A・スマナサーラ☆ヴィパッサナー瞑想法Part.6
1 :
神も仏も名無しさん:
2 :
-:2008/04/13(日) 13:00:30 ID:6F9lsLaJ
-
スレ立て乙です!
>>1 「私」とは何か?
__________
l|| .| ||l ゴウン
i|| !_________||l ゴウン
l|| \ _,,..,,,,_ _,,..,,,,_ l\
l|| \ ./・ω・ 三 ・ω・ヽ \
i|| ゴウン\゙'〜〜〜〜〜〜'゙ \ ヽ
l|| ゴウン \ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
i|| .!|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||l
l|| .!|| ||i
超えられるべきところの妄想である
>>4 なんで翻訳文調w あと主語をかいとくれよ。
いちょつ
久々の7ゲット!
長老が、産まれた時から預流果だといっていた
J・クリシュナムルティが本に書いてたけど
真理を知る、悟るということは手に持っている
タバコをポイと捨てるようなものだと・・・
人生とはタバコという麻薬のようなものなんだよね、きっと。
さりとて覚せい剤ほど強くはないんだろう。
何故だかタバコをポイと捨てると酷い目に合わされると思いこんでいる。
なるべく人に迷惑かけないようにこっそりタバコを捨てたいと、人目を気にしている。
そんなこと考えてると永遠に捨てられないんでしょうね(´・ω・`)
というよりタバコをやめられないと
おもってるんだね。
やめてしまえば大したことないのに。
中毒になっていて。
自分も久しぶりにビールを飲んじしまったよ。
昼寝までしちまったぜ。
まずそもそもここに来ること事体が不善心所だよね。
俗世間は苦から逃れるために刺激を求めると知って
すべて空しく、今まで苦しいながらも楽しんでいたことは
一体なんだったって思うと頭がおかしくなりそうだった。
今はあきらめの境地。でも自分の行動に何気サティが入ったりしてw
クリシュナムルティが預流果じゃ、どうすりゃいいのと妄想してみる。
(なんてことだ!うれしくなることも、がっかりすることもなくなるということは・・・・・・?)
パパは、嵐をついて舟をはしらせながら、考えていました。
(もう、誰も好きになれないってことだし、怒ることも許すこともなくなって、ねむることも
寒くなることもなければ、誤解することもない。お腹がいたくなったり、またなおったりも
しないし、誕生日を祝うこともなく、ビールを飲み過ぎて良心がチクチクするのも、
なくなるってことなんだ・・・・。いやだいやだ、まっぴらだい!)
by ムーミンパパ(ムーミン谷の仲間たち より)
>>11 個人的にはJは覚者だと思っているよ。
じゃなきゃあんな本書けないよね。
ダンテスが20世紀最大の救世主って言ってるよね。
連投スマソ。
16 :
神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 22:44:14 ID:hdhGdDqT
なんか慈悲の冥想してて自分は善人になったような気がしてたけど、
テレビ見てたらずいぶん気に入らない奴が多いことに気づいたよ。
表側しか知らないのにおそろしいね。あはは。
俺はオナーニがやめられません。たまに一念発起したつもりでオナ禁10日くらいして味気なさを感じてリタイアして、またオナ猿に戻っちゃう。
現実原則を受け入れなければ幸せになれないのは頭ではわかってるのに。
>>16 以前に誰かが、それに気づくのが慈悲の瞑想の本当の目的だということを言っていたような。
慈悲の瞑想とヴィッパサナー瞑想はまったく違う修行ですが、慈悲の瞑想も当然必要です。
それをしないと、人間関係はうまく行かなくなるのです。
慈悲喜捨の瞑想は、「どうすればみんなと仲良く幸福で生きていられますか」と言う問題に答えて
くれる。ヴィッパサナー瞑想は、「生きること自体をどうやって乗り越えられるか」と言う問題に答え
を出す。だからまったく正反対なのです。生命と一緒にどうやって生きていられるか、ということと、
どうやって生命と関係なくなるか、どうやって輪廻から脱出するか、と言う二つだからです。
ですから、この二つを二つとも実践しなければいけなくなっているのです。解脱と言うのは、生命の
次元を超えている話ですから。そして人間というのは生きている間は、生きていなければいけないの
だから、解脱できるほど正しく善くいきるためには、慈悲を忘れるわけにはいきません。解脱を体験す
るときまで、慈悲でなければ生きていられない。慈悲でないと、我々は生かしてもらえない。生かして
もらえないと解脱できない。だから慈悲が必要になるのです。
解脱したら?解脱してもすぐには死にませんから、やっぱり慈悲喜捨は必要になります。
そのときは、悲だけでいいのです。「私は大丈夫ですけど、あなた方を助けてあげます」ということで。
慈悲喜捨の四つとも、悟る心には生まれません。理由は、悟る心は、生命のことを考えていないから
です。悟る心は無常のこと、苦のこと、無我のことを考えているのです。
「生命の苦しみをなくしてあげよう」などと思ったりすると、悟りの心じゃないのです。
それは輪廻を見ている心です。「ああ、みんな幸福で生きているんだなあ」と喜んでしまうと、また、
輪廻に定着している心ですから、悟る過程に入らないのです。・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
完全に悟りを開いた方でも、涅槃に入られるまで、生命として生きているのです。生きると言うことは、
他の生命と関わりを持っていることです。「生命との関わりは慈悲喜捨であるべきだ」と言うのは、
ブッダの言葉です。ですから慈悲喜捨を無視することはできないのです。このポイントは、凄く
ていねいに理解しないと、大変な邪見になります。
・・・・・・・・・・・・・の部分は以下
時々考えすぎの人がいて、「生命と言う実態はありません。すべては無常です.輪廻は苦です。
‘生きとし生けるものがこうふくでありますように‘と言っても、輪廻であるのは苦のみ。ですから、
慈悲の瞑想はする必要はない」と考えるのです。
慈悲を否定することは善くないことです。
実践の方法から見ると、慈悲とヴィパッサナーは背中合わせになって、逆方向を向いているように見えます。
慈悲の冥想はすべての生命の幸福を願うことで、『生』を認めています。ヴィパッサナーは個人の解脱を目指して、
『生』を脱出しようとしています。
しかし慈悲の冥想実践の中身を少々考えてみてください。
まず自分が幸せであるように念じて、「個が幸福に生きていきたい」という当たり前の事実を確認します。
次に、自分に関係ある人々もまったく同じ気持ちでいることを理解し、確認します。
そこで、我々が、幸せに生きていきたいという立場になります。『個』に限っていた理解が、『我々』という
次元まで大きくなったのです。次に、我々だけではなく、いかなる生命でも幸福に生きていきたいということを理解し、
確認します。結果として「幸せになりたいのは誰ですか」と聞くならば、
「私ですよ」という答えではなくて「一切の生命ですよ」という答えになります。
『個』の次元が『我々』に成長し、次に『一切の生命』という次元で見られるようになります。
慈悲の冥想実践とヴィパッサナー実践は背中合わせで進めていくように思えますが、
道は輪になっています。どこかで顔を合わせなくてはいけないのです。
世の中の人々に対して、限りなく優しさをもつべきですよ。
いい人には慈しみで、悪い人はつぶすということは論理的ではないんです。
悪い人に限って、もっと、何倍も優しくしてあげなくちゃいけないんです。
その人はもっとものごとをわかってないんだから。
慈悲はそういう教えだから、戦いの論理で生きている現代人にとっては
私が正義だ、相手は正義ではありません」と。そういう戦いの世界の人には、
そういうことは論理的だと分かりません。それはしょうがないしね。
ブッダの教えをとにかく実践すると、いいことになる。それは論理的だからね。
小さい子供のときに道徳が叩かれてないんだからね。「精神の世界が一番大事ですよ」というね。
仏教国では、「ご飯を食べることよりも、道徳を守ることの方が価値があるんだ」と教えられます。
よい行為は、自分にも他人にも、よい結果をもたらすものです。
自分の見返りだけを計算すると、一方的になり、純粋に清らかな行為にはなりません。
善悪判断も正しくできなくなってしまいます。
よい行為の自分に返ってくる結果は、自然法則として必ず出ますから、
見返りを計算する必要はまったくありません。
慎重に計算すべきなのは、
自分の行為が他人の役に立つか立たないかということだけです。
人の役に立つ行為であるならば、ためらうことなく実行すればいいのです。
正しい(中道的)行為は、論理的にいえば、自分の心も清らかになる。
自我も徐々に弱くなる。
他人に対してもありがたい結果になる。
よいことをしてもらった側も、「申し訳ない。借りができた」などの重みを感じない。
よいことをする側も「よいことをしてあげたのではないか」と思うことなく「当然なことでしょう」と思う行為なのです。
行為に際して前提として決めるのではなく、ケースバイケースで、
そのときそのときの条件、環境の中で判断して行うのです。
障害児に手を貸すべきときは貸してあげる。
障害児が自分でやった方がよいときは手を貸さないで知らんぷりをする…というように行動するべきです。
鳩にパンをひとかけら投げてやると喧嘩するので「あげません」と思うのは、
鳩の世界の「王様」気分でしょうか。鳩の世界のしきたり・習慣は鳩たちが決めると私は思います。
一羽の鳩でも食べられるパンのひとかけらを、大層なことを考えて生ゴミとして燃やす場合、どんなよい結果になるのでしょう。
どこまでを見極めればよいか、おそらくわからないでしょう。それは何でもかんでも、
何かの単純な定説で決めつけておこうという極端な思考から生まれる考え方です。
中道の人は、前提として決めつけるのではなく、ケースバイケースで判断するのです。
ということは、ある時間ある場所で行ったよい行為は、違う時空関係ではやらない方がよいかもしれない、ということです。
最近、感覚や感情が現れてから消えるまでの心のプロセスとして見えるようになってきた。
ただ能動的に行動しようとする瞬間は見る余裕がまだ持ててない。
25 :
神も仏も名無しさん:2008/04/14(月) 07:59:02 ID:nvd2bk/R
慈悲の瞑想はサマタなんだから、
慈悲の意味とか妄想するより、
雑念が入らないよう念じ続けることが大事では?
講演の記録じゃないの
アド張ればおk
自分を変える気づきの瞑想法は持ってるんだが、
DVD-Rの「ヴィパッサナー実践&慈悲の瞑想」も買ってみた方がいいかな?
持ってる人いたら感想聞かせてください。
>>30 これ意味有るの?
日本国の政府に対しても、チベットの問題を解決するために
積極的に動いてくださいますようにお願いいたします。
こんなん載せてるだけじゃ効果なくね?
もっと積極的に関わるのかと思ったがこれじゃ
ただここでだべってるだけの輩と変わらないではないか。
小乗が大乗を援護してるんだぜ
だから小乗は現代では存在しないっつうの。。
>>29 初心者向けです。その本を持っているなら、いらないかも。
だいたい、どこも売り切れっぽいですし。
だからといって売り切れ前に必死で求める程のモノでもないかもしれません。
35 :
brown:2008/04/14(月) 23:36:24 ID:Ywbe1VQ7
>>17 問題ありませんね。
朝起きたらタッテイル。便がたまれば催す。お腹に食物がなくなり,
血中のなんとかホルモンが何とかしたらお腹がすいたということになって,
食べる。十何時間も起きていたら眠たくなったので寝る。熱い物に触ったら
本能的な反射で手を引っ込める。
というくらいに考えればよいですね。
そんなことより,恋愛をした方がいいですね。
そしてそれから解脱した方がいいですね。
brownには失望した!(笑)
brownがんばれ
チベト問題が盛んになり、
よくテーラ系の方もyoutubeなどの地上波のテレビ番組をはってたりするんだけど
あれ、up主も著作権であれだけど、貼り付けて見るように促してるのも
盗みの戒律にかかってくるよね。
その辺わかってらっしゃるんだろうか? あるいはそういう解釈をしてないのかな?
38 :
智子:2008/04/14(月) 23:49:27 ID:t3ds3IPx
真面レスしているお前ら死ねよ。カルトな糞お前ら死ねよ。お前らは社会のゴミだ、基地外め、とか酷い事を言うつもりはないよ。
ただ、お前らは生きている意味が無く、価値もない。俺は本気でお前らカルトの方々が死んだら良いと思っています。
自分の心臓に包丁を突き刺して下さい。
本気でそう思います
39 :
神も仏も名無しさん:2008/04/14(月) 23:52:44 ID:nvd2bk/R
>>38 他人の死を望むあなたは、カルトよりも上?
40 :
brown:2008/04/14(月) 23:55:20 ID:Ywbe1VQ7
ははは。これはしかし真面目な話なわけです。
もし誰でも,正サマディーを行じることができるようになったら,
その状態でオナニーやセックスをしてみてください。
味覚を楽しんでみてください。怒りを起こしてみてください。
非常に面白いことが分かるでしょう。
そういう知見が本当に重要なわけです。
最高の「智慧」とはどういうことなのかが如実に分かるでしょう。
智慧には何段階ものレベルがあるわけです。
少なくとも,これを達成するには,テンプルで座禅したりして,
日常生活から離れた禅定では達し得ないですね。
禅定が生き生きとした輪廻の活動のただ中で起こっていなければ,
そのような企みを抱くことすらなりませんね。しかし,このような
ことを試していけば,やがて輪廻と涅槃の垣根が取り払われることに
なりますね。まあ初めから無いわけだけど。
41 :
智子:2008/04/14(月) 23:56:08 ID:t3ds3IPx
俺は無宗教だよ。
お前ら自然の摂理って奴を知らんのか
お前、死ねや
>>34 ども。長老実演ということで気になったのですが必要ありませんか。
ちなみにDVD自体はテーラワーダHPから買えるみたいですよ。
brownさんは立川流密教の人だな!
智子ちゃんに何か良いアドバイスをお願いします
44 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 00:30:15 ID:59PL64Pj
brown所長は悟りの状態からの見解だからな。
真剣に読まんと損だぞ。
本やDVDもいいけれど、結局は教科書通りでなくても
雑念や妄想がポロリと剥離して、それ以上の二の矢を
受けなければいい・・・
自分自身のそんな感覚を大事にすることがいいよね。
馬鹿は死ななきゃ直らない・・・・・じゃなかった!
馬鹿は死んでも直らない!・・でしたよね。
>もし誰でも,正サマディーを行じることができるようになったら,
その状態でオナニーやセックスをしてみてください。
ふーん面白そうですが 具体的にどうするの?
僕の中ではほとんどbrownさんアホ確定しました w
輪廻から解脱することと
ニヒリズムや唯物論のように、最初から輪廻は存在しない。
結論は一緒だよね?わざわざ解脱する必要はないよね。
50 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 03:27:36 ID:2w68w1MR
そもそも本当に解脱などというものがあるのか?
仮にあったとしても個での解脱は不可能のような気がする。
宇宙全体の解脱ならば納得できる。
51 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 04:29:29 ID:mIkIFF/7
俺は逆に輪廻なんてないと考える方が不自然な気がするな。
今でさえこんだけ凄いエネルギーで自分から自分へ転生してるわけでしょ。
仮にそれがないとしても
やっぱり自分なんてただの現象なんだって心底実感しないと
ガンを宣告されたときに俺の場合は大パニックになるだろうね。
52 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 04:49:54 ID:2w68w1MR
>やっぱり自分なんてただの現象なんだって心底実感しないと
変滅している以上現象であることは疑いの余地はないね、
どうみても実在ではない。
53 :
51:2008/04/15(火) 07:47:32 ID:mIkIFF/7
いや、要するに来世があろうとなかろうと預流果にはなりたいなと。
生まれ変わっても今の自分のことは忘れちゃうだろうけど。
54 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 08:01:14 ID:MQfLD3df
原価数千円の身体が死んだら焼かれたり埋められたりして分解されたりして
また別のもんに変わる訳でしょ。それって充分輪廻だよね。
問題にしてんのは私と認識してる意識なんだけどやっぱ解脱でもしないと解らないね。
解ったような解説だと魂だの宇宙だの霊だのと眉唾のオカルトしか無いし。
そうゆうのに限って何でも知ってる口ぶりの解説で思わず笑ってしまうw
ヒンズー教みたいな観念的な六道輪廻は無いと思うけど、
万物流転という意味での転生はあり得ると思うよ。
4時半頃カキコしてる人って
寝るのが遅いの?それとも起きるのが
早いの?
>>40 >サマディーを行じることができるようになったら,
>その状態でオナニーやセックスをしてみてください。
その状態だとやるきもなくなっちゃった。やろうとしてもリアリティに圧倒されて、
イメジがはたらかず刺激にいたらず。
怒り、味覚も同。
というわたしの見解。いかがですかbrownさま。
>>56 夜勤帰りかも知れないだろ。
他人の事をとやかく言う前に自分を浄めなさい。
結局ヴィパッサナーって感受性を高めていく訓練なのかな?
気功も自然の感覚に気づいていくことが目的なんだが似てるのかもね。
60 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 21:42:42 ID:/kjDehoV
>>59 安易になんでも一緒くたにするのはどうかと。
61 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 21:51:27 ID:/kjDehoV
vippassana Q&A 63 で検索したら、ヴィパッサナーに関するQ&A が見られる。
けっこう参考になりますね。
ヴィパッサナー瞑想では
「頭の中のおしゃべりをやめなさい」
ということなのだけど、
現実を現実のまま観察する際に、「雑念」「妄想」「感じている」・・・
などのラベリングをすることそのものは「思考活動」だから
絶えず頭の中でお喋りしていることになって気が休まらないのじゃ
ないの?
中村天風先生の話じゃ、天の声を聞くことで心を執着から離して
休ませる。それによって人間の本然の力が働き出すんだよね。
サティも入れない、サマタで一点集中もしない。
そんな余計なことを一切しないのが本当はいいのじゃないのかな。
63 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 22:06:07 ID:/kjDehoV
>>62 無念無想をめざしてるのとは違うのでは?
妄想を速やかにカットするための
ラベリングではないでしょうか。
>>62 ホームページでは・・・「サティで思考を使うんだからね」
という風にあったような
つまり、妄想をしてしまう一般的な思考活動を
「雑念」・・・と入れる(違う思考をする)ことで
止めるということになるよね。
それは、ビートタケシ先生のおっしゃっていた
歯が痛いときには目に針を刺す。
「目の痛みで歯の痛みを忘れる」的解決法に
なるってこと?
66 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 22:29:33 ID:2w68w1MR
>>65 そうではないと思うんだけど、ではどう違うかと言われれば
説明できない。
そもそも何故サティを入れることによって思考の連鎖が止まるのか、
そのメカニズムを説明出来る人っているのかな?
>>65 雑念を払う、というよりも
"今この瞬間をありのままに観る"という過程を通じて気づきを行う・・・
・・・と認識してるんだけどね
ページには、詳しく書いてくれてるよ
68 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 22:32:05 ID:/kjDehoV
>>65 ありのままの感覚を、判断や解釈を加えないでただ見守るために、
余計な妄想を速やかに止めるのでしょう。
ヴィパッサナーは「ありのままに観る」こと。
漢字の仏教用語で言う「観」「観察」ですからね。
69 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 22:38:21 ID:/kjDehoV
言語的な思考は、現実に関係なく暴走しやすいからね。
たとえば、「うさぎの角」とか、実際には無いことでも、
言葉の世界ではつくってしまえる。
言語による思考は、現実のありのままをおいてけぼりにして暴走しやすい。
だから、言語的な思考をわざと止める。
うさぎを見て、「うさぎに角がはえたらおもしろいな」なんて妄想しちゃったら、
もう意識はありのままのうさぎから離れている。
気が付けばうさぎはどここに走って逃げてしまってたりする。
70 :
智子:2008/04/15(火) 22:39:56 ID:618z5Mz0
糞カルト、もう辞めろや
71 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 22:51:38 ID:OVS6UX3F
最近インターネットで引きこもりやニートやフリーターのことが取りだたされていますが、
彼らが瞑想とかに熱中することはないのでしょうか。
そうじゃないと、(悟りを開く以前に)親を殺しかねないということがネットで書かれています。
特に「限界ニート(40歳以上の引きこもりのこと)」と呼ばれている人種に
「追い詰められて餓死する前にせめて心地よく生きていく工夫を。」
とこの瞑想法や、A・スマナサーラ長老の「パーリ語の経典CD」をお奨めしたいです。
それ以上のモノは殆ど買わなくていいから。というか一度そういうものにはまりだしたら、
外に出る気になって働いてでも書籍を買いたくなるでしょう。新書ならそんなに高くないので頃合いを見て
タイミングを計ってブックオフなどで購入すれば気が楽でしょうし。
耳を閉じている人に言葉を話しても聞こえませんし
目を瞑っている人に絵を見せても見えません
ましてや"宗教"と見られると日本は手厳しい
長老が養老さんと話したり テレビに出たりして・・・柔らかく見えるようになったかも
74 :
智子:2008/04/15(火) 23:26:57 ID:618z5Mz0
>>72、オウム真理教と同じお前ら。
犯罪者予備軍
75 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 23:38:05 ID:/kjDehoV
>>74 仏教団体は無差別テロを扇動したりしませんよ。
オウムを止めるように話に行ってたんじゃなかったっけ?
>>74 自慢するわけじゃないですが僕は昔人命救助で表彰されたことがあります
(新聞にものりました)
寺和田は2年前まで会員です
ちょっとエキゾチックで瞑想をやるということだけで
そういう印象を述べられるのはどうかと
>>60 似てるってだけで一緒とは言ってないよ
むやみによく知らずに判断するのはどうかと
80 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 23:44:13 ID:/kjDehoV
日本の既存宗派の僧侶でも、
スマナサーラ長老やテーラワーダを支持してる人がいますよね。
そういう人々が増えて、日本人に馴染みのある
「お寺」を介して人々に接する機会が増えれば、
怪しまれることが減るでしょう。
片仮名の横文字の教団名だと、知らない人は新興宗教だと思ってしまう。
>>80 それはちょっとあるかも。
でもテーラワーダより古いとこってほとんどないんじゃないのw
82 :
智子:2008/04/15(火) 23:48:46 ID:618z5Mz0
神を信じる人間はキチガイ
周りの人間を巻き込み全てを不幸にする
うざ
>>82 安心しろ、ここは神信じてる人は少ないと思うぞw
84 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 23:50:01 ID:/kjDehoV
そういえば、日本で違う宗派の僧侶が合同で法要をやるときには
歴史の古い宗派の僧侶が上座に座るっていう話を、
何かで読んだことがあります。
その慣習が本当なら、テーラワーダの長老は必ず上座ですね。
85 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 23:53:03 ID:gE22/W1s
だから、上座仏教なんだ!w
86 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 23:54:14 ID:/kjDehoV
>>82 なるほど。
宗教といえばニュースに出てくるような
カルト宗教のイメージしかないんだね。
カルトだからニュースになってるわけで、
まともな宗教はあまりニュースにならない。
ここはage推奨ですか?
みんな、一日どのくらいヴィパッサナーおよび慈悲の瞑想実践してる?
やっぱ、朝晩一時間くらい?
たまに思い出したときだけ一日数回くらい?
慈悲は気づいたときに数回から数十回
歩行は散歩がてら30分・・・というのを昔はやってた
歩行+座ってのセット時間があったよね
朝40分、夕飯前40分、で1夜5分くらいジヒる。
あ、
で1夜5分くらいジヒる。 ×
で夜15分くらい ○
少ないかな
神・・・「雑念」とサティを入れる
それはともかく、
>"今この瞬間をありのままに観る"(
>>67)
>ありのままの感覚を、判断や解釈を加えないでただ見守る(
>>68)
・・・というのは「認識」で良いですよね。
で、その「認識」に対して「見ている」とかサティを入れることは
「思考」作用ですよね。
いわゆる「妄想」も「雑念」も「思考」ですから、サティで言う「思考」と
「妄想」が出てしまうときの「思考」とは、「思考」の質が違うのだということで
とりあえず理解しました。
言い換えると、
>余計な妄想(
>>68)としての「思考」と、そうでない(認識したものを客観的
かつ単純な言葉で表現するに留めるだけの言語選択としての)「思考」の
違いかな。ともあれ、「思考」はしているから頭は休まっていないのだけど、
でも、心は安まっているということなのかな。
雑念、雑念、雑念とラベリングで消そうとするのはどうかと思うけどな。イラがくる。
ただ「あ、考えてる、感覚に意識を戻そう」、その繰り返しでいいと思うけど。
妄想や思考は過去に属するし、気づきは現在起こっていること。
それだけはなんかわかる。
>>93 自分の場合は過去の失敗やら、ひらめきやら出てきて もう大変ってのが。
人によって違う・・・だったような
とりあえずテストみたいにやってみたらどうでしょ?
