【高橋佳子】宗教法人GLA総合本部【TL人間学】 17

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79神も仏も名無しさん

6.ゆえに 木の下にでも静かに座り 自己の欲や歪みを見つめて 自己をこそ整えていくべきだろう。
「永遠の命」のようなものを信じることによって根拠のない希望を抱かせるキリスト教
とは異なり 真実を直視してそこから逃げないことをブッダは教えます。
崇拝せず、思考を固定せず、自ら思惟していけば 自己を縛っている利己心などから解脱できて「分け隔てない慈愛」が生まれるだろう。
人は誰も死ぬ。 生老病死からは逃れられない。
周りと調和し自然の一部となれば死も無くなる。自分の生にこだわらないこと。
そんな寂静の真理を得た釈迦は 「衆生に飯を世話してもらうこと」と引き換えに 一生を説法に費やした。
諸行無常:一切の形成されたものは 留まることなく移ろい行く/原因があり結果があるのみ/
諸法無我:自らの性質とは諸々の要素による産物である/実体としての我は無い/自己に囚われない意識の在り方
涅槃寂静:自らの生存欲から発する欲を取り払えば一切の苦から解放される
7.「諸法無我」というのは「自己に囚われない意識の在り方」だが
それは「主観の排斥を徹底した状態」と言える。その状態において 自己を燈明とし、自己を拠り所として判断する。
各本人の我見を持たずにありのままを知覚することが悟りへの道となる。
特定の「因果関係が確認不可能な宗教ドグマにより判断すること」は、この釈迦の勧めに反する「信仰」となる。
「信仰」にすがりそれに固執し離れられないのは 自分可愛いの執着であるので「主観の塊」であるが
それが宗教上の様々な歪みを生む因となっていく。