【真宗・親鸞】妙好人と学ぶ10【信心獲得(決定)】
482 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :
念仏宗渡海会(私怨の込もった流言飛語)について
検索エンジンを見ると、私怨を込めた根も葉もない流言飛語に、天下の大会社が
大量のリンクを張っている。社会の誤解を解く意味で記載しておきます。
念仏宗渡海会についてリンクを張るなら、社会の公器として社会的責任において、
同じ割合で、今回のこのかき込みについてリンクを張り、根も葉もない流言飛語と
渡海難の発言と、どちらの言い分が正しいか、公衆が判断できるようにしてほしい
ものである。
同じような内容の記述が、随所にコピペしてあるので、流言飛語への反論の対象
として、2ちゃんねる用語サイトの記述をベースにしておく。
(
http://www.media-k.co.jp/jiten/wiki.cgi?%A1%E3%A4%CD%A1%E4)
>2chが生んだカルト教団の一つ。別名「こんにちは会」。
「念仏宗渡海会」は存在しない。「こんにちは会」も存在しない。
>心と宗教板のコテハンで親鸞ヲタの「渡海 難(とうみ かたし)」が教祖として
開いた非認証の宗教団体。
渡海 難は教祖を名乗ったことはなく、渡海難を教祖と呼んでいる者もいない。
存在しない架空の存在であることから、認証などという問題もありえない。渡海難
は、無位無階、一介の無名の念仏者である。仏教はアマチュアである。
>本部は神奈川県横浜市保土ヶ谷区あたり。
渡海 難住所は川崎にある。教団本部があるというのは妄想である。
483 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 14:58:14 ID:rZ6da2xv
>2chでの布教活動を主な活動内容とするため、教団公式サイトは全く更新されて
おらず、誰もアクセスしてくれない。
2chで布教活動は行われていない。教団などは存在しない。公式サイトなど、
そもそも存在しない。存在しないサイトに更新も何もない。
なお、渡海難は、かつて、イーグルヘッド・親鸞庵・おはなし広場・御本典研鑽
集記などにも投稿し、一部はアーカイブされ、インターネットに残っているようで
す。
ただし、確かに、渡海難の発言の舞台は2chが一番多い。僕は自分の仮説を提
起するが、明日は180度変わるかもしれない仮説など、布教教義などにはなりえ
ない。
>浄土真宗の教えすなわち親鸞の思想(教団用語で「親鸞仏教」と呼ぶ)を教義とし
ているが、渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。
教義がコロコロ変わる宗教教団など、存在するわけがない。ばかばかしい。
>ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思想の代弁者となる。
お釈迦さまの代弁者となったことはない。ある時は親鸞思想の代弁となったこも
ない。
渡海難を釈尊の生まれ変わりではないかと、ノータリンに妄想されても、それは
渡海難の責任ではない。ノータリンの勉強不足に過ぎない。
僕は、単に仮説を述べているのに過ぎない。仮説に圧倒的迫力があるとノータリ
ンから思われ、お釈迦さまの代弁者、親鸞思想の代弁者だと妄想さても、こちらは
迷惑千万、うれしくも何ともない。
>大川隆法の「霊言」のようなものである。
大川氏には会ったこともない。関心もない。
484 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 14:59:43 ID:rZ6da2xv
>渡海教祖著「親鸞の思想と教行信証」が聖典
渡海難は教祖になったことはない。教祖と仰ぐ者もいない。思っている者もいない。
聖典などを書いたこともない。
かつて数度にわたり教行信証論を書いてネットに公開したが、全てお蔵入りとして
ある。書いた当時の思想をそのまま維持できなくなっていることによる。
こちらは生身の人間である。考え方は時に応じて大きく変化している。書く内容は
常に試論であり、仮説である。聖典などであるはずもない。
>世界数ヶ国語に翻訳されると渡海教祖本人が称しているが、
世界数ヶ国語に翻訳されると渡海教祖本人が称したことはない。
>翻訳者がいないため未だに翻訳されず。
金を払えば、日本には翻訳者などいくらでもいる。翻訳者がいないのではない。試
論の公表に投資をするつもりはないというだけである。
今は、教行信証論はお蔵入りしてある。改めて書き直す時間もない。アマチュアに
はそんな予算もないということである。
>浄土真宗のお坊さんと「浄土真宗親鸞会」という浄土真宗系カルト教団を敵視して
浄土真宗の坊さんには、是々非々で対応している。結果としてノータリン坊主には
