○●Я親鸞仏教質問箱R(その4)●○

このエントリーをはてなブックマークに追加
384渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
 エジプトを脱出したモーゼ一行は、最終的にカナン、現在のイスラエルの地に到達する。しか
し、そのときモーゼは死んでいる。カナンには先住民が住んでおり、モーゼ集団は、カナンの地
を戦争で奪い取る。

 われ降りてかれらをエジプト人の手より救いいだし之を彼地より導きのぼりて善き広き地乳と
蜜との流るる地すなはちカナン人ヘテ人アモリ人ヒビ人エブス人のをる処に至らしめんとす(出
エジプト3−8)。

 モーゼは、エジプト脱出以前、荒れ野で神の声を聞く。エジプトで困っている人々を、エジプト
の手が届かないカナンの地に解放するという。当時、カナンはエジプトの勢力圏外にあったよう
だ。
 聖書のこの記載を信じれば、モーゼはエジプト脱出開始時からカナンを目指していたことにな
る。しかし、最初からカナンを目指していたとすると、モーゼ一行は奇妙な迂回をしている。スエ
ズから直ちに北を目指すところ、紅海に沿って南に進んで彷徨っているのだ。

 聖書の記載に反するが、モーゼはカナン行きに反対だったのではないか。僕の仮説だ。カナ
ン行きは危険が大きすぎる。先住民のいない地で人々が幸福に暮らせる場所はないか。カナン
攻撃は、反対を称えていたモーゼの死を待ち、モーゼの重しが無くなったモーゼの部下達に
よって行われている。

 もともとモーゼは、エジプトを脱出した人々で、シナイ半島の南部に村落国家の建設を目指し
ていたのだろうと思う。国家建設には国家リーダの下で大衆が団結することが必要となる。どこ
かに国家モデルはないか。国家建設に当たってモデルとしては、今まで住んでいたエジプトを
措いて外にない。エジプトをモデルにしながら、エジプトを超えた幸せな国家建設を目指す。
モーゼはそのように考えていたはずである。

 国家にはルールとリーダが必要である。指示命令を発する者と、指示命令に従う者との間に
は、命令と服従の関係がある。エジプトには王がいる。王は神の権威によって国家を指導する。
エジプトは王権神授国家なのだ。モーゼが考える国家像も王権神授国家以外には考えられな
かったろう。モーゼは村落国家の国家神を作る必要に迫られた。
385渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/02/13(金) 10:30:40 ID:TY6JO6Ys
 弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり。(親鸞)

 阿弥陀仏は自然という概念を教えるための補助的手段であるという点と比較すると、根本的に
相違するということを知って欲しい。国家のリーダに神権を授けるという発想は阿弥陀仏に存在し
ない。阿弥陀仏は神ではないのだ。
 神は、自然という概念を教えるための補助的手段ではないということも明らかだろう。