952 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 09:37:09.44 ID:aiFPAN0a
>>947 これも単純にあんたの解釈を述べただけであって
>>946を間違いだと証明できるもんじゃねーなw
>むしろ、発見された夥しい写本の証拠は新約聖書本文にYHWHがなかった事を示しています。
ソースよろ。
>>791-794の聖句は何を意味してるのか、解釈の仕方がどう間違ってるのかも説明してくれ。
953 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 09:45:49.99 ID:aiFPAN0a
>>948 ある人たちは、この聖句は三位一体論の神学を証明する聖句であると論じます。
なぜなら、ここではエホバ(父)とイエス(子)と聖霊が同列に語られているからです。
そこで彼らは、これはこの三者が全く同等であることの証拠となっていると述べます。
一方である人たちは、キリスト教徒は主にキリストの名によってバプテスマを受けるべきだと論じます。
バプテスマを受ける時にこの聖句を根拠に三者を同等と見なすのは間違っているというのがその主張です。
一人で両方の主張を行う方もおられます。そうすると、父と子と聖霊は全く同等であるがバプテスマの時だけは例外であるということになります。
このような主張を唱える人は異端であると見なして構わないでしょう。
954 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 09:52:40.02 ID:aiFPAN0a
旧約聖書の「神」という語は,複数形のヘブライ語エローヒームを訳したものです。三位一体論者はこの言葉が三位一体を示唆していると解釈します。
しかし、ヘブライ語の名詞の複数形は威厳あるいは卓越の複数です。日本語にはそのような使い方はありませんが、ヘブライ語の場合、名詞を複数形で表すことによって、その者の卓越さ、威厳、尊厳を強調する語になるのです。
(新ア,聖ヨセフ版,聖書辞典,330ページ; また,新カトリック百科事典,1967年,第5巻,287ページ参照。)
さらに根拠として、士師記(裁き人) 16章23節をあげることができます。
ここでは、偽りの神ダゴンにエローヒームという称号が用いられています。
この名詞に伴う動詞は単数形で,その名称はひとりの神であるダゴンだけを指していることを示しています。
また、複数形の用例として、創世記 42章30節ではヨセフのことがエジプトの「主」(アドーネー,卓越の複数)と呼ばれています
(言うまでもなく、ヨセフは一人の人物でした)。
ですから、「エローヒーム」という語は神の複数の位格という考えを表わすものではありません。
「アブラハムに現れた三人の人」についてですが、もし彼らが三位一体の神の姿であれば、ヨハネ書 1章18節で述べられている、
「いまだかつて神を見た者はいない」という記述と矛盾します。
ヘブライ 13章2節を考慮すると、その三人は、神を代表して現れた「み使いたち」であると考えるのが妥当です。
(三人のみ使いたちは神を代表していたゆえに、アブラハムは主[エホバ]に語りかけるように話しかけたのです。)
955 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 09:55:55.01 ID:aiFPAN0a
「ステファノは聖霊に満たされ,天を見つめ,神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て,『天が開いて,人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」。―使徒 7:55,56,「新共同訳」。
この聖句から何が分かりますか。神の活動力に満たされたステファノは,イエスが「神の右に立っておられる」のを見ました。
ですからイエスは,天に復活した後,神になったのではありません。以前と同じく,神とは別個の霊者になったのです。
そして,神の隣に第三の者がいたとは述べられていません。多くの人が三位一体の教義の裏付けとなる聖句を見つけようとしていますが,「一つの神の内に三つの位格……があるということを示す記述は,新約聖書のどこにも見当たらない」
と,ドミニコ会の司祭マリー‐エミール・ボワマールは自著「キリスト教の夜明け―教義の誕生」(フランス語)に書いています。
三位一体を表わす彫刻
コンスタンティヌスが擁護したこの教義によって4世紀の教会内の論争は終わる,と期待されました。
しかし実際には,この教義によって別の問題が生じました。
イエスを産んだ女性マリアは“神の母”なのか,という問題です。
956 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 09:56:33.97 ID:ZJOifLU8
解釈が違うのは最初から分かりきっていること。
エホの解釈は変更しまくりであてにならないということ。
変更によって真理に近づくのではなく、常に真理など持っていないということ。
>>956 そんな能書きどーでもいいです。
>>791-794の聖句は何を意味してるのか、解釈の仕方がどう間違っているのかを教えていただきたいんです。
>>956 >変更しまくり
これは伝統とされるキリスト教にあてはまるだろw
YHWHだけを神と崇めてたのをイエスと同格に変更したり地の楽園を待ち望んでいたのも彼らだろ。
そもそも聖書解釈を完璧に行うのは不可能で年月と共に変更が伴うと主張してたのも彼らwww
959 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:20:20.64 ID:ZJOifLU8
>>957 そんな戯言どーでもいいです。
早くめざめてもらいたいんです。
960 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:21:22.49 ID:JL2MSKvJ
>>958 エホバの証人は一環してYHWHだけが唯一の神っていう大事な教理は絶対曲げんだろうよ。
ましてや子と同等だなんて恐れ多い教理に変更するなんてあり得ん。
961 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:22:41.56 ID:JL2MSKvJ
>>959 答えられないと戯言ですか?
