しかし、それはG○Aの価値観
から見た認識であり、キリスト教の
持つ価値観の素晴らしさはG○Aの
ものさしだけでははかれません。
G○Aのメンバーのなかで
どれだけの人が実際にキリスト教の
教えを直に学び、信仰生活を体験した
ことがあるのでしょうか。
彼らクリスチャンたち
(特に福音派と呼ばれる人たち)
がイエス・キリストが起こした
奇跡など聖書の言葉について、
G○Aが比喩的に科学的合理性に
もとづいて解釈するのとは違い、
聖書の文字通りに(正確には
「字義的に」)、解釈するのには
大きな意味と意義があるのです。
銀貨をくわえた魚が釣れる、
2匹の魚と5つのパンで
男性だけでも5000人もの
人々の空腹が満たされる、
イエスの服に触れただけで病気が癒される、
死んだ者がよみがえるなどの奇跡を、
科学的に考えるのであれば、
クリスチャンでも
起こりえないと答えるでしょう。
しかし、それらの奇跡や
最も大いなる奇跡である
イエス・キリストが十字架に
かかって亡くなった後に
復活したという奇跡を
「信じること」に大きな
意味と人々を救う大きな
力があるのです。
それは科学に合わないからといって
愚かなことではありません。
そこには科学に合う・合わない
という議論の必要性はないのです。
彼らはイエス・キリストの
贖いと復活を信じることによる
救済を受け、イエスの教え
によって今も生きて働かれるのです。
主イエス・キリストと共に生活し、
豊かに生きる力を得ることに
意味と価値があるのです。
比喩という手法は物事の持つ
イメージの重ねあわせによって
成り立っています。
比喩による科学的合理性を持った
解釈には、解釈をする者の想像や
目的や意図に合わせて自由に意味を
引き出すことのできる融通性が生まれます。
それは時として、自分にとって
都合のいいような解釈だけを生み出す
危険性を持っています。
キリスト教はその2000年の
発展の歴史の中で、自由主義神学
としてそういった科学的合理性
をもった解釈を模索してもきました。
確かにそれは現代人にとって、納得がしやすく受け
入れやすいものでした。
しかし同時に、聖書の文章は
神によるものではなく、歴史の中で
人間が生みだした寓話と社会的・
生活的レベルの知恵とだけのものに
なったという批判も起こりました。
もはや宗教的価値性を失ったとこの
状況を危惧したキリスト教の人たちは、
聖書を神の言葉として、奇跡を
神のみ業として、忠実に字義的に
解釈することを重要視しているのです。
この価値性は活動や教義の表層だけを
見ていては理解できないかもしれません。
それは、G○Aにおいて目には見えぬ
霊の存在を重要視して生活する価値性を、
世の中の多くの人たちが表層だけを
見ては理解できないだろうことと
同じかもしれません。
また、G○Aにとっては信仰が
眠っているというキリスト教も、
実際を見てみれば実に活発です。
韓国の多くのキリスト教教会では
早天祈祷会を熱心に行なっていることは
G○Aのみなさんもご存知では
ないでしょうか。
また、世界宣教が盛んな教派もあり、
キリスト教が広まっていない遠隔地や
アラブ諸国への開拓伝道も行なわれています。
日本国内でも開拓伝道は行なわれ、教会数も
増えているでしょう。
数年間で10倍にも信者数が
増えた教会もあり、G○Aがうらやむ
ほどではないでしょうか。
私が数ヶ月間教えていただいていた教会も
主日礼拝参加者数200人規模の
大きな教会でした(アメリカや
韓国では1ヶ所で数千人、数万人もの
信者を抱えるマンモス教会もあるそうで)。
そこでは、ゴスペルコンサートなどの
イベントを教会でひらいて地域の
住民がたくさん参加していたり、
英会話教室をしていたり、
幼稚園をしていたりして
賑わっています。
G○Aに比べれば若者の割合は
少ないですが、熱心な若者が
たくさんいるようです。
私はこの点において、「G○A」
というのは近代の産物なんだなぁと
感じます。というのは、社会全体において、
近代と呼ばれる産業革命以後から
現代において、大量生産できる
新素材や情報通信技術の
急速な発達によって、機能主義や
合理主義の世界が台頭しました。
高層建築が建ち並び、
自動車による高速移動が
できるようになり、世界中と
ライブに情報交換できる
ようになり、世の中は便利に
なったように思われます。
