を活性化させようというもので、実際に多くの患者がこの治療を受けて回復している。
また茨城県の病院では看護師を中心に患者に様々な姿勢をとらせたり、味覚や聴覚など全身の感覚を刺激したりすることで状態を改善する取り組みが行われ成果をあげている。
これらは治療が不可能だと考えられてきた植物状態の常識を変えるものとして、世界的にも高く評価されている。
見過ごされてきた「植物状態」の患者。
その治療の最先端の現場で、植物状態から回復していく患者の姿を記録し、人間の回復力と脳の未知なる領域での変化を描く。

この番組、内容のある番組でした。

この放送の中で音や患者さんの家族の声が植物状態にある患者さんに生きる意欲と喜びを沸き起こすのではないかと強く感じました。
周囲の音や見守っている家族の声と心が患者さんの心を奮い起こしているように私は思います。
このことについてはもう一度再放送を見てから書きたいと思いますが、数年前に亡くなった父親の最後の場面も思い起こしましたのでこれもそのうち書きたいと思います。
それは何故かと言うと、父親は腹部大動脈破裂が原因で亡くなりましたが、意識がないはずの父に声をかけたとき、私と私の兄の声を聞いて、父の閉じたまぶたから涙がこぼれたのを覚えているからです。
私はその時、「あぁ、聞こえているんだ」、と思ったのを今でも強烈に覚えています。

この番組を是非見てください。
再放送は2009年4月9日(木) 午前0時45分〜1時34分 (8日深夜)総合
215たか:2009/03/31(火) 01:54:13 ID:852WUzvD
赤ん坊がオギャアーと産声を上げる直前に聞こえるのがこの世の最初の一音、そしてこの世を去るときにも一音で終わる。
死後、最初に迎えに来るのは観世音菩薩。
また、この世をさるときも観世音菩薩、一音です。

見性の一音とはね、この世の最初に聞いた音です。おそらく産声をあげる直前、又は産声と同時です。
この時、宇宙全体と一体になるんです。本当の意味で空っぽの身体に命が吹き込まれるということです。

見性とは、この瞬間を思い出す、又はこの時の赤ん坊と、同じ状態を作り出すんです。
だからこそ、自己を証する、自分がわかるんです。
思考以前の状態,無心の状態です。
無心の状態、ではその時、心がないかというとそうではない。
身体全体が、歓び、満足感で満たされているんです。
これを雷鳴が轟くが如しといいます、身体全体が命で繋がるんです。
細胞一つひとつすべてが一つに繋がって動き出す。
この世に生まれでた喜び、生きる喜びを知った瞬間です。
これを知ることが大切です。思い出すことが大切です。
見性を、大歓喜、と言う。
苦しみのない状態、般若心経では、度一切苦厄、これも鳩摩羅什がオリジナルで付け加えたものだといわれています。
渡る彼岸とは、この心の状態を言うんです。
生きて、彼岸に渡る、この世を浄土と見ることができるということです。
つまり、生きる喜びを知って、感謝の心で生き切ることができるということでしょうか。

解りますかね。
216たか:2009/04/02(木) 12:47:01 ID:bNwZOaTg
一 休 語 録

そのままに生まれながらの心こそ 願わずとても仏なるべし
心とはいかなるものをいうやらん 墨絵にかきし松風の音
蓮葉の濁りに染まぬ露の身は ただそのままの真如実相
仏とて外に求むる心こそ 迷いの中の迷いなりけり
楽々と心からにて彼の岸に 渡るもやすき法の舟人
有にもあらず無にもあらざるその中に 我がふる里の人の知らずや
色相はそのときどきに変わるども 不生不滅の心変わらじ
我にありと思う心を捨てよただ 身の浮雲の風にまかせて
世の中は白黒赤く移りゆく 鏡ひとつはもとの身にして
世の中の人の心の仏なれば 釈迦や阿弥陀の晴れ渡るかな
経を見てその善悪を取りぬれば 善悪ともに悪にこそなれ
誤りて不動をよきと思うなよ その心こそあくまとはなれ
夜もすがら仏のみちをたずぬれば わが心にぞたずね入りぬる
悟らぬも悟りも同じ迷いなり 悟らぬ先を悟りとぞいう
嘘の皮むいて捨てたるそのあとは 釈迦も凡夫も同じ味わい
悟り得てなに楽しまん無一物 本来喰う(空)て寝たり起きたり
心こそ心まどわす心なれ 心に心こころゆるすな
心をば取ると思うな捨てもすな 取捨のふたつを無分別にて
生きば生きん死ななば死なんと思えただ その行き先は有無にまかせて
一物もなきを賜わる心こそ 本来空の妙味なりけり
217たか:2009/04/02(木) 12:48:36 ID:bNwZOaTg
続き、

生まれては死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も
白露の己が姿をそのままに 紅葉に置けば紅の玉
仏法は鍋のさかやき石のひげ 絵にかく竹の共擦れの声
地獄とは色と欲とに酒遊び これを恐れぬ人の愚かさ
金貯めず物蓄えず惜しからず 着の身着のままこれが極楽
仏性を見るとは何を言うなれば 不生不滅の道理知るなり
死んでから仏になるはいらぬもの 生きたるうちによき人になれ
風鈴も風なき時に声はせず 風にもまれて響く風鈴
後生とは人の心の常にあり 寝たり起きたり居たり立ったり
極楽は十万億土遥かなり とても行かれぬわらじ一足
一休も破れ衣で出るときは 乞食坊主と人は言うらん
障りなく本来空に帰るこそ これや西方往生と知れ
さとりなば坊主になるな魚くへ 地獄へいって鬼にまけるな
一切の衆生と仏へだてなし 隔つるものは迷い一念
生まれ来たその前生を知らざれば 死に行く先はなお知らぬなり
鬼という恐ろしものはどこにある 邪見な人の胸に住むなり
218たか:2009/04/02(木) 16:13:51 ID:bNwZOaTg
今度の6月4日でこのスレに書き始めてちょうど3年になります。
書き始めて時から三年が目標で書いてきました。
前スレが703で終わりましたが、実は1000までいくものとばかり思っていましたが、およそ700で終わったときには中途半端に終わったかなと思いました。
>>1さんにここをたてていただき、おかげで、もう少しでトータル1000になります。
ひとつのスレッドで1000にいけば最初から最後までひと目で見れていいだろうと思っていたわけで、そのためにゆっくり書いていたわけですが700で途切れて前スレが見れなくなって残念です。
かといって、前スレで書いたものをまた書くのも億劫ですね。
できれば、前スレから読んでいただきたいと思っていますが、それもなかなか大変でしょうか。。
とりあえずもう少し書きます。

ところで何故2チャンネルに書き続けてきたかというといつでも誰もが見れるという点があります。
当然インターネットはもちろんのこと、携帯電話でも即座に見れ、また誰もが書き込むことができます。
また国宝などの絵画や文章などの作品はもちろん人物についても文字で検索すれば私が書いた文を見ながら検索したものも詳しく見ることができます。
つまり、私が書いたものを検証しながら読んでいただき理解を深めていただくことができると思って書いてきました。
単に一方的に読むのではなく絵を見ながら、写真を見ながら、文字だけでは解らない、伝えようとしている心を深めていただきたいと思っていたのです。
219たか:2009/04/02(木) 16:31:58 ID:bNwZOaTg
最初に私は仏リンを鳴らし始めたときはほとんど仏教、仏法は知らなかったわけですが。
一休禅師のことなどほとんど知らなかったですね。
でも、いま、一休さんの語録を見れば何を言っているのかよく解ります。
考えてみると一休禅師は肉魚は食い、女性、男性かまわず関係を持ったといわれています。
時に仏像を焼いて見たり、地蔵に小便をかける、僧侶としてはもちろんのこと、まあとんでもない奴のようにも言われそうです。
ところが、私は一休を知るに付け、一番好きな坊主でしょうか。
考え方は一休と同じです。

先に書きましが日本・中国の仏教の基礎に大きく影響を与えた人が鳩摩羅什です。
この人がいなかったらへたすれば、日本に仏教は根付かなかっただろうし、仏教に影響を受けた日本文化も花開かなかったでしょう。
例えば、一休一人をとっても茶の湯や能などは一休禅師がいなければ今日のようになっていなかったと思えます。

鳩摩羅什は大乗仏教に大きく足跡を残しましたが、彼の意とは違っていたかどうかはしりませんが宮殿に住み、子孫を残すためか絶世の美女と関係を持ち、酒池肉林とはいえないまでもそういう時期もあったとか言われています。
最も羅什はそれを気にしていたとも言われていますが。
羅什も一休も似たところもあったでしょうか。
220たか:2009/04/02(木) 17:30:37 ID:bNwZOaTg
>>210で、
羅什は死を前にしてこんなことを言い残したといわれています。
「自分が亡くなって焼かれても、もしも私の訳した経に間違いが無いのならば、
必ずや舌だけは残る。」と。
この舌を我々が毎日唱える私たちの舌と解釈したならよく解ります。
日本の宗派は多くありますが、必ず、般若心経か、法華経か、阿弥陀経を毎日唱えています。
羅什の舌を私たちは知らすに読んでうごかしていたといえそうです

と書きましたが、もう少し踏み込んで、この羅什の舌を心に置き換えたらどうでしょう。
つまり、私たちは多くの人達、多くのものから、心を受け継いで生きていると思ったらどうでしょう。

当然今生きている人からは勿論、それだけでなく過去に亡くなった人からもです。
先人の、心を感じたくて芭蕉は奥州に旅立った、残り少ない人生の全てをかけて。
先人と同じことをすることでそれをある時感じられることも多いですね。
例え有名な人でなくとも、例えば、自分が父や、母と同じ年くらいになったとき、あぁ、あの時父親母親はこう感じていんだと心に浮かんでくることもあります。
意識的、無意識的に限らず、その心が伝わっていくということはいつも起こります。

よく故人が残したものを見て、霊魂が残っていると断定的に言う人がいますが、そうではなくて故人が感じた心を受け取って感じているのだと思うほうが正しいと思います。

あらゆる一切は無常で瞬時瞬時かたちをかえていき、消え去って生きます。
しかし心というものもは変化しながらも時を越えて伝わっていくのでしょう。
心が伝わった時、胸に響いた時、心が一つになったとき、感動が生まれ、それが体を動かさせるのかもしれません。
感動は自分がこうしようと思って生まれるものではなくて、自然に沸きあがってきます。
221たか:2009/04/05(日) 21:28:27 ID:2Yns9/TA
昨日午後、BS2であなたのアンコール サタデー
ハイビジョン特集「復活した“脳の力”〜テイラー博士からのメッセージ〜」
▽(3:04)[字]NHKスペシャル「私の声が聞こえますか〜植物状態からの帰還〜」
をみました。

NHKスペシャル「私の声が聞こえますか〜植物状態からの帰還〜」 は>>214の再放送ですが、それを見るために見ようとしてたまたまハイビジョン特集「復活した“脳の力”〜テイラー博士からのメッセージ〜」3月24日の再放送もみました。
この二つの番組アンコールの要望が多くあったのでしょう。
二つの番組とも脳の障害のこと、そして克服の体験とそれに挑んでいる様子がわかりやすく、感動的に映されていました。
私の声が聞こえますか〜植物状態からの帰還〜」 は再放送は2009年4月9日(木) 午前0時45分〜1時34分 (8日深夜)総合 再放送されます。
この二つの番組、私がこのスレで書いてきたことを示しているような番組です。
特に、ハイビジョン特集「復活した“脳の力”〜テイラー博士からのメッセージ〜」はこのスレで、私が書いてきたこととほとんど同じことをこの番組で示しています。
大乗仏教を理解するうえで非常によい番組だと思います。
彼女自身は禅をしたこともなかったでしょうし、おそらく病気が発症するまで仏教は知らなかったかもしれませんが、今の彼女は大乗仏教の境地にいるような感じですね
222たか:2009/04/05(日) 21:29:17 ID:2Yns9/TA
私はこの番組を見て初めて脳科学者ジル・ボルティ・テイラー博士のことを知りました。
2008年タイム誌に世界で最も影響のある100人に選ばれ、彼女の体験を表した著書は50万部以上売れており、講演会に引っ張りだこだそうです。
テラー博士はハーバード大学の脳を研究する科学者で、華々しく多くの論文も書いていたということです。
37歳の時、突然脳卒中になり左脳に障害が残り言語能力の部分が破壊され、身体も不自由になったといいます。
他の人からみれば障害の真っ只中で悲惨ののなかにいるようですが、ところがこの時、彼女は今までに感じたことのない包まれたような不思議な幸福感に満たされていたというのです。
言葉をなくし知識も失い論理的思考を失った中で、おとずれた幸福感、そしてその大切さを、その時の体験、そしてその障害を克服して脳科学者として復活し、それがどういうことかを体験を基に彼女のみずから語っていました。
「わァ、私は生きている、とにかく素晴らしく、とても感動的でした。」
それを多くの人に伝えたい、彼女のその思いが感じられました
223たか:2009/04/05(日) 22:24:00 ID:2Yns9/TA
テイラーさんが脳卒中で過去の記憶がなくなり言語能力を失った時感じた不思議な幸福感、歓び、これは見性の時に観ずることと似ています。
実際、インタビューの中で彼女は涅槃という言葉を何度か使っていました。
おそらく彼女自身自分の体験が大乗仏教のそういうものに近いと思っているのでしょう。

私が何度もこのスレで書いているように、思考を入れない何も考えない状況においたとき、沸き起こってくる一体感と幸福感、歓び、それを彼女は脳卒中という状況下で感じたようです。
この番組の中でも、赤ん坊に戻った感覚ということを言っていましたが、まさにそのようの状況においたとき、沸き起こるものがあるのだと思います。
テラー博士と私は違いがあります。
それは彼女が脳卒中という病気になって初めて感じたのに、私はそういう直接的な障害がなかったことです。
そもそもお前は馬鹿だからと言われてしまえばそれまでですが・・・。
つまりそれは言葉による思考や知識を取り去ったとき、そもそも観じていたものが浮き上がってきたことにあるでしょう。
生きているとは本来、この幸福感、一体感に下支えさえていることだと私は思っています。
本来誰もが感じているはずの幸福感、喜び、一体感、が、自我に覆いかぶされて気づかない状況にあるのでしょう。
もう一度それを感じるところから始めてみる、気づくことを始めてみる、これが大切だと思います。

テラー博士は著書と講演を通じて脳障害で苦しんでいる人達に希望と喜びを与えていました。
この番組の最後の場面でテラー博士が家の近くの野山を散歩するシーンがあり、その時彼女が言った言葉を書きます。

ここに来ると、自分が木のように感じる。
小さな氷の粒が葉っぱに当たる音
風が吹き抜けていく音、魔法のよう
小川のせせらぎ、木の葉、風と一体になる
小鳥のさえずりを聞いてごらん
これがふるさと
this is home
224たか:2009/04/05(日) 22:33:58 ID:2Yns9/TA
道元禅師が言う、心身脱落、脱落身心、まさに自我、知識、思考が落ちて、つまり、無心ということでしょうか。
そこに大歓喜があった、不思議な幸福感喜びがあった、生きる喜びがあった、ということでしょう。
225たか:2009/04/10(金) 13:52:38 ID:mCpcC4ci
今日は天気がよくて、桜が満開です。
仙台から南に船岡というところがあって大河原までの白石川の桜はひと目千本桜ということで宮城県では一番の名所です。
この桜並木のそばを東北本線が通っていて乗客のかたたちに桜を見ていただくために、船岡と大河原のほとんど区間をこの期間だけ電車がスピードを落としてはしります。
電車の窓から見れば、桜の向こうに白い雪をかぶった蔵王連山が宙に浮かんで白く見えます。
春の温かい日差し、満開の薄紅の桜、その向こうに、青い山と空に白く浮かぶ雪の山々。
今日は桜並木の下を散策する人たちが多く見えました。
明日も天気がよさそうで多くの人が花見に訪れそうです。
226たか:2009/04/12(日) 21:04:40 ID:5+OaHudK
NHK「ためしてガッテン」でも先週と今度の2週続けて、介護の放送だそうで、先週の放送では脳卒中の人が驚くほどの回復している姿が映し出されていました。
先日のハイビジョン特集「復活した“脳の力”〜テイラー博士からのメッセージ〜」もそうでしたし、「私の声が聞こえますか」もそうですし、家族の支えと、励ましがいかに患者さんの改善に繋がっていのるか驚くほどです。
どの放送も脳への刺激で驚くほどの症状の改善がありましたが、単に脳への電気的な刺激だけでなく、やはり周りの家族や介護の人たちの支えがあってこそと思えます。
多くの人は観音というと仏像の観音菩薩と思い、仏教の理屈を言うわけですが、この患者さんたちからみれば周りで励ましてくれる人たちの声が、頑張ろうという意欲を奮い起こさせる観音の声に思えるのではないでしょうか。
どの患者さんも医者からもうこれ以上良くならないだろうと言われ絶望を味わった人たちでした。
ところがどの家族も患者さんも今は表情が明るかったですね。
いのちの歌ではありませんが、今、寄り添う人がいてこそと思えます。
227神も仏も名無しさん:2009/04/25(土) 16:41:42 ID:GxfvKZlI
test
228たか:2009/04/26(日) 22:39:58 ID:t8Z3tZX4
227さんへ、
しばらく書き込みしなかったんで、testでしょうか。

この間、ハイビジョン特集「復活した“脳の力”〜テイラー博士からのメッセージ〜」を何度か繰り返し見ました。
テイラー博士の特集番組は全く知らなかったのですが、「私の声が聞こえますか〜植物状態からの帰還〜」を録画するためにたまたまその前に放送された「テイラー博士からのメッセージ」も録画していました。
このテイラー博士のドュメントは前に書いたように私が書いてきたことと、私が伝えたいこととほとんど同じことなので、それをどのようにここを読んでいる人に伝えたらよいか考えていてなかなか手につきませんでした。
だから皆さんに是非とも「復活した“脳の力”〜テイラー博士からのメッセージ〜」と、「私の声が聞こえますか」を必ず見てほしいですね。

左脳の機能が失われて記憶もなくなした時に言葉をなくしたときに、はたから見ていれば苦しいはずなのに、全く逆に素晴らしい安らぎを感じた、そして周りで励まし寄り添っていた人たちが生きる意欲、生きる喜びという心を生じさせている事に注目しなければなりません。
生まれたとき、そして育つ時、赤ん坊は自然に生きよう生きようとします、それがどうして生まれるかということです。
言葉、記憶をなくした人たちは、まさに赤ん坊に戻った状態です。
ところが、言語機能をなくした人たちは生きようとする力が働いて言葉や記憶の機能を補完する心が働きはじめます。
そして驚くほど回復する人たちがいます。
先日、シンガソングライター小椋桂さんがスタジオパークという番組にでていて次男のこと話していました。
この次男の人は十五才の時脳梗塞になり言葉をなくなったそうですが、桂さんや家族の支え励ましで今は普通の人と同様に回復しているといって、ほんとに驚きですと話していました。
人には内から沸き起こる生きる力、「生きる喜び」の心が具わっているのだと思います。
それをまず観じ取ることが大切です。
229たか:2009/04/26(日) 22:47:20 ID:t8Z3tZX4
訂正
小椋桂の桂の字が間違ってました 小椋佳です。
230たか:2009/04/26(日) 23:27:00 ID:t8Z3tZX4
この間、介護の問題、教育の問題、就労の問題を取り上げた番組を多く見ましたし医療の問題の放送も見ました。
今日はプロフェッショナル 仕事の流儀「すべてを捧(ささ)げて、命をつなぐ〜血管外科医・大木隆生〜」 という番組を見ました。
この番組私の父が亡くなった原因の腹部大動脈瘤を人工血管「ステントグラフト」で名医の大木隆生先生が治療するドキュメントでした。
もう一つ面白い番組みがあって、そりゃ あんまりだ!「お金がないと学べない?」 という番組だったですね。

先日は爆笑問題とノーベル賞の益川教授の話が面白かったですね。
今この世が生まれたのが、ある意味の宇宙のひずみが起こったからですが、その理論を展開し突き止めたのがノーベル賞の受賞した益川さんたちの理論です。
仏教では無常を説くわけですが無常がどうして生まれたのかそれが先端物理学でしょうか。
テラー博士などの最先端の脳理論はまた私や大乗仏教の先人たちの教えに通じるところがあります。
介護などは仏教の慈悲というものなくしては語れないですし、鬱は深層心理なしには語れません、つまり現代医療に直結する話です。

多くの先端科学をつきめれば突き詰めるほど、二千年前に先人が突き詰めた大乗仏教の教えが素晴らしいものだと感じてきます。
科学もそうですが、前から書いてきている日本文化の基盤にある芸術などは大乗仏教なしには語れませんね。

テラー博士のことについてももう少し詳しく書きます。
227 さんも何か聞きたいことがあったら書いてください。
231神も仏も名無しさん:2009/04/30(木) 01:36:07 ID:IlOmuJqx
227です。
スレが落ちそうだったので上げさせてもらいました。
文字には特に意味はありません。

折角なので質問させて下さい。
私は仏鈴を聞くのを始めてから、もうすぐ2年になるのですが、
なかなか自我を捨てられそうにありません。
仏鈴の音は気持ちよく聞こえるのですが、やり方が悪いのでしょうか。
232たか:2009/04/30(木) 23:42:31 ID:kPy9qVSS
227さんへ、
前に、ここに書いてから、三年、1000を目標に書き始めたと書きましたが、実は、223さんの質問を待っていたんです。
私は仏リンを鳴らしてからおよそ二年後に音を観じたわけですが、同じように長い間しているのに何が違うのか、それを自分で感じることが、突き詰めることが必要だと思っていたんです。
突き詰めて初めて自分ではどうしようもない壁とも言えるものに突き当たるものです。
その時初めて自分というものを手放すことができるというものかもしれません。
つまり任せてみよう、任せるしかない、委ねるしかない、というものが自然に出てきます、私はそれが大切なことだと思うのです。
例えば、道元は日本で多くを学び中国でも学びましたが、結局は自分ではどうしようもなくなり最後に出会った如浄に身も心も任せます。
親鸞においても同じく、比叡山を降りて六角堂で百日間こもりますが、ギリギリの95日に迫って初めて自分を手放せてやっと音を観ずることができたのでしょう。この時有名な言葉、観音菩薩に出会ったといわれています。
これは釈迦や、空海、一休、盤珪などの名僧においても全く同じです。
まずはとことんまでいってともいえます。そこにいたって初めて手放せたともいえます。
そして観音の音に出会った、ということです。
まずは壁にぶつかることが大切です。
そうすることで先人の苦労と同じことを体験できるというものです。
先人の言ってることが身にしみて解るというものです。
それがないと、白隠が鐘の音を聞いた後、自惚れに陥ったようになります。
そのため時間がかかっても自分で切り開くことが大切です。

「しかし、そうは言ってもいわれてることを必死でやってるのにいつまでたっても」と227さんだけでなくとも言いたくなるでしょう。
そこで私が思うやり方、自分の体験があります。
明日予定がありますので、今日はこれでやめますが、連休中にこの続きを書きます。


233たか:2009/05/02(土) 21:39:57 ID:Po7pBH0c
私が三年の目標で書き始めたというのは書き始めてもすぐには私の言っていることを実行してみようと思う人はなかなか現れないだろうとも思ったからです。
私が言っていることをやってみようと思うためにはそれなりに納得することが必要ですが、私が書いているような、何も考えずに仏鈴を鳴らすだけ、などという話を知るのも聞くのもほとんどの人が初めてなわけで、なかなか信じられないでしょう。
ですから、音から悟りを得た先人の例を多く挙げて、それを繰り返し読んでもらうことで納得してもらわなければならないでしょう。
もう一つは、少しでもまとまった形で、一つのスレで読んでいただくために少し長い時間をかけないと駄目だろうと思っていたのです。
2ちゃんねるはどこも多くの人が出入りするため、どうしても互いに主張を言い合ってやり取りするため、例え良い内容のことが書いてあってもすぐにそのスレが終わって消えてしまい忘れ去られてしまいます。
結局、大切なことは知りたいことは解らずに、まとまりがなくなり誰も何も得ずに終わっているように見えますのでそれを避ける方法が必要だと思っていました。
ここで、続けて書いているうちに、きっと興味がある人の目に留まって、単に読んで理解するだけでなく、実際に自分でも実行してやってみようとする人がでてき来ることを期待していました。
本当は、仏鈴を鳴らして、私と同じ体験をする人の現れることを期待したところもありますが、まぁそれはなかなか難しいことだろうとも思ってはいました。
なかなかできないのであれば、その人はそのうち何かを言ってくるはずと思っていたのです。
長く続けているということはそれだけ真剣に求めているのでしょうから。
そういう意味で、実は、223さんの質問を待っていたんです、と書いたのです。
234たか:2009/05/03(日) 00:40:18 ID:QUvmsqka
223でなく227さんの間違いです。

ところで、私は、何も考えず仏鈴の音に30秒間身も心も任せなさい、と繰り返し書いてきたわけですが、実際は言うは易く行なうは難しです。
つまり、何も考えずとは、身も心も空っぽにしなさいということです。
これを如浄禅師や道元禅師の言葉で言えば心身脱落、脱落心身、ということになります。
以前、100歳を越えて長生きした永平寺の宮崎奕保和尚のドキュメンタリーがあって、その中で、学ぶという言葉を話していました。
学ぶという言葉は真似るということから生まれた言葉だそうで、先人をまねることから始まるそうです。
学歴を身に付け悟りを極めたいと思い、育ての親の小塩老師の反対を押し切って大学に進んで仏法を学んでいたそうですが座禅をする意味が解らなかったといっていました。
転機はそだてのおやの老僧がなくなったときその死がいを前にして、思い返す中でこの人のようになりたい、この人同じことをしようと思ったそうです。
その後、座禅をする意味を考えることを止め、何も考えず、ただ座るようになったといいます。
余計なことを考えず座る、ただ座る、それを時間をかけて身につけていく、心をなくしていくことが大切です。
227さんが2年近く私が言うように、何も考えず音に身を任せることを続けてきたのなら少しずつ身体も心もなじんでいると思います。

心も身体もなじませるとは、どんなことでもそうですが、例えば仕事などいろんな仕事があるわけですが、初めてその仕事をしてもうまくいきません。
何日もその仕事を続けてすることで、その仕事になじんだ身体や心に自然に対応できるようなものです。
重いものを力を込めて持ち上げる仕事をしていれば筋肉が付いてその仕事や職業に対応した身体になっていくようなものです。頭を使う仕事でも同様にその仕事にうまく身体も心も対応していきます。
30秒間何にも考えず空っぽにすることも同様に、最初はできなくとも長い間続けていればそれになじんだ状態になっていくと私は考えています。
まずは心を空っぽにするその状態にする、実行することが大切です。
日頃の生活をしながらもそれを時々実行し、音のなっているときだけ空っぽ、無心になることはできないことではありません。
まずはその状態を作ること、実践することが大切なのですね。
235たか:2009/05/03(日) 03:03:22 ID:QUvmsqka
仏教の経典には音について書いてあり、それは何を言おうとしているのか、考えていた時、この音は命の音だと思い、きっとこの音は胎児が母親のおなかにいるとき、つまり母体の中での母親の心音を思い出すからだろうと思ったことがありました。
詳しくは解りませんが、密教などではそのような理解をするのでしょうか。
私はそれを否定するつもりはありませんが、見性体験以来その考え方にはありません。
私は、見性体験は、私たちが母親から離れた瞬間、つまり、この世に生まれた瞬間の状態と同じ体験をしているようなものと考えています。
見性体験の仏鈴の音は、いうなれば、私たちがこの世に生まれて初めて聞いた音ということになります。

236たか:2009/05/03(日) 03:04:21 ID:QUvmsqka
この時の生まれたばかりの赤ん坊の状態が、無の状態、無心の状態です。
まさに空っぽの状態です。
身体は当然赤ん坊の状態です、この時生み出された空っぽの身体に大宇宙が飛び込んだ、入り込んだということになります。
でも、ただ生まれただけでは赤ん坊の身体の人形と同じですね。
まだまだ心のない状態です。空っぽです。
この時何らかの音を切っ掛けに、その音と共に、本当の意味で命が動き出したと考えます。
音がきっかけを作って最初の動作をさせたように私は思っています。
それが産声であり、最初に吸い込む呼吸ということでしょうか。
最初の呼吸により、血液に酸素が入り脳神経および全身の神経が激しく繋がり、末端の細胞の一つ一つにまで一つとして動き出したということになるでしょうか。
維摩経でいう、一音が雷鳴が轟くが如し、とはこのことをいいます。まさに稲妻で打たれたが如し。電流が流れるが如し。
この時無心であることは当然ですが、無心の中でこの時おこる心を大歓喜、大いなる安らぎで包まれているような優しさを感じるのでしょう。
私はこの最初に無心の中で生まれた心を「生きる歓び」だと思っています。
生まれて死ぬまで私たち生き物はこの「生きる喜び」に支えられて生きているのだと思っています。
この時同時に自他を区別できない、一体感、無分別智を観ずるわけです。
あらゆる一切と分け隔てられていない一体感、見性の一音とはこの時の音です。
仏鈴の響きだと思っていたのが実は自分自身だったということです。これを無分別智といいます。
梵鐘は中は空っぽ、前に書きましたが、梵鐘は無心の状態の僧を表します。
音の刺激は鐘を撞く木のようなもので梵鐘全体、つまり僧侶の身体、さらにいえば、在家の我々の身体も心も全体を揺らしているのだといえます。
仏法は一音なりとはこのことを言うのです
237たか:2009/05/03(日) 03:05:36 ID:QUvmsqka
ところが生きるとはたやすいものではありません。
ですから、厳しい中で自分を守るため生きていくため、成長するにしたがって自分と他を区別することを身につけます。
つまり自我を身につけ、言葉や知識と共に自我を積み重ねて、他と自分を分けてうまく生きようとします。
自他を分けることは生きていくために必要だから身に付けてきたわけですが、自分に都合よくいっているうちはいいのですが、それが逆に苦しみをもたらす原因にもなります。
本来からある生きる喜び、無分別智の心はすっかり自我に覆われてしまい、すっかり忘れ去られます。

悟りとは心を覆い尽くしている自我をいったん捨て去り消してしまい、生まれた瞬間のこころに気づくことなのです。
彼岸に渡るとは、元々の自分に気づくことと言えます。。
つまり生きている喜びをしる、おもいだす、心全体で観じとることが大切です。

238たか:2009/05/03(日) 15:03:27 ID:QUvmsqka
ところで、2年もやっているのに言われたとおりにやっているのにどこが違うのかということですが、できればそれを自分で見つけてほしかったわけですがなかなかうまくいかないでしょうね。
座禅をしてもそれなりに気持ちいいし、私が言う仏リンを使ってもそれなりに心地よい、でもそこから一歩先にいかないということでしょう。

音を聞けば意識的無意識的にかかわらずかってに耳で聞こうとしてしまいます。
見ることも同様に、目で見ることを意識してしていしまいます。
書いたように、目でよく見ること、耳でしっかり聞くこと、匂いや味を感じてこれがよいものかどうか観察することは生きていくために大切なことです。
しかし、その観察したものが知識そして言葉、記憶として私たちの中に残り、それによって良い悪いの判断をします。
そして、過去にあったこと、これからおこることと実際とは違うことをかってに作り出し心や身体に大きく作用することが起こります。
この過去や将来をかってに思い込むことを止めさせ、今そのままに戻すことが大切であり、その瞬間の現実の身体と心を一致させることが大切です。
そのためにはまずは、考えることを止めてみる瞬間を作ることが大切なのです。
言葉や知識をなくしたとき、言葉や知識に隠れていたものが一瞬にして浮かび上がります、これを頓悟といいます。
この時浮かび上がる生きる喜び、自然に身体の内部から沸き起こってくる生きようとする働き、こころを知ることが苦を克服するために大切です。

これを知る為にはまず、私たちが過って同じ体験をした状態に戻すことがよいといえます。
つまりその時と同じ状況を作り出すことが大切だということです。
過っての同じ状態とは私たちがこの世に生まれ出た瞬間です、その状態を自然なかたちで作り出すということです。

前にも書いたようにおそらく音を切っ掛けに呼吸がはたらき、神経活動が全身の細胞の一つ一つにまでに響き渡りました。
この時の音は必ずしも意識して耳で聞こうとしたのではありません。
ただ飛び込んできて私たちを生命を刺激したのです。ぶら下がっていた釣鐘がかってに打ち付けられて響きだしたのと同じことです。
音を切っ掛けにして呼吸が始まったのならそれと同じことをすればよいということです。



239たか:2009/05/03(日) 15:31:56 ID:QUvmsqka
竿頭進歩(かんとうほをすすむ)という公案があったりするわけですが、一歩先に進めるためには何が必要なのかということです。
ただ座っているわけでは、ただ音を聞いているだけでは気持ちいいだけです。

223さんへ、
>>232で、これは釈迦や、空海、一休、盤珪などの名僧においても全く同じです。と書きましたが、彼らと同じことをすればいいのではないでしょうか。
音と呼吸は共にあります。
釈迦も空海も星が飛び込んできたというし、盤珪も梅の香りが飛び込んできたのです。どうでしょう、解りませんか。
240たか:2009/05/04(月) 12:37:21 ID:9kAfKdPW
あくまで想像ですが私は釈迦も空海も盤珪も見性した時にはその直前に何らかの音があったと思っています。
もしかしたら小石がちょっと転がったほどの小さい音だったのかもしれません。
逆に香厳和尚が庭掃除の時に小石を飛ばしたときの竹に当たった音の時にはハッとして思わず息を飲み込んだ、吸い込んだと思っています。
曹洞宗曹洞禅ネットのコミックスのなかに道元さまというのがあってその中で道元が見性する場面があります。
座禅をしていたとき隣の僧がいねむりをしてしまった、それを見た如浄が馬鹿者を大きな声で叱ると同時に持っていた杖を床にドンと撞いた。
その瞬間ですよ、道元が見性したのは。
おそらくこの時の声と音と、ハッと吸い込む呼吸、これです。

多くの先人は修行の中でそのタイミングに出会うのを結果的に待つわけでしょうが、それではなかなかたいへんです。
自然の音や偶然の機会に出会うのはたいへんでしょう。
私が仏リンを使うのはその音に出会う機会を増やすとでもいうでしょうか。
何も考えないことで音に身を任せることを繰り返しながら見性に見合った状態に少しずつ近づけていくといえます。
241たか:2009/05/04(月) 12:56:40 ID:9kAfKdPW
まぁ、こんなことを聞くのはほとんどないと思うのでなかなか信じられないでしょう。
多くの人は誰か他の人が言ったことをいままで自分が溜め込んできた知識に積み重ねることばかりしているのです。
逆なんですよ。全く逆なんです。
言葉や知識を音と呼吸と共に落としてしまうんです。この時こそ心身脱落、脱落心身ですよ。
心を、ストンと落としてしまう、払い去ってしまう、捨て去ってしまう、つまり無心。
ところが、無心即菩提心です。
242神も仏も名無しさん:2009/05/04(月) 14:40:03 ID:OukXsOS4
私は227さんではありませんが、私も壁にぶつかって長いです。
徹底的にしてもその壁は破られません。
無心の無心、これ以上どうすることもできないし、放棄しつくすまでにいってもだめです。
そこから先に行けませんし、どうすることもできないです。
まして知識なんてものはとうの昔に捨ててます。
もうお手上げです。
243たか:2009/05/04(月) 19:12:29 ID:9kAfKdPW
242さんへ、
>>徹底的にしてもその壁は破られません

まぁ、早く諦めることです。
こんなことをいうと怒られそうですが、案外早い方法です。
釈迦の教えで四諦と言うのがありますが、なんで覚りに諦めの字を使うか解りませんが、案外この諦の字が真理をついてるのでしょう。

どうにかしてやろう、自分で、などと思っている間はなかなか難しいのでしょう。
これを先人は他力と言う言葉を使って言い表します。
是非、お手上げしながら続けてください。

だいたい釈迦にしろ、自分でどうしようもなくなって、諦めて、やっとですよ。
名前を挙げた人たちは皆そうです。
誰一人、悟った後に、俺が自分で切り開いたなどという人はいないですよ。
言っているのは、詐欺しか、新興宗教の教祖とその取り巻きだけでしょうか。

お手上げを続けていることです。気楽なもんです。これ、自由自在かもしれません。
244神も仏も名無しさん:2009/05/04(月) 23:32:01 ID:OukXsOS4
そのお手上げも随分長くしてるつもりなんですけどね。
まだまだ未熟なようです。
245たか:2009/05/05(火) 00:41:58 ID:tQkVRGCp
まぁ、気休めで言うつもりはないですが、多くの名僧も皆時間がかかってます。
ぶつりんをならしたあと、深く強く息を吸い込んでみてください、音を吸い込むがごとくです。
耳で聞こうとするのではありませんよ、音を吸い取るごごとくです。

前にも言いましたが仏リンがなければ、それはそれでかまいません。
トイレの流した水音でもよいし、鳥の声でも、鐘の音でも、・・・。
ただ、自分が思ってもいないときに突然起こるのでしょうね。
だから構えて意識してる時には起こらないのでしょう。

この仏リンを鳴らした後、強く息を吸い込んだのは、私の体験談です。
ですから、ここに大きな意味があると考えています。
246たか:2009/05/05(火) 13:46:34 ID:tQkVRGCp
>>230でノーベル賞を受賞した京都産業大学の益川教授のことを書きましたが、その再放送を土曜日にたまたままた見ました。
面白かったのですが、その中でこんなやり取りがありました。
僕はね、机に向かうと、黒板に向かうと、思考がパタッと止まる。僕はね喫茶店に入るのが好きなもんだから、ざわざわしているのが好きなの。

爆笑問題の太田さんが、いくつぐらいからアインシュタインの相対理論を理解したんですかと聞いたところ、次のような話をしてました。
特殊相対性理論というのはあそこに書いてあることは高校生に理解できるような数式しか書いてない。
だからねそこにね、、そこにいっていること、例えば、動いている人から見たらね、時間というのはね伸び縮みするんだということを普通経験していないから理解し難いじゃない。
それを式に書いてあることが起こってるんだということが理解というか、信じれるかどうか、それが難しかったということ。。
書いてあることは難しいということではない、それが実感できるかどうか。

なるほど、書いてあることを理解するということではなく、実感し納得できるかどうか、ということでしょう。
仏教の経典に書いてあるのを理解しようとすることは勿論ですが、その先を実感し確信する、似たような感じでしょうか。

ところで、前に書いたテイラー博士の番組は私が考えていたことと同じですね。
考えること、思考をとめた時、仏教で言う見性と同じような安らかな思いが起こる、これは自分の体験とそこから続く考えが思っていたとおりでしたね。
是非とも、ここを読んでくださっている方にはこの番組を見てほしいですね。
また植物状態からの帰還も見てほしいですね。
これはね、今問題になっている、介護問題、福祉問題、医療、治療に最も通じる解決の糸口になると思いますね。

247たか:2009/05/07(木) 22:04:02 ID:fYhsyswF
今総合テレビでテイラー博士の再放送を放送してます。
是非見てください。
248たか:2009/05/10(日) 21:20:59 ID:f/UCduV0
ジル・テイラーさんの話では知識・言語能力をつかさどるのが左脳・左脳半球で、自然との安らぎ・一体感など彼女の言う涅槃は右脳、右脳半球ということだそうです。
確かにそういうことは言えそうですが、でも必ずしもそれにこだわる必要はない様にも思います。
実際左脳の一部が損傷した場合はしばらく後に他の部分がその働きを補完しようと動き出します、ときには右脳が代わりをする。
まあ、逆もあるのでしょう。
空っぽ停止した脳を再びはたかせようと刺激するものがあります。
それが周りの人たちの優しさでしょうか。
ただただ、一緒にいたい、一緒に生きてほしいという心でしょうか。
その心がその壊れた脳をそして身体と心を働かせようと刺激する。

ジル・テイラーさんの母親、「私の声が聞こえますか〜植物状態からの帰還〜」の番組の中の患者さんたちを見守る家族の人たちの優しさ、寄り添う心が患者さんたちの心と身体を刺激し回復させていました。
周りの人たちはただ寄り添って、優しく言葉をかけてあげるだけです、まさしく赤ん坊に対するがごとくです。
ただ寄り添うしかないんです、ジルさんの母親の言葉です。

この時、多くの人が、特に人の声や音、音楽で強く刺激を受けてるように見えます。

そして、「私の声が聞こえますか」のなかで植物状態の女の子が少しずつ回復していき、自分で「かえるの歌」をキーボードで弾いたのには感動しました。
植物状態で何も感じていないように見えても、実は真っ先に音だけは感じ取ってるのかもしれません。

多くの人たちが昏睡状態の中で、人の声で反応したかのように涙を落とすことがあります。
父と最後の時父が私たちの呼び声に涙を落としたそういう体験が私にもありますが、きっとその声が父の心に響いていたのではと思うのです。
249たか:2009/05/18(月) 22:55:08 ID:CxR7CiLD
確かに、人は右脳、左の脳で分かれているわけですが、しかしそれにこだわりすぎてもいけません。
生まれて息を始めた時には脳全体、身体全体、あらゆるところが激しく動き始めるわけで。
世の中、見渡せば全ての生き物が脳があるから、左脳、右脳で生きているんだなどということではないはず。
脳のない動物も植物も細菌などもうまく周りの変化に対応して生きてまたその生き物なりにその心をつないでいるわけで、そこを忘れてしまうと本来知るべきことを忘れてしまいます。
確かに人間は進化の上で複雑な能力を身につけてきてその能力をうまく統合・機能するために脳の中で分業化しその部分がその能力を強めてきたのかもしてません。
例えば世の中では右利きの人が多いわけですが成長の中で右腕を使うことで特に右腕の能力が強まるようなものかもしれません。
世の中には左利きの人も多くいて、また、右手を失うと右手の機能をカバーするように左手の機能が高まるように働くように動き出すということもあります。
脳の機能も同様なものかもしれません。
左脳を高めるように働かせればその能力は高まるかもしれません、ただし、そこには落とし穴があることも事実です。。
本来から持っている、自他一体、不二一体、そしてその心を忘れる危険があります。
まずは本来の自分を知ることでそのバランスをとる、バランスが取れることが大切なのでしょう。