休まる、というか覚醒する手段だったような どちらかと言えば冴えた
>>94 うまいね。
自分は、どうやって表現すればよいかで混乱中ですよ。
一つ心でつぶやいてみたものの、「あっ、この言葉は抽象的すぎて
良くないな。言い直そう・・・」とか言ってる間に観察を忘れ、言葉遊びに
なってしまって・・・
>>97 今下までトイレに行ったけど、
おしっこをしているときの表現だけ思い浮かばなかったw
ただ尿道口の感覚だけ感じてみたw
>>80 しかも、ゴータミーはビルだからなぁw
個人的には純日本建築のが落ち着く
仏像もあんなグロスゴールドじゃない方がいい
ガンダーラ仏が理想的だけど、って
俺、日本建築って言っといて言ってることめちゃくちゃだな
100 :
brown:2008/04/16(水) 01:10:08 ID:InJalBRw
>>57 違いますね。
もうビンビンですね。快感もどうかするくらいの爆発ですね。
味覚も視覚もまばゆいほどクリアーですね。常にどの瞬間も今生まれた
ばかりじゃないか?と勘違いするくらい新鮮ですね。
それらの欲望の感情を追いかけていくと,それは勝手に,純粋な解放された
心全体を満たすようなエネルギーの塊に変容して体中を突き抜けていきますね。
一瞬一瞬で,体験は完全で,ああ生まれてきてよかったという喜びですね。
欲望というのは喜びですね。それは解放された,限りない快楽ですね。
どこにもこだわりも,ひっかかりもなく,執着のない欲望の本質とは,
純粋な喜びのエネルギーですね。一瞬で完全な満足があり,それ以上は
何も要らないですね。しかも,全く不要であるのに,次の瞬間も,
巨大な快楽が襲ってきますね。そしてそれは何年たっても常に新鮮ですね。
慣れたり習慣化することがないですね。
つまり,欲望や感情,思考,感覚,これら輪廻なるものが,なぜ苦しみを
生み出すのでしょう?それは,単に,心が散漫だからですね。常に何か
にこだわって,常に何かを気にかける第二の意識があるので,貴重な新鮮な
経験を常に破壊し続けるので,他に何も求める必要のないものを常に
どこか他の場所,別の時に求めてしまうからですね。散漫を生み出している
のは,心のこだわりですね。自分自身でなぜだか知らないが作り出した,
仮設したこだわりですね。ただそれを手放すだけで全ては常に新鮮な快楽の
海に変わりますね。
>>100 横槍ですが 取っ払って サマタやってみなさいってことですかね?
ほんとっすか。
お釈迦様は一切は苦だって言ってるのと矛盾しませんか。
それって涅槃のはなしですか。
103 :
brown:2008/04/16(水) 01:25:01 ID:InJalBRw
>>59 >>65 ヴィパッサナーというのは,要するに,自分の存在に責任をもつということ
ですね。どのような醜い現れであろうが,どのように散漫で,真如から
かけ離れていようが,あれやこれやの哲学説や宗教論,倫理などへと欺瞞を
起こすのではなく,他ならぬ,ここにこうして生きている,今生きている,
過去に色々な過ちを犯してきた,無能な,醜い,この私の全存在に,そのまま
に全責任を私はもちますよ,ということですね。ヴィパッサナーでありの
ままに見る私の心の状態以外のことは全て欺瞞に過ぎないわけです。
「怒ってはいけない」,「思考してはいけない」,「妄想してはいけない」,
「ラベリングしてはいけない」,「仏教を疑ってはいけない」,「オナニー
してはいけない」,・・・誰が決めたんでしょう?そんなことはどうでも
いいことです。ただ,自分自身の心の状態だけが真実なんです。だから,
いかなる心の状態が生じようが,それはそのままで完全な真実なわけです。
だから,それをただ,ラベリングするだけで,完全な仏陀の智慧そのもの
を成就しているわけです。
このbrownとかいう電波ゆんゆん外道、どっかに消えてくれないかな。
>>103 そうしたラベリングの行く先には何があるわけ?
という素朴な疑問が出てしまう
>>103の文章でした。
>>103 悟りへの道がたくさんあるように、
悟りへの概念に囚われず、人それぞれの道を行けばいいのですか?
アントニオ猪木の「迷わず行けよ!行けば分かるさ!」ですか?
107 :
神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 01:31:35 ID:G6M8IGHo
>>103 いや、言いたいことはわかるけど。
戒律を全否定してもそれはそれで危ういと思う。
例えば不殺生戒や不邪淫戒守らなくてもいいとなったら
レベルの低い比丘が邪見を起こしたときに取り返しが付かなくなる。
戒律はガイドラインとして使うもんだ。
それが中道なんじゃないか。
108 :
brown:2008/04/16(水) 01:33:37 ID:InJalBRw
>>101 シャマタはヴィパッサナーと分かちがたく結びつくべきもので,
イメージとしては,深海(心)に潜りますと。
どんどん心を浄化して深くもぐっていき,それによって強まる
ヴィパッサナーの力でより微細な心の状態も見られるようにしていって,
それによって,より深いところにもぐれるようになって,・・・という
ことですね。
シャマタが強まらなければ,心が浄化されず,心は喧騒なままで,とても
より深い深層心理まで潜ることはできず,
ヴィパシュヤナーが強まらなければ,心の状態をよく見れず,深い心の
部分は全くの闇で何も分からない,暗黒の心の嵐にただ巻き込まれるばかり
である,ということになりますね。
brownさんは上座部よりもプロセス指向心理学向けなんじゃないかね。あれはあれで面白そうだあね。
ところでbrownさんって外国人の方?
それとも、幼少の頃やらかしちゃった苦い思い出があだ名になってそのままHNになっちゃったとか?ww
>>108 長老がサマタの後にヴィパッサナーと言っていた意味が見えました。
・・・なんか言い回しが誰かに似ているような気がしますがw
ありがとうございます。
このbrownって奴の使う単語や言い回し、オウム真理教と同じ癖がある。
考え方もそうだな。
>>108 ゴエンカ氏によると、
「サマタによって得られる心の清らかさは、ほとんどが不純物を抑えこむことで得られる、
サマーディを行うと心の表層が澄んでくるが、不純物は無意識の領域にたまっており、
この潜在的な不純物を取り除かなければ、真の心の解放はない」と指摘していますが、
どうお考えですか?
brown氏が来るとなんでも聞きたくなってしまうぜカyホーイ
初期仏教+密教+ヒンドゥー教+キリスト教+科学=オウム
115 :
brown:2008/04/16(水) 01:42:00 ID:InJalBRw
>>107 ありがとう。
危険なことを言ってますね。そのとおりです。
倫理が実社会において,本当にどうでもいいということではありません。
飽くまで,現に起こっている心の処理としては,どんなことが起ころうが
それを仏教的であろうが,文化的であろうが,科学的であろうが,
価値判断することは,欺瞞にしかならないということです。
これは,智慧の側面です。
一方,行為の側面には,戒律があるわけで,それは,法律に従うなど,
道徳的に,社会的一般常識にしたがった行動をすべきでしょう。
>>114 原始仏教要素なんて入ってたか?
まあアングリマーラってホーリーネームの奴はいたが
ミラレパとかチベット系も含んでたかな
原始仏教の看板だけぶち上げてたが、中身はアートマン絶対視。
人間は精神が安定してくれば、特に戒律を守ろうと努力しなくても
破りたいという気持ちそのものが起きなくなっちゃって、何も問題が
起きないような気がするなあ。
腹が減っていると何でも食いたくなるが、腹が膨れていれば特に何も
食いたいとは思わないのと似ている。強い不足感があるから戒律を
犯してでも何かを手に入れようとしてしまう。おそらく自我が作ったで
あろうその偽ものの不足感が消えれば特に何かを守ろうとしなくても
自動的に守れてしまうんじゃないだろうかねえ。
brownて華厳命だろ。
120 :
brown:2008/04/16(水) 01:59:07 ID:InJalBRw
>>102 そのとおりです。
輪廻に救いはありません。一切は苦しみです。何も頼りにならず,
何も助けてくれるものはないからです。
しかし,
>>100 は輪廻の話です。常に無住処涅槃に接することで,
輪廻は涅槃に統合されます。だから,ある意味で輪廻であり,ある意味で
涅槃です。
しかし,
輪廻はなぜこうも救いがないのでしょう?なぜこうも全てが苦しみなので
しょう?なぜこうも執拗に苦しみを私に押し付けるのでしょう?なぜ,
あらゆる側面で,出口もなく,私を責め続けるのでしょう?どのような罪が
私をこのような地獄に陥れたのですか?なぜそれでも生き続けないといけない
のでしょう?
それは,無常の現実に,固執した執着性の心が,合わないからです。
「無常だ」と概念的に理解しても,心は現実にはそのようになっていない
からです。あらゆる苦しみはそこに起因しています。
したがって,心を柔軟に,どのような形にも,あらゆる瞬間に変化できる
ようにすれば,そのような苦しみは何も生じないのです。
なぜなら,固執すべき心など,初めから存在しないからであり,苦しみとは
単なる虚構に過ぎないからです。
要するに,精神集中です。変化への集中です。刹那滅です。それを現実に
成就すれば,自然と,そこに完全な理解力が整います。
121 :
brown:2008/04/16(水) 02:06:44 ID:InJalBRw
>>113 全くそのとおりです。
深層の深層の深層まで,心の浄化をしなければ,単に瞑想を深めても,
精神機能への逃避が成るだけで,何もならないでしょう。
まあ,それはそれでいいわけですが。本人がそれでよければ。
しかし,本来的にすべきことは,心の浄化,つまり,シャマタであり,
しかし,シャマタを深層までするには,各深度レベルに必要な
ヴィパッシュヤナーの,心を照らす光がなければ,心の不純物の取り除きよう
もないということですね。
>ただ,自分自身の心の状態だけが真実なんです。だから,
>いかなる心の状態が生じようが,それはそのままで完全な真実なわけです。
>だから,それをただ,ラベリングするだけで,完全な仏陀の智慧そのもの
>を成就しているわけです。
俺は、「怒り」にサティを入れたときに、ふっと自分の怒りの感情を
認めた(存在を許した)気がして、ああ、いままで、おれは
どれほど、怒りを嫌悪して排除しようとしてきたんだ、と思ったよ。
ただサティを入れるだけで、怒りを許したというか、、、。
こう書くと作為的かもしれないけど、ただ「気づく」「認める」だけでいいんだね。
あっちにもこっちにも偉そうに説教たれるバカがいるもんだな。
経典読めばいいだろ。
原始仏典の日本語訳あるんだからさ。
124 :
brown:2008/04/16(水) 02:18:51 ID:InJalBRw
>>105 基本的にラベリングは「行事」ですね。することもないと退屈だYOという
諸氏のためにラベリングしているだけでしょう。
本質的なのは,心の状態を常に注意しているということですね。
怠ることなく気をつけているということですね。
その先に何があるかというと,シャマタを伴って,心の浄化があり,
その先に,心の本来の性質が顔を見せることが起こるわけです。
心が浄化され,不純物が深層に至るまで取り払われたので,心の本来
の姿に戻るからです。
「頼りません」なんて偉そうな口を叩きましたが
今でもお世話に成ってます。
許されますかね?
心の浄化にはただ意識を内面に向ければよろしいか?
汚れを取るってのは概念的には分かるんだが、
実際にほうきとちりとりでパッパとするわけじゃないよね?
感覚的なプロセスがつかめない。
そもそも心ってなんだろう。感情は体に根付くから分かるんだが。
頭がこんがらがってきた・・・もうねよ・・・
>>100 返答どうも。なるほどねえ。ありがとう。
長き滞在をお願いします。
128 :
神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 03:46:24 ID:D77ZibiS
あのー、ここにいる多数派は瞑想初心者か、全く実践していない概念オタクなのでしょうか?
しばらくの間真面目に実践していれば、brownさんが第一禅定にも入ってないことくらいはおもっきり分かりますよ。
もの凄い確率で人間に生まれ、もの凄い確率でヴィパッサーナーに出会ったのに、
とんでもない邪見に踊らされる不幸。。
徹底的に智慧が出るカルマが少ないのか。
目を覚ましてください。
昨日はじめてググッてロムってたら、この有様。
part6まで続いてたのか(怖)
質問だけして頭で納得するのは危険だよ。
質問するならテーラワーダ協会の掲示板でする方がまだ安全。検閲が入るから。
人をオタクと蔑む前に慈悲の瞑想でもして
まったり2chしてください。
130 :
神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 09:05:22 ID:Ja/4dRPz
>しばらくの間真面目に実践していれば、brownさんが第一禅定にも入ってないことくらいはおもっきり分かりますよ。
俺にはそう観えなかったんだ。 言っていることが経験したことと同じことを言ってるし。
"確信"は持てないけれども。
後、あの答えの出し方・使用する単語、言い回し、誰かに似ているような・・・?
まさかまさか
>>128 brownは自分の考え、心情、生活態度を仏教の言葉を使って正当化してるだけ。
自分の言葉で語っても説得力がないからね。(仏教の威を借りるだね)
「自分の固執してる主観から自由になる」という仏教の根本理念が全然わかってない。
人一倍執着が強いことに気がついてないんだな。つまりカルマが普通の人よりそれだけ
キツイってことか。
そのくだらないコダワリ(主義、主張)をゴミ箱に放り込むことができたら、仏教のスタート
ラインに立つことができるだろうね。
悟ったやつが2ちゃんなんかに来ないだろw
心に汚れがへばり付いているやつほど居たがるレスしたがる。
俺もそうだなw
>>132 そこまで言うならbrown氏の代わりに周囲をうならせる回答をされてはどうでしょうか?
>>133 自分がそうだからって相手を推し量れると思わないほうがいいですよ。
>>123 説教するバカとはご自分のことでは?
意見交換がいやなら、わざわざパソコンを立ち上げてこのスレッドを開かなければいい。
brownのいうことが、すべて正解、正論とも思っていない。
ただ、他者の意見を意見としてきいているだけ。
ついでにいうと、わめきたててる人が、このスレのほかの人や、brownより深い見識があるとも全然思わない。
>>134 brownの回答のどの辺にうなってるの?試しに言ってみて。
各宗派のお気に入り部分の寄せ集めだって事がわからないんだね。
それじゃあ日蓮宗も華厳宗も真言宗も禅宗も、そして上座も区別つかんわな。
>>136 brownの意見のどの部分が深い見識の?創価学会かアフレにでも入ったほうが
いいんじゃないかな。
>>137 区別をつける必要が有るの?脳の分類分けで悟れるようなら苦労はない罠。
言葉そのものというより自分を省みさせてくれるというか。
逆にあんたとは話しても雑念しか沸かないけど。
>>138 君にとっては、日蓮宗も華厳宗も真言宗も禅宗も、そして上座も創価学会もアレフも
同じって事なんだね。それじゃあ話はかみ合わないわな。
140 :
128:2008/04/16(水) 17:17:26 ID:D77ZibiS
本気で皆さんに気付いて欲しいと思ってカキコしたんですが、荒れてきましたね。
なんか怒りのスイッチを押したみたいで、申し訳…。
でも132さんみたいな方がいて安心。これ、まさに真実やろう。
brownさんの矛盾を見抜ける人が、見抜けない人へ提案しても、相手の怒りを誘発して、自分がまた怒りの炎を燃やす。
ウンコの投げ合い。どちらも汚れる。
我々、矛盾を見抜ける人は汚れは最小限にしてサッと引きましょう。
131さんは多分間違った方向に行ってると思うので、直接協会に出向くか、電話相談した方がいいですよー。
じゃないとbrownさんの世界に行っちゃいますので。
やっぱ仏教ってとことん智慧が必要なんだな〜
なんか具体的じゃないし強引にbrownさんをおとしめたいようにしか見えないんだけど。
べつに味方するとかじゃないけどさ。
気合入れて座るか
143 :
神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 17:51:33 ID:pQ56fsN+
なんつーか最後まで偉そうな人間でしたな。
144 :
神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 19:30:27 ID:Ja/4dRPz
シャブ喰ってのサマディーセックス体験を
瞑想体験に置き換えて自慢する人がいるスレはここですか?
>>137 brownの見識が深いなんて一言も言ってないんだが。
そうカッカしないで。
文章をよく読むことと、落ち着いて書くこと。
誤字があるよ。
↑
馬鹿は死ななきゃ直らない・・・・・じゃなかった!
馬鹿は死んでも直らない!・・でしたよね。
他人の意見は、納得いかないと思うこともあれば、スルーすることもある。
brownのも同様。
間違っていると思えば、論で反駁するか、スルーすればいい。
ここにこない自由もある。
「きにいらねぇ!」と排斥するのは、感情を満足させたいだけじゃないかな。
サティ入れましょう。
句読点のつけ方が違うので別人かもしれない。
あなたの妄想かもしれない。
ですが、誰がどこでかきこんでいる、とかは問題じゃないでしょう。
brown氏の言っていることに疑問があるかもしれない。
それならそれでいい。私も前面同意してるわけじゃない。
ようするに、論に反論があるなら、論で反論すべき、あるいはスルーしてもいい。
それを、気にいらないといって「アレフ」「創価」と頭ごなしに排斥するのは、
感情に振り回されているだけで、まったくサティが身についていない証拠でしょう。
単なる誹謗中傷でしょう。
ちがいますか?実地に適用できない修行なら、もうおやめになっては。
まあ、荒れるのもなんなんで、もうこの件についてはレスしませんが、
感情に振り回された誹謗とかは、やめましょう。
1秒間でいくつものラベリングを貼るとすると
言語速度は追いつかないのではないかという
素朴な疑問が・・・
「怒り」と入れただけで0.3秒はかかるわけで
マンガのセルのように秒24枚も入れたら、
一ラベあたり0.04秒でないとダメだよね。
そんな芸当はできないのぢゃない?
だからゆっくり動くって事が大切になってくるのかな
152 :
sage:2008/04/16(水) 22:49:58 ID:D77ZibiS
ラベリングはサティを強制的に持続させるための道具だから、
ラベリングが追いつかないくらいサティが上手くなったら、ラベリングからは卒業するんだよ。
名前にsageてしまった
154 :
brown:2008/04/16(水) 22:53:23 ID:InJalBRw
>>126 >心の浄化にはただ意識を内面に向ければよろしいか?
>感覚的なプロセスがつかめない。
心の動きを捉えるのは,ヴィパッサナーの要点ですね。
恋愛をしていたり,秘かに想いを寄せる人はいないのですか?
あるいは都会なら,人ごみでいらいらするとか,そういうことがあるでしょう。
そのときに,その感情を捉えるのです。
今まさに動いている感情ですね。
座って,何もない安全なところで瞑想しないでください。
あらゆる雑念や幻惑する対象のあるところでしましょう。
そのとき心が生き生きと動いています。
その心を把握しましょう。
あわてず,じっくりと,心に,聞き耳を立ててみてください。
やさしく。自分自身を信じてあげてください。
自分自身の,具体的な,感情に取り組んでください。抽象的,概念的でなく。
心を正直に,恐れることなく見てください。
人を殺したければ,それでいいのです。セックスをしたければそれでよい。
全てそのままに,間違いなく,ありのままに見てください。
何の評価も必要ありません。一切の価値基準をそこに持ち込まないでください。
そうではなく,他ならぬ,自分自身の心を見てください。
それはあなたにしかできないことです。
あなたはあなたを救ってください。
自分自身の心を見る感覚を身につければ,見性はすぐそこです。
自分にはできないとか,自分自身をさげすまないでください。
必ずできます。必ず成就してください。見守っています。
>>152 ラベリングを貼ることと、サティを入れることを同義とは
思わなかったけど、区別が付けられないで困っていました。
>>152の文章は両者の区別と関係がよくわかって
ちまたの本よりうまい表現ですねえ。
でも、サティを入れるとはどういうことなのかが
わからなくなってしまった。
156 :
智子:2008/04/16(水) 23:00:36 ID:rbiC5gYy
お前ら頭悪いんだな。
可哀想だな。
素直にチンコしごけや、女はクリいじっとけや。
さすれば道は開かれる。
157 :
神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 23:08:34 ID:eqTqmZKg
智子所長は悟りの状態からの見解だからな。
真剣に読まんと損だぞ。
158 :
brown:2008/04/16(水) 23:09:19 ID:InJalBRw
>>150 ラベリングをするには強い思考力が必要でしょう?
結構,判断力というか,認識?識別?みたいなのが必要じゃん?
その点,今自分の中で起こっている「怒り」とかのやっかいな感情の
流れからいったん切り離されて,そのラベル付けの意識に移るんじゃん?
どんどん感情や雑念がさらに出てきても,その度にラベル付けに意識が飛ぶ
じゃん?そうしたら意識は連続できなくなるじゃん?
そうすると意識と意識の間に不連続性というか,隙間が空くじゃん?
ある種無理に隙間をこじ開けてるじゃん?
そうやって,刹那と刹那をぶった切るじゃん?
そうやって刹那滅が認識できるようになるじゃん?
>>155 「サティ」っていうのは、「気付くこと」、すなわち「身体と心の動きを追跡していく」ということ。
「サティが上手くなる」というのは、「心を追跡する能力が向上する」ということ。
「追跡する」をもっと分かり易く言えば、
そっと後ろに着いて行く=離れないように一定の距離を保ち、追い越さない
こんな意味になるんだよ。
追跡しないで追い越してしまったら、これは妄想状態に入ったことになる。
だから「サティを入れる」とは、ずっと心身の動きを追跡していく作業をいう。
わかった。捨てることなんだよ。結局。
>>126 >心の浄化にはただ意識を内面に向ければよろしいか?
>感覚的なプロセスがつかめない。
サティ=気付きの力を「強くする」ためには、静かで邪魔が入らないところでして下さい。
喧騒の中でやってもサティは強くなりません。強くしたサティを「維持」することは出来ます。
喧騒の中で心の変化を読み取ることは、あたかも貼り絵を遠くで眺めてるだけだよ。
静謐な場で、やってください。
すると貼り絵が貼り絵であることがわかりますから。
ここで強くしたサティは、日常生活でもなるべく使って、強さの維持を心掛けるといいですよ。
>>160 >わかった。捨てることなんだよ。結局。
そうそう。
次々と新しい対象を追跡して捨てる、追跡して捨てる、の繰り返し。
163 :
131:2008/04/16(水) 23:29:06 ID:1nCM0gNn
>>140 昔長老からメールもらいまして・・・
思考パターン直した方がいいと言われたんですよ
あれから自分全然成長してないってか・・・いやはや
brownさん、先日は相談に乗っていただいてありがとう!
預流果なんて楽勝ですね
今週中に阿羅漢じゃん?
>>131 ヴィパッサナーやる前に、チャクラ開発とかヨーガの瞑想とかの経験おありですか?