そんなのどーでもいいです。
>>791-794の聖句は何を意味してるのか、解釈の仕方がどう間違っているのかを教えていただきたいんです。
962 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:25:54.02 ID:JL2MSKvJ
「新約聖書初期キリスト教文献希英辞典」によれば、プロスキュネオーという語は、「ある人の前に平伏して、その足や衣のへりや、地面に口づけする習慣を示すのに用いられ」ました。
(シカゴ、1979年、バウアー、アルント、ギングリッチ、ダンカー共編第2版、716ページ、英文)
それで、プロスキュネオーという語は、崇拝することを表わすだけではなく、ある対象に対して、深い敬意を表明することを表わす語としても用いられます。
それで、ヘブライ1章6節のプロスキュネオーの訳が、「敬意をささげる」と訳していても、受け入れられる訳であることが分かります。
ですから、ヘブライ1章6節に、み使いに対して、イエスをプロスキュネオーするように命じられていても、それは、イエスを崇拝するようにと命じているのではなく、非常に深い敬意を表わすようにと命じていることが分かります。
ですから、この聖句は、イエスが崇拝されるべき唯一まことの神であることを意味してはいません。
963 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:27:41.32 ID:T74eO6rN
ものみのトウの丸写しはみっともなさすぎ
自分の考えや研究を発表なさいよ
「イエス・キリストは主」の意味を答えてください。
あと144000人はあくまで象徴数ですよ。新しいエルサレムの寸法を文字通りとらえたら、とんでもない建造物になりませんか
ものみのトウは、アメリカ東部鉄道路線でペンシルベニア支部からブルックリン本部までの距離だとか、黙示録の7つの冠をものみのトウラジオ局の放送トウだと解釈と同じで トンデモ解釈してましたからね
ラザフォードがシーダーポイントで演説した1922年の象徴物に与った人数が140000近くだったのをご存知でしたか 一世紀にクリスチャンは救われなかったのでしょうか!?
アンチを潰すのなんて意外と簡単だなwww
>>963 どのレスがものみの塔なんですか?
そんな能書きどーでもいいです。
そろそろ論点のすり替えしないと苦しい状況ですか?
>>791-794の聖句は何を意味してるのか、解釈の仕方がどう間違っているのかを教えていただきたいんです。
966 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:32:17.12 ID:ZJOifLU8
旧約で主といえばエホバだが、新約になってキリストや聖霊も主や神とよばれるようになったわけだが、
変更があるから聖書も信用できないってかw
エホの変更はそれとは違い人間の教理であって神の導きは何もない。
967 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:32:25.80 ID:T74eO6rN
>>964 この野郎
呪われてしまえ
ガラテヤ1:8 9
>>967 そんなのどーでもいいです。
>>791-794の聖句は何を意味してるのか、解釈の仕方がどう間違っているのかを教えていただきたいんです。
>>966 >旧約で主といえばエホバだが、新約になってキリストや聖霊も主や神とよばれるようになったわけだが、
↑今ここ論じてるんだろ?www
お前バカ過ぎるだろ!www
>>791-794の聖句は何を意味してるのか、解釈の仕方がどう間違っているのかを教えていただきたいんです。
970 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:36:59.50 ID:ZJOifLU8
キリストは神じゃねーよ。
これはガチ。
アンチがこれを批判するとなるとかなり状況は厳しくなるぞ?w
972 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:39:28.37 ID:ZJOifLU8
>>970 読んでます。
貴方の知恵ある解釈を聞かせてください。
お願いします。
>>791-794の聖句は何を意味してるのか、解釈の仕方がどう間違っているのかを教えていただきたいんです。
あなた方は答えられないと解釈してもよろしいでしょうか。
>>972 お前ID:rcRK7W4aだろ。
今日は早出残業じゃないのかい?www
さっさと791から794を論破してやれよー。
頼むよーwww
975 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:49:49.07 ID:ZJOifLU8
>>973 教会側からいくらでも書籍などが出ているのになぜ読まないのか?