仏法でいう悉有仏性とはそういうことでしょうか。

250たか:2009/05/18(月) 23:46:49 ID:CxR7CiLD
今、興福寺の阿修羅像が東京で公開されていて多くの人が列をなして見に行ってるようです。
先日テレビを見ていたらワンダー・ワンダーという番組で詳しく放送していました。
阿修羅像は最も人気のある仏像のひとつですが、なるほど正面の若々しい素直な表情の顔だけでなく左右の顔の表情のなかなか意味ありげな、ひきつけられるものがあります。
この番組で見ていて思い浮かべたことがあります。
それは何かというと、髪型です。
実は阿修羅像を見ていて、前に書いた岩手の田舎の観音菩薩の髪形を思い出しました。
当たり前のことですが、観音菩薩も阿修羅像と似たような髪形をしています。
髪を束ねて頭の上でまとめています。

多くの菩薩は観音菩薩と同様に髪を頭の上で束ねています、髪のない菩薩で私が思いつくのは地蔵菩薩ぐらいでしょうか。
菩薩といえば悟りを得た、仏陀つまり如来に一番近い存在のはずなわけですが、髪がいっぱい生えているわけです。
覚りに一番近い人は誰かというと、普通は、出家した僧、つまり髪に毛を剃った僧なわけですが、菩薩のほとんどが髪があります。
これの菩薩の姿を坊さんはたいていは出家する前の釈迦の姿なのだと説くわけです。
それを聞いて、なるほど、などとたいていは納得するわけですが、よくよく考えれば変な話で、出家する前の悟ってもいない姿にみんなで手を合わせているわけで。

何を言いたいのかというと、この姿に大乗の考えが現されているのではないかとということです。
つまり、前にも何度も書きましたが、観音菩薩は在家のつまり出家僧ではないということです。
音によって観じた菩薩ですが、この菩薩の髪形には出家、在家にかかわりなく、悟り、見性を得られるのだという大乗の慈悲の心が表されているのではないのかと私は思っています。
あらゆる衆生が覚りに至れるのだ、彼岸に至ることができる、これこそ、般若心経で観自在菩薩が説くところでしょうか。
251たか:2009/05/20(水) 23:58:16 ID:xvVv+HgY
昨日の夕方仙台のテレビ局の地方ニュースで新しく開発された足こぎ車椅子が紹介されていました。
脳卒中で障害が残って立つことがままならないおばあさんが初めてその車椅子に乗ったのに自分の力でスイスイ車椅子を動かしてました。
このおばあさん半身が不自由で手を添えてもらわないと歩くことができないのです。
この車椅子、片足が動けば動かせるようです。
車いすに座っていて片足を踏み込むと逆の不自由な足もペダルを踏んでいる要領で前にでて車いすが前に進む。
このおばあさんはこの車いすの感想を聞かれて凄く喜んでいました。この車いすはその場で自分の力で回転もできてました。

何故こんなことができるのか、の説明もあって、なるほどと思いました。
普通体を動かすのは脳の指令で行われるのでしょうが、脳に障害をおっている人はその機能がうまくいかなくて動かない。
ところがこの車いすの患者さんは脳の司令で足を交互に動かしているわけではないそうで、足を動かしているのは足の動きが脊髄の反射運動機能で動いているのだそうです。
たとえば、赤ちゃんを両手で両脇を抱え上げ赤ちゃんの両足を床につけると赤ちゃんは歩き出すように交互に足を前に出そうとするそうです。
これを原始歩行というそうで、足に司令してるのは脳ではなくその途中の脊髄がかかわって動かしているそうです。
この車いすを使う脳卒中の患者さんはこの原始歩行をうまく使っているということだそうです。

私たちは全て脳を通して体を動かしていると思い込んでいるわけですが、そうでない働きでも自然に体を動かしていんだということを気づかされました。

この車いすは来月から発売されるそうで、注文が多くて生産が間に合わないとかいっていました。東北大学の客員教授が開発したそうです。
252たか:2009/05/24(日) 21:53:46 ID:yMc2H7ga
阿修羅像を見ていて岩手の故郷の観音菩薩を思い出したわけですが、特に注目したのが阿修羅像は彩色を施されていたということです。
そういえばと思って、昔、故郷の観音菩薩を撮った写真を見つけました。
正面、側面、後ろ姿など10枚くらいあってなるほどと眺めていましたが、この仏像改めてみてみるといろいろと感じるところがあります。

聖観音菩薩坐像、普通ある観音菩薩とは少し雰囲気が違います。
253神も仏も名無しさん:2009/05/25(月) 20:29:51 ID:4/dEwQsS
たかさんに質問なんですが、坐禅しているとき、うまくいくときといかないときがあるんです。
そういうときはないですか?
254たか:2009/05/25(月) 23:40:24 ID:98FN06HT
253さんへ、
前から書いているように、私は坐禅をしません。同じように念仏もしません。
それでいて、座禅だ、念仏だ、慧能だ、一休だ、道元だ、親鸞だ、法然だ、などというのはおかしいのではないかといわれそうですが。
私がやったことはただ一つ、仏リンを鳴らして何も考えないようにしたぐらいのことです。
まあ、付け加えればある時仏リンを鳴らしたすぐ後、息を少し強く吸い込んだぐらいのことでしょうか。
ですから、253さんのいう、、坐禅しているとき、うまくいくときといかないときがあるんです。、、ということへの返答はうまくできません。
私より座禅の事は座禅の専門家に聞いたほうがいいでしょう。
私はそもそも、座禅も、念仏も、頭になかったというか、特に座禅など私にできるはずもないと思っていたのです。
仏リンを鳴らしてもそうそうなかなか空っぽにはできないんですから、たった30秒間でもですよ。そんな人間です。
しかし、だからこそ、30秒間ぐらいなら自分でもできるはずと思ったんですね。
ましてや、体を動かさないで何十分もじっと座っているなんて到底私にできるがずがないわけです。

たった30秒ですが、さっきはうまくあまり考えなかったナとか、やっぱりまたいろんなことが出てくる、などと繰り返しながら続けている。
そのうち、そういうことを思っていることもどうでもよいというか、諦めたとでもいうか、そういうときが来る様な気がします。
そういう時でしょうかね。
まぁ言葉で言ってもなかなかうまくは言えませんが、そういうものに拘らなくなったというか、とらわれなくなったというか、どうでもよくなったというか。
つまり仏リンを鳴らしても仏リンの音をどうにかしようと思わなくなったというか。
おそらく、坐禅も同じなのかもしれません。
坐っていながら、坐っていることに拘る意識があるとなかなかうまくいかないのでしょうか。
坐ることに拘らずに坐るというか。そういうことでしょうか。
255たか:2009/05/26(火) 00:09:38 ID:LPKZ//fR
私は繰り返し、仏リンを書くわけですが、しかし、実は、私は見性の後この仏リンの音に拘っているわけではありません。
あらゆる一切の音、我と共にあり、というところでしょうか。
私が初めて接した阿弥陀経に音の世界が描かれているわけですが、なるほどというところがあります。
前に書いた脳卒中のジル・テイラーさんも同じことを言っていましたが、覚りに至った人たちの多くも同じことを言っています。
鳥の声、水の音、そよぐ風の音、ほうを過ぎる風の冷たさ・暖かさ、皆、我と共にあり、でしょうか。
息をいっぱい吸い込んでごらん、ということでしょうか。

音から無分別を智る、無分別智ですが、あらゆる一切との不二一体ということを知るということです。
これにより、誰もが存在しているということです。
ここから、生きる喜びも知れば、慈悲ということも知る。
あらゆる教えの根幹がここにあったと知ることになります。

強く深呼吸をすると、一切を忘れて身体全身がそれに反応するのかもしれませんね。
256たか:2009/05/26(火) 00:51:14 ID:LPKZ//fR
私など、六祖慧能禅師のことなど全く知らなかったわけですが、よくよく考えてみれば似てるところもあります。
勝手な想像ですが、なんといっても一番は仏教をとよく知らなかったということでしょうか。
ほとんど知識はないため余計なことはしなかった。
多少の経典は読んだけれど、そもそもがないからほとんど理解できないわけです。
ああ、こんなことが書いてあるんだ程度です。
私など僧侶に接することもないから仏教知識も無いわけです。
ある時何らかの体験をする、それがどういうことか知りたくなる。
多くの普通の人達の中にもそういう体験をする人はきっといるのでしょう。
しかし、ほとんどの人は探求しないのでしょうね。
でも、ここから、先人の教えが大切になります。
この大乗の教えをたった一音聞いただけで自分ひとりで解き明かすなんて一生かかってもできませんよ。
先人の探究心があってこそ、素直に納得して短期間で理解できるのです。
逆に言えば、その先人たちの教えの面白さ、違いも納得しながら理解できるというものです。

知識が先行してしまうとどうしても偏った考えに引っ張られてしまうことは多く拘らずに見ることがついついできなくなるのでしょう。
257たか:2009/05/27(水) 23:28:10 ID:xeVNicXl
坐禅をしていながらも坐禅に拘らない、念仏していながらも念仏に拘らない、でもね、最初からこれをいったら何がなんだかわからない。
だからいろんな理由付けしたりしながら見性に導こうとする。

風が吹いたら風と一体ですよ、そんなの、座っていようが立っていようが関係ないじゃないですか。
余計なことを考えてるかどうかの違いでしょう。
坐禅で見性したと思ってる人はそれが楽しいからそれをやってる、念仏も同じですよキット、きっと念仏が楽しくなるのでしょう。
258たか:2009/05/27(水) 23:58:23 ID:xeVNicXl
法然の弟子たちの間で念仏をどのくらい言ったらよいか論争があったそうな。
心からの念仏なら一回でも良いとするものと、とにかく念仏を言い続けることがよいのだとするものと分かれたという。
以前、浄土宗の坊さんのホームページを見てたら、私は一日に六万回念仏を唱えなければならないのになかなかできない、と嘆いてる人がいて今でもこんな人がいるんだと思って笑ってしまいましたが世の中にはいろんな人がいるものです。
親鸞はどちらかというと一回派というようなことをきいたような気がします。
一度でもこれだというものがあって、そして多くの先人も同じような体験がありそれが納得できるならそれで良いと思いますがね。
何万回しなければ、仏に救われないなどと思うのは本末転倒してますよ。
一日じゅう念仏してても追いつかないですよ、こんなの苦行以外の何ものでもない、仏が全ての衆生を救うという話がいつの間にか全く逆の変な話になってしまっていたりする。
笑えるような話でも本人たちは結構真剣だったりするもので、一度はまり込むとその間違いに気づかなかったりします。
259たか:2009/05/28(木) 22:22:38 ID:xl1qylWl
今は仏像ブームといいますか、上野の阿修羅像の展覧会にも多くの人が押し寄せているとか。
一方、仏像を盗む人もいて寺も、仏像も安心していられない時代になりました。

岩手の故郷の聖観世音菩薩坐像も、昔、二、三度盗まれたことがあって遠くの町まで引き取りに行ったことがあったと祖父の妹、以前書いた祖父さんの墓参りに一緒に行って竹を地面につついて「墓参りに来たよ」といっていたお婆さんに何度か聞いたことがあります。
この観世音菩薩と共に家系図も盗まれたんだといって悔しがっていましたが。

ところで、NHKの阿修羅像の番組を見ていて作られた当時この阿修羅像に彩色が施されていたのではといっていました。
それを聞いて、故郷の観音様を思い出しました。
この菩薩を以前写真に撮ったことがありました。
前後左右10枚ちょっとでしょうか、今も手元にあってそれを再び見てみました。
予想どうり、この観音菩薩の頭部に朱色や茶の色彩が残っています。
最もそれ以外のところは黒いだけですが。
阿修羅像と同じく薄い衣を羽織っていて上腕には彫刻も見えます。
髪の毛も一本一本丁寧に彫られていてその髪を束ねているのが朱色のもののようにみえます。
顔は面長、万度も拭かれてきたのか特に黒く見えます。
座しているものの、ほんの少し前に身体が傾いています。
左右の手を胸の前に少し差し出して蓮のつぼみのある茎を右手を少し上に上げて両手のひらで優しく抱えているようです。
260たか:2009/05/28(木) 22:30:34 ID:xl1qylWl
この写真今まで何度も見ていたのですが、改めてじっくり見ていて気づいたことがあります。
気づいてみて「あっ、そうだったのか」という思いです。
そう思って、観音菩薩坐像、観音菩薩坐像をインターネットで検索してみましたがこのような姿の観音菩薩は見つかりませんでした。
261たか:2009/05/29(金) 21:23:43 ID:LQ8k51Wp
蓮華のつぼみをそっと優しく胸の辺りに持ち上げてじっとそこし顔を前に傾けている菩薩の姿があります。
その目線はやはり手に持った蓮華です。。
蓮華を手にしながら、何か思いにふけっているようにも見えます。

蓮華のつぼみは観世音菩薩の象徴のようなののでしょうか、そしてまた、仏法の象徴です。
もし、この蓮華が生きとし生けるものとしたなら、菩薩は無言で優しく見守っているようにも思えてきます。
この姿に気づいて、最初に浮かんだのが弥勒菩薩半跏思惟像でしょうか。
何はともあれ、静かな中にじっと思いをめぐらしているように見えます。

インターネットで観音菩薩坐像を検索しましたが似たような観音菩薩像はありませんでした。
この仏像、すぐ近所の人もほとんど知らない仏像です。

262たか:2009/05/29(金) 22:05:12 ID:LQ8k51Wp
蓮華を手に持ってそれを静かに見つめてる姿、考えてみれば菩薩の慈悲というものが一番わかりやすくて、仏像のかたちとして一番ありそうなものですがそれがなかなかないです。
ふと、この仏像の作者は何を伝えたくてこの仏像を彫り上げたのか興味がでてきます。
それと同時に色が剥がれ落ち、ところどころ激しく傷んでいる仏像ですが、これが作られた当時どんな色彩の仏像だったのだろう、どんな思いで伝えて継がれたのだろうと思います。

人は作品を作るときその心をありのままに作品に織り込みたいと思うのでしょうか。
以前、夏目漱石の「門」という小説に禅の場面が出てくることを書きました。
禅スレの587ですが、その中で主人公の宗助が鎌倉円覚寺の釈宗演に参じて、父母未生以前の本来の面目を見てこいという公案を与えられた場面があります。
その宗助の返答に、老師は
「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」とたちまち云われた。
「」
宗助は喪家《そうか》の犬のごとく室中を退いた。後に鈴《れい》を振る音が烈《はげ》しく響いた。
知識や学問それらをいくら寄せ集めても、老師にとっては、そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える、程度のもの。
知識、学問を一切捨てきって、一歩前に出ないと老師を唸らせられないでしょう。
後に烈しく響く鈴の音。
この音、老師の励ましの音なのでは。

きっと夏目漱石は老師の烈しく響く鈴の音を書きたかったのではないかと私は思います。

どの作品でもそうですがその作者の心が反映されます。
その心に触れた時、人は感動するのでしょう。
いくら作品を多く読んでも、作者のその心の真髄に一度でも触れるのには及ばない気がします。
これは大乗の経典においても同じですね。
263たか:2009/05/30(土) 11:13:10 ID:9tIdLGR1
古い仏像はどれも金箔がはげたり色が変わったり彩色がはげたりするものが多いですが。
先日、ワンダーワンダーという番組で最近江戸時代の浮世絵の版木がたくさん見つかって江戸時代の色が再現されていました。
今残っている浮世絵と版木から再現された絵とでは色鮮やかさでは比べ物にならないくらい再現されたものは色鮮やかです。
赤や紫は年数や、紫外線で色が抜け落ち変色してしまっているのが解ります。
>>20でボストン美術館の浮世絵スポルディング兄弟の収蔵品のことを書きましたが、まさにそのとおりです。
それを思い出して、またまたぜんスレの648で書いた長岡の花火師嘉瀬誠次さんが持っている山下清の色あざやかな長岡の花火大会の貼り絵もを思い出しました。
折り紙をちぎって貼り付けた絵のため月日が経るにつれ紫外線などの影響でほとんどの絵が色を失っているわけですが嘉瀬さんの絵は今でも色鮮やかだったですね。
清はこの色、そしてこの花火の飛び出す音に観じたんだと思ったものです。

誰も知らない岩手の観音菩薩も今の場所にあったのではなく、また、元は光背があり蓮華座に座っていたのかもしれませんが今はそれもありません。
それでも、その心をどうにか伝えようとした人たちがいたといことで今に伝わっています。
でも、それを思うにつけ制作当時どのような色彩の、どのような場所に置かれていた仏像だろうと興味がわきます。
264たか:2009/05/30(土) 11:17:19 ID:9tIdLGR1
蓮華を見つめる菩薩に、そのことに気づくと慈愛という字がより一層輝いて感じられます。
265たか:2009/05/31(日) 15:26:07 ID:JFokVbim
>>261で聖観音菩薩坐像の姿・顔で広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を思い出したと書きましたが、広隆寺の弥勒菩薩像も元は総金箔張りだったようですね。
元々はキンキラでこうごうしかったのでしょうが、今はすっかり金箔は取れて優しく落ち着いて思案している雰囲気が感じられます。
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像も、興福寺の阿修羅像も仏像の中ではトップクラスの人気のある仏像ですが、それはもしかしたら色彩や金箔などことごとくを削ぎ落とした姿に人を惹きつける魅力があるのかもしれません。
私には岩手の仏像にも同じようなものをその表情の中に感じます。

前スレから絵画や俳句、茶道など多くの人たちやその作品を書いてきました。
そのほとんどが国宝や世界的にかっっさくとして誰もが賞賛するものです。
同時に、その全部が極限に余計なものを削ぎ落とした作品とも言えます。

芭蕉の、蛙飛び込む水の音も、俳句の名作のトップでといえますし、同じく正岡子規の、柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺も、誰もが知るこれ以上削れないシロモノです。
利休の造った国宝「待庵」は広さたった二畳でまさに削ぎ落とせるところは削ぎ落とした空間です。
私がここに書こうと最初から思っていた長谷川等伯の「松林図」も松だけの墨絵であり、マティスの「ダンス」も極限までそぎ削って逆に溢れんばかりの生きる喜びです。
はじめて見た時誰でも描けそうな絵だとも思った、久隅守景の国宝「納涼図」もそうです。
例を挙げればきりがないので止めますが、その全てが見る者の心を打ちます。
266たか:2009/05/31(日) 15:30:48 ID:JFokVbim
>>265の訂正
>>261で聖観音菩薩坐像の姿・顔で広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を思い出したと書きましたが、広隆寺の弥勒菩薩像も元は総金箔張りだったようですね。
元々はキンキラでこうごうしかったのでしょうが、今はすっかり金箔は取れて優しく落ち着いて思案している雰囲気が感じられます。
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像も、興福寺の阿修羅像も仏像の中ではトップクラスの人気のある仏像ですが、それはもしかしたら色彩や金箔などことごとくを削ぎ落とした姿に人を惹きつける魅力があるのかもしれません。
私には岩手の仏像にも同じようなものをその表情の中に感じます。

前スレから絵画や俳句、茶道など多くの人たちやその作品を書いてきました。
そのほとんどが国宝や世界的に傑作として誰もが賞賛するものです。
同時に、その全部が極限に余計なものを削ぎ落とした作品とも言えます。

芭蕉の、蛙飛び込む水の音も、俳句の名作のトップでといえますし、同じく正岡子規の、柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺も、誰もが知るこれ以上削れないシロモノです。
利休の造った国宝「待庵」は広さたった二畳でまさに削ぎ落とせるところは削ぎ落とした空間です。
私がここに書こうと最初から思っていた長谷川等伯の「松林図」も松だけの墨絵であり、マティスの「ダンス」も極限までそぎ削って逆に溢れんばかりの生きる喜びです。
はじめて見た時誰でも描けそうな絵だとも思った、久隅守景の国宝「納涼図」もそうです。
例を挙げればきりがないので止めますが、その全てが見る者の心を打ちます。
267たか:2009/05/31(日) 21:07:30 ID:JFokVbim
岩手の聖観音像の全身黒い姿も全てを落とした姿でしょうか。
両手にそっと持つ一輪の蓮華もただ黒いだけですが、そっと優しく見つめる菩薩の心が感じられます。

無門関に世尊拈花(せそんはなをねんず)という公案があります。
釈迦が一輪の花を大衆に差し出したとき二祖の迦葉のみ微笑んだということです。
「私には正しい真理を見る眼、説くことの出来ない悟りの心、無相であるが故に見ることの出来ない不可思議な真実在がある。
それを言葉や文字にせず、教えとしてでなく、別の伝え方で摩か迦葉に委ねよう。」と釈迦が言ったとか。

観音菩薩を釈迦に例えれば、さしづめ花を差し出す直前の釈迦のようにも見えます。
蓮華のつぼみを観音菩薩に差し出されたならニコッと微笑んでみましょうか。
きっと蓮華のつぼみが開いて綺麗な華を咲かせるかもしれませんね。
心配している観音菩薩も微笑み返すかもしれません。

心が心に伝わる、心が心に伝わっていく、この蓮華のつぼみはその心を表しているでしょうか。
268神も仏も名無しさん:2009/06/03(水) 08:54:21 ID:Fqwjo2xC
たかさんは見性してから生き方変わりましたか?
269神も仏も名無しさん:2009/06/03(水) 18:15:37 ID:W+DJBNmJ
>>261を読んでいたら涙が出てきました。
いつも読ませてもらってます。
ありがとうございます。
270たか:2009/06/04(木) 21:22:43 ID:fS+4XNoT
268さんへ、
見性といっても、そもそも仏教の教えのとおり、その真っ只中にいることを観ずる、または気づくことですので本質的に何か特別に変わるものではありません。
同じく、特別な能力がつくことでもありません。
よく凄い能力がつくようなことをいう人がいますが、そんなことではありません。
もし特別な能力が身につきその能力で多くを救えるならもっともっと世の中は良くなっていたのかもしれませんが、仏法はそういうことを言っているのではありません。
例えば、観音菩薩が蓮華の花を寄り添って見つめるように、無言であっても寄り添って見守ってあげるということが悩み苦しむ人の心の支えとなり人の心に生きる力をおこささせているということに気づくこととも言えそうです。
人は人、自分は自分、他人は他人、環境は環境、自分は自分、ではないということでしょうか、これもまた不二一如、不二一体ということです。
あらゆる一切が一の如く、自他分けられないものとして気づく、この中に、涅槃寂静もあり、慈悲もある。つまり無常といって常に変化し続けている中にこそ、それがあったということですね。
その中にいて苦難もあるけれど、それに勝る生きる喜びを見出せることもできるし、それを伝えることもできるというものではないでしょうか。
だからこそ、仏教という事を抜きにしても、ズッと後に師の言葉や言葉に感動したり、師匠や先人の作ったものに後になってその素晴らしさ巧みさに気づき感動もする。
一般家庭でも同じように、親の姿や言葉が好きではなかったのに、何かを切っ掛けに全く逆に心をゆすられることがあります。

テレビを見れば、書籍を見れば、多くの宗教学者やその評論家は、死んだ後も続く不滅の霊魂を説いたりしますが、私は全く違います。
同時代に生きた人は心が伝わるのは勿論ですが、先人の心に触れた時、それもまた自分の心に沸き起こるものだと思っています。
この世に生まれて生きる喜びを観じながら生きることは勿論大切なことですが、同じく大切なことは自分が意識しているか意識していないかにかかわらず、人の心に影響を及ぼしているのであり、特に他の人の生きる勇気と生きる支えになっていることは間違いないように思います。
ここに、生きる意味、生まれてきた意味、があるのかもしれませんね。
271たか:2009/06/04(木) 21:52:14 ID:fS+4XNoT
先人の心に触れる、これは私がここで繰り返し書いてきたことともいえます。
私は少しもそんなことを知りたくて始めたわけではなかったのですが、音を通じて、なるほどこの人たちは、こう考えてこのように伝えたのかと感動し驚きます。
ですからここを読んでいただいている皆さんにも是非そのように観じていただきたいと思うのです。

それには、まずは小難しいことは抜きにして、私でもできた簡単なこと、ということで始めたわけです。
昨晩教育放送で華厳経のことをやってました。
奈良の大仏、そして、多即一、一即多、華厳経の世界観を話していました。
でもこれは華厳経だけのものではありません。
維摩経の不可思議解脱の教えは、将にこのことです。
この不可思議解脱の教えの切っ掛けが、一音です。

先日別なところに書いたのをここにも載せたいと思います。

今の季節、水田では田植えも終わって水が張っているでしょうか。
さしずめ、月でもでれば、その田んぼの一枚一枚に月の光が入り込み、それぞれ輝いて見えます。
天の月はそのままにして、この一枚一枚の田んぼは勿論のこと、我々人間それぞれ自身にも月の光は届くというものです。
最も天の月もまた変わらぬようでいながら常に変化し田んぼの水面に映る月の差し込む光もその角度も時と共に変化し続けるのは先人の説く無常ということでしょうか。

我々一人一人もこの天の月と同じように周りの人たちの心に映っていることでしょう。
我々自身それを意識している、意識してないにかかわらず、周りの人の心に映し出されているということでしょうか。
道元は如浄のもとで悟った後、中国に留まるように言われたそうですが日本に戻ってきた。
何故なのか。
釈迦もまた、菩提樹の下で覚りに至った後、歓喜の中にいたそうですが、歓喜の中にそのままいればいいものを、釈迦もまたのこのこ出てきて教えを説き始める。
これもまた、何故なのか。

天の月はもちろん月の光を田んぼの水面に光をあてたくて明るいわけではないでしょうが、田んぼの稲やそこに生きるものには何らかの影響はあるのでしょう。

人の存在、その人の心もまた、田んぼに届く月の光のようなものでしょうか。
思いもかけない人に、あなたの心が伝わっているかもしれません
272たか:2009/06/04(木) 22:23:58 ID:fS+4XNoT
二、三日前、田植えをした田んぼのあぜ道を久しぶりに歩くことがありました。
考えてみれば小さい頃田植えの時期に家族と一緒に田んぼに行きました。
田植えのときには近くの人に手伝ってもらっていたので、10時や3時の休憩時間には家で作った手作りのご馳走を持っていって一緒に食べたのを思い出します。
あの田んぼの中で太陽に下でみんなで食べるのはなんともいえないいいものがありました。
久しぶりに、田んぼと田んぼの細いあぜを歩いて、あぁこんなにもふわふわやわらかいのかと驚きました。
最もあぜ道と言っても道ではありませんので当たり前ですが。
このやわらかさが田んぼのあぜ道の雑草をたくましく育てるのだと思いました。
あぜ道の雑草はそのままにしていると稲に悪影響の害虫を増やし、風通しが悪くなるため何度か刈り払わなければならないそうです。
田植えの頃の田んぼに素足をつけるとなんともいえない感覚です。これを言葉にだして言えといわれても、なんとも言えない。
たまに足をつけてみるのもいいでしょうか。
そうそう、そういえば田んぼを眺めていたらおたまじゃくしに混じって黒いヒルが伸びたり縮んだりしながら泳いでいました。
このヒル、冬は何処にいたんだろうか。
273たか:2009/06/06(土) 21:39:08 ID:QtBWdYw2
春になり田んぼに水が入ればいろんな虫や植物が集まってくる。
おたまじゃくしや蛭は勿論のことその他の動物も植物もその季節と共にいるようです。
月に照らされる田んぼは勿論この生き物たちにも月の明かりは届くというものでしょう。

春の風が吹いて稲は当然のことながら田んぼの周りのあぜ道の草花も大きく育ちます。
正法眼蔵現成公案の最後の部分に次にような記述があります。
風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河(チャウガ)の蘇酪(ソラク)を参熟せり。

あぜ道の雑草も同様です。
あらゆるものにその恩恵は至るというものでしょう。
ただ同時に、雑草が育ちすぎれば稲の育ちが悪くなることも経験で知るところです、だから雑草を狩り払うことを知っていますが。。
しかしそれでは最初から雑草は全くいらないかといえばそういうものではないでしょう。

以前、霞ヶ浦の葦の話を書きましたが、同様に葦だけでは環境が壊れてその環境がさらに維持できなくなるのは明らかなこと。
人が良い悪いを単純に判断することは考えものというものです。
その雑草にも多くの役割があることも知るべきかもしれません。

同じく、弱り傷つき、年老いた人がいても、必要ないというものではない。
ここに、共に生き、生きる喜びを互いに伝え合うことが大切なのだ、ということでしょうね。
274たか:2009/06/06(土) 22:47:14 ID:QtBWdYw2
>>269さんへ、
この聖観音菩薩坐像、例えて言えば氏神様のようなものというか、そのような存在だったのでしょう。
だから、秘仏でもなんでもないですが近所の人でも見た人は少ないでしょうね。
畑の中にぽつんと小さい観音堂があります。
明治の頃実家はこの堂のすぐ隣から3キロほど離れたとことに移りましたが、この堂の200メートルほど離れたところに江戸時代の墓がありお盆には墓参りをします。
小さい頃墓石なのか石ころなのか解らず踏んづけたことがありましたが墓石らしくない石が土の中に埋もれているという感じでしょうか。
ただその当時から禅宗だったのでしょうか薄く彫られた石に禅宗を思わせる丸い輪があります。
お供えはいつも生の米にお茶をかけただけの米をその墓の上を覆っている藤の蔓の葉っぱをいくつもとってはその石ごとに上におき線香を立て手を合わせます。
小さい頃、もう少しましな物をお供えしたほうがよいのではと思いましたが、昔からそのようにしてきたのだなと今は納得しています。
墓参りには何度も行きましたが、その時ほとんど観音菩薩に寄らなかったため、観音菩薩の話は聞いていても私大きくなるまでこの観音菩薩を見たことはなかったですね。
だいたい仏教にも観音菩薩にも興味はなかったですから。

観音菩薩の写真を撮ったとき、最初この蓮華がどのようであったかは忘れましたが蓮華の茎が左右の手の親指と人差し指の輪の中を通していることに気づいて持ちかえさせたことを覚えています。
その時以来この観音菩薩もこの写真も何度も見てきたわけですが、>>260でかいたように改めてみて強烈に気づいたということでしょうか。
その目線も知っていたはずなのに今まで心に響くほどではなかったということでしょうか。

まぁ、仏法の教えもそのようなもので、その中にいて、そのもの即ち、そのものズバリなのにそのことに気づかない。
何度も触れてても、先人の教えも、その心にも、なかなか気づかない。
阿修羅像が切っ掛けで、そのことに改めて気づかされたということでしょうか。
275たか:2009/06/07(日) 09:22:58 ID:vfmLPlLI
藤の葉の上にお茶をませた米をのせたことを書いていて、インドにでのことを思い出しました。
ホテル以外で最初の食事の場面です。
道路のそばのほったてて小屋のようなところに入って最初に食べた昼食がバナナの葉の上にご飯が盛られてそれにスープみたいに全くとろみのないカレーがかけられたものでした。
大きなバナナの葉は水で洗われていて光っています。
インドでは水に注意しろと言われていたので、この水は大丈夫なのだろうかと躊躇していましたが、インド人がじっと私を見詰めているのでしかたなく食べたのを思い出しました。
塩味が足りなかったですね、最初のインドカレーは。
インドの人にとってはその状況下で心を尽くしていたものでしょうが、私の先入観が躊躇させたのでしょう、もし日本でなら平気で手も洗わずに握り飯を食べるのですから。
最も、この用心深さも生きていくためには大切なことともいえます。

昔はこの地域では米は貴重なものだったのでしょう。
藤の葉のお茶ご飯と、バナナの葉のインドのカレーご飯、素朴のきわみといえそうですが、そこにある身近なものであり、そして、心を尽くしてるものかもしれません。
276たか:2009/06/10(水) 00:05:20 ID:XUNN1lIf
今、そこにあった木の葉をチョイと採って墓石の上に置く。
生米をお菓子に見立てて、さァお茶を一杯差し上げましょう。
今日は良き日でございます。
夏の日差しの暑い中、藤のつるで日陰のここは爽やかな風が吹き、蝉の声も盛んに響きます。
ご先祖様には会ったことはないけれど、お蔭様でこのようにしています。
さァ、お菓子とお茶を持ってきましたので召し上がってください。

お盆の墓参りの光景でしょうか。

そういえば、実家の寺に墓参りに行く時も、記憶にある限り、お菓子や花と共に、必ずお茶を持っていきましたね。
277たか:2009/06/10(水) 00:10:57 ID:f/8egGfd
ここを野点(のだて)と例えれば、にわか茶室でしょうか。
278たか:2009/06/10(水) 00:36:22 ID:f/8egGfd
月に照らされ田んぼの水面に映る月の光はそれぞれに輝きます。
とはいっても映っているはずの田んぼの水面はまさか自分の水面に月が映っていようとはこれっぽっちも考えていないのでしょう。
別に例えて言えば、仏リンや梵鐘の鐘の響きも同じこと。

観音菩薩は一人だろうによくもまあ、みんなの自分勝手な願いを聞き入れるものだと考えたことがありました。
本当に仏の声はあらゆる一切に届くのでしょうか。
山の陰にいたらどうするのだ、などと余計な心配などしないことです。
きっと隣の山に跳ね返って届くことでしょうから。
それでは隣に山がないときはどうするのだ、などとひねくれものは言うかもしれない。

あなた自身、観音の音の中にいることに気づかないだけのこと、ただそれだけのことでしょうか。
279たか:2009/06/13(土) 10:30:02 ID:QXx8LPzc
前から書いているように、公案を用いて悟る、悟らせるというのに批判的です。
公案でおなじみの無門関の無門慧開和尚でさえ六年の刻苦の末、太鼓の音で開悟したといわれています。

般若心経には「無」という言葉が何度もでてくるわけですがこの無を知らないといつまでたっても、ということになる。
般若心経は心経と書かれているように心を説いている。それを留め置かなければなりません。

今は仏教ブームだそうで次々に仏教の解説本が出版されよく売れているという。
写経や座禅もブームなんでしょうか。
何かすれば、達成感はあり、やった分だけ爽快感はあるかもしれないですが、でもすぐにしっくりしなくなり何か無いか次を求めたりする。
公案の本や経典の解説書などを読んでも何がなんだかわからないのがほとんどですね。
だからあれこれいろんなものを買い込んでためしては中途半端の人が多いはず。
ほんとうに作者は解って書いてるのだろうかと笑えるようなものさえあったりする。
いろんな知識が入ってさらに混乱しそうです。来世があったり、輪廻があったり、霊魂があったり、読めば読むほど、すればするほど混乱する。

般若心経で言う「無」はそれら知識をいったん全部捨てなさいという意味の「無」なんですよ。
般若心経には釈迦の教えの根本と言われるものが書いてあるけれどそれさえ無としています。
つまり、仏教の根本といわれる四諦や、縁起も、無常も、さらに言えば無心という言葉さえ忘れなさいと示してるんです。
それに引っかかって拘っているうちは駄目だって言うことです。
それがあること、即ち、無ではないということでしょう。
280たか:2009/06/13(土) 11:27:24 ID:QXx8LPzc
例えば、縁起という考えでは、原因にいくつかの条件が加わって結果が生じると説く。
またその結果に新たな条件が加わって新たな結果が生じる。
このことはよくよく考えてみればもっともなことでそれに疑問のはさむことはないわけですが、それではそれを知って苦しみがなくなるかといえばほとんどそんなことはないわけです。
苦の原因や条件を取り去ればよいのだと説く。
その教えを言われなくとも、原因や条件を知れば自分でそれを何とかしようとする。将来の結果が見えていればそれを何とかしようとする。自分で何とかしようとする。ところがそれがうまくいかないわけです。
そして、過去を振り返って悔やみ・悩み、将来を心配して苦しむ。
迷いの堂々巡りをする。
それをいったん断ち切り、今に、戻すことが必要です。
頭で考えることを一旦やめてしまうことが大切です。

知識や思考、原因や条件や結果に振り回されていることを一旦やめてしまい、無、無の心にしてしまいなさい、無の心に戻りなさいということでしょうか。
心を空じる、身体も空だけれど、例えて言えば、身体という入れ物の中を空っぽにする、無しにする。
これを空というのです。
その時、あらゆる一切、宇宙全体が一つだと気づくのでしょう。
自他一体、一の如し、そこに今までに感じたことのない安らぎ・歓びが観じられるのでしょう。
これを、度一切苦厄、というのです。

最も、宇宙全体と一体、とは言わなくても狭い空間においても同じことを知ることはありますが・・。
281たか:2009/06/13(土) 16:55:59 ID:QXx8LPzc
読めば原始仏教が一番正しいとか、何々経が正しいとか、最後に釈迦が言った法華経が真実だとか、いやいや無量寿経が一番だとか、くだらないことを言っているわけですが。
だいたい、誰が書いたのかさっぱり解らないものばかりですよ。原始仏教の経典も法華経も無量寿経も。
でも漢語に訳した人はだいたい解っているでしょか。
とりあえずそれら訳した人物を見ることも大切です。当然、訳した人の思いも込められてるものです。

>>246で益川教授の話を書きましたが
 書いてあることを理解することはそんなに難しくはないんだ。ただそれが実感して受け入れれるのに時間がかかったのだ。
 実感し、納得し、確信できるかどうか。

禅を知る人なら誰もが知る公案の無門和尚でさえ、音で悟っているわけで。
言葉で理解し大悟したなどというのは、笑える話です。
だから、逆に、解らなくしてるんですよ。

釈迦など忘れ、仏像など忘れ、空っぽ、これが始まりというものではないですかね。
教えをはじめ、何かにしがみ付いてるのではなく・・・・。
282たか:2009/06/14(日) 10:15:53 ID:Rk/4ZeiO
松尾芭蕉の、古池や蛙飛び込む水の音、も
正岡子規の、柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺、も
外見、静寂の中の音。
ただそれだけ、多くの人は、そこ、どまりです。

でもね、この音を聞いた芭蕉にしても、子規にしても、その音の瞬間にして、心の中は躍動感でいっぱいかもしれません。
そしてその心を観じられる人にも、その静寂と心の躍動が・・。

長谷川等伯の「松林図屏風」、これも静寂の中そのものですが、その中にあって、躍動感を感じる、作者の心の生きる力も感じられるというものです。
静寂の中にあって松の葉の生き生き荒々しさ。

読む人、見る人に、その心が伝わってくる。その心を観ずる、それこそ感動というものでしょうか。

言葉で理解する知識で理解する、それだけでなく、その奥にあるもの。
283たか:2009/06/15(月) 20:42:07 ID:3Zuas51i
今日、夕方のNHKで仙台の牛タンのことをやってました。
ズーと前に書いたようなエピソードを話していました。
やはり太助という店が牛タンの発祥のようです。
私が最初に仙台の牛タンを食べたのがこの太助という店で取引先の社長に連れられて入ったのを覚えています。
夕方でしたが店は狭くて牛タンしかなくてそれでも次から次と客が来て立って待っているからゆっくりしてられなかったのを覚えています。
店を出た後どういうわけかすぐ近くのストリップにはいることになって・・・・。
というわけで、仙台の牛タンを聞くたび、必ずストリップのことまで思い出します。

284たか:2009/06/15(月) 21:23:52 ID:3Zuas51i
牛タンの話が終わって、「一粒の種」という歌の話に話題が変わりました。
この「一粒の種」という歌が今年二月に発売されてから問い合わせが続いているという事です。
この歌のできるまでのエピソードが話されていました。
がん患者の男性が死の三日前に、死にたくない、どんなに小さくてもいいから一粒の種になって生きていたい、看護婦さんに言っていたのを、その看護婦さんが思い返して一粒の種という詩にしたとか言ってました。
この「一粒の種」の歌については興味のある方は検索してください、歌も聞けますね。

命あるもの、いつかはその命の尽きる時が来ます。
悟りに至った釈迦をはじめ、皆そうで、死を迎えないものはいないですね。
それは誰もが知っていてそれを踏まえていてある程度の年齢になると、意識的にしろ、無意識的にしろ、心を伝えようとするものだということでしょうか。

テレビを見ていて、私は、このがん患者さんは最後まで死を恐れ、生に執着したように感じました。
それはだれもがそうですが、しかし・・。
そういう意味ではこの詩の作者さんと私は生死に対する考えが違うような気がします。
最も、詩や歌に対してどうこう言いたいわけではなく、いい歌だということについては私も同感です。
285たか:2009/06/16(火) 19:43:23 ID:w9EREHnx
今日の夜、知る楽 歴史は眠らない 智慧の結晶 お経巡礼 第3回、という番組が教育放送であります。
先週は法華経でしたが見ることはできませんでした。今日は阿弥陀経ということでどんな内容か見たいと思っています。
その後、22時50分から総合テレビで、NHK映像ファイル あの人に会いたい「宮崎奕保(僧侶)」 という10分間の番組があるようです。
>>234で宮崎和尚のことを少し書きましたが、是非見てください、何か感じることがあるかもしれませんから。。
286たか:2009/06/16(火) 20:54:43 ID:w9EREHnx
>>269さんへ、
2日ほど前の夜中、なかなか眠れなくておきていた時、たまたま観音菩薩の写真が目に入ってそれを見てたらこの仏像の絵を描きたくなったんです。
でも私は元々絵などへたくそですからうまく描けません。
そのうち、どうもバランスや顔などの角度がうまく描けないからだと気づいてこの写真を拡大したら少しはと思って、その写真をすぐそばのコンビニで拡大コピーしようと思いました。
10枚中2枚を選び出して330倍でA3版で白黒コピーしました。
驚いたですね。その迫力に。

その写真は観音菩薩に向かって右前方から顔と手に持つ蓮華のつぼみを写したものですが菩薩の表情に言葉に言い表せない迫力があります。
優しさいう言葉ではいえない、どちらかというと緊張感さえ感じられます。
蓮華のつぼみも今すぐ咲きそうなくらいに膨らんでいるのか解ります。
仏像自体、前に書いたようにほとんどが黒ですが、髪の毛の一本一本が丁寧に彫られていて、その溝の部分がほこりのためか白いので線がはっきり浮かんで見えます。
小さな写真では気づかなったですが、つぼみに近い右手の手のひらは手相というか皺が彫られているのが解ります。
白黒で拡大してみて、墨絵のような陰影の菩薩の迫力に驚かされました。

黙って静かに蓮華のつぼみを見守るだけの一瞬の静寂の静が感じられると共に、逆に、この瞬間にこのつぼみが今咲きだすのではという動を期待させます。

静と動、それさえ相反しないのだ、そこに繋がりまでもも観じさせられました、それが迫力と思えたのでしょうか。。
287たか:2009/06/21(日) 10:38:48 ID:oGFiZko2
聖観音菩薩の写真をコピーで引き伸ばして、何をしようとしたのかというと、黒と白の境を線でなぞったらどうかと思ったんですね。
スケッチブックの上にカーボン紙をおき、その上に観音菩薩の拡大されたコピー紙を置きます。
尖った鉛筆で観音菩薩の白と黒の境をなぞっていきます。
身体の輪郭はは勿論、顔の輪郭、髪の毛の一本一本、身体を包む衣の皺も勿論ですが、黒い像の傷ついて白く浮き上がった部分もです。
上腕部の模様は腕輪なのでしょうか左右にあります、蓮華のつぼみの膨らんだ花ビラの凹凸も、そして蓮華の茎を優しく持つてのひらのしわも。
写真では顔は黒くて、眼の表情、口元がはっきり見えませんが、白いほこりがうっすらと浮き上がらせています、それを鉛筆の先でなぞりました。