もしくはその手の本を貪るように読んだとか。
そうであるなら、そこでできてしまった概念がしっかり邪魔してると思いますよ。
166 :
131:2008/04/16(水) 23:42:52 ID:zRT01jwE
>>165 いえ。座禅はテーラワーダに会う前に独学でやってました。
ただしどちらかと言えばサマタです。ラベリングはしてません。
科学の本は呼んでましたけど。
テーラワーダに会ってからは本とWebからのみでやってました。
観察姿勢からいろんな事が見つかって愉しかったですね。あの頃は。
今はドーサやラティがめちゃくちゃ強くなってます。
>>162 やっぱそうですか。
それがわかっても何ができたことにもならないでしょうけど。w
智ちゃん可哀想。偏狭な価値観に捕らわれてる。
中庸(仏教的には中道)を知ろうよ。
女嫌いは大概、女にルサンチマンがある。
ミーハー嫌いも、自分にミーハーの素養があるからこそミーハーを叩く側に回る。
アンチ巨人は巨人ファンの一変種。
わっかるかなあ、わっかんねえだろうなあ
しかし。
オウムでも慈悲の瞑想やってたんだな。
四無量心の瞑想でググってみたんだけど。
慈悲喜捨が育ったとしてもそれが正見に基づいていなかったからああなったのかな。
やっぱりただ頭で繰り返してるだけじゃ人格は育たないな。
>>154 ありがとうございます。
brownさんの答えには余分な解釈をする必要がないので助かります。
>>161 ありがとうございます。
「今何を感じているか」ありきなんですね。
漠然とした印象を形にしていただいて助かりました。
一人でいるときはスローモーションを心がけられるけど、
人といるときはどうしても気を使って意識が疎かになってしまうなあ。
他人の行動でいちいち心を乱されるのは嫌なんだけど。
意識が根付いてないんかな。
ネムネム・・・
>>171 雑踏の中でラベリングする集中力とサティが弱いんでしょう。
そんなときは、まずラベリングを止めて落ち着くことに専念すると良いですよ。
例えば、呼吸をただ追ってみたり、お腹の動きを追ってみたりするだけで、ラベリングはとりあえずお休み。という感じで。
brownさんへ
今朝、オナニーしてたら解脱したYO!
もう朝からビンビンです。限りない快楽です
涅槃も輪廻も無意味ジャン
もうこれは純粋な喜びのエネルギーですね
もう何も怖くありませんね。人殺しでもやってみYO!!
brownさんの教えは私の自我にピッタリです
余分な解釈をする必要がないので助かります
まともに答えるべきかどうかは分かりませんが、慈悲が足りないと観ます。
生命が仲良くなるのを思い、悲しみが癒されるのを思い、
人の喜びを我が事のように感じ、全ての生命を平等に観る。
やはり冗談でも人だけでなく、殺生を宣言するのは良くないのでは。
175 :
brown:2008/04/17(木) 23:23:43 ID:oDSWHipN
>>173 なぜそのような苦しみが生じると思いますか?
何かふざけて冗談を言っているだけのように振舞っているが,
その実,その散乱された心は,「誰か助けてくれ」と叫んでいる。
その散乱を救ってくれる者は誰も居ません。
自分自身で治めなさいな。
どのような冗談を言っても,どのような暴言を吐いても,
どのような憎しみを心に抱いても,どのような嫉妬を抱いても,
どのような愛着に固執しても,何も起きません。
心に現象を動かす力など,寸分もないからです。
brownなどどうでもいいのです。
たとえbrownの言に何ほどかの力があったとしても,
単なる掲示板の文字,戯言,寝言に過ぎないのです。
それは何事をも起こさないし,何の意味も無いのです。
あなたの心に何も波風を立てることもないし,その必要もないのです。
心に現象を動かす力がないのに
キーボード叩いてレスしている人がいるよ
>>173 どうしても抑えられなかったのかな…。感情に振り回されることを。
火屋だからさ。
心を乱しているの君だろ
雨のち晴れだよ
なら名無しで書き込むのだね
質問します。
誰の役にも立たな無駄なおしゃべり、無意味なおしゃべりは
止めなさいという戒(でしたっけ?)がありますが、
たとえば、何かの理由で複数人が集まらなければならない事があって、
話題が無くてその場がシーンとなり、気まずくなっている時、
なにか適当な話題を持ち出して、おしゃべりして、場をなごます、
という場合は、無意味なおしゃべりには該当しない、と考えてよいでしょうか?
brownさま 3度懇願します 長期滞在を。
184 :
神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 11:28:50 ID:puvIW2Yb
最大の無駄話は、しーんと静まり還る事に耐えられなくて、自分の頭の中で始終繰り返す、ああでもないこうでもないと言う、独り言かもしれない
185 :
神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 12:25:46 ID:a9y43wQU
>>182 在家信者はそこまで守らなくてもいいのでは?
まぁ、場をなごませる暇があるなら、
瞑想して会議が始まるのを待てばよいのかもしれませんね。
そもそも、いつでも自分の能力を発揮できる智慧があり、
お互いが慈悲の心で接する人同士なら、
「場をなごませ」なくても会議は円滑に運ぶと思います。
場がなごまないと会議やりにくい、
相手と親しくならないと仕事したくない、
というのも煩悩かもしれません。
必要な会議なら、初対面の人とでも遠慮なく必要な話をすればよいはずで、
それに対すして「初対面のくせに失礼なやつだな」
と怒るのも煩悩でしょう。
やっぱパオがいいのかな?
レス有難うございます。
親戚という縁で、お互いあまり興味がなくても、
居合わせなくてはならない事があります。
結婚式や、お葬式などの段取りで、自由行動があまりできなくて、
しばらくの間、ある部屋で待機しておかなければならない時があったりします。
ひとつには、そういうケースを想定して、
>>182の疑問が生じています。
また、これも親戚関係ですが、
自分の実家に帰ったとき、また夫の実家に帰ったとき、
兄弟同士ならいいんですが、
自分 vs 自分の兄弟の配偶者に当たる人
自分 vs 自分の夫の兄弟や、その配偶者に当たる人
が居合わせることも在りうるのですが、特に話すことがなくて困るだろうと思います。
そういうとき、相手も気まずいので、何か話題提供をする努力して雑談する事は
逆に親切な行為で、良いことなのかな、と思うのです。
>>182 サンガのように、お互いのコンセンサスのもと私語を禁止するのは一般的だと思います。
禅の修業では私語は厳禁であることは言うにおよばず、
キリスト教でも、修道院では黙想会といって8日か40日間いっさい言葉を喋らず、
歩く時は1メートル先しか見ない、人にあっても誰にも目を向けない、
食事もお皿の先をみてはいけない、、、など、禅堂さながらの修行があるそうです。
ただ、そういうサンガ以外の場所で、人が集まっている時に、自分のことにばかりとらわれて
目の前の相手の存在や気詰まりを「無視して」黙りこくるだけが正解ではないと思います。
逆に「いまここ」の精神から離れているような気が、、。
長老の言うとおり、物事は「中道」、
静かに黙っていたほうがいいかもしれないし、必要ならポツポツ、話したほうがいい場面もあるとおもいます。
愛語、布施としての言葉や態度は、けっして自分の修行の妨げにはならないと思います。
自分の気詰まりを解消する為に私語をするのは、もちろん「エゴ」だと思いますが、
目の前に人がいるならば、むしろ、この状況に「気づき」をいれ、
そのとき一番相応しい行動をとればいいと思います。
目の前の人にも、さまざまな精神的事情がある。
ちゃんと「気づき」を入れ、いまここ、にもどれば、おのずととるべき行為もわかると思います。
結局思考では真の開放は訪れないのでしょうか?
「私とは誰か?」という哲学的な自己探求は役立たないものなんでしょうか?
どうも考え事が好きな性分が抜け切れず、思考を止めるという覚悟が定まりません。
ご回答よろしくお願いします。
191 :
神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 14:43:32 ID:Vm6kiK80
思考とは思考対象がなければなりたたない相対的なもので、
真の開放や真理とはいわば絶対的なものであると考えると
相対的な方法で絶対を知ることは出来ないのではないかと。
まぁ私の妄想ですが。
> 結局思考では真の開放は訪れないのでしょうか?
それを前提に話しているのでは?
鈴木一生さんマハシ止めてパオに行ったんだね。
>>187 慈悲の心で観て、大変だろうと察したこと、頑張ってるなと察したところを労ってください。
するとその言葉は心施というお布施になります。
また、着てる服でもいい、子供がはしゃいでる姿でもいい、いま居る建物でもいい、
しっかり観察して何か一つ身近な現象を取り上げて、原因と結果に分析した会話をすれば良いですよ。
行き着く先は、皆苦であり、それを無くすには観察力を磨かなくてはならず、その対象は呼吸であったりお腹の動き出会ったりと、
結局仏法の話になりますから。
これは法施というお布施になります。
>>190 思考タイプの方は、仏教関連の本を精読・多読することでも悟りの第一段階預流果にいけますし、経典にもあったと思います。
根本仏教関連の本を読みながら思考すると、「私とは誰か?」という哲学的な自己探求も、一応の解決は得られます。
私がそうでした。
仏教の智慧を借りずに考えると、妄想の空回りになりますよ。
仏教の智慧を借りた徹底的な思考が足りないのかもしれませんね。
頑張ってください。応援しています。
パオの人が必死で書き込みしてますね。
鈴木さんの評判はあまり良くないよ。
198 :
187:2008/04/18(金) 20:16:51 ID:VLDN4eT/
とても参考になります。有難うございます。
>原因と結果に分析した会話
「原因と結果に分析」という部分がよく分からないのですが、
例えば、ネクタイをみて、(デザインや質感が)いいネクタイですね(←結果)、
高かったでしょう(←原因?)とかですか・・・?
>>195 さんが読まれた根本仏教関連の本を
いくつか紹介していただけないでしょうか。
今の私に合うかどうかわかりませんが
チェックしてみて、もし合えば
(今の自分にとって効果的そうであれば)是非読みたいです。
私はスマ長老の本をいくつかと、ちはしさんの本くらいしか読んでいません。
>>188 有難う。
不妄語戒はウソをつくなかれ、の戒のようですね。
それとは違います。
201 :
神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 21:17:06 ID:a9y43wQU
>>198 雑談するなら、仏教の話をするのが一番なんでしょうけど…。
>>196 一応の哲学的解決はしたということです。
ちなみに私がカキコしたものを読んでみてください。。
>>128 >>140 >>152 >>159 >>162 >>165 >>172 >>195 brownさん批判にはじまり、最後まで偉そうに聞こえることをいう者なんで、預流果ではないでしょう。
私が知ってる範囲で正しい方向性に行けばいいな〜と思ってるだけです。
よき善友になってくれればなおのこと。
>>198 >例えば、ネクタイをみて、(デザインや質感が)いいネクタイですね(←結果)、 高かったでしょう(←原因?)とかですか・・・?
まあ単純に言えばそれもOKですけど、話は続かないですよねw
自分もネクタイには拘ってて、時間を忘れて選ぶ、欲のエネルギーが燃えた経験、とか。
使っているうちに飽きが来た、ネクタイから受ける刺激が弱くなった経験とか。
日常ヴィパッサナーの経験を口にしていたら、否応無く因果の法則の会話になりますよお。
>>199 長老の本はほぼ読みましたよ。
HPの記事も。
全部お勧めですよ。
選ぶのに困るという場合に薦める本は、これかな。
・パワーアップユアライフ
・死後はどうなるの
・ブッダの実践心理学
私もまだまだ修行半ばです。共に頑張りましょう。
>>202 預流果の人は仏法をけなすことが出来なくなる・・・らしいですねぇ・・・
(というかやってしまうと、転生先が洒落にならなくなる・・・ということだったはず)
自分も瞑想はじめの内は"わかったつもり"になってたのかも。
いろんな見えなかったことが観えだして、「なんでわからないんだ、キミタチ!」みたいな。
ヴィパッサナーの入門書は、有難かったですねぇ。メソッドが決まっている。
なんにせよ、幸せな人が増えるといいですねぇ。
204 :
202:2008/04/19(土) 01:06:31 ID:Zu7KA5CV
>>203 >なんにせよ、幸せな人が増えるといいですねぇ。
ほんとそう思います。
ただ、ここでは未経験者なのに概念武装したアドバイスに注意して欲しいですね。
質問する側は未経験ですので簡単に騙されます。
ここで質問するのはほんとうは危険なんですよね。
そんな危険なアドバイスが出る前に答えたわけでして、
そういつまでも続かないでしょうけど。
そういう趣旨ですので、今度から私と分かるようにHNつけるかも。
「こげ茶」にしようかなw
205 :
神も仏も名無しさん:2008/04/19(土) 01:49:47 ID:aTGhlswh
大人になって振り返る、俺も昔は悪だったw
という姿勢に陥りがちですが、ほんとに大人になったかわからないですよね。
せいぜい長老の本の引用か、「こう思う」程度の発言にしたほうがいいと思う。
206 :
brown:2008/04/19(土) 02:48:11 ID:MWkXD1nG
>>190 「私とは誰か?」という哲学的な自己探求は,真の解放のために,不可欠です。
しかしながら,それだけではうまくいかないんですね。
なぜなら,それは概念を概念に展開するだけだからです。
そこで必要なのが,ヴィパッサナーです。
つまり,自らの心の具体的な動き,それ自身を捉え,それを考察対象
にするためです。
なぜなら,概念の操作によって清らかになり得るのは飽くまで概念であって,
清めるべき対象は,そのような概念ではなく,自分自身だからです。
それは,腹痛のときに目薬を差すようなものですね。効きやしません。
したがって,心を浄化するために,心を考察の対象とする必要があり,
そのために,心の具体的な動きを捉える必要があるんですね。
↑ ほんといつもごちゃごちゃわかりづらいなw
長老達のアドバイスは、簡潔、的確、そしてわかりやすい。
自分でスレ立ててそっちでやってくれ。
208 :
神も仏も名無しさん:2008/04/19(土) 10:16:15 ID:HBhaNy8d
。<こもぁかぃぽ。こうせい乙ぽ。
brownは頭の中ちゃんぽんぽ>.
>>205 >という姿勢に陥りがちですが、ほんとに大人になったかわからないですよね。
というか一言も大人になったとは言ってないんですけどね
後はHPから見た部分と、自分の経験しか喋ってないし。
211 :
神も仏も名無しさん:2008/04/19(土) 18:37:10 ID:rKY8tkkO
brownさんの悟りをテラーワーダも認めたの知らないんだね
此処の人たちわ。
汚い言葉遣いを長老が教えていますか?
あの人はいいんですよ、君たちはまねせんでいい。
認めてませんから。
知りたかったらこんなスレ読んでないで、経典読めばいいだろ。
ましてや悟りすましたネラーの説法なんて聞いてどうすんの。
214 :
神も仏も名無しさん:2008/04/19(土) 19:19:51 ID:rKY8tkkO
215 :
神も仏も名無しさん:2008/04/19(土) 20:09:36 ID:Lu3/ClaT
さー面白くなってまいりましたw
>>214 期待してるぞ!
ラマナ・マハリシのテクニックは「私は誰か?」
と弟子に問わせることだね。
218 :
神も仏も名無しさん:2008/04/19(土) 22:20:56 ID:+vXj/zO1
すみませんスレ違いだとは思うのですが少し分からないのでお尋ねします
仏教では
『自分の考えでは』と言う場合の自分は、あらゆる刺激によって存在していると
思わされているだけで実際は存在しておらず
また、考えも自発的に考えているのではなく、さまざまな外部の刺激により
勝手に考えさせられているに過ぎないと言うことになるのでしょうか?
>>228 仏教普及委員会の最新法話を読んでみたらいかがですか。
テーラワーダ仏教協会の根本仏教、巻頭法話も参考になさってみては。
221 :
神も仏も名無しさん:2008/04/20(日) 00:55:18 ID:rffLgtaC
>>219 そういうサイトがあったのですね。知りませんでした。
早速読んで見たいと思います。ありがとうございます。
スマさん、よく「キリスト教は愛と一言で、漠然にいいますが、仏教では愛と慈悲は違うのです」
というが、この点にはちょっと疑問だ。
キリスト教でもやっぱり「愛」って言葉を分けてて、訳すときに「愛(love)」でくくっちゃったけど、
エロス=愛欲 ストルゲ=肉親愛 フィリア=友愛 アガペ=無償の愛って分けてたはず。
聖書でも、イエスがペテロに「愛(アガペー)しますか?」と尋ねて、ペテロは「愛(フィオレ)します」、
と答えるシーンがあって、違いを明確にしてる。
仏教でいう慈悲は、アガペに基づくものじゃないかな。
渇愛は、エロス、ストルゲ、あるいはフィリア、になる。
とりあえず、そこのところは本にするときに注意したほうがいいと感じる。
俺はクリスチャンじゃないけどね。
223 :
190:2008/04/20(日) 02:46:18 ID:ZIo4OBuU
>>191 ありがとうございます。
「I am that (私は在る)」の境地ですね。
>>195 ありがとうございます。
自我が入って下手に解釈することがあるのが瑕です。
長老の本は読みやすくて好きです。
>>206 ありがとうございます。
心を考察の対象とする必要があるとありますが、
心の場合もただ感覚を追っていくだけでいいのですか?
それとも名前付け(ラベリング)はやはり必要でしょうか?
それと心はどこに在るのでしょうか?心を追おうとすると
体の感覚のようにはっきりと感じ取れないので「心とは何か?」考えてしまいます・・・(汗
224 :
brown:2008/04/20(日) 03:24:22 ID:DkF0L65+
>>223 次の質問にはどう思いますか?
・好きな食べ物は何ですか?
・嫌いな動物は何ですか?
・お金を貯めることは良いことだと思いますか?
・音楽を聴いて楽しむことは良いことですか?
・死ぬことは怖いですか?
>>222 うん、俺もそこは迂闊だろうと思った。
キリスト教で説いてる無償の愛は神と密に結びつく愛じゃなくて慈悲と同質のものだと思う。
スマ氏は迂闊な書き方の時がけっこうある。
「人生はゲームです」で、「ビデオゲームは絶対にクリアできないように作ってある」だとか。
唯識論を批判するときも「アーラヤ識なんて絶対に認識できないとされるものを何故あると言える」なんて言って
なんだか揚げ足取りっぽい。論破するには不充分というかどうも腑に落ちない。
226 :
神も仏も名無しさん:2008/04/20(日) 07:26:43 ID:98yu+d1F
>>225 執着して大事な宝ものだと思ってるものを、
ゴミだと言ってるんでしょうね。
227 :
神も仏も名無しさん:2008/04/20(日) 09:38:30 ID:umPgk3GP
>>225 阿頼耶識を認識できないなんて誰が決めたんだろうな?
スマさんに出来ないだけで、出来る人がいる可能性についてなぜ思い至らないんだろう?
228 :
神も仏も名無しさん:2008/04/20(日) 10:17:43 ID:cSG4P2WU
阿頼耶識の厳密な定義はよく知らないけど
もしそれが「認識不可能」というものなら、
それが存在すると我々が発想すること自体おかしいとなるのでは・・
229 :
神も仏も名無しさん:2008/04/20(日) 10:32:32 ID:zJsPCsXX
理論上は認識できない神という存在を発想してんじゃんw
ウルトラマンとか。
231 :
神も仏も名無しさん:2008/04/20(日) 10:41:11 ID:umPgk3GP
修行するば自分の前世が見える。
これはテーラワーダでは認めてるよね。
だけど、その見えてる前世が本当に正しいと客観的に証明することは出来るのか?
出来ないだろ。
だからこれは、科学的には本人の思い込みの域を出ない。
阿頼耶識だって同じようなものだと思うが。
232 :
神も仏も名無しさん:2008/04/20(日) 11:21:13 ID:cSG4P2WU
まあ目に見えるものも正しくないんだろうしw
前世や来世は理論上そうなるってものだろうね。
でも阿頼耶識は飛躍が過ぎるってことじゃないかね。
けっきょく輪廻も阿頼耶識も業ならそこから脱出すべきってことでしょう。
タバコをやめることは善だと今わかった。
泣いてます。
唯識派達はどのように見るかといえば、外境と一切の事物は
識の部分から転変したものであるから、世俗のあり方においては存在するが
勝義においては存在しないと主張するのである。一方、識は勝義としても
存在すると主張する。何故かと言えば、一切の外的な事物は、偏外所(妄想されたもの)
円成実(完成したもの)の両者はアーラヤ識が転衣した相であるから勝義として存在する、と説明する
経量部中観派はどのように見るかといえば、師ナーガルジュナが著作なさった論書と一致して
内外の一切の事物は縁起しているものであると説明する。すなわち、世俗においては
因と縁から生じるので、幻としてのみ存在するが、勝義としては、有と自性が無いので
外的な事物も識から生じないので存在せず、識も対象によって生ぜしめられないので不正不起であると主張する
チベット「四見解要説」
龍樹菩薩もチベットゲルク派の祖ツオンカパもアーラヤ識認めてません
スレ違いだっちゅーの!
パイレーツ乙
言葉というのは不自由だから、
どの宗教も、教義も、それぞれの宗教言語でそれぞれの宗教真理語ってるわけで、
ある宗教言語で別の宗教を語ろうとすると、どうしても、言語上の矛盾が起きる。
スマさんのいうことは、テーラワーダの文法でテーラワーダを語るときは正しいし、
読者も信頼していいんだけど、
その文法で別の宗教を語ると、どうしても「あれはおかしい」になってしまう。
こういうことは歴史上いくらでもあったことで、
キリスト教の文法で他宗教を語ると、あれは邪教、となり、排斥するということも歴史上いくらでもあった。
同じように、テーラワーダの緻密な文法で、大乗の詩的形而上学的世界を
論じようとすると、「あれはおかしい」となる。
でも、本質的な部分はやはり類似してるよ。
キリスト教でいくら愛が大事といわれてるからといっても、
聖書で「渇愛」が否定されてる場面は枚挙に暇がない。
大事にされてるのは仏教でいう「慈悲」だ。
キリスト教神学には論蔵みたいな体系的に教えをまとめたものはあるのかな?
キリスト教は、感情的、情緒的なもんだから、無理に神学的解釈をすると、
逆に切り捨てられるものが多そう。
イエスの布教対象は、無学無知な罪を犯さなきゃ生活できない庶民だったから、
教えの色合いもおのずとああいう情緒的、非論理的なものになったんだろう。
初期は色濃かった輪廻思想の否定とか、三位一体説とかも権威化してからのもので、
深い宗教的認識というより、時代や社会に組み込む都合を考慮したほうが強かったんじゃないかな。
初期仏教が、どちらかというと知的、非情緒的にかたむくのも、
ブッダの布教対象が、貴族などの富裕層だったから。
対機説法の観点から言っても、キリスト教と色彩が違っていて当然でしょう。
どちらがよい悪いということではなく、現代においてその両者の教えを論じる際に、
イエスとブッダでは、語る対象や状況設定が異なっていたという点の注意は必要だろうね。
むしろ、キリスト教にしろ、浄土宗にしろ、無学な大衆にあわせて
用意された思想を、無理に論理化、体系化すると、権威主義化して、
先鋭的な他宗教否定という悪弊に陥りやすいから、無知なまま信じるほうが
いいような気がする。
知的富裕層にはテーラワーダのほうが向いてそうだ。
もちろん個人の体質もあるから、どんな人がどんな宗教が向いてるかは
ひとりひとりが選ぶものだろうが。
最近のヨーロッパでは、キリスト教でもヴィパサナする教会がふえてきたらしいよ。
以前は禅を取り入れていたんだけど、ヴィパサナに乗り換える教会が多いらしい。
パオの瞑想でもキリスト教の瞑想のことが紹介されていた。
パオではニミッタといって光を見るが、キリスト教でも光を見る瞑想がある。
似ているところがあるんだね。
243 :
218:2008/04/20(日) 16:06:55 ID:rffLgtaC
きのう、質問したものですが
ヴィパッサナー瞑想は無我が何だとか、無常が何だとか
考えずに、ただ、やってみる方がいいんですよね?
結果、『我』を作り出しているものや『無常』が自然に観えるようになる。
間違っています?
244 :
神も仏も名無しさん:2008/04/20(日) 19:18:46 ID:Il17wJDD
論理ならユダヤの方が得意そうだな
仏教を学ぶユダヤ人は結構いるらしいけど
ユダヤ教との矛盾はどう処理してるんだろうね?
>>246 そうすると、このスレで下手にレスをこねくり回すより
「ただ、実践あるのみ」になるのでしょうね。
まあ、私は決意しかねますが。怠惰なもので。
248 :
190:2008/04/20(日) 22:47:58 ID:cEPU0c4M
>>224 ・いちご
・ゴキブリ
・Yes
・Yes
・Yes
249 :
218:2008/04/20(日) 22:50:55 ID:rffLgtaC
>>246 それでは、難しいことを考えず実況中継していきたいと思います。
レスありがとうございました。
はいっ先生はいっ
死ぬことは丸いですか?