しかし、実際にその利便性を
充分に享受できるのは、
その発展や機能の複雑さに
対応できる人たちだけです。
言ってみれば、有能者や健常者
や若者たち。「優秀人間」や
「平均人間」と呼ばれる人たち
だけです。社会的弱者や身体などに
障害をもった方や高齢者といった
対応能力などにおいて劣る
人たちにとっては、一概に便利だとは
言えない状況も生まれました。
この状況を省みて、近年では
「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」
といった弱者にとって、またはあらゆる
全ての人(「総合人間」としての考え)
にとっての便利さを求める
価値観が生まれました。
残念ながら、今のG○Aの活動は、
社会的弱者や障害をもった方や
高齢者にとって参加するには困難
なものでしょう。
彼らがG○Aのみなさんが
行なっている活動を同じように
するには負荷があまりにも
大きすぎます。
G○Aが彼らを受け入れて、
共に活動をなしていくことは
難しく思えます。
それは当然のことで、今のG○Aが
目指しているのは若く健康で有能な
基準者の確立だからです。
今のG○Aの価値観は機能的で
合理的なものに素早く対応できる
若者たちに沿ったものではないでしょうか。
一方でキリスト教は、イエス・キリスト
がどんな社会的にしいたげられている
人たちに対しても救いの手を
差し伸べたのに倣って、年齢や能力や立場を
問わず教えを広めようとしているようです。
どちらの価値観が良いのかということを
私は問う気はありませんが、
それぞれの価値観と活動にしたがって、
それぞれの今の状況があるのだという
ことを考えます。
G○Aは宗教の「One of them
(いくつかあるうちのひとつ)」であって、
「Very Best(最良)」でも
「Just Only(唯一)」
でもないということを知る必要があると思います。
このことは本来、決して恥じることではありません。
なぜなら宗教は、世界中の歴史や文明文化を力強く
牽引してきたものであるし、実に多くの人々に生きる
豊かさを与えてきたものだからです。
全ての宗教の信仰者は自らの信仰に誇りを持つ
べきですし、同時に他者のそれも尊重すべきことだと
思います。しかし、歴史の中で宗教には、多くの人
を苦しめ哀しめてきた悲惨な暗雲がいつも
取り巻いてきたことも心に留めておくべきです。
●一色塗りの世界と平和な世界
世界の大部分の人々は、世界中が平和であることを
きっと望んでいるでしょう。それはキリスト教徒も
仏教徒もイスラム教徒も他の宗教の信仰者もそう
望んでいるでしょうし、G○Aのメンバーもそう
望んでいると思います。政治家にもそう望む人は
多くいるでしょうし、宗教指導者もそう
望んでいるのではないでしょうか。
しかしなぜ、こんなにも多くの人が平和を
望んでいるというのに、世界中で
宗教を引き金に、または名目にして
戦争や内乱や抗争が後を止まず
起きているのでしょうか?
私はG○Aに導かれる前にも、
こういった疑問を抱いていました。
そしてその答えはきっと、全人類とあらゆる
宗教を包括するような道徳観がいまだ
現れていないからだろうと考えていました。
そんなころにG○Aに出会ったものです。
新入生のころ、次のような
エピソードがありました。
お祈りを教わったばかりの私は、
ある先輩メンバーから「どんなことを
祈っているの?」と聞かれたので、
「世界が平和でありますようにと
祈っています。」と答えました。
その人は驚いた顔をして
「もっと自分のことについて祈ったらいいよ。」
と教えてくれました。
当時私は、自分の嫌な部分もありましたが、
良い部分も知っていたので、
ある程度自分には満足していたのです。
むしろ、テレビなどで伝えられている
世界の悲惨なニュースを聞いて、
どうにかならないものかと
思っていたのでした。
G○Aにいた頃の私は、自分の救いの観よりも、
絶対的な世界の秩序としての神理に大きな
関心があったのです。
G○Aでの私がそうであったように、
平和を望む人たちの中には、自分たちの
考えや教義や価値観が世界中に広まれば、
世界に平和は訪れるだろうと
考えている人たちが少なからずいるようです。
でも、誰かが素晴らしいと考える
価値観で世界中の人々が統一されるなら、
本当に世界は平和になるのでしょうか?