コピーを取り去ったところにでてきた線は観音菩薩の目線が逆にハッキリしてきました。
なるほど蓮華をこのように見てたのか、と思えてきます。

ところでこの絵をしばらく見てたところ、この菩薩が単に蓮華のつぼみを優しく見つめてるだけではないな、と思えてきました。
この菩薩像はこの蓮華を見つめた瞬間を表していますが、実はそのすぐ直後にこの菩薩の前にいる人に渡そうとしているのではないかと、思えてきたのです。
288たか:2009/06/21(日) 10:41:46 ID:oGFiZko2
手渡す、直前の姿かも・・・・・。
そんなことを思い始めました。
289たか:2009/06/21(日) 12:06:08 ID:oGFiZko2
ところで、私は時々ヤフーのゲームの囲碁で囲碁をしますが、そこに先日から、アニメのヒカルの碁が見れるところがあります。
アニメ「ヒカルの碁」は以前テレビで放送されたもので私は以前全巻見ていました。
ヤフーでは無料配信がいくつか見れますがそれを見終わって、もっと見るにはどうしたらいいかと思っていて、動画で無料で見ることができることに気づいて、昨日は朝から晩まで「ヒカルの碁」漬けだったですね。
改めてみて、このヒカルの碁は名作というか傑作ですね。
囲碁を書いているのですが、私が言いたいのは、単に囲碁のことだけでない面白さがあります。
簡単にストーリーを書くと、
囲碁のことなど全く知らないヒカルという少年が祖父の蔵の中で碁盤を見つけます。
この碁盤には血の模様があってそれに気づいたヒカルの前にサイという名の平安時代の天才的な碁打ちが現れます。
このサイの姿はヒカルにしか見えなく、声もヒカル以外のひとには聞こえません、常にひっかるに寄り添っています。
サイは碁に対しての思いが強くあって、そのおもいにかられて、ヒカルは碁を打ち始めますが、最初に出会ったのが塔矢名人息子でヒカルと同年の塔矢アキラです。
塔矢アキラは囲碁に対して天才的な少年ですが、アキラは初めて碁を打つというヒカルと対戦してその凄さに衝撃を受けます。
この時ヒカルはサイの指示にしたがってそのまま碁石を並べただけだったのですが、この時からヒカルとサイとアキラの囲碁を通しての人間関係、それを通しての人間的成長のストーリーが始まります。

下手な仏教書を読んでるよりもずっと面白く、学ぶことも多いですね。
何故サイがヒカルの元に現れたか、そして、生きてるとは何か、何故生まれてきたか、を示してるような気がします。
是非、動画で無料で「ヒカルの碁」をご覧になってください。
290たか:2009/06/27(土) 00:15:51 ID:gmhKZOSa
マイケル・ジャクソンが今朝死んだというニュースが朝ながれました。
はじめに頭に浮かんだのがあの異様に白い青。
そのすぐ後に浮かんだのが、芥川龍之介の「鼻」でした。

マイケル・ジャクソンと芥川龍之介、全く関係ないわけですが、あの白い顔を思い出した途端に「鼻」にでてくる主人公の禅智内供(ぜんちないぐ)という僧の異様に長い鼻が浮かんだんです。
芥川龍之介の「鼻」を夏目漱石は絶賛したそうです。
何故でしょうね。

私が2ちゃんねるに書く理由はいくつかありますが、その大きな理由のひとつが私の書いたものを読んで、もしくは読みながら即座にそれをインターネットで検索して作品が見れ、読めることです。
この「鼻」も前に書いた絵画や小説など名作も無料で読めますね。
「ヒカルの碁」も1作から最後まで無料で見られます。最も全編見るのにひたすら見続けても27時間位かかりますが。

そこいくと芥川龍之介の作品は読みやすくて短くて内容が詰まっています。
何故、漱石は「鼻」を絶賛したのかですね。

最もそれ以前に、なんで私がこれらを取り上げてるか、ということですね。
291たか:2009/06/27(土) 17:59:16 ID:gmhKZOSa
わたしはこの「鼻」は遥か昔に小学校の時に一度だけ読んだことがありましたが、それを思い出したんです。

自分の長い鼻にコンプレックスを持っている禅智内供は 内道場供奉という職だそうで、それは、宮中に仕える高僧だそうです。
コンプレックスを持っていて、自尊心をいつも気にしている、高僧に上り詰めたのだから悟っていてそんなものを気にしてもいないように思われそうなのに、逆に高僧だからこそ他人の目が気になる。
他の人たちと同じような鼻になりたいと思う、そしていざ鼻が短くなってみればこれはこれでますます人の目が気になってしまった。

あのマイケル・ジャクソンが自分の異様に白い肌の色をどう感じていたかは私は知らないけれど、あの整形はいかがなものかと私は思ってしまいますね。
ニュースでは子供の頃のジャクソンファイブの時や、爆発的にヒットしたスリラーの映像が流れていて、この肌の色でないがどう不満だったのだろうと思いますね。
彼を応援するみんなはあの褐色の肌を充分受け入れていたはずなのに、と思ってみてしまいます。親からもらった声、そして踊りのセンス、肌の色も含めてマイケルだと思うのですが。。

292たか:2009/06/27(土) 18:01:02 ID:gmhKZOSa
禅智内供は鼻が短くなって逆に精神状態が不安定になります。
ある夜、風が出て塔の風鐸(ふうたく)の鳴る音が、うるさいほど枕に通(かよ)って来て眠れなかった次の朝、の場面が出てきます。

翌朝、内供がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏(いちょう)や橡(とち)が一晩の中に葉を落したので、庭は黄金(きん)を敷いたように明るい。
塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪(くりん)がまばゆく光っている。
禅智内供は、蔀(しとみ)を上げた縁に立って、深く息をすいこんだ。
 ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。
内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜(ゆうべ)の短い鼻ではない。
上唇の上から顋(あご)の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。
内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。
そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰も哂(わら)うものはないにちがいない。

内供は晴ればれとした気になったようです。
自我に振り回されない、ありのまま、を受け入れるということがやっと実感できたののでしょうか。

風鐸(ふうたく)の鳴る音も、木の葉がすっかり落ちて爽快な気分、その爽やかな空気を深く吸い込んだ内供。
ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。
はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。

私は禅を自身体験した漱石が、ここに、何かを観じて、この短編小説を絶賛したのではないのかなと思っていますが、どうでしょうか。
293たか:2009/06/27(土) 19:16:37 ID:gmhKZOSa
前にも書きましたでしょうか、芥川龍之介の代表作で「くもの糸」があります。
先日>>285智慧の結晶 お経巡礼 第3回の阿弥陀経のなかでひろさちや氏が「くもの糸」を例にだして自力、他力を説明してました。
見てて、ひろさちやさんの解説の点数をつければ50点以下でしょうか。
何故50点以下なのかを知ることが大切です。
他力だから、何もしないのが、阿弥陀仏に救ってもらえるのだ、ということではありませんよ。
また、阿弥陀仏の名をよんだから救われるのだということでもありません。

ひろさちや氏の話では、自力では自分の力で地獄から極楽までくもの糸をつたって上っていくので大変で途中で挫折してしまうとか。
ところが、他力の立場に立てば何もしなくても糸を身体に巻きつければ阿弥陀仏がかってに引き上げてくれるから何もしないで極楽にいけて楽チンだとか。
聞いていてアホらしくなりますね。

お釈迦様が何故地獄の池にいるカンダタを助けようと思ったのか。
そして、何故カンダタのすぐ上でくもの糸が切れたのかですよ。
これをよくよく知らなければ駄目でしょう。
これをよく解るように説かないと、間違った教えを吹き込むことになります。
この点、問題があると感じました。
294たか:2009/06/28(日) 19:42:31 ID:fMcX0ynG
お釈迦様は地獄の底にいる、カンダタと云う男を見つけて極悪非道の男だが以前蜘蛛を踏みつけようとした時、蜘蛛も自分と共に生きてるんだと気づいて助けたのを思い出します。
多くの人はこれを慈悲と思うわけでしょうが、それより前の無分別智を知ることが大切でしょう。
カンダタの心の中に無分別の心があると釈迦はかんじて蜘蛛の糸をたらしたというとでしょう。

一方、蜘蛛の糸を見つけそれに必死で摑まって登ってきたカンダタだったですが振り返り下を見たとき後に続く者たちを見て次のように喚(わめ)きます。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」
この瞬間に、今まで丈夫だった糸が手元から切れるわけです。
これは自分のもの、自分だけが地獄から逃れられる、お前たちはこれを使うな、という分別心が起こった時に糸が切れて地獄の苦しみに戻っていったということでしょう。

前から何度も書いていますが、般若心経の最後の部分は、さァ、みんなで苦のない悟りの世界に行きましょうという、大乗の精神、智慧の心です。
阿弥陀仏の心もまた、同じ心でしょう。
それを失った途端に、また苦の世界に舞い戻ってしまったということでしょう。
お釈迦様は、さあ俺についてこい、という言葉をカンダタに期待したのかもしれません。
南無阿弥陀仏を唱えれば楽チンに極楽浄土に引き上げてくれるということではなく、南無阿弥陀仏という音に、自我を自分を預けなさいと言うことでしょう。

いくら南無阿弥陀仏を唱えても、自分だけ、自分の家族だけ善ければというような、分別する心が強すぎては、阿弥陀仏に受け入れられないのかもしれませんね。

295神も仏も名無しさん:2009/06/28(日) 22:28:02 ID:Gfg4rV6p
サーキットトレーニングだろ
296たか:2009/06/30(火) 22:52:15 ID:i2BxMIu7
次の週の般若心経も、もう少しどうにかならないのというような内容だったですね。
般若心経というと必ず玄奘三蔵だけの名前だけ出てきます。西遊記が大きな影響なんでしょうか。
この西遊記にでてきて三蔵法師を見守っているのが観世音菩薩です。
玄奘三蔵はインドまでの苦難の道の中で常に般若心経を唱えていたといわれていますが・・・。
よく考えてみてください。
インドにも行っていない玄奘が自分で般若心経を訳して唱えていたわけではありません。
玄奘が唱えていたのは鳩摩羅什の訳した摩訶般若波羅蜜経ということです。
色即是空も、度一切苦厄、も羅什のオリジナルの名訳だといわれています。
また何より、般若心経を説明する時、観自在菩薩を観音様、観世音菩薩のことだと必ず説明しますが、この菩薩を観世音と訳したのも羅中の名訳といえます。
では何故羅中はこの菩薩を観世音菩薩と訳したのか知ることが大切です、このことについては何度も書いてきましたが、ほとんどの人は解らないですね、おそらく体験しないと。
だからひろさちやさんには解らないでしょうね。
この体験自体が、無心であり、無我であり、空であり、度一切苦厄の体験であり、即涅槃、即菩提、の体験、自他一如の体験なんです。

番組では、空を虚しく観る、というようなことを言っているわけですが、確かにそういうこともあるわけですが、でもそういう見方ではないのです。
実体がないと理解し、だから虚しいではないのです。
言葉や知識に捉われるとそこまでです、だからいつまでたっても、いくら般若心経の解説を聞いても、心がスッキリしない、晴れ晴れにならないのですよ。

般若心経でいう空は、多即一、一即多、の空なのですよ。華厳経の世界、維摩経の不可思議解脱なんです。
世界との一体感、だからこれを大歓喜といい、喜びに包まれているというのです。
だから羅什はこの瞬間を度一切苦厄と原文にないものを加えてあえて説明しているのです。

空、空と文字を見れば虚しいと読みたくなる、般若心経の解説書を読んで刷り込まれて、実体がないのだから虚しいのだと思い込む、気をつけなければなりません。
297たか:2009/07/01(水) 21:46:04 ID:xsAl4mmG
前から書いているように、心を無にする、つまり、空っぽにする、空っぽ即ち無心の時大転換が起こるのです。
空っぽ・無の瞬間、突然、外の世界(宇宙)と思っていたものがその空っぽの中にすっかり入って満ち満ちていたと気づくんです。
維摩経で維摩の空っぽの部屋にその部屋にとても入りきらない椅子や人たちが何の差しさわりもなく入っているのはこれを例えで行っています。
華厳経の唯心もそうです。同じことです。

羅什は、このシリーズの法華経、阿弥陀経、摩訶般若波羅蜜経(般若心経)を訳していますが、華厳経の考えも維摩経の中に入っているのはいまさら申し上げることでもないでしょう。
いっけん別個のものとして見えるお経もその精神は優劣を競ったりや分けることなどできるはずもないことです。
今、その瞬間のそのものの中に全体があり、また全体の個々の中にはそれぞれの個々が映っているのだと知るのです。
つまり個々は個々として見えてはいるけれど、他全体があっての個々であり、また全体の個々も同じ状態で成り立っている。
そして常に全体も個々も共に常に変化し続けているのです。(無常)

そして、心の、心から観ずることができた時、鳥の声も、そよ吹く風も、木の葉の音も、あらゆる一切の音が自分と共にあるという喜びに満たされるのです。(涅槃寂静)

298たか:2009/07/01(水) 22:47:45 ID:xsAl4mmG
一音は仏法なり、観音、即ちこれ、誰にでも解るように書いたつもりですが、お解かりになるでしょうか。
299たか:2009/07/01(水) 23:31:53 ID:xsAl4mmG
ヒカルの碁で、平安時代の碁打ち藤原サイは碁を打ち切っていない思いから江戸時代の本因坊秀作にそして進藤ヒカルに現れます。
ヒカルに出会ったサイは碁を打ちたくて、そしてヒカルに碁を教えるのがうれしくて毎日が楽しい。
たまたま碁会所でヒカルは塔矢アキラに出会いますが、碁の天才的少年のアキラはおぼつかない手つきで碁を指すヒカルその能力の凄さにひきつけられます。
碁を打っていたのはヒカルではなく、扇子で指し手を示すサイだったのですが。
一方サイに仕方なく付き合って碁を指してたヒカルは実際に碁を打つ中で碁の魅力が芽生えてきます。
そして知らず知らずにサイの能力がヒカルにつたわり碁の能力も具わってきます。
ヒカルに自分にない遥か上を行く能力をかんじる、つまりサイを追うアキラと、碁に魅力を感じアキラを追うヒカル、三者が強い影響を互いに受けながら及ぼしながら、ヒカルとアキラは成長していきます。
300たか:2009/07/02(木) 00:13:30 ID:3h5uFt68
藤原のサイはどうして自分が本因坊秀作にそして今度は進藤ヒカルの前に現れたのか疑問に思っていました。
サイは多くの人とネット碁などで対戦する中で秀作の時代にはない現代のルールと定石を身につけていきます。
当然サイと共に碁を指すヒカルもその定石をサイの指導の元で身につけていきます。

時が経って、当代きってのプロの碁打ちでアキラの父で名人の塔矢コウヨウと指しの真剣勝負をすることになったサイは真剣勝負の充実感を味わっていた終局後ヒカルの一言で、何故自分がヒカルの前に現れたか知ることになります。
ヒカル以外、塔矢コウヨウもサイも誰も気づかなかった手を。
Hikaru no Go 56 3/3

その時、その立場に立たなければ解らないことを。
301たか:2009/07/02(木) 20:22:28 ID:3h5uFt68
サイはヒカルの一言に衝撃を受けます。サイの思いもしなかった手ですね。
サイを学びながらそしてついに初めてサイを越えた一手だったかもしれません。
この時からサイは自分の役目は終わったと感じたようです。

Hikaru no Go 60 3/3   (で検索してみてください)

サイはヒカルのもとから何も告げずに去っていきますが、サイいなくなったことでヒカルの心は乱れ、サイを捜し求めます
どこを探してもサイが見つからない、ヒカルは自分のせい(原因)でサイが消えたのだおと思い込んで碁が打てなくなります。
302たか:2009/07/02(木) 21:06:56 ID:3h5uFt68
ヒカルが碁の対局を休む中、中国に行っていた伊隅がヒカルを訪ねてきます。
碁を止めたいというヒカルに伊隅は、自分のために一局どうしても打ってほしい、と頼みます。
プロ試験のとき伊隅はヒカルとの試合の時の失敗でプロ試験を落ちてしまったのです、そのことに決着をつけたいという。
決着をつけたいといういすみの願いに仕方なくヒカルは碁を打ち始めます、サイにすまないと思いながら。。
碁を打ち始めてみると身体が、身体の中から碁を打つ喜びが湧き上がってきます。
碁に熱中し始め一手を打った瞬間・・・・。熱中し、サイのことなど忘れた瞬間・・・・。
Hikaru no Go 70 1/3
Hikaru no Go 70 2/3
Hikaru no Go 70 3/3
          (是非検索してみてください。)
自分の碁の中に、自分の心の中に、どこを探しても見つからなかったサイを見つけ出しました。
サイの心が自分の心にあった、それを見つけた瞬間・・・・。
303たか:2009/07/06(月) 21:44:08 ID:Ta8dHWfm
木曜日の11日の深夜から青森に向かって出発。
そして今朝7時に帰って来ました。
いままで、いろいろ独りの旅に近いことはしたけれど今度ほどいいのはなかったですね。おそらく他の人では味わえられないものでしょうか。最高でした。
これについては後で書きます。
竜飛岬、棟方志功、八甲田、奥入瀬、十和田湖、高村光太郎、そして、温泉三昧。
驚きと感動と偶然の連続でした。
けして、全く豪華でもなんでも無い旅ですが、全てが一生の思い出になる旅だと思いましたね。
304たか:2009/07/07(火) 10:25:21 ID:n4FjJ6Ko
>>303木曜日の11日の深夜から青森に向かって出発。
は、木曜日の夜11時半の深夜から青森に向かって出発。に訂正です。
三日とちょっと、何故行きたくなったのか、そこで何を観じたのか。

その前に、ヒカルの碁をもう少し。

ヒカルは伊隅と碁を打っている中で、自分の打つ碁の中に探していたサイを見つけます。
あぁ、どこを探しても見つからなかったサイがこんなところに、こんなすぐそこに、碁に中に居たんだと・・・。
サイを見つけたうれしさに涙が湧き上がってきます。
それを見つめて伊隅が、お前も苦しんでいたんだなと声をかけます。
これから、何十局、何百局、何千曲、打つよ。

いすみと対局を終えたヒカルは塔矢アキラの元に行きます。
305たか:2009/07/07(火) 14:24:43 ID:n4FjJ6Ko
伊隅との碁で、自分の中にサイを確信したヒカルは立ち直り、プロになって初めて名人戦予選一回戦で塔矢アキラと対戦します。
Hikaru no Go 74 1/3
そのヒカルとの対局の中でアキラはヒカルの中にサイを見つけます。
アキラが追い求めていたサイを・・・。
Hikaru no Go 74 2/3
Hikaru no Go 74 3/3
君の中にもう一人いる。
サイが君の中にいる。
いや、君の打つ碁が君の全てだ、それはかわらない、それでいい。そう、アキラはつぶやきます。
Hikaru no Go 75 End 1/3
対局を終えた日の夜、ヒカルの夢の中にサイが現れます。
ヒカルの話を優しくにこやかに聞くサイ。
Hikaru no Go 75 End 2/3
サイ、消える時どんな気持ちだった、悲しかった、それとも今みたいに笑ってた?、わらってたらいいな・・・。
優しく微笑み返すサイ。
夢の中で、サイが消える前に、サイは袖から扇子を差し出し無言でうなずきながらヒカルに手渡します。
次の対局の日、進藤ヒカルの手には売店で買った扇子が握られています。
Hikaru no Go 75 End 3/3

このエンディングテーマも、歌も、詩もいいですね。



306たか:2009/07/07(火) 14:55:14 ID:n4FjJ6Ko
岩手の聖観音菩薩、優しく見つめる目線の先にはもうすぐ開きそうな蓮華の花が。
いま、この花を、無言で差し出そうとしているようです。

サイが差し出した扇子もまた、観音菩薩が差し出す蓮華のようにも思えてきます。
この蓮華や扇子を「心」という文字に言い換えてみましょうか。

人は知らず知らずに多くの「心の華」を受け取っているのかもしれません。
その華を受け取り、そして、そのつぼみを次に伝える、なにげない最も当たり前のことだけれど、最も大切なことのように思えてきます。

さぁ、その華をいっぱい楽しみなさい、そしてその喜びを伝えなさい。
見性の大歓喜とは、それを示しているように思えてきます。
307たか:2009/07/07(火) 19:54:37 ID:n4FjJ6Ko
私はこの「ヒカルの碁」という漫画、アニメをたいへん評価しています。
このアニメのいくつかの主題歌もすきですね。
最後のエンディングテーマもなかなかの内容です、DREAM のGET OVER、という曲ですね。

青森に出かけていたときサウナ風呂の中で、中居君が出ている金スマを少し見ました。
ほんの少しだけ見ただけなので少し間違っていたかもしれませんが、脳学者の東大の教授の奥さんが出ていて天才の子供を育てる方法があるのだそうです。
その話によると生まれてから一才五ヶ月までが急激に脳が成長する期間なそうです。
その間にすればいいこと、天才に子供にする方法を番組で話していました。
まず第一に、何よりもまずいろんな音を聞かせることだそうです。
赤ん坊は音、音の変化に全身で反応しその違いを感じる吸収するみたいですね。やはり音は一番大切ですね。
また赤ん坊が目で物を追っている時はゆっくり動かし目で追わせるようにすることが大切だそうです。
全部で七つほどの話の中で最後にあげたのに興味がわきました。
最後にあげたのはまさにヒカルとサイのような話だったですね。
それは例えば母親が赤ん坊に箸の持ち方を教えようとする場合向かい合って教えるのではなく子供の後ろに回って子供の左右それぞれの手を持ちながら教えるのがいいそうです。
ヒカルはサイ以外の対戦の場合、つまりサイと他の人が対戦する場合サイの立場でサイの扇子と共に碁石を指すわけです。
つまり赤ん坊が母親のうごきを覚えるように、ヒカルはサイと同じように対戦者に向き合いサイと同じうち方をする、その中でサイの対戦の心もテクニックも自然に受け取っているのでしょう。
サウナは熱くてすぐに出てしまったので、これ以上のことはもう解りませんが、なかなか興味深いはなしだったですね。。
308たか:2009/07/07(火) 20:17:20 ID:n4FjJ6Ko
青森に出かけたのはいくつかの理由がありますが、その一つの切っ掛けがヒカルの碁を見ていてですね。
ヒカルが碁を打てなくなったところに、伊隅がヒカルを尋ねてきます。
そして碁を打ちたがらないヒカルに、僕のために一局打ち終えさせてほしい、と伊隅はヒカルに願います。つまり心の決着をさせてほしいと願います。
そしてヒカルは伊隅の願いを断ることができず打ち始めますが・・。

実は私もかって経験した中でどうも気になっていることがあったのです。
いつかその場所に行って確認して見たいと思い続けていて、伊隅を見ていて、どうしてもその場所に行って確認したくなったということです。
309たか:2009/07/07(火) 20:24:08 ID:n4FjJ6Ko
実は木曜日の夜でなく水曜日の深夜に出たいと思ったのですが、次の日木曜日用事が出て一日ずらさざるを得なくなりました。
でも結果的に、これがいいことだったですね。
310たか:2009/07/09(木) 23:56:29 ID:U8uObKY4
今日のNHKのクローズアップ現代は囲碁の藤沢名誉棋聖でした。
五月に亡くなられて、先月NHKのアンコルール特集を見て、ヒカルの碁の塔矢名人にダブって、ここにヒカルの碁を書こうと思ったのも理由のひとつです。

まぁ聴けばこの人の人生は凄い人生ですね。
定石に拘らず、常に前を見つめ、後進の指導にも多くの足跡を残しました。
日本のトップ棋士もとより、韓国、中国の棋士も育てたようです。
まさに破天荒な人生であり、人生を満喫した自身の人生でしょうし、その心は多くの後進の方々に伝わっているようです。

私はこうゆう人生、これこそ理想的にも見えますね。
311たか:2009/07/10(金) 00:09:27 ID:rA4mTsB/
昨日はテレビでアリスの再結成の番組がありました。
再結成にあたり、東京の共立講堂からツアーを始めたかったとか。
この講堂が東京進出の始めで、もう一度この場に立ちたかったとか。

不思議なもので人は、その場所に立ってみたい、と思うときがありますね。
私が、青森に行きたくなったのも同じでしょうか。
もう一度その場所に立ってみたい、その空間に身を置いてみたい、時が経って何かを確認してみたい、そんな感じでしょうか。
312たか:2009/07/11(土) 23:35:07 ID:VVuFmKEt
棟方志功、高村光太郎、名前は誰でも知っている人です。
でも、今回、青森に行くまではこの人たちのことを全く関心がなかったですね。
いや、そこに行くまで、その前に立つまで、全く考えもしなかったですね。
ところがね、そこに立って、ガラッと観かたが違ってきました。
どう変わったかですね。おそらくこんなこと書く人はいないですね。

これもまた大乗の捉え方に大いに関係しています。
ところで、高村光太郎は戦後岩手の花巻の山の中に七年間独りで暮らしたといわれています。
何故、花巻に来たのか知らなかったのですが、どうやら宮沢賢治との関係があったようで、最初、花巻の賢治の弟の所に身を寄せたようです。
その間、彫刻の光太郎が彫刻を一切しなかったといわれています。つまり封印したのです。
その高村光太郎の彫刻の封印を破る切っ掛けが後に光太郎の代表作になる十和田湖畔の「乙女の像」だということです。
光太郎はこの乙女の像に何を描こうとしたのか、作品にどのような思いを込めたのか、これを書きたいと思います。

最も、十和田湖に至るまでには私の個人的なことも含めて書きますのそれを断っておきます。
313たか:2009/07/12(日) 00:34:38 ID:KWIkTGxy
ところで話は変わって、先月NHKの世界遺産という番組を見てたら、驚きました。
南インドの海岸寺院というところを映していました。
見ていて思わず、アッ、ここ行ったことがある、ここでとった写真もあると思って探し出しました。
あの時は観光に全く関心がなかったのですが南インドの最も代表的な遺跡であり観光地だったんですね、よくみてくればよかった・・。

ところで、私が何故インドに行ったかということになりますが、実は、墓石の石の買い付け、石の採掘場の状況を見に行ったんです。
特にその当時、墓石に使う黒御影のほとんどがインド産であり、そして南インド産のものでした。
黒御影といってもそれだけでは駄目で、場所が少し違えば黒さや模様やキズの発生具合が違い、そして生産力がどうか、何より日本のマーケットで墓石材として販売できるかどうか知り判断することが大切なのです。
インドで産出された原石を日本に輸入し、日本の石材店に販売する、それが仕事だったわけです。
インドから輸入された原石は当時お台場埠頭に荷揚げされ、税関監査をしました、現在のお台場の東京湾合同庁舎、タイム24ビルあたりでしょうか、毎月月初めに行ったのお覚えています。
ある日鉄塔が立ちはじめ、まさか今のようなモノレールが上を行くような世界になるとは全く想像できなかったですね。
そういえば、横浜の大黒ふ頭もそうです。大黒JCTの下によく行っていましたが空を見上げて長く立った柱がどう繋がるものかと思っていましたが、その変貌はまぁビックリものでした。
314たか:2009/07/14(火) 17:04:40 ID:4Jr1ZKxq
以前、船の科学館が近くにあって、でもそれだけしかなくて何もなくて、今は、お台場はすっかり変わったですね。
夕方、西の方向に富士山がはっきり見えて、ここから富士山が見えるんだなァと感動したのを思い出します。
何もない野原に筒みたいなものがいくつも刺さっている、何だろうと思って聞いたところ、ここは埋めてて地でいろんなものが埋まっているから地中からガスが出ててそれを抜いてるんだと聞いたことがあったですね。
メタンガス、いつまででるのか心配したけれど、いまになってみれば、地中深く掘り下げて温泉を吸い上げてるんだから不思議なものです。

世の中どんどん変わってしまうところも多くて、最近テレビで映し出される、インドや中国の変貌はビックリものです。
特に北京は随分変わりましたね。
315たか:2009/07/14(火) 17:16:13 ID:4Jr1ZKxq
中国での思い出の一つに、北京から列車に乗って北京の西、山西省、渾源というところに石を見にいったことがありました。
三月はじめだったですかね、冬は寒いところです、零下20度ぐらいとか。
墓石に使われる黒石は当時インド産、南アフリカ産以外ほとんど採れな勝ったわけですが、どういうわけかこの地域で黒石が採れだしたのです。
それを見に行くため山に向かっていたとき、車を降りて歩いていた時小さな小屋に立ち寄ったんです。
中に入って数分一休み、この家こんなつくりなんだと思った、狭い土の床があって70センチくらいの高さで広くはないが板の間がある、オンドルのようなものだろうか。
その板のところに腰を下ろしながら、この板の上で寝るんだなと思った。
しばらくしてNHKで「大地の子」というドラマが始まった。
山崎豊子さんの「大地の子」は終戦当時混乱の満州で生き別れになり日本に帰った父と中国人に育てられた子がまた再開するドラマで話題になっていた。。
その中で心の優しい中国人に育てられた兄と、生き別れになっり河北省に売り飛ばされてからだの弱った妹が苦難の末に再会する場面があって、その再開する家が私が渾源で見た家のつくりが同じだった。
それを見ていて涙がどんどん零れ落ちた。
兄がその家に行った時、妹は重労働で体が弱りきり息絶えたえの状況だったが妹は土の上に寝かされていて、それを見た兄が中国人の養母に妹を上の木の板の上に寝かせてほしいと願った。
ところが養母はそんな病気のものは板の間に上げられないと狂ったように言った。養母のために、生活のために妹はこんな体になったのに。

しばらくして石屋さんでテレビを見ていたとき中国残留孤児の話題とその帰国者のニュースが映った。
それを見ながら、育ての親と別れてくる人が多いですね、とその石屋さんに言ったら・・。
俺も満州で終戦を迎えたけどよ、昔から満州では、中国では子供は平気で売られてたんだよ。
みんなわかってんだよ、だからさ、わかるんだよ、帰って来たいのが。
いつものように、テレビニュースでは、優しく中国の養父母に育てられた残留孤児の皆さんが今日も・・・・・。
でも、どう言うわけかいつも、子供と養父母とを結びつけた人は判らないんだな。これが・・・。
316たか:2009/07/16(木) 21:24:43 ID:Gd5mh8ng
>>303の青森への旅を書こうと思います。
ヒカルの碁で伊隅がヒカルに過去の決着をつけたいという場面を見ていて、青森の今別というところにもう一度行ってみようと思ったのです。
青森には半島が二つありますが、今別というところは地図を見て左側の津軽半島のちょうどてっぺんにあたります。
そのすぐ近くに歌の津軽半島冬景色の、あれが竜飛岬北のはずれと見知らぬ人が指を指す、竜飛岬があり、日本海と津軽海峡のちょうど境です。
今回一番の目的が今別のあるお墓をもう一度見て来たい、そのお墓の前に立ってみたいと思いました。
もう一つは、自分のかかわったお墓をいくつか見て、今どのように使われてるか確認したかったのです。

本当は7月1日の夜家をでて5日に帰るつもりでしたが2日の昼にしなければならないことができ一日ずれた2日深夜出発することになりました。
ここからは旅のことを長々と書いていきますので、興味のない方は読まなくてもいいですが、前にも書いたように大乗仏教の空という捉え方、観音、歓喜、自然ということについても織り交ぜていきます。
そこで旅の中で、出かける前は全く頭になかった棟方志功、八甲田、奥入瀬、十和田湖、高村光太郎に触れることになります。
これもまた仏教の捉えかたとの関係で含めて書きたいと思います。
317たか:2009/07/16(木) 23:33:39 ID:Gd5mh8ng
2日深夜、車で青森に向かって国道4号線をひたすら北に向かいました。
高速を利用しなかったのは料金の点もありますが、車で走りながら道路の変化や建物の変化、その他の移り変わりも感じたかったのです。
深夜ですが、以前との変化・違いがよくわかります。また深夜で交通量が少ないのでスムーズに走れます、最も少し眠いですが。
以前との違いを目にしながら朝7時ごろ七戸という町に着きました。このの寺でまずかみさんの実家の参りして、途中朝食をとった後青森の八甲田霊園に向かいました。
この八甲田霊園には私が以前青森の石材店から注文され中国で作らせ輸入し納品し立てたお墓がいくつかあります。
青森では以前からお墓本体の前に供物を上げる経机を置くお墓が多くありますが、その経机を単なる供物台だけでなく、引き出しの供物台として納めたのです。
私が納めたお墓全体の様子が今はどうなっていて、そこにある引き出しの経机がどのように使われているか確認したかったのです。
スムーズに引き出せて、中に線香とかロウソクとかライターふきんが入れられていつでもそこにしまっておける、そんな石の経机です。
いつでも線香やマッチがあれば気軽に墓参りができるでしょう、というのが発想でした。
何年も経って、この引き出しの経机の付いたどのようであるのか、そしてどのように使われているのか、今確認したかったのです。
シンプルで全体がまとまった墓を目指して墓の設計も石材店と相談しながらしましたが、今私が見ても満足いくものでした。
まぁ結論から言えば私が見たほとんどが線香やロウソクやふきんなど綺麗に入れていてうまく綺麗に使ってくれてるんだな、とホッとしうれしくないました。
私は手ぶらで行きましいたが、その机の中から線香などを出して火をつけてお参りしてきました。
この霊園以外の寺墓地にも行って同じようにしながら見て周りお世話になったその石材店の墓地にもお参りしてきました。
これが今回の目的の一つです。
318たか:2009/07/17(金) 00:36:12 ID:L2JL+ok9
そうしているうちにお昼になって青森の健康ランドに向かいました。
夜出発したのは実はこの健康ランドに昼に着きたかったのです。
この健康ランドでは昼13時と夜18時半に毎日大衆演劇の公演があるのですが夜の公演の歌や踊りは何度か見ていたのですが、昼の公演の芝居をまだ見たことがなかったのです。
どんなものか一度見てみたいと思っていたのでそれにあわせて着くように考えていたのです。
お客さんが少なくて(20人ぐらい)ガラガラだったで少し気の毒だったですが、その分近くで楽しく見せてもらいました。
芝居は面白い、、踊りも値段からしたらいいかな、などと思って、明日も今別が終わったら、また見ようかななどと思ってビールを飲み、そこにそのまま宿泊。

次の日、くもり朝8時出発、今別に向かって。
陸奥湾を右に見ながら沿岸を北上、下北半島がすぐ近くに見えて、どこまでも海に沿って。
津軽海峡に出て、北海道がかすかに見える。
今別の町のほうの道に舵を取って少しゆっくり走った。
というのは、目的のお寺がどこだったか、かすかな記憶しかない。
この寺かなという寺があったけれど、もしかしたらもっと先かもと思って前に進んだ。
アッ、通り過ぎたなと思った。
でもここまできたらもう来ることもないだろうから竜飛岬に先に行ってみるか、と思い直して竜飛岬に向かった。
竜飛岬に向かう途中左の山に義経寺という寺が見えた、ここは義経とゆかりがあるのかなと思いながら竜飛に向かう。
竜飛岬は以前一度来たはずだったけれど、風が強くて車から降りずに帰った記憶がある。
その日は穏やかな曇りの日だった。
東大の先の少し高い展望の場で北海道、津軽海峡日本海を見下ろす。あそこで日本海と津軽海峡が交じり合っているんだなと思って見下ろす。
その景色を見ながら少し大きく息を吸うそして目を閉じて辺りの音や鳥の声に耳を澄ました。
私はどこでもこれをする、大きく深呼吸をして、その時の音を観じ取るのだ。
感じ取ると言うより、その時のその場所に身を任せるのだ。これは観光地でも、お墓の前でも一緒だ。
坂を下ったところで草刈の爺さんに出会って話を聞くと、今日は風がなくていい日だよといっていた。
お土産屋でたこのあしの干物一本を細かく切ってもらって、400円。
車の中でこの蛸足を食べながら戻ることにした。
319たか:2009/07/17(金) 01:06:43 ID:L2JL+ok9
>>318訂正
東大、でなく、灯台。
来た道をそのまま引き返そうと思ったけれど別の道があると知って別の道アジサイロードを走ることにした。
名前のとうり道の両側にまだ咲いてはいないけれどアジサイがいっぱい植わっていた。
走っていると義経寺の看板が目に入った、ちょっと寄ってみるか。

というのは、名前からしてきっと義経にゆかりがあるはず、岩手の実家の寺は観福寺は義経北行伝説の最初に立ち寄ったところで、私の知識によればこの津軽から北海道に逃げ渡ったはず。
そんな興味が沸き起こって寺に入っていった。本堂はしまっていて本堂の横に釣鐘がおいてあった。
近くに棒を見つけて二三度叩いてみた、でもたいした音はしなかった。
帰ろうとして少し歩いて振り返ったら少しはなれたところに和尚らしき人が見えた。
こりゃァ、さっきの鐘を棒でたたいたの見られたカナと思った。
320たか:2009/07/17(金) 11:05:40 ID:L2JL+ok9
謝ろうと思って近づいていったら茶色の作務衣を着ていた人はどうやら障子貼りをしているようだ。
とりあえず「障子貼りですか、ご苦労様です」、と声をかけてみた。
人柄のよさそうな人で、「ええ、ここの観音堂の中の障子を暇みてし始めたんです」と隣の建物を指差す。
どうやらとなりは観音堂らしい。その後ろにも観音堂よりも少し小さい堂がある。
「観音堂ですか。私は観音様が好きでして」などと言ったら、
「どうぞ中に入って観音様を見ていってください」と言う。
かってに鐘をたたいたお詫びもかねて、
「それじゃあ、せっかくだから観音様を拝ませてもらおうかな」などと言ってズボンのポケットから小銭を取り出して賽銭箱に入れて手を合わせた。
それを見ていたのか、もう一度「中に入って観音様を見ていってください」という。
中に入って、ぐるりと見てもう一度観音菩薩に手を合わせてでてきた。
その観音堂の前に釣鐘堂がありそこもぐるりと一周して隣の門の横から前にでて、そこで手を洗い水を飲み、また門をくぐって観音堂の前に戻った。
「いい顔だったでしょう。」とまた声かけられた。どうやらこの観音堂の中の障子の張替えをしていたようだ。
「ええ立派な観音様で」と答えると、
「この奥が、33年ごとにしか御開帳しない秘仏の観音様があります。」という。
どうやらこの観音堂の後ろのお堂に秘仏の観音様がいるらしい。
「33年と言うのは観音様だからということですか」と聞くと、
「そうですが、この前はここの住職が変わる時に開帳しました」
321たか:2009/07/17(金) 12:05:55 ID:L2JL+ok9
門の隣に小さな売店がある。
「せっかくだから、何か食べれるもの買おうかな、車の中で、何か食べられるものがありますか」と中に入って見渡した。
「煎餅ぐらいしかなさそうだな」といってゴマの南部せんべいをとってお金を払った。
その時、円空の仏像のポスターが眼に入った。
隣にポットがあって、お茶が入っていて自由に飲んでいいと書いてある。「お茶ご馳走になっていいですか」と聞いた。
「どうぞ、どうぞ」と言うのでご馳走になりながら話し始めた。
「ここの鐘は随分遠くまで響くんでしょうね、ほんとに見晴らしがいい。」釣鐘堂にはさっきの本堂の横にあった鐘とは別に鐘が吊り下げられている。
「ええ、でも年に数度しかたたかないんです。お正月とか・・・。」
「はあ、もったいないですね、こんなにいいところにあるのに。やはり毎日ということはたいへんなんですね。あっちにも鐘がありましたが。」と本堂のほうを指さした。
「ああ、あれはキズがあって新しいのに取り替えたんです。」
「ところでここは義経の北行伝説と関係あるんでしょうか。私の岩手の実家の寺も義経と関係ありますから竜飛岬の帰り思わず寄ってみたのです。」
「ええ、平泉から逃げた義経が本州最後に着いたのがこの寺のすぐ下のところで、海が荒れて足止めを食らった時持っていた観音菩薩に祈ってそれを鎮めてもらったといいます。その時祈った観音菩薩をここにおいていったといいます、これくらいでしょうか。」
いいながら指で四、五センチを示した。
「それではこの寺はそうとう古いのですか、義経の時代と言うと、何宗の寺ですか。」と聞いた。
「ここは浄土宗で、昔、円空さんが立ち寄ってその観音菩薩を見て仏像を彫ったのです。今は円空さんの仏像の体内仏として観音様があり、それが秘仏と言うことです。」
なるほどと思いながらお茶をお代わりした。
「住職さんもたいへんですね、観光の人も来るでしょうから。」と聞くと、
「私は住職ではありませんよ。この寺の住職は向こうにいます。私はこのすぐ下のところに住んでいます。私はこの観音堂の店番です。」
「はァ、そうだったのですか。」驚きながら、返事をした。
もう一度観音菩薩に手を合わせ、今度は本堂の前で手を合わせて寺を出た。
322たか:2009/07/17(金) 13:47:45 ID:L2JL+ok9
寺を出て、一番の目的の今別の寺に向かった。
朝に通り過ぎた時、真宗の文字があって、「あれ、真宗の寺だったかな、そうだったかなと思って入るのを躊躇して通り過ぎたのだ。
門を入ってすぐ駐車した。
「あれ、こんな感じだったかな」と思いながら、外に出た。
車を出て数歩歩いて墓地を見渡して、すぐに、「アッ、あれだ、あのお墓だ」とつぶやく。
近くに寄って行った。

