親鸞の主張と蓮如の主張とを並べてみます。ここに矛盾はあるのか。ないのか。分かるという方が
いれば、ご意見を伺いたい。
昼夜朝暮は、如来大悲の御恩を雨山にこうぶりたるわれらなれば、ただ口につねに称名をとなえて、
かの仏恩を報謝のために、念仏をもうすべきばかりなり。これ即ち真実信心を得たる姿と言えるはこれ
なり。(御文二帳目)
昼も夜も朝も暮れも、我々は如来大悲のご恩を受けている。そうであれば、その仏の恩に報いるため、
常に口にただひたすら仏の名を称えよう。これこそ、真実の信心を得た姿と言うべきである。
一心一向に弥陀に帰命する一念の信心によりて、はや往生治定の上には、行住座臥に口に申さんと
ころの称名は、弥陀如来の我らが往生を易く定め給える大悲の御恩を報尽の念仏なりと、心得べきな
り。(御文二帳目)
二心なくひたすら阿弥陀仏に帰命する。一途に進んでいこうとするその心だけで、もうそれだけで往生
は定まる。阿弥陀如来は、我々を容易に往生させてくれる。そうであれば、動いているときも、止まって
いるときも、座っているときも、寝ているときも、口に称える称名念仏は、阿弥陀如来のそのご恩に報いる
ための念仏である。そのように思うべきである。
蓮如上人の御とき、志の衆も御前に多く候うとき、「このうちに、信を得たる者、幾たりあるべきぞ。一人
か二人かあるべきか」など、御掟候うとき、各々、「肝を潰し申し候」と、もうされ候よしに候う。(聞き書き)
蓮如上人の時代、同じ心を持った人々が上人の前に座っていた。「この中で、信心を得ている者は何人
いるのかなぁ。まあ、一人か二人ではないのか」。このように仰っていた。居合わせた人々は、それぞれ
「大変驚きました」と、言っていた。
本願を疑うによりて、辺地に生じて、疑いの罪を償のいて後、報土の悟りを開くとこそ、承り候らえ。(歎異抄)
信心のない人は、本願を疑うため、まず辺地に生じ、そこで疑いの罪を償って後、報土の悟りを開くと、
私はそのように親鸞聖人から伺いました。