想像してみてください。
あなたが見ている世界が、
色めがねをかけたように、
あなたの好きなある色で
一色塗りの世界になったとしたら、
それはあなたにとって素晴らしい
世界と思えるでしょうか?
しばらくの内はそのある色の
色味を、青なら青として
知覚できているかもしれません。
しかし、次第にその青という色の
感覚さえも薄れてきて、ただ何かしら
濃いか薄いかという知覚反応だけが
残るでしょう。
それはモノクロームの世界で、
味気ない世界かもしれません。
私たちがこの世界が、本当に
素晴らしく美しいと感じるのは、
様々な色彩が混在しているから
ではないでしょうか。
それと同じように、たとえそれが
素晴らしいと思える価値観
であったとしても、それだけで
世界中をベタ塗りしてしまうなら
どうでしょう。
はじめはその価値観の色味を
感じていたとしても、最後にはただ
濃淡という変化しか感じられない
味気のない世界になってしまうかも
知れません。
私たちは本当にそんな
世界を平和な世界として
待ち望んでいるのでしょうか?
しかし、世界の多くの過激な
宗教家や政治家たちは
自分たちの教義や主義主張
といった価値観が最も
素晴らしいと考えていて、
その色で世界を
塗りこめようと陣取り合戦に
とても熱心なようです。
そして、色と色がぶつかった
箇所では、当然争いが起こります。
色と色とがぶつかると汚く濁り、
実に悲惨な広がりを見せます。
世界中で起きている
宗教や思想をもとにした
戦争や対立による悲惨な
出来事はこういった状況なのでは
ないでしょうか。
または、誰かの意思によって
そのような状況になる
ように操作されていることかもしれません。
本当にそれぞれの色の価値を
知っている画家であれば、
キャンバスの上にそれぞれの
色をバランスよく配置し、
実に色彩豊かで美しい世界を
描き出すことができると思います。
本当の平和とは、多種多様で
特徴豊かな価値観が互いの
良さを引き立てながら
共存する世界ではないかと
私は思います。しかし、
自分たちの価値観が絶対唯一正しく、
もっとも素晴らしいと考える
人がいるのであれば、
そのような世界はいつまでも
訪れることはないでしょう。
私はこの世界は、「同じで違うから
素晴らしいんだ」と思っています。
もし私と誰かが、アメーバと人ほどに
違っているとしたら、お互いの
考えを理解できないでしょう。
共通しているのは、どちらも
生きているということぐらいでしょうか。
どれだけそれぞれが
素晴らしくても、
お互い全く違い理解することが
できないのであれば、
何の価値も見いだせません。
しかし、私たちは同じ人間として、
たとえ国籍や人種が違っても、
言語など何かしらの手段を通して
コミュニケーションをとり、
互いに理解することができます。
私たちは、ある部分で
共通性を持つから、お互いに
価値を見いだせるのです。
また逆に、私と誰かが、その形態や
性質や思考といったありとあらゆる
ことにおいて同じなのであれば、
お互いにコミュニケーションを図る
必要さえありません。
私の考えていることがまったく
そのままその人の考えていることだし、
私が持っているものは全てその
人も持っていて、私が持っていない
ものはその人も持っていないのですから。
もしかするとどちらか一方は
必要ないかもしれません。
しかし、この世の中に
全くの同一人物はいません。
たとえ一卵性双生児だとしても、
違いはたくさんあるのです。
お互いに違いがあり、持っているもの、
持っていないものがあるので、
私たちはコミュニケーションをとり、
その価値を感じることができるのです。
共通性と相違性を同時に持ち合わせ
ているからこそ、この世界は
コミュニケーションをとることの価値
があるのではないでしょうか。
その価値性を、宗教が違えど、
思想や価値観が違えど、
民族や国家が違えど、
境遇や立場が違えど、