お墓本体の石の種類は中国山崎、横型の墓石である。
外柵は中国河北のグレーの石。
墓全体は色合いは横形の墓石の色が少し濃いグレーで落ち着いた色、外柵は本体より少し薄いグレーの石で墓全体がとても落ち着いて見える。
外柵の内側墓石本体の下も外柵と同じ石の板石を全面に敷いていて、全て磨かれていて雑草も生えていない。
普通は外柵横の下の段は五寸くらいの幅のものを使うけれど、この墓の場合、8寸の幅のものを使い後ろまで左右それぞれ一本もので通している。
その前方は大きくアールをとり丸くしている。ここだけでなく外柵すべて角は丸くR面をとって磨いている。
両側の太い外柵の間、墓石本体の前面は立って拝めるように敷石を敷いている。
墓石の後ろは、かなり高めの屏風を一枚石で立てていて墓石をやさしく包む。その屏風の両端の前に屏風を支える石を控えめに配している。(地震で倒れないように)
余計なものがないから全体がスッキリして伸びやかだ。
横型の墓石にはかなり大きな一字が彫っている。文字の大きさが墓石を引き立てて同時に引き締めている。
文字に優しさもかんじられる。
手を下ろしてもう一度お墓を見た。なかなかというよりかなりいい感じだ。
この墓の前に立って手を合わせて息を深く吸い込んで、ホッとした。
これだったら、きっと、施主は喜んでいるに違いないと思った。

323たか:2009/07/21(火) 13:25:36 ID:HSZDBdHp
このお墓、実は以前苦い思いでがあった。

このお墓は最初外柵も本体と同じ石種(石の種類)の中国山崎で注文だった。
当時、中国山崎は人気があって、しかも、石があまり採れない状況で、まして外柵を作れるような長いものは採れないと聞いていてこれは難しい思っていた。
K石材店にそれを話したのだけれど、どうも競争相手の石材店が中国山崎で作れると強く言っているらしい。中国に問い合わせると、やはり期日(お盆前)までには手配できないという返事が来た。
おそらく他でも出せないはずだと石材店に話しも、よそはできると言っているしそのお客さんは世話になっている人だから、どうにかしろ、と言う。
以前このような時、結果的に諦めた時があり後に立っているお墓を見たとき全く石種が違っていたのに驚いたこともあったけれど・・。
期日が迫ってきた時、たまたま机の上にあった河北のグレーの石が目に入り、この石ならどうにかなるかもと思って、中国に作れることを確認してから、石材店に電話をしてお客さんに変更を説得してほしいと話し石のサンプルを送った。
と言うのは、この石なら石塔より色は薄いけれど、外柵として使った場合その色の薄さがかえって色の濃い石塔を引き立てると思ったからだ。
お客さんに外柵材の石種変更を理解してもらい、どうにかお盆前の納品に間に合うことができてホッとした。施主が初盆にあわせて遠くにいる子供たちに孫たちに親戚に披露したいと言う事を聞いていたからだ。

ところが、お盆が終わり、そのK石材店を訪れた時、この墓石の外柵にいくつかスジ(白い線)があってそれを時間を作って見てきてほしいと言われた。梱包を取ってその3日後墓地に据え付けたときにはそんなに気にならなかったんだと石材店は言う。
場所を聞いて、次の日訪れたのがこの今別のこの墓だった。
324たか:2009/07/21(火) 14:53:30 ID:HSZDBdHp
寺の境内で最初にその墓を見たとき愕然とした。
外柵に白い線が見える、それも3箇所、スジだ。
近くに寄っていって見ると横型墓石の石塔は部品も含めて良品だったけれど、外柵は大きい面に斜めに線があった。敷石にも。
隣は墓がなくてここに墓が建てばそのスジは見えなくなるかもしれないがしばらくは建ちそうにないだろう。
ゆっくり、じっくり見回し、その写真を撮りながら、いろんなことを考えた、どうしたらいいか。

青森に戻って石材店に寄り、どうしてこのようになったのか、このあとどのようにしたらよいか話し合った。
旦那さんがその年の冬に亡くなりその奥さんが施主と言うことだった。その奥さんはK石材店を信用していて天然のものだから白いスジがあってもそんなに気にならないと言ってお墓の支払いはもう済ましていると言う。

その時私は個人で中国から輸入して石材店に中国で作った墓石製品を販売していた。石材店の希望を聞いて図面を作成しそれに基づいて納期を考えながら中国に作らせる、つまりオーダーメイドだ。
中国では注文を受けた商社が石種と納期を考えてそれぞれの工場に注文を出す、工場は石種によって得意な石がそれぞれあって、指定された石種の得意な工場が墓石製品を作る。
工場は納期つまり出航日を逆算しながら製品を作り始める。
だから、よい製品を作ってもらいたくて早く注文しても忙しい工場は納期に余裕があると思えば取り掛からずに納期が間に合う製品の注文があればどんどん間に入れて結局先に注文したものも結局ギリギリの時点で製品に着手する。
今回石種変更があり外柵を取れる石を納期間際に加工した。石は天然のものなので切断して初めて悪いことが判明する場合がある。問題はそれをしばらく気づかせないために工場は誤魔化す方法を取ることがある。
中国の商社は出荷前に検品をするわけだけれど出荷間際になると昼夜連続して稼動しているため全て完全に検品できなくて工場を信じて任せることがある。
今回、工場はスジがあるのは解ってたはずでそれを誤魔化す加工をして梱包し出荷した、同時に検品が不十分だったということだろうか。
誤魔化す加工をしてるから石材店も梱包を解いてもすぐには気づかない。
墓地に建って雨風や太陽の光にさらされる中で、問題があらわになったようだ
325たか:2009/07/21(火) 17:11:59 ID:HSZDBdHp
実は、私は今別でスジのある外柵を見ながらこのスジのあるのを取り替えることができないかなと思っていた。
最初に今別で墓を見ながら、このままにしておきたくないな、と思っていた。

石材店社長と話しながら外柵を交換できないかと話してみた。
そう話したところ、それはたいへんなことだと言う。
青森は冬は寒さがとても厳しい、今別は津軽半島の先端、寺のすぐそばは道を隔てて、津軽海峡、北西の冬の寒さが直接吹き付ける。
そのため他の地域と違って墓石の下の基礎もかなりしっかり厚く打つ。
それに地震などに備えて外柵から墓石本体まで目地が離れないように金具や接着剤・墓石用のコーキングでしっかり動かないようにしていると言う。
まず墓石本体をはずさなければならないが、それもしっかり固定していて簡単にはいかないし、何より和尚に頼んで一度石塔から魂抜きをしなければならない、たいへんなことになる。
悪い部分だけうまく取り替えることなど簡単ではない、何より施主に墓石を取り替えることを話さなければならない。
今、とりあえず納得して支払いを済ませている施主に逆に、悪いのを承知でお墓を建ててお金を受け取った、ともっと悪い疑いをかけられる可能性もある。
だいたい、一度立てたお墓を一度解体してもう一度組み直すなんて聞いたことのない話だし、みっともない話だ。
費用も新しい墓を立てるの以上にかかるかもしれない。

こんな場合、どこの石材店もお客から苦情が来ない限り当然そのままにする、また苦情がきてもどうにか言いくるめて納得してもらうのが普通だろう。
少し考えてからその上で結論をだそうということになった。
326たか:2009/07/21(火) 17:14:53 ID:HSZDBdHp
何日か考えてから、やはり施主に話して取り替えることを承諾してもらおう、とK石材店に提案した。
Kさんを信用して頼んでくれた建て主、この先何度そのお墓に手を合わせるか判らない、そのたびにそれを気にするかもしれない。
石材店にとっても、その建てた墓が一番の活きた見本になり実績になる。逆に気にしているような墓があればその場所に近づきたくなる。自信を持って薦められなくなる。それが心配だった。

施主にどうにか話して翌年取り替えることにした。
遠く離れていた息子さんに、悪いのわかっていて建てたんじゃないのかと厳しく言われたと聞いた。
翌年春、もう一度中国にお墓を注文しなおして全面総取替えを行った、お墓本体も解体した時、間違って欠いたり傷つけることがあるかも知れということで新しい墓石本体も注文したのだ。
結局、K石材店にもたいへんな苦心と迷惑をかけた、そして、私のほうもこのお墓を建てるくらいの負担がかかってしまった。

今別のこのお墓はこのようないきさつがある墓だった。
新しく建てた後、一度この墓を訪れたことがあったけれど、今、もう一度この墓の前で手を合わせたくなったのだ。


327たか:2009/07/21(火) 17:21:22 ID:HSZDBdHp
>>326訂正、
近づきたくなる、を、近づきたくなくなる、に訂正。

何日か考えてから、やはり施主に話して取り替えることを承諾してもらおう、とK石材店に提案した。
Kさんを信用して頼んでくれた建て主、この先何度そのお墓に手を合わせるか判らない、そのたびにそれを気にするかもしれない。
石材店にとっても、その建てた墓が一番の活きた見本になり実績になる。逆に気にしているような墓があればその場所に近づきたくなくなる。自信を持って薦められなくなる。それが心配だった。

施主にどうにか話して翌年取り替えることにした。
遠く離れていた息子さんに、悪いのわかっていて建てたんじゃないのかと厳しく言われたと聞いた。
翌年春、もう一度中国にお墓を注文しなおして全面総取替えを行った、お墓本体も解体した時、間違って欠いたり傷つけることがあるかも知れということで新しい墓石本体も注文したのだ。
結局、K石材店にもたいへんな苦心と迷惑をかけた、そして、私のほうもこのお墓を建てるくらいの負担がかかってしまった。

今別のこのお墓はこのようないきさつがある墓だった。
新しく建てた後、一度この墓を訪れたことがあったけれど、今、もう一度この墓の前で手を合わせたくなったのだ。

328たか:2009/07/21(火) 18:34:39 ID:HSZDBdHp
>>322の続き、
この墓の前に立って手を合わせて息を深く吸い込んで、ホッとした。
これだったら、きっと、施主は喜んでいるに違いないと思った。

その後、周りのお墓を見渡した。
見ると、自分がかかわった墓がいくつか見える。
何しろ、いちいち図面を書いてたんだから、特徴があって見ればすぐわかるのだ。
墓地全体をゆっくり歩きながら見てまわった。それをみながら自分のかかわった墓一つ一つに手をあわせると、奇妙にも納得していた。
この墓地にも例の引き出し経机の付いた墓が一基あった。
机の全面に蜘蛛の巣が付いていたのでそれを払いながら引き出しを引き出してみた。
中には何も入っていなく、逆に土ぼこりが入ったのだろうか、そこに土が薄く付いている。とりあえずそのまま閉めて手を合わせた。一周し戻ってきた。
もう一度手を合わせて車に一度戻ったのだが、車の中のタオルを見たとたんそのタオルで墓を拭きたくなって車を出たときお寺の奥さんに顔があって軽く会釈した。またお墓に行き墓石を拭いた。
そしてさっきの引き出しの中を洗いたくなって近くのペットボトルに入っていた水を持って引き出しの中を洗った。
このお墓の持ち主はこの引き出しが何のためについてるか解っていないな。
329たか:2009/07/21(火) 18:35:32 ID:HSZDBdHp
確かに線香やロウソク・マッチなどを入れるために作ったのだけれど、ただそれだけではない。
この引き出しは雨が入らない構造になっている、そのため使い始めると線香を箱のまま、つまり線香バラのまま入れておく。
墓参りの時、引き出しを引き出してその箱からロウソクを取り火をつけ箱の中から数本の線香をとって一人一人めいめい故人に線香をささげるのだ。
もう一つ言うと、実は、この引き出しこの墓の家族のためだけでなくこの墓に墓参りしてくれる次の人のために、という思いで作ったのだ。
企業で働いているとQC運動というのがある。現場改善運動、品質向上のための運動だけれど、その根本に、次工程はお客様、というこころがある。
会社内であっても、自分の次の工程はお客さんに渡すつもりで、これが次工程はお客様、ということでしょうか。
この引き出しに線香やロウソクを入れているのも同じように、誰かはわからないが思いがけずお墓参りに立ち寄った人のために、次の人のためにという思いがある。

引き出しの中の土を水で洗いながら、もしかしたらこの思いに気づいてくれるのではという思いで戻ってきたのだ。
洗いおわって元のどうり戻して手を合わせて数歩歩いて前を見て驚いた。
330たか:2009/07/22(水) 15:29:20 ID:ot8u6k/w
前を見たとたん、あのお墓の前に花束を持って立っている女性がいたのです。
近寄りながら、「あのぅ、そのお墓の家の人ですか」と声をかけると、こちらを振り向いた。
「K石材店で建てたお墓ですよね、あの、私、K石材店に石をおさめたものです。」と言いながらペットボトルを置きながら近づいた。
女性は突然声をかけられて驚いている様子だ。すぐ隣に近寄って、
「最初、外柵のこの部分に白いスジがあって、次の年に取り替えたんです。それが気になっていてどうしてもまた見たくなって仙台から来ました。」と言った。
どうやら、私の話していることがわかったらしく少し落ち着いた表情になった。
「K石材さんの・・、アッ、そうですか、宮城ナンバーの車が止まっているから誰かなと思って、エッ今日来たんですか、わざわざ。」
「昨日出て来て、今朝着いたのだけれど場所がわからなくて先に竜飛岬に行って義経寺で観音様を見て戻って墓参りに来たんです。おうちの方に会えるとは思わなかったけれど、まさか会えるとは思わなかったです。」
どうやら、施主のおかあさんのようだ。
「お墓を建てた時白いスジがあって、それを見てきてくれといわれてここに見に来たんです。見て申し訳ないなと思って、K社長と取り替えた方がいいと話し合って、次の年に取り替えたんです。申し訳ありませんでした。」
「やあ、あの時は石屋さんに任せておいて、でも天然のものだからこういうものもでるんだろうとそんなに気にもしていなくて、それでお金も払って・・」
「ずうーっと、心配していて見に来たいと思ってたんです。でも見に来てよかった、まさか会えるとは。」
331たか:2009/07/22(水) 16:38:45 ID:ot8u6k/w
「やあ、うれしい」といつて、ティシュで目を拭き出した。「わざわざ来たの、今日は主人の月の命日で午後から来ようと思ってたんだけれど、まさか来てくれるとはね。」
「さあ、そこに座って、そこに座って」と言って、外柵のアール加工したところを指差して、「ここはね、孫たちが墓参りに来た時怪我しないように、石屋さんに言ってまあるくしてもらったのよ。孫たちに座らせるように。」
そこに腰掛けるとと、お供え物と取り出しながら花を花立にさしながらいろいろ話し出した。
墓の字もこのお母さんがだいたい雰囲気を書いてそれを元に書道の先生に書かせたものらしいこと、亡くなったご主人のことなどいっぱい話す。
「みんなが立派な墓だと言ってくれるのよ、500万以上だと言うのよ、全然そんなにしてないのに。ほんとにうれしいわよ。涙がでてくる。食べて食べて。」とお供えのおにぎりとか、水、リポビタンD、缶ビールやワンカップの酒まで差し出す。
「まずはお供えしてからいただきますから」などといって線香に火をつけて墓に手を合わせた。
「それにしてもこんなことってあるのかしらね、ほんとにうれしくて・・、おにぎり作ったから食べて食べて。私、駅弁大会で賞とったのよ」と言ってまた涙を拭く。
「あの石屋さんはいい人よね、言わないのに、お母さん歩きやすいだろうからといって、ここに砂利を敷いてくれて、この前の墓なんかよそで建てた墓でここなんかはがれているけれど、地震の時倒れたのをよそで建てた墓なのにすぐに直してしてくれたのよ」
いろいろと話している間に正午を知らせるチャイムが聞こえてきた。
「もう一度お参りさせていただいて帰ります。」と言うと、
「それじゃあ、これ持っていってこれ持って行って」と持ってきたおにぎりやバナナビール酒を袋に詰め込む。
そして、先に開けていたビールとカップ酒を墓の前の砂利道にまき始めた。
「こうすると、土にしみこんで主人のもとにしみこんで行くんですって。このパンはカラスのために持ってきたの、鳥たちのためにちゃんと用意すると、鳥たちに墓を荒らされないのよ。いつもそうしてるの。」といった。
お母さんのご好意に甘えてパン以外の供物を全部もらうことになった。
それにしても会えてよかったと思いながら、もう一度車の前で深々と頭を下げた。
332たか:2009/07/22(水) 17:46:00 ID:ot8u6k/w
余韻に浸りながらも今別を後にした。
青森に行く途中、前に行ったことのある墓地を探したけれど見つからなかった。
どうしようかなと考えていると、今はもうおやじさんは亡くなって石材店をやめているけれど、青森の石材店で温泉(銭湯)をやっていたのが思い浮かんだ。
もう青森にはなかなか来れないからあの銭湯をもう一度訪ねてみようと思った。
カーナビで場所を見て行ってみた。
沖館温泉という銭湯で天然かけ流しの温泉で以前一度だけ入ったことがある。
この温泉の先代は石材店で昔私は何度か取引があった。
石材店ではあるけれど、温泉を掘り当てて温泉で充分な収入があるらしくお墓の仕事をしゃにむに取ろうとはしない、従業員の二人ものんびりしる。
でもどういうわけか私はここの社長とは話が合った。
当然お墓の石を買ってもらったのだけれど、あるときこんなことを言っていた。
私は石屋で小さい時から親父に育てられた。石屋でやってきて、たまたま温泉を掘り当ててお蔭様で今は温泉で不自由なく食えるようになった。でもやはり石屋には違いない。
いつか、自分の温泉を石屋の温泉として自分たちで加工した石でいっぱいはって銭湯のお客さん、みんなに喜んでもらいたいんだ。
そのためにいくつか石を集めてるんだ。
君の石も使うからと言って設計図まで見せられらことがあった。その時は興味がなが、うんうんとうなずいてきいていた。

温泉の改修工事をして石を張り替えてしばらくたったとき、一度うちの温泉に入っていきなさいと言う。その時は仕方なく、お言葉に甘えてただで入らせてもらった。
温泉に入ったはずなのにどうも番台の前までの記憶しか残っていない。どんな石が使われてるのか思い出せないのだ。

そういうことで青森に来た機会に、もう一度その温泉に入って、どこにどの石が使われているのか見ておきたいと思い始めた。
333たか:2009/07/22(水) 18:42:08 ID:ot8u6k/w
カーナビを見るまでもなく看板を見てどうにか着いた。
タオルとゴシゴシタオル、バスタオル、石鹸、シャンプーを用意して。
どうやら400円、番台は昔ながらの古風なタイプだ。
この番台は覚えている。
着替えながら少し見回す、浴室のほうを見ると確かに石がいっぱいはってある。
着替えの部屋の洗面所に使っている石はインド産のアーバングレーで私が売った石だ。
この石は加工がたいへんだけれど水を吸わないというか、水をはじく。
裸になって浴室に行った。ああ、なるほど天井以外石ばりだ。
女湯と男湯を隔てている壁の中央の上からお湯が滝のように石を伝って流れ落ちてきている、そこに使われてるのはエメラルドパール、湯が流れるのに従ってキラキラ見える。
その両側を挟んでいる黒石は南アフリカのベルファースト,エメラルドパールも,ベルファーストもポルトガルの石も自分が売ったものだからよく覚えている。
加工する時も見るときがあって通常の建築材よりもかなり厚く加工していてしっかりボルトで固定してあるはずだ。
サウナ、水風呂、打たせ湯、アワ風呂、ここの湯は無色無臭塩分がなく地中からくみ上げる時に管を傷めづらいのだと聞いたことがあった。
一通りゆっくり入った。
その他岩手姫神の石とか外国の石を使っている。
ここの社長に最後に会ったのは老人性結核で見舞いに病院に行ったのが最後だったんだな、と思い出しながら湯に浸かり石に囲まれながらゆっくり息を吸った。
石材店は閉めても、温泉の中にその心を残すか、銭湯を出てポカリスェットを飲みながら思った。
334たか:2009/07/22(水) 19:44:25 ID:ot8u6k/w
まぁ、残すと言っても建物も永遠のものではない、いつかは崩れ去ってしまうだろうか。
でもその心は残るかもしれない。あとの人が残そうと思えば、きっとこの銭湯の石も・・。

宮城からずっと走ってガソリンがなくなり給油した。
そういえばこの石材店の工場跡は今はどうなってるんだろうと思った。
三内霊園の方に向かった。
それにしても昨日も驚いたけれど、このすぐ近くに青森駅ができるんだなぁ、今回青森に来て初めて知った。。
工場、石置き場は更地になっていた。
そこから三内霊園に入った。少しぐるりと回ってみるか。
少し走ると、棟方志功の墓、という看板が見えた。
何度もこの前通ったけれど、今まで志功の墓を見たことはなかった。ちょっと見てみるか、という気になった。
車を寄せ歩いた、すぐのところにあった。
「へえ、こんな墓なの、結構こじんまりしているな。」と思った。
エメラルドパールか、墓の石。さっき沖館温泉で見た滝の石と同じだ。
石碑の前面には
  棟方志功
    チヤ
   静眠碑 
  1903 ∞
  1909 ∞
と彫ってある。隣も同じ形の墓、棟方家、が建っている。
この二つの墓を包むように囲んでいるのは青森市で取れる野内石だ。
墓に近づくと墓の後ろの外柵にブロンズの板がはめ込まれている、何か字が書いてある。
 驚異モ 歓喜モ マシテ悲愛ヲ 盡シ得ス
この心が、棟方志功の心かな、と思った。
335たか:2009/07/22(水) 23:14:34 ID:ot8u6k/w
棟方志功の墓に手を置いて見ていたら志功の墓の後ろの面にも何か彫ってある。
何だろう。判読できない。志功の絵だろうか。よく解らなかった。
よく見れば横の面にも何か彫ってある。建立月日かなぁ。
次の瞬間驚いた。その隣に、彫刻者が彫ってあった。思わず、「ええエッ」、と声を上げた。あの石屋のおやじの名がしっかり彫ってあった。
普通、こんなに大きく石材店の店主の名が彫ってあるのを見たことがなかったからだ。それも棟方志向の墓に。
そういえばエメラルドパールの時だったか野内石の話をしたこともある。あの時この墓と関係してたのかなあ。
詳しくは思い出せないが、人の人生はどのようなもんだろう、と若造の私が聞かれたこともあったような。

そんなことをしてたら一人の男の人が墓に近づいてきた。それを見て私は「ここが棟方志功さんのはかです」といった。
その人の話を聞くと、自分の母親の墓参りをしたくてこの墓地に来たが、墓地の事務所に行っても墓がわからなかったという。
仕方なく歩いていたら志功の看板があって志功の墓に向かって歩いてきたら偶然母親の名前が見つかったという。
面白そうなので、その人の話を聞きながら後を付いて行った。50メートルぐらいのところにキリスト教のはかがあった。
押しの中央にを指差して「これが母親です」という。キリスト教の共同墓地では普通見つけるのは不可能だろう。周りにもキリスト教の墓が他にもある。
話を聞けば聞くほどなかなか複雑な家庭でここで書くのは難しい。両親は離婚していて母親と別性だ。その人は棟方志功の墓がなかったら母親の墓を見るけられなかったという。
一時間ほど立ち話をする中でどう言うわけかここで書いてきた大乗の心について話していた。
こんなことは普通話さないのに、それも初対面の人に、ほんとに不思議だった。

棟方志功のことについてはまたとで書きます。
336たか:2009/07/26(日) 13:42:09 ID:EELXwz75
全てが、一期一会、日常の普通の生活も一期一会だけれど、旅はそれをもっと強く観じさせます。
当然目的はあって旅はするものですがその行く途中またその旅の中で当初自分が描いていなかったものに出会うことができる、その新鮮な驚きがあります。
その時、その場所でしか観ずることができないこともあり、またその時の人との出会いもまた同様です。

芭蕉も奥の細道で細やかに綴った行く先々での出来事もまた面白く、それが一つ一つの名句にもその深みを感じさせ、今でも多くの人を惹き付けています。
例えば、蚤虱馬の尿する枕もと、などという句は、いくら頭で考えても出てこない、旅のいきさつ、実体験、その時の匂い、音、その場の雰囲気、それが句に現れているのでしょう。
その場その瞬間でしか観ずることができない出会い、それが一期一会でしょうか。だからそれを大切にする。そこに生きる喜びと面白さを見つける、そしてまた、出会いにより互いに心を通わす、その心をかよわす喜びもある。

出発する前には思いも知らなかった今別のおかあさん出会い、墓の前で墓を横にしてその故人の話を向かい合って石に腰かけながらおにぎりを食べながら話す。
私は勿論、このお母さんも初めて見る人と向かい合ってここでおにぎりを食べるなどとは全く思い描いていない事だったでしょう。
いや、もしかしたら、このお母さんの頭の中には遠く離れたところにいる孫たちとこのように向かい合っておにぎりを食べる姿を思い描いていたのかもしれませんね。
337たか:2009/07/26(日) 13:46:40 ID:EELXwz75
棟方志功の前で出会った男性もそうです。互いに初めて会う見知らぬ人です。たまたま志功の墓で出会った。
小さいとき母親と分かれて、墓の場所が解らないところをみると母親が死んでから初めての墓参り、どうしても墓参りをしたくなったのでしょうか。
諦めた時偶然見つけた母親の名前、私に出会ってその思いを話したくなったのでしょう。
自分を引き取った父も随分前に亡くなって、血の繋がる人はずうっと会ってない母親の方にいった姉だけだという。
墓の前で立ち話をしながら、自然に仏教の話をしていた。
「あらゆるものは消えてなくなっていくけれど心は伝わっていきますよ。話しているとあなたは優しい人だからその心はきっと周りの人たちに伝わっているはずです。」
「仏教では月の光で例えたりしますが、月が照れば多くを照らすように、あなたの心を月に例えれば、きっと周りの人にあなたの心が伝わっているはずですよ。」
話しながら、また志功の墓に戻った。
「この墓はね、このお墓を、志功をこの周りの青森の石で包んでいるように作っていますね。おそらくこの石屋が考えたのかもしれませんね」と私はいった。
青森駅に戻りたいからというのでバスの多く通るところまでのせていくことにした。
少し走ったとき、ここでとめて下さいと言う。
「この近くが、姉の家だから、やっぱり寄っていきます。」「ありがとうございました。」といって降りていった。
338たか:2009/07/28(火) 00:32:44 ID:5PduMOdy
男性と別れて健康ランドに向かった。
着いたのが18時、あと30十分で夕方の演劇が始まると思い、残っていたおにぎり三個を平らげる。
あの今別のお母さんと一個ずつ墓の前で食べて残りは全部もらってきた。おそらく10個おにぎり作ったろうから分れてから八個も食べたのかと苦笑いした。
入館し、すぐに風呂に入り会場に向かった。
土曜の夜ということもあるのか、テーブルは予約席でいっぱいで後ろのテーブルに座ることにした。そういえば駐車場には多くのバイクもあったし、今日はいろんな人が来てるんだなぁ。
テーブルの向かいの老夫婦に「予約席がいっぱいで後ろの席しかありませんね」と話しかけた。
どうやら、この近くの人でたまに夫婦そろってここに来るという。「昔は多くの人が来て、この場所でなくて別な大きい場所でショーをやってたんだよ、滑り台のプールもやっていて子供たちも多く来てたんだけどね」と話してくれた。
演劇が始まった。昨日とは違う出しものだ。でも離れていてどうも芝居に集中できないな、人は前を何度も通り過ぎるし・・。
そう思っていたらいつの間にかその老夫婦、前の空いている予約席にちゃっかり座っていた、さすがは年の功だ。
芝居はもう一つ私の心に響かなくて、次の踊りは昨日と同じような感じだったので途中で席を立った。
私が健康ランドが好きなのは、いろんな人がいるからだ。ビジネスホテルに泊まると酒飲んでテレビ見るだけだけれど、ここはいろんな人が来ていて、何とわなしに見てると面白い、家族ずれもいれば、なんとなく変なカップルもいる。
いろんな人がいろんな思いで集まっているんだなと、つくずく思ったりする。
この日もよぼよぼ今にも倒れそうなの男性の老人と連れのこれも年老いた女性がいて、休憩室で男性を必死で看病しているような雰囲気だ。何もその年になってここに泊まらなくてもとついつい思ってしまう。デモなんか事情があるのかな。
まさに、いろんな人の集まりだなこりゃ。
次の日は朝にまず風呂に入って風呂に入っている時、風呂の湯を少しなめてみた、少し塩っ辛いなと思った。
8時に出発、今別のお母さんから頂いたバナナを4本食べながら、酸ヶ湯温泉に向かった。
339たか:2009/07/28(火) 01:19:59 ID:5PduMOdy
今回の旅の目的も達成したし今日は温泉三昧だ。
酸ヶ湯は今まで2度ほどいったことがある。よくテレビや雑誌にでてくる秘湯で,千人風呂という混浴がある。
酸ヶ湯につく手前で、ロープウエイが見えた、思わずロープウエイの乗り場の方にハンドルを切っていた。
今までこのロープウエイには乗る機会がなかったな、これが最後の機会だろうから、と乗り場に向かった。
山はそこそこの天気らしい、往復で1800円、トイレを済まして乗り込んだ。
二本ロープウエイが動いていて、乗ってる時間は片道10分、20分ごとに出発しているようだ。
日曜ということか、満杯だ。それにしても登山の格好をした年配の女性が多いのに驚く。
動き出して遥か向こうにかすかに青森市内が見えた、ロープウエイのすぐ右下の谷はスキー場だそうだ。
ちょうど中間地点でロープウエイが交差する、相手に向かってみんなで手を振っていた。
てっぺんの駅に着いたら薄く雲がかかっている。見通しが悪いなと思いながら降り立った。
すぐ折り返し帰るつもりだったが、他の人たちがグループごとに歩いていく姿と、30分、60分コースという案内の看板を見てまさか遭難しないだろうから、せっかくだからどっかのグループのあとをついていくことにした。
登山の女性たちは高山の花を見ながら立ち止まって話しながら歩く、わたしは花に興味などないからどんどん追い越していく。
この辺の松は枝が上に伸びるんでなくて下のほうに伸びていくんだなと初めて気づいた。カトちゃんケンちゃんのヒゲダンスのような松の木だらけだ。ヒゲダンスのリズムをとって前進だ。
鳥の声が聞こえる、ウグイスのようだ,道を上下しながら、鳥の声と景色に包まれて歩いた。
途中視界の広がるところに出て、いろんな草花が咲いている、ここは豪雪だろうにみんな夏を待っていたんだなと思う。
すっかり追い越して前に出てしまったけれど、標識と道順に沿って行けば大丈夫だな。
340たか:2009/07/28(火) 02:07:25 ID:5PduMOdy
道を歩くとウグイスの声が次から次と聞こえてくる。ついついウグイスのマネをしたくなって口笛を吹いてみる。
おおお、こちらのマネにすぐに答えて返事をくれる、歩きながらマネをすると先のが通り過ぎるとまた違うウグイスが歌いだす、今度はこっちに合わせてとまた口笛を吹く。
こりゃァなかなか、楽しいな、などと道を上下しながらあるいた。
歩けは景色も変わるし、音も変わる、楽しんでいるとロープウエイの広場に着いた、どうやら60分コースを40分ぐらいで歩いたようだ。
駅ではテレビで映画の八甲田山を映していた。せっかくだから、この駅でもトイレを、犬みたいだな、おしっこを残して・・と思い、苦笑した。
10時に山の駅について11時のに乗った。中国語が聞こえて、中国人の留学生も来てんだな、いろんな人がいるんだと思った。
駅はガスがかかっていたけれど、動き出してすぐに視界が開けた、山の天気はほんの少しで変わるな、下の景色を見ながらここに降りたら遭難間違いなしだなと思う。
緑もいいけれ、紅葉は綺麗だろうなと思う。
下の駅について記念にソフトクリームを買って食べた。このソフトクリームは濃いのよと売店のおばちゃんが言う、250円。
駅の出口に水飲み場があってそこで水を飲んだ。美味しい、八甲田の水だな、こりゃ。
車に戻って空のペットボトルを二本持ってまた水飲み場に戻った。これで飲み物はまにあうか。
さて酸ヶ湯に前進だ。
昨夜テーブルの向かいに座った夫婦に聞いたら、「酸ヶ湯は観光地化して面白くないよ」といっていた。
さてどうだろう、と思いながら車で走ると酸ヶ湯についた。観光客が多いな、駐車場が満杯だ。
どうにか駐車できて、タオルを持って温泉に。
入浴料、600円と1000円、なんだコリャ。1000円は二つの湯に入れるみたいだ。
よく解らないけれどとりあえず1000円を。

341たか:2009/07/28(火) 02:53:42 ID:5PduMOdy
服を脱いで千人風呂に、広い浴場が・・、いい風情があるはず・・・。
「あれ、ついたてが立っている。前はなかったはずなのに」
ここは、男女の脱衣場が別だけれど中は一緒の男女混浴になっている。
女性の風呂のところに前はなかった大きなついたてがあり仕切られている。それに女性はいなそうだ。
あっ、いやいた、男の風呂のところに黒いビニールを着た婆さんがひとりいる。風呂に入るでもなくふちに座っている。なんだこれは。
さっき、駐車場には若い女性もいっぱいいたのに、どこいったんだ。
なんで黒いビニールを着て男湯のほうにいるんだ。
しばらく湯に浸かりながら、なるほど、昨日の老夫婦の言ってたことが身にしみて解った、この光景は酸ヶ湯の湯より心に重く効くと思った、ジャンジャン。
なるほど酸ヶ湯はつまらなくなったな、別に裸の女性を見たいわけではないけれど、全く情緒がないよ。これも写真の隠し撮りなどの影響なのかな。
そう思いながら、酸ヶ湯の湯を少し口に含んだ、やっぱり酸ヶ湯の湯は酸っぱいな、これで入湯料は高いぜ、、、。

そそくさと出てもう一つの湯に向かう。旅館の奥のほうにあった。
どうやら若い女性はこちらに行くみたいだ。
こちらの湯は完全に男女が分れているようだ。
狭い脱衣場で服を脱ぎ、戸をあけた。小さな風呂が一つ、洗い場も三人でいっぱいだ。
ここの酸ヶ湯は酸性が強く石鹸は使えない。なんとなくタオルで身体をゴシゴシするだけだ。
さっきの千人風呂は風呂の温度もぬるくつまらなかったが、こっちの狭い風呂は温度も高めで身体にピリッと来た。
少しぐらい刺激がなくてこんな山の上まで、わざわざ来る意味があるのかな、秘湯が泣くぜ、と寂しく思えてきた。
342たか:2009/07/28(火) 10:26:20 ID:5PduMOdy
まあこんなこともある、これはこれで思い出になるってものかな、と思いながら酸ヶ湯を出た。
せっかくの温泉三昧の熱き思いがしぼんでしまうと思って、もういっけん露天風呂でもないかなぁ。
少し走ると日本三大秘湯という字が見えた、谷地温泉にハンドルを切った。
建物の入り口のところに人がいたので露天風呂かどうか聞いてみた。
ここは露天ではなくて、この近くにも露天風呂はないという。露天風呂でなければ入る必要もないな、と辺りを見回すと散策コースの看板がある。
せっかくだから行って見るかと言う気になった。
駐車場の端から山の方に入った。道ともいえないようなところを歩いていると看板がある、どうやら水芭蕉があるらしい、見てみたいと思った。
この辺かなぁ、大きな葉っぱをよけて覗き込んだ。
突然気づいてしまった。どうやらこの大きな葉っぱが水芭蕉だ。あの可憐さがどこにもなかったあの可憐な水芭蕉がこんな姿に、力が抜ける。
自分でかってにいつまでも可憐な水芭蕉をイメージしてたんだな、現実を見つめた。そりゃそうだよいつまでもあんな姿でいるわけがないんだよ。これもこれで新しい出会いだね。
この温泉では入らずに奥入瀬渓流に向かうことにした。
ブナ林かな、白樺林なのかな、新緑の中は車で走ってもすがすがしさを感じる。
しばらく走ると右側に空間があり数台車が止まっているのが見えた、なんでこんなところにと寄りたくなった。
車を降りて川の方に歩いた、「おお、ここはなかなかの景色だ」
木々の間をいくつかの川が流れてきてる、何か絵になりそうだ、絵の才能がないのが残念だ。
川に下りて、水を掬って飲んだ。十和田の山の新鮮な水だ。大きく息を吸い込んだ。
343たか:2009/07/28(火) 10:54:11 ID:5PduMOdy
これが自然を味わうってことだな、と思った。
何もなくただ自然があるだけ、自然に包まれてることだけ観じる。
車に戻る途中椅子に座ってくつろいでる人に出会った。
「ここはいいとこですね、」と声をかけた。
「うん、たまに来るんだよ、ここは、この川はこんな大きな岩魚がつれっるんだよ」といって両手で50センチ位を示した。
どうやら酒が入っているようだ。「にょうぼと子供はそこから先の赤沼に散歩に行ったんだよ。秋にはきのこも多くとれるんだよ、こんな大きな前茸が、ここは。」と言ってまた一口、口に含んだ。
柔らかい日差し、かせもすがすがしい、川の音や鳥の声も聞こえる。
のどを通る酒も美味しく流れるに違いない。
こりゃァ最高の酒のつまみの景色だなぁ。池大雅と与謝蕪村の絵を思い浮かべた。

車に乗ってトンネルを抜けて少し走って車を降りた。
川の雰囲気が変わったからだ。川全体が岩だらけだ。川に下りていった。
こりゃいいや。さっきのところとも違うし、奥入瀬渓流とも違う景色があった。

344たか:2009/07/28(火) 11:13:43 ID:5PduMOdy
岩をつたって川の中央へ出た。
段を作っていて小さな流れのいくつもがときに荒く、細い滝のように音を立てていくつも流れている。
その一つに両手を伸ばして水を掬って口に含んだ。この水も美味しい。
川の中央の平らな石に仰向けに寝転んだ。両側十数センチのところを水が流れている。
太陽が降り注ぐ、水の音がいろんな音を立てながらリズムかるに包み込む、時々鳥の声が聞こえるだけだ。
川のそばを車が通っているだろうに、それさえ聞こえなかった。
およそ30分そうしてだろうか、動けなかった。
音が包み込むって、これだなとおもった。
起き上がると遠くで父親と女の子が岩の上を飛び越えながら遊んでいるのが見えた。
345たか:2009/07/28(火) 12:11:08 ID:5PduMOdy
右手に橋が見えてそれを通り過ぎながら奥入瀬に向かった。しばらく走って。
道のそばに車が多く止まっている。なんかあるのかな、と思って車を降りた。
どうやらここは石ヶ戸という休憩所だ。
トイレを済ませて川沿いを上流に歩いてみた。
新緑に覆われた中で奥入瀬の流れが岩に当たって時に激しく音を立てながれ、今度はゆるいながれになって静かにながれている。
倒木もコケをつけながら川を横切ったまま倒れている。
道の反対側では小さい滝の音も聞こえる。歩きながら音に耳を澄ませ無心に味わう。
緑に包まれているのは違いないが、歩きながら景色や音がどんどん変わっていく。

突然、ハッと思った。自分が歩いてるんじゃなくて音がどんどん近づいてきて通り過ぎていく。
景色もそうだ、緑の景色が自分の前を通り過ぎてゆく。
そういえば、八甲田のウグイスの声もそうだった、確かに自分が歩いているからこそ音が変化しているはずなのに、、それと違うのも感じていた。
音の方が通り過ぎるというか、近寄ってくるというか。

九十九島、滝のところで折り返すことにした。
戻る途中で、関西の人に出会った。二組の夫婦で一緒に東北を旅行しているらしい。
話に夢中でいたのだろうか、いつの間にか石ヶ戸をすっかり通り過ぎていた。
相手の男性が苦笑いした、「絶対石ヶ戸のところで気づくはずなのに、狐に化かされたみたいだ」と。
「まあこれもいい思い出の一つなるかもですね、記念写真よりもいつも話にでる酒のつまみ話になるかも、今夜のビールも美味しくなりますよ」、と私も笑った。
346たか:2009/07/28(火) 13:04:29 ID:5PduMOdy
石ヶ戸でトイレを済ませ車で上流へ、
雲井の滝のところにとめた、降りていって滝のすぐ前に近づいた。二段の滝になっていてしぶきを浴びながら一分ほど目を閉じた。
滝の音が響いてくる。ここでも滝から流れてくる水を掬って飲んだ。
続いていくつかの滝の前でも同じようにした、しぶきを浴びながらなんとなくうれしくなる。

夕方になって車も少なくなってきた。少し大きい滝が見えた、写真でよくでてる滝だ、その先で車を止めて遊歩道を歩く。
銚子大滝という滝で奥入瀬の中では一番水量が多いようだ。銚子大滝の前に立って音を感じた。少し下って九段滝の前で同じように目を閉じて。
歩いてみてみれば途中の倒木にコケが覆ってその中から新しい小さな若木がいくつものびてきている。
大木が倒れて、そこから新しい命が動き始めている。この緑に覆われた滝の水音の中で。
自然は厳しいし、命は永遠ではないけれどさびしくもおもえてくる。
しかし、同時にその環境の中でまた命が芽生えているのを見るのは心温まる思いもする。
人が来たのでくるまにもどって十和田湖の子の口に向かう。
湖面は穏やかで日光が照って輝いている。
まだ、その光と風を感じて、日が落ちるのには時間があるなと思って、ふと乙女の像を見てみたくなった。
今までと十和田湖には何度か来たけれど、今まで乙女の像は見たことがなかった。
見たいとも思わなかったからだった。でも今日はなんだか。
347たか:2009/07/28(火) 14:09:33 ID:5PduMOdy
休屋というところについた。
日曜に夕方でお土産屋もさんも閉まっている。駐車場から湖畔を歩いた。
十和田湖畔の砂地を歩くと、波が一定のリズムで岸に押し寄せる小さい音が心地よい。
斜めに傾き始めた光も湖面を輝かせている。
10分ほど歩くと乙女の像のところに着いた。
乙女の像の初めての印象は、随分ガッチリした女性の像で、普通私が思い浮かべる乙女とは違っていた。
隣にいた旅行客の女性が、「17歳の女性がモデルなんだってガイドさんがいってたけど身体がムッチリしてるはね」と言っている。
若い女性が向き合って少し前傾姿勢で互いに左手を合わせようとしている。
へぇ、こんな女性なんだと驚いた。大地に根をおろした女性を感じる。
少し奥の方に行くとこの像のいきさつが書いてあった。
そして、その横には高村光太郎の詩が石に彫ってある。
348たか:2009/07/28(火) 14:11:17 ID:5PduMOdy
「十和田湖畔の裸像に与う」という歌碑だ。

銅とスズとの合金が立ってゐる。
どんな造型が行はれようと
無機質の図形にはちがひがない。
はらわたや粘液や脂や汗や
生きもののきたならしさはここにない。

すさまじい十和田湖の
円錐空間にはまりこんで
天然四元の平手打をまともにうける
銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人
影と形のやうに立ってゐる。

いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくづれるまで
この原始林の圧力に堪へて
立つなら幾千年でも黙って立ってろ。

