【真宗・親鸞】妙好人と学ぶ10【信心獲得(決定)】
819 :
神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 13:46:11 ID:wU3yiOkU
>>630 これは気になる。誰か答えられる人いないの?
820 :
神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 13:52:51 ID:wU3yiOkU
善知識が宿善・無宿善を見分けることが出来るという。
善知識は普通の人間とは違う特別な能力を得るのでしょうか?
821 :
神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 14:08:00 ID:CFqyiysd
>>818 獲信者であり、次第相承の面授、口授口伝を受け継いだ、真の善知識ではないのですか?
善知識が宿善の有無を見分ける訳ではありません。
阿弥陀仏以外に誰が見分けられるというのでしょうか?
822 :
神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 14:10:31 ID:wU3yiOkU
宿善のないもの(生涯善知識にたどり着けなかった者)はどうなるのですか?
無間地獄ですか。
824 :
神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 14:20:15 ID:wU3yiOkU
蓮如上人が善知識に遭うために善業をせよ、と
おすすめくださったわけですね?
>>804 A 二巻鈔 註釈版P537
「白道四五寸」といふは、「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、
白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
B 本典 註釈版P243
まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」(散善義)といふは、
白道とは、白の言は黒に対するなり。
白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。
>白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
>白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり
>>824 善業するのは善智識に遭うためじゃないですよ。
まあとにかく善業すればよいのです。
ここではよく儀式と書かれてるが、三業派のことやろ。
s会あたりじゃ土蔵秘事と一緒やちゅうていうてはるようやね。
江戸期に異安心とされたが、主張の全部が否定されたのとはちとちゃうねん。
あれやろ。論註さんに書かれてはるように帰命とは礼拝やねんってとこあたりやね。
儀式ちゅうよりは行信の行の問題やね。
ま、これがあったばっかりにうちら本山は無帰命安心に陥りそうになったんやけどな。
>>815 それは失礼しました。
>>816 自力でない「どうしたら」があると仰っているように見えますが、それでよろしいですか?
>>817 ずいぶん無気力な内容に見えますね。
ちなみに、817さんは、「赤ん坊に信心を『授ける』ことができる善知識」は存在する
と思いますか?私は存在しないと思いますけど。
7さんたちの善知識は、「弥陀にどうしたら救われるか」を教えてくださるそうですが、
教えられたことができない人がいたら、どうなるんでしょうね。
「能力が無いと、どんなに救われたいと思っても無理」ということになりますけど。
7さんと817さんの聞いておられる教えは、違うのでしょうか。
7さん ⇒ 善知識にどうしたら救われるかを聞いてその通りにする。
817さん ⇒ 自分は何もしない事が肝心。
>>825 ありがとうございます。すごいなあ!お聖教に説かれている通りですね。
おそらく栃平さんという方は、お聖教の細かい知識は持っておられなかったかと思います。
(本の中に、あまり字が読めず、ひたすら説教を聞くばかりだったとありますので)
でも、平易な言葉で、ずばり本質をついておられたんですね。
こうしてみると、「自力(聖者の善)の源は他力」という、
>>801さんの書かれたこととも
符合してくるように思います。
830 :
7:2009/01/17(土) 18:24:35 ID:MBoQSJKl
自力ではない「どうしたら」があるとすれば、他力ではないですか?
ちなみに私も赤ん坊に信心を授けることの出来る善智識はいないと思いますよ。赤ん坊であれ、老人であれ、青年であれ、
人に他力信心を与えることが出来るのは阿弥陀仏だけでしょう。人の力はおよびません。
阿弥陀仏は十方衆生と誓われ、蓮如上人も男女老少を選ばずと仰られている通り、阿弥陀仏のお力ゆえに赤子の獲信はあっても不思議は無いと思います。
凡夫が不退転の身になる、また浄土へ往生し仏になる、これ以上に不思議なことはないのですから。
>>827 いろいろご存知なんですね。
>江戸期に異安心とされたが、主張の全部が否定されたのとはちとちゃうねん。
>儀式ちゅうよりは行信の行の問題やね。
このあたり、ぜひ詳しくお聞きしたいです。
>>830 確認します。「弥陀にどうしたら救われるか」とは「弥陀たのむ方法」でよろしいですか?