世界の全ての人に見いだせるならどうでしょう。
(むしろその違いにこそ価値性がある)
全ての人の命や生活や
価値観といったものを尊重し合える
世界になるのではないでしょうか。
私たちは本当のところ、このような世界を
望んでいるのではないでしょうか。
この手記の最初の項目で触れた、
G○Aの内側から見える外側と、
実際の外側との認識の差異は、
こういった事柄にその
原因があるのかもしれません。
G○Aでは、G○Aの教義が
絶対唯一正しい価値観であると教えます。
そのためにG○Aの外の人たちから学ぶ
必要性はなくなります。
たとえ学ぶ機会があったとしても、
G○Aの価値観の枠組みで受容しうる
部分に限られてしまいます。
G○Aの外からの指摘を受け入れることも
難しくなります。
自分たちには無く、外にはある良さを
素直に認めることも難しくなります。
G○Aの価値観で世界を統一しようと考えると、
当然その外にある他の価値観とは衝突します。
特に、G○Aを選ばずに外へと離れていった
人たちの存在は、G○Aの絶対唯一性を
揺るがしかねません。ですから、どうしても実際の
状況とは違った形で、G○Aの外を
認識しなければならなくなります。
それは、G○Aを離れた者に対しては
救いを受けられず裁かれる者、
サタンに奪われた者、迫害する者
となりますし、キリスト教の
牧師たちに対しては無知な者、
迫害する者としての認識です。
G○Aが絶対唯一正しい
という考えをやめない限りは、
たとえ苦しくてもこの認
識を改めることができないでしょう。
日本のG○Aとその外との悲惨な
戦争状態はいまのところありません
(韓国ではアンチG○A団体との抗
争状態はあるようだが)。
しかし、G○Aを離れた人たちと
現役メンバーとの不和やわだかまりは
実に深刻な問題としてあります。
それは、内と外の互いへの理解や尊重が不充分
だからかもしれません。
G○Aのメンバーにとって、
G○Aを離れた人たちはついしばらく
前まで共に熱心に活動していた仲間でした。
でも、その仲間だった人たちが
G○Aを離れた理由に対してさほど
重要性や深刻性を感じていないのです。
自分たちの価値観を選ばなかったという
理由をです。
本当はその大切さを感じているかも
しれませんが、G○Aの価値観が
絶対的に正しいという理由のために、
ちゃんと聞くことができないのかも
しれません。
これは、今までG○Aを離れた人たちに
関することだけではありません。
今、あなたと共に熱心に活動している仲間が、
何かしらの理由でG○Aを離れる可能性もあるからです。
今日まで共に楽しく語らって
いた人が、明日には哀れみや
憎悪の対象になっている。
そんなことを考えられますか?
そんな状況は本当には正常でしょうか?
自分たちの考えだけが絶対正しいと
考えているうちは、そんな悪夢から
逃れられないのかもしれません。
●問題の無い会社
G○Aの教祖「先生」はその
説教の中で、「問題のない会社は
発展しない」と話しました。
この真意は、G○Aにも
問題はあるがそれを
解決することで発展するという
ことでしょう。
ただ、この言葉をより正確に
言い換えるなら、「問題意識の
ない会社(組織・集団)は
発展しない」ということに
なるでしょう。たとえ問題が
山のようにたくさんあっても、
問題意識が無ければ、
当然その会社は潰れてしまいます。
逆に、たとえ問題がほとんど
無くても問題意識があれば、
ささいなことからでも課題を
見出し成長していくことができる
でしょう。G○Aの解決すべき
問題とは何でしょうか?
進まない伝道でしょうか。
それとも「先生」への迫害でしょうか。
私はそうではないと思います。
G○Aの組織としての
最大の問題点は
「隠蔽体質」だと私は考えます。
その隠蔽体質には、
「G○Aの内側の情報を外側に
公開しないこと」と、「G○Aの
外側の情報を内側に取り入れないこと」
という二方向の性質があると思います。