ここでいくら答えても、ものみの塔式の用意された反論を出すだけだろ。
擁護者にはマタイ13:14を送る。
976 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:51:07.17 ID:T74eO6rN
>>968 神を愛さないものは呪われよ
心が神から離れ 己が腕を頼る者は呪われよ
聖書は呪いと祝福に満ちている。ものみのトウは呪われたカルトです。初代ラッセル 二代ラザフォード 三代ノアは呪われて死んでいると以前指摘しませんでしたか
神に呪われたカルト
エホ証
エバル山ゲリジム山の呪いと祝福 エリコを呪ったヨシュア ダビデが呪ったギルボア地方は今でも降水量がゼロですよ。サムエル下1:21
ヤコブは結果的にラケルを呪い殺しました。創世記31:32
>>975 逃げんなよ。執着してるお前の見解に興味あるだけなんだからよーw
期待に答えろよ、早出残業労働者。
>>976 そんなのどーでもいいです。
>>791-794の聖句は何を意味してるのか、解釈の仕方がどう間違っているのかを教えていただきたいんです。
980 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:55:35.90 ID:ZJOifLU8
どーでもいいから早くめざめてね〜www
981 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:56:21.30 ID:T74eO6rN
>>962 それは、新世界訳のご都合捏造訳だからでしょ
たしかに、礼拝するとも 敬意をささげひれ伏したとも解釈は可能
だからといって、エホバには礼拝 イエスは神でないと自分たちの教理の都合で 敬意を云々は決して許され得ない聖書翻訳ではありませんか
最初からイエスは神では都合悪いから捏造訳しているいい例ですよね
>>980 そんなのどーでもいいです。
>>791-794の聖句は何を意味してるのか、解釈の仕方がどう間違っているのかを教えていただきたいんです。
983 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 10:59:03.89 ID:ZJOifLU8
>>979 擁護者は何でカルトに逃げるんだ?
現実逃避か?
>>981 >それは、新世界訳のご都合捏造訳だからでしょ
詳しく。
では三位一体を裏付けるためのご都合捏造訳はなかったと言えますか?
じゃ
>>791-794についての貴方の見解を聞かせてくれたまえ。
>>983 お前ID:rcRK7W4aだろ。
今日は早出残業じゃないのかい?www
さっさと791から794を論破してやれよー。
頼むよーwww
986 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 11:03:20.59 ID:k5yfgNdK
そういう宗教キモイことに気づこうか
カルト宗教って、最近の聖神中央教会にしても、
プロテスタント系にも、多いらしいですよw
マタイ7:1 「自分が裁かれないために,[人を]裁くのをやめなさい。
2 あなた方が裁いているその裁きであなた方も裁かれることになるからです。
そして,あなた方が量り出しているその量りで人はあなた方に量り出すでしょう。
3 では,なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら,
自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか。
4 また,どうして兄弟に,『あなたの目からわらを抜き取らせてください』と言えるのですか。
しかも,ご覧なさい,自分の目の中には垂木があるのです。
5 偽善者よ! まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。
そうすれば,兄弟の目からわらを抜き取る方法がはっきり分かるでしょう。
988 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 11:06:11.93 ID:T74eO6rN
>>955 呪いを取り下げないからな 覚悟しろよ!イエス・キリストのみ名により お前を呪います。
ステファノに関しては以前も書いたようにものみのトウは使徒の活動でまたもや捏造ダブルスタンダード翻訳してますよね