「十和田湖の裸像に与ふ」 高村光太郎

349たか:2009/07/28(火) 14:49:23 ID:5PduMOdy
この詩を読んだ後、もう一度湖畔の方に行って乙女の像を改めてみた。
なるほどこの二人の女性の間の空間が大切なんだな、と思った。
向き合う女性は同じ人なのだろうか、もし同じ人なら、身体と心かもしれない。
その二つが一つになる、いや、身体と心、この二つの像を一つものとして現しているるのではと思った。
二人の女性と見るのではなく、その彼女らの中央の空間も含めて一つなのだ。

乙女の像を背にして、十和田湖を見つめた。
湖面に輝く光、湖面からやさしく風が彼女らの空間を通り過ぎる。
岸に打ち寄せる波の音も心地よくこの空間を通り過ぎていく。
十和田湖全体の空間はまたこの女性たちの円筒空間の中にいる。
しかし十和田湖の四季は厳しくて同時に澄み切っている。
下手な欲望などない、ありのままのすがたと厳しさが。

「この原始林の圧力に堪へて 立つなら幾千年でも黙って立ってろ。」 という言葉の中に何かしら光太郎の優しさが観じられた。

湖面に向かって大きく息を吸い込んだ。

350たか:2009/07/28(火) 15:03:50 ID:5PduMOdy
実はこの時点では高村光太郎と仏教が全く解らなかった。当然光太郎と宮沢賢治のことも。

夏休みに入り、青森に行く人もいるかもしえません。
乙女の像の前で写真を撮る時は、カメラに夢中になるだけでなく、十和田湖の光と風と波の音と鳥の声に心を預けてください。
もしかしたら、高村光太郎の心が一層強く伝わるかも知れません。
351たか:2009/07/28(火) 15:58:22 ID:5PduMOdy
それにしてもたくましい乙女の像だったなと岸辺を歩きながら思った。
こんな像を見ると男は小さく見えてくる。
女性はたくましくて、男にはおよびがつかないなと思えてくる。

まだ日が沈んでいなかったので、また奥入瀬に行こうとおもった。
子の口を過ぎると少し暗くなってきた。
ゆっくり運転しながら、さっきの銚子大滝に向かった。
もうほとんどすれ違う車もなくなっている。車を降りて大滝の前に立った。
誰もいなくて、道を行きかう車もない。
綱を乗り越えて、滝のすぐ近くに進んだ。思わず手を合わせたくなった。
ここでも滝から流れてくる水を手で掬って飲んでみた、顔も洗った、気持ちいいと思わず叫んだ。
滝に向かって目を閉じてしばらく滝のしぶきと轟く音に包まれている。
緑の木々も包む、鳥の声は聞こえる、それ以外ないんだな。
国立公園の名所の中で、こんな体験することって、他にあるんだろうかと嬉しくなる。
およそ五分。
滝に手を合わせて車に戻った。

奥入瀬をゆっくり走りながらいい旅だったと思った。
もうひとつしたいことがあって、車を走らせた。
十和田市を北上してもう一度七戸町へ,ここにあすなろ温泉という銭湯がある。温泉の湯にはいってから帰ろうと思った。
青森県はどこに行っても温泉がある、でも一番一番数多く入った温泉だ。
別に変わったことなどない銭湯だけれど、この温泉の湯も好きだ。
280円払って入った。
湯船の中央に丸い湯の湧き出し口がある。完全賭け流しだ。湯は少しぬるっとして肌がすべすべになるような気がする。
ここに最後に入ろうと思っていたので谷地温泉に入らなかったのだ。
身体も洗ってお風呂に浸かり、ここでも湧き出し口の湯を少し掬って飲んだ。

今日は温泉も入ったし、森林浴もしたし、川の真ん中でネコロンだし、山で散歩もした。
川の水も、温泉の湯も飲んだ。空気も吸ったし満足だ。
夜に向こうをたって途中ゆっくり仮眠しながら朝7時に家についた。
352たか:2009/07/29(水) 16:32:04 ID:y2b5912p
家に帰って、棟方志功や高村光太郎を調べてみれば、なるほどそうなのか、というところが多くある。
この人たち、おそらくい多くの点で違うタイプの人たちだろう。
ただ、仏教を通じて共通の何かを感じます。

まずは、棟方志功から。
棟方志功を検索して、まずはじめに目に飛び込んできたのが、棟方志功のあの青森のお墓の写真です。
あのエメラルドパールの、あの石屋が彫った、あの墓です。
随分こじんまりしたお墓だなぁと思いましたが、読んでみれば墓の形はゴッホの墓を模した形だったんですね。
志功が「わだば、ゴッホになる」といってゴッホを目指していたのは誰もが知る有名な話で、私もそのくらいは知っていました。
油絵でゴッホを目指して上京します。ところが苦難の末たどり着いたのが日本の美であり、逆にゴッホがあこがれた日本であり板画であり、仏教の他力の考えであり、無心であり、そのおくの「歓喜」であることがわかってきます。
353たか:2009/08/01(土) 19:06:41 ID:l61uRZaY
八月になり、これから東北はどこもお祭りが始まります。花火大会もあって、ドン、どドン、と大きな音と共に空いっぱいに花が咲きます。
祭りには太鼓や笛や鉦の拍子も付きもので必ずどこからか聞こえてきて、それを聞けばどうにもこうにもジッとしていられない人は多いでしょう。
私も青森に出張の時、泊まっているいる旅館にいると近くでねぶたの練習をしているのか、太鼓や笛の音が聞こえてきたのを思い出します。

志功にとっても、青森のねぶたの太鼓、囃子、ねぶた絵は小さい時から身体の中から沸き起こす不思議なものをかんじていたのでしょう。
ゴッホを追って上京し、油絵を描いた。その中での苦難の末に見つけたのが、ゴッホがあこがれた日本であり、浮世絵・版画だった。(志功は自分のものを版画といわず板がとよんでいる。)
また、戦争中北陸に疎開した中で他力の思想に出会ったという。
「自力の考えに立てば、板画をつくるということになるのですが、他力の考えに立てば、板画はつくらなくても、仏様の力によって自然に生まれてくるのです。
私は、彫りも刷りも余り上手ではない。下手な方なのだけれども、その下手なところは、仏様、つまり板画の神様が助けてくれる。私は幸せです。」
自然に沸いてくる、板から沸いてくる。それに身を預けて彫る。
代表作《二菩薩釈迦十大弟子》は、興福寺の須菩提を見てインスピレーションを得て制作したもので、十人の仏弟子は「利口者とか智慧者とかいった考でなく、仏に近づきつつある人間の姿を描いた」という。
354たか:2009/08/03(月) 00:01:46 ID:TpWshmMS
You Tubun に
 棟方志功 板画まんだら  1
 棟方志功 板画まんだら  2
 棟方志功 板画まんだら  3
 棟方志功 板画まんだら  4
があり、棟方志功がよく解ります。特に仏教に非常に大きく影響を受け作品にそれが表れてるのが解ります。
その中で、岡本かの子さんの「女人菩薩」の詩があり、「女人観世音」という板画があります。
【女人ぼさつ】 観音経<三>
薔薇見れば薔薇のゑまひ
牡丹に逢はゞ牡丹の威(ゐ)
あやめの色のやさしきに優しく
女人(にょにん)われこそ観世音ぼさつ。

柳絮直(りうじょなほ)ければ即ち直く
松厳(いつ)くしければわれも厳(いつ)くし
杉いさぎよきに、はた、いさぎよく
女人われこそ観世音ぼさつ。
そよ風にそよとし吹かれ
時に、はた、こゝろ浮雲
足裏(あなうら)の土踏むちから
女人われこそ観世音ぼさつ。
人のかなしみ時には担ひ
よろこびを人に送りて
みづからをむなしくはする
女人われこそ観世音ぼさつ。
ぼさつ、ぼさつ、観世音
千変万化
円融無碍(ゑんゆうむげ)もて世を救ふ
女人われこそ実(げ)に観世音。
(註)
柳絮(りうじょ)=白い綿毛をもった柳の種子。 直(なほ)い=取り立てて言うべきほどでないさま。普通。平凡。
はた=はたと、の意味か? 円融無碍(ゑんゆうむげ)=完全にとけあって、一切の障害のないこと。
355たか:2009/08/03(月) 19:49:49 ID:TpWshmMS
棟方志功 板画まんだら を検索して見てほしいですが、何度見ても楽しくて可笑しいですね。

僕の女(人)は細い人はあまりいないんですね。
大きくて身体の太い人が多いですね。
僕は、あの目が悪いのでモデルなどはあまり使わないですね。
まぁ、みんなグラマーっていうけれど、何かこう底から湧いて来るバイタリティーていうかそういうものを持っているというか。
力のこもっているていうか、わたしはそういう人間を欲しますね。
私は仕事になると思えば、それを貪欲に全部ほしいですね。
しゃぶってね、かじってね、なめてもいいと思うくらい、仕事のもとを探したいですね。

まさに、ねぶたばやしのリズムと共に、身体の内側から湧き出すエネルギーだ。
356たか:2009/08/03(月) 20:40:13 ID:TpWshmMS
この裸の女のたちの、この沸き立つエネルギーは、マチスのダンスの絵と似てるように感じますね。
踊りたくて仕方がない、彫ってる志功も、描いてるマチスも、そしてそれを見てる私も。

この踊りたくなる喜びは、あの見性の時の「音」と同じですよ。
内側から湧き出すんです。本当に、内側から湧き出すんです。

志功の61歳の絵で「歓喜自板像」という自画像がある。
酔っ払って幸せそうに寝転ぶ志功の自画像の傍らに大好きだったというものがいっぱい描かれている。
左上には敬愛したゴッホ、そして右上には、「ベートベン讃 ヨロコビノウタ」とかいている。
左下には妻の白い手がその酔っ払いの手を握っている。

墓は、ゴッホの墓と同じ大きさ、同じ形。この墓の周りを地元青森の石で包み込んでいる。
ねぶた囃子とねぶた絵が志功の基となっている。
>>334
戒名はなく、夫婦二人の名前と静眠碑 の文字

ベートーベンの喜びの歌と、一輪の花を手向けてください、と言い残したという。

家に帰ってきて、パソコンで調べて、あらためて、あの墓を思い出します。
357神も仏も名無しさん:2009/08/04(火) 20:09:14 ID:gIZezRfg
無心を実生活そのものに、日常生活そのものが坐禅であり瞑想でありたいものです。
しかし、人と話しをするときなどは絶えず感情が動き無心になることはむつかしいです。

358たか:2009/08/05(水) 00:24:10 ID:WinSWtUD
357さん、
無心に拘りすぎるとぎこちなくなるのです。
無心とは、無心にも拘らないということでしょうか。
感情が出るのはこれも個性でもあり面白くその人らしさを感じることができて楽しいじゃないですか。
気にして無心に拘ると自分も相手もつまらなくなるかもしれません。
極端な感情の起伏はどうかともいえますが感情が出てこそ357さんらしいと思っている人も多いはずです。
かたっ苦しく考えることはないのですよ。
十牛図の入てん垂手が禅僧の理想だそうですが、肩の力を抜いて普通の生活をする、それこそ極意なのかもしれません。
まずは、人に会ったら、ニッコリと、これこそ、私たちに花を差し出そうとしている菩薩のようなものでしょうか。
つられて、思わず相手も、ニッコリ笑うかもしれません。
こちらが力を抜いて話しかければ、そのうちそれが自然となって、相手にこころが伝わるのでしょう。
これこそ下心のない無心というものかもしれません。
359たか:2009/08/05(水) 00:41:26 ID:WinSWtUD
青森の旅でそれぞれの場所で大自然に触れ合うのもその時その場所での一期一会。
またいろんなところではじめての人に会い気楽に語り合うのもまた一期一会。
私がくだらなくも、その時々を長々と書いたのも、肩の力を抜いた一期一会を伝えたかったのかもしれません。
そして、その訪れた場所で深呼吸をし、水を飲み、音を観ずる。これ面白いなと、またそれを楽しみとする。
360たか:2009/08/05(水) 01:46:00 ID:WinSWtUD
正岡子規の病床六尺など見ると、全く動けない身体で、人の世話になりながらも、その中で生きるかすかな喜びが感じられます。
新聞を読んで腹立たしいとか、病気で苦しいのも、生きて入ればこそ感じられるとか言って。そんな病床にあってかすかな喜びを言っている。
先日、市の図書館に行ったら高浜虚子という人の本があった。
子規の字が見えたので取って少し読んだのですが、高浜虚子という人は子規の弟子とも言えそうな人で、子規の亡くなる直前まで病床の子規の世話をしたようです。
やたらと、居士、居士と書いている。何のことだと思ったら、正岡子規のことを敬って居士と記している。
みんな子規を子規居士、居士と呼んでいる、どうやら墓も「子規居士之墓」と彫っている。
居士といえば、維摩居士がまず思い浮かぶけれど、居士だけで子規を表してているとは、恐れ入りました。
死んだら、私も、自分の名前に居士をつけただけでいいなと思っていたから、子規もそう思っていたんだと近親感が沸く。

そういえば石原裕次郎の戒名はいろんな字がついて、やたらと長かったなぁ。
361たか:2009/08/07(金) 16:02:50 ID:frk0oBca
昨日から仙台は七夕祭り。昨日は用事があり仙台に行ってきました。
アーケード街は人がいっぱいで、七夕を見ながら吹流しを掻き分けながら歩くと何度も人にぶつかる。
反対側から来る人だけじゃなくて、写真を撮ってる人にぶつかるんだな。
めんどくさいんで、七夕など見ないで、七夕飾りを無視してぶつからないように歩いた。歩くのも結構たいへんだ。

途中、似顔絵を書いているのを見つけて近寄っていった。
しばらく見ていてなるほどうまく書くもんだと思う。女の子を書いていて、現物さんより少しかわいい。
仕事とはいえ上手に顔の特徴を捉えていて,世の中にはいくらでも絵のうまい人はいるんだろうと思う。

志功の板画に出てくる女性はどう見ても奇麗な女性でもなく、板画自体も昔の浮世絵の緻密さとは違って荒っぽくてけして上手とはいえない。
志功自身、目が悪くてモデルは使わないそうだ。動画を見ると何か適当に書いている。でもなんか見てると響いてくるんですね。

高村光太郎の乙女の像も実際に見てみると自分の思っている乙女とは印象が違って、ほとんどの人が乙女に見えないという。おばさんだと乙女の像のまん前で言ってる人もいる。
モデルの女性は二十歳前だそうだけれど・・、妻の千恵子のイメージという話もあり、やはりそうだろうかと思ったりもする。
でも、あの肉づきのよさは大地にしっかり足を下ろした女性、母親のような気がしてくる。
362たか:2009/08/07(金) 17:26:49 ID:frk0oBca
裸の女性は時に優美で男の欲望を誘うけれど、逆にたくましさがあったりして男がしり込みさえする。
そういえば、酸ヶ湯の千人風呂、中に入ると女湯と仕切りがあって・・。
ところが男湯を見ると湯のふちに独り中年の女性が座っている。ビニールみたいなものを着ているけれど、。
ところで男はどうかというと十数人が大きな湯船の反対側にかたまってる。
女性と男たちの間はかなり空間があって・・・。男たちを見ている。
一人の女性を前にして萎縮しているような感じかなぁ。本当に女性はたくましいなと思ってしまいました。

そう思うと志功の板画と光太郎の乙女の像もたくましい、大地に立ってるというよりは大地から湧き出したようだ。
女人観音菩薩も、十和田湖の乙女も、共にたくましく感じます。

光太郎はフランスから帰国後自分の手をモチーフにしたといいます。手の彫刻は左手。
手の形を考えてた時浮かんだのが観世音菩薩の手だそうです。
乙女の像は共に向かい合いながら左手を合わせようとしているのでしょうか。
「十和田湖の美しさに深く感動した。湖上を遊覧しているうちにいくつも制作イメージが湧いた」
「私はギリシャはやらない。アブストラクトもやらない。明治の人だから明治の人としてものをつくりたい」。そう言って快諾したそうだ。
「湖水に写った自分の像を見ているうちに、同じものが向かい合い、見合うなかで深まっていくものがあることを感じた。それで同じものをわざと向かい合わせた」
「二体の背の線を伸ばした三角形が″無限″を表す」「彫刻は空間を見る。二体の間にできるスキ間に面白味がある」と、モチーフを語っている。
363たか:2009/08/12(水) 11:24:51 ID:bEDMB3hi
今日の朝のNHKの7時のニュースの中で派遣で働くお坊さんが出てました。
田舎で檀家の数が少なくなって今はここでお世話になっています、と鹿児島から来たという僧侶が答えていました。
派遣会社はどうやら各種派の僧侶をそろえているらしく、どの宗派の人たちにも対応できるようです。まぁ、基本的なお経ややり方を覚えれいればいいから、僧侶でなくてもできそうなものですが。
依頼するお客さんも、そもそも寺とはほとんどというかまったくというか付き合いなどないわけで、それなら変な結びつきなどおきない派遣会社に頼んだほうがいいと思うようです。
僧侶は指定時間の40分前にはその墓地に着いていなければならない、時間厳守だそうです。
何故かというと、初めて行くので墓地や墓がどこにあるか確認しなければならないようです、そのために必ず40分前とのこと。
僧侶がお経を読むのを依頼の家族以外にそばで聞きながら見ている人がいます。その人の手にはペンと手帳があって。
今日の読経の声はハッキリしていて○、お客さんに対応する態度は○、と。
○×でお坊さんたちは派遣会社の人に厳しく採点をされているようです。
お布施は3万円からとか。値段で読むお経も違うのでしょうかね。
世の中変われば変わるものだとつくづく思いました。
364たか:2009/08/12(水) 11:52:52 ID:bEDMB3hi
そのニュースの中でお墓の話題もあって、お墓参りにいけない人のために、お墓掃除とお参りを代行してくれるサービスです。
依頼されたほうは、まず墓の写真を撮ります。その後墓や墓の周りの雑草などを取り墓を洗剤で洗うようです。そして花をささげて、また写真を撮る。
それを依頼主の方にインターネットでおくる。
自分で行くとなると交通費だけで4万円かかるそうでこの方がよいと依頼主は考えてるようで、不景気の今年は、業者への依頼が多いそうです。

もう一つあってインターネットでお墓を拝むことができるサービスです。
パソコンに自分の家のお墓が映っていて、そのパソコンの画面のお墓に手を合わせて拝む。実際の墓は業者の霊廟の中にあって墓の前にカメラがある。墓は普段はカプセルの中にあって墓参りの時だけカプセルが開きカメラで映される。
家にいながら自分ちの墓参りができる、というシステムだ。当然カプセルに覆われているから草も生えなきゃ、汚れもつかない。
それなら、写真にでも手を合わせていたらいいのではと思ったりしましたが、どう違うのでしょうね。
まあいろんなものがあって、いろんなことをしてるんだと驚きますね。
365たか:2009/08/14(金) 09:53:35 ID:33laCEC0
仏教で言うのは普通言われるヒーリングや癒しとは違います。普通の単にやさしく包まれてる癒されている安堵感、宇宙との一体感、だけというのとも違います。
もっとずっとずっと激しいものです。内側から湧きだすものです。
外はやさしく包まれた安堵感があり爽やかさがあり、しかも、内側は雷鳴が轟くがごとく、電流が貫くがごとくです。
インターネットや本などで、多くの神秘体験が紹介されていますが、そのほとんどは生ぬるいような癒しの体験のようなもので、宗教体験をいう宗教家でも多くいるようですね。
見性はもっとはっきり心身を突き刺すようなものです。

何故、釈迦が言いもしない、釈迦の教えと反対と思えるような如来や菩薩が大乗に出現し生まれたのかは、実は見性体験、そのものの中にあります。
大乗は、諸法実相、つまり、その時そのまま・ありのままですが、それとは全く異なるように思える如来や菩薩というのは何なのか、これは見性体験をすればハッキリします。
だからこそ、道元は如浄のもとにいって、心身脱落しました、といい、一休は華叟は印可状を辞退した、ハッキリしてるんですよ。
世の中、神秘体験をいう人が多くいますが、見性という点で言うと、自分の体験と維摩経という経典をよくよく照らし合わせることが大切です。
おそらくほとんどの名僧といわれる人たちはそれをしていて、それぞれが一発でハッキリと納得したと思えます。
維摩経は、別名、不可思議解脱の教え、といわれますが、この経典はかなりの優れたものです。
一見すると途方もない内容のものと思えるでしょうが、この内容がわからないでは、いくら神秘体験をしたと本人がいっても、はじめから出直した方がいいといえますね。
かえって、その神秘体験が分別心の弊害をもたらすかもしれません。

仏法は一音なり、これも維摩経の教えの中にありますが、そのように、見性体験の中に、大乗仏教が何故如来や菩薩を出現させてる理由があります。
見性を知りたいなら、維摩経を読むことですが、多くのことが書かれていて、おそらく理解できないでしょう。
十牛図でもいいましたが、維摩経の知識があって、見性ではありませんので。
366たか:2009/08/14(金) 10:35:04 ID:33laCEC0
例えていうと、雪舟の絵に有名な国宝「秋冬山水図」というものがあります。
冬の情景でしょうか、中央から上部に真っ直ぐな鋭く太い線が貫いています。
まさに、虚空を一瞬で貫く、がごとくです。
静寂の中を引き裂くように、ビシッと。
雪舟の心ですよ。
解りますかね。

この絵を見る人は、理由がよく解らないのに、衝撃を起こします。
だからこそ国宝なんでしょう、けれどね。
画の巧さは勿論でしょうが、その奥なんですよ。テクニックだけじゃない。
367たか:2009/08/16(日) 10:27:03 ID:aN+JAhOu
>>365
仏教で言うのは普通言われるヒーリングや癒しとは違います。普通の単にやさしく包まれてる癒されている安堵感、宇宙との一体感、だけというのとも違います。
もっとずっとずっと激しいものです。内側から湧きだすものです。
外はやさしく包まれた安堵感があり爽やかさがあり、しかも、内側は雷鳴が轟くがごとく、電流が貫くがごとくです。
見性はもっとはっきり心身を突き刺すようなものです。

これを読んだ人の中には、なんだ外と内と分別しているのではないか、と思っている人が多いはず。
それは見性、不二をよく解っていないのだ。

例えば寺の鐘が鳴ったとする。
ほとんどの人は耳で聞いて寺の鐘がなっていると思う。鳴っているのは鐘や外の世界で自分ではないと思っている。つまり自分は静かなままだ。
見性では全く違うのだ。
外は鐘が鳴り、例えば爽やかな風が吹き変わらないいつものままである。
ところが自我を通さずに観ると耳で聞くということなしに観ると、自分自身が自分の心と身体が響いてる衝撃に出会う。つまりこれを、雷鳴が轟くがごとく、電流が貫くがごとく、と書いたのだ。
単純に今までの自分の知識だけで文字で読み言葉だけを追うと全く違う捉え方で理解してしまう。注意が必要だ。
外はいつものごとく鐘が鳴り常に変化している。それと同時に内なる心も身体もその変化と同じく変化している。
不二とは、つまり外も内も境目がないとはこういうことだ。これを無分別という。
単に包まれていて気持ちいくて楽チンというのとは違う。空においては外の変化を受けて、内なる躍動が伴っている。
これを、お前の心が揺れている、と慧能はいったのだ。
あるがまま、とはこういうことをいう。
368たか:2009/08/17(月) 15:24:20 ID:RC6pWtwM
多くの寺には梵鐘つまり釣鐘がある。撞木で撞き鳴らすわけだけれど、多くの人は、時、を知らせるものとしてその音を受け取っている。
確かに時を告げる意味は大きいけれどそれだけではない。
この音や響きが煩悩を払うといわれている。
何故そのようにいわれているのだろうか?
何を暗示しているのか。

梵鐘をよく観ると釣鐘の上部に多くの小さい突起がある。
これは乳といわれていて、「乳」は仏の髪の毛、螺髪(らほつ)をかたどっている。仏の、仏像の如来の髪、頭部をあらわしている。
また縦と横に太い帯の模様がある。
これは僧の仏の衣を表すといわれています。
縦と横の帯の交わるところに蓮華の彫刻があり、その部分を撞木で撞き鐘を鳴らします。
つまり、梵鐘は全体が仏、および僧をあらわしていると思えばよい。さらにいうと全ての衆生もまたこの梵鐘だと考えてもよい。

撞木を悟りの声・音と例えると悟りの音の刺激を受けて(蓮華の華が開き)梵鐘全体が響き渡る。
もしこの鐘のそばに同じ別の釣鐘を吊り下げていれば、鳴り響いている隣の鐘に共鳴し叩いてもいない鐘まで響き始める。

人の心も同じようにそばにいるだけで慈愛の心は隣に伝わるのだ。
以前、月の光と田んぼの水面それぞれに映る月のことを書いたので覚えている人も多いと思うけれども、この釣鐘の音や月の光と同じように、本人が意識・無意識にかかわらずその人の心が周りの人の心に届きその心を照らし響かせているのだ。
この鐘の音や月の光は観察したからどうとかで周りに届くというものではない。観察や観念、それ以前のことだ。
慈愛の心は苦しんでる人の心に届き、心を鎮め、そして生きる躍動感をおこさせる。
369たか:2009/08/21(金) 11:20:47 ID:Mk+E9uFG
唯識はなかなか難しい言葉が多くて理解するのはたいへんです。
ただ、さすがに唯識は鋭いところをついてると思いますね。

見性とは、またその体験とは、私たちが生まれた瞬間を再体験することだと私は感じています。
生まれた瞬間の赤ん坊と大人になった私たちでは違うところがあるのは当然ですが・・。

見性とは唯識的でいうと五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、と無意識の末那識を全部一旦瞬時に落としていまい阿頼耶識に至らしめる、か、もしくは、阿頼耶識まで一旦全部落としてしまいしかも同時に瞬時に阿頼耶識だけ復活させた体験とでもいいましょうか。
これを、道元は心身脱落脱落心身といったのでしょう。
多くの修行者や僧侶は先人の教えを聞き、それに基づいて苦の原因を探るべく観察をしたり、教えを寄り深く学ぼうとして努力します。
まぁそれが悪いということではありませんが、でも、それでは末那識を落とす消し去ることはできません。
釈迦と同じ体験をしようと試みた修行僧がいていろんなことを試みた。そのいろんな試みの中でうまれ伝えられたのが座禅や念仏や真言などといえるでしょうか。
どれをとっても自我を捨て心を空っぽにすることに行き着きます。心を空っぽにするための方法と言えそうです。
ただそうはいっても凡夫の人に、これをしなさい、というだけではなかなかついて来れない、長続きしない。
おそらくそのような理由が、仏のいわれや真言の咒などのようなものを加えることで凡夫たちを悟りに導いたと思ったほうがいいかもしれません
370たか:2009/08/24(月) 20:46:20 ID:TmGafqC6
お盆の14日に田舎に行って翌朝早く墓参りに行った。
前に書いたことがある寺の鐘が朝の6時になると思っていたので、5時半ごろ実家を出かけた。
鐘が撞かれるところを見ようと出かけたのだけれど寺に着くのが少し早くてまだ時間があると思い本堂の近くを歩いているといくつかの石仏があった。
多くが舟形の石仏で仏の隣つまり舟形の部分に番号が彫ってある。(舟形は蓮の花びらの一枚を表していてつまり蓮華を伴っている像は菩薩や如来を表します。)
それを見て、そう言えばこの寺には四国の霊場の代わりに八十八ヶ所の霊場を表して八十八の石仏があることを思い出して、それをひと回りすることにした。
番号を追いながら石仏に手を合わせて回った。小さい頃まわったことがあって、岩の上に建っている観音堂を取り巻くように菩薩の石仏が番号順に並んでいたはずだ。観音堂の後ろも少し岩があってその岩の上に木が茂っていてそ木々の下に石仏がある。
下から手を合わせながら上っていって境内が見える観音堂のすぐ横に差し掛かった所で、突然鐘が鳴り出した。6時だと思っていたら鐘がなるのは5分前の5時55分だったかとその時気づいた。
観音堂のすぐ横ななめ後ろで鐘の音に手を合わせた。六回鐘が鳴った。
その後石仏を一個ずつ回って歩いて最後に観音堂の観音菩薩に手を合わせた。
それでは記念に一句、いや二句
 観音の 背に蝉声と 八十八
 蝉声と 鐘音が刺す 巌の堂
なるほど、巌の上の観音堂を取り巻くように覆うように八十八体の石仏があった。
鐘堂は観音堂の巌に跳ね返って田舎の町に響いているんだな。と思った。
371たか:2009/08/25(火) 00:45:33 ID:fAIIesb1
今年の暮れからNHKスペシャルドラマとして司馬遼太郎の代表的長編小説「坂の上の雲」が2009/10/11年と3年に渡って放映されます。
ところで、
正岡子規の書いたものの中に『病牀六尺』というのがあります。
子規は結核から脊髄カリエスという病気になり寝たきりの状態になります。
「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。」
「甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある」
看護は母や妹は勿論漱石ら友人、高浜虚子、伊藤左千夫ら弟子たちが支え、「障害の相互受容」が徐々に行われていったといわれています。
脊髄から膿もでて痛さと高熱と不自由で自殺も何度も考えたでしょう。
ところがその苦痛の中でその現実を受け入れそれを楽しむ様子もうかがえ、逆に生きようとする意欲もうかがえます。
そして、「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」と書き残すようになります。

ところで、彼の死後、高浜虚子などの弟子たちは子規を、子規居士、とか、たんに、居士、と呼んで敬っています。
この居士とは、おそらく、維摩居士から来た言葉ですね。
下の世話は勿論病床の全ての世話をした弟子たちは子規の才能は勿論ですが、彼のその姿に何がしかを感じて受け取ったものがあったように思えてきます。
維摩経に、病気見舞いの心得、というのがあります。
一度読んでみたらいいと思います。
372たか:2009/08/26(水) 14:44:47 ID:NLeXm4Gn
以前、無農薬のりんごの木村さんをNHKのプロフェショナルで見たことがあります。
この中で大切なのは、木村さんが弱っているりんごの木の環境を少し変えてあることで、よりリンゴが育ちやすい状況にしてあげたということでしょうか。
弱っていても死んだわけではないわけで、わずかながらでも生きようとする働きがあります。
環境を少し変えてあげてその生きようとする働きを刺激し、そして育ちやすい情況にしたということで、より美味しい安全なりんごができたのでしょう。

これは人間にも言えるような気がします。
脳卒中で動けなくなった人が多くの周りの人のいたわりややさしい励ましの声や身体への運動などの刺激で、生きようとする意欲が甦ることがあります。
これは必ずしも言葉によらずとも周りの人が寄り添っているだけでそれが甦ることさえあります。
人はいつでも病に倒れる立場になったり、逆に、いたわり、介護する立場になりえます。
その経験を糧とし、他の人たちにも伝えることが大切な気がします。
りんごの場合はりんごが取れるかどうかの損得が生じる場合も多いでしょうが、人が家族や知人を看護する場合はそのほとんどが損得ぬきの心だけです。
一緒に生きていこうとする大乗が教える慈悲の心というものは特にそのあたりにありそうな気がしますね。
373たか:2009/09/06(日) 19:52:06 ID:55xZVwJE
観察、観察する、と何度も語られますが、どのような立場でどのような心で観察するかによって結果は異なってしまいます。

例えばリンゴを育てようとした場合、いままでの肥料や農薬を使った方法もおそらくりんごの成長を詳しく観察した結果でしょう。
そして、必ずしも、これが悪いとはいえないわけです。
ただ、木村さんの方法は、多くの人たちに今までとは違う捉え方、考え方を提示した点では素晴らしいことです。

仏教の悟りも、知識などを優先とする普通の考え方の転換を提示してると言えます。
374神も仏も名無しさん:2009/09/09(水) 19:57:16 ID:KiaWH6+f
a
375たか:2009/09/13(日) 06:57:34 ID:Bqbot6+C
 名月や 両翼を広げし 千代の松
さらに一句、
 誰植えしか 蟠龍(はんりょう)の松 そこに立つ
376神も仏も名無しさん:2009/09/14(月) 23:13:40 ID:vsPIU1V4
>>1
既出だったらすまねえが
広島カープの応援じゃね?
377たか:2009/09/19(土) 09:05:08 ID:slKw00C5
仙台を代表する歌・曲はいくつかあって今は青葉城恋歌でしょうか。
でもそれ以前は、なんといっても、「荒城の月」ですね。
この荒城の月は仙台出身の土井晩翠が詩を作り、その詩に滝廉太郎が作曲した名曲中の名曲です。
以前、音楽の教科書に必ず載っていて、この曲が教科書からはずされる時、かなりの議論があり話題になったのを覚えています。
土井晩翠は仙台城(青葉城)や会津の鶴ヶ城からこの詩を作ったのは勿論ですが、大切なのはそれを目の前にしてということでしょうか。
378たか:2009/09/19(土) 09:09:36 ID:slKw00C5
春高楼(かうろう・こうろう)の花の宴(えん)
巡る盃(さかづき)影さして
千代の松が枝(え)分け出(い) でし
昔の光今いづこ

秋陣営の霜の色 鳴きゆく
雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照り沿ひし
昔の光今いづこ

今荒城の夜半(よは・よわ)の月
変わらぬ光誰(た)がためぞ
垣に残るはただ葛(かずら)
松に歌ふ(うとう)はただ嵐

天上影は変はらねど
栄枯(えいこ)は移る世の姿
映さんとてか今も尚
ああ荒城の夜半の月
379たか:2009/09/19(土) 09:46:21 ID:slKw00C5
この「荒城の月」の詩の中に複数でてくる言葉で城や月という言葉は勿論ですが、そのほかに松と影という言葉があります。

仙台という地名は「千代」という言葉からきていると言われています。
「千代」とは非常に長い年月を意味し、「千代木」(ちよき)が松の異名であることから、松には長い年月が刻み込まれていると考えられている。
その松の枝を分けて昔の「光」を探す情景は、憂いがあって美しい。
なお、この詩では「千代」を「ちよ」とよんでいるが、伊達政宗が「千代」(せんだい)を「仙台」(仙臺)と書き改め、現在の仙台市につながっている。
そのためか、仙台出身の土井晩翠が「仙台」の掛詞である「千代」と書き、「ちよ」と読みを替えて「仙台」のことを暗に示しているのでしょうか。

千代という言葉には仙台と松に関係する深い意味合いもありそうです。

ところで、仙台には地元の人もほとんどに見たことも聞いたことも無い銘木があります。
その名を「蟠龍の松」といいます。この銘木のあまりの見事さに感動しを命名したのが土井晩翠といわれています。
この松の木の写真さえ見れないのが非常に残念ですが・・・。


380たか:2009/09/19(土) 11:19:33 ID:slKw00C5
この松は伊達政宗が晩年住んだ城に植えられていたものといわれています。
およそ400年前からの銘木といえるでしょう。
樹齢やいわれも素晴らしいのですが、何より素晴らしいのがその姿・形といわれています。

そう考えてみると、この松の木と「荒城の月」の詩が非常に輝いて浮かび上がってきます。
伊達政宗はこの城で酒を飲み、宴を催すこともあったでしょうか。
千代の松、きっとこの城を飾る想いで植えられたのかもしれませんが、今は全くちがう状況ですね。
誰が植えたのかは知らないけれど、でももしその前に立つことができたなら植えた人の思いは勿論、それを剪定し守り育ててきた人の心も伝わって来るでしょうか。

人生もこの松と同じようなこともあるでしょうか。
どんな人でも我が子を産み育てる時はいい人生を歩んでほしいと思いだけであり、楽しく人生を生き抜いてほしいという思いのほかはありません。
でも、その親の思いとは全く違う人生を生きてしまうことがあります。またその環境も変わってしまうこともあります。
この松を考えるたび、どうしても人の人生と重ねあわせてしまいます。
   
381たか:2009/09/23(水) 09:44:12 ID:hZdjwUKQ
今日は秋彼岸ですね。
最近同じ日に同じ道を何度か歩くことがあって、同じ道を半月間毎日2〜3度歩いてみて、驚くというか、発見するというか、新しいものに出会ったという感激がありました。
彼岸の中日ということでいうと彼岸花、別名曼珠沙華という花があって秋彼岸近づくといつの間にかスーッと茎を伸ばして突然真っ赤な華を咲かせます。
私の田舎では見たことが無かった花です。
毎日同じ土手を歩いているのだけれど緑の草原の中に昨日まで全く無かった真っ赤な、本当に真っ赤な赤がいくつかの固まりになって咲いてる、太陽を受けて緑の中に真っ赤が光り輝いて感じられました。
彼岸花、近くで見るとその花の色も形も非常に毒どくしい強烈な印象を感じますね。
葉っぱは無くて茎だけがスーッと伸びて一日のうちに花を咲かすのでしょうか、よく見るとその近くにもこれから咲こうとしている茎がいくつも伸びています。
この彼岸花、名前の如く秋彼岸の直前に咲きはじめるので彼岸花というのでしょうが、この植物全体に毒があって中枢神経をの麻痺をおこさせて死に至らしめることもあるそうでそこから、死つまり彼岸の花といういわれもあるそうです。
有毒性であるために害虫やねずみやモグラなどの動物を防ぐために田んぼや墓などに植えられたみたいで、戦前は逆に薬やでんぷんをとる食料としても利用されていたとか。

とにかく緑の草原に突然現れた真っ赤、日の光を浴びて輝く緑と浮き立つ赤には本当に感動しました。
いのち輝きを観じました。
382たか:2009/09/23(水) 10:12:29 ID:hZdjwUKQ
彼岸花もそうですが、歩いているといろんな植物・動物に包まれて生きているんだと実感します。
同じ道を歩いていると今まで気づかなかった花に気づいたりします。
こんなところにこんなにも小さい黄色い花が咲いてたのと気づいてみたり、昨日は取ったはずの蜘蛛の巣がしっかり張っていたり、日々瞬時瞬時変化しているんだなと思いますね。
私が歩いているところにはいろんな種類の樹木があり草花がありますね。
杉も、松も、梅も、桜も、くるみの木も、栗の木も、なしの木も、竹林も、考えてみればまだまだあります。
その他に、草花や昆虫、鳥など数限りないものに包まれて共存していますね。
空を見れば天高い青空の中にももう秋の雲です。
木々や草花をやさしく通り過ぎる風も、爽やかな秋の風ですね。

時々立ち止まって、今この瞬間をと、深呼吸をします。
383たか:2009/09/26(土) 11:08:06 ID:XCNWHsYo
月曜日でしたか「おくりびと」という映画がテレビで放送されました。
アカデミー賞を取って話題になり、多くの人たちが観たことでしょう。
このことについてはまた改めて書きます。

384たか:2009/09/26(土) 15:43:04 ID:XCNWHsYo
2〜3週前でしたか、NHKのクローズアップ現代で農薬の効かない雑草が増えてきて農家が苦労しているという話題がありました。
今、消費者はできるだけ農薬を使わない作物を求めていますが、農薬の開発により低農薬の散布を心がけているようです。
また、農家の高齢化もあり農薬の散布も減らさざるを得ない事情もあるようですが。
ところが最近稲作で農薬が全く効かない雑草が増えてきてその対策に苦労してるといいます。
今のところ雑草を取るためには人の手作業によるしかなくて収穫も二割減ると言っていました。
385たか:2009/09/26(土) 15:46:16 ID:XCNWHsYo
話はアメリカに飛んで、アメリカでも農薬の効かない雑草が増えて問題になっているそうです。
遺伝子組み換えで農薬に強い遺伝子を組み込んだ作物の種を植える、ある程度育ったころあいをみて農薬を散布する、農薬によって農薬に強い作物は残りそして狙い通り雑草は枯れてしまう。
このやり方が遺伝子組み換えの技術で、作物を手間をかけずに高収穫できるということで遺伝子組み換えの農作物が増えてきたわけです。
遺伝子組み換え、これは万能だと思えたのでしょうがところがなかなかそうは簡単ではないようですね。
ここに来てその農薬に対抗できる雑草が増え始めて作物の収穫が減り手間も相当かかっているといいます。
遺伝子組み換えや農薬散布は特にアメリカのように大規模に作物を生産するためにあみ出された人間の知恵なのでしょうが、万全の方法と思えたのに人間の思いどうりにはなかなかいかないもののようです。
また新たに新しい雑草に対抗するような遺伝子組み換えをするのでしょうか。
何かいたちごっこのようにも思えてきます。
自然とは不思議なもので、なにか特別に繁殖すると必ずといっていいほどそれに対抗するものが出てきますね。
前にも何度も書いてきましたが、いろんなものたちが交じり合って社会が自然が環境が巧く機能し、住みよくできていることにもっと真剣に気づくべきです。
草の上を歩きながら、今日はこんな白い花が咲いてるな、などと思いながら歩いていると、次々に芽吹くそれぞれの生命力に驚かされますね。
何しろ、他の植物の間を隙間をかいくぐって伸びてきているのがよく解ります。花を咲かすために他の植物より少しでも上に出て花を咲かそうとする。
こっちの植物が枯れたらそのちょうどよいタイミングで別の新しい植物の芽がでてくる。
そしてそのいろんなその生命力で自然が成り立ってんだなぁと改めて感じますね。

それにしても、欲望渦巻く、人間の都合ばかり推し進めると、将来にひどい付けを残すかもと思うこともしばしばですね。。
386たか:2009/09/26(土) 16:59:20 ID:XCNWHsYo
2・3日前のリビアのカザフィ大佐の国連での演説はおかしかったですね。
特におかしかったというか面白かったのは新型インフルエンザのことです。
先進国の企業が新しい菌を作り出してそれをばら撒き、そしてそれに対抗する薬も同時に開発しその薬で大もうけをしているのだ、という演説です。
あの演説を聴いてばかばかしいと思う反面、もしかしたらそうかもしれないなァという思いも抱かせます。
何しろ特許をとってよそに手出しさせないようにしながら、その対抗する薬や方法を編み出していくことなど今の企業なら密かにできそうな気がしますね。
何しろ世界的な規模で薬や製品が即座に売れるのですからこんないい方法は無いということでしょうか。
今回は、少し弱めのインフルエンザの菌を使い、落ち着いた頃、前よりもう少し強い菌を使ってみる。
何しろばら撒くときには対抗する薬も用意してるのですから、こんないい商売はない。
前はSF小説や映画の話だけのような気がしてましたが、なんとなく現実に起きそうな話に感じてきます。

本当かどうか走りませんが、警察のスピード違反に使われるネズミ捕りのレダーを造っている会社がそれを感知する乗用車に付けるレダーを造っているなどと聞いたことがありましたが、本当でしょうか。