>ちなみに私も赤ん坊に信心を授けることの出来る善智識はいないと思いますよ。
そうですか。ひとまず同意見で良かったです。
ではもう一つ。浄土真宗は元々、老若男女を問わない救いだと言うことは
大前提として、その中でも「赤ん坊でも獲信できる」、特別な方法がある
と思われますか?
>>831 赤ん坊のご信心のお話でっか。
これはねぇ、大事やと思うで。小児往生の論争はそれこそ大昔からあるからねぇ。
まあ、個人の領解の問題をとれば、言葉も分からんような小児にご信心の何たるかが分かろうはずもない。
となりますわなぁ。
だけど、願成就文よ〜見てみんとあかんと思うんですわ。あらゆる衆生やからね。
そもそも、世界中のすべての人がお浄土に往生でける準備は仏の方からはでけておるわけや。
そのことわりを聞くんには現在過去未来と時間差があるわけや。
法からみれば、小児だって往生でけることに疑いはないわけよ。
小児には無理やと思うんは、仏智を疑っておるちゅうことにもなるかも知れんなぁ。
そのあたりは宗祖の信巻あたりよ〜読んでみてや。
>>831 >儀式ちゅうよりは行信の行の問題やね。
何か怪しいことしとるやないかと思うわな。本山でもそのあたりは昔から調べてたりしとるわけ。
何の根拠も持たんあっやし〜ことしとるところもあったりするから実際はごちゃごちゃやけどね。
行の一念と信の一念は一体やよね。そこんとこはよろしおまっか?
是非を凡夫が勝手に思い定めるんを信一念とは言わんのやわ。
お浄土間違いなしや。疑いの〜なった。そんなん信一念としたらあまりにお粗末やわ。独覚やから自力の域を出てへんわけや。
疑心あることなしちゅううんは、阿弥陀さんの御心は清浄で疑心がありませんわ。
そこをたのみとする以外に信一念なんかないんですわ。
でもな、ある時点でわしは阿弥陀さんの誓願をたのみとしたんで万事OK!やとなると、
一念義っちゅうもんになって、これには相続心ちゅうもんがないんや。
阿弥陀さんの誓願をたのみとする心ちゅうもんが、何で金剛心なんちゅうもんに喩えられるかっちゅうと、
それは摂取不捨のお約束があるからなんやね。ここは大事なことやと思うよ。
行の問題の件やけど、お称名は真宗ではあくまでも御恩報謝やといわれとるわけや。
けどな、信は必ず念仏を具すとあるんや。信があっても念仏せんのは栓なきことなんやて。
真実の行はあくまでも称名念仏や。これは宗祖が言われとるから間違いないやろ。
三業派の人はこの称名念仏をもっと細やかに言わはったようやで。
念仏は五念門のご修行のかたまりなわけや。やから、簡単に言うと礼・讃・作・観・廻を念仏の行としはったんよ。
37願あたりはそれをよ〜あらわしてるんちゃうかな。
ま、種々の方便でご信心を発こさせるちゅうて言われとるわけやから、
三業派の人の中にも真実信にたどりつく人もおるんかとも思いますわ。
834 :
7:2009/01/17(土) 21:59:06 ID:x1ki09sr
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」(顕浄土真実教行証文類)
何故親鸞聖人が「信を獲ば」ではなく「行信を獲ば」と書かれたのか、とても大切なところだと思います。
「赤ん坊でも獲信できる」「特別な方法」、言い換えるならば「男女老少を問わない」「知恵才覚もいらない」凡夫が救われる方法、
それを考え出され実現されたのが阿弥陀仏であり、その力があるのが御名号、念仏、南无阿彌陀佛ではありませんか?
