では、こっそり長崎紀行投下。
行きは寝台急行はやぶさだったのですが、
同じコンパートメントのご家族、特に奥様がお喋り好きで、
初対面からいきなり団欒しながらの夕食となりました。
そして長崎着。喪黒系…どんなのが来るかとびびっていたら
何のことはない、ちょっとお喋りの苦手なすらっと背の高い紳士でした。>釈さん
まずは中町教会に連れて行ってもらい、お店やお堂をひと巡り。
被爆物件とは信じられない程、立派に補修がなされていました。
ちょっと本題からズレますが、私が長崎に来て最初のショックは
はやぶさの車窓から、「長崎原爆病院」の看板を見た時でした。
その事を釈氏と売店におられた方に尋ねたのですが、
「へー、そーぉ?」位の軽い反応。ショックです。
その後、ちゃんぽん(美味しかったです)を食べ、
チェックインを済まして大浦天主堂へ。
おそらく長崎の住人ではないであろう、シスターの方々が沢山。
尋ねてみたら、青森からお越しとの事。
大浦天主堂は、とても色彩の美しいゴシック建築?ですた。
そしてそこから、聖母の騎士修道院&学園へ。
コルベ神父記念館の前に、像がありまして、
てっきり神父と思いきや聖フランチェスコの像で、
心の中で「置く位置違うだろ!」とツッコミ入れました。
聖コルベ記念館では、彼の遺物はもとより、
長崎にて伝道活動に従したゼノ神父の遺物が多数あり、
その中に被爆者手帳があるのを見て、泣きそうになるのを堪えました。
ゼノ神父の写真集を購入したら、おまけにメダイを2つ頂きました。
あ、そー言えば。聖母の騎士に辿り着く坂道に、何故か蟹がいましたw
その後は、カステラの福沙屋本舗まで訪れ、
ミスドで空腹を癒してホテルへと向かいました。
夕食用にと、釈氏が佐世保バーガーテイクアウトを奢ってくださり、
充実の夕食ターイムを過ごす事ができました。
バーガーショップで世話してるらしい野良猫がめっさ可愛かったです。
後編に続く…おやすみなさいw
こんばんは。
私が夭折願望を持ってたことでロジータ女史を悲しませてたとは思いもよりませんでした。
ゆうべは押し入れから日野原重明著「死をどう生きたか」という本を引っぱり出し、
日野原先生が最後を看取った、35歳で亡くなった千浦美智子さんという人の話を読みました。
その千浦さんは、親より先に亡くなることと、子供を置いて言ってしまうことを
申し訳なく思ってたようです。
また、この本とは別の話ですが、昭和45年、原爆病のため32歳で亡くなった
小学校教諭の山口竹子さんも教え子を残して逝くのを残念がったようです。
これらのことを読むと、なんと私はもったいないことを考えてたんだと
山口先生や千浦さんに対する申し訳なさでいっぱいです。
今後も難儀にさいなまれるたびにこの世を捨てたくなる衝動にかられるかもしれませんが、
その時には上記の2人を思い出し、どうにかこうにか・・・と考えてます。
>>302 原爆病院の看板でショックを受けるのなら、原爆資料館なんか
私がついてなければ見て廻れないかもしれません。
でも原爆資料館には一度は行っていただきたいんですよねぇ。
ミサママ女史が娘さんに原爆の悲惨さを語り継ごうとしてるように、
私も父親から原爆ゆかりの場所に連れて行ってもらいました。
先日は長崎の華やかな一面を味わいましたが、今度はあまり気乗りしないかも知れませんが、
長崎の悲しみも味わっていただきたいと思ってます。
こんな時間に目が覚めましたよっと♪
私が長崎を知ったのは、華やかよりも凄惨な過去の方が先でした。
父親がですね、かなり左寄りでして。原爆パネル展とか個人でやってたんす。
おやつを食べる小学生の横には焼死体のパネルが山積みですよ…
猟奇殺人犯の心理に興味があり、その手のサイトを廻っているので
悲惨写真の耐性はバッチリです。
次に訪れた時は是非、資料館に連れて行ってくださいまし。あと出島!
女子高生だった時分には、アウシュビッツ展で貧血を起こしましたが
今の自分なら多分最後まで見て廻れるっす。
原爆病院がショックだったのは、病院名に原爆ってありかよ…な気持ちでした。
まず東京や東北では絶対に見られないものだからですからね。
あ、あと一つ。何があっても自分の人生ノリセットボタンを自分で押してはダメですよ。
釈さんは、かなり主に可愛がられてる方と感じます。
私は幼少時より、主に可愛がられるというか、えこひいき?されて育ってきたので
釈さんが神に愛されてる人物というのはバシバシ感じました。
折角目も覚めたことですし。長崎紀行の続きを書きませう。
佐世保バーガーで充実の晩餐。
当日は明日に備えてさっさと寝ました…
さて、起きてファミマで腹を満たし、向かった先は列福式会場。
着いた時間がかなり早かったせいもありますが、運営gdgdw
ただ、スタッフの方々が、たらい回しにされてる一般公募の私たちを見て憤り、
その義憤によって、無事会場の席に着くことができました。
一般公募席、外野の超末席w雨ざんざん振りです。
ただ、その雨と晴れ間の間に虹が出た事。
ペトロ岐部の名が呼ばれる度に、雨脚が強くなった事。
沢山の殉教者の方々の、嬉し涙と思えました。
雨脚が強くなる度、まるで殉教者の方々から
涙ながらの接吻を受けているようで、嬉しくも切なくなりました。
続く…おやすみなさいw
私の身をここまで案じて下さるのはロジータ女史が初めてだと思います
これこそ神様のおはからいかな(涙)
私は只今梅田のホテルでスーパードライのロング缶を飲み干し、ほろ酔い加減です。
明日の朝上洛する予定です。
いよいよ式が始まり、入場なさる枢機卿&その他の方々。
お偉いさまの入場なので、当然観衆は立って出迎えるのですが、
レインコートの内側ひざの上に濡らしたくない鞄を持ったまま立ったので、
懐かしの「だっちゅーの」状態のポージングで30分。
いつも使わない筋肉をかなり使いましたw
その後、無事殉教者の方々が列福されたのを見届け、
後ろ髪引かれながらも中座して、長崎駅へ。
せめてカステラでも…と思うも、駅到着の3分後にかもめ発車w
ダッシュで乗り込んだので、結局お土産はまるごと無しになってしまいました。
その後、博多から新幹線にちゃんと座って乗れたのですが…
新幹線に5時間乗り続けるのがこんなに辛い事とは思いませんでした。
新大阪あたりまでは寝ていたのですが、その後完全に覚醒。
名古屋から新横浜までが長かった…何度も外を見ては、
看板などに「浜松」「沼津」などの地名を見つけては舌打ち。
「小田原」「湘南」が出てきたあたりでガッツポーズ出ました。脳内で。
その後は東京駅より無事自室まで帰り着き、
明日に疲れを残すまいと焼肉食べて早寝しました。
あのいろんな意味で嵐のような週末から、もう一週間経つんですね。吃驚。
という訳で、釈兄さん、改めてお世話になりました!