自分たちの欲望の赴くままにつくりあげ始めれば、危険ですね。
それこそ地球温暖化の問題どころではなくなるのでしょうね。
一歩間違えて、いやいや人類が全滅して地球温暖化もいっきに解決となったりして。
387神も仏も名無しさん:2009/10/08(木) 19:07:52 ID:isXYTKJw
なんでこんなに見性するのに時間がかかるんだろう。
もうやりつくしたはずなんだが。
底が抜けん。
388たか:2009/10/08(木) 22:43:34 ID:LQbrP1T1
387さんへ、
>>なんでこんなに見性するのに時間がかかるんだろう。
そう言う気持ちはよく解ります。おそらく多くの先人・僧もそういうことを何度も言ったことでしょう。
前から言っているように、大乗仏教では見性の体験はその時は驚きの特別の体験として観じられまが、行き着くところは日頃に誰もがいつも観じている当たり前のことであるというところに至ります。
つまり見性は誰もが常に体験していることであり、言葉を変えれば、体験自体が私たちを成り立たせているということです。
これを言葉を代えて言うと、般若心経でいう、色即是空・空即是色という羅什の言葉になります。
あまりに、あまりに当たり前のこと故に、かえって解りづらく感じ、理解できないのです。

>もうやりつくしたはずなんだが。
これも誰もが思うことです。
釈迦をはじめ、竹の小石の音で見性した香厳和尚にしろ、親鸞にしろ、盤珪和尚にしろ、皆そうです。
先人の誰もが、もうやりつくしたのに、と思ったはずです。
私は実はここからが本当の一歩とも思えます。
捨てるとは、今までやってきた一切合切をすっかり捨てる状況になるというか、そのような状況に追い詰められるというか、その状況に立たざるを得なかったというか。
言葉を変えれば、すっかり諦めたというか、続けていながらしかも諦め今までのしてきた一切を手放しているというか。
この辺がなんとも言葉で説明できないところです。
よく気づくことだといいます。
何に気づくのか?
私は音によって、不二、無分別を観ずることが最良のことと思っています。
ですから何度もそれを繰り返すのです。
この音は、私たちがこの世に生まれたときと同じ驚きと喜びを私たちに与えてくれると思います。
それを他の人たちにも気づいていただきたいと思うのです。
389たか:2009/10/08(木) 23:14:26 ID:LQbrP1T1
六祖慧能の話にこんなのがあります。
慧能に五祖弘忍は次のように言ったという。
「本心を知らざれば仏法を学ぶとも益なし。本心を知り、本性を見れば、すなわち丈夫、天人師、仏と名づく。汝を第六代の祖となす。よく自ら護念して、ひろく有情を度し、将来に流布して断絶せしむること無かるべし」
六祖慧能はその後身を隠し修行を続けたといわれます。
十五年後、六祖は法を広める時がきたことを見て取り、印宗法師(いんしゅうほうし)が涅槃経(ねはんぎょう)を講じている広州の法性寺(ほっしょうじ)にやってきた。
講義の途中、ある僧が旗が動くのを見て風が動くといい、別の僧が旗が動くと言い合っていた。
それを聞いていた慧能が「これ風動くにあらず、旗動くにあらず。仁者(にんじゃ。汝)が心動くなり」といったのを聞いてみんなが驚いたという。
印宗法師は六祖を上席へみちびき質問をした。
「あなたは五祖から法衣を受けた人か」と。それを慧能が認めたので続けて質問した。
「五祖は何をいかように伝えしや」の問いに、
「伝えられしものは何もない。ただ見性を論じて、禅定・解脱を論ぜず」
「何ぞ、禅定・解脱を論ぜざる」
「二つあるは仏法にあらず。仏法は不二の法門なり」

390たか:2009/10/12(月) 11:29:40 ID:rB2yd+EE
>>383映画「おくりびと」について、
映画で去年秋から話題になっていていつか見たいなと思っていました。
内容はさすがに賞をとるだけあっていいものでした。
肉親によらず、世話になった人、知り合いを少しでも綺麗な形で見送ってあげたいとは誰しも思うことです。
またそうしないと、自分も、世間も納得しないところもあると思う気持ちもあるでしょうか。

391たか:2009/10/12(月) 11:31:32 ID:rB2yd+EE
この映画を見ていて思い出したこと、感じたことがいくつかあります。
まずは葬儀屋さんとは別に納棺師と言う仕事が存在してるんだと初めて知ったことでしょうか。
私の母親の納棺のときには親戚や近所の人が集まってきて顔の毛などを剃り、みんなで協力しながら白衣・死に装束を着せ、納棺したのを覚えています。
納棺師というのが地域特別なものなのか、葬儀屋さんの仕事の一部なのか、昔からあったものか、最近の時代の要請のものなのかどうなんだろうと思いました。
昔はまさに隣近所と親戚画集まってこじんまりと葬儀をしていたのでしょうから当然その人たちが食事も用意してあらゆる葬儀一切を行っていたわけです。
実際私の田舎ではその家の主人は勿論ですが何より親戚の長老という人が陣頭指揮を取り段取り予定表を作り人員を配置し指示していました。
女性人も巧く協力し合って段取っていました。
そういう意味でも昔は親戚という関係が大切だったのでしょう。
以前書いたように、昔はどこでも田舎の観音菩薩を中心にしていたように、葬儀だけでなく親戚同士が寄り添って助け合っていたのだろうと思います。
しかし時代が変わってみんなそれぞれの職業を持ちなかなか手伝うことができない時代になり、全てを葬儀業者に任せる傾向になっていますね。
納棺師に頼む人の多くは死者を綺麗にして見送りたい人がほとんどでしょうが、現代では中には自分が死者に触れたくないと思い納棺師に依頼する人のいるでしょうか。
そういえば、以前盛岡の石材店の女性の方と話していたとき葬儀もしているということで、やはり今回の納棺師と同じようなことを時々すると話していたことを思い出します。
その時その人に、そのようなことは家族や親戚がしないのですかと聞いたのを覚えています。
最も、葬儀といっても仏教でも宗派によってやり方が違ったり死者の身につけるものも全く違っていたりするようですね。
こうなると現代は自分の宗派が何か判らない人が多い時代ですからその宗派のやりかたとなると全く解らないので解る葬儀屋さんに全て頼むしかないでしょうか。。
392たか:2009/10/12(月) 13:32:12 ID:rB2yd+EE
仏教では死んだ人は普通いわれる死に装束、経帷子・白衣・手甲脚絆・足袋などをつけるものだと思っていましたがどうやらそうでもないらしい。
どうやら浄土真宗などではつけないらしい。

ところで、
映画「おくりびと」は主演俳優の本木雅弘さんの発案で始まったらしい。
本木君を動かした本があって、それが青木新門著「納棺夫日記」という本だ。
納棺夫日記を読んだわけではないけれど、「おくりびと」を検索しているうちに青木新門氏のホームページ「shimonの窓」を見つけた。
ここには青木氏と本木君と映画「おくりびと」について書いてある。
その中で映画「おくりびと」に原作者として青木氏が名前を出さなかった理由が書いてある。
どうやら青木氏が「納棺夫日記」で伝えたい仏教観と、映画「おくりびと」で描かれた人間愛、との間に一線を引きたかったようだ。
青木さんは納棺夫としての仕事の中で彼なりの宗教体験があったらしい。
このことについて興味があれば青木新門HP shinmonの窓 を読んでほしい。
このなかで、『歎異抄』第四章の<かはりめ>という言葉を使っている。
はっきりは解らないけれど、どうやら見性と同じ意味あいで使われているように思う。

青木氏のHP を読んで、私の捉え方と違う点もあるな、と思った。
393たか:2009/10/12(月) 15:30:39 ID:rB2yd+EE
二日前の土曜日、テレビを見てたら「ヤノマミ」というNHKの再放送があってたまたま後半の部分を見た。
ヤノマミとは南米アマゾンの奥地ブラジルとべェネゼーラとの境に住むヤノマミ族のことだ。
14歳の女の子が妊娠した。女の子は出産するがその直後、14歳の母親はその子を人間として育てるか、精霊としてシロアリに食わせ森に返すかを迫られる。
精霊にするか、人間の赤ちゃんとして育てるかは出産したばかりの母親に決定権があるらしい。
しかし実際は母親の父、または父親の判断が大きく影響を及ぼすみたいだ。
生まれた子をバナナの葉にくるみシロアリに食わせる、これをヤノマミの人たちは森の精霊に返すという。
聖人が死んだ場合もシロアリに食わせるらしい。
シロアリは全ての生き物を食い、分解して森に戻す。
一見かわいそうで惨たらしく、せっかく産まれたいのちなのにとも思う。
しかしあのジャングルの生活の中では仕方ない方法かもしれないのかとも思えてきた。
つまり、部族として狩や狩猟生活という限られた生活環境の中で部族として存続する、つまり、生きついで行く中であみ出された方法のようにも思えた。
最近ヤノマミも人が急に倍増してるという。
多くの批判はあっても、限られた食料の中では昔からの彼らの方法は仕方がないことなのかもと思えてくる。。

人は森を食う
森は人を食う
森と人は一つになって生きていく
そのバランスを欠くと
どちらも維持できなくなる

「おくりびと」の中でフグの白子を焼いて食べるシーンがあって納棺夫の社長がつぶやく。
 これだってご遺体だ。生き物が生き物を食って生きる。
 美味いだろ?・・・・・。
 美味いんだよな・・。困ったことに・・。


394たか:2009/10/12(月) 15:56:45 ID:rB2yd+EE
ヤノマミの人たちは自分の財産というものは何も無い。
部屋の仕切りも無ければ・・、寝たいときに寝て、食べる時にみんなで狩をする。
ねずみやアルマジロ、サルや魚、昆虫などありとあらゆるものを。

最近特に思うことがあって、それはCO2,二酸化炭素。
テレビを見れば毎日そればかりだ。
でも、ヤノマミの人たちはどうみても最低限のCOの放出だ。
上野公園のブルーシートの人たちも同様だ。
二酸化炭素を放出して問題を起こしてるのはどうみても金持ちの物を使い捨てしている人たちだね。
395たか:2009/10/12(月) 17:52:34 ID:rB2yd+EE
「おくりびと」の最後のシーンの中で小石が出てきます。
小さい頃河原で父と分かれる前に父に渡した小石が独りで死んでいった父の手の中に硬く握られていたシーンです。
できすぎともいえるシーンですが、あの場面の小石に父の心が表れていたように思え、多くの人が感動したことでしょう。。
私は物に霊魂が宿るとは思いませんが、ただ、あの場面のように物によって心が動かされるというか、感動させられるというか、心が内側から沸き起こってきて押さえきれなくなることはよくあります。
他の人から見たら単なる小石、でもその人にとってはかけがえない人生の宝物になります。
人は死んで自然に帰っていきます。
火葬はヤノマミのシロアリに食わせるが如くです。
まさに分解されて何一つ自分というものは残らない。
肉体と共に心も甦ることは無いわけであらゆる一切は無に戻るまたは自然に帰るのですが、でもしかし。その人にかかわった人の心にはしっかり伝わっていると思えます。
仏法は無常であり無我ですが、その心は伝わっていくと考えるのが大切ですね。
あえて生きている意味を言いなさいといわれれば、そこに各自それぞれに、今存在していることの大切さがあるように思えてきます。
396たか:2009/10/13(火) 05:42:14 ID:4RTfVGal
訂正というか、
>>392の最後で、
>青木氏のHP を読んで、私の捉え方と違う点もあるな、と思った。
と書いたけれど、青木氏と私の考えはほとんど同じで、ただ、もしかしたら死後という点で少し違うのということだろうか。
397神も仏も名無しさん:2009/10/31(土) 03:38:06 ID:FOGH1fVI
あげ
398たか:2009/11/15(日) 18:05:21 ID:GNwOtbdo
白壁の 緑の土手に 彼岸花
  黄蝶飛び交い 抜ける青空
399神も仏も名無しさん:2009/11/17(火) 10:18:38 ID:TIqdlbXk
なぜ無即是色とは言わないのですか?
空と無の違いとはなんですか?
400たか:2009/11/17(火) 20:39:49 ID:CZdG45Dv
399さんへ、
現在、アクセス規制のため、うまく書き込みできませんので解除されたらおこたえします。
401おてんば私立学院総長 ◆gqBBZUnUPk :2009/11/17(火) 20:49:59 ID:mScxBtlZ
>>1
アザーン。
402たか:2009/11/23(月) 05:34:15 ID:Pb7SqT9H
入り初めて 国ゆたかなる みぎりとや
  千代とかぎらじ せんだいのまつ
                    伊達政宗
403たか:2009/11/24(火) 00:06:04 ID:UHtsDMHw
>>399さんへ、やっとアクセス規制が解除されたでしょうか。
ご質問は私が今まで書いてきたものを繰り返しを読んでいただければ、きっと解っていただけると思うのですが。解っていただけるように書いてきたつもりです。
しかしそうは言ってもなかなか解らないということもあるでしょうから少し説明します。

あなたの言われる、無即是色というのは般若心経の、色即是空空即是色、の部分の空と、その後に続く、無の連発のことと思います。
解りやすく言えば、この般若心経の無は、無常の無、無我の無、と思えば解りやすいのです。
つまり、無の連発のところは、無常(常住でない)、無我(我が無い)ということを示し説明しているのです。
この世の全て一切は無常であり無我であると示しているということです。
これを、空の中では実体が無い、とでも言うのでしょうか。
そういう意味での、無、と思えばいいと思います。

では空と無を何故入れ替えてはならないのかということになります。
諸行無常や諸法無我は、三法印と言って大乗仏教を示す根幹をなす教えですが、空を示すにはそれだけでは充分ではありません。
三法印のもう一つの、涅槃寂静、も空を示す大切な要素なのです。
空は、諸行無常や諸法無我であり、かつ、涅槃寂静なのです。
では、何が涅槃寂静なのか。
無常であり、無我であり、無ばかりであり虚無の無ではないのかとついつい思えますが、実は自身が無我になった途端に、自他一体、あらゆる一切と一如という歓喜の見性体験が現れます。
この体験が、釈迦の言うところの一切皆苦からの転換、般若心経の最初の部分の、
 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
に示されており、一切の苦厄の克服・安楽への転換があり、それは自他一如という見性が始まりなのです。
つまり、空は無という言葉では置き換えられないのです。

でもそれは
404たか:2009/11/24(火) 00:38:11 ID:UHtsDMHw
自他一如は、不二、という言葉でも表すことができるでしょうか。
この不二は大切で、>>389で書いたように、
 「伝えられしものは何もない。ただ見性を論じて、禅定・解脱を論ぜず」
 「二つあるは仏法にあらず。仏法は不二の法門なり」
という慧能の言葉にも表れています。

無門関の 第1則 趙州無字 があります。
狗(いぬ)に仏性がありますか、という弟子の問いに、趙州和尚は無と答え、また別のときには有と答えます。
不二、とは別に言うと無分別とも言えるでしょう。
弟子たちの、無、有、というとこらからいつまでも離れられないところを。
趙州和尚は指摘してるようにも見えますが、さあどうでしょうか。
405たか:2009/11/24(火) 01:15:11 ID:UHtsDMHw
前から何度も書いていますが、色即是空、の色は瞬時瞬時かたちが変わり続ける現象・はたらきとも言えるでしょうか。
その形を構成するのはそのもの自身というよりもそのもの以外のあらゆる全てのものがかかわっていて、瞬時瞬時かたちを変化させているのだ、ということです。
これを空というのです。
故に、色即是空空即是色、と羅什は訳しました。これは色だけでなく、受・想・行・識亦復如是、という心も同様に空だといっています。
無常であり無我であること、瞬時瞬時が常に変化であり、故に、空は、不生不滅、不垢不浄、不増不減、なのです。

よく公案の答えとして、無、などと答えればよいのではなどと思う人がいるでしょうが、それでは駄目です。
本当に大切なのは公案で無と答えることではなく、不二を自身全身で観じ取ることです。
仏法のあらゆる教えは、この不二から始まっているのです。
それが解れば、諸法実相、であることが、かつ、涅槃寂静、であるということも解ってくるのです。
406たか:2009/12/14(月) 14:53:46 ID:oTBsxFxD
青天の 蔵王の初冠 白い月
407神も仏も名無しさん:2009/12/14(月) 20:19:43 ID:k86TLxWY
言われたとおりやってるつもりなんですが、何がいけないのでしょう。
あとは時間が解決するのでしょうか。
408たか:2009/12/15(火) 17:36:40 ID:Rh22ufZC
釈迦が菩提樹の下で見性を体験した後、釈迦に続く多くの人たちが釈迦の境地を求めていろんな方法を試みました。
それらが多くの言い伝えとして今に伝わっています。
座禅や念仏、他にもいろいろあるでしょうか。
どれもこれもある意味では偶然の産物とも見えなくは無いですが、ただどの人においても追い続けた故にという思いがあったように思えてもきます。
自我をなくすといいますが、それは、自我を無くそうとすればするほど逆に我を無くそうとすることに拘っていたりもします。そこがなかなか難しいともいえます。

何度も書きましたが、見性とは、私たちがこの世に生まれ出た瞬間の再体験、とでもいえるでしょうか。
その体験は同時に、今この時点においても、この瞬間も見性体験と同じことが引き続き続いているということでもあります。
その体験の上にその後つくり出された自我というものが乗っかっているということでしょうか。
ただ私たちは残念ながら、遥か昔の自我が生まれる前をすっかり忘れ去って、自我こそ全てと思い込むようになってしまいました。
この我を払うことがいかに難しいのかは、多くの先人をみればみるほど知れば知るほどよく解りますね。

追い求めながらも、しかも、それさえ忘れている、と言ってもなかなか難しいでしょうか。
409たか:2009/12/15(火) 18:43:22 ID:Rh22ufZC
>>406の 青天の 蔵王の初冠 白い月
は11月の始めに初冠雪の蔵王を見たときの光景です。
寒い日の翌朝、雲一つ無い西の空に真っ青の空に、白い蔵王の雪とそのすぐそばに白いまん丸の月が輝いていいました。
この句には書かれていないものがあって、実はそれに思いを込めてもいます。
それは、東の空にオレンジ色に染めて昇り始めたまん丸い太陽です。
東の太陽そしてその光が、それが、青い空は勿論のこと、山の白い雪も、おそらく夜中じゅう黄色に光っていた月も、まっ白く輝かせていました。

>>398
  白壁の 緑の土手に 彼岸花
    黄蝶飛び交い 抜ける青空
は二日前までただの緑の雑草の土手だと思っていたのが、日曜を挟んでその土手の前に立った時、二日前は思いもよらなかった彼岸花の真っ赤な花の塊がいくつかあって緑の中の真っ赤にその鮮やかさに驚いたのを詠んだ句です。
周りを見渡せば、白い壁、二羽の黄色い蝶、真っ青な青空も輝いて見えます。

何故このような句をここに書いたのかと言うと実は阿弥陀経の一節を思い出すからです。
阿弥陀経はその中で、無量の光の如来の国、苦しみの無い国、つまり極楽浄土の様子を書いています。
その中に次のような一文があります。
池中蓮華.大如車輪.青色青光.黄色黄光.赤色赤光.白色白光.微妙香潔.
(池のなかの蓮の花は、大きさは車輪のようで、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放っていて、かぐわしい香りを放っている)
光り輝く浄土の世界は、青は青く輝き、黄色は黄色くひかり、赤は赤い光を、白は白く光っているのだ。
一つ一つそれぞれが個性を持ちながら仏の光を受けて輝いているのだ、ということでしょうか。
この世、どこにあっても光を受けて瞬時瞬時それぞれが輝いているのでしょう。
410たか:2009/12/15(火) 19:18:11 ID:Rh22ufZC
白壁の 緑の土手に 彼岸花
    黄蝶飛び交い 抜ける青空
この句を詠んでしばらく経ってオリンピックの開催地決定を決める話題がありました。
オリンピックの旗、マークは、左から青、黄色、黒、緑、赤の輪と、そして下地の白、からなっています。
色の三原色は赤、青、黄色、光の三原色は赤、緑、青、ですね。
これらが複雑に重なり合って白、黒、青、赤、黄色、緑を浮き出させています。
五輪のマークは平和のシンボルとも言われていますね。
光を受けてそれぞれが光り輝く、安らぎが我々自身を包み込んでいることにも、もう少し気づく必要があるかもしれませんね。
411たか:2009/12/16(水) 21:09:31 ID:I6D3Ukj+
407さんへ、
>>407
言われたとおりやってるつもりなんですが、何がいけないのでしょう。
あとは時間が解決するのでしょうか。

私がここで伝えることができるのは、見性に至るまで自分がしたことと、その中で得たことと、その後先人の教えを学ぶ中で深まっていったこと。
また、先人それぞれがそれらの時代にどのように受け取りそしてその人なりにどのように伝えようとしたか、と言うことでしょうか。
読んで頂いているので解っていただいていると思いますが、他のどのような仏教の解説書より誰にでもわかりやすく書いていると私は思っています。
ただいくら書いても結局は読む人がそれを読むだけでなく、その内容と一体する感動の体験が必要です。そうでないとなかなかスッキリした感動が無いですね。
音による見性体験はなかなか容易ではないかもしれませんが、一体化することで喜びを観ずること、一体化の感動は日常、どこにでも常にあるものです。
わたしたちは、我に拘り、分別心に捉われて結局多くの場合苦しみの中にいることが多いのでしょう。
我に捉われずにその場の全体と一つになったときこの上ない喜びを感じることは多いですね。

我に拘っても何かを達成したときにも満足感は得られますが、それは長くは続かずに、逆にもっと刺激の強い満足感だけを求めてしまい、そして多くの場合それが続かずに逆にそれが苦しみの元とさえなります。

一体感を観ずる喜びは常にあるのにそれに気づかすに、苦しみのことだけ考え追い求めてしまっています、それでは苦しみから抜け出せないですね。

自分を捨てる方法はいくつかあるでしょうが、それを続けることが大切でしょう。
自分で意識していない時に、突然何かの切っ掛けがあるかもしれません、それが頓悟というものでしょう。
何しろ、その切っ掛けはあなたの周りに常にあるのですから。
412神も仏も名無しさん:2009/12/17(木) 01:52:27 ID:O7vXSGXH
赤ん坊の頃の記憶って、ほとんどの人が残ってないと思うけど、自我が芽生える事で忘れてしまうんですかね。
見性の後に赤ん坊の頃のことを思い出したりすることってありますか?
413たか:2009/12/17(木) 19:31:22 ID:/b/IhhLD
415さんへ、
あなたは407さんと同じ人ですか。

私がいつ、赤ん坊の頃の記憶、と書き込んだことがあったでしょうか。
414神も仏も名無しさん:2009/12/17(木) 20:22:25 ID:dZj59qOr
412ですが407さんとは別人です。
スレ読んでいて、そういえば何で赤ん坊の頃の記憶がないんだろうなとふと思ったもので。
思いつきで書き込みしてすいません。
415たか:2009/12/17(木) 22:19:08 ID:/b/IhhLD
412さんへ、
私が書いてきたものをよく読んでいただきたいのですが、私がしたことは記憶や言葉や思考を働かせないことともいえます。
もし、赤ん坊の頃を思い出せたからと言って、必ずしも法が解るとも思えませんが。
私が言ってるのは、私たちがこの世に生まれた瞬間のことです。もしくは、今この瞬間どうなのか、と言うことです。
赤ん坊の頃どうだったか、ということではありません。子供の頃どうだったということでもありません。
過去や未来をどうのこうのと問うているのではありません。

赤ん坊のころの記憶が無いのは私も同じです。
でも、もしかしたらその頃からキチンと深層の中に刻まれているかもしれません。
場合によっては、それが今でもその人の心理や行動に影響を与えているかもしれません。これをマナ識といいますね。
仏法はその前を観てきなさいです。
これを、一度死んで来い、と言う。死に切って初めて、ともいう。
つまり、もう一度生まれ変わる、とでも言いましょうか。
それを得て、その体験を、その一体感を、それを今に生かす。

息と一つになる、音と一つになる、周りと一つになる、そして心が一つになる。

416たか:2009/12/17(木) 22:38:25 ID:/b/IhhLD
先月でしたか、
ETV特集ピアニストの贈り物
 辻井伸行 20日間の記録
というドキュメンタリー番組がありました。この番組はたいへん面白い内容でした。
辻井伸行さんはヴン・クライバーンピアノコンクールで優勝した全盲のピアニストで優勝当時たいへんなニュースになったのを多くの人が覚えているはずです。
そのコンクールの20日間をドキュメントで追った番組です。
417たか:2009/12/19(土) 18:49:03 ID:N8RU5BAD
赤ん坊の頃や子供の頃のほとんどは普段は思い出さないわけですがとことがチョッとした切っ掛けで思い出して胸が熱くなることがあります。
また、以前、味覚は3歳ごろまでに完成されてその味覚が一生を通じて影響を及ぼすと聞いたこともありますので、普段は意識してないにもかかわらず幼児期のものが、今の自分に、ということは大いにあるでしょうね。
子供の頃の体験は自分が意識してるかどうかにかかわらず大きな影響を与えることは確かですね。
418たか:2009/12/19(土) 18:50:58 ID:N8RU5BAD
ヴン・クライバーンピアノコンクールは最も権威あるピアノコンクールで優秀なピアニストを発掘するもので、その優勝者には3年間の世界ツアーコンサートの機会を与えられ、財団がその演奏者を育てようとするものです。
19歳から30歳までの若手のピアニストを対称にするコンクールで、今回も世界で150人の中から選び出された29人で一時審査が行われます。
一次審査は50分以内のリサイタルでその中から12人に絞り込まれます。

辻井伸行さんは小眼球という病気で生まれたときから全盲で、4歳の時からピアノを習い始め12歳で初リサイタルを開いたみたいですね。
目が見えなくて練習も大変だったろうと思うのですが、私は今までピアノの練習が大変だと思ったことは一度もないし逆にピアノの練習がたのしいとおもいます、と言っていました。

419たか:2009/12/21(月) 19:24:10 ID:bAISocoU
ヴン・クライバーンピアノコンクールの20日間の世界のコンクールは他のコンクールで優秀な成績をあげた若手ピアニストの集まりですが彼らの演奏は勿論インタビューや一次審査からセミファイナル、ファイナルへと進むに連れての心理状態もなかなか面白いものでした。
また審査員や共演者、指揮者へのインタビューかなりの意味深いものでした。
当然全盲のピアニストである辻井伸行さんの技術や人柄も、そして彼を取り巻き彼を支えてくれてる人たちの優しさも言うまでも無く素晴らしかったですね。
それをここを読む人にどのように伝えたらいいか、迷っています。
全てを書けば長くなりすぎすぎるし、かといって、どれもこれも外すことができないような気がしています。
420たか:2009/12/22(火) 10:02:21 ID:XS6e+5xu
一次審査で辻井さんが選んだ曲は、ショパンの12の演奏曲作品10、ドビッシーの映像第一集、リストのラ・カンパネラでそれらの難曲を演奏することで強いインパクトを観衆に与えようとしたようです。
無事演奏を終えた後、全盲のピアニストに関心は高くて地元のテレビ局が辻井さんに次のような質問がありました。
「誰もが知りたがっていることですが楽譜を見ることができないのにどうやって曲を覚えているのですか?」
「小学校の時から点字の楽譜というのもありますが、時間がかかりますし曲によってあるものと無いものがあるので、今は(右手左手別々に細かく)録音してもらったものを聞きながら練習しています。

このコンクールで審査員が重視するのは観客の足を会場に運ばせることができるプロの演奏家としての資質です。技術的には荒削りでも将来伸びる可能性が評価されます。
コンクールの審査員は11人、ピアニストだけでなく指揮者や音楽ディレクター、評論家が名を連ね、審査の公正さを保つため演奏者に教え子がいる場合その審査員は投票できない決まりになっています。

審査員でピアニストのメナヘム・プレスラーさん、
若いアーチストにありがちなのはまるでポルシェのように早く演奏したがることです。彼らはフォルクスワーゲンをあまり好まないようです。
しかしポルシェでも必要な時には正しく止まらなればなりません。レースばかりしていてはいけません。
必要に応じて抑揚をつけた演奏ができる若いアーチストを探しているのです。

一次審査を終えて29人から12人に絞られます。
一次予選はどうにか通りたいなと思っていました。結果を待つ間はセミファイナルまで通ればいいなとそれだけを祈ってました。
辻井さんは一次審査を無事通過しました。
421たか:2009/12/22(火) 11:03:04 ID:XS6e+5xu
セミファイナルは12人から6人に絞られます。
課題
タカーチ弦楽四重奏団との室内楽、60分以内のリサイタル 曲は自由(アメリカ人現代作曲家の作品を含む)
タカーチカルテットは1975年ハンガリーの演奏者で結成された世界トップレベルのカルテットで、12人のピアニストは一流のカルテットと競演することでプロのピアニストに必要な資質が試されるのです。
翌日からカルテットの音合わせが始まりました。レハーサルの持ち時間は90分。

審査員でピアニストのメナヘム・プレスラーさん、
ほとんどのピアニストは自分のパートはマスターしていますが作品の意図カルテット(弦楽四重奏団)との関係を理解していません。自分を主張するのではなく作者の意図を伝えることが大切なのです。
最初から最後までそのことを意識して弾かなければなりません。

辻井さんにとってカルテットとの競演は2度目のことです。
「室内楽はコンチェルトとは違い指揮者がいるわけではないし、お互い5人で息が合わないとできない、まして皆さん外国のメンバーだし言葉の壁もちょっとあるし、心配な部分もありましたね。」
カルテットと辻井さんのやり取りは通訳と音楽の先生を通してのやり取りにならざるを得ません。
辻井さんがカルテットとのやり取りを行なった時間は持ち時間90分のおよそ半分でした。

第1バイオリン エドワード・トゥシンベルさん、
室内楽にはさまざまな要素が含まれています。短時間でピアニストと確認しあう作業はお互いが持つ音楽のイメージをやり取りしながら接点を見つけ理解することです。
それは時にはピアニストにとっては難しいことです。ピアニストが上手く弾いたとしても弦楽器の音にうまく調和するとは限りません。
室内楽はその調和をどうやって見つけていくかが重要なのです。
422たか:2009/12/22(火) 12:02:03 ID:XS6e+5xu
充分な音あわせができずに、セミファイナルの室内楽本番の日を辻井さんは迎えました。
本番の直前までカルテットのメンバーは音の出だしをどのようにするか辻井さんに確認を求めました。
「各楽章の始め方なのですが、最初の3楽章はノブのピアノで始まりますよね。我々がOKといってじゅんびができたことをつたえるべきでしょうか」
「第一楽章が終わったあと、チューニングの音を合図にしましょうか」
「彼はそれでいいといっています」
「チューニングの合図でいいですね?」「何か言わなくて大丈夫ですか」
「お客さんが静かになるから」「彼はチューニングの音が無くても大丈夫だといっています」
「OK」

まあ、向こうはたぶん僕みたいな視力障害の人とやるのは初めてだろうし、たぶん心配をしてたと思う。でも僕はそういう心配は無かったですね。

シューマン
ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44

演奏後のインタビュー
「室内楽は親しい友人と会話するような音楽ですが、あなたもそのように演奏できましたか」
「そうですね、リハーサルで初めてあわせてお互いに呼吸をだしあった。僕は見え無いものですから息が大切なので、僕が合図をしたり向こうが息をしたりしてお互いにコミュニケーションしたりして今日本番はリハーサルよりうまくいったので本当によかったです」

審査員でピアニストのメナヘム・プレスラーさん、
テクニックを競うのはスポーツです。音楽は芸術です。
芸術は「聖職者」によって表現されなければなりません。
バスホールやカーねぎホールは我々ピアニストにとっては寺院です。
私たちの神は、モーツアルト、ベートーヴェン、ブラームス、シューマン、ショパン、ラフマニノフ、リスト、ドビッシー、ラヴェルです。
彼らの曲を美しく演奏するのが、私の言う、聖職者なのです。
聖職者は200年前の作品の価値や生まれた時の衝撃を今に伝えるのです。

423たか:2009/12/26(土) 11:34:23 ID:xiCEDSzs
セミファイナル 60分以内のリサイタル 曲は自由(アメリカ人現代作曲家の作品を含む)
(曲のレパートリィーがどのくらいひろいかもひょうかされる。)
辻井さんが取り組んだ曲はアメリカの現代音楽家ジョン・マスト 即興曲とフーガ
もう一つが、ベートーヴェン ピアノソナタ第29番変ロ長調作品106 {ハンマークラヴィーア」

このベートーヴェンのソナタは凄く長いし後期の難しいソナタに挑戦してベートーヴェンも障害を乗り越えて耳が聞こえなくなったというのも自分と境遇が自分と似ている部分があるのであえてベートーヴェンの気持ちになってこの曲に挑戦してみようと思いました。

審査ではピアニストの人間性までもが評価の対象になっています。
特にカルテットとの競演が重要な判断材料になります。
プロのピアニストとして成長するためには他の共演者の声に耳を傾け強調できる資質が求められるからです。

審査会場
第1バイオリン エドワード・トゥシンベルさん、
ピアニストはどの人も人間性は素晴らしかったです。心を閉ざしている人はいませんでした。
伸行との競演については、大変だったのは意思疎通が大変でした、通訳を介してでしたので・・。
しかし彼の耳の集中力には驚かされました。
ある意味、目でタイミングを取る以上に良いアンサンブルになったと思います。
我々は皆彼のことを気に入りました。
より深いレヴェルでの音楽のコラボレーションが出きればよかったのですがそれは時間や言葉の問題でできませんでした。
リハーサルの多くがタイミングの確認で終始してしまいました。
でも終わってみれば全盲というハンディーを全く感じさせない本物の演奏でした。

第1バイオリン エドワード・トゥシンベルさん、
ヴァンクライバーン財団はコンクールの入賞者がその後のキャリアを伸ばすことができる体制を整えています。
ですからこのステージで必ずしもすぐれた演奏をできなくても、その後財団に育てられ努力すれば、4,5年後には素晴らしい演奏家になります。
もちろんのこの場で強いインパクトを与えることにこしたことはありません。
努力を続けることで成長する大器晩成型の音楽家もいます。
3週間の演奏だけでなくその後の可能性を見すえていることです。
424たか:2009/12/26(土) 12:07:25 ID:xiCEDSzs
無事ファイナル6人に残った辻井さん。
うれしかったですねもう、ファイナルの舞台でコンチェルトを弾きたいという夢がかなったので、ここまでくれば後はリラックスして弾くだけだなと思いました。

ファイナル
課題 
 ピアノ協奏曲 2曲
 50分以内のリサイタル(曲は自由)

辻井さんのファイナリスト選出の知らせを受けて、5歳の時から辻井さんの指導をしている横山先生が東京からテキサスに駆けつけました。
横山先生の滞在はわずか一日、その限られた時間の中でコンクールで演奏する曲の旋律を辻井さんの耳に伝えました。

横山先生、
コピーとは違う、僕の横で弾いている演奏というのは一つの提案であったり、言葉でいう代わりの物であって、音楽としては彼のものであってほしいといつも思っています。

昼間から夜中の1時くらいまででしたから大体10時間ぐらいレッスンしてましたね。
自分でも無我夢中でやってたから、何を言われたのかも全然覚えていないです。

425たか:2009/12/26(土) 13:19:19 ID:xiCEDSzs
オーケストラーとの競演 ピアノコンチェルト
フォートワース交響楽団  指揮者 ジェームズ・コンロン

ジェームズ・コンロンさん、
コンチェルト(協奏曲)というのはピアノとオーケストラとの絶え間ない対話です。その関係はどちらか一方が主役なのではなく、音楽的にも、人間的にも、共同作業によって成り立つのです。
私の役は若いピアニストが自分らしく演奏できる環境を提供することです。彼ら自身が表現したい音楽を引き出したいのです。

リハーサルの中で指揮者と辻井さんの間で持ち上がった問題は、それは、指揮者の合図を辻井さんにどう伝えるかということでした。

何拍、数えるのですか?
弾き終わってから次の音だしまで、何拍数えますか?
ここは通常なら指揮者を見て合わせるところなんですが、ノブと私で独自の解決策を見つけましょう。
ワン、ツー、スリー、フォー、バン ・・。オーケイ?
もう一回。

通訳の人
彼のマネージャーが言うには、指揮者の息づかいに彼は合わせるそうです。
OK。(指揮者)
それではもう一回。
(指揮者の吸う息)スーゥ、ジャン。

ファイナルに残った時お母さんも、実はコンチェルトは客席で聞きたいなといってたので是非コンチェルトは客席で聴かせて上げたいなと思いましたね。

辻井さんの演奏曲目。(およそ1時間10分)
ショパン ピアノ協奏曲目第1番 ホ短調 作品11
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第番 ハ短調 作品18
426たか:2009/12/26(土) 13:20:28 ID:xiCEDSzs
演奏後
指揮者 ジェームズ・コロンさん、
非の打ちどころがありませんでした。彼のコミュニケーションは聴くことによって成り立っています。
かれの聴覚は信じられないほどハイレベルです。その能力のおかげで、むしろ他の人よりコミュニケーションがたやすくなっています。
彼との演奏をとても楽しめました。

観客の一人
辻井だね、かれの昨夜のショパンの協奏曲は、心を解き放ちそれに身をまかせるようだったよ。彼の演奏でオーケストラの音の引き立っていました。
感激で涙がでたよ、最高だね。
427たか:2009/12/26(土) 15:03:15 ID:xiCEDSzs
今回のヴン・クライバーンピアノコンクールの優勝者は2名でその一人が辻井伸行さんでした。

審査員でピアニストのメナヘム・プレスラーさん、
曲を最後まで弾けるようになることは始まりにすぎません。例えば文章を読むことができても本当に理解するまでには時間がかかります。
ツジイの演奏は奇跡です。これだけの大曲を耳で聴き覚えるだけでも大変な作業です。
さらに最後まで演奏するだけでなく音楽を深いレベルで表現することができる、信じられません。
しかも弱冠20歳にしてですよ。そんな能力は一体どこから来るのでしょうか。

辻井さん。
今までこの20年間、赤ちゃんの時から今までサポート、僕は必要な部分もあるので、このコンクールで優勝できたのはやっぱり両親の御蔭だなってことを言いたいですね。
優勝したことは凄くうれしいですが、ゴールではなくてスタートラインに立ったばかりなので、これからが勝負ですから、優勝者としていつもレベルの高いいい演奏をしていかなければいけない。
もっと立派なピアニストになれるように頑張りたいと思います。
428たか:2010/01/10(日) 09:25:02 ID:/3Ychv3T
辻井伸行さんのコンクールの様子を長々と書きましたが伝えたかったのはこのコンクールを通してピアニストはもとより、審査委員やタカーチ弦楽四重奏団の演奏者、オーケストラの指揮者、そして観客などが、ピアニストたちに何を感じ彼らから何を受け取っているか。
そして一緒に時間を共有した中で作曲者など先人たちが表そうとしたものをどのように伝えて感動させたか、を知ってもらいたかったからです。
前にも書きましたが、インターネットは便利なもので、検索すれば、辻井さんのコンサートも演奏も、私の書いたものを見ながら、パソコンのまん前で、その場で見て聞くことさえできます。
辻井さんの演奏を単に知ってもらいたかったからではありません。演奏だけならいつでも聴けます。
ただ、審判員や共演者、オーケストラの人たちがいかなることを基準にして判断しているのか、ちょっと知ってもらいたかったのです。

演奏者もその場の聞き手・観客も一体となってこそ、その音や演奏から感動や喜びが沸き起こります。
作曲者が何を感じ、何を表し、何を伝えようとしたのか、それははるか前のことであっても、今この時、一つの音によって今の私たちの心の中に沸き起こってきます。

仏法においても同じように、先人たちが何を感じ、何を表し、何を伝えようとしたのか、ここを読んで頂いた皆さんにも味わってもらいたいと思います。
429たか:2010/01/10(日) 09:42:58 ID:/3Ychv3T
今年は、新年改まって北国は大荒れの天気でした。
4日は仙台は強風で、電車も止まって、寒空の中で駅のホームでさんざん電車の再開を凍えながら待ちました。
ニュースでは北京やソウルでは気象台が始まって以来の大雪だったとか。
へェー、そんなに雪の少ないところだったのか、と意外に思いました。
寒い風の中にあっても、木々や草花、鳥たちなどは春の来る準備を着々としているのには驚かされることがあります。
寒い風の中ですっかり葉を落とし丸裸になっていながら、実はしっかり新芽の準備をしている。
そう思って観れば、日当たりの良いところでは木の芽も少しずつ膨らんでいるようにも見えます。
430たか:2010/01/10(日) 09:57:27 ID:/3Ychv3T
いっかい丸裸になって、すっかり葉っぱを落とす時が大切なことがあるのでしょうね。
自我を落として丸裸のスッキリさせることの必要でしょうか。
そうは言っても自分ひとりでは、そう簡単には落とせませんね。
自分を落として、周りの環境と一つになって初めてということも言えそうです。
強い北風や凍えるような寒さも時にはいい切っ掛けになるかもしれませんね。
一回落としてしまえば、周りにある小川の音も鳥のさえずりも、やさしく照らす日の光も爽やかな空気も、皆一体です。
一体で変化している、その変化の中で、自分たちは生きているということでしょうか。
いや、変化があるからこそ生きていられるということでしょう。

無我、無常、そして、涅槃寂静。
431たか:2010/01/24(日) 18:40:26 ID:ponMLV8D
仏説阿弥陀経
       姚秦三蔵法師鳩摩羅什奉詔訳

次のように、私は聞かせていただいた。
あるとき、釈尊は舎衛国の祇園精舎においでになり、千二百五十人のすぐれた弟子たちと一緒であった。これらはみな大阿羅漢の地位にあり、世間にもよく知られた者たちであった。
すなわち長老の舎利弗・摩訶目ケン連・摩訶迦葉・摩訶迦旃延・摩訶倶チ羅・離婆多・周利槃陀伽・難陀・阿難陀・羅ゴ羅・キョウ梵波提・賓頭盧頗羅堕・迦留陀夷・摩訶劫賓那・薄拘羅・阿ヌ楼駄などの弟子たちであった。
またすぐれた菩薩たち、すなわち文殊師利法王子(文殊)・阿逸多菩薩(弥勒)・乾陀訶提菩薩・常精進菩薩などの菩薩たち、その他、釈提桓因(帝釈天)などの数限りない神々たちもご一緒であった。