厳しい言葉が向かうことはある。
念仏宗渡海会などという、ありもしない会について流言飛語をでっち上げるような
人物に優しい言葉をかけろと言われても、世の中には乗れる相談と乗れない相談と
がある。
485 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 15:08:07 ID:rZ6da2xv
>ちょうど創価学会が日蓮正宗を「日顕宗」と呼ぶように、自分に都合の悪い者がい
ると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決めつける。
かつて坊さんですねと言われたことが相当悔しいことだったようだ。坊さんとい
う看板が腫れ物になっている。看板が腫れ物になっているという人は珍しい。看板
をおろしたいんだがおろせない。掲げたいんだが、掲げられない。職業がいやでい
やでたまらないんだが、その職業にべったり甘えて浸かっている。複雑な感情が絡
んで腫れ物になっている。本願寺派の世襲坊主だろう。
僕は創価学会を知らない。日蓮正宗も日顕宗も知らない。念仏宗渡海会の流言飛
語者は、創価学会が日蓮正宗を「日顕宗」と呼ぶことには反感を抱いているようだ。
ばかばかしい。流言飛語者は、浄土真宗内の「日蓮正宗」シンパなんだろう。浄土
真宗に「日蓮正宗」シンパがいても変ではないが、そんなやつからカルト呼ばわり
される渡海難はいったい何なんだ?(苦笑)
日蓮正宗を「日顕宗」と呼ぶことはいいことかわるいことか。僕はそんなこと知
ったこっちゃない。関心もない。
渡海難は、「浄土真宗のお坊さんですね」と相手に聞くことはある。そう聞くこ
とが悪いこととは思っていない。
心と宗教板で、しかも真宗を表示している掲示板では、浄土真宗の坊さんはプロ
である。あなたはここの専門家ですねと、専門家に相手を確認することは当たり前
のことではないのか。プロは匿名でもプロらしく発言すべきだろう。プロは、背負
っている看板など、隠そうにも隠せるものではないのだ。
486 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 15:09:00 ID:rZ6da2xv
こちらも感情の動物であり、話しには流れもある。坊さんではないと、匿名で発
言している相手を、「浄土真宗のお坊さん」と言って決めつけて話をしていくこと
もあるだろう。
なお、「親鸞会」については、自分は親鸞会員ではないと言っている相手を、親
鸞会員として決めつけて議論をしたということは、記憶がない。
>また、浄土真宗と異なる点として「座禅念仏」という行を勧めており、
渡海難は、「座禅念仏」という言葉を使ったことはない。着座念仏という言葉は
使うことがある。
念仏は座禅して称えよう。これは教行信証で親鸞が勧めている。しかし、座禅念
仏という特別な念仏が存在すると言えば、これは間違いである。
『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、それ如来、教を設けたまうに、広・略、
根に随う。 〜 父の王に謂いて曰わく、王いま座禅してただ当に念仏すべしと。
「教行信証」の巻である。親鸞は、念仏の方法論を説明するにあたり、中国の高
僧が書いた書を引用する。浄土五会念仏略法事儀讃は、経典を引用している。釈迦
は父君にいう。父君、座禅して念仏をお称え遊ばされよ。
487 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 15:09:50 ID:rZ6da2xv
>「ああ先生」という
南無阿弥陀仏の南無は感嘆詞である。梵語のナーマスの音を漢字で表している。
インドの人は、道で人に会えばナーマスという。別れるときもナーマスという。こ
んにちは。さようなら。おはよう。やあ。ナーマスとはそういう意味である。
感嘆詞には意味はない。しかし心がある。「あなたを信頼しています。あなたの
方も私を今後とも信頼してください。お互いに信頼関係を続けましょうね」そんな
心で、ひとは、こんにちは、さようなら、おはよう、やあなどという。インドの人
はナーマスという。中国の人は、これを漢字で「帰命」と書いた。命とは心である。
帰るとは寄せるという意味だ。帰は寄に通じる。寄命、寄心と書く方が、現代日本
の漢字の意味としてはふさわしいだろう。
阿弥陀仏の阿弥陀は先生という意味だ。仏も先生という意味である。阿弥陀の阿
はインドヨーロッパ語で否定を表す。英語のunに通じる。阿弥陀は中国で無量寿、
無碍光と訳されている。
無量寿は、限りなく継続の命を与えてくれる人という意味だ。もうだめだ。もう
続かない。そう思って絶望しても、その壁を破ってくれる人、つまり先生である。 無
碍光とは、限りない知恵を与えてくれる人という意味だ。足下が暗く、どっち
