>>339 天理教では当時の大和地方のお百姓さんに対して教えを説いているようです。
まずはこの前提ををご理解下さい。
ふせこむ→伏せて植え込む が原型かと思われます。
種は土の中に穴を掘って撒き、その上に土をかぶせないと、
直射日光を浴びてひからびてしまい育ちません。
つまりは、善行は見てもらうためにするのではない・・・ということでしょうか。
人はややもすれば、「俺はこんな良いことをしたんです。」と言いたくなったりします。
そうではなく、褒めてもらうためにするのではなく、人様に喜んでいただくためにさせていただくことかと存じます。
これは天理教でいうところの「ひのきしん」と意味は違わないと思いますが、
天理教でいう「ふせこみ」の用い方はもう少し限定されているように思います。
@おぢば A上級教会 などで「ひのきしん」をさせていただく時に「ふせこみ」と用いることが多いようです。
しかし、広義に思案してみますと・・・
この世界は神様の懐住まいとも聞かせていただくのであれば、人間として人様のために尽くす行為はすべて
「ふせこみ」であると思案させていただく方が自然かとも思います。
前記で種は土の中に入れないと育たないと書きましたが、それだけでは育ちません。
その種に合ったお日様の光と水の量を必要と致します。
俺はこのお日様の光と水が、ふせこんでいる人を育ててやろうとする思いやり、愛情なんだと思っています。
褒めてやると種は育たないから・・・と言って褒めてあげないと、種は心を倒し、自ら育とうという意思も揺らいできます。
導く側は大げさに褒めてやる。
種側は行為の対価を求めない。
そんな阿吽の呼吸、天理教でいうところの「二つ一つが天の理」がうまく重なり大きく実り、
果実なら甘みを増すようになるのかと思います。
こんな感じでいかがでしょうか?