251 :
神も仏も名無しさん:2008/04/20(日) 23:01:25 ID:/QI+nFTE
本日、4/20は満月、斎戒日である。
八斎戒を心掛けている者はおるか。
5/20はウェサーカ(2月)の満月だ。
ブッダ・釈尊の誕生、成道、涅槃の日と伝えられる。
brownさま
次の質問にはどう思いますか?
・仏教徒ですか?
・悟っているのですか?
・寺和田をどう思ってますか?
・何が目的ですか?
・あなたの信者とは知り合いですか?
254 :
brown:2008/04/20(日) 23:51:09 ID:DkF0L65+
>>248 そうですね。そこに心はありますね。
好きないちご,嫌いなごきぶり,お金を貯めることが良いと考える正誤の判断,
音楽を聴いたときの楽しみである美醜の判断,死を不安に思う恐れ,
これらのように,対象に付随して起こる動きが心です。
これらのことは,どれも,かけがいのないことです。
決して他の者が代わることのない,あなた一人のことです。それは他では
決して見られない完全な価値を持っています。完全な個別性で,現実的
です。虚妄ではなく,実感があります。ありのままに知られるべきものです。
それに対してあなたはこれまで散漫に過ぎました。本当のあなたは,
あなたがあまりにもかまってくれないので,淋しくて泣いていました。
とてもとても淋しいのです。いつもきょろきょろと他の事を考えるので,
自分自身のかけがえのない,この心なるものを見捨てていたからです。
やがて,自分自身の考察は,「死」の考察に導かれます。
死を誰も代わってくれません。どのように友達がたくさんいても,
いつも誰かが助けてくれるような生き方をしていても,必ず,一人で
死んでいかなければなりません。
このように,心とは,個別的,具体的なことです。
255 :
brown:2008/04/21(月) 00:01:14 ID:DkF0L65+
>>248 心を考察するために,
最も良いのは,最も欲情を覚える異性を考察の対象にすることです。
恋愛対象ですね。異性は性的満足の提供者であり,癒し,慰めであり,
生きるためのエネルギーの源です。
それは強烈な感情反応を呼び起こし,心の動きはくっきりとしています。
そしてそれは,心的プロセスの発見,こだわりの発見,たえまない気づきの
発見,解放された喜びの発見,無貪の意味の発見,孤独の発見,禅定の発見,
心の本性の発見,心的エネルギーとその性質の発見,秘められた原初的な
生きるだけの喜びに発見へと導いてくれます。
>>252 反応してあげる
>A・スマナサーラ長老の「パーリ語の経典CD」をお奨めしたいです。
そんなのあったかな??
「慈経」の付録CDは慈悲の瞑想の解説だし
「ブッダのやすらぎの声 」はスリランカ録音(長老より段違いに読経上手い)・・
257 :
神も仏も名無しさん:2008/04/21(月) 00:08:13 ID:h/GuEvI5
すまなそうな美婆さん瞑想?
>>255 なんかクリシュナムルティのお馬鹿バージョンみたいだね(笑)
「ブッダのやすらぎの声」は確かにAmazonで発売されていた。
しかし、後一点しかなかったから私が購入しました。他に買いたかった人ごめんなさい。
とにかく今は癒しが欲しい。
…こんな夜遅く起きていて何が癒しだ?って言わないでくれ。私も何がしたいのか分からないときがあるのです。
ニートだとか引きこもりだとかの人数が減って欲しいと私も思います。
何もやっていないよりは瞑想にふけって心理的に少しでも良い方向に向かって欲しいです。
ん〜まあ、会社員も公務員もその身を置いている
職場の意識という狭い殻に籠もっているわけで・・・
引きこもっている点ではニートと何一つ変わらない。
定年まで引きこもりに気がつかないのが現実で、
諦念になって初めて諦念って感じじゃないっすか。
>>259 「慈経」の付録CDにもスリランカ録音のやつ冒頭に入ってるよ
何ていうか天に登るような壮麗さ
長老はちょっと音痴だね(笑)
>>254-255 ありがとうございます。
また考えがまとまらないときは話をお聞かせ下さい。
265 :
brown:2008/04/21(月) 00:52:18 ID:HmkYZ3L7
>>260 意外とねえ,「置き忘れた感覚」をじっくりと味わうと癒されるもんよ。
例えば,お風呂とかシャワー。
体を石鹸で洗うとき,ゆっくりとその触覚に感じる快感を味わいながら
全身をやさしくなでていく。
食事もゆっくりと一口一口味わいながら。
後,アロマテラピーとかね。
あと,睡眠に入るのをじっくり観察しながら入っていくとか。
動的なものとしては,散歩をしたり,後,掃除ね。
完全にスレ違いだがクナイプのバスソルト(入浴剤)の
菩提樹がいいよ ラベンダーもいいね
読経メロディって
共通普遍のところを押さえて 個人でアレンジみたいなのを想像してるけど。
長老とその他数名ぐらいの読経しかきいたことなっすんぐ。
確かに動作をゆっくりする事を心がけるだけで、けっこう心は癒されるものですね
何でも自然に集中力すると癒されるね
>>247 その通りです。
前述したように、あまりここで質問するのは危険ですよ。
あと、可能ならスマナサーラ長老の瞑想指導を直接うけたほうが絶対に良いです。
本での勝手な自己解釈が最小になります。
共に頑張りましょう!
>>270 長老にそんなにちょくちょく会える訳でもないだろうし、私自身そういう時間をとる余裕が…
ちなみに私そんなに質問していないですよ。スレの流れが速いだけ。
brownとか言う人がメインでこねくり回しているみたいだ。
けど、ニートや引きこもりの限界問題は何とかして欲しいところ。
無理にでも奨める価値はあるんですよ。この瞑想法なり長老の言葉なりは。
それにそういう人たちは時間が有り余っているようだし、
そういう点では引きこもりの人たちにも早く実践してもらいたいところ。
そうしたら社会でも何とかなるくらいの智慧がつくと思うんですけれどねぇ。
ニートとそうじゃない人を、区別するのは妄想って気もしますが。
職についている人もさまざま、職についてない人もさまざま、
たった二つに分けて何もかも取りまとめるのは、危険な概念でしょ。
>>272 それではA・スマナサーラ長老はニートや引きこもりの問題をどのように捉えているのでしょうか?
…なんかの本に載っていた気がするが、思い出せない。
それにちょっとニュアンスが違う。「子どものころこうしたらいい」みたいな事を言っていた記憶があるのだが…
やっぱし「マスコミのせい」でマスコミ批判して思考停止でしょうかねぇ。
俺は限界ニートたちが一斉に暴れ出す様を見たくもないし関わり合いたくもない。
別板にスレ立ててみたいよな。
「どうせヒマだし瞑想でもしようよ」みたいなスレタイで。
板は
・無職・だめ
・負け組
・ヒッキー
・メンヘルサロン
(後は男性板を中心に、カテゴリ雑談を中心に立ててみるとか。
一人くらい実際にやってみようと思う人が出るかもよ?)
>>273 >限界ニートたちが一斉に暴れ出す様
これも偏見、妄想って気がしますが、、、。
そもそも、ニートって括りも、便宜的にあるんだろうけど、実体はあるのか?と思う。
人間は、百人いれば百様。
個々で見るべきだと思うな。
brownってクリシュナムルティの影響をかなりうけてるね。
ま、それ自体は好いことだが。
解脱を迎えた人であったとしたら、
こんなにフランクに話せる機会もないんだろうなぁ・・・
ちなみに、数年前は職がなかったけど、職のある今と比べて
中身が変わった気がしない。
そして、何らかのきっかけで今職を失っても、中身が変わる気がしない。
ニート、っておおざっぱなくくりも、マスコミにとっては便利なんだろうけど、仏教者が使うのはどうかと思うな。
世間にしろ、自分自身にしろ、便宜的に、ある状況の人々を、「だめ」「負け組み」ってくくり方するのは、
仏教的じゃない。
「暴れだす」って偏見妄想も良くないと思うな。
279 :
神も仏も名無しさん:2008/04/21(月) 22:52:48 ID:BwGlxls8
就職したいと思ってる人はニートじゃないでしょう。
就職・バイトをする気もなく、
勉強や受験をする気もない人々を、ニートと呼ぶ。
けっこうわかりやすい定義だと思います。
それでも、実際の生身の人間とは別の、便宜的な概念でしょう。マスコミ用の。
人間は千差万別、
仕事から逃げる人もいれば、仕事に逃げる人もいる。
仕事のなかで自己を実現していく人もいれば、閑居のなかに自己を見つめる人もいる。
この視点から見れば、職があるからといって、ニートより心が病んでいないということもない。
だめじゃないということもない。
ただ、「世間的」な目からみて、あったほうが病に見えないというだけでしょう。
もちろん、収入の問題は重要だが、暴動を起こすような人間かはまったく別の問題でしょう。
どんな人間も、ブッダのように心を耕す必要はある。だからヴィパッサナーは賛成ですが。
言葉・概念は全て偽者で実体が無いから、ニート・引篭もりも概念である以上、実体が無いでしょう。
ただ、言葉・概念は情報を伝えるための道具ですから、所詮道具として深く考えない方が得策です。
適当に定義すればもう充分でしょう。
問題なのは、ニート・引篭もり呼ばれる集団に嫌悪感・怒りを持っている心の状態でしょう。
とても暗い心になっています。
ニート・引篭もりをまともに変えてやろう、という心も傲慢が生じただけなのでやっぱり暗いです。
結局、自分が心の病気になってますので性質が悪いです。
そんなときは慈悲の瞑想でしょう。
引きこもりについては
長老の「平和の生滅」の第1章 バリア論におもいっきり書いてありますけど
一言でいえば「個人がバリアを収縮し始めたら、際限がないという危険がある」です
詳しくはお読みください
それから・・かなり辛口なので引きこもりの人は読まないでね(笑)
地橋さんは預流果くらい行ってるんだろうね?
そうでないと教わる側としては心もとないぞ。
厭離の気持ちをうまく昇華させる状況にないと、引きこもりという形になるんだろうな。
社会的な重圧っていう外的な責任もあるよ。
まあ、ニートを味噌糞に罵倒する記事を書くことで
飯を食っているオジチャン雑誌記者もいることだし。
引きこもり暦6年の俺が通りますよ
通りすぎないで休んでいけよw
289 :
神も仏も名無しさん:2008/04/22(火) 08:26:55 ID:oahmJyH0
>>280 ニートが問題になっているのは、
高齢化社会で労働人口が減ってるのに、
仕事も勉強もしない若者が増えたら、
経済面で社会の「お荷物」になるからでしょう。
ニートの負担は、
ニートがいる家庭が生活費の負担をしている事と、
無職=納税しないために社会全体の負担になっているという事の
2点があると思うけど、
後者は、出家者して一度も在家を指導せずに一生を
終える仏教国の修行者と、経済負担的に同じだよね。
お釈迦様の時代から、仏教国は、多量の出家者=無納税者を社会的に
認めていたわけだから、
無納税自体は非難されるべき事じゃないんじゃないかと思う。
その人に、在家を指導できるようになる(在家へ恩恵がもたらされるようになる)、
可能性があるかないかという点で違いはあるので、
その可能性があるから投資(無能税を社会的に認める)してもいいのだ、
と考えることもできるかもしれないが。
291 :
神も仏も名無しさん:2008/04/22(火) 12:36:06 ID:oahmJyH0
>>290 出家者の存在を信者が望んでるし、
在家信者が出家する可能性もあるし、
布施には功徳があるから出家者に布施することは喜びだから、
出家者は社会のお荷物扱いされないですね。
社会のお荷物とはやくざのことですか?
294 :
神も仏も名無しさん:2008/04/22(火) 19:13:12 ID:M4ltAe78
非納税者、高齢者、病人、無生産者、出家、前科者、犯罪者、
就労者、政治家、企業のトップ
「こうだから、こいつらに価値がある、価値が無い」と、判断するのも、相対的な主観でしょう。
また、目に見える社会的な貢献度だけが、人間を計る基準ではないのは言うまでも無いことだ。
問題があると思ったら、他人を変えるのではなく、自分が慈悲の瞑想を行い、慈悲や布施で
他人に接する。
「お荷物」とレッテル貼るのは、現物をしっかりみていない、妄想だ。
われわれは、他者には(敵であろうと無生産者だろうと)慈悲の瞑想をし、
自分に対しては精神の向上を求め、社会貢献をしたければ自分がする。
それだけでいい。
今日、長老の本を4冊買った。
手元に計11冊ある。
あと寺和田の初期の頃の薄っぺらい本が
10冊ほど。
瞑想は全然進んでない。
酒止めて精進せねば。
積ん読消化は経典、古典、名著から。
原始仏典すこし読んでみたけど、
むずかしすぎてダメだと思った。日々の生活の参考にはできない。
やっぱりスマさんのように、噛み砕いてやさしく、法話形態になってないとな。。
でもスマさんの本はやっぱり、スマさんという個人のフィルターが
かかっているように思うので、スマさん以外の仏教の本も読んでみたいんだけど、
あまりないですよね。聞き手に親切な法話みたいな本となると。
こんど書店で探してみようとは思っているんですが。
日常生活で原始仏典に書いてあることを実践しようとするのは大変だよ。
嘘をつくな、酒を飲むななど、できないことが多い。
299 :
神も仏も名無しさん:2008/04/23(水) 11:32:17 ID:6aYtJ3ON
酒くらい何とかなるだろう。私の場合、失うものもあったけど
甘酒すら飲まない。ウィスキーボンボン・ブランデーケーキ・酒粕パン
も避ける。酒は強要される場合も有り得るから仕事上、断り切れない場面も
出てくる。周りの理解が必要。
上位の人が私が酒をやらないと知ってウーロン茶を注いでくれたが
返しにビールを注いであげられないのはなんとも居心地が悪い。
398 また飲酒を行なってはならぬ。
この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ,
他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。──
これは終に人を狂酔せしめるものであると知って──。
(Suttanipata)
>他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。──
この場合、目の前で相手が酒を飲むのを止めるんじゃない?
俺はそこまではやってられない。
来世も寺和田の教えに出逢うためにはどうしたらいいんだろう?
長老、この件で何か発言されてますか?
302 :
神も仏も名無しさん:2008/04/23(水) 12:58:16 ID:6aYtJ3ON
>>300 仕事関係ではそこまで出来ないだろう。
プライベートな関係では止めるべきだろうが
相手との関係性にもよるよ。
私は禁酒運動も少しやったことがあるが
他人の家に行って酒を飲むなと言ったところで
「自分で働いたお金で好きなもの飲んでどこが悪い」と言われれば
それまでだ。
相手が聞く耳を持っているか、自分との関係性はどうかなど考慮すべきで
ある。
303 :
神も仏も名無しさん:2008/04/23(水) 12:59:19 ID:7BVY2E13
預流果になるのが一番でしょうけど…。
あまりそういうこと考えてると、
浄土信仰とかと変わらなくなっちゃいそう。
304 :
神も仏も名無しさん:2008/04/23(水) 13:04:35 ID:6aYtJ3ON
>>301 経典(増一阿含経第十六)には次のようにある。
もしこの八法(八斎戒法)を世の清信男女が守るならば、彼等は人中、天上に
生まれ、決して地獄、餓鬼、畜生等の八難の中に生まれることなく、つねに
よい知識を持つ師に会い、よき父母の家に生まれ、辺地に生まれること
なく、仏教流布の国に生まれ、長寿をたもち、人に使われるようなことの
ないような多くの功徳が得られるのである。
>>303 ヨルカは勉強だけでもなれる可能性があると
「実践心理学」第2巻にありますね。
長老の本読みまくるか。
>>304 八法ってなんですか?
306 :
神も仏も名無しさん:2008/04/23(水) 13:17:29 ID:6aYtJ3ON
>>305 いわゆる八斎戒法とは、一名、八関斎、八支斎、八禁とも言われ在家の
男女が一日一夜を期して持つ八つの戒法である。すなわち不殺生、不偸盗、
不邪淫※、不妄語、不飲酒、非時の食を取らないこと、美麗な床に坐ら
ないこと、香を塗り髪を飾らず歌舞を見たり聞いたりしないこと等であっ
て、これらの八法をば、その斎日の間、けっして犯すことのなきをいうので
ある。
(※ちなみに前掲書には不邪淫とありますがこれは不淫の誤りです)
307 :
神も仏も名無しさん:2008/04/23(水) 13:26:06 ID:Z2c/8O02
>>306 美麗な床に座らないことってどういう意味ですか?
308 :
カプチ-ニ:2008/04/23(水) 13:27:42 ID:FpkrhEl0
「日本は地上の楽園です 身分差別が無くて、国民の
みんなが協力しあって暮らして行く国です」
>>306 ありがとう。
不飲酒は守れそうもないな・・
十善戒のほうがまだいい。
310 :
神も仏も名無しさん:2008/04/23(水) 13:35:10 ID:6aYtJ3ON
>>307 パーリ語経典からの日本語訳では
「私は、高い寝床やぜいたくな寝床につかない戒めを守ります。」
註:高い寝床とは肘から指の先までと、親指と中指までの長さを合わせた
長さ、大体65p以上の高さの寝床をいい、立派な寝床とは、指(親指を
除く)四本をそろえて、横に立てた高さ以上の厚さのある毛の絨毯を
いう。
311 :
神も仏も名無しさん:2008/04/23(水) 13:40:27 ID:Z2c/8O02
312 :
神も仏も名無しさん:2008/04/23(水) 15:57:29 ID:yqjZw98a
自分が預流果なのかそうじゃないのか分からない(たぶんそうじゃないと思うが)
自分はないと悟っているのか、それとも頭で理解しただけなのか・・
欲や恐怖は依然としてあるが、以前とは明らかに精神の安定度は違う。
>>299 そういう難しさありますよね。
俗世間との協調性の問題というか。
心所について質問なんですが、
失敗してひどく怒られているときの、心のざわつき
(しんどさ、つらさ)は何になるかというと、ドーサ(怒り)
であってますか?
怒られている状態を受け入れたくないかというと、
よく分からないんだけど、心所のなかでは、
一番これがあてはまるから、これですかね。
それとも、どんな心も 心所のどれかに分類できるわけじゃなかったりしますか?
怖れ、不安、落ち込みとかもあるかもね。
死んじゃえばお前らの望みはすべて叶うような気がする
歩行の瞑想のとき、立ち止まって回る際どんなサティ入れてる?
参考までに聞かせて。
>>315 「怖れ」 も 「不安」 も 「落ち込み」も
そういう心所はないじゃないですか。
心所としては何にあたるのかなあと。
心所のどれかひとつ、じゃなく、複数でいいかもしれませんが、
あの怒られているときの心は、何になるのか知りたくなったので。
不善心所のどれかだったとしたら、注意しないといけないし。
320 :
brown:2008/04/23(水) 21:38:21 ID:rCErGgzm
>>314 それは貪,憍,掉挙であると考えられています。
まず相手に対する依存心があります。さらに,自分自身に対する
プライドがあり,相互依存の結果,心のうわつきが生じます。
根本的には,評価や相手の関心,自己の立場に対する愛着が
あるわけです。そういうこだわりがある。
そのこだわりを手放せば,相手の言動に左右されず,全く無頓着に
どのような言動にも平静になります。
さらに,自己の失敗に対して怒られている状況において,
自分自身へのこだわりが介在しています。
それはもっと注意すれば正しくできたのではないか?それは自分の
能力が低いのではないか?もう認めてもらえないのではないか?
いままで築いた評価が台無しでないか?などという自分自身への
こだわりが介在してきます。
このこだわりの形成プロセスにも,他者への依存が根本となっており,
これを崩すには,日頃から,他者への依存がプライドを生み出す
プロセスを破壊するように修習しておく必要があります。
さらに,相手への依存に,自分自身へのこだわりが介在して,
これらが不協和を唱えた結果,心の散乱,うわつきが生じてしまい,
そこへと囚われていくプロセスが走っていきます。
そうなるともう救う手立てはありません。
さっさとその場から逃げて,帰って寝るのが一番でしょう。
日ごろ忙しくてそんなこと考えていられない人でも救われますか
322 :
317:2008/04/23(水) 22:12:40 ID:L6huwzkZ
歩行の瞑想やってる人おらんの?
回るときって三半規管意識すると気持ち悪くなるから
どこに意識をおけばいいのか迷う。
つか観察じゃなくてその時強く感じられる感覚を探して同一化しようとするから
自分が小さくなった感が拭えず気持ち悪い。
正しい自己観察とはどういうことなのか。
教えてbrownさん!
323 :
brown:2008/04/23(水) 22:30:06 ID:rCErGgzm
>>321 一日24時間のうち,たった一秒でも不善心の生じる瞬間のある人間が
救われる可能性は,針一本の隙間もない。
そうしたところ,一日のうちたった一秒でも善心の生じることなく
終わる者がどうなるかは考えるまでもない。
絶望的です。
瞑想と断食の関係はどう?
断食すると食べ物などがもの凄く強い刺激となって
自分に入ってくるという話を聞くんだけど。
断食して刺激に敏感になってしまうと
瞑想にはかえって厳しい環境になる?
325 :
brown:2008/04/23(水) 22:57:24 ID:rCErGgzm
>>322 正しい自己観察が成れば,心は苦しみを増します。
どんどんと苦しみと闇は増すばかりで,一層ひどい状態になって
いきます。
外へと散漫になるのではなく,内心へと集中することで,
自己は拡大するように感じるはずです。
より心の騒がしい煩悩の音がはっきりと聞こえるようになるので,
とても耐えられないくらい,苦しみを増すはずです。
そのとき,正しく自己観察しています。
しかし,そのとき,とても恐ろしいと感じます。とにかく
逃げ出したい,見たくない,もういいと感じます。それが,痴という
煩悩です。それはいつまでもつきまといます。影のように。常に。
それは最後までつきまといます。常に心を別の煩悩で覆おうとします。
もし別の煩悩で覆われれば,痴は,姿を隠します。心を恐れさせる
必要がなくなったからです。
しかし,正しく自己観察すれば,痴の働きはどんどん強まり,とても
耐えられない恐れを引き起こします。
それに勝利すれば,全てに打ち勝った者となります。
>>324 断食すると妄想がなくなって瞑想しやすいよ。
刺激に敏感になるのは断食の初期だけ。
それを通り越すと欲が取れる。
そして、妄想が少なくなる。
327 :
brown:2008/04/23(水) 23:08:51 ID:rCErGgzm
>>324 瞑想と断食などの苦行は,逆方向です。
瞑想は徹底的考察あるいはリラックスすることで心本来の集中力を発揮させよう
とするのに対し,苦行は,意志力によって集中力を高めようと努力するものです。
しかし,極端な苦行は,意志力を破壊し,かえって脱力,リラックス
させてしまいます。そうして,不意に瞑想的な状態に移行してしまいます。
それはドラッグによる覚醒体験と同じようなものです。
結局何の智慧も生み出しません。単に変な体験をしただけに終わります。
ただし,それは座禅や単なる瞑想による神秘体験でも同じことです。
はっきりとした現実認識を欠いた取り組みは,自己と他者に対する理解を
生まないからです。
>>320 どうもありがとう御座います。
勉強になります。
憍 というのを知らなかったのですが、
慢(自分と誰かを比較する心)のことですよね。
慢のうちの、自分と誰かを比較して自分を高みに置く場合が、
憍 ですかね。
貪 - 相手への依存
ということが分かりにくいのですが、
相手に認めてもらいたい気持ち、ということでしょうか。
ぜんぜん自己分析できないんだなぁと、反省しました。
brownさんみたいに分析できるようになるには、どうしたらいいでしょうか・・・。
心所について詳しく勉強したくて、唯識の本もチェックしたんですが、
結局、チェックしたなかでは、スマさん本(アビダルマ本)が一番分かりやすく
かつ詳しく、これを頼ることにしましたが、今回の例のように、
どの心所がでてきているのか分からない事が多々あります。
>>318 ごめん。心所のことだったね。
ただ、今ここ、で怒られた時の事を思い出すのは過去を考えている訳で。
だから、そういうことを模索するよりも 怒られた時に即サティ、ラベリングができるように
瞑想をがんばるべきじゃないかな。
その時の気づきが、恐れ、不安、怒り、落ち込みとすぐにラベルが貼れるようになりたい。自分も。
>>325 ふええ・・・すごいですね・・・
ということは、苦しみを求めることが正しい自己観察に繋がるのでしょうか?