そのとき、釈尊は長老の舎利弗に仰せになった。
「ここから西の方へ十万億の仏の国土を過ぎたところに、極楽と名づけられる世界がある。その国土には阿弥陀と申しあげる仏がおられ、いま現に教えを説いておいでになる。
舎利弗よ、その国土をなぜ極楽と名づけるのかというと、その国の人々は何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけを受けている。それ故に極楽と名づけるのだ。
また舎利弗よ、極楽国土には七つの宝でできた池があり、八つのすぐれた功徳を持つ水がそのなかに充満している。池の底には一面に金の沙が敷きつめられている。
その四辺には会談があり、金・銀・瑠璃・水晶でできている。上には楼閣があり、これもまた金・銀・瑠璃・玻璃・シャコ・赤真珠・碼碯で美しく飾られている。
池のなかの蓮の花は、大きさは車輪のようで、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放っていて、かぐわしい香りを放っている。
舎利弗よ、極楽国土は、このように麗しく飾りたてられている。また舎利弗よ、その仏国土には、つねに天上の音楽が奏でられている。そして大地は黄金でできていて、昼夜六時のそれぞれに綺麗な曼陀羅の花が降りそそぐ。
その国の人々は、すがすがしい朝になるといつも、それぞれの花籠に色とりどりの美しい花を盛り、他の十万億の国々の仏がたを供養する。
そして食事の時となると帰ってきて食事をとり、その後は瞑想し散策する。
舎利弗よ、極楽国土は、このように麗しく飾りたてられている。
432たか:2010/01/24(日) 18:53:14 ID:ponMLV8D
また次に舎利弗よ、その国にはつねに種々の美しい色とりどりの鳥がいる。
白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命などの鳥である。このさまざまな鳥たちは、昼夜六時のそれぞれに優雅な声でさえずる。
その鳴き声は、五根・五力・七菩提分・八聖道分などの尊い教えを説き述べている。
その国土の人々は、この鳴き声を聞きおわると、だれもかれも仏を念じ、法を念じ、僧を念じるのである。
舎利弗よ、そなたはこれらの鳥が罪の報いで鳥に生まれたのだと思ってはいけない。
そのわけは、阿弥陀仏の国土には三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)はないからである。
舎利弗よ、その仏国土には三悪道(地獄・餓鬼・畜生)の名さえもないのだから、ましてそのようなものがいるはずがない。
このさまざまな鳥はみな、阿弥陀仏が法を説きひろめようと、いろいろと形を変えてあらわされたものにほかならないのである。
舎利弗よ、その仏の国土はさわやかな風が吹きわたり、さまざまな宝の並木および宝の網飾りを吹きゆるがせて、妙なる音楽作り出している。
それは百千種もの楽器が同時に奏でられているようであり、この音色を聞く者は、だれでも自ずから仏を念じ、法を念じ、僧を念じる心を生ずるのである。
舎利弗よ、極楽国土は、このように麗しく飾りたてられている。
舎利弗よ、そなたはどう思うか。
なぜその仏を阿弥陀と申しあげるのであろうか。
舎利弗よ、その仏の光明には限りがなく、十方の国々を照らして何ものにも障げられない。
それで阿弥陀と申しあげるのである。
また舎利弗よ、その仏の寿命およびその国の人々の寿命も、ともに限りがなく、実にはかり知れないほど長い。
それで阿弥陀と申しあげるのである。
433たか:2010/01/24(日) 18:58:12 ID:ponMLV8D
舎利弗よ、阿弥陀仏が仏に成られてから今日まで、すでに十劫という長い時が過ぎている。
また舎利弗よ、その仏のもとには数限りない声聞の弟子がいて、みな阿羅漢のさとりを得ている。その数の多いことは、とても数え尽くすことができない。
さまざまな菩薩たちの数も、またまたそのように多いのである。
舎利弗よ、極楽国土は、このように麗しく飾りたてられている。
また舎利弗よ、極楽国土に生まれる人々はみな不退転の位に至る。
その中には一生補処という最高の位の菩薩たちも多くいる。その数は実に多く、とても数え尽くすことができない。
それを説くには限りない時をかけなければならない。
舎利弗よ、このようなありさまを聞いたからには、ぜひともその国に生まれたいと願うがよい。
そのわけは、これらのすぐれた聖者たちとともに同じところに集うことができるからである。
しかし舎利弗よ、わずかな功徳を積むだけでは、とてもその国に生まれることはできない。
舎利弗よ、もし善良な者が阿弥陀仏の名号を聞いて、その名号を心にとどめ、
あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日、一心に思いを乱さないなら、その人が命を終えようとするときに、阿弥陀仏が多くの生者たちとともにその前に現れてくださるのである。
するとその人がいよいよ命を終えるとき、心が乱れ惑うことなく、ただちに阿弥陀仏の極楽国土に生まれることができる。
舎利弗よ、わたしはこのような利益を見ているが故に、このことを説くのである。
もし人々がこの教えを聞いたなら、ぜひともその国に生まれたいと願うがよい。
434たか:2010/01/24(日) 19:12:21 ID:ponMLV8D
舎利弗よ、南方の世界にも、日月灯仏・名聞光仏・大焔肩仏・須弥灯仏・無量精進仏など、ガンジス河の砂の数ほどのさまざまな仏がたがおられる。
それぞれの国でひろく弁舌をふるって、世界の隅々にまで届くように、阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、〈そなたたち世の人々よ、この『阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえて、すべての仏方がお護りくださる経』を信じるがよい〉と仰せになっている。
舎利弗よ、北方の世界舎利弗よ、北方の世界にも、焔肩仏・最勝音仏・難沮仏・日生仏・網明仏など、ガンジス河の砂の数ほどのさまざまな仏がたがおられる。
それぞれの国でひろく弁舌をふるって、世界の隅々にまで届くように、阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、〈そなたたち世の人々よ、この『阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえて、すべての仏方がお護りくださる経』を信じるがよい〉と仰せになっている。
舎利弗よ、下方の世界にも、師子仏・名聞仏・名光仏・達摩仏・法幢仏・持法仏など、ガンジス河の砂の数ほどのさまざまな仏がたがおられる。
それぞれの国でひろく弁舌をふるって、世界の隅々にまで届くように、阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、〈そなたたち世の人々よ、この『阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえて、すべての仏方がお護りくださる経』を信じるがよい〉と仰せになっている。
舎利弗よ、上方の世界にも、梵音仏・宿王仏・香上仏・香光仏・大焔肩仏・雑色宝華厳身仏・娑羅樹王仏・宝華徳仏・見一切義仏・如須弥山仏、など、ガンジス河の砂の数ほどのさまざまな仏がたがおられる。
それぞれの国でひろく弁舌をふるって、世界の隅々にまで届くように、阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、〈そなたたち世の人々よ、この『阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえて、すべての仏方がお護りくださる経』を信じるがよい〉と仰せになっている。
435たか:2010/01/24(日) 19:23:29 ID:ponMLV8D
舎利弗よ、そなたはどう思うか。
なぜこれを『すべての仏がたがお護りくださる経』と名づけるのだろうか。
舎利弗よ、もし善良な者たちが、このように仏がたがお説きになる阿弥陀仏の名とこの経の名を聞くなら、これらのものはみな、すべての仏がたに護られて、この上ないさとりに向かって退くことのない位に至ることができる。
だから舎利弗よ、そなたたちはみな、わたしの説くこの教えと、仏がたのお説きになることを深く信じて心にとどめるがよい。
舎利弗よ、もしすでに願いをおこした者、また今願いをおこしつつある者、あるいはこれから願いをおこすであろう者がいて、かの阿弥陀仏の国に生まれようとするならば、みなこの上ないさとりに向かって退くことのない位に至りる。
そして、その国にすでに生まれ、または生まれつつあり、あるいはこれから生まれるであろう。
だから舎利弗よ、善良な者たちで、もし信心がある者は、ぜひともその国に生まれたいと願うべきである。
舎利弗よ、わたしが今、仏がたの不思議な功徳をほめたたえているように、その仏がたもまた、わたしの不思議な功徳をほめたたえてこのように仰せになっている。
〈釈迦牟尼仏は、世にも希な難しく尊い行を成しとげられた。
この娑婆世界の五つの濁り、すなわち時代に濁り、思想の濁り、煩悩の濁り、生命の濁りの中で、この上ないさとりを開いて、人々のためにすべての世に越えすぐれた信じがたいほどの尊い教えをお説きになったことである〉と。
舎利弗よ、よく知るがいい。
わたしはこの五つの濁りと悪に満ちた世界で難しい行を成しとげ、この上ないさとりを開いて仏となり、すべての世界の者のためにこの尊い教えを説いたのである。
このことこそ、まことに難しいことなのである」
釈尊がこの教えを説きおわられると、舎利弗をはじめ、多くの修行僧たちも、すべての世界の天人や人々も、阿修羅などもみな、
この釈尊の説法を聞いて、喜びにあふれ、深く信じて心にとどめ、うやうやしく礼拝して立ち去ったのである。
436神も仏も名無しさん:2010/02/10(水) 19:43:58 ID:Uz9FgyJA
見性するこつってないんですか?
なんでもいいです、教えてください。
たかさんができたとき、できる前と一体何が違うかったのですか
せったんさんのうんすいにっき読んで大悟十八小悟ってやつもうやらかしました。
相手が自分になったとか大地とセックスとかいうやつ・・・
でもいかないんです、ほんともうどうしようもないです
437神も仏も名無しさん:2010/02/10(水) 19:50:35 ID:Uz9FgyJA
正念相続、一回きりというのほしいです。
もう大悟十八小悟とかなんたらの嘘っぱちいらないです。
438神も仏も名無しさん:2010/02/10(水) 20:03:48 ID:Uz9FgyJA
この命あるうちにできますかね。
体験したいですよ。でもね清々たる思い、スカーと妄想消えたり、んなもん
坐禅してるやつたいがいの奴はしでかしてると思いますよ、多くの人が。
私とたかさん何が違うんですか
439神も仏も名無しさん:2010/02/11(木) 15:34:43 ID:/86m5UVS
無所得
440たか:2010/02/14(日) 08:53:12 ID:0ZqTL5qr
436さんへ、
パソコンも携帯もアクセス規制でした。
なかなか書きたい時には書けないものです。
441たか:2010/02/14(日) 09:34:42 ID:0ZqTL5qr
まあ、そう言うわけではないですが先を焦らずゆっくり時を待つのも大切なことです。
早く早くと誰もが思うものでしょうが、この時の心には自分というもの(我)というものがまだまだ残っているのだということでしょうか。
このようなこころも含めて仏教では「我慢」というのでしょうか?
道元禅師の正法眼蔵 仏性 には竜樹菩薩の言葉として次の言葉があります。
 尊者曰、「汝欲見仏性、先須除我慢。」(尊者「あなた方が仏性を見ようと思うならば、まず我慢を除くべきである。」)

この説法の主旨を見過ごすことなくうけとらねばならない。
「見仏性」の「見」はないわけでなく、その「見」というのは、「除我慢」のことである。
「我慢」の「我」も一つというのではない。
「慢」も多種多様である。
「除く」こともさまざまである。
しかしながら、これがみな「見仏性」である。
我性に捉われない眼によるなら、肉眼でも見えるのである。

自分で自分でということをいったん捨てなければなりません。除かなければなりません。
そのためにしているのが坐禅なのでしょう。
仏法のことなどよく解らなかった私がしていた仏リンを鳴らしていたのも、今となって振り返ってみれば結果的に「除我慢」だったのかもしれません。
私自身、見性の直前は、結局無駄なことをしていたのかもと諦めたのです。自分では解らないなと。
ただそれでも続けていた。それが除我慢につながったということでしょうか。

このことはおそらく見性したほとんどの人が同じような道をたどっているのではと私は思っています。
釈迦も、道元も、一休も。
442たか:2010/02/14(日) 10:33:17 ID:0ZqTL5qr
そもそも見性も空も、まさしく今この瞬間を言っているのです。
私にあって、436さんにない、ということではないのです。
私たち存在すること自体が、空であり、見性の連続です。
そのことを忘れているだけです。
何度も書きましたが、赤ん坊としてこの世に生まれでた時見性と同じことを一度強烈に体験していたのだろうと私は思っています。
その時、音があり、光があり、大きく吸い込んだ呼吸から始まる強烈な衝撃が全身を流れた。
この衝撃は内側から激しく沸き起こりながらも、同時になんともいえないやさしさと安らぎの静寂がある。
生まれたときだけでなく、実は今現在も続いているのでしょう。
それも含めて、我が覆い尽くしてしまっている、除我慢によってそれをもう一度気づく確認する、それが見性であり、度一切苦厄ということでしょう。

正法眼蔵 仏性 で道元禅師が書いているように、見性が仏教の学びの始まりです。
これなくして仏法などないといえます。教えの全てはこの見性の体験に始まります。
ですから、一回こっきりというのはこのことを言うのでしょう。
見性体験と照らし合わせながら先人たちを学び、経典を深めていく、またそれを人に伝えながらそれをさらに深めていくのです。
人に伝え教えることは仏教を深めるだけでなく、時に間違った考えを正すことにもなります。

大悟十八小悟なんとかは白隠のことでしょうか?
そんなことなど考える必要のないことです。
深めている中で先人たちが何を考え、何を伝えようとしたか、まさしくびんびんに自分の心の中に飛び込んできます。
先人を知ることは先人と一つになることであり、仏法の教えとひとつになることともいえるでしょうか。
それを自分のものとしながら、そしてこの時代を取り入れながら人に伝えていく、これが大切なことだと思います。
443たか:2010/02/14(日) 11:21:57 ID:0ZqTL5qr
二日前でしたか、ニュースで画家の故平山郁夫さんが亡くなられる前に病室で描いた画が紹介されていました。
その画は窓辺の水差しに咲いた花でした。窓の外は外の景色が薄く描かれていましたね。
ニュースでは平山さんの作風が晩年変わったのではないかというコメントをしていました。この絵のほかにも一輪の花を描いたものが多く映像に映っていました。
平山さんといえば敦煌やシルクロードなど多くの仏教寺院や風景を描いていました。
確かにそれもよいのですが、本来仏法とはまさに自分自身、自分の周りのことです。
今現在、これが空ということです。
遥か遠くの仏教を見て描くのもいいが、実は自分のすぐそばに仏法はあるということを知らなければなりません。
すぐそばの傍らにある一輪の花にも仏法はあり、それを受け取る心に、仏法の心の真髄があるのかもしれません。
一輪の花であっても、特に弱っている心には励ましになり、心和むということでしょうか。

田舎の一輪の華を持つ菩薩像を思い出しました。
444神も仏も名無しさん:2010/02/19(金) 01:29:24 ID:E6HrFh+k
たかさんは何でテレビで見たあれこれや仏法がどうとかを語るのですか?
空にとどまっていれば、あの番組もあれ以外の番組も、仏法も仏法でないものも、そんな
枠組みも境界もないのではないですか?
今、目の前にあるものが全てで、判断を下す自分などいないのに、誰が、どこで、何を言っ
ているのですか?
445たか:2010/02/20(土) 10:58:32 ID:XK/r7vPe
444さんへ、
私がテレビ番組の内容を書いているのはここを読んでいる人に伝えた方が仏法をより深く解ると思うからです。
あなたが言われるように今この瞬間ということが大切ですが、それを伝えるのにもいろんな方法があるでしょう。
今のようにテレビもインターネットも無い時代には師と弟子の関係でしか伝えることができなかったでしょう。
良い師を求める姿を雲水といったと聞いております。
良い師にめぐり合うことは勿論、経典を目にすることも、そして漢文の経典を理解することなどは運の良い、ほんの一部の優れた人たちしかできなかったはずです。
現代は良い師にめぐり合うかどうかは別として経典も教えも容易に得ることはできます。
そしてそれを正しく理解する方法として昔と違い多くの方法もあるでしょう。
テレビやインターネットを使いより解りやすく理解して頂きたいと私は思います。

私がここに書いたテレビ番組は私が書いた後も、何度も再放送されたものも非常に多いですね。
先日の2月11日も、ETV特集ピアニストの贈り物 辻井伸行 20日間の記録 、の再放送をしていました。
それだけ内容の深い番組だと思う人は多かったのだと思います。
どういう内容かを大切だと思うところをそのまま書くようにしていますが当然全て伝えきれるものではありません。
再放送など見る機会があったなら是非観てほしいと思いながら書いているのです。
その中からそれぞれに思うところを深めていってもらえればなぁと思います。

仏法は遥か遠いインドから始まり中国に伝わりさらに日本に伝わりました。
その間にも深められ続けてきたと思います。
日本に届いた仏教から日本を代表する傑作といわれる絵画や彫刻も、茶道や俳句など日本文化も生まれ私たちは今その真っ只中にいます。
446たか:2010/02/20(土) 11:18:23 ID:XK/r7vPe
傑作、名作といわれるものはそのテクニックは勿論ですが、その作品の精神性、作者の心がそれをまの当たりにするものの心を捉えます。
雪舟の絵や等伯の松林図や俵屋宗達の風神雷神図は空を描こうとしている傑作です。
利休の茶室も、芭蕉や子規の句にもそれを感じさせてくれます。
いろんなものに触れそれを深める方が人生を楽しくさせてくれます。
彼らはきっとこう感じて、このように表現したのだなと。

作品からその心を感じ取る、人生を豊かにしてくれると私は思いますが、いかがでしょうか・・・。
447たか:2010/02/20(土) 17:39:25 ID:XK/r7vPe
仙台は昨日も今日も朝は雪でした。
昨日は典から落ちてくる雪に目標を定めて口をあけて口の中にそのままキャッチしながら朝道を歩きました。
そういえば子供の頃、こんなことをしていたのを思い出しました。
日中は日差しもさしてきて通る道沿いにある紅梅も咲き始めていて、梅の花の香りはどんなだったんだろうと思い小さく小枝を取りました
8センチぐらいでしょうか、一輪の花と小さいつぼみが2つ、その小さく咲いた花に鼻を近づけながら、あぁ こんな香りだったか、と思いました。
その紅梅の小枝を大切に家に持ってかえって小さいおちょこに水を入れ小枝を入れて、それを観ながら時々香りを嗅ぎながら晩酌をしました。
道にふきのとうがひとつあったのでそれも持ち帰って細かく刻んで味噌とあわせて、ふきのとおのほろ苦い春の香りも楽しみました。
朝起きて梅の枝のお猪口を見たら、昨日咲いていた花は弱っていましたが、つぼみの一つが綺麗な花を咲かせていました。

小鳥の声もいろんな声が聞こえてきます。
黄のはがないため鳥の鳴き声と鳥の姿がよく見えます。
バードウォッチングにはいい季節のようです。
春はもうすぐですね。
448たか:2010/02/27(土) 20:10:09 ID:tXWoTMzt
>477訂正 典では無く 天
     黄ではなく 樹 樹の葉でした。

雪舟の秋冬山水図の天空に突き刺す鋭い線、俵屋宗達の風神雷神図の枠の外から凄い形相で中央の空間に飛び込んできた風神雷神。
見性の時の身体を貫く一音の一撃のようです。これを雷鳴が轟くが如くといいます。
等伯は自身を雪舟の弟子としましたが、同時に千利休との交流は有名です。
千利休との出会いで道が開け、楓図を描き、息子久蔵は桜図を描きました。
わずか3歳で亡くなった秀吉の嫡子である鶴松の菩提寺・祥雲寺に描かれたこの作品は共に自然の草花木々を美しく描いていて極楽の世界を描いたのかもしれません。
一方、久蔵の亡くなった後に描かれた松林図は全く趣の違う墨絵です。
茶禅一味の精神を追求し、わび茶の精神をつくった茶道の祖である村田珠光は一休禅師の弟子ですが、一休は次の句を残しています。
  心とはいかなるものをいうやらん 墨絵にかきし松風の音
等伯の松林図と一休の句、何か響くものを感じさせてくれますね。
449たか:2010/03/15(月) 23:44:33 ID:q8SdxTnA
今月22日まで東京国立博物館で没後400年 特別展 長谷川等伯 が開催されていて多くの人たちがその作品群を目にしようと訪れています。
秀吉や利休に重用され、あの狩野永徳を脅かした長谷川等伯。
その作品群を一挙に公開する史上最大規模の展示会。
 という事で私も夜行高速バスに乗って宮城からはるばる東京に出かけてきました。

等伯の展示会が目的でしたが、そのついでに湖畔の黒田清輝、どういうわけか、ゲゲゲの鬼太郎の水木しげる展、国立新美術館で開かれているルノアール展、その隣で開かれていた書道展、全日本水墨画秀作展というものまで見てきました。

少し旅行記ぽく書くでしょうか、少し書きたいと思っています。
450たか:2010/04/02(金) 10:58:04 ID:Vmhf1qGx
3月7日テレビを見ていて、東京国立博物館で没後400年 特別展 長谷川等伯 が開催されているのを知った。
それで、次の土曜日に見に行くことに決めて仙台から東京への深夜バスの予約をすことにした。
テレビのニュースで学生たちが東京での就職活動のために深夜バスを使っているのを知っていたのでどんなものか一度乗りたいと考えていた。
パソコンで検索すると仙台東京便は結構走っていて、料金も片道2000円ぐらいから5000円ぐらいまで幅がある。
いろいろ考えて2800円の金曜PM11:55仙台東口発を予約した。
帰りは日曜PM2:30新宿南発 仙台行き。

夜11時半ごろ仙台東口バス乗り場に着いた。
どうやらこの時間に東京行きのバスが集中するらしい。
バスに案内された。一列四人がけの座席だ。
一度降りてコンビニで水とビールとつまみを買い、トイレも済ませた。バスにはトイレが無いのだ。
定刻どうり出発。ほとんど座席はいっぱいだった。
動き出してしばらくしたら室内の電気が暗くなった。
どうやら、東京への途中、高速道路のサービスエリアで2〜3度トイレ休憩するようだ。
つまみとビールは買ったけれど室内が暗くなったので食べずに私も寝ることにした。
4列の座席はやはり窮屈だった。
私は佐野サービスエリアでトイレ休憩をした。
その後は新宿西口で乗客を降ろし、東京駅に向かった。
東京駅に着いたのは朝の5時過ぎだった。
バスはこの後千葉に向かうので忘れ物をしないよう、席の周りは綺麗にかたずけてくださいと何度もアナウンスがあった。

451たか:2010/04/02(金) 11:26:35 ID:Vmhf1qGx
東京駅でトイレを済ませ、時間が早いのでどうしようかと迷っていたが、せっかくひさしびりに東京に来たので山手線で一周することにした。
少しずつ夜が明けて行き、ホームでの人の動きも激しくなる。池袋や新宿、渋谷では特に。
一周して神田駅のホームの下のそば屋でカツカレーで腹ごしらえして上野駅に向かった。
キヨスクで少しお菓子と水を買って国立博物館に。
7:30分 早かった。
博物館の入り口にはロープが張られたままで誰ひとりいなかった。
しかないのでそのまま待っていたら8時過ぎ警備の兄さんがロープをはずしに来た。
当日券の方はこちらで待っててくださいと教えてくれる。
昨日は一万八千人以上きたんですよ、と教えてくれた。
どうやら、NNHKの番組や皇族の方が来たというニュースでいっきに観客が多くなったらしい。
今日もきっと多くなるんじゃないかな、という。

まあ一番乗りだから少しはよく観れるだろうとたかをくくっていたのだが・・・。
452たか:2010/05/10(月) 14:58:30 ID:IJ1IZBFk
京都でも開かれていた長谷川等伯展も昨日で終わったみたいですね。
この絵は日本を代表する墨絵の最高峰といわれる絵ですが、本物を一度は観たらいいですね。
画いてあるのは松だけですが、描いていないものが観じられると多くの人が言います。
描かないで表わす。
実際に見てみればなるほどと、思えてきます。
453神も仏も名無しさん:2010/05/26(水) 19:46:07 ID:zyp1GXFY
除我慢、言ってる意味がわかりました。
454神も仏も名無しさん:2010/05/26(水) 22:10:17 ID:YXj+GD16
うらやましい。長い事やってるつもりだけどちっともわからん。俺はダメだな。
455神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 22:00:39 ID:tZFUCcbE
せったんさんよりたかさんの方が読む上ではわかりやすい。
けど対話の中ではせったんさんの方がずばり指摘してくれる。
たかさんはやさしい。
456神も仏も名無しさん:2010/06/03(木) 17:05:31 ID:KDA9Gtjf
あげ
457神も仏も名無しさん:2010/06/09(水) 12:02:02 ID:VRsIugP4
458たか:2010/06/10(木) 07:15:42 ID:bmoAV5bA
私がここ、座ったり立ったりする修行なんていうの?、に初めて書いたのが2006年6月4日ですのでちょうど丸4年になりました。
読んでいただいている人に良いヒントになればと思います。
日本に伝わった仏教が単に僧侶だけでなく、優れた文化や芸術家を生み出してきていたのだと改めて気づきますね。

我慢を除くと、不二一体ということが解ります。
まずはこれに気づくことが大切です。
これが、大乗仏教の教えの入り口でしょうか。

私が阿弥陀経を初めて読んだとき鳥の声や小川の音などが書いてあって、何故こんなことが書いてあり、それを多くの先人が永遠と読み伝えてきたのか不思議だったわけですが、仏法を深めれば深めるほど「なるほど」と思えてきます。
今になって思えば単なる極楽浄土の風景描写でなかったということです。


459たか:2010/07/07(水) 22:38:00 ID:6VmR20Wa
今日は七月七日。七夕ですが外は先ほどまで雷が光っていました。
私は小さい時から稲妻と引き裂くような雷の破裂音が大好きです。
稲妻の光も、近くで落ちたような強烈な音も、時に身体全身揺さぶるが如く、全身を震わせます。
460神も仏も名無しさん:2010/07/28(水) 20:24:24 ID:QzcEUcQ5
毎日暑いね
461神も仏も名無しさん:2010/09/13(月) 19:39:32 ID:+oJ2JBEc
あげ
462たか:2010/09/14(火) 20:36:50 ID:5i2N06sY
宮城県はやっと涼しくなってきました。
毎日毎日暑い暑いとニュースは伝えてましたが、本当に、今年の夏は暑かったですね。

ここは、書き込みができない日が続いていましたが、書き込みできないうちに、いつの間にか夏を通り越して秋になってしまいました。
年のせいか、月日の移るのが早く感じられて、今観じられるものは何でも味わってみたいと思って休みのたびに出かけるようにしています。
特に仙台の祭りはほとんど今まで出かけなかったのですが、今年は、6月のジャズの祭り、青葉祭り、8月の花火大会、七夕祭り、先日9月の定禅寺ストリートジャズフェスティバル等続けて出かけました。
これらの祭りはどれも仙台駅から定禅寺通りまでの仙台の中心地を2〜3日掛けてのおこなわれる大きな祭りですね。この中心部には冬にも祭りはあるわけで、改めて仙台は祭りが多くあるなと、定禅寺のケヤキ並木の青葉の下で人波にもまれながら思いました。


463たか:2010/09/21(火) 20:38:13 ID:hIIRP+eM
狂言に「宗論」というなるほど・・と解りやすい名作がある。
464神も仏も名無しさん:2010/11/05(金) 12:16:48 ID:2fxbZ92J
age
465たか:2010/11/10(水) 22:46:24 ID:iThEP0+t
11月も半ばになりすっかり寒くなってきました。
アクセスができなくてなかなか書くことができませんでした。
466たか:2010/11/10(水) 23:52:52 ID:iThEP0+t
仏法は不二一体、一如、無分別ということが大切です。
これを言葉を変えていえば、「空」とも言い表すこともできますが。

>>463で狂言の「宗論」について少し書こうとしましたがアクセス禁止になり書けませんでした。
この狂言の内容も主題はまさに、不二一体、一如ということでしょうか。
狂言という滑稽さの中に、仏教の真髄が表されているのでしょう。

この狂言には、身延山から京に上る法華宗の僧と、信濃の善光寺から帰る途中の念仏宗の僧が登場します。
はじめ互いのことを知らないうちは良い旅の友を見つけたと喜びますが、それぞれが対立する法華宗と念仏宗の僧と知ると、勝手ででたらめの宗論を互いに言い張り合います。
同室に泊まることになりますが、相手の自分勝手な解釈の宗論を聞いては互いにけなし合いますがあまりのくだらなさに互いに寝てしまいます。
翌朝、早く目覚めた念仏僧が朝のつとめの念仏を始め、後に起きた法華僧もそれに対抗するが如く題目を唱え始めます。
互いに相手を意識して声を張り上げ唱え、ついには踊り念仏、踊り法華経で部屋の中を歩き、踊り始めます。
互いが夢中になって踊っているうちに、いつの間にか念仏僧は題目を、法華僧は念仏を口ずさんでいることに、フッと気づいて我に返ります。

実に今思い出したり、昔在霊山妙法華、今在西方妙阿弥陀、娑婆出現観世音。
一体となりこの文を開く時は
法華も、弥陀も、隔てはあらじ
今より後は二人が名を、今より後は二人が名を、
妙阿弥陀仏とぞ申しける。
467たか:2010/11/11(木) 00:01:03 ID:iThEP0+t
同じ仏法なのに、ついつい俺の方が上で優れていると自慢したくなるものです。
これこそ相手を見下した分別心なのでしょうか。
互いに本山からの帰りでその高揚感が沸き立っていたのでしょうか。
468神も仏も名無しさん:2010/11/14(日) 11:52:44 ID:vq9hlETm
 自分は坐禅を始めたばかりです。何も書けないですが、興味深く読ませてもらってます。
個人的には坐禅の本質は只管打坐だと思いますが、仏法の本質が不二一体、一如、無分別
とすればどう関係するのか今だ実感としてはわかりません。最近読んだなかですこし気に
なったのは、南直哉氏の「日常の中の禅」という本の中で、「見性思想」とでもいうべき
「真実在」的境地を狙うことに否定的なことです。鈴木大拙などにも批判的なので、そういう
考え方もあるのかと新鮮な感じがしました。
 副題に「修行のするめ」とあって、「するめ」ってなんだろうとおもって手に取ったのが
この本を読むきっかけですから、このような峻厳な生き方は自分には向かないのですが、
憧れでもありますし、南氏の率直で切れのいい文章は大いに参考になりました。
 「すすめ」を「するめ」と読むのは錯誤体質のようなものがあるのかあるいは第一次
印象にたいする許容範囲が広いということなのか。実をいうとニサルガダッタやエックハット
トールの方がするめ的で腑に落ちる感じがします。若い女はケーキは別腹ですが、自分も
主食は道元さん、ケーキはニサルガダッタという感じです。
469神も仏も名無しさん:2010/11/14(日) 12:24:33 ID:Z0f8YbNB
470神も仏も名無しさん:2010/11/16(火) 06:59:00 ID:aZnDRjRC
 仏リンを聞いてみる。と言っても仏リンはないので想像で聞く。結局のところは
聴くのだから想像でも実物でも同じことだろう。想像で聴けないなら実物でも聴けない。
むしろ創造で聴く方が効果が高い。買う金がないと想像力も豊かになる。
チーンンンンンンンンン。思うように響かない。
実物なら響くのか? そういうことはありえない。仮に響いたとしてもそれは錯覚だろう。
聴いているようで聞いていない。
チーンンンンンンンンン。響かない。しかし、かすかな感触がある。
チーンンンンンンンンン。やはり響かない。かすかな静寂がある。
471たか:2010/11/16(火) 19:00:39 ID:7vp5fWMQ
踊念仏に、踊り法華、どちらもリズムをとりながら夢中になってしまった。
無我夢中とは言ったもので、踊りの中で無我状態、自己も忘れ無我になってしまった。
それだけでなく相手の音まで取り込んでしまっていてハッと気づいた時には入れ替わっていた。
相手が自己になり自己もまた相手になっている。相手の心に自分が入り自分の心に他が入る。

確かに音や念仏・題目を用いて無分別を示そうとしているけれど、実は音など無くとも無分別ということが時期に解ってくる。
存在自体が無分別の変化の中にあるのでしょう。だから言葉をかけなくともそばにいるだけで心が落ち着いたりもする。
472たか:2010/11/16(火) 19:35:30 ID:7vp5fWMQ
前から書いてるとおり私は坐禅も念仏も「自己を捨てる」やり方だと思っています。
昔、法華経を読んでた時法華経の中に法華経を賛美する文があって「なんだこっれは」と驚いたのを思い起こします、

自己を証するために自己を捨ててみる、そのために只管打坐に徹して時を持つ。
どれが良いかはそれぞれが自分に合いそうなものを選べばよいのかもしれません。
473たか:2010/11/16(火) 20:13:25 ID:7vp5fWMQ
見性については他の人がどう言おうがほとんど気になりません。
見性を必要ないとするならそれはそれで良いでしょう。
ただ私が多くの例で書いてきた通り見性体験が後世の人たちの心に大きな影響を与えたことは確かです。
私などは先人の方々がそれをどのように伝えようとしたかに興味と面白さを感じます。
「なるほど芭蕉はこのように観じたのだな」とか、羅什は「それを元に多くの経典を訳し伝えようとしたのだな」とか思うたび、それを知ることできて多くの喜びを感じますよ。
それを少しでも伝えたいと思いここに書いてきたわけですが。
見性などいらないと思うならそれもよいでしょう。でも、慧能や雲門や一休などの先人が何を伝えようとしたか、その心をあなたは本当に観じることができるのですかと問いたいですね。
474たか:2010/11/16(火) 20:27:30 ID:7vp5fWMQ
>>470さんへ
私が言う音による一体感、見性は今その時を観ずるものであり、その時音が鳴ってこそです。
音が無くて音を観ずるのではありません。
仏リンの音があってこそ、その時の仏リンの音なのです。
呼吸もまたその時の呼吸です。
他のものをつければ、余計になります。これをありのままというのでしょう。

今鳴っている音で自他一体、無分別、不二を知るのです。これが見性です。
そこから慈悲や菩薩の心を知ります。
475神も仏も名無しさん:2010/11/18(木) 09:12:56 ID:4I+n3u8q
>仏リンの音があってこそ、その時の仏リンの音なのです。
>呼吸もまたその時の呼吸です。
>他のものをつければ、余計になります。これをありのままというのでしょう。

 ありのままなのですね。ありのままの仏リンの音が響いてくるような気がします。
自分はというと「ありのまま」ではないというのがわかるのですが、「ありのまま」
ではないのが解るというのが不思議な感じがします。「ありのまま」が解っていないと
「ありのまま」じゃないなんて分からない筈ですよね。
ですから頭では「ありのまま」が分かっている筈だと分かっているのですが、でも
やっぱり「ありのまま」じゃないのです。
476神も仏も名無しさん:2010/11/19(金) 18:57:04 ID:3qCzr5sd
 あるがままとは要するに源泉のことではあるまいか。
心の源泉、物語の源泉、知恵の源泉
苦しみという観点からすれば、苦しみの物語を楽しんだり悲しんだりしているのだが、その
源泉は非常にシンプルでチョロチョロした綺麗な水が流れているだけなのだろう。
 このチョロチョロした源泉を制御するのが一番簡単で、そこを制御すれば大した苦労もなく
「巨大な苦物語」を簡単に楽に制御できる。
あるがままが解るというのはその源泉が解るかどうかである。つまり感受する「そこ」
、そこそこ「そこ」である。時間的にはある一瞬、その瞬間、そこの瞬間である。
 
源泉感覚を掴むのに仏リンがよいのではあるまいか? 仏リンを叩くと、ワンワンワンと
響き始めるが、ただちに頭のなかでは「腹減った。とんかつ食いたい」とか仏リンの音と
ともに物語が発生する。普通なら、「腹減った。とんかつ食いたい」の原因は、様々な
状況で発生する。だから原因に対して無自覚になる。しかし仏リンを叩いて状況を固定し
単純化してみると、仏リンー>腹減ったの関係がはっきりと見えてくる。
つまり叩き棒が鐘に触れる瞬間がそのハラヘッタの起点なのだ。
 何が発生するかは問題ではない。起点になっているそのことが問題なのだ。そのことが
分かれば、ハラヘッタがボディサッタでもまったく同じことではあるまいか。
477神も仏も名無しさん:2010/11/23(火) 07:03:30 ID:2cz5IZXr
現生が信仰者の牢獄であるように、悟りは賢人の牢獄である。
478神も仏も名無しさん:2010/11/24(水) 04:39:14 ID:o0os0F62
 世の中には吐き気をもよおすほど嫌な奴がいる。純粋になればなるほど
吐き気がするのではないだろうか? ダイヤモンドの輝きを持った人にとっては
陰鬱な糞野郎にみちみちているのではあるまいか?
479Ron:2010/11/27(土) 22:14:16 ID:12z2xrfs
>>478
それは思い込みだよ。

悟りからみればすべて悟りなのだから、迷いしか見えないなら、自分が迷っていることになる。。
480Ron:2010/11/27(土) 22:15:05 ID:12z2xrfs
>>477
牢獄じゃーなくて、無限の広がりでないかい?
481神も仏も名無しさん:2010/11/30(火) 08:35:47 ID:w8poLZfL
現生が信仰者の牢獄であるように、天国は賢人の牢獄である。
 これが元ネタ

現生が信仰者の牢獄であるように、悟りは賢人の牢獄である。
 なんかわかるような気がしない?
俺はうまく説明できないが、悟りの人はやっぱり悟りに囚われていると
思うことがある。見性は異常心理とは違うが、しかし共通する部分も大いに
ある。見性は右脳の特殊な成長で、現実とのバランス感覚を持つには
左脳的洞察力をそれ以上に磨く必要があるとおもう。
482神も仏も名無しさん:2010/12/06(月) 22:44:42 ID:eOk7Inj7
あげ
483たか:2010/12/07(火) 17:51:19 ID:fF9LOrH1
アクセス禁止でなかなか書き込みできませんね。
484たか:2010/12/07(火) 18:29:44 ID:fF9LOrH1
>>475さんへ、
仏鈴の音はただの「チ〜〜ン」それだけです。
なんだそれだけかと思うでしょうが、先人の(菩薩と言われる)方々はこの音を、この時の体験、体観を「仏は一音をもって法を説く」と伝えてきました。
単なる一音ですがこの一音の中に全ての大乗の教えの元が入っていると断言して間違いでありません。

観世音菩薩は般若心経では悟りの仏として、観音経では慈悲の仏として書かれますが、それは観音が慈悲であり悟りであるとのいえるでしょう。

一休禅師や香厳禅師が悟りの体験(見性)の後、それまで納得できなかった疑問を一瞬の体験の中で理解し、先人の教えを受け継いだというのも私には理解できます。
いままでいくらやっても納得できずにもやもやしていた疑問が一瞬にして理解でき、まさに晴ればれとした心地だったに違いありません。
485たか:2010/12/07(火) 18:44:38 ID:fF9LOrH1
左脳や右脳、こんなことは私だって少しは知っていますよ。
そんなことぐらいは充分知っていながら書いています。
左脳がどうだとか、右脳がどうだとか、そんな知識があって初めて感動や喜びや悲しみが沸き起こるわけではないでしょう。
そんな知識を示したからといって、慈悲の心を伝えられるわけではないでしょうが。
そんな知識など無くても涙はかつてに沸き起こって流れだします。歓喜の声だってかってに口から飛び出してしまいますよ。
486神も仏も名無しさん:2010/12/08(水) 07:36:45 ID:KF+HYBf9
確実なことを確実に伝えるのが大切だと思います。
「この一音の中に全ての大乗の教えの元が入っている」と言われても、わからない人には
なんのことかわかりません。
 マハルシやニサルガダッタの本には崇高な真理が書かれているように感じます。しかし
そこに至るにはどうすればよいのかと読者が問うと、「私を発見しなさい」とだけあります。
そこから先へは一歩も踏み込めていません。これはクリシュナムルティにおいても同じです。
宗教において天才的な人や、偶然真理を掴んだ人は、わからない人の何が分からないかが
理解できないのでしょう。重要な一点を噛み砕いて説明することができません。
 非常に特殊な記憶力や計算力を持っている人々がいます。彼らは一般に脳に障害があり
特殊な能力だけが驚異的に発達しています。彼らもまたその能力を説明できません。
 天才たちはみな「チーン」のグループと言えます。
 しかし凡人でありながら、真理を段階を追って体得した人は、全く違います。その中には
悟りに至る方法を非常に詳しく噛み砕いて説明できる人もいます。
 仏陀その人がまさに、その代表だと思いますが、壊れていない正常な凡人の明晰な頭脳を
持っていると感じます。最近、ゴエンカ氏のビパッサナー瞑想入門という本を読みましたが
彼もまた、すぐれた凡人だと思います。
487たか:2010/12/08(水) 18:52:16 ID:zJ4Xsqfx
>>486さんへ
>「この一音の中に全ての大乗の教えの元が入っている」と言われても、わからない人には
なんのことかわかりません。
と書いていますが、それは一休禅師や香厳禅師などの先人においても同じことですよ。付け加えれば釈迦もでしょうか。

ただ、あなたと先人たちの考えの違いはハッキリしています。
あなたは特殊な人が特殊な能力の人だけがそのようなことを体験するのだと考えているようですが、大乗の先人たちはあらゆる存在するものは常にその観の中に(空といってもいいでしょう)存在しているのだと考えています。
それはつまり、体験できる状態の中で存在しているのが現実なのだから誰でもそれを体観できないはずは無いと考えているのでしょう。
誰もが体験できる、見性する事ができる、悟ることができる、だからこそ大乗といっているのです。
それは脳に障害があろうが無かろうがその区別なしです。

私はあなたが書かれた外国の名前の方は誰一人知りません。そしてその人たちの考え方も知りません。
私があなたに伝えられることは今までここに書いてきたことだけです。
ただただ、己を捨てることから始めなさいということだけです。ただそれだけですよ。
私だけでなく、道元の只管打座、親鸞の南無阿弥陀仏もそうです。
名の知れた先人の教えは皆そうですよ。
余計なことは考えるな、ただそれだけをしろと言っているのです。
あなたは、どこの誰それがこういった、誰さんはこうしてるといい、いろんな人の名前を言っていますが渡すは不要だと思いますよ。
己を捨てるどころか逆にいろんなものを付け加え、くっつけてあなた自身が混乱しているように見えます。
捨てるんですよ、捨てるんですよ、それからですよ、・・・無門の関が観じられるのは。
488たか:2010/12/08(水) 18:59:43 ID:zJ4Xsqfx
訂正 渡すは、ではなく、私からみれば、に訂正です

>>486さんへ
>「この一音の中に全ての大乗の教えの元が入っている」と言われても、わからない人には
なんのことかわかりません。
と書いていますが、それは一休禅師や香厳禅師などの先人においても同じことですよ。付け加えれば釈迦もでしょうか。