特に7章59 60節
ステファノはキュリオーに呼びかけて、「キュリオーなるイエスよ、我が霊をお受けください」と言った。それからひざまずいて、「キュリオーよ、この罪を…
最初と二番目のキュリオーを「主」と訳し、三番目のキュリオーをなぜか「エホバ」と翻訳しているのですか。
どうせなら、すべてのキュリオーをエホバに訳して 「エホバなるイエスよ」としたら良いのではありませんか。
反対者の中には聖書を神からの贈り物だと信じる人もいるそうです。
しかし「批判」することだけに精一杯で聖書の言葉など全く目に止めていません。
事実は、反対者の所属している団体の方にも同じ問題、
いやそれ以上に大きな問題があってもそうするようです。
とても愚かなことです。自分の業によって聖書を否定しています。
マタイ7:1 「自分が裁かれないために,[人を]裁くのをやめなさい。
2 あなた方が裁いているその裁きであなた方も裁かれることになるからです。
そして,あなた方が量り出しているその量りで人はあなた方に量り出すでしょう。
3 では,なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら,
自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか。
4 また,どうして兄弟に,『あなたの目からわらを抜き取らせてください』と言えるのですか。
しかも,ご覧なさい,自分の目の中には垂木があるのです。
5 偽善者よ! まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。
そうすれば,兄弟の目からわらを抜き取る方法がはっきり分かるでしょう。
それでも彼等は自分がしている愚かなことに全く気づかずこうした事を続けるのです。
批判することだけで証人たちをこえる団体をつくり上げられない腹いせとも言えるでしょう。
証人たちが、キリスト教世界が大いなるバビロンにいる事を確信するだけだと言う事に、
それにしても気付かないものなのでしょうか。
彼らは世にあって、世の者となり下がった精神状態を反映しています。
イエスが神ご自身であるなら、ルカ4章では実際試されているわけですから、神が試練に会うことはないと述べている聖句と矛盾したものとなります。
大前提としてヨブ記にあるようにサタンはエホバのご命令によって、ヨブの命を奪うことは許されなかった。
つまり、エホバに限定条件をつけられたら決して逆らえない立場、つまり、エホバの下の地位にいることが分かります。
聖書は奇跡的に調和していることを考え合わせ、この二つの聖句が調和していると考えるなら、エホバを誘惑することなんて、誰もできないという点で調和している事が分かりますね。
反対にイエスが神に属するもので神ご自身ではないとするなら、イエスを神から引き離そうという企てであると説明が付きますね。
混乱に拍車をかけているのが,聖書の原文では7,000回以上出てくる神のみ名エホバが,多くの聖書翻訳で省かれていることです。
神の名を主と置き換えることにより、エホバとイエスどちらか分からなくなってしまいました。
これは、三位一体の教理を推し進める者にとっては非常に都合のよいことでした。
991 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 11:08:26.92 ID:T74eO6rN
聖霊は人格的存在であり,“神”の一部であるという教えは,西暦4世紀になって初めて教会の公式の教義となりました。
古い翻訳に見られるヨハネ第一 5章7節の「天において……御父,御言葉,御霊……この三つは一つなり」(欽定)という言葉は,実際には元の本文に付け加えられた偽筆の句であることに注目できます。
カトリックの翻訳であるエルサレム聖書の脚注は,これらの言葉は「初期のギリシャ語写本,もしくは初期の翻訳のいずれにも,またウルガタ [訳]そのものの最良の写本にもない」と述べています。
聖霊自体は人々を満たし,駆り立て,燃え立たせることのできるもの,人々の上に注ぎ出すことのできるものなのです。
また、聖霊は他の非人格的な力やものと一緒に取り上げられることがあまりにも多いので,人格的な存在であるはずがありません。
(マタイ 3:11。エフェソス 5:18。使徒 6:3,5; 13:52。コリント第二 6:4‐8)