なんだか悟りとは逆説的ですが。
331 :
brown:2008/04/23(水) 23:14:01 ID:rCErGgzm
>>324 >>326 ただし,
>>326にあるように,断食や禁欲,苦行には,心を清める効果は
あります。
また逆に,修行が進めば,食欲は食べるのに苦労するくらいになくなって
しまい,意識的に栄養をとるように強いて食べなければならなくなります。
だから,食は苦だと言われるのです。
冥想中食べ物のことばかり浮んでくるよw
333 :
brown:2008/04/23(水) 23:36:06 ID:rCErGgzm
>>330 輪廻は全て苦しみです。苦しみを苦しみと認識することが正しい悟りです。
凡夫の不十分な認識は全て輪廻です。したがって,物事を正しく認識すれば
するほど,苦という認識だけに専注するようになるはずです。
経証から言えば,仏陀曰く,「修行者は二種の観察をする。『これが苦である』
という観察と,『これが苦の因である』という観察である。この二種の観察を
する者は正しく解脱する」と。
体験から言えば,brownの心が特別穢れすぎていただけかも知れないけれど,
とても耐え切れない全人格的な絶望,地獄を通り抜ける必要があります。
しかし,全く心配する必要はありません。どのような最大限の苦しみも
何ら心を損なうことなく,「ああ苦しいんだな」と放っておけばなんと
いうことはないからです。なぜなら,恐れるものは何もないからです。
やがてその苦しみは,「苦しい」という想いも消し去ってしまいます。
やがてその絶望は,自我も認識も消し去り,どこかに逃れたい,解脱したい
という想いすら除却してしまいます。そのとき,やっと,望みの消滅が成就し
ます。
そうして,輪廻から離れることなく,輪廻の内側から輪廻と涅槃の境界を
破壊することができます。
そこに到達する鍵は,恐れを恐れない決意です。
334 :
brown:2008/04/23(水) 23:52:34 ID:rCErGgzm
>>328 とにかく徹底的に考察し,それを継続することです。
洞察は,徐々に生じてくるものだからです。
心がある散乱状態を考察すべく集中していくと,なんだかボーッとして
きます。なんだか気持ち悪いというか,ふわつくというか,嫌な感じが
します。しかし,それに飲み込まれずに,かつ焦らず,時間がかかること
を腹に据えて,じっくりと自分自身の心に取り組みます。
常に,常に,なんとか心を分析し,浄化しようと努めていくと,徐々に,
身の丈にあった洞察が生じてきます。そうやって,一歩一歩進むしか
ないのです。それを諦め,怠れば終わりです。もう進歩はありません。
しかし,怠ることなく,精進すれば,少しずつ,進んでいきます。
それ以外に道はありません。
しかし,そうして進んでいけば,誰でも,数ヶ月も真剣に取り組めば,
はっきりとした洞察とともに,心の本性を垣間見るところまでは必ず
行きます。断言できます。
それは,りんごが木から離れれば,下に落ちるように,そうなっている
からです。
335 :
brown:2008/04/24(木) 00:04:08 ID:praooq+D
>>328 それから,常に事実を大切にすることです。
また,どのようないやらしい,汚らわしい,腐った心をも,恐れることなく
直視することです。
それにあたって,落ち着いて,じっくりと取り組むことです。
外のせいにするのではなく,事実を把握し,自己の心の煩悩を直視する
ことです。
生じてくる苦しみは甘受し,耐え抜くことです。
自己の穢れを恐れないことです。
誰も助けてくれるものはない,孤独を知ることです。
この心の穢れや騒がしさに対して,外部に対して,何の解決力も能力も
ない自己の無力さを知ることです。
それを解決する道も,それを解決しないで置いておく生き方も,何も
分かっていない,自己の無知を知ることです。
>>333 どうもです。
>輪廻は全て苦しみです
解脱しない限り何度でも苦しみの輪廻を廻り続ける・・・まるで地獄ですね。
なぜ神様はこのような世界をお作りになったのでしょうか?
生まれてきた赤ん坊が間もなく餓死で苦しみながら死んでいく。
このような不条理な世界を我々が望んだというのでしょうか?
338 :
神も仏も名無しさん:2008/04/24(木) 00:14:42 ID:6rRIWhpA
みんなすごいな、私は最近やっと肉食だけやめた段階。
しかし昔は野菜などまったく食べず、魚も少しだけで、完全に肉食だったんだけど
肉やめて菜食になり1週間ほどすると野菜ってこんなに美味しかったのかと思った。
それでも1週間くらいではまだ肉を我慢してる状態で、肉を食べたくなったら
肉の脂っこさに最も似ていると思われるウナギを食べて我慢。
現在肉断ち1ヶ月、体がものすごく軽い、物理的にも多少軽くなったがそれ以上に軽い。
ただ性器の元気は明らかになくなった。かと言って精神的な性欲が無くなった
科と言えばそうではない、性欲も少なくはなったが無くなったわけではない。
これは辛い、性欲はあるのに体が反応しない。
今度は性的に体を反応させる為に肉を食べてみるか?と思ったが
あんなに好きだった肉なのに食べる事を想像すると気持ち悪くなる。
おそらくこのまま行けば精神的な性欲も無くなっていくような気がするが
それも不安に思う。
みなさんは性の問題はどうしてますか?やはり捨てていくものなのでしょうか?
今日はもう寝ますのでレス頂いても返信は後日以降になります、おやすみなさい。
前回のオーラの泉で、榎木さんが出演していたよね。
個人的には、この人の物言いが高飛車な感じがするので
好きではないんだけど、人間は自分の常識で生きていて
その常識が現実を作り出すみたいなことを言っていたのには
同意。
食べなきゃ死んじゃうと思っているから、死んじゃう現実が
その常識に合わせるようにやってくる。
食べなきゃ食べないでもいいという考えでいれば、食べなくても
全然平気になってくる・・・ってさ。
天風の師匠のカリアッパも
「食べ物がもっと貧しくなっても困らない。おれたちは気で生きているからな。」
と言い放って、もっと栄養価の高いものを食わせろと言った天風をぎゃふんと
言わせたんだったね。「生き方の違いか?」と。
断食が終わると、食い物から放たれる匂いからでもエネルギーは摂取できる
みたいなことを言っていた行者も知ってる。本当なんだろうか。
食い物に限らず、あんまり刺激が強いと現代の社会では生きられないよ。
それでなくても、悪い話ばかりをニュースで見させられるし・・・
340 :
brown:2008/04/24(木) 00:22:44 ID:praooq+D
>>337 不条理で理解に苦しみますが,無始の過去より我々が望み続けてきたことです。
神様とは自分自身のことであり,心の中に居ます。
彼が何をしているかというと,不条理を引き起こすその望みの手綱を
しっかりと持ち続ける働きをしています。それは全くばかげたことで,
そのトリックが分かれば,なぜそのようなものに騙されて続けてきたのか
全く理解に苦しみます。しかし,そのトリックを暴くまでは,とても
信じがたいその魔法に,我々はかけられたまま,ただ苦しみしかない
この六道をさまよい続けるように宿命付けられているのです。
>>340 不条理を体験したくて、この世に出てきたという現世論には
納得しかねるなあ。
同時に、過去生における罪業解消としての現世体験論や、
過去生罪業陰徳に基づく今生不条理累積等式論にも賛同
しかねるのですわ。
怒り、悲しみ、これらをサティし続けるといいのかな、、、。
343 :
brown:2008/04/24(木) 00:57:31 ID:praooq+D
>>341 違う違う。不条理を不条理と分かっているわけではない。
喩えて言えば,詐欺師が「これはお得ですよ」と言うのに騙されて
買ったが,買ってみるととんでもないものだったという感覚でしょう。
そのトリックは鮮やかで,実のところ買ってみた結果,騙されたことに
気づいているとも言えないわけです。ただ,なんとなく財布を見ると,
どうも残金が少ないという現象だけに気づいているかも,という感覚
ですね。
その感覚に鋭い人は,なぜ残金が少ないか,原因を辿っていきます。
非常に複雑ですが,よくよく分析していくと,どこかにお金がどんどん
流出していることが分かってきます。
そして詐欺師の罪を追及し,彼との付き合いをやめます。
するとむしろ,お金は勝手に湧き出しているので,どこかから集めてくる
必要もないことが分かってきます。
しかも,これらすべてが,幻というか,非現実的です。何か夢のような,
白昼夢の世界です。何か夢のようなものにこだわることで,輪廻のフィルターが
真実を覆い隠し続けます。しかし,それらは虚妄で,苦しみや不条理は
実は何も存在しない。魔法の幻覚です。
344 :
brown:2008/04/24(木) 01:10:44 ID:praooq+D
この輪廻は悲しい。
人々が輪廻の幻覚に惑わされているのは悲しい。
輪廻の苦しみは悲しい。
人々がその苦しみから逃れる術もなく激しく悩み苦しんでいるのは悲しい。
自己の頑なな信仰に固執して,現実に効果のある方法に気づかないのは
悲しい。
無知への恐れから眼をそらしてしまうのは悲しい。
別にどのような方法をとっても,どのような道を辿ってもいい。
その真剣な苦しみから,何らかの方法で救われますように。
別に地獄に堕ちようが,天界でひと時の忘却に没却しようがかまわない。
その真剣な生き方がやがて報われますように。
誰かが誰かを救いますように。
偶然でも,何かが人々を救いますように。
偉大な仏陀の功徳が世を救いますように。
345 :
神も仏も名無しさん:2008/04/24(木) 01:18:29 ID:WQLT2vrA
brownさんは預流果からかなり進んだようですね。
346 :
神も仏も名無しさん:2008/04/24(木) 01:56:30 ID:Pan678+m
この人が預流果かどうかはしらないけど、
その真剣な苦しみから,何らかの方法で救われますように。
別に地獄に堕ちようが,天界でひと時の忘却に没却しようがかまわない。
その真剣な生き方がやがて報われますように。
誰かが誰かを救いますように。
偶然でも,何かが人々を救いますように。
偉大な仏陀の功徳が世を救いますように。
これには同感。自分含めてみんな憐れなもんだよ
>>327 そうかな?
地橋さんは瞑想が進まない人には食事を減らすように指導しているよ。
一週間の集中瞑想のとき、少食で瞑想させるんです。
しかしね、これはきつい。
それくらいなら、いっそ断食する方が楽です。
断食だと食欲が取れるので、かえって楽なんです。
やはり、悩みどころは、似ているのですね。
私も、過大な自己評価と、他者から視線に過剰に反応してしまう自身の心に、
疲れてしまいますことが多々あります。
今の私の課題は、このクダラナイ心の傾向を捨ててしまうことです。
brownさん、書き込みあがとうございます。
参考にさせて頂きます。
では、出勤してまいります。
生きとして生けるものが幸せでありますように。
すっかりスレチになってますね。
茶さん。
語り、教えたければ鬼和尚のようにご自分でスレを立てたらいかがですか。
私はbrownさんにいて欲しいな。
別スレで質問できるならそれでも嬉しいけど。
何故、いて欲しいのですか?
とにかく瞑想するのみです。
するとわずかながらも集中力が生まれてきます。
その集中力でテーラワーダ協会HPの長老の講義や根本仏教などを
熟読なさって本当の真理をご自分で発見されてはいかがでしょう。
アビダンマ講義シリーズもとても参考になると思います。
長老の歩んでこられた道を観るか。突然現れた悟り人を観るか。
それは、あなたの自由です。
ですが、このスレはヴィパッサナー瞑想を実践する方が
その方法に不安や疑問を感じた時に質問する場ではないでしょうか。
長老の瞑想指導は、とにかく厳密です。
一語一句聞き逃さず、言われた通りに実践するのみです。
わからないことを子供がお母さんに聞くように安易に質問する前に
ご自分を観察さなることだと思います。
自分は
>>321さんではないんですが
>>323さんで書いている
>一日24時間のうち,たった一秒でも不善心の生じる瞬間のある人間が
>救われる可能性は,針一本の隙間もない。
これ凄まじいですね。やっぱこれぐらいの覚悟必要ですってことですよね。
不善心所が大量に観られる自分など洒落にならないです。
ドーサ、マーナ、ローバ、イッサー、時にウッダッチャ。
長老のように日々生じるものを受動観察と、
止められるものは止めたほうがいいってことなのかな・・・
というかホームページですか・・・?
>>351 おそらく
>>351さんは私を誤解されていると思います。
なぜそう思うかは、文章を書くのがヘタな私にとっては、
書くと時間がかかってしまいそうなので、
省略させてください。
354 :
神も仏も名無しさん:2008/04/24(木) 13:45:05 ID:Pan678+m
>ですが、このスレはヴィパッサナー瞑想を実践する方が
>その方法に不安や疑問を感じた時に質問する場ではないでしょうか。
違うと思う。テンプレを見た限りではそうなっていない。
また、仏教スレにおいて話の向きによっては多少のテーマの振幅は仕方ないと思う。
だが、ヴィパッサナーに特化したスレもあっていいと思うので、
スレタイから「A・スマナサーラ」という言葉を抜いて、
テンプレも「ヴィパッサナー瞑想の実践において不安や疑問を感じたときに質問するスレ、
その他の話はお断り」とでもして新たにあなたが立ててもいい。
355 :
神も仏も名無しさん:2008/04/24(木) 13:51:04 ID:zDU7KWkC
ブッダの実践心理学第2巻買っちゃいましたよ。
高かったけど、立ち読みしてたらやっぱり
ちゃんと読んどいた方がいいかなと思いまして。
ここのスレも時々覗いて参考にさせてもらってます。
前にここで歩く瞑想1時間もやるの何で?って質問したものです。
「現代人のための瞑想法」に
ある程度長い時間やらないと効果が出ないと書いてました。
でもヴィッパッサナーさぼってます。だめですね。
皆さんはヴィッパッサナー等やってみて
どんな変化がありましたか?興味があるのでよければ教えて下さい。
テーラワーダ協会もチベット問題で声明出してるらしいね。
テレビで宮崎が言ってた。
声明で生命が救えるのだろうか?
ブラウンさんは小金持ちでふつうの労働者より暇もあるから
言えるんだろう
でも、一番俗っぽい2ちゃんねるのスレで高度な瞑想の話をするとは…
分かっているのかなあ?ブラウンさん。
そして相談に来る人も。ここは一応2ちゃんねるだよ。
長老が書いてたけど、一日一時間瞑想しても
残り23時間無自覚では意味がないと。
2週間くらいぶっつずけで何時間もやるしかないと。
じゃ俺らむりじゃん。
>>355 目立つ変化はないかも。
人の体験談では、結構劇的な変化があったりするけど、
そういう劇的なのはないな。
仏教を知った時にすでに最悪な状態からは抜けていたということもあるけど。
最近気づいたのは、ご近所トラブル(マンションの騒音問題)が、
うちvs隣人では起こらないのに、
その隣人vs 別の隣人で起こっている事。
>>361 別の言い方をすれば、瞑想で高い効果を得ても、
日常生活で騙されたり、嫌がらせをされたりしたときに
ムカッときてしまうのでは、瞑想は何のためだったのか?
ということになってしまう。
>>360 2chも色々だと思う
>>361 私もそれ読んで、なんだそうなのかよ、と思ったよ。
スマさんは違う本かHPかのどこかで、少しでも瞑想したら、
後戻りしないって書いてたのに。
以前に、後戻りしない事に関して質問したいと思っていた。
そしてそれを忘れた頃に、
>>361のその箇所を読んで、なんだー
やっぱりそうかーと思いました。
瞑想をするという行為自体が波羅蜜を積むという話もある。
精進波羅蜜か、智恵波羅蜜か、どれかは忘れたけど。
パーラミターね。
今生で成果が出なくても来世以降にその波羅蜜が意味を持つこともある。
だから、たとえ1分でも瞑想するのが大事なんだそうだ。
これはスマ長老の話じゃないけど。
瞑想しているけれど、怒り癖、それも仕事で
自分に責任をなすりつけられたとかなんて
ことがあると、そりゃもう瞬間大激怒。
癖って治らないんじゃないかと自分で諦念。
>>338 性欲の何が悪いのか分からん、と思っていました。
でも、仏教は性欲は捨てたほうがいいと言っているみたいなので、
最近ちょうど、気になりはじめた所です。
在家には性については何もいわないのかと思っていたけど、
どうも、在家も、子供を作る計画があるとき以外は、
性欲と無縁でいたほうがいいみたいですね。
世の常識とまったく違いますよね。。
五感は目を光らせとかないと、煩悩だらけで冥想も集中できないよね。
ヴィパッサナーは、自転車と同じで、乗り方が身につけば、乗り方を忘れない、
一分でもその分は得をしたとおもってやればいい
とのこと。
慈悲の瞑想も、24時間そのつもりで、とのことだった。
自分も、ニュースをみれば、つらい事件や事故はいくらでもあるから、
他人事と思わないように、身を置き換える努力はしてる。
やはり自分と同じようにだれだって幸せになりたいわけで。
なるほど、自分の身に置き換えることで
自分の身にその結果を引き寄せるのですね、わかります。
>>367 テーラワーダね 出家に関しては女の声も聞いてはいかんというほど厳格だけど
在家に関しては緩やかみたいだね 「浮気をするのはだらしがない」という程度という
のをどこかで読んだことある
それどころかスマさんは一夫一妻を根拠のないキリスト教道徳として批判している
昔のインド貴族みたいに妻が複数いて
「よし 私にはお気に入りの妻が20人もいるのだから 絶対不邪淫戒を守る」
というのを想像してニヤニヤしてますがw
慈悲の瞑想の3つ目の「私の願いがかなえられますように」ってあるじゃん?
これ喜を指してるんだよね?喜びってのは例えば
子供が親におもちゃ買ってもらって嬉しい!
とかそういうこと?これって自己欲を満たすことじゃないの?
まあ完全に欲を断ち切るのなら
食事もただ無味乾燥な栄養摂取の行為に成り下がりそうだが。
あと私の願いってのを具体的なお願いに置き換えてもいいの?
例えば「いい仕事に就けますように」とか。
そっちのほうが実感こもるんだが。
374 :
神も仏も名無しさん:2008/04/25(金) 07:53:40 ID:Jpf/yX2P
>>373 ちょっと違う気がする。
自分の願いごとがかなったとしたらうれしい。
同じように、他人の願いごとがかなったときに
喜べる心をみにつければいいのでは。
あと、願いごとも「不満足」の一種だと思います。
願いごとがかなうということは、願いごと(不満足)がなくなること。
「就職したいよ就職したいよ」という願いは、
就職できていない現状に苦・不満がある。
不満がなくなれば、願いごとについての妄想がなくなる。
就職した人は「就職したいよ」と願わない。
就職しなくてもいい立場の人も「就職したい」と願わない。
375 :
神も仏も名無しさん:2008/04/25(金) 07:56:41 ID:Jpf/yX2P
願いごとがかなうということも、
「悩み苦しみがなくなること」の変形バージョンでは。
「悩み苦しみがなくなりますように・願いごとがかなえられますように」とは、
「怒りと欲を感じるできごがなくなりますように」
ってことでは。
376 :
神も仏も名無しさん:2008/04/25(金) 09:15:01 ID:risOpM1m
クイズ番組じゃないんだから当てずっぽはやめなさい。
少しは先哲の遺したものでも読めよ。
「悩み苦しみがなくなること」──悲の修習
「願いごとがかなう」──喜の修習
377 :
神も仏も名無しさん:2008/04/25(金) 16:58:16 ID:pU8+/RWs
最近慈悲の意味に納得できた気がする。
確かに人は独りでは生きては行けないんだろうけど、
みんな本音と建前を使い分けて、人為的な道徳観のフィルターの上で付き合うのってなんか寂しいなあと
慈悲はわざわざ育てなくては身につかないものだなんて空しいなあと
少し人間不信に陥りかかっていたんだけど、そうじゃない。そうやって考えを巡らせているうちに一つ希望の光が差してきた。
人はみんな寂しい。他の人だって繋がっていたい。それは本能だ。それだけは確かだ。
その上で慈しみの気持ちを育てる努力をしなければいけないのは自明じゃないか。
これからは慈悲の瞑想にも気持ちが入りそうだ。
378 :
神も仏も名無しさん:2008/04/25(金) 17:29:33 ID:oBgXbgwv
素晴らしい。
379 :
神も仏も名無しさん:2008/04/25(金) 19:28:42 ID:YBSp+DNJ
>>377 そうだよね。
せっかく生まれてきたんだから、だれだって幸せになりたいし、悲しいのは嫌よね。
おなじ人間、今日自殺した人だって、はつらつとした一日があっただろうし、どんな気持ちでなくなったんだろう、家族はどんな思いなんだろうと思うと、
苦しみが取り除かれるよう祈らずにはいられない。
「だれだって」悲しい目にはあいたくないはずだし、できれば安心したいはずだしね。
だれもが幸せでありますように。つらい悲しみが解消され、心が悟りに導かれますように。
380 :
神も仏も名無しさん:2008/04/25(金) 19:29:37 ID:YBSp+DNJ
×嫌よね
○嫌だよね
どうでもいいことだけど、男だからw
>>364 「現代人のための瞑想法」でしょ?
とりあえずGWの5日間一日10時間くらいやってみるよ。
GWや年末年始の休みには断食道場に行く人が多いらしいね。
現代人の体と心は消耗しているんだよなあ。
何か目新しい情報はないかと、ついつい掲示板にかじり付いて見続けてしまって
(依存症?)、実践がおろそかになってしまうのですが、ヴィパッサナー修行は、とにかく
ひたすら実践して掴め!ということでいいでしょうか?
いいんじゃない。正しく実践ね。
家の中で歩く瞑想をやってます。足踏みだけで30分歩く瞑想を
やってもリラックスできました。ちょっと足の付け根と骨盤の
辺りが筋肉系が痛いですけど。
慈悲の瞑想で生命を慈しむことと
ヴィパッサナーで生命なんて大したことない
無意味なものだ、と捉えるのと矛盾してしまう。
387 :
神も仏も名無しさん:2008/04/26(土) 21:20:58 ID:EgRwDNBC
たいしたことない、無意味ってそれは価値判断が入ってるんじゃないか?
>>386ここにけっこうくわしい
http://www.j-theravada.net/qa/gimon44.html Q:ヴィパッサナー冥想と一緒に慈悲の冥想もするように言われていますが、
互いにまったく関係のない冥想方法のように思われます。
生きとし生けるものすべての幸せを願うことと、生きることを『苦』だと思って解脱を目指すことは、正反対の行為だと思えますが。
A:実践の方法から見ると、慈悲とヴィパッサナーは背中合わせになって、
逆方向を向いているように見えます。
慈悲の冥想はすべての生命の幸福を願うことで、『生』を認めています。
ヴィパッサナーは個人の解脱を目指して、『生』を脱出しようとしています。
しかし慈悲の冥想実践の中身を少々考えてみてください。
まず自分が幸せであるように念じて、「個が幸福に生きていきたい」という当たり前の事実を確認します。
次に、自分に関係ある人々もまったく同じ気持ちでいることを理解し、確認します。
そこで、我々が、幸せに生きていきたいという立場になります。
『個』に限っていた理解が、『我々』という次元まで大きくなったのです。
次に、我々だけではなく、いかなる生命でも幸福に生きていきたいということを理解し、
確認します。結果として「幸せになりたいのは誰ですか」と聞くならば、
「私ですよ」という答えではなくて「一切の生命ですよ」という答えになります。
『個』の次元が『我々』に成長し、次に『一切の生命』という次元で見られるようになります。
生命を無意味だと思い込むのではなくそれをありのままに過大評価しなくなれば苦を見出す
patipada 購読申し込み迷うなぁー
金額が微妙だ・・・
まだ読んでないスマ本いっぱいあるしな
一切皆苦はあくまで世俗諦
一般の思考や、弱い感情の場合は、サティを入れると
すぐに「いまここ」に戻れるのですが、
「怒り」のように大きな感情にサティを入れるとき、
すぐに怒りから身体に意識をもどすと、怒りを抑圧しているような感格がある。
かといって、あまり長くサティを入れると、感情と一体化してしまう
なかなか、どの程度この感情を確認するのに時間をかければいいか、
配分がむずかしいのですが、長老やゴエンカさんがどういってるか
ご存知ないですか?
