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神も仏も名無しさん:
「卑怯」とはどういうことを指すのでしょうか。「卑怯」の反対語は「義」だと言われています。
その「義」と言う文字は、上が「美しい」と同じ「羊」で、下が「我」です。
つまり、「義」とは「美しい我」ということになります。
では「美しい我」とはどういう自分なのでしょうか。
「義」を辞書で見ると、道理、条理、物事の理に適っていること、人間の行うべき筋道、
利害を捨てて条理に従い、人道や公共のため尽くすこと、などとなっています。
これが古来、義に適った姿であり、美しい自分であると意識されてきたのです。
それは実践倫理でいう「大自然の摂理」に適った姿でもあります。
それに反して、この美しい自分を守ろうとしない者、それが卑怯者であり、卑劣漢です。
先に例を挙げた人たちは、その行為においてはもちろんですが、それが問題化したときの対応が
なんとも卑怯で潔くないのです。
私が一番問題だと思うのは、彼らをはじめとして、この社会のかなり多くの人が、
卑怯卑劣と言われることを恥じなくなっているのではないかということです。
多分義に背く卑怯者であるのも「個人の勝手」だという風潮が蔓延しているのでしょう。
法律に反していなければ罰せられることはない、法の目をくぐることができれば何をやってもよい、
他人にとやかく言われる筋合いはない、そんな恥知らずな考え方が一般的になっているのでしょう。
しかし法に抵触しなければ、どんな自分勝手も非人間的な行動も許されるという社会で、
仕合わせを実現できるとは、到底想像することができません。
私たちは「卑怯・卑劣」を許さない自分を作り上げなければなりません。
「卑怯・卑劣」を許さない家庭を築かなくてはなりません。
学校にも、職場にも、地域にも、そして社会全体にそうした風土を再構築しなければなりません。
子どもたちの中に、「卑怯だ」と言われることが最大の侮辱であり屈辱であると感じる心を育てなくてはなりません。