擬人法や文法上の問題で人格をさす場合があるだけです。
三位一体は聖書の教えではありません。
キリストが物事を正される収穫の時まで,純粋のキリスト教からの逸脱が生じることは予想されていました。
(マタイ 13:24‐43)
(ご自分は良い種をまいたのに,敵であるサタンが雑草の種を畑にまき足した)
E・W・ホプキンズは「宗教の起源と進展」と題する本の中で,「三位一体に関する最終的な正統的定義は,大方,教会の政策上の事柄であった」と述べています。
この世の支配者の悪魔サタンの(ヨハネ第一5:19)の考えをよく反映していることを示しています。
聖書を読んでいるクリスチャンの意識からヤハウェが消え失せたことの一つの結果として、キリストを重視する傾向が生じました。
イエスが自分のものと主張したことのない地位にまでイエスを高めることとなりました。
そうすることにより,エホバへの崇拝から人々をそれさせました。
全能の神を謎めいた存在とするだけでは足らず,無名の存在にしようとするのは,明らかに,創造者とその霊感を受けたみ言葉に対する甚だしく不敬な行為です。
(啓示 22:18,19)
一方イエスは,人々の注意を常に,父エホバに向けておられました。(ルカ4:4,8,12)
さらに,神のみ名を主とか神などの称号に置き換えるのは,イエスが示した模範的な祈りに反することです。
イエスはその中で,「御名が崇められ[つまり神聖なものとされ]ますように」と言っておられます。
―マタイ 6:9,「新共同訳」,共同訳聖書実行委員会。
それとは対照的に神と御子に敵対する者達は結果的に神の名を消そうと頑張ってきました。神がどのような方か知ることを難しくしたのです。
キリスト教の宗教指導者たちが神の名を消したのも納得の行くことですが、三つ組みの神は元々異教の伝承でよく見られるものです。
人間が考え出した人間の伝統で神からのものではありません。
「悪い事柄で神が試練に遭うということはありえませんし,そのようにしてご自身がだれかに試練を与えることもないからです。むしろ,おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。
次いで欲望は,はらんだときに,罪を産みます。そして罪は,遂げられたときに,死を生み出すのです」
(ヤコブ1:13〜15)。
この聖句をルカ4章の比較材料にしてみると、『神が試練に遭うことはありえない』とあるのだから、サタンの誘惑を受けたイエスは本当に神なのだろうか?
という疑問が出てきます。
この聖句によると、心の中に悪い欲望が生じることで誘いを受け、その欲望をはらませて罪、それが死へとつながっていきます。
この聖句は、善悪を定める創造者であり、究極の『善』であられる神がそのように試練を受けることはあり得ないと述べているのです。
かつて天で共に過ごしたサタンも当然のごとくそれは知っているでしょう。
しかし、サタンはイエスを誘惑したとき、イエスが心の中で『すべての王国の権威と栄光』を受けたいという欲望に誘われる可能性がいくらかでもあると考えたからこそ彼を誘惑したわけです。
ですから、サタンはイエスを神だとは認識していなかったのです。
さらに、ルカ4章のやり取りとヨブ記の中でサタンが神に対して物を言っている場面、そのやり取りと比較してみてください。
サタンは神に向かってこう言いました。
「どうか,あなたの手を出して,彼の持っているすべてのものに触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたをのろわないかどうかを見てください」
(ヨブ1:11。2:5でも再度言っています)。
ヨブ記の記述の中では、サタンは、神の絶対的な権威の中でしか自分は行動できないことを認めており、自分の行動を止めないという意味で許しを求めています。
このことと、ルカ4章でのイエスに対する態度とを比較してください。
単に敬語を使ったかどうかということではなく、両者に対する態度が本質的に違います。
サタンは、イエスをみ父(YHWH)と同等であるとは考えていなかったのです。
世とくらべ、エホバの証人は愛と平和と一致で際立っています。
しかし組織も不完全な人間の集まりで、間違いはあり得ると言う事です。
それに対し、反対者の多くの状態は結局はローマ1:28−の聖句の通りで、
憎しみと戦いと不一致で満ちていて、
依存しないのがいいんだとか強がる人いたとしても、