また、日常でのサティと、きちんと時間を取ってのヴィパッサナーでは、その際の配分は同じでしょうか。
sukhi hotuでググってグナタラナ長老の瞑想解説を読んでみると参考になると思います。
ご質問には、気づきと言う項目が特に参考になるかもしれません。
感情へのサティは、難しいですよね。
自分も昨日、久しぶりにどうすることもできないくらい感情に振り回されました。
その時は、身体へのサティは入れずに 感情にピタッと合うラベルを
貼り付けまくりました。
「怒り、欲、嫉妬、心配、不安、混乱、落ち込み、興奮・・・・etc」
それでもだめな時は、感情を一切排除してひたすら行動にサティを入れ続ける。
迷わずどちらかへの切り替えが、必要だと思いました。
>>また、日常でのサティと、きちんと時間を取ってのヴィパッサナーでは、その際の配分は同じでしょうか。
これは、その時の状況に合わせてだと思います。
勤務時間が長い方やじっくり時間を取るのがむずかしい方は、日常の行動の中で出来る限り
サティを入れ続けるのが理想ではないでしょうか。
あまりにも縛られると感じる時には、時間を決めて実践してみては。
慈悲の瞑想もとりまぜながら 色々工夫するのも楽しいと思いますよ。
>>392 すぐに申し込んだほうが良い。
パティパダー購読の魅力は、本誌もさることながら約2ヶ月に1回ついてくる施本だ。
本屋では買えない長老の言葉が詰まってるぞ。
機会を逃したら二度と手に入らない内容でいっぱいだ。
感情を受け入れ、観察しつづける
もし振り回されても自己嫌悪しない
399 :
神も仏も名無しさん:2008/04/27(日) 18:44:14 ID:3BZIWaVH
ラージャヨーガ スワミヴィヴェーカ-ナンダ
>>395 >>397 ありがとうございます。大変参考になりました。
sukhi hotuのサイトもじっくりみて見ます。
自己嫌悪しないことも大切ですよね。自己嫌悪自体に気づかないこともしばしばですが、
これから気づきの力をつけていきたいと思います。
>>396 ありがとう。
たぶん申し込みます。
本が沢山でてて、専門誌もあるのは嬉しい事なんだけど、
なんか好きなバンドのCD揃えたいけど、
ぜんぶ揃えると高すぎる、みたいな感じになってる。
激しい感情の場合身体に反応がでるから
それを観てると落ちるよ。
ヴィヴェーカナンダは悟ってない。
>>402 俺もそう思う>悟ってない。
彼は一生懸命師匠の言葉を解釈しようと努力し、それを世界に広めるのが限界だった。
仏教ならその波羅蜜で来世は今度こそ悟れる境涯に生まれ変われるといいねと思う。
>>403 スマ長老はJ・クリシュナムルティは預流果だ
と言っていたが、俺は悟ってたと思う。
ラマナ・マハリシもラーマクリシュナも
おまけにダンテス・ダイジも。
貴兄のレスで入会する事にした。
そうだよね。
スマ長老個人の見立てで、
J・クリシュナムルティは預流果以上に感じる。
伝記を読むと尋常ではない。
正直、長老やダライ・ラマ以上じゃないかと思う。
>>405 やっぱそう思う?
「生と覚醒のコメンタリー」なんて読むとすごいよ。
ダンテスがJは「20世紀最大の救世主」って言ってるよね。
唯クリシュナムルティの本で理解できなかった
ところをスマ長老の本で「なるほど、そうか」と
わかったところがけっこうあるから
スマ長老もヤッパすごいんだろうね。
でもJの方が上だ。貴兄に賛成。
スマさんは感情を抑えるようにという指導だね。
このスレでもそういう人が多い。
クリシュナムルティは、感情を抑えるようになんていわない。
感情を見るようにというだけ。サティを強調する。
このへんクリシュナムルティのほうが人間の本質を見抜いて
いると思う。
人間の本当の問題は、感情が出てしまうことにあるのではなく、
感情を抑えてしまうことにある。
だから、感情は出した方がいい。
心理療法なんかで、感情を出すことを強調するのはそのため
です。
無意識に抑えてしまっている感情に気付き、ひとつひとつそれ
にサティを入れていくことが出来れば、人は変わるよ。
長老は道徳を強調するよね、確かに。
若い頃一番好きだったバグワン(ラジニーシ)は、若い人は知らないだろうけど
カタルシスを瞑想の中に取り入れていた。
抑圧するなと。
ヴィパッサナーで心配なのは抑圧なんだよね。
現代人はストレスのかたまりだからいきなり
ヴィパッサナーをやっても長い長い年月が必要になると思う。
スリランカやブッダの時代とは違うからなあ。
>>408 まあ、だから「慈悲の瞑想」が必要なんじゃないか?
正直長老も日本がこんなにストレスの多い社会だとは思わなかったから内心びっくりしているとか。
で、「分かったから慈悲の瞑想を生涯続けるつもりで私の話を半分に聴きなさい。
そうして解脱できなくとも俗世で最大限に生涯を全うしなさい」って感じなんじゃないかな。
「慈悲の瞑想」自体は日本語以外の言葉になっていないようだし。
「お釈迦様の智慧を結集して創った最初にして最後の簡単な瞑想」
それが「慈悲の瞑想」で、今の「忙しい」と言っている日本人(修行に至れない人々)の言い訳を封じる最終兵器なのかもしれない。
正直日本全国に「慈悲の瞑想」だけが広がっても良いんじゃないかと思っている。
だからCD「パーリ語日常読誦経典」には「慈悲の瞑想」が入っていて「ブッダの安らぎの声」には慈悲の瞑想は入っていないんだよ。
別に今の段階で長老自ら「慈悲の瞑想に副作用が入っている」なんて公言していないでしょ。
もしあったら真っ先に書籍にして修正版を出すって。長老の事だから。
素人の目から言わせてもらいました。
また玉石混淆なスレの模様を呈してきました
>>410 >だからCD「パーリ語日常読誦経典」には「慈悲の瞑想」が入っていて
「ブッダの安らぎの声」には慈悲の瞑想は入っていないんだよ。
意味がわからない。どういうこと?
>慈悲の瞑想」自体は日本語以外の言葉になっていない
そうなの?
アメリカとかにもテーラワーダ広まってそうだと思ってた。
ヴィパッサナーで抑圧?
地橋氏の著書見る限り心随観でそれも解けそうだと思うけどな。
その点で言うなら慈悲の瞑想の方が難しい気がするなあ。
>>411 結局は
>>388を見ろってことだろうけどね。
けど、ヴィパッサナー瞑想を本格的にやろうなんて思って実行できる人の方がはるかに少ないからねぇ。
それと最近また長老は書籍を出しているし、このところ新書もたくさん出しているし、
ヴィパッサナー瞑想がきちんと出来る国にいるなら
「まさか老病死に勝つ方法があったとは」なんて題名でハードカバーを出したりしないよ。
日本だから「お釈迦様の教え」をたくさん出しているんだよ。
>>412 そりゃテーラワーダは広まっているだろうけど、「慈悲の瞑想は他の国でも広めていますよー」って言って、
日本語以外の言葉で紹介した事ある?パーリ語で慈悲の瞑想聴いた事ある?ないでしょ。
っていうか書籍でも紹介されていない罠>日本語以外の慈悲の瞑想
このスレ伸びるの早いよね。
範囲も広いし。
考えてたんだけど、質疑応答スレが一つあってもいいかな?
作ろうかね?
「テーラワーダ☆質疑応答スレ」 とかどう?
玉石混淆な感じでも、スレチになってないと思うし、
自分が興味ないところはスルーしてロムってればいいと思うけど、
もう一個あったほうが、適度な速度になっていいかもと思う。
ヒント:サッベー サッター バワントゥ スキタッター
>>415 俺が知る限り寺和田協会スレは2つあるけど
どっちかが盛り上がってるときはどっちかがクソスレというか隔離状態になってるよ
だから増やしても仕方ないような
日本で教えてる慈悲の瞑想はスマさんが日本人ようにアレンジしたんじゃなかったっけ。
違う文言なら、ゴエンカさんの本にも載ってるし今日教えてもらったグナラタナ長老は
アメリカをメインに活動しているそうだけど、違う文言で慈悲の瞑想を説いてるようだ
でも、テーラワーダ以外でも、こうした慈悲の瞑想と類似したものは
普遍的に多いんじゃないかな。
ちなみにチベットの伝統にも慈悲の瞑想(四無量心の祈り)はあるよ
瞑想バイブルっていう一見スピリチュアル系の怪しい本に(内容は悪くないけど訳者がREIKI系の人だった)チベットの瞑想として載ってた
>>414 テーラワーダの教えのキモは
ヴィパッサナーと慈悲の瞑想だと思ってたから、
当然、スリランカとかの仏教国でも、アメリカとかでもテーラワーダが
伝わっているなら、当然、慈悲の瞑想は浸透しているものだと思ってたんだけど、
そうじゃないってこと?
>「慈悲の瞑想は他の国でも広めていますよー」って言って、
>日本語以外の言葉で紹介した事ある?
そういうことは、日本人は別に知らなくてもいいことだから、
紹介してない事が、実際に広まってない事の根拠にはあまりならないように思うけど。
>>418 アッシジの聖サンフランシスコの祈りとか、
「世界人類が平和でありますように」も慈悲の瞑想の一種か
チベットで有名なのはトンレンか。
天台でも朝は観世音菩薩に祈り衆生の幸福を祈願、
夜は阿弥陀仏に祈り衆生の悟りを祈願するって話だけど、
ここまで行くとスレ違いになるか。
ちなみに、ゴエンカさんのメッタ・バーバナの文言は、
「わたしは、知ってか知らずか、意識してか意識しないでか、その思いや言葉、あるいは
行動で、わたしを傷つけた人々を許します。
わたしは、知ってか知らずか、意識してか意識しないでか、わたしの思いや言葉、ある
いは行動で、わたしが傷つけた人々に許しを請います。
みんな、わたしの友達だ。ひとりも敵はいない。 」
>>410 慈悲の瞑想でもカタルシスにはならないんだよね
残念ながら。
その点ラジニーシは瞑想の中にサイコセラピーを
組み込んでいるというか、こっちをやってヴィパサナに
入るといいと思うんだ。
もっともクリシュナムルティは完璧にラジニーシを否定してるけど。。
長老は否定するが感情をだしても(一人で瞑想の中で)
しっかり離れていれば落ちていくとおもうんだよね。
元々は「梵住」っていってたくさんあるサマタ瞑想の一つなんだよ
425 :
神も仏も名無しさん:2008/04/27(日) 23:23:37 ID:QyCMIENu
慈悲の瞑想について語るときに、
なんか、「慈悲慈悲」って意気込みすぎの人が多い気がする…。
サマタ瞑想なんだから、雑念をはらって慈悲の言葉に意識をもどす、
妄想がでてもすぐに慈悲の言葉にもどす、
っていう部分が大事なんじゃないかなぁ。
長老も数あるサマタのなかでも慈悲の瞑想を推薦します
って書いてるよね。
誰かノーマインド瞑想やってみてよ。
ほんとに深く入れるし観察できるから。
そして感想書いてよ。
慈悲の瞑想の発音抑揚ってなんとかなんないもん?
なんか、もの凄く湿り気が多くて陰気。
慈悲の瞑想は乗ってくると自然に集中してくるよ。
仏陀も言ってたことだけど、だれでも自分が可愛いのは当たり前、
それぞれみんな自分が大事なんだと思うと。「俺」だけじゃなくてみんな幸せになってほしいと思う。
>>427 メロディは自由にやっていいだろ
別にインドテイストがいやなら例えばボサノバ風にアレンジしてもいい
和風がよければ詩吟風にやってもいいし
キリスト教徒や西洋圏の人なら歓びの歌なんかに乗せてもいい
ジョンレノンが好きならイマジンに乗せてやってもいいし
メタルが好きなら慈悲の気持ちさえ入ってればヘッドバンキングしながらやったっていいんだよ
怒らないことについで、
シコらないことを発刊して欲しい。
いや、まじで。
>>430 とことん死随念やればいい。いわゆるメメントモリ。
シコる人は、サルと同じなのですby長老
長老の本で一番読みやすかったのは「仏教は心の科学」
長老の本で一番眼から鱗が落ちたのは「平和の生滅」
長老の本で一番読み応えがあるのは「ブッダの実践心理学」
長老の本で一番呆れ果てたのは「般若心経は間違い?」
434 :
神も仏も名無しさん:2008/04/28(月) 10:00:17 ID:MJhGZ6wm
>>430 危険を伴うので・・・
ちょっと本気になって自分で調べて自己責任でやるか、
長老僧から直接指導を受けなさい。
初心者には最初からいきなり教えないことになっている。
なぜか。
これも経典を調べれば分かるよ。
今日は下弦、布薩日(ウポーサタ)である。
出来る人は八斎戒を守るがよし。
既婚者は夫婦関係を避ける。
独身者はしない。午後からの断食をする等々。
分かるね。出来るだけ俗事を避ける。
出来る範囲でやってみるとよい。
みんな性をコントロールできてるみたいだね。
俺は刹那とはいえ快楽に身を委ねてしまう。
抑圧することなく、シコらずに満たされる方法が知りたいんだな。
抑圧は必要ないよ。
サティすれば自然に消えるから。
437 :
神も仏も名無しさん:2008/04/28(月) 13:58:53 ID:MJhGZ6wm
>サティすれば自然に消えるから。
こういうのは信用しないほうがいい。
私は上座部僧と寝食を共にしたこともあるが
私に正直な心情を吐露した方もいた。
勿論
>快楽に身を委ねてしまう
ことはないが消えたと思っても・・・と言うようなことをね、言っておられた
当時私も似たような心的状況にあったので彼の言うことはよく理解できた。
まあ、油断はしない方がいい。
しこるより、2ちゃんにこだわる心のほうが俺にとっては強力で処理が難しいな。
どうしてものぞきたくなり、レスをつけたくなり、やめたくなくなり、これに執着しがち。
>>438 不2ch戒は無い。
放逸にならず邪見を起こさずに見ればいい。
まあ、そこは中庸に。
>>437 それは、上座部僧といえども、まだサティが出来てないということだろうな。
本当にサティ出来れば、その瞬間に消えるはず。
そのサティが難しいんだよ。
サティの練習は初歩のように見えるけど、上座部僧さえまだマスター出来
てないのをみると、これさえ習熟すればかなりのレベルに達することがわ
かる。
442 :
神も仏も名無しさん:2008/04/28(月) 15:04:42 ID:MJhGZ6wm
判らない奴だな。
性を制することが出来れば不還だろ。
その獅子吼が世界に響いたと言われるタイの高僧Buddhadasa長老でさえ
預流果を噂された程度というのにそんなに簡単に在家が瞑想を完成させる
ことは余り期待しない方がいい。大口を叩くなということだよ。
しかもあきらめるな、と言っておこう。
443 :
神も仏も名無しさん:2008/04/28(月) 17:08:35 ID:/lfAmK+t
スマナサーラ氏の指導を初めて受けたけど、正直厳しくて、批判的な印象があったなあ
言ってることは理に適っているけど、言い方がきつい印象を受けた
もっとダライラマのように大らかなやさしさと、笑顔なほうが緊張しないで瞑想しやすいと思う
ダライラマに指導受けたら?w
445 :
神も仏も名無しさん:2008/04/28(月) 17:38:19 ID:MJhGZ6wm
360 愚人は、咎め立てする心で、勝利者(ブッダ)の教えを聞く。その
ようなことをすると、正しい真理から遥かに遠ざかる。――地が天から
遥かに遠ざかっているように。(Theragatha)
主観にもほどがあるな
447 :
神も仏も名無しさん:2008/04/28(月) 19:24:48 ID:1anuL/2w
なんだかなぁ…
448 :
神も仏も名無しさん:2008/04/28(月) 20:01:39 ID:1anuL/2w
自分が預流果に達した人がここにいるわけでもない、
みな、ドングリの背比べレベル。
他人を上から見下したような批判はやめよう。
「見下した態度なんてとってない」という人もいるかもしれませんが、まあ、自分の胸に訊いてみて。
449 :
神も仏も名無しさん:2008/04/28(月) 20:19:20 ID:7AwvsRIi
>自分が預流果に達した人がここにいるわけでもない
さあ、それはどうかな。お前にも分かっていない事を決め付けない方がいい。
俺、瞑想とか修行はいいからパーリ語の読経ができるようになりたい。
CD聴いているだけじゃなかなか身につかない。
それに意味も込めて心から唱えてみたい。
CDのような声の通る読経をしてみたい。
…今はそれだけ。
451 :
brown:2008/04/28(月) 21:43:09 ID:XESSlEA0
性欲を抑圧するとき,性欲が覆われる。
性欲に溺れるとき,無貪が覆われる。
性欲と無貪との双方を覆わない者が,心の真の姿を正しく知っている。
正しく知っている者の心は,統一されており,完全で,寂滅する。
正しく知らない者の心は,不完全で,その不完全性を補うべく
計らいが働く。ついには執着に堕し,苦しみに堕落する。
>>450 ブッダの教えなんてすばらしい人にしか実行できないさっ ははっ もうヤーメタ
とキレているときもパーリ語の読経は美しい。キライになれないw
>>452 でしょ。声の高い人がいちばんいい。
「パーリ語日常読誦経典」だと声の低い人のものも混ざっていて聴きづらいことに最近気づいた。
だから「ブッダのやすらぎの声」を購入した方が一番良い。
次に「慈経−ブッダの『慈しみ』は愛を越える」の付属CDの「慈経」がいい。
パーリ語の読経は他の事でムカついているときも安らぐ事があるから不思議だ。
いつも釣りに誘ってくれる友人がいます。
最近は生餌を使いたくないのでルアーでやりたいと言ったら賛成してくれた。
もう必要以上釣りたくないし釣れなくていい。
>>453 棚からCD取り出して今聞いてるよw
ん〜 声にのびとツヤがあるね。
法要の時の集団読経にも慈経でてくるけどあれは「声のマラソン」って感じ。
祝福してもらえるっていうのが嬉しいので、その時は声より気持ちで癒されるw
>>454 まさに、あなた向けの法話がHPにアップされているから、
参考程度に聴いてみて。
確か「生きものをいじめるなかれ」だったと思う。
チベットの人々の痛み苦しみがなくなりますように
中国の人々の怒りや無明がなくなりますように
生きとし生けるものの慈しみの花が開きますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
ブッダの実践心理学第2巻p258
>>色界の第四禅定がある人は、さらに瞑想して瞑想の能力で意思、
心のエネルギーを絞って、「壁に自分の身体という物体が通れるような
穴があって欲しい」と希望します。そうすると壁に穴ができて、
その人だけ通れるのです。他の人には穴は見えません。
地面に沈みたければ、自分が沈めるような状態を作る。
そうすると自然に、地面の中に入ることができます。
瞑想によって物質まで変化させる能力が生まれるっていう事だよね。
真面目に読んでたんだけど、もしかしてトンデモ本だったのか?
だれか分かる様に解説して〜!
わからん。自分でやってみれば?w
でも悟ったら、そんなことしたいという欲も起きなくなるような気がするけどな。w
な、なんだって?w
いや、したい、したくないの問題ではないだろ。
>>460が気にしてるのは。
トンデモなのかどうかってことだろ。
なんていうか、このスレ見てるとさ、難しい言葉とか理屈が
出てくるのだけど、その代わりというか、実際の瞑想は
深まっていないとか、悩み苦しみは全然減っていない人が
多いんじゃないかと思ってしまう。
自分なんか悩みだらけなもんで、それでこのスレを頼って
しまうんだけど、難しい専門用語や理屈はともかく、実際に
瞑想によって日常生活での悩み苦しみがすっかり消えて
しまう(感じなくなってしまう)ような実際トレーニング(言葉は
適切ではないかも知れないけど)周りの話が聞ければよい
なあと思っているんですよね。勝手なこと言って申し訳ないけど。
465 :
神も仏も名無しさん:2008/04/29(火) 09:05:19 ID:C9HRwdXY
>>460 いずれもSamatha四十業処の中の
壁を通り抜けるのは・・・
地面に沈むのは・・・
瞑想でつ。
いずれも超能力を目指している訳ではないが、ある理由があって私は時々
やっております。そのための道具も自作してね。超能力の気配は今の所
ない。不思議なことはあった。
基になる経典を読んでいれば別に驚くことはない。
長老的な解釈・解説・言葉につまづきそうになっているのかな。
面倒くさい人たちだな。
「へ〜え、そういうこともあるのか。半信半疑」と言うことにでもして
おけよ。そうでなければ自分でちゃんと経典を調べなさい。
ちなみに
>物質まで変化させる
というより化作すると表現しております。
466 :
神も仏も名無しさん:2008/04/29(火) 09:17:23 ID:C9HRwdXY
>>464 405 わたしは出家してから二十五年になるが、そのあいだ、指を一はじき
するだけの時間でも、心の静けさを得られなかった。(Theragatha)
あなただけではない。焦らない。
467 :
神も仏も名無しさん:2008/04/29(火) 09:55:57 ID:DzeoxW6A
>>460 物質を変化させるのなら、
他の人にも壁の穴が見えるのでは?
明恵上人も瞑想中に、桶に虫が落ちたから助けにいけ、と弟子に語り、
見に行くとほんとに蜂が落ちていたが、「こんなことはあたりまえのことだからさわぐな」
といったそう。
法然上人も病者を治すヒーリング能力があったそうだが、どちらも、
それは仏道修行の副産物だからそれを人に説いたり、価値があるものとして扱わなかった。
天台の千日峰回行中も千里眼のようなものは働くそうだし、
松原泰道も、夜、座禅中に障子がガタガタゆれるような超常現象は、座禅をすると
いくらでもあるが、そんなものは全く関係がない、と。
ゴエンカも、「瞑想していての超常現象ははいて捨てるほどあるが、
それに気をとられるな」と。
ようするに、われわれが日常を送るときにいる精神構造とはまたちがう
精神構造では、日常とは別のことがおきると言うことであり、目的ではない。
どちらにしても、仏道のあゆみの途中で、はじめとは違ったことがあっても、
大事なのは道を歩くことで、超能力は気にしなくてもいいのでは。
信じられなければ信じなくても、とりあえず、目の前の瞑想をすればいい。
ただ、壁抜け出切る人がいるなら、興味としてちょっと知りたい。
イエスの水上歩行もそうだったのだろうか。
>>460氏が、現時点で信用できないと疑いをもつことは、ある意味健全。
だが、道のりの遠くのことよりも、目の前の一歩として推奨されている瞑想は、
おそらく損でもないのだから、いまはそれを考えるだけでいいのではないでしょうか。
現時点で自分とは無縁のように見えることが、思わぬことにつながるかもしれないし、、、。
サマタ瞑想すればいろんな超能力が出るよ。
しかし、ヴィパサナではそうにうのはすべて妄想として退ける。
壁抜けも水上歩行も、そういうのに興味を持つこと自体が妄想。
今に生きてない証拠。
まあまあ、それがメインだとは言ってないんですから、、、。
472 :
神も仏も名無しさん:2008/04/29(火) 13:04:19 ID:hI6mNdLR
壁抜けはa・・・
水上歩行はp・・・
地面に沈むのはa・・・
いずれもSamatha
お前ら今日も修行せず2ちゃんかよ・・・
474 :
神も仏も名無しさん:2008/04/29(火) 18:37:43 ID:7KNKV5Gu
一時間やってからきてますが?
475 :
神も仏も名無しさん:2008/04/29(火) 21:36:21 ID:DzeoxW6A
べつに?