念仏以外に凡夫が救われる方法とやらを私は知りません。
赤ん坊でさえ獲信出来ないような教えであれば、間違いだらけの自分、無垢さ素直さも失った自分、余分な知識を詰め込んだ自分、
ましてや救われようがないではありませんか。
>>834 行信やね。行だけでも信だけでもない、行信なんやね。
念仏以外に救われる方法を知らんと言われるんは三業派の方でも一本芯が通ってますな。
でもな、お念仏を真実行とするんはええねん。宗祖がわざわざ行巻を書かれはったんやからな。
そこはええと思うよ。たぶんやけど、このお念仏は五念門の行として行じはるんやと思うねん。
ただな、お念仏の行だけでは往生でけへんことは確かやよ。行一念で往生するんやないんやから。
あくまでも行と信は同時やねん。時も日も隔てんと言われとるわけやから。
そこんとこが三業派の方のち〜と理解でけんところなんよ。
>>834 小児往生の話してはるんでち〜とばかり実地のお話な。
これは機を問う教えやと絶対に不可能になるねん。あくまでも法に問わんといかんのね。
往生は一定なりと行信獲たらな、まず妻子に聞かせなあかんと祖師は言わはってる。
でもな、同時に宿善なければ力及ばずといわれてはるんや。
これは実地の問題やねん。いろんな同行さん見てると爺さん婆さんだけじゃない。小児もいてはる。
障りの多い体もろうて生まれて来られた人もいてはるわ。もう説法なんか間に合わん人もいてはるんや。
そういう人に仕方ないからお念仏しましょ。今生は残念やったけど来世で助かりましょ。だけしか説法でけんかったら真宗ちゃうねん。
それじゃ平生業成が聞いて泣きますわ。
宗祖はお浄土に往ける往相だけのお話をされておらんねん。同時に還相ちゅう廻向のお話もされてんねん。
ほな、還相ってなんや?と同行でも知らん顔の人大勢いてはるわ。
宗祖も祖師の引用でお浄土から戻ってきはって、お釈迦さんのように衆生済度でけるようになるちゅうて言われてはるわ。
そのあたりはもっと突き詰めて宗祖の教理を知らなあかんと思いますわ。
>>832 >小児往生の論争はそれこそ大昔からあるからねぇ。
そうなんですか〜。知りませんでした。
私自身は、阿弥陀仏の本願によって0歳児でも救われることはあるだろうと思います。
ただそれは、浄土真宗の教義において本当に当たり前のことですよね。
浄土真宗の中でも、特別な流派においてのみ(特別な方法を用いてのみ)
それが確実に可能であると言う人があれば、おかしいなと思うわけです。
ぶっちゃけそれは、「隠し念仏」のWikiにある、「生まれてまもなくの赤子に
信心を与えることはオトモヅケと呼ばれる」というものに該当すると
思われるからです。
>>833 なるほど、判りやすく教えて頂きありがとうございます。異論ありません。
>>834 「浄土真宗は元々〜大前提として」の部分、よく読んでくださいね。
元々、「男女老少を問わない」「知恵才覚もいらない」凡夫が、ご名号によって
救われる教えが、浄土真宗というものですよね(違っていたらびっくりです)。
その上で、浄土真宗の中でも、「赤ん坊でも獲信できる」「特別な方法」が
あると思われますか?とお尋ねします。
そして、そのことと7さんの言われる「弥陀たのむ方法」とは、どのように関係して
いるのでしょうか?
そんなことよりみなさんは江原スピリチュアルをどう思いますか?