結局は、自分たちの方が劣っていることを、
教え続けてくださっている感謝出来る存在なのです。
ローマ1:28 そして,ちょうど彼らが正確な知識をもって
神を奉ずることをよしとはしなかったように,
神も彼らを非とされた精神状態に渡して,
不適当な事柄を行なうにまかされました。
29 彼らがあらゆる不義・邪悪・強欲・悪に満たされ,
ねたみ・殺人・闘争・欺まん・悪念に満ち,ささやく者,
30 陰口をきく者,神を憎む者で,不遜,ごう慢,またうぬぼれが強く,
有害な事柄を考え出す者,親に不従順な者であり,
31 理解力がなく,合意したことに不誠実で,
自然の情愛を持たず,憐れみのない者であったからです
世とくらべ、エホバの証人は愛と平和と一致で際立っています。
しかし組織も不完全な人間の集まりで、間違いはあり得ると言う事です。
それに対し、反対者の多くの状態は結局はローマ1:28−の聖句の通りで、
憎しみと戦いと不一致で満ちていて、
依存しないのがいいんだとか強がる人いたとしても、
結局は、自分たちの方が劣っていることを、
教え続けてくださっている感謝出来る存在なのです。
ローマ1:28 そして,ちょうど彼らが正確な知識をもって
神を奉ずることをよしとはしなかったように,
神も彼らを非とされた精神状態に渡して,
不適当な事柄を行なうにまかされました。
29 彼らがあらゆる不義・邪悪・強欲・悪に満たされ,
ねたみ・殺人・闘争・欺まん・悪念に満ち,ささやく者,
30 陰口をきく者,神を憎む者で,不遜,ごう慢,またうぬぼれが強く,
有害な事柄を考え出す者,親に不従順な者であり,
31 理解力がなく,合意したことに不誠実で,
自然の情愛を持たず,憐れみのない者であったからです
世とくらべ、エホバの証人は愛と平和と一致で際立っています。
しかし組織も不完全な人間の集まりで、間違いはあり得ると言う事です。
それに対し、反対者の多くの状態は結局はローマ1:28−の聖句の通りで、
憎しみと戦いと不一致で満ちていて、
依存しないのがいいんだとか強がる人いたとしても、
結局は、自分たちの方が劣っていることを、
教え続けてくださっている感謝出来る存在なのです。
ローマ1:28 そして,ちょうど彼らが正確な知識をもって
神を奉ずることをよしとはしなかったように,
神も彼らを非とされた精神状態に渡して,
不適当な事柄を行なうにまかされました。
29 彼らがあらゆる不義・邪悪・強欲・悪に満たされ,
ねたみ・殺人・闘争・欺まん・悪念に満ち,ささやく者,
30 陰口をきく者,神を憎む者で,不遜,ごう慢,またうぬぼれが強く,
有害な事柄を考え出す者,親に不従順な者であり,
31 理解力がなく,合意したことに不誠実で,
自然の情愛を持たず,憐れみのない者であったからです
そろそろ埋めますかwww
999 :
神も仏も名無しさん:2011/04/23(土) 11:15:12.06 ID:4zlgpNlp
>>791 低い立場をとられたイエスは人間として誘惑に遭われました。
あなたの理屈でいくとキリストは地上で生活したからみ使いではないという事にもなりますよ。
>7,000回以上出てくる神のみ名エホバが,多くの聖書翻訳で省かれていることです。
YHWHの四文字だけでは名ではない。
アドナイと呼んでいた訳だから主が正しい。
「新約聖書初期キリスト教文献希英辞典」によれば、プロスキュネオーという語は、「ある人の前に平伏して、その足や衣のへりや、地面に口づけする習慣を示すのに用いられ」ました。
(シカゴ、1979年、バウアー、アルント、ギングリッチ、ダンカー共編第2版、716ページ、英文)
それで、プロスキュネオーという語は、崇拝することを表わすだけではなく、ある対象に対して、深い敬意を表明することを表わす語としても用いられます。
それで、ヘブライ1章6節のプロスキュネオーの訳が、「敬意をささげる」と訳していても、受け入れられる訳であることが分かります。
ですから、ヘブライ1章6節に、み使いに対して、イエスをプロスキュネオーするように命じられていても、それは、イエスを崇拝するようにと命じているのではなく、非常に深い敬意を表わすようにと命じていることが分かります。
ですから、この聖句は、イエスが崇拝されるべき唯一まことの神であることを意味してはいません。
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