毎日してることですから書き込みの時点では全然そんな感じはなかったよ。フフ。
むしろそれを注意って促すことが慢に注意だろうね。
ま、いいんだけど あとだしがあれだから。
じゃ、いまから一時間行ってきますわ。
477 :
brown:2008/04/29(火) 22:46:48 ID:nhvIPEOp
超能力というものは全く存在しません。
それは禅定中に現れる幻に過ぎません。
現実感覚というのはそれ自体幻で,如何ようにも思い通りに変形し得るので,
その意味で如何なる現象も作り出せます。しかし,その全体が完全な虚構だ
と知る必要がありますね。
確かにそれは体験できます。しかし,それは全くの妄想です。
ある時期,私自身も色々な体験を遊んだことはありますが,
まあ,ちょっと楽しい遊びではありますね。でもそれは全くの妄想です。
だから,妄想を妄想と認定しない無知や不精進な遊び心を断じれば,
完全に断たれます。非常に重要なヴィパッサナーの智慧だと思いますね。
それは,「食欲や性欲が消える」というような種類の断滅ではありません。
文字どおり,二度と生じることはなくなります。
どちらかというと中道ではなく,「無辺」に属するような無です。
それは,「色は空(幻)なり」というような種類の妄想ではありません。
とにかく,全くの妄想です。それは,「兎に角」というような種類の
妄想です。
478 :
brown:2008/04/29(火) 22:55:16 ID:nhvIPEOp
こういうことがよく分かっていない人は,何か,心や存在状態を超越する
ためにヨーガや瞑想をするが,反って,とても救いようのない堕落状態に
無自覚的に突入していると言えます。やがて,「思考が現実化する」
などといった輪廻を一層強化する妄想の「金属化」を果たしてしまいます。
個人的なつつましい煩悩の炎を,あたり一面火事にするような猛威を振るう
草原の炎に置き換えただけです。
そのような無自覚状態こそが,「無明」と呼ばれるのに。
そのような期待感が一切ないとき,心に澄み渡った,自己を制した清らかさ
が現れます。つまり,逆に言えば,このような妄想は,多かれ少なかれ,
潜在的にせよ,顕在的にせよ,我々誰でも持っている種類の妄想といえます。
479 :
神も仏も名無しさん:2008/04/29(火) 23:04:45 ID:hI6mNdLR
それと同じように、大王よ、比丘は、このように心が統一され、清浄純粋
で、無垢無傷で、柔軟で活動的、確固として動じないとき、超人的な不可思
議な力に心を傾け注ぐのです。そして、彼は、種々の超人的な不可思議な力
を体得するのです。すなわち、ひとりでありながら多くのものになり、多く
のものでありながらひとりになり、まるで空中にあるかのように現れ消え、
壁を越え、柵を越え、山を越えて、何にもすがらずに行き、また、まるで
水中にあるかのように地上にも出没し、また、まるで大地の上であるかのよ
うに水上を乱さずに進み、また、まるで翼のある鳥のように、空中を足を組
んで坐ったまま進み、あのように偉力があり、あのように威厳のある太陽や
月にも手で触れて感じ、梵天界に至るまでも身体で到達するのです。
これもまた、大王よ、眼で見ることのできる沙門の果報であり、前述の眼
で見ることのできる沙門の果報よりも、もっと優れ、もっとすばらしいもの
です。( Sâmaññaphalasutta 沙門果経)
よい子は外道に惑わされないように。
480 :
brown:2008/04/29(火) 23:11:12 ID:nhvIPEOp
非常に重要なところなので,もう一度,端的に,はっきりと,言っておきましょう。
超能力への期待のことを無明といい,超能力の不在のことを明知と言うのです。
そして,そのような無明は,完全な妄想なので,はっきりとした自覚を持つ
ことによって,二度と生じないように断滅されます。その自覚を生むための
作法とは,ヴィパッシュヤナーによる「真に起こることの観察」です。
よく日ごろの自分を思い返していただくと,いつもいつもこの超能力に
頼っているというか,期待していることが分かるはずです。目覚めて,
寝坊したとき,1分でも時間が早くなるでしょうか?片思いの彼女は,
こちらを振り返って欲しいと願うことで好きになってくれるでしょうか?
そういう無自覚が,現実と理想(という妄想)の隙間を生み,その隙間を
思考と感情が織物のように絡まりあって埋めるため,輪廻という構造を
支持し続けてしまうのです。
ニミッタも同じですか?
原理主義者の意見も外道の意見も話1/3でちょうどいい。
>>476 まあ、慢心があるというよりは、謙虚さが感じられないよね。慢心の全くない人間なんてそうそういないし。
俺も言いたがりなだけかもしれないけど、でも言ってやってる俺カコイイ的に見られるのは抵抗があるね。
でも言うことによって気づきのきっかけになれば結果的にはいいんだろうし、まあ言っておきました。
あなたに悟りの光が現れますように。
私に悟りの光が現れますように。
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように。
ちょっと聞いてくれ。
アマゾンで長老の法句経〜一日一悟〜を買おうと思うのだが、
送料無料にならないので何か長老の文庫でも買おうと思うのだが、
下の持ってるものリストからかぶらなくて、読んでおけ!
というのがあったら教えてください。
怒らないこと
シリーズ自分作り1~4
パワー・アップ・ユアライフ
ブッダの実践心理学1・2
自分を変える気づきの瞑想法
つーか、おれ474じゃないけど、
>>474みて即慢心とか思っちゃうほうがどうかって気がすんだが。
やってんのかって疑問にやってます言っただけだろ
>>484 リストの中で自分が持っているのは
・怒らないこと
・自分を変える気づきの瞑想法
の2冊。
怒りは、自分の性質が瞬間怒り系スーパー短気で
これで人間関係をずいぶん切ってきた反省から買ってみた。
当たり前のことが並んでいるようだけど、怒りで本を一冊書く
となると、やはりそれだけの内容にはなっていて、あらためて
ビクリとすることがあった。
繰り返して潜在意識に刷り込むまで読むのがいいんだろうね。
2冊目の瞑想本は後半部に25ページほど、実際の立つ瞑想、
座る瞑想、歩行瞑想の仕方がイラスト入りでわかりやすい。
でも、本全体の中に「これっ!!」と思う文章に出くわすのは
瞑想本に多いので、この本も初心者向けの瞑想ガイドブック
ではあるけれど、自分にはありがたい。
>>484 そのリストの中では、「怒らないこと」だけ持ってる。
文庫なこともあって読みやすかった。安いし。
読んでみて、実際に怒らなくなった。
家族との口喧嘩もなくなったよ (おれ以外の家族同士はまだやってるが)。
自分の場合はね。
「ブッダの実践心理学」は、未読です。
単行本でシリーズ物なので、読み応えありそう。単価も高いし。
でも、これから本格的に仏教思想と実践方法を学びたいので、近々購入の予定。
ずっと前から欲しい本だった。
スマさんのダンマパダ本は2冊とも持ってるよ。
読みやすくレイアウトされてるので、名言箴言集みたいな感じで読めるのもいい。
ダンマパダはより詳しく読みたいので、講談社からでてる、友松圓諦師の法句経も
読書リストに入れてある。
489 :
神も仏も名無しさん:2008/04/30(水) 07:48:26 ID:hdznmptE
>>484 「1時間やってからきてます。」
と書かずに、あえて
「1時間やってからきてますが?」
490 :
神も仏も名無しさん:2008/04/30(水) 07:49:36 ID:hdznmptE
ごめん>484じゃなく>485
50
他人の過失を見るなかれ。他人のした事としなかったことを見るな。
ただ自分のした事としなかったこととだけを見よ。
>>489 しつこいな、、、、せめてその日のうちに気持ち切り替えなよ。
文化庁長官の青木保さんて
タイのバンコクで半年間出家経験ありだってね
ちょっと意外でした
協会から、長老の月一の法話をDVD化して販売しているのですが、
これは内容的にどんな感じなんでしょうか?
本で説いていることとそれほど変わりないなら、あえて購入する必要も
ないかなとは思うのですが。
レンタルとかしてくんないかな。。
わざわざ法話など聞きに来ないで、家の周りで歩く瞑想でもしてろってさ!
その方が心が成長するんだって、長老が言ってた
そうなんだ。
長老の日本語は聞き辛いよ。
生で聞くならまだしも、DVDでは苦しいね。
本だけにしとけ。
>>495 確かにそれの方が前向きかもしれん…>長老が言っていようがいまいが。
ただ、最近は車はともかく自転車の往来が激しく、「歩道を歩く」ことすらままならないことが多い。
…最低車が来ない大きな公園の中を歩くのがベストだろうが、果たしてそういう環境に恵まれているだろうか?
法話は「耳障りがいい」だけかもしれないし。
今日サンガ新書から発売された「あべこべ感覚」を読んでいても「自分が成長する」というよりは
「瞑想修行の壁にぶつかったときに読むと目から鱗が落ちる」程度のものだと思う。
私はもっぱらおなかの瞑想
(ふくらみちじみの瞑想)
横になってるときも含めて。
歩くのは、家でできたら良いけど殆ど無理だからやらない。
立つのは、電車でたまにやる。
質問します。
慈悲喜捨の「捨」の心でいるのは良い。
でもそれが(悪い意味での)無関心ではいけない。
という箇所がスマさんの本のどこかにありました。
この事が、あまり理解できていません。
詳しく引用できなくてすみません。
「捨」と無関心の違いはどう理解すればよいでしょうか?
無関心は無知による無関心、という説明はあったと思います。
たとえば、兄弟が結婚することが決まり、その知らせを受けたとします。
「捨」の心でその報告を受けたならば、喜びの心はでてこないと思います。
なるほどそうですか、わかりました。という感じだと思います。
無関心なら、そうなの、どうでもいいことだわ。という感じなのかな、と思います。
結婚式に出席しても、「捨」の人は、たんたんと行事の場に居合わせていて、
うまくいえませんが、結婚式の行事の空気とかやり方に、
礼儀正しく、付き合っている感じかなと思います。
無関心の心でも、そういう感じにすることはできそうな気がします。
快・不快って高速で変換されるなw
他人の屁のにおいかいだだけで瞬時にむっとするw
あんたはムッとしても、他人は平気でプッとするのが
世の中だからね。
>>488 自己レス。
友松圓諦の法句経講義と法句経、買ってきた。
そして、ずっと読みたかったパユットー氏の著書2冊も。
今日はもう遅くなっちゃったけど、明日から読めるので嬉しい。
504 :
brown:2008/05/01(木) 02:01:34 ID:XcnpSqjl
>>500 捨というのは,痴に対する対治です。(サマディーの)平静な対応力のことです。
無関心というより,むしろ積極的に世の中に関わっていく心持を言っています。
捨というニュアンスは,「世の中に無関心」ではなく,「自分自身への
こだわりに無関心」と把握されます。執着心から離れているので,判断に
偏りがなく,中道を採ることができます。力みがなく,放逸でもなく,
愛着するのでもなく,嫌悪するのでもなく,平等に,人々に応接します。
そうやって,特定のこだわりなく,世の中を見ることで,自然な対応力が
身についてきます。心が平静であることで,こだわりなく,自然な対応が
可能になります。つまり,最も効果のある行動を取ることができます。
それは,起こることに対して,予め身構えず,その時々の全条件を踏まえて
行動することを意味しています。それは,心が混乱せず,はっきりとした
理解を伴って行動することを意味しています。放逸ならざることであり,
完全な集中力を保つことを意味しています。
>>503 友松さんの法句経講義はいいですね。
ただ、漢文調の訳詞かたなので好き嫌いはあるかも。岩波から出てる中村元の「真理のことば」、
は、ネットで全文見れますが、スマさんもほめてた。
あと、松原泰道の法句経や、ちくまから出てる増谷文雄の「仏教百話」も結構お薦めです。
長文スマソ
>無関心というより,むしろ積極的に世の中に関わっていく心持を言っています。
>捨というニュアンスは,「世の中に無関心」ではなく,「自分自身への
>こだわりに無関心」と把握されます。
あー、これ思うわ。
どうせ死ぬんだから、しがらみにこだわらず、できるだけ善いことをしよう、って感じで。
喜とも矛盾しないよね。
捨についてはここが詳しかった。こだわりを捨てると視野が広くなるし、
こだわってると視野が狭くなるという感覚は日常的でわかりやすい。
http://www.j-theravada.net/qa/gimon11.html Q:先月は、慈悲喜捨の冥想についてお聞きしていましたが、一番むずかしいとおっしゃっていた「捨」の冥想について、
もう少し教えていただけますでしょうか。
解かりやすく言えば感情の波が立たないこころなのです。
しかし、鈍感で、何も興味がない、気にしない、無関心、閉鎖的で自分の世界にだけ
閉じ困れていると言える状態とは全く違います。これは、智慧、理解能力から現れる「冷静心」だと理解しておきましょう。
例えばだれかが収賄で問題になった知ります。
瞬時に腹が立つ。「なんという悪人か、裏切り者か」と思ってしまうのです。
このように決まり切っている感情を引き起こすのではなく、多側面で観察するのです。
収賄を犯した人にも何か言い分があるはずです。もしかすると周りからやらされたかもしれません。
「あるいは自分さえ良ければ」という気持ちで犯したかもしれません。
前者の場合は一人でよい人間になろうと努力しても周りの影響で振り回されることもあるということが解ります。
後者の場合は、自分のことしか考えられない弱みと、その結果自分に対して良かれと思ったことは
逆効果になることも解ります。それで、その人は「悪人だ」とも「悪い人ではない」とも決め付けることせず、
「冷静に」自分の気持ちを保つのです。
508 :
頭:2008/05/01(木) 07:40:18 ID:uGdR0irx
教えてください。
瞑想をやった後に、頭痛(額のやや上あたり)になったことが何回かあります。
たまたまなのかもしれませんが、
瞑想して頭痛になることはありますか?
頭痛の原因が瞑想だとしたら、
瞑想のやり方に間違いがあるのでしょうか?
そのような頭痛が起きたこと数回あります。
頭痛だけでなく 身体のいろんな所が痛くなりますよね。
それも観察し「痛み痛み」とラベルを貼っているうちに頭痛は消えました。
痛くなったらチャンスだと思うようにしています。
ただ、瞑想が終っても頭痛が残っている場合は、病院へ行ったほうが良いかも。
510 :
494:2008/05/01(木) 13:22:54 ID:2MdFekWK
皆さんレスありがとうございます。
実践第一ってことで、歩く瞑想等日々取り組もうと思います。
お互い気長に頑張りましょう!
512 :
500:2008/05/01(木) 17:33:34 ID:+xZyRiX0
レスどうも有り難うございます。
>>504 >「自分自身へのこだわりに無関心」
この言葉の表現では、こだわりがあるけれど、それに無関心、
みたいなふうに聞こえるのですが、
捨の人は、こだわりはもともと無いと思っていました。
そうですよね??
「こだわりに無関心」ということが(どうもイメージしにくいですが)、
こだわりが無いということを表すのでしょうか。
悟った人って話が分かってもらえないときってどうするんだろう。
「馬鹿だなあ・・・ぜんぜん話し分かってないなあ・・・」とか思わないのかな。
EOが「マトモな人間なら自殺をする」と書いていたが、
長老も「平和の生滅」で「生きることは悪で罪だ」と
断言してるね。
これでこそ真の仏教だ。まさしく叡智だ。
日本の真言宗では生かせ生命なんて題目上げてるが
本当に愚かだ。
>>514 マトモな人間なら自殺するってのは気持ちとしては分かるが、
ただ自殺しちゃうと輪廻を繰り返すことになるから、
ここはじっと自殺願望を抑えて根源的な執着をなくし涅槃を目指すのが
仏教なんじゃないか?
生きることは悪で罪だけど、罪を償わない限りいつまでたっても
その罪からは逃れられないからさ。
>>498.
法話や経典その他の意義は唯一つ、本気で修行に取り組む動機作りを
手助けしてくれるということだと俺は思う。
もう何年も仏教書を読んでると、酒を飲むということに対する嫌気が染み付いてくる。
最初は俺は在家だし付き合いがあるしとか簡単に言い訳し罪悪感も感じなかったが、
何度も何度も手を変え品を変え不飲酒戒の説明を読んでいると、
次第に本気で飲みたくなくなってくる。
いまじゃ飲み会のつどに、乾杯の口付けだけして出来るだけ飲まないようになった。
法話とか経典は、こうして心にしみこませていく効果があるんだと思う。
自殺も生への執着の、それも強いかたちでの現れだと思うんだ
願望が実現できないことへの怒りに基づく自殺はそうだね
生に執着しなければ死んでも良いし死ななくても良い
悪、罪という評価は誰がしているのか見極めるべき
経典には自殺した阿羅漢の記録もある。
したがって、ブッダは条件のそろった自殺は認めたことになる。
スマ長老も宝島社新書でこのテーマ扱ってた。
だが、その条件をクリアし自殺がOKになるのは、凡夫じゃまず不可能だろw
怒りを抱く人間に対しては、、慈しみの心で接することが
最良の接し方であったとは。
日々、その効果を実感しています。
しかし、なんと単純で逆説的なんだ人間とは。
頭の片隅に残っていた、馬鹿にしていた道徳が、真実だったなんて。
善良なゆえに道徳なんじゃなくて法に沿ってるというかそのものだから道徳なんだなってきがする
もともと道徳ってそういう意味だからね。「大道廃れて仁義あり」って言葉あるでしょ。
>>513 自分の中の「分かって欲しい」という欲の発生をすぐに発見。
直後に観照して一瞬で欲が消滅。
終わり。
>>520 怒りを抱く人間に対しては、日常生活の上で
実はたいした問題にならない。
たいていの場合は、怒りよりもむしろ、
陰を極めた執拗な嫌がらせだとか、
陰口だとか、あらぬ噂を撒き散らかされたとか、
はめられたとか、引き出しに入れてある名刺の箱から
名刺をザックリ盗んでよからぬ輩に配りちらされたとか、
書類を隠されたとか、海外赴任当日にボストンバッグを
隠されたとか、新入時に部長が新しいデスクを入れて
くれたのに新人の新しいデスクを自分のデスクと取り替え、
新人には鍵の壊れた、ペン皿のボロボロの、デスク表面は
汚れだらけのものがあてがわれたとか、部内打ち合わせ
で、呼んだことにして上司には「あいつは来たくないらしいですよ」
と打ち合わせ拒否したように報告して部長の心証を悪く見せようと
画策されたとか・・・まあ、全部、自分がやっかまれて実際に
やられてきたことばかりだけど、そういう陰湿な関わりのほうが
多いと思うな。
怒りなんて稚拙さを露呈しているだけだと思うから、ほっとけば
自分で転けるから現実には上のような実際的なものに比べたら
問題にならないくらい軽微。
>>524 そういうことをする人にこそ慈しみの心を向けることが必要だと思う。
というよりは、そういう人に向けないのなら一体どこに向けるのかという
感じがするのだが、とにかくやれば解消の方向へ向かう。
526 :
brown:2008/05/02(金) 03:40:19 ID:Ex+c1zWy
>>512 非常によいところに気づかれましたね。
捨というのは3段階あるわけです。
小捨の人は,通常的な意識で捨の修習に取り組みます。
欲や怒りなどのこだわりがあるが,どんどんとこだわりを捨てるように努力して,
欲や怒りの対象が現れても,それに対して無関心であるように振舞います。
そうしていくと,心が統制され,止滅の心を得,こだわりを無くすことができます。
それが中捨の人で,こだわりがないので,そもそも欲や怒りということが
ありません。その場合には欲や怒りが出てこないのです。全く平静で,
行為を統制することにより,その止滅の境地に居続けるように努力します。
それが中捨の人です。
しかし,
>>524ではないが,世の中にはおせっかいな人もいて,積極的に
加害行為を行ってくる人もいるし,世の中と積極的に関わりを持っていくと,
そのような行為の統制によって,止滅を維持することに執着するではなく,
こだわりやその結果としての欲や怒りがありつつ,それから自由である
精神態度を目指すようになります。彼が大捨の人で,こだわりを知りつつ,
「こだわりに無関心」なのです。その場合には,彼の心には,「こだわり
と呼ばれたもの」という心が起き,次いで彼の心は,心自らそのこだわりや
その他の精神状況を,全体の調和の中に融解してしまいます。そのため,
常に,心は自己展開的に完全な調和を保ち,常に雑音のある世の中で働き
つつ,同時に平静な心を展開し続けることができます。
だから,捨というのは,本来的には,無関心というより,むしろ積極的に
世の中に関わっていく心持を言っているわけです。
527 :
brown:2008/05/02(金) 04:01:17 ID:Ex+c1zWy
>>526 ちょっと難しいですね。通常の意識では分からないことだとは思います。
完全に自覚に照らされた心というのは,全ての矛盾を並存しているんですね。
矛盾の自己調和というか。全ての方向への気づきがあるわけです。
そして,矛盾が脅威ではないわけです。無明の心は,この矛盾を恐れて
しまうんですね。一方を採って,一方に偏るわけです。しかし本来的に心は全ての
矛盾を包摂していて,それこそが調和のとれた「安心」なんですね。
全ての矛盾を覆わずにそのまま明らかにすると,その地点で調和を取るんですね。
だから,ヴィパシュヤナーで心を一つも覆い隠さずにそのまま全部見るわけです。
好きだといっても,煩いもある。嫌いだといっても,慈しみもある。
一生懸命といっても怠け心もある。思考もそうですね。こうすべきと規範が
あっても,それを貫けない場合もある。道徳的でない心があるといっても,
一方で確かに善良な心もある。
心が自覚で満たされれば,善も不善も,正も不正も何もそのままで問題ない
わけです。問題が自己解決するから。全部の起こることは起こることとして,
そのまま受け入れられるようになるわけです。
だから,反って,自由に生きて,善を採ることができるようになるわけです。
528 :
神も仏も名無しさん:2008/05/02(金) 07:54:58 ID:tE7iTD8o
>>524 嫌がらせも怒りがあるからやるわけでしょう。
私を嫌っている人々も幸せでありますように。
でも…自分がその立場になると、
なかなか瞬時に冷静になれませんね。
嫌がらせに対する具体的な対処はともかく
常に心は刺激を求めていることが良くわかる事例だね
自らを高めるか滅ぼすかは関係なしに刺激ならなんでもいい
いやがらせをしている人は怒りもあるかも知れないが、それが面白いんだよね
心が子供のままで貧困
もちろん心変わりしていつかは成長できる可能性もある
でもその人の成長を待つ必要はない
まずは自分
「他人のしたこととしなかったこととを見るな
ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」
つられて怒ったらその人のレベルに落ちる
530 :
500:2008/05/02(金) 09:35:28 ID:Ep3h5oiS
>>512はひょっとしたら書き方がまずかったかもしれません。
>>504や皆様のレスをよみ、分かってきました。
とまず書くべきだったかもしれません。
しかし、
>>504 の
「自分自身へのこだわりに無関心」の箇所だけ、
ひっかかったので、聞きました。
自分自身へのこだわりに無関心というのは、
もしかして、他人による自分自身に向けられたこだわり、
なのでしょうか。
自分自身の自分自身へのこだわり、と読んだのですが。
このように説明してみましたが、
なお、私の不理解はなおっておらず、
スルーするのが適切ならば、それでいいです。
531 :
500:2008/05/02(金) 09:37:40 ID:Ep3h5oiS
すみません!!