に行けばいいかわからない人に、何者にも遮られることなく足下を明るく照らして
くれるひと、つまり先生という意味だ。
仏陀とは、優れた知恵を持った人、つまり先生という意味だ。
かつて釈迦は人々から先生と呼ばれた。無量寿・無碍光・仏陀と呼ばれた。阿弥
陀仏と呼ばれた。阿弥陀仏とは先生という意味である。
488 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 15:21:57 ID:rZ6da2xv
>呪文のようなもの(浄土真宗で言うところの名号「南無阿弥陀仏」か?)もある。
念仏は誦文である。
山家の伝教大師は 国土人民をあわれみて 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏
をとなうべし (親鸞著 現世利益和讃)
比叡山の伝教大師は、社会のあらゆる場所で苦しんでいる人々に優しく声をかけ、
様々な苦しみを克服していくのに、南無阿弥陀仏を誦文として称えなさいとおっし
ゃった。
親鸞が最澄のどの文書を見たのか、僕は知らない。しかし、最澄の優しい心と、
最澄のその心に寄せる親鸞の思いは伝わってくる。
>渡海教祖は基地害で電波で独善的で絶対に他人の言うことを聞かない性格で、
なるほど。話は聞いた。念仏宗渡海会というのは、私怨を込めた流言飛語である。
>裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす
身に覚えはない。議論で一方的に負けたという思いがあるようだ。悔しさが晴れ
ていない。
>心と宗教板の住人から嫌われており、
人の評価は様々だろう。渡海難に私怨が晴れない人が、少なくとも一人はいると
いうことだ。浄土真宗の坊主の看板が腫れ物になり、日蓮正宗のシンパである人か
らは、渡海難は嫌われ者ということか。
489 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 15:23:45 ID:rZ6da2xv
>信者数は教祖を除いてゼロである(2001年12月現在)。
信者はゼロ。教祖もゼロ。念仏宗渡海会など、最初から存在しない。
>信者には、渡海教祖に毎月4000円の布施をするよう義務付けられている。
生活に苦しかったとき、インターネットのプロバイダー費用の一部をカンパ金で
賄おうとしたことはある。布施を求めたことはない。義務づけたこともない。毎月
などと言ったこともない。義務と思ってカンパしてくれるような人は一人もいない。
カンパ金のお願いは、目下中止しているが、将来再会する可能性はある。
『起信論』に曰わく、あるいは衆生ありて、善根力なければ、すなわち諸魔・外
道・鬼神のために誑惑せらる。 〜 もしは布施 〜 を説き、これ真の涅槃なり
と説かん。 〜 知るべし、外道の所有の三昧は、みな見愛我慢の心を離れず、世
間の名利恭敬に貪着するがゆえなり、と。已上 (親鸞著 教行信証 化身土巻)
親鸞は大乗起信論を引用し、布施は世間の名利恭敬に貪着するものであると言っ
て警告している。親鸞の教えに布施はない。
無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連にひとしくて 供養
恭敬をすすめしむ(親鸞著 愚禿悲歎述懐)
490 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 15:25:28 ID:rZ6da2xv
流罪により受戒の効果を失い、国家公認の僧ではなくなった。親鸞は、善導大師
の教えに基づく名ばかりの私度僧である。それでも、行も証もなくなったこの現代
にあって、なお人々に念仏を勧めている。これは、釈尊の時代であれば、舎利弗尊
者、目連尊者の行ったすばらしい行為に匹敵するはずである。だからこそだからこ
そ、私はその活動を維持していくために、その目的のため、人々には心のこもった
カンパをお願いしている。
人々が共にあつまり、共に念仏を称えようという場合、舎利弗尊者、目連尊者の
仲間として、必要最小限のカンパを求めることは、親鸞の道である。
一瞬の言葉のやり合いで悔しさに見舞われ、私怨をいだいて流言飛語をコピペし
ている人がいる。そんな連中の発言にいちいち反応するのは不愉快なのだが、google
やgooなどともあろう検索エンジンまで、根も葉もないそのような流言飛語の尻馬
に乗り、インターネットで世界中に喧伝している。
世界的な企業が、人類の公器として、2チャンネルのノータリンの尻馬に乗って
いるというのは実に情けない。世界企業が念仏宗渡海会などの馬鹿話を宣伝してい
る以上、googleやgooなどは相手にせざるを得ない。誤解を解く意味で、今後はこの
記載を、随所に書いていく。