どうやら彼はいままでのテレビおかかえインチキ霊能者とは違うようですね。
参考
第2の江原を探せ! (単行本) 出版社: 扶桑社 (2008/12/11)
空前のスピリチュアルブームのなか、肯定派は妄信し、否定派は全否定を繰り返すだけで議論が噛み合わない。
第1章 スピリチュアル検証の趣旨
第2章 江原氏が認めたカウンセラー
第3章 有名人も会いに行くカウンセラー
第4章 クチコミで薦められたカウンセラー
第5章 本やWEB上で見つけたカウンセラー
第6章 ニセモノはこう見抜け!9つのポイント
第7章 結論―スピリチュアルの世界はあるのか
>>837 赤ん坊でも同じですよ。一心に阿弥陀様におすがりし、南無阿弥陀仏と念仏すればよいのです。
親鸞様によれば、念仏は声に出せなければ心の中で念じてもよいのです。
赤ん坊は言葉が話せませんから、心の中で阿弥陀様のお計らいにより念じるのです。
840 :
7:2009/01/18(日) 10:11:35 ID:TLIEfav/
>>835さんへ
真宗に詳しい方がみえて嬉しいです。835さんは、私を三業派と言われていますが、どこでそう判断されたか知りたく思います。
五念門についてもお詳しいようで、ワクワクしてきました。
841 :
7:2009/01/18(日) 10:17:35 ID:TLIEfav/
>>837さま
wikiで真宗と秘事の違いが分かるなら、苦労しないと思います。
おそらく三業惑乱の反動なのか、獲信に関わる全ての「行」を否定するようになった流れの方ではないかと推測します。
自分の得た信心は絶対である、という前提でお話をされているようですから、それは結構なことですけれども。
ただ思い込みや偏見が前提なので、祖師聖人の径術というお言葉まで怪術と読み間違えたりする人もあるのではないでしょうか。
842 :
7:2009/01/18(日) 10:27:15 ID:TLIEfav/
「本物だと分かるから本物なんだ」こういう結論に達する教えには、今は魅力を感じないのです。かつてはそういうものを求めました。
佛教であるからには、真宗であるからには、教えと符合しなければならないと聞いて、全くそうだと思ったのです。
自分から見ると教えといろいろ矛盾する信心を得ているのに、どんな指摘もかわして、高い目線から断言される方を見るにつけ、
「そちらの信心が本当で本物ならちゃんと説得力のある話をしてくれよ」と思いますけれど、これって自分もそうなのでしょうね。
どれだけ頭ごなしに否定されても、ホクホクと嬉しくなってくる。そんな信心を得てしまうと、聞く耳が無くなるのでしょうか。
843 :
神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 10:29:07 ID:HIxxB9Is
江戸時代の「三業派」って秘密の口伝を受け継いだ善知識とか、
「秘密の六字のいわれ」を聞いて、信心を決定させてもらう、
そういうものなんでしょうか。
智洞は全国から来た参詣者に堂々と法話した、ということみたいですが。
それとも参詣に来た門末に片っ端から秘密のたのみ方で信心を獲させたのだろうか?
844 :
神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 10:47:23 ID:HIxxB9Is
オモトヅケは東北の隠し念仏ですね。
東北の隠し念仏は研究者が入って調査をしています。
研究書も公刊されています。習俗化が著しいと思われます。
それよりもwikipediaのリンクにある南山大学の論文のほうが
面白いですよ。
>>837
845 :
7:2009/01/18(日) 11:19:50 ID:TLIEfav/
信心決定を求めて、信心決定した人を探すために建ててもらったこのスレ。
世の中にはいろんな信心があるようですけれども、いろんな人が書き込んでくださるようになってとても嬉しいです。
皆それぞれが「これだ!」と思うところへ、ご縁のあるところへ導かれて、信心決定していくのでしょう。
それぞれ「自分の得た信心が本物だ」と皆思っているわけです。しかし、全てがどれも本物ということは、恐らく無いのでしょう。
全ての人が早く真実信心に辿り着けますように。
南无阿彌陀佛
846 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/01/18(日) 14:28:35 ID:GAfoorww
>お念仏の行だけでは往生でけへんことは確かやよ。行一念で往生するんやないんやから。
あくまでも行と信は同時やねん。時も日も隔てんと言われとるわけやから。
真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建め
に「我一心」と言えり。また「如彼名義欲如実修行相応故」と言えり(信の巻)。
真実の信心があるなら、その人は必ず名号を称える。名号を称えているからといって、その人は必
ずしも信心があるという話ではない。だからこそ、世親菩薩は浄土論で、信行が併せて「我一心」と仰
った。
極楽浄土の真の入口はどこか。
弥陀定散の念仏、これを浄土の真門と曰う、また一向専修と名づくるなり、知るべし(愚禿抄)。
弥陀定散の念仏、これが極楽浄土の真の入口である。一向専修の念仏である。
念仏ビギナーは行があって信がない。念仏は、信心ができるのを待って称えるものではない。信心
の無い念仏を称えることは恥ずかしいことではない。みんな最初は暗中模索で始めるんだ。信心がな
いまま努力してひたすら念仏をとなえる。そこでやがて変化が起きる。信心はきっと備わってくる。その
とき信と行と併存する(果遂せずんば、正覚を取らじ。二十願)。
>>837 隠し念仏はな、大別すれば三業派やねん。でもな、やらはってることがお聖教に根拠がないねん。
隠しと言葉が入るから何だか怪しくなるねん。土蔵秘事ちゅうもんは土蔵の中で行しはるねん。
でもな、これもお聖教の根拠がないことしはるねん。行はあくまでも称名正行しかないねん。
正統派ちゅうかの三業派さんはな、身業、意業、口業で阿弥陀さんをたのむことを行とされるねんな。
これはお聖教の五念門に根拠があるねん。あながち誤りとは言えんのよ。
ただな、大事なんは行だけではあかんねん。信が伴わんとあかんのや。
行だけやとな、善知識だのみちゅうもんに陥りやすいねん。
>>841 それは否定でけんなぁ。惑乱以降、行を無視する流れになったんは確かやねん。
お説法聴聞だけでご信心頂けるっちゅう考えになったんよ。ほなら宗祖や祖師の行論はいらん長物になるねん。
そんな聴聞道場に限って、お念仏の声が聞こえんねん。矛盾感じんのかいなぁ。と思うわ。
そやないと思うんや。あくまでも行信なんやと思うで。
849 :
7:2009/01/18(日) 16:04:31 ID:TLIEfav/
>>848 信を伴う行でなければならない、私もそう思います。
848さんは、信心決定されていますか。また、次第相承の善智識については、どのように理解されていますか。
>>844 ありがとうございます。これは読んだことがあります。
多分、こういうことなんでしょうね。
「秘密主義は裏在家であることの意義を高めてくれる。秘密を伴う排他性によって裏
在家の各人は自を真理を密かに知りえた幸運な少数者とみなすことができる。さらに
秘密主義は成員数を限定することで統制力を高める。教えを隠すことで裏在家は講へ
の加入者の選出や教えの解釈にあたっていっそう強い力を発揮できる。また善知識と
指導者たちは外部とくに彼らを異端視する真宗僧侶から権威を脅かされずにすむので
ある。」
(論文より引用)
>>848 ありがとうございます。いろいろ勉強になります。
>行だけやとな、善知識だのみちゅうもんに陥りやすいねん。
本当に、そうですね。信がないと、何かを頼りにせずにいられないでしょうから。
あと、
>>843についてはどう思われます?
>>845 浄土真宗には本当に、様々な異安心がありますね。
ですが、三業派や秘事法門に留まっておられる皆様も、御同朋御同行。
暖かき阿弥陀仏の御ふところに包まれし妙味、早く共に喜びあえるように
なればと念じています。
それには、昔の妙好人も言われた通り、「晴れたお慈悲を聞きゃ晴れる」、
これに尽きると思います。
>>841 >wikiで真宗と秘事の違いが分かるなら、苦労しないと思います。
7さんは、Wikiにない判断材料で、「真宗と秘事」の違いを判っておられるのでしょうか。
ぜひ教えて頂きたいです。「ちゃんと説得力のある話」をして頂けると幸いです。
それから、
>>837の以下の部分と、
>>755へのお答えもお待ちしていますね。
>元々、「男女老少を問わない」「知恵才覚もいらない」凡夫が、ご名号によって
>救われる教えが、浄土真宗というものですよね(違っていたらびっくりです)。
>
>その上で、浄土真宗の中でも、「赤ん坊でも獲信できる」「特別な方法」が
>あると思われますか?とお尋ねします。
>
>そして、そのことと7さんの言われる「弥陀たのむ方法」とは、どのように関係して
>いるのでしょうか?
852 :
7:2009/01/18(日) 21:03:19 ID:TLIEfav/
>>851 何が真宗かは、お聖教によるしかないと思います。真宗と秘事の違いは教えに根拠があるかないかです。
赤ん坊でも救われるのが南无阿彌陀佛です。十方衆生を救うと誓われた阿弥陀仏を疑うのなら救われないとしか思えないでしょう。
「特別な方法」にわざわざカッコをつけてあるということは、「特別な方法」という言葉を自力の代名詞として聞いてきたからでしょうか。
他宗他派の方から見れば、南无阿彌陀佛こそ特別な方法にみえることでしょう。そういうことなら、特別な方法とは南无阿彌陀佛のことになるでしょう。
十劫より昔に信心決定した人はいない、こう理解するのが間違いですか?久遠実成の阿弥陀仏だから、十劫より昔にも信心決定した人がいるという教えでしたっけ。
もしそうなら自分の不勉強を恥じ、素直に謝ります。どうか、十劫より昔にも信心決定した人がいるという根拠をお聖教にて教えてください。
>>850 次第相承の善知識はんでっか。真宗聖典あたりではうちらご本山の歴代法主様をいうちゅうて書いてあるわな。
相承の義自体は仏教ではそんなに可笑しなことではないねん。むしろ当たり前のことやねん。
何でかわかりまっか?簡単やねん。仏さんがおられん世の中やからお聖教を頼りとせなあかんやろ。
でもな、経典は隠顕があんねんな。そのまんま読んだだけでは絶対に分からん部分があんねんな。
そんでもって、七祖はん方は仏証を乞うはってそれを少しづつ明らかにして下さったんやねぇ。
宗祖は師の法然さんの仰せに従いさらに突き詰めて教行信証書かれはったんや。
皆さんよ〜お勉強されてはるんで分かるかと思いますが、難解なんやわ。これが。
でな。突然に教判にない自義を立てはる人を防ぐ意味があるんや。相承にはな。これは面授口決ともいうんや。
>>850 続きな。
秘密の口伝でっか?そもそも口伝なんやから口外しないのとちゃいますの?口決ちゅうんや。仏教では。
その教判の受け継がれた思想ちゅうか、流れちゅうかを同行に聞かせてあげるんとちゃいまっか。
真宗にはな、宿善ちゅうもんがあんねんな。そのへんのな〜んも真宗どころか宗教にも興味のない人に
無理に聞かせるんとはちゃうねん。そういう無分別なことはすな。ちゅうて中興の蓮如はんは言わはってるわ。
こういうのを抑止(おくし)ちゅうねん。
片っぱしから行のみで決定させた?そもそも行のみで決定でけるんかいな?
秘密のたのみ方ちゅう言い方はそれを知らんから秘密と感じるんとちゃうのん?
極秘やったら、だ〜れも知らんままなんとちゃいますの?聞こうとする人には聞かせてるとちゃいますの?三業派の方々は。
惑乱もあったし、取り締まりも厳しかったんで、自流を大事にされはってんのとちゃいまっか。
宗祖は不可称・不可説・不可思議のお助けやちゅうて言われとりますわ。
これがな、こんなんが信心ですわ。とかな、自身の体験や境地のようなもんを信としたら自力の域で〜へんねん。
そんなんやったら、可称・可説・可思議になるねん。
ご誓願と名号法をもって易く往生でける。とたのみとする以外に何があんの?と思いますわ。
いくら金剛心になったちゅうてもそんなん水に描く絵と同じとちゃいますか。
金剛心はな、お聖教にもあるとおりに摂取不捨があるからそう喩えられるんや。
さ、お念仏させて頂いて早よ寝ましょ。
>>852 >何が真宗かは、お聖教によるしかないと思います。真宗と秘事の違いは教えに
>根拠があるかないかです。
なるほど。ありがとうございます。ちなみにお聖教というのは、隠された秘伝の書と
いったものではなく、誰にでも確認できるものですよね?