レス付いていたのに、見落としていました。
今から読みます。
いやがらせに対して腹を立てることを肯定できないが、
腹を立ててしまった自分に対する慈悲も同様に大切。
自分がされていやなことは人もいや、と同時に、人がされて嫌なことは自分も嫌なのだから、
自分と他者に同等に慈悲の視線をむける「平等観」が「捨」につながっていく。
慈悲の瞑想を、自分と他人に行っていくと、「自分も他人も同じ、煩悩に振り回されがちな凡夫」
と言うことがわかり、「捨」もおのずから養われていく。
個人的には、この文章が「捨」をよくあらわしていると思う。
「心の忿(いかり)を絶ち、おもての瞋(いかり)を棄てて、人の違(たが)うことを怒らざれ。
人みな心あり。心おのおの執(と)るところあり。かれ是とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれは非とす。
われ必ず聖(ひじり)なるにあらず、かれ必ず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ、
是善く非悪しきの理(ことわり)、たれかよく定むべき」
誰もみな、煩悩で苦しんで怒りもおこす。
それは自分もそうだし、他人もそう。だから、いきとしいけるものすべてに「慈悲」の視点が必要。
他人から極めて不合理な対応をされたとき、
自身の心が、どこまで冷静でいられるか。
これが、私の課題です。
私は、以前、かなり不合理な扱いを受けた経験があり、
その影響からか、つい最近まで、怒り・疑い・嫉妬・慢の塊のような心に
なっておりました。
その傾向は、幾分、緩和されてきましたが、まだまだ、以前のような心の有り様には、
戻っていません。
今でも、初対面の人に会ったときは、もちろんのこと、表面上はかなり打ち解けたように
関係にある同僚と、コミュニケーションを交わすときでさえ、不安・恐れが、頭のどこかに
あります。
スマさんを含めた仏教関連の書籍にあたるうちに、この課題に取り組む足がかりのようなものは、
得られたような気だけはしますが、まぁ、まだまだ修行の日々は、続きそうです。
534 :
500:2008/05/02(金) 19:24:46 ID:Ep3h5oiS
>>526-527 中捨 - こだわりがそもそもない。
大捨 - こだわりを知りつつ、それから自由である
ですよね。
これだけだと、中捨のほうが上のように思いましたが、
中捨より大捨のほうがハイレベルなのですよね。
ということは、
中捨の「こだわりがない」とは、
あらゆる事に関してこだわりが無いのではなく、
まだこだわりのあるものが残っている
(または、こだわるものがこれからでてくる可能性がある)
のかなと思いましたが、あってますでしょうか。
一方、大捨は、あらゆる事に関して、
「こだわりを知りつつ、それから自由である」ということでしょうか。
大捨の人に一時的に浮上してくるこだわりは、
「世間一般的に、こういう事にはこういうこだわりがあるものだ」、
という事を知識として知っているようなものではなく、
実際に当人に生じる「こだわり」のことですよね。
↑自演か
あれこれ考えるより、歩いてみなよ
537 :
500:2008/05/02(金) 20:51:52 ID:Ep3h5oiS
>>536 私(500)に対するレスですよね。
お気遣いありがとうございます。
実践軽視で、理論に偏っているかもしれない事を
注意してくださったのだと思いますが、
自分では 特に偏っていないと思っています。
たぶん心配無用です。
ところで、
この程度の(私の)書き込みでは、理論に偏っている事にはならないと
思いますし、もっと沢山何日も書き込みがあったとしても、
1年に数回とかだったら、理論偏重にはならないですよね。
あんまりぜんぶロムってなくて、また長いこと来ないこともあったりして、
うろおぼえなんですが、理論偏重を注意するようなレスをたまに見て、
実際は違うかもしれないんじゃないかな、というのがよくあった気がします。
実際はどうかわからないから、言うだけ言っておくのもいいのかもしれませんが。
538 :
brown:2008/05/02(金) 21:06:13 ID:Ex+c1zWy
>>534 喩えて言えば,・・・
火は危ないですね。火事になるから。
火を無用心に使ってそこら辺が燃え盛っているのを消し止めようとして,
完全に消してしまった状態が中捨ですね。その状態で全く問題ない
わけです。それでいいんです。とりあえず。
しかし,今一歩進んでみると,そこで,火をわざわざ点けてみるわけです。
そして消す。点ける→消す→点ける→消す。自由自在。火は危なくない
わけです。
このとき,他人の家に火を点けたり,単に他人の家の火事を消火するのを
手伝うだけではそうはならないわけです。火事の場合はそれで訓練できる
わけですが,心は,自分自身の心しか扱えないからです。だから自分自身の
心に点ける必要がありますね。この技術は同時に他の人々の心の炎を消す
手助けにもなりますね。この視点からすると,中捨は未だ不完全です。
しかし,本当は,
>「世間一般的に、こういう事にはこういうこだわりがあるものだ」、
>という事を知識として知っているようなものではなく、
>実際に当人に生じる「こだわり」のことですよね。
こういうことは区別できないんですね。それは実は同一のことなんです。
だから「こだわりと呼ばれたもの」なんですね。こだわりというのは
そういうものなんです。何か演じているというかパフォーマンスですね。
何かリアルに思えるけど。大捨の人だけでなく,本当は,無捨の人でも,
その捨てていないこだわりは,実は「世の中でそう呼ばれたもの」に過ぎない
んですね。
539 :
brown:2008/05/02(金) 21:19:59 ID:Ex+c1zWy
>>508 >瞑想して頭痛になることはありますか?
飽くまで個人的な小さいサンプルですが,瞑想が深まって自我を捉える
くらいになってくると,頭がごんごんしたり,喉が押されるような
感じになったり,胸やお腹の辺りがやっぱり押されるような感じになったり,
抵抗力が弱まって風邪をひいたり,熱が出たような感じになったり
(これ,不思議に熱を測ってみても37度弱くらいなんですね),逆に
寒気がしたりするものですね。
目的に到達するまで「船から放たれた鳥が何度も飛び立って,島が
見つからないで何度も戻ってくるように」何度も,そういった深まりの
行きつ戻りつを経験しましたが,その度にそういう現象は起きてきます。
これはなぜかと言うと,心的な力で自我が弱ってくるので,それが身体的
にも影響を与えて,免疫力を低下させたりするからです。
だから風邪を引いたりしますね。あと,食欲などの生理欲が極端に細くなったり。
brownさんは生きてて疑問に思うことはないんですか?
あれこれあり方を模索したり、他人の悩み見るとつられて疲れるんですが、
悩まないで済む方法ってありますか?
長老あたり「怒らないこと」についで「悩まないこと」出版してくれないかな。
541 :
brown:2008/05/02(金) 22:02:05 ID:Ex+c1zWy
>>540 いや,悩んでばっかりですよ。分からないことばかり。というか何も
知らない人なんですね。自分にむかつきますね。正直。プレゼン資料一つ
作るのに,あれでも駄目,これでも駄目と悩みますね。それぐらい馬鹿です。
それでいいんですよ。悩んだら,「ああ,悩んでるんだなあ」くらいで
いいんです。怒ったら,「怒ってるのかあ」というくらいで丁度です。
しかし,私には,昔はもっともっと,命を駄目にするような悩みがあったんです。
「なぜ私はここにいるんだろう?」「私は何のために生きてるんだろう?」
「何か本当にやるべきことがあるのではないか?それを自分はやってないん
じゃないか?」「どうして一度も本当に満足できないんだろう?」
「生きていたくないなあ」「でも死んだらどうなるんだろう」
「悟りって何だろう?どうしたら得られるのだろう?」なんていう疑問です。
とにかくその疑問が小さいときから離れなかった。何をしているときも。
やりたかった,欲しかったことを経験しているその最中も。
でも,それは全く無くなってしまいましたね。きれいさっぱり。完全な満足
というのが分かった,経験したからでしょうね。欲って満足(きり)がない
でしょう?だから,何度でも,さらに大きく欲しくなるんっすよ。でも完全な
満足は一回,一瞬だけでも十分。それ以上全く欲しくならないですね。
心の本性に接することで,欲しくなくてもずっとある。すると,この世の
ことで悩みとかあっても,大したことではないわけです。
そういうもんです。それはそんな大げさなことではないんですよ。
だから,是非,その瞬間を得てください。びっくりしますよ。あなたの
その悩み,全部消し飛ぶから。保証します。
542 :
頭:2008/05/02(金) 22:06:55 ID:tE7iTD8o
>>541 ありがとうございます。
brownさんはその一瞬をどうやって、どの瞬間得たのですか?
気づきを実践してふと、でしょうか?
>>532さん なんかすごいしっくり来ました。
自分も相手も同じだけ思いやる事が出来たら・・
相手を思いやる事も難しいけど、自分を思いやることも実は難しいのかも。
気づきの練習を続けたいと思います。
ところで中捨、大捨でラーメン中チャ(中盛チャーシュー)
大チャを思い浮かべてしまいました。
545 :
brown:2008/05/02(金) 22:58:28 ID:Ex+c1zWy
>>543 そうですね。徹底的分析による自己観察ですね。
自分自身の心に生じる不純な物である六大煩悩を知識レベルでしっかり
理解して,心に生じた欲とか怒りとかを徹底的に分析するんですね。真面目に。
なぜ,何がどうなって,どう生じたか。それはなぜ止まないのか。その源は
何か?色々仏教とか心理学とか他の宗教とか,自然科学とかも参考にしつつ。
心に取り組むことができてくると,そういった外的知識は段々あてにならなく
なってきますね。でも何かヒントはないかとすがりはしますね。そういう
思索の繰り返し,集中,徹底的思索です。抽象的思索ではなくて,心自体の
具体的な思索。この感じが掴めるとどんどん出来てきますね。
すると,やがて,分析的考察によって,心的プロセスを止めることができる
ようになってくるんですよ。欲→分析→ストップ。怒り→分析→ストップって。
ポイントは,闇雲に止めるのが目的という感じではなく,真実自分の中で
何がどう起こっているのかを突き止めていくプロセスとして,止まるという
のが大事なんでしょうね。疑いが挟む余地がないくらいに本心から,分析
するんですね。余計な心が理論的に,かつ現実的に起こらなくなるわけですよ。
というか無理に思考プロセスでそうしてるだけですが。
546 :
brown:2008/05/02(金) 23:06:04 ID:Ex+c1zWy
座禅とかして安全なところでやるんじゃなくて,現実的な雑念のある環境
ですることが大切ですね。そういう現実空間で,心的問題を解決していく。
それでね,そこまでいくと,段々慣れてくるわけですな。すると思考プロセス
ってあんまり必要なくなるんですよ。分析が不要に。ちょっと注意を払った
だけで,心のうろつきが止まるようになってきます。段々と。そうなってくる。
どんどんその注意力も育ってきます。すると,ものすごい勢いづいて,
心が瞬間,瞬間で,ぴたっ,ぴたっ,ぴたっって止まるようになるんですよ。
注意を向けただけで。思考分析の成果ですね。心が成長したんでしょう。
それはなかなかの快感でしてね。ちょっとしたスーパーマン気分ですね。
すごい力を得たような感じがします。あれだけ騒がしかった心を,自ら統制
して完全にコントロールできちゃってるから。
>>545 すごいですね。心の奥底へ深く潜っていって、
反応のストップボタンを押すような作業ですね。
思索も繰り返すことでより具体的なものに集約されていくんですね。
あとは実践あるのみですね。
一読してから文字を打つ間にもう印象の純度が下がってるなあと感じます。
余計な解釈を入れちゃって曇らせちゃてるなあと感じます。
心は散漫だなあと感じます・・・風呂に入りますw
548 :
brown:2008/05/02(金) 23:26:12 ID:Ex+c1zWy
それは,心が生じてきた瞬間に,子供の頭をよしよしと撫でるような感じで,
ぱっ,ぱっ,ぱっと,次々と生じてくる心に注意を向けて,その瞬間に止まる
んですね。次第に,自分の心を全瞬間に,全部見通せるようになってくるわけです。
そっからがなかなか大変で,行きつ戻りつするんですね。言いようの無い恐れ
とか,虚無感とか出てきますから。宇宙空間の虚空に一人取り残されたような
孤独感というか。地獄を通り抜ける訳ですね。そうやって自己統制しても,
醜い心は醜いままなんですね。心がどっちに向かっても闇っていう状態に
なってくるんですね。つまり輪廻はどこにいっても希望はないですから。
そういうことが心底分かってくる。心を完全に見切ったら,そういう感じに
なっちゃうんですよ。なんか八方塞がりで,どこにも出口がない。救いが
ない。ほんとに無いんですよ。絶望な訳です。ほんとに絶望。でも,どこか,
悟りとか解脱とか,そういう心が残ってるんですね。そこ一点に執着している。
強く。でもあまりに絶望過ぎて,それも放り出してしまう。もう何も無い。
そのとき,その空白のまどろみのような意識に,ふっと目の前に光が差して
きたんですよ。朝日の光。それがもういいようのない新鮮な美しさで。感動で。
完璧で。鮮烈で,完全な満足だった。がーんと直接触れる感じ。初めて生まれて
きて物を見る感じですかね。
549 :
brown:2008/05/02(金) 23:48:47 ID:Ex+c1zWy
心が無いんですよ。朝日の光だけでなく,見回してみると,部屋中に
あるものからくる,直接的な感覚があるだけで,心が無いんですよ。
妙な,すきとおるようなちらちらとする微妙な光に包まれているような
感じがしましたね。まあ,気のせいですけど。
ふっと我に返ると,心はあっちにあったんですね。で,勝手にしてましたね。
直接感覚から,ぷっつりと離れて,変な表現なんだけど,あっちにあった。
そして,勝手にしてたんですね。それから二ヶ月くらいですかね。ずっと,
そんな心があちら側に安全に切り離されたような感じになっていたので,それが
何なのかということが,色々な日常経験を通して分かりましたね。心って,
感情とか思考とか,疑いとか比較とか自我とかを自己解決するんですよ。
そして自分で平静な調和を作るようにできてるんです。自然な調和点を
自分で知ってるんですね。だから,「私」が何もそれを維持する努力を
する必要がない訳です。心のありのままの姿ですね。それが一瞬,一瞬で,
完全に跡に何も残さず自己展開していくんですよ。
それは何も得ていないんですよ。今まであった心そのままですね。
何も加わっていないし,何も損なっていない。そのままでいい。
何も求めなくていいんですよ。世界は善かったんですよ。
brownさんは饒舌ですね。
そういえば「問わず語りが悲しいね」って歌あった。
饒舌?詳細でしょ
ごめんなさい。誤りでした。
>>543の質問に対して詳細に答えておられたんですね。
でも申し訳ありませんが私には疑いがあります。
brownさんの文章からどうも悟りの境地に達したとおっしゃっている様ですが、
悟りは僧籍にあるか師に指導を受け相当修行しないと難しいと思うので、
それにいつも非常に積極的に書き込んでいらっしゃるので、
それもあって饒舌と感じてしまったのです。説き伏せようとする我を感じるのです。
私の邪見かもしれませんが。失礼しました。
>>549 お話どうもです。
ふりこのように気持ちがあっちこっち振り回されても
最後は落ち着くところに落ち着くという感じでしょうか?
「あるがまま」にいるのが一番なのかな。
(と頭が悟りへの打算的な結論を出していますw)
ブラウンはHP作ってたよな
中途半端のw
完成させたのか?
仏教やると自己顕示欲が強くなる人がいるよね。
慈悲心ととらえるか自己顕示欲ととらえるか。
受ける側の妄想力にもかかってるんじゃない?
個人的な経験の垂れ流しは止めて欲しいな
個人的な経験の情報は貴重
夜はブラウンの日記帳だなw
brownの言うことを、すべて間に受ける必要もないし、すべて鵜呑みにしてもいけない。
でも、1つの意見、体験談として、他の人と同じように書き込む自由はあるし、
それを読んだ人が参考にする自由もある。
それに対して、「それは自己顕示だ」「垂れ流しは止めろ」というのは、完全にスレ違いだし、
筋違いだわな。個人的な妄想による感情的な条件反射にすぎない。
内容に疑問があったら、反駁する、あるいはスルーする、あるいは苦言を呈す、
それは正当だが、気にいらないって理由で非難するのは不当な行為だと思うぞ。
文体が気持悪いし、しかも長文でKY
文句が出るのもしょうがないと思う
あんたの文体のほうが不快だし、不当だ。
気持ち悪い。
と、いう人もいるかもしれないぞ。
主観的な反応してたら切りがないんじゃないか。
疑問があれば、内容に対して反論すべき。
まあ、こういう理由でひかえてくれ、とかの苦言はありだとおもうけど。
まあ、ヴィパッサナーから離れすぎかなとも思うが
自分語りは無明の証
自我の垂れ流しはヴィパ的にマズイでしょ
それを深夜嬉々として語るブラウン・・・
読む分には面白いけどねw
それと、他人の瞑想体験は自分の障害になるらしいし
あと、無意味に行間空けるの止めてくれよ
読みづらいし、文章の趣味が悪いよ
以上、私の妄想よりw
質問も感想も自分語りだと思うけどやめたほうがいいのかな
2ちゃんに書き込めないや
君が預流果なら止めた方がいいね、聖者がカッコ悪いよ
俺は凡夫だから妄想全開で書き込ませてもらうよ
2chは他人の自我を楽しむところだしね
>>538 何度も有難うございます。
とても勉強になります。
火のたとえ、とてもよく分かりました。
>>566 自我の垂れ流しはヴィパ的にまずいと言いつつ自我を垂れ流す・・・
つまりやる気がないのですね
569 :
神も仏も名無しさん:2008/05/03(土) 19:57:31 ID:evVV3R3i
例え話でわかり易く説明するのは難しいんだよね、
自分の中で完全に消化できていないと出来ないからね。
ブラウンさんの話は私にとっては勉強になる。
「法」に関していい加減な事をカタって他人を惑わす。
これほど重い罪はないね。
そうだよね?ブラウンさんとやら。
>>570 お前のように「罪」を振りかざす奴が一番最低だとおもうヨ
>>570 どのあたりがいい加減か指摘してほしい。
そうすればみんなの参考になる。
さあどうぞ
「論に対しては必ず反論がある」と
スマ長老の本を読んだばかり。
君達のカキコで少しムカついたが
サティ入れたら消えた。
それとともに君等に対して憐れみの心が
湧いてきた。
ありがとう。
brownさんが、仮に、いい加減な事を語る人だったとしても、
修行のかなり進んだ人のように見えて、実はそうじゃなかったとしても、
質問者と回答者(brown)さんの間でやりとりがあって、
質問者の役に立ってるんだし、そのひとつひとつのやり取りに意味があると思う。
質問者は仏教の教えに触れているのだから、
「人の言うことを鵜呑みにせず、自分で確かめる」という事は心得て
いると思うし、brownさんの語る内容に問題があるなら、
会話をつめていくうちに、質問者は気づくんじゃないの?
575 :
神も仏も名無しさん:2008/05/03(土) 21:20:07 ID:evVV3R3i
『こだわらない心』にすらこだわらない。
これはなるほどと思った。
>>573 むしろbrownの書いている内容に対する反論を書いて欲しかった。
それが建設的ってものだし。
溜飲を下げるのが重要になってるとしたら、本を読んで落ち着いてもまたぶり返すと思うよ。
brownちゃん滞在望むが、
そういえば、以前は特に上座には特に大きな関心があったわけではなかったように
記憶してるが、ちがったけ?
brownさんって、加藤茶に顔が似ているからbrownなんでしょ?
>>576 ゴメン、相棒観てた。再放送だったな。
君こそ遠回しな言い方で溜飲下げたかな?
はらわた煮えくり返ってるように感じるが?
>>574 いい加減な事を語る人は人の役には立ちません。
混乱させるだけです。
582 :
神も仏も名無しさん:2008/05/03(土) 22:59:50 ID:eEpwEmsK
預流果は、こんなところで長文垂れ流すような時間の使い方しないと思う
>>580 腹立てる理由が1つもない。
何度も同じ事を書いているけど、「内容に対する反論を書いてくれたら参考になる」、といっているだけなんだ。
だれかの説が「いい加減」なら、どこがいい加減かかいて欲しいんだ。
ただ中傷を繰り返すだけじゃなく。何も変なことはないでしょ?
あなたが「いい加減」と思う根拠が、より明確になるだけのこと。
まあ、きりがないから、これが最後。
それがないなら、ないんだな、ということで納得することにする。
584 :
brown:2008/05/03(土) 23:02:38 ID:aLUQ9slZ
>>577 これは全くそのとおりかと思いますね。是非しっかり読んでおくべき記事だと
思いますね。奇蹟,超能力,神秘体験なるものは,妄想の産物に過ぎないん
です。なぜなら,現実でないから。あの世の話なんですよ。魔族に任せて
おけばいい。だからないのが正常。極端な妄想がなければ生じない。でも,
別にあってもいいんですよ。「ああ,変な超能力が出てきたな。」と思っとけば
いいわけです。どうでもいいんです。それより,恐れとか醜さとかやっかいな
ものが出てくるわけですから,そっちが大変ですね。居ても立ってもいられない
訳です。だから苦諦(苦が真実である)というんですよ。神秘諦とは言わない。
ただ心配しなくても,我の関与なく,現象が動き出す瞬間の感動は,とても
神秘的ですよ。生命の始まりの言い表しがたい感動。驚くべき貴重な美しさ。
それは単に物理現象そのままなんですけどね。感動です。
ああ,何もなくてよかったんだなと。神秘がないから,逆に神秘なんですよ。
実は,今まで気づかなかったけど,僕って今まで神秘にこだわってたんだなと。
そのとき,初めて魔族から人間になるんです。
>>583 人間は自分が信奉しているものを中傷なり
批判なりされると怒りが湧いてくるものだよ。
その人物、思想なりと自己同一化してしまうからね。
内容に対する反論というが、他人が「見た」ということを
他人は否定できないんだよ。
丹波さんと同じで「見たんだからしょうがない」って言われたら
それまでだからね。
ただ自分の長年の経験、読書体験などから
「これはウソだ」というのは感覚的にわかるものだよ。
ま、僕もここでやめておくよ。
貴方の信じるものを否定する権利は僕にはないからな。
>>584 正サマーディ(すなわち第四禅)に入ったままセックスって
どうやってやるんだよ?
君の話はほとんど作りごとだねw
相変わらずKYな聖者さまw
奇蹟や超能力の存在自体は仏典も長老も否定してないけど
ブラウンさんは否定するわけですかね?
生命の神秘って具体的に何のお話ですか?
感動が単なる色欲に堕落することはないのですか?
>>585 ごめん、一つだけ書かせてもらうわ。
俺は、brown氏の言うことを、信じてなどいない。
鵜呑みもまずいとも、はじめから書いている。
変なことをいって自説を補強するのは止めてもらおうか。
相手を信者認定して、君に何の満足が得られるんだ?
本当に不思議でしかたがない。何のために瞑想してるんだ?
まあ、気にすんな
正直、588の卑怯なやり方には「腹が立つ」な。
相手を「信奉者」にして、妄想の世界で満足か。
まったく、そのやり方には「イライラ」するよ。率直にいってね。
俺も修行が足りない。だが、君も進んで妄想に入るなら、もうやめたら。
まあ、気にすんな
信憑性はともかく、brownさんはスレ的に面白いなw
直接、経典を読むのが一番安全でしょう?
自分は中村元や片山良一訳の原始仏典じゃ敷居が高い感じなので、
パユットーさんの解説を読み始めたよ。
免疫のない人は、2ちゃんで変な人に変な思想を吹き込まれないように
注意した方がいい。
思想は間違えると、ほんとに危ないから。
このまえの瞑想会で
スマ長老はインターネットの掲示板は見ないと言っていたね。
2chがきらいみたい。
てか、忙しくて見てる暇ねえんじゃねえか?
くだらな過ぎて相手にならんのだと思う。
いや、マジで。
別に貴兄らがくだらないといってるわけじゃなく、2ちゃんのやり取りって
全体としてみたら、たまにしか良いのないじゃん。
でも、テレビは見ているみたいだよね。
何の番組を見ているんだろう。
NHKの番組の話がよく出てくるよね。
爆笑オンエアバトルとか爆問とかドキュメンタリーなどなど
長老がほとんど料理しなくてお弁当で済ませていて
でも小坊主さんが来ているから何か作ってあげてるって。
ゴーヤが230円で高くて驚いて買うのをやめたと。
でも幸せな気持ちなんだろうな。
お姿を拝見しているだけで穏やかな気持ちになる。
これって執着なんかな
>>577 のリンク先に長老の全身を撮ったJPG画像があるからみてみ?
夢中になる事間違いなし。
俺も集中力がなくなった時、長老に会いに行くよ
長老の姿を見ると心が落ち着くね
それでしばらく瞑想が安定する
サティの声が長老の声になっているんだけど、妄想だよね?
ゴーヤはたしかに高いきがするw
604 :
神も