ただ、あなたと先人たちの考えの違いはハッキリしています。
あなたは特殊な人が特殊な能力の人だけがそのようなことを体験するのだと考えているようですが、大乗の先人たちはあらゆる存在するものは常にその観の中に(空といってもいいでしょう)存在しているのだと考えています。
それはつまり、体験できる状態の中で存在しているのが現実なのだから誰でもそれを体観できないはずは無いと考えているのでしょう。
誰もが体験できる、見性する事ができる、悟ることができる、だからこそ大乗といっているのです。
それは脳に障害があろうが無かろうがその区別なしです。

私はあなたが書かれた外国の名前の方は誰一人知りません。そしてその人たちの考え方も知りません。
私があなたに伝えられることは今までここに書いてきたことだけです。
ただただ、己を捨てることから始めなさいということだけです。ただそれだけですよ。
私だけでなく、道元の只管打座、親鸞の南無阿弥陀仏もそうです。
名の知れた先人の教えは皆そうですよ。
余計なことは考えるな、ただそれだけをしろと言っているのです。
あなたは、どこの誰それがこういった、誰さんはこうしてるといい、いろんな人の名前を言っていますが私からみれば不要だと思いますよ。
己を捨てるどころか逆にいろんなものを付け加え、くっつけてあなた自身が混乱しているように見えます。
捨てるんですよ、捨てるんですよ、それからですよ、・・・無門の関が観じられるのは。
489たか:2010/12/08(水) 19:15:32 ID:zJ4Xsqfx
ちょっと行き詰ればすぐに違うものに目が行く。
落ち着かなくて集中しなくて身につかない。
たいていの人はあなたと同じくふらふらします。ついつい知識に頼ろうとします。
そうでなくて、それを捨てて初めてですよ。だから難しいんです。
知識などは勉強すればそれなりに行きます。
そんなことは百も承知の上で、それを捨てろと説いているんです。
それが解らなくては鳩摩羅什の漢訳した経典はなかなか読みこなすことはできないかも知りません。当然、その心も。
490たか:2010/12/08(水) 19:37:10 ID:zJ4Xsqfx
狂言の「宗論」にでてくる念仏も、法華経も、元はといえば鳩摩羅什の阿弥陀経と法華経に由来します。
本来羅什が発明した文字なのにいつの間にやら全く違う別のものに解釈されそれぞれが俺が上だといい始める。
羅什が知ったら狂言の内容以前に驚いて腰を抜かしたかもしれませんね。
何度も書きましたが、羅什の訳した経典はどれも羅什のオリジナルの要素がありそれがあるが故にどれもが名訳と言われています。
文章の内容もですが言葉も、日本の仏教に無くてはならないものばかりです。数え上げればきりが無いですね。

阿弥陀仏が上だ、法華経の教えが上だといってもただの戯言、真理を知れば、いまの娑婆出現観世音で治まってしまった。
491たか:2010/12/08(水) 20:29:45 ID:zJ4Xsqfx
羅什も、羅什の尊敬した竜樹も、唯識の世親も、元はと言えば小乗仏教の僧であり、第一人者で論客です。
ところが大乗を知ることで、皆、なんて自分はバカだったんだと嘆きます、そして大乗においてなくてはならない名僧になっていきます。。
小乗の限られた人だけが知るという狭さと、大乗における誰もが悟りの中にいて救われているのだという大きさの違いでしょうか。

私はこの大乗の捉え方は釈迦でさえも到達できていなかたかもしれないなと思っていますね。
一休も、釈迦は空を説明できていないと言い切っていましたね、
492神も仏も名無しさん:2010/12/08(水) 22:50:19 ID:0snaOT5p
知識で一音をわかろうとしてしまう。
だからたくさんの本を読んで得よう得ようとする。
「捨てる」と言う言葉も、得た知識で分かった気になる。
それはもう聞き飽きてうんざりだ、もう空も分かってると。
でもそれでは分かったに入らない、だって納得しない残留物が残ってるし、
増える一方。
・・・とは言ってもまずは理を理解するほうがいいように思う。
偽和尚とかロンでもいい。
それからたかさんとこに来たほうがいい。
そのとき、多分たかさんほどストレートに言ってる人はいないと気づくはず。
493神も仏も名無しさん:2010/12/09(木) 00:16:59 ID:Ly/EP0KD
>羅什も、羅什の尊敬した竜樹も、唯識の世親も、元はと言えば小乗仏教の僧であり、第一人者で論客です。
>ところが大乗を知ることで、皆、なんて自分はバカだったんだと嘆きます、そして大乗において
>なくてはならない名僧になっていきます。。
>小乗の限られた人だけが知るという狭さと、大乗における誰もが悟りの中にいて救われているのだ
>という大きさの違いでしょうか。

 彼らは小乗から大乗への段階を踏んで成長したと考えられませんか?
 大乗の方がレベルが高くて、自分は大乗が解るというのならそれはそれでいいのではないでしょうか? 
それは良いことです。

>私はこの大乗の捉え方は釈迦でさえも到達できていなかたかもしれないなと思っていますね。
>一休も、釈迦は空を説明できていないと言い切っていましたね、

随分思い切ったことを言われていますが、私もそれはありえると思います。
キリスト教の場合もパウロによって世界宗教に高められたとされています。仏教の場合も龍樹がその役割を
しているのではないでしょうか。

 私が重要だとおもうのは、レベルが高いとか低いではなくて、今の自分にとって修行者にとって何が適切かです。
「段階を踏む」ということです。
494神も仏も名無しさん:2010/12/09(木) 00:18:08 ID:Ly/EP0KD
>私はあなたが書かれた外国の名前の方は誰一人知りません。そしてその人たちの考え方も知りません。

 そうですか? 私は曹洞宗の坐禅から入門したばかりですが、実は道元を読んでも言葉の壁があって、あまり
理解できません。ニサルガダッタは平易な言葉であなたの言われる「捨てる」を様々な角度から語っています。


>ただただ、己を捨てることから始めなさいということだけです。ただそれだけですよ。
>己を捨てるどころか逆にいろんなものを付け加え、くっつけてあなた自身が混乱しているように見えます。
>捨てるんですよ、捨てるんですよ、それからですよ、・・・無門の関が観じられるのは。

 捨てるというのは比喩ですね。あなたも言葉を捨てていないし、命を捨てているのでもない。
捨てるとは何の比喩なのでしょう。
只管打坐は捨てるに通じます。緊張を捨てます。体のこわばりを捨てます。そして「思い」を捨てます。
思いを捨てれば、自己を捨てることになります。なぜなら思いが自己の本体だからです。そうなのでは
ないでしょうか?
これは「捨てる」の具体的な説明です。しかしこれでも、まだ実践にとっては具体的ではありません。
495神も仏も名無しさん:2010/12/09(木) 00:36:41 ID:Ly/EP0KD
>ちょっと行き詰ればすぐに違うものに目が行く。
>落ち着かなくて集中しなくて身につかない。
>たいていの人はあなたと同じくふらふらします。ついつい知識に頼ろうとします。
>そうでなくて、それを捨てて初めてですよ。だから難しいんです。  
 
 山に登ろうと決めたとします。直感的にはその方法も方向もわかっている。しかし
いざ登り始めてみると、絶壁に阻まれてどうにもならない。
「荷物を全部すてて軽くなって、飛び降りろ。そしたら上昇気流が頂上まで運んでくれる」
そんな説明に納得せよというのでしょうか?
496神も仏も名無しさん:2010/12/09(木) 01:15:37 ID:Ly/EP0KD
阿弥陀経をいまよんでみましたが、なにが書いてあるのでしょう?
よくわからないです。
たとえば、極楽浄土には
池の四方には、金、銀、瑠璃、玻璃の4種の宝で造られた階段があり、うえの方には楼閣もあります。
とかかれていますが、これが極楽浄土としてなにか意味があるのでしょうか?

 このような文章から何か意味を読み取れるとか、ありがたいとか感じれる感性が
私にはよくわかりません。

 ある種の覚せい剤を打った人には共通の感覚があるらしく、その覚せい剤を打った人にしか
分からない音楽(ハードロック)もあるそうです。そのような類のことなのでしょうか?
497神も仏も名無しさん:2010/12/09(木) 10:43:45 ID:8+29BMxV
なぜたかさんの言ってることが分からないか分かりますか?
あなたのその疑問自体がすでに答えを「得よう」としているから分からないのです。
納得のいく回答を得ることが肝心なことではないです。むしろ逆です。
多くの抱えている疑問にたとえ明確な納得のいく答えを得て納得できてもそれは得るばかりで捨てようとしていませんから
肝心なところでわからないのです。
エックハルトやクリシュナムルティも明確に答えてくれています。
しかし、肝心なところではぐらかされているようで納得できません。
それは捨てることを言葉や頭で得ようとしている自身が問題なんです。
498神も仏も名無しさん:2010/12/09(木) 12:04:33 ID:Ly/EP0KD
>なぜたかさんの言ってることが分からないか分かりますか?
>あなたのその疑問自体がすでに答えを「得よう」としているから分からないのです。
>納得のいく回答を得ることが肝心なことではないです。むしろ逆です。

 なるほど。

>多くの抱えている疑問にたとえ明確な納得のいく答えを得て納得できてもそれは得るばかりで
>捨てようとしていませんから。肝心なところでわからないのです。

 わからないということは問題なのでしょうか? 
 解ることを白、わからないことを黒としたら、現実は白黒のマダラです。
 パターンはことなりますが、どこまで行っても白黒のマダラですね。なにか問題でしょうか?

>エックハルトやクリシュナムルティも明確に答えてくれています。
>しかし、肝心なところではぐらかされているようで納得できません。

 あなたはすべてに納得できるのでしょうか? 私はマダラです。
 
>それは捨てることを言葉や頭で得ようとしている自身が問題なんです。
 
 それを問題とは思いません。言葉ではなしているのですから、それ自体が問題なら
話になりません。
499神も仏も名無しさん:2010/12/09(木) 12:23:57 ID:Ly/EP0KD
>エックハルトやクリシュナムルティも明確に答えてくれています。

エックハルトは面白いと思いましたよ。クリシュナムルティよりは具体的です。
エックハルトの「チーン」は呼吸ですね。一呼吸に注意を向けることです。ですが坐禅は
さらにそれを丁寧に具体化しています。坐禅をすれば、少なくとも「チーン」の導入部には
確実に行きつけると思います。おわかりでしょうか? 繰り返しになりますが、具体化です。
 あなたも、たかさんも高みにいるのでしょう。しかし言葉に進化がありません。進化とは
高みに上昇することではありません。具体化です。詳細に述べるということです。
言葉が繰り返しになっていて進化がありません。下から観測しても進化は観測できます。
500497:2010/12/10(金) 20:34:48 ID:pT9USaJk
言葉や知識を捨てろと言う意味は、何も本やレスを読むなといっているのではありません。
たとえばエックハルトの本を読んでも別にかまいません。
しかし、言葉・知識を捨て切れていないものは本を読んでも様々な疑問・苦悩を感じるでしょう。
また、読んでいなければ安心できないでしょう。
それは苦悩を何かそこで得たもので消し去りたいからです。
違います。
たとえば一音を一音として聞いているとき、また呼吸に意識を向けているとき、苦悩なんて沸いてこないですよね。
これが「捨てきってる」と言う意味です。
しかし、一音(呼吸、座禅、等)で何か得れるに違いないと思えばそれは捨てることになりません。
これでは一音、呼吸、座禅から外れます。
だから「なんで座禅しまくってんのに何も苦悩は消えないんだ!」「いつ悟れる」「ああ何も依然と変わらない苦しいまま」
これは、座禅から何かを「得て」苦悩を消し去ろうとしてるんですよ。
なんにも捨てていません。
煩悩即菩提って言葉ありますよね。
それは一音を一音として聞いているとき、そのとき様々に感じる苦悩(なんで悟れないんだ!とか、また日常生活の苦悩)に手付かずのまま、すでに菩提なのです。
わかりますか?苦悩は苦悩として何も解決されていませんがすでに菩提なのです。
苦悩を解決する必要なんてありません。
あなたがしようとしているのは座禅とか一音とかで何かを得て煩悩を消し去りたいんです。
違うんです。煩悩に手をつけずそのままほっといて、だから菩提なんです。
解決されてるんです。
とはいえすぐにはこれはできません。なぜなら人は何かを得て苦悩を消し去る方法を習慣化しているからです。
知識・言葉は煩悩を消すためにたくさん使用し、そうやって習慣化し根強く張り付いているからです。
時間をかけてることも大事です。
501497:2010/12/10(金) 20:50:44 ID:pT9USaJk
たかさん
そういえばヒカルの碁ようつべで見ました。
むちゃくちゃ面白かったです。
あのストーリー性は芸術ですね。
キャラの引き立ちようとか。
バガボンドって漫画も面白いのでぜひ読んでください。
ヒカルの碁がおもしろければ絶対面白いと思います。
502たか:2010/12/11(土) 19:06:20 ID:LYHLUGYe
>>493さんへ、
まあ、一つ一つの文章にそれぞれ質問を頂いたわけですが、そのほとんど全てが今まで私がここに書いてきた中に私の言いたかったことが書いてありますのでそれをもう一度読んでください。
何度も繰り返し書いてきていますのできっと見つかるはずです。

>>496で阿弥陀経の内容が解らないと書いていますが、まぁ確かにそのまま読めば、くだらない内容だと言いたくなるのかもしれませんね。
ところで、ある時、羅什は国王から「どの経典から仏法に入ったらよいか」と質問されたそうです。
その時羅什が国王に勧めたのが阿弥陀経だったといわれています。
何故羅什が国王に勧めたのが阿弥陀経なのか、あなたはじっくり考えてもいいとおもいます。

私ごとで言えば、これも何度も書いてきましたが、始まりはやはり阿弥陀経だったのでしょう。
仏鈴が何のためにあるのか調べても解らなかった時、たまたま阿弥陀経の中に書いてある音を知ることでそれが何を示しているのかをどうしても知りたくなったのが仏法への始まりだったですね。
世の中いろんな人がいても、私みたいな切っ掛けで仏法に入る人はまずはいないでしょうけれども。
鳥の声や風の音、小川のせせらぎの音、何でこんなものが仏法と関連してるのか、普通の人は考えもしないでしょうね。
でも私はどうしても知りたくなったんですよ。でもね、いくら調べても解らないんです。納得がいかないんですね。
それで、仏りんを鳴らし始めたんです。鳴らしていたらいつか解るだろうと思ったんですね。今考えたらよくそんなことを始めたもんだと思いますよ。
毎日いろんなことを試し考えながら鳴らしていましたが全く解らなかったですね。
ほんとにバカなことをしていると思いましたが、今となってはそれがよかったと自分では思っています。

阿弥陀経も一見くだらない内容だと思う人もいるでしょうが、作者はそれなりの意図を持って経典を作っているし、それを遥か2000年も前から多くの人が伝えてきたのにはそれなりの意味があると私はおもいますよ。
あなたは理屈で考えるのが好きでそれで結論をだすのが好きそうなので私の話をなかなか聞き入れないでしょうが。
まずは、理屈や屁理屈を捨てて、ただ単に実行してみることも必要だと思いますよ。
503たか:2010/12/11(土) 20:03:14 ID:LYHLUGYe
497さんへ、
ヒカルの碁を見ましたか。私は素晴らしい作品だと思いますね。
YouTubuでほとんど全話がアニメで見られますので、ご覧になっていない人は観てください。
碁が解らない人でも話しの内容に引き込まれますね。

その中で、一番最後のほうで、ヒカルの夢の中にサイが現れるところがあります。
ヒカルは久しぶりにサイに出会って今まで言いたかった話をし続けます。
サイはそれを無言で聞いていて、最後の別れのときにニコリと微笑みながら扇子をヒカルに渡します。
私はこのシーンを見るたびに無門関の世尊拈花という公案を思い出しますし、それと同時に岩手の私の田舎の一輪の花をジッと見つめて微笑んでいる観音菩薩を思い出します。

このシーンはヒカルがサイからサイの心を受け取ったシーンのように見えます。
実際はそんなことはなかっでしょうが、公案では、釈迦が手に持った華を見て微笑んだ迦葉に正法眼法が伝わったといわれていますね。
微笑みと、扇子と一輪の華、何か重なるところがありそうな、そんなことを思わせてくれるシーンですね。

言葉はなくともでしょうか・・・、伝わるものは・・・。
504神も仏も名無しさん:2010/12/12(日) 07:12:33 ID:1MctLE9S
>何度も繰り返し書いてきていますのできっと見つかるはずです。

仏陀は弟子に同じことを何度も何度も繰り返し説明しています。言葉を変えて
何度も繰り返し説明しています。
 「一回教えたから、それを見ときなさい」なんて言いませんよ。
おもしろいことをいう人ですね。めんどくさいのですか?
 言葉がめんどくさくなったらどうなるのでしょう? 生きた言葉は続かないですよ。

>阿弥陀経も一見くだらない内容だと思う人もいるでしょうが、
>作者はそれなりの意図を持って経典を作っているし、それを遥か2000年も前から多くの人が伝えてきたのにはそれなりの意味があると私はおもいますよ。
>あなたは理屈で考えるのが好きでそれで結論をだすのが好きそうなので私の話をなかなか聞き入れないでしょうが。
>まずは、理屈や屁理屈を捨てて、ただ単に実行してみることも必要だと思いますよ。

 阿弥陀経は仏陀の声ではないですよ。これは酔っぱらいの宴です。
見性したら極楽が見えますよ。ということを言っているんです。見性というのは
別世界がみえて気持ち良くなることですから、酔っぱらうのと同じです。
 葬式をやると、お経をあげて、それから、故人を偲んで宴にはいりますでしょ。ですから
適切な使い方をされているとは思います。でも仏陀は笑っているでしょう。
 仏陀は苦をなくすのに、気持ち良く極楽を想像して酔っぱらえといっているのではありません。
一つ一つを正確にみなさい。一からはじめなさい。ここを見なさい。と言っているのです。
宴をやるのは構わないでしょう。阿弥陀経もいいでしょう。宴は100万年も前から続いて
いるのですから。

 集中を極めると三昧の世界、宴の世界に入ります。ここに長くとどまれば廃人になります。
酔いを覚まして、素面に戻らなければなりません。
505神も仏も名無しさん:2010/12/12(日) 09:42:02 ID:1MctLE9S
>たとえば一音を一音として聞いているとき、また呼吸に意識を向けているとき、苦悩なんて沸いてこないですよね。
>これが「捨てきってる」と言う意味です。

 止観の止のことですね。「集中」あるいは定といわれるものです。定が間違った方向に進んで邪定が見えた時、
「捨てる」とか「放す」ことを教えるのです。便宜上の言葉です。いきなり「捨てる」なんて言っても
意味がわからないですよ。
 思考を「捨てる」などは論外です。
思考が有害になるのは、思考こそ自分だと思い込んだ時だけです。
思考による過剰な支配から自己を解放し、その源泉をリアルに経験しているとしてもその理由だけで
思考を過少評価するのは誤りです。思考がなければ方向感覚が定まりません。だから見性しても
いい気持ちになった酔っぱらいなのです。


>だから「なんで座禅しまくってんのに何も苦悩は消えないんだ!」「いつ悟れる」「ああ何も依然と変わらない苦しいまま」
>これは、座禅から何かを「得て」苦悩を消し去ろうとしてるんですよ。
>なんにも捨てていません。

 こんな種類の苦悩は私もそうですが、多くの人は持っていないです。
 坐禅だとか悟りについて、だれも多くを期待していない。
 私は興味本位にやった坐禅が実際にやってみると非常に強力に作用するので驚いているのです。
 だから逆です。
  なぜ強力に作用するのか。その答えを探しているのです。
506497:2010/12/12(日) 13:44:50 ID:J2qCZjv4
>>505
思考自体は有害にはなりません。
生きていくうえで考えて生きていかなければなりませんからね。
有害になるとき、それは苦悩に手をつけて苦しみを感じているときです。

あなたは悟りたくないのですか?
私は悟りたいですよ。
悟りたいと言う煩悩はあっても、手につけずそれでいてすでに菩提なのです。
悟りたいと言う煩悩は、それを消してくれる何かを得て初めて消え去るのです。
でもそれに手をつけなくてすでに悟りたいと言う煩悩は解決されるんです。
だから私自身悟りたいという煩悩はまだ消えずに残っています。
それを消してくれるものをまだ得ていませんから。
だから私は悟っていません。
というか私は煩悩自体は世間の人より多く持ってると思います。
ただ手をつけていないと言う方法で私の数多の煩悩は解決されています。
というか煩悩は手をつけなければ弱い存在です。
容姿端麗の美人とツーベン転がして、毎日遊んでいたいですよw
ここまでにしましょうか。
507497:2010/12/12(日) 14:01:14 ID:J2qCZjv4
付け加えにひとつ言えばひとつひとつの煩悩を満たしてくれる何かで煩悩を
消していく方法・・・途方もないです。
私なんて膨大な煩悩を抱えています。
それをひとつひとつ解決し、煩悩を消していけるわけがないです。
だから苦痛を感じ、もっといけば欝すら感じます。
どうしようもなくて頭が混乱し、苦痛ばかりで生きていたくありません。
一切皆苦です。これでは自殺願望を抱えてしまうのも分かります。
手をつけないでください。
508神も仏も名無しさん:2010/12/12(日) 15:54:06 ID:1MctLE9S
>あなたは悟りたくないのですか?
>私は悟りたいですよ。

 悟るのであれば、ラムダスのビーヒアナウなど読んでみればどうですか?
LSDを飲めばそれと同等の経験ができます。わたしも一度飲んでみました。しかし
私の場合は殆どききませんでしたが。
 あなたはナイアガラの滝の瀑布を見たことがありますか。私はないです。
見に行きたければ、そこに行けばいい。素晴らしいでしょう。悟りもそれと同じです。
 それを見たら今生の終わりにしようというのでしょうか? 悟っても旅は続きます。
そこで旅をやめるのはアフォだけです。
 それにニルバーナはだれにも死とともにやってきます。急ぐ必要はないです。
楽しみに待っていればいい。
 
 悟るとは誰が悟るのですか? あなたが悟るのでしょう。仮に悟ったとして
あなたの悟りと空海の悟りは同じでしょうか? 仏陀の悟りとあなたの悟りは
同じになりますか? 違うでしょう。 それなら、いまと何が違うのですか?
 私は悟りを実際にいくつも見てきました。聖人が100人もいる村にいたこともあります。
しかしたいていは酔っぱらいの悟りです。花が綺麗に見えたり、世界が綺麗に見えたり
愛にあふれていたり。それは穏やかな楽しい光景です。まさに極楽です。
 ただそれだけのことでしょう。
 あなたが苦しんで生きていることの方が素晴らしいのではないですか? どちらが素晴
らしいのでしょう。
509497:2010/12/12(日) 17:36:32 ID:J2qCZjv4
悟りたい煩悩、それに手をつけず捨てる、それでいて菩提(悟り)
まあ頭でどうのこうのではわからんでしょうな。
510神も仏も名無しさん:2010/12/12(日) 18:17:59 ID:1MctLE9S

 唯識は大乗の総括。そんな大風呂敷はわかりたい奴だけが解ればいいのでは
ないだろうか? なんだかんだ言ってもどいつももこいつ分かったふりをして
いるにすぎんのだ。頭がどうのこうのではなく、実践でも頭でもわからんのだ。
 でなければ大乗から立川流など出てくるわけがない。

 あると言えばあり、ないと言えばない。そんなまがい物に手をつけるより、
1+2=3になるわかりきった原則がある。仏陀が解りやすくわざわざそれを
示してくれているのだから、それをやった方がいい。
 悟りは出会いだ。出会うときが来たら出会う。
511たか:2010/12/17(金) 19:01:30 ID:yAetDMtP
いろんな人がいるもので、いくら言ってもしようともしないし理解しようともしないし。当然理解はできない。
特に、自分の死後どのようになるのか心配でしかたがない。
優れた先人がいくら諸法実相を説明し、まずは自我を捨てることを教えても理解できないと言ってごねてしまう。
来世に頭が心が向いている人に「今」を教えてもなかなか理解できない。
苦労の末に、少しはわかったかなと思えても周囲にいる人に影響されてすぐに元に戻っていしまう。
捨てるということは本当に難しいし、導くのは至難の業だ。

そこで優れた先人はうまいことを考えた。

光で満ちている壮麗で豪華で無限の力がある阿弥陀仏の国を作った。
死後には誰もがその国に生まれ変わり誰もが仏として生まれ変わるとした。
その国は光で満ちていて苦しみの無い国であり、故にこの国のことを極楽浄土という。
その国ではあらゆる宝で埋め尽くされていて、小鳥や吹き抜ける風の音さえもが安らぎを与え、悟りへと導く。

この極楽へ行くことができる一番手っ取り早い方法が阿弥陀仏の名前を呼ぶことだという。
阿弥陀仏を信じて阿弥陀仏に全てを投げ打って阿弥陀仏の名を呼べば、死後即座に阿弥陀仏に導かれるという。
その先頭にたって我々を迎えに来るのが観世音菩薩だ。

死後浄土に生まれ変わるためには本当に過酷な修行が必要だ。自分の力で、つまり自力で、自我を捨てるのは本当に難しいという。(難行道という)
ところが阿弥陀仏という仏をつくって、妙音、その阿弥陀仏に自我を渡せば簡単にたやすく自我を捨てることができる。
これを、仏に投げ入れろ、という。
この阿弥陀仏という音だけに身を任せて、自我を捨て去ることを易行道と言うことができるのだ。
512たか:2010/12/17(金) 19:42:02 ID:yAetDMtP
来世に安らぎの世界に生まれ変わり生まれ変わりたいと思っている人には、まずは、阿弥陀仏の国である極楽があることを教えることで死後の世界に心配している心を落ち着かせる。
その上で、その者にその国に生まれ変わる方法として阿弥陀仏という妙音を教え、その音に集中させることで自我を捨て去らせるのだ。
その者は、理屈はわからなくても、浄土に生まれたいと思うものにとっては、知らないうちに自我を捨て去る方法を実行していることになる。
これを仏の力で悟りに導かれているといっているのだ。

ある意味、空海の真言も同様である。

念仏、真言という音を使って知らない間に仏に導かれ悟りに導かれており、これを苦行することもなく、このようにいつの間にやら悟りの方向に向かっていることを大きな船に例えて大乗という。
自我を捨てさることができ、その上悟りに導くことで結果「諸法実相」が実観できそ、心がそこに落ち着くのだ。
513たか:2010/12/17(金) 19:55:49 ID:yAetDMtP
阿弥陀経はいっけん途方もない世界であるけれど、仏の心、仏心を理解することよりも自分の将来、特に来世に心を奪われている人を導くためには有効なのでしょう。
羅什が死後の世界に心を奪われている王にまずは阿弥陀経を薦めたのも、納得できるでしょうか。
514たか:2010/12/17(金) 20:31:21 ID:yAetDMtP
いろんな人が大乗を名乗る。
その中には全く教えと見当違いのことをいい大乗を名乗っている人がいるのだ。
空ということが理解できていないのに密教の理趣経に心を奪われそればかり言うのがでてくるから変てこになる。
男女の交わりこそ最も正しいなどという間違った考えが空だと理解したなら仏教はおしまいだ。
男女の交わりが大切なのは私も承知しているが、それが大乗の本当の教えではない。
釈迦の教えとは別の物になってしまう。
だから密教は仏教とは別物などと言われたりもする。

空海が最澄に理趣経を見せなかったのはよく解る。変に理解され曲解されることを心配したのだ。
仏像の前でセックスすることが最も尊いなどといったら、釈迦は嘆くでしょう。

とにかく、見性した上で、空ということをキッチリと理解しなければならないでしょう。

そういえば、今年の夏仙台博物館で開いていたチベット仏教では牛の顔の仏が女シンに突き刺していましが、どうして牛顔のものが最高神といえるのか私には理解できませんね。

全く大乗とは関係ありませんね。
515たか:2010/12/17(金) 22:07:57 ID:yAetDMtP
麻薬や薬やセックスなどいっぱい出てくると、なんか変てこ新興宗教と教祖とそれに群がる女たち。金が絡めばよくある話だ。
自分たちはやってる時は錯覚の中の極楽浄土。まあとにかく気持ちいいんだろうね。
そんなところで大乗を解ろうとするとは・・・。まさに逆方向を見てるんだな。
ここを読んでる人はみんな驚いているよ。きっと。
516神も仏も名無しさん:2010/12/19(日) 01:27:56 ID:WgeYQzVJ
「想像力が未知なるものを心に描くと、詩人の筆はそのものの姿かたちを整えて、
捉えどころのないものに、この世の棲処と名を与える。」

散文を翻訳することはできても、詩を翻訳するのは極めて難しい。なぜなら、詩の対象
は捉えどころのないものだから。
 その意味で阿弥陀経は全く想像もつかないほど、原文から異なっているだろう。
もしこれが詩なら、これほど下手な詩はない。
もしこれが教えなら、まったく意味をなさない。

「一粒の砂の中に世界を見る」というブレイクの美しい言葉にインスピレーションを
感じて、彼の詩を読もうとすると、とたんに言葉の断絶が立ちはだかる。
かたや2500年前だもの、無理。

517たか:2010/12/19(日) 12:23:56 ID:Yo+Vf9Su
阿弥陀経に限らず他のどんな経典でもいろんな解釈をしている人がいます。
当然阿弥陀経に関しては浄土系の僧侶の多くが来世を信じて修行をしていて信者にもそれを得々と説法していることでしょう。
阿弥陀経を訳した羅什は弟子たちにことあることに諸法実相を話していたといわれています、まずはその心を理解す必要があるのでしょう。
来世の阿弥陀経は諸法実相とは全く違う考えのようですが、あえてそれを説くことにより仏法で民衆を救いたいというやさしさを感じることができます。
その当時、先の見えない苦しみの中にいる人にとって全く想像もできないような絢爛豪華な世界を伝えることで仏法に民衆をひきつける必要があったのかもしれません。
無量寿経や観無量寿経は言葉の念仏以外に極楽浄土の光景を思い浮かべることが大切だと説くわけですが、豪華な仏像や寺院を見ることができそこから浄土を想像できる人は身分の高い本当にごく限られた人です。
それさえできない人にとっては教えが何か全く理解できないわけです。
これは日本においても同じで一般人は容易に立派な寺院に入ることもできないし、まして黄金で覆われた光り輝く仏像を直に見てそこから浄土を想像できる人はほんの一握りというか皆無であったはずです。

ただ日本では空也上人や法然上人が念仏を説きインドや中国のような観念の念仏を否定し、何も頭に思い浮かべない「南無阿弥陀仏」という音にだけ集中する念仏を広め始めます。
これは豪華な寺院も仏像も、そして何よりも仏教知識さえも必要としないものであり、いかなる人物もがいつでもどこでも始められるものです。
頭で知識や言葉、観念をはたらかすのではない仏教と言うことができますね。

518たか:2010/12/19(日) 15:33:22 ID:Yo+Vf9Su
日本の仏像はどれをとってもほとんどが金箔か極彩色の絢爛豪華だったということですが、時代を経てそのほとんどがその色が取れたものとして存在しています。
不思議なもんでその黄金が取れて生身のような黒い姿がなんともいとおしく感じられます。
その姿にやさしさは勿論厳しさや切なささえ感じられ多くの参拝者は思わず涙を流したり手を合わせたくなるのでしょう。
最初に作った時には威圧するようで絢爛豪華で人をひきつけなければならなかったのかもしれませんが、それが取れてまさに我々に身近な存在の仏になったのでしょう。

経典もただ単に表面だけを読むのではなく、その作者が何を伝えたいか観ずつことが大切だと思います。
何度も書いてきたように例えば「阿弥陀経」だけを読むだけでなく法華経、維摩経、般若心経、など他のものも読まなければら羅什の真に伝えようとした心は私たちに響いてきませんよ。
言葉では伝えきれないものを伝えようとしているわけですから、いろんな形でいろんな方法で伝えようとしたのでしょう。

でもその多くに共通することは、釈迦の体験でもあるように、自我を捨て去ることから始めるのが良いということでしょうか。

道元禅師は只管打座の坐禅の姿を「仏の姿」といったとか、観念を捨てた姿が仏の姿であり、大乗という大きな船に乗り進み続けている姿なのでしょう。
519たか:2010/12/19(日) 18:54:09 ID:Yo+Vf9Su
死んだ時に極楽浄土に迎えに来る阿弥陀仏、その先頭に立つのが観世音菩薩で仏の象徴である蓮華座を両手に抱えて来るそうな。
経典によると
死んだ後、すぐに極楽に移り、観音菩薩が手に持っている蓮華座の上で(蓮華のつぼみ)の中でしばらくの間過ごすそうな。
その時観音菩薩の説法を聞くという。
そして観音菩薩の音と共に浄土で仏になるといいます。

この世で生を受けるときにも音に始まり、見性に時にも一音があり、さらに浄土に迎えられる時にもまた音がある。
遥か昔の先人は何を思ってそれを書き残したのでしょうか。
520たか:2010/12/24(金) 19:02:40 ID:pW8QkcLT
>>「一粒の砂の中に世界を見る」というブレイクの美しい言葉にインスピレーションを
感じて、彼の詩を読もうとすると、とたんに言葉の断絶が立ちはだかる。
かたや2500年前だもの、無理。

維摩経で示している「不可思議解脱」のことを言っているのでしょうか。
言葉どうり「不可思議」ということで、やはり言葉でいくら言ってもほとんど納得できない。
維摩経はこの不可思議解脱が大きなポイントになっている経典です。

小さな芥子の種の中に世界(全宇宙)が入っていて、それでいて芥子の種が増大することも世界が減少することもない。
世界はもとのままで四天王や忉利天(三十三天)など神々は自分たちがどこに入っているかに気づかず、解らない。
ただ、この不思議を示すことによって自在の境地に達しうる者だけが、世界が芥子粒の中に入ったのを見るのである。
これを不可思議解脱という。

この世に存在するものは何であっても、それぞれが個物としての独自性を保ちながら、互いに他と対立したり、他のものが存在するのを妨げたりすることはなく互いに調和している。
521たか:2010/12/24(金) 19:56:56 ID:pW8QkcLT
この不可思議解脱の入り口もまた、一音が解りやすい、といえます。

仏は一音をもって法を説く。
これ、一音、故に、だからこそすべての法を説く、といえますし、
そしてまた、この法を説明するのにはいくら時間を費やしても語りつくせない。
522たか:2010/12/25(土) 17:22:05 ID:4EUitqdw
>>520
  ただ、この不思議を示すことによって自在の境地に達しうる者だけが、世界が芥子粒の中に入ったのを見るのである。
 
つまり、自在の境地、つまり観自在、即ち観世音菩薩。
523たか:2010/12/26(日) 21:44:13 ID:MaahPjI0
今年ももうすぐ終わりになりますが、五月に種をまいたミニトマトが12月になって少しずつ赤く実をつけてきました。
これは花も咲きそうもないし、実などつけそうにもないな、駄目かなと何度も思いましたが今年の夏の猛暑にもどうにか耐えて実をつけてくれました。
スーパーではミニトマトはいつも見ているのですがトマトの蔓(つる)に小さく丸く真っ赤に光っている姿を見るといじらしく感じられ、真っ赤な宝石のような輝きにも見えてきます。
ベランダで育てていたのですが、12月になり寒くなり部屋の中にいれました。
実はおよそ40個ですが、そのうち赤く熟した5個をクリスマスの日に食べました。ほんとに甘かったですね。
残りも順々に赤くなるのを楽しみに毎日見ています。
トマトは適当なところで成長が止まるのかと思っていましたが、トマトというのは茎が蔓(つる)でどこまでも伸びていくんですね。
蔓(つる)を伸ばし小さい黄色い花を咲かせますが途中駄目だと思うと葉を枯らして都合のよいところで新しい蔓を伸ばしていきます。

今年は山椒の木と、しその葉と、小ねぎと、ニラを育てました。
一通り全て味わいましたので美味しくいただき良かったなと思います。
しその葉はおおく食べて、しその種もだいぶ取りましたし、ニラは適当に伸びたところで根元から切り取るとまたそこから伸びてきて何度か食べて、今も水を与えており葉が伸びてくるのがの楽しみです。

先日プランターの土を掘っていたらミミズが何匹か出てきたのには驚きました。
昨年暮れ山から枯葉と土を掘ってきましたがその中にミミズがいたのでしょうか。
ベランダにおいていた時にはトマトの花は実をつけたのですが部屋の中にいれたら新しい実をつけなくなりました。花に虫が飛んで来なかったように思いましたが、受粉の条件は何なのでしょうね。

きっと自然の風の動きなど私には気づかない要素がいっぱい重なっているのでしょうね。
正月には4、5個真っ赤なトマトがまた食べられそうです。
524あん:2010/12/28(火) 13:10:10 ID:3USzBto4
もうすぐで年明けですね。来年もよいお年を
覚えてるでしょうか。
前スレでとんちんかんな質問をしていたあんです。
あのころはまだ大学で学生してたもので、あれから随分分からないだらけでした。
がとあるきっかけですべてが分かったというか、仏法が全部解けたというかそんな感じです。
たかさんは私の中では師です。一度お礼を言いたくて・・・ありがとうございました。
自分だと思い込んでいた身心が脱落しました。
で自分だと思っていた身心が脱落した「身心」だけが残りました。
身心はあるだけだったんですね。
身心脱落 脱落身心
この順番で来るものなんですね。
分からないときは違いなどないものと思ってましたが、仏教の言葉って実に奥深いです。
色即是空 空即是色もてっきり同じものと思ってました。
525たか:2010/12/31(金) 12:07:55 ID:7dwTx0/D
今年ももうすぐ終わり新しい年が来ます。
ここに書き始めたのが2006年6月からですから書き出してもう4年半になります。
仏法は自他一体、一如ですからそのことが最も基本になります。それをまずは踏まえておかなければなりません。
その上で、

阿弥陀経には極楽浄土の池の光景が描かれています。
 池のなかの蓮の花は、大きさは車輪のようで、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放っていて、かぐわしい香りを放っている。

自他一体でありながら、しかも、それぞれはそれぞれの形や色で光り輝いている、ということを知る必要があります。。

526たか:2010/12/31(金) 12:33:05 ID:7dwTx0/D
あんさんへ、
覚えています。前スレを見てみると、どうやら3年半前のようです。
そのなかで、
 この体験(見性)は持続されるものなのですか?見性すると。
という質問がありました。

何度も言うように見性というのは、生活そのものだから、気づけば持続するかどうかというものではない、ということになりますね。
これは道元の正法眼蔵にも書いてあったと思いますね。

ただ、見性は自他一体の体験ですがそれと同時に、歓喜のつまり喜びの体験でもあり、そして強烈な感動の体験だということです。
このことが解らないと全くつまらないことになります。
見性とは喜びの体験で感動の体験だということが大切なのです。
この世に存在する歓び、生まれてきたここの歓びということが大切なのです。

私がここを読む人に伝えたいことの一番が、この感動なのです。
その感動をできれば体験していただきたいという気持ちで今まで書いてきています。

この感動、喜びは理屈で理解しようとしても絶対に生まれません。
この感動の中で日々生きている、ということです。

527たか:2011/01/13(木) 22:51:59 ID:GmaFFl9Q
歓びや感動は、躍動、躍動感という言葉に置き換えても良いでしょうか。
無常ということも単に変化の中で儚い、悲しいことではなくて、常に新しい躍動という変化の中にあるということができます。
そこを履き違えると無常はただ虚しいだけになってしまいます。
この世に生まれることも、成長し、いろんな体験をし、そして恋をすることも常に変化する中で生まれてくるものといえるでしょうか。
528神も仏も名無しさん:2011/01/22(土) 00:03:03 ID:IDBHRTVb
age
529たか:2011/01/27(木) 22:38:57 ID:ak43VoyV
自他一体、一如、不二、無分別智とかいろんな言葉で言い表すわけですが、それと同時に歓喜や躍動感が大切だと私は思っています。

仏教では「慈悲」も重要ですが、これもまた自他一体、不二ということが基本つまり元になっています。
そしてこの慈悲もまた喜びや躍動感に繋がると私は思っています。

辞書では慈悲とは
1 《「慈」は、梵maitr「悲」は、梵karuの訳》仏語。仏・菩薩(ぼさつ)が人々をあわれみ、楽しみを与え、苦しみを取り除くこと。
2 いつくしみ、あわれむこと。なさけ。
とかいてあるわけですが、単に哀れむだけでなく、自他一体で苦しみを克服すると私は思います。
530神も仏も名無しさん:2011/02/09(水) 01:32:38 ID:nYENDXL/
>>526
その歓喜はずっと続いてますか?
531たか:2011/02/09(水) 20:04:43 ID:8q4yMn8z
530さんへ
見性は歓喜というか、驚きの体験ですが、何度も言うようにその後の先人たちが何をその体験から学び取ったか、それを自身の体験と照らし合わせなければなりません。
それをしないとただ単なる一時的な驚きで終わってしまうかもしれません。
自他一体、一如と言うこともその体験と先人たちの教えから強く理解でき、そして自分のものとなっていきます。
だからこそ見性は仏法の入り口であり、始まりであり、それ故に無門の関なのです。
切っ掛けの音は単なる些細な音ですがその音から自他一体ということがしっかり身につけば音だけでなくあらゆることが全て自他一体であるというかとがわかってきます。
風の音などの自然現象だけでなく日ごろの生活自体もまた自他一体だと思えます。

つまり切っ掛けの見性自体は確かに強烈ともいえるものですがそれが時間を経ながら理解することで、それが馴染んできて、強烈な体験という印象は薄れますが逆にあらゆるものにいつも包まれれいる喜びがあるのです。
それは言葉を変えれば安らぎであり、かけがえのない生の喜びとも言えるでしょうか。

日頃の生活の中にかけがえのない喜びがある、それを常に感じながら生きている、まぁそんなところでしょうか。
532神も仏も名無しさん
>>531
それが馴染んで強烈な体験という印象が薄れるのは、それを知っているという無明が生ま
れるからではないのですか?
記憶を生み出し、そこへの執着を生み出して、ありのままのその状態に留まることができな
くなってるのではないのですか?
それとも歓喜には妄想が含まれているのですか?
歓喜が無明のない状態なら、歓喜が新鮮なまま、続くと思われるのですが、どうですか?
見性が馴染むとしても、強烈さや印象が薄れるというのはなぜなのでしょうか?
そこには比較があるように思うのですが、比較のない、そのままが見性であって、比較がな
ければそのまま続くのではないのでしょうか?