>赤ん坊でも救われるのが南无阿彌陀佛です。
以下、大前提を繰り返しているだけに見えますね。あらためてお聞きします。
元々、「男女老少を問わない」「知恵才覚もいらない」、凡夫がご名号
(南無阿弥陀仏)によって救われる教えが、浄土真宗というものですよね。
これを大前提とした上で、浄土真宗の中でも、「赤ん坊でも獲信できる」
「特別な方法」があると思われますか?
そう思う、か、そう思わない、かのどちらかでいいですよ。
「」をつけているのは、わかりやすくするためです。
>十劫より昔にも信心決定した人がいるという根拠をお聖教にて教えてください。
「しかれば、海徳仏より本師釈尊にいたるまで、番番出世の諸仏、
弥陀の弘誓に乗じて、自利利他したまえるむね、顕然なり。」(口伝抄)
「また竪を兼ぬるとは、遠く三世に亘りて断絶することあることなくして、
利益尽くることなし。寿命無量は、これ竪の辺に約す。且く因願に依れば、
十劫成覚の身たりといえども、諸仏の寿命、平等の果海は闕減あることなし。
ただこれ本覚弥陀の寿なり。」(六要抄)
>>854 お、なるほど。お答えありがとうございます。大体判りました。
「ご本山」にもいろいろあるみたいですね。
>>855 >そんなんやったら、可称・可説・可思議になるねん。
そうですね。
信心について「ちゃんと説得力のある話をしてくれよ」とか考えちゃうのは、
自力なんでしょうね〜。
自分で水に書く絵ではない信心について、語ってくださるかたがもっとあれば
嬉しいなと思います。
まあこのスレに新しい方が来られるのが、そもそもあんまり有り得ないんですけどね。
858 :
7:2009/01/19(月) 00:15:52 ID:GQPCtULV
>>853 レスありがとうございました。お念仏させていただいて寝ることにします。
859 :
7:2009/01/19(月) 00:35:02 ID:GQPCtULV
>>856様 お聖教というのは、お寺さんや図書館、本屋で読めるものだと思います。
真宗か、秘事かを区別するには、それ以外に判断材料はないと私は思います。他にあれば是非教えてください。
赤ん坊でも救われる特別な方法、その方法が仏法だと思います。仏法は、あると思います。
十劫より昔に信心決定した証拠としてあげていただいたお聖教ですけれど、どうして根拠になるのか分かりませんでしたので、
お手数ですがお時間のあるときにでも解説していただければ幸いです。
「ちゃんと説得力のある話をしてくれよ」などと書いてしまってごめんなさいね。随分お腹立ちということは分かりました。
私の理解力が足らないのに、そんな生意気な言葉をスレに書き込んでくださる親切な人に投げかけたことをお詫び申し上げます。
860 :
神も仏も名無しさん:2009/01/19(月) 08:06:35 ID:vQnA0x+B
人間の考えている常識は、阿弥陀仏の常識には当てはまらないと思います。
自分の人間としての知識など、通用しませんよ。
人間がこの世に存在している物のどれだけを知っているのか、理解しているのか。。。
この地球の事ですら、満足に知らないのが現実でしょ。
宇宙の果てだって、知らない訳だしね。
人間が知っている事なんて、ちっぽけなものです。
>>852 >何が真宗かは、お聖教によるしかないと思います。真宗と秘事の違いは教えに根拠があるかないかです。
それで言うと、Wikiと特に矛盾することはないようですね。
Wikiは、様々な研究の結果などを踏まえて書かれているようです。
これを否定されるのであれば、お聖教や、他の研究文献などから、
論拠を挙げていただきたいと思います。
>>859 お答え、ありがとうございます。まとめますと、7さんは、浄土真宗の中でも、
「赤子でも獲信できる」「特別な方法」があると言われるわけですね。
ではこの「特別な方法」と、7さんが言われた「弥陀たのむ方法」とは
どのような関係があるのですか?
>十劫より昔に信心決定した証拠として
難しくてすみません。私の理解を書きます。間違っているところがあればご指摘ください。
(口伝抄のお言葉)
「久遠の昔からの全ての仏様が、阿弥陀仏の弘誓によって、
悟りを開き、衆生を助けてくださっていることは、明らかです。」
(六要抄のお言葉)
「過去、現在、未来にわたって途切れることなく、私たちを助けてくださっていることを、
寿命無量と言われています。阿弥陀仏は十劫の昔に成仏なされたと言いますけれど、
最後が抜けましたorz
「阿弥陀仏は十劫の昔に成仏なされたと言いますけれど、
そもそも仏様は常住不変であり、欠如ということはないのです。」
何にもわからぬ凡夫に、わからせて頂くのがお六字の妙味。
智恵のないものが仏智を頂くことが、不可思議です。
怒りや悲しみなどの心のざわめきも、みーんな、広く明るい
功徳の海に溶けさせてもらいます。
これが喜び。
日々起こることすべて、阿弥陀様のお手回し。
お六字となえて、阿弥陀様を思って、いえ、
阿弥陀様に思われて、極楽の日暮らしさせて頂きましょう。
ここ読んでみて、深い議論に感心して
「インターネットで十分じゃん」
て思ったりしてます。
けど、やっぱりそれじゃダメで、「面授口訣」は必要不可欠だったんですね。
>>864 さて、どうでしょうね。
教え上は、インターネットでは信心決定できない、
という結論は出てきません。
読んでいる今も、「聞即信」と救われるかも知れません。
時節場所柄を問わないのが、阿弥陀仏のお救い。
それに条件を付けてしまうのが私たちですけれど。
法然上人は書物を読まれて信を得られたともお聞きしますね。
秘密ぅ〜。ちゅうことをえらく議論のテーブルにのせてますな。
あくまでも、その人その人の問題ちゅうか、ご縁やねん。そういうことは。是非言うてみても意味ないねん。
別に秘されて困るよ〜なことはわてにはありませんがな。そ〜いうことやないのん?
あんな。法然さんは選択集を壁底にしまいなはれ。ちゅうて言わはったんやで。今はなぁ、選択集はネットでも皆読めんねん。
でもな、今法然さんがおられてな、壁底にしまっとけ。ちゅうて言わはったらきっと怪しい存在になるねん。
これはなぁ、法謗の罪つくる人が出ると可哀想や。ちゅうお心やねん。それが抑止ちゅうねんな。
こういう大事なもんがすっぽ抜ける説法はあかんと思うで。すっぽ抜けると宿善・無宿善の分別なぞいらんなるねん。
867 :
729:2009/01/19(月) 19:10:16 ID:Re0R2cHh
>>866 ID:00Ibivw5さん、こんばんは
素朴な疑問なのですが
ID:00Ibivw5さんの流派では、宿善の有無の分別方法ってどうなさっていますか?
私は、分別できると思っていた時期がありましたが、今は自分には分かんないや
って感じです
それと、
>>865の
> 法然上人は書物を読まれて信を得られたともお聞きしますね。
は、法然上人の獲信は面授口訣方式ではなかったということですが
どのように理解されていますか?
私は、まっ、これもありなんでしょ?だから、法然上人のような
面授口訣方式ではない人だっていたっていいよね
って感じで、さして問題視せず今に至っています
>>866 まあ、それほど秘密にする必要があると思っているのなら、秘密にしていれば
良いんではないでしょうか。
でも秘密がある以上は、蓮如上人が戒められた秘事法門であり、異安心である
との評価がついてまわるのは、しょうがないでしょうね。
「それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、
さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものは
ながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。この秘事を
なほも執心して肝要とおもひて、ひとをへつらひたらさんものには、
あひかまへてあひかまへて随逐すべからず。いそぎその秘事を
いはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの秘事をありのままに
懺悔して、ひとにかたりあらはすべきものなり。」(御文章)