☆旧約聖書に、次のように書いてあるとおりです。「正しい人は一人もいない。罪のない人は世界中に一人もいない。
真実に神の道に従って歩んだ人は かつて一人もいない。そうしたいと心から願った人さえいない。
すべての人が道を踏みはずし、みな、まちがった方向に進んで行った。
正しいことをずっと行なってきた人はどこにもいない。 一人もいない。」
「彼らの会話は、不潔で腐っており、まるで開いた墓穴からもれる悪臭のようだ。
彼らの舌はうそで固められている。」「彼らのことばには、恐ろしい毒蛇のきばと毒がある。」
「彼らの口は、のろいと苦々しいことばで満ちている。」「彼らは自分と意見の合わない人を憎み、すぐに殺す。
彼らの行く所ではどこでも、悲惨な結果とめんどうな問題があとを絶たない。
彼らは一度も心の安らぎを感じたことがなく、神の祝福を味わったこともない。」
「彼らには、神を恐れて悪事から遠ざかろうとする気持ちなど、少しもない。」
そんなわけで、神様のさばきが、ユダヤ人に重々しくのしかかっています。
なぜなら、彼らは神様のおきてを守る責任があるのに、守らず、こうした悪事にふけっているからです。
彼らのうち一人として、申し開きのできる者はいません。
事実、全世界が全能の神様の前に沈黙して立ち、有罪の宣告を受けているのです。
さて、おわかりでしょうか。 おきての命じることを実行して、神様に正しい者と認められようとしてもむだです。
私たちが神様のおきてを深く知れば知るほど、自分が従っていないことが明らかになるからです。
神様のおきては、私たちに、自分が罪人であることを自覚させてくれるだけです。(ローマ3:10-20)
しかし今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、
死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。
もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、
わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、
わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、
神に反するあかしを立てたことになるからである。
もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。(第一コリント15:12-16)口語訳
もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、
いまなお罪の中にいることになろう。
そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。 もしわたしたちが、
この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、
わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、
死人の中からよみがえったのである。
それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。(第一コリント15:17-22)口語訳
ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、
それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。
なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。
最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。
ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。そして、万物が神に従う時には、
御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。
それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。(第一コリント15:23-28)口語訳
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、
思い起してもらいたい。
もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、
わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。
その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、
次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、
使徒と呼ばれる値うちのない者である。
しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。
そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、
むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。
しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、
そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。(コリント第一15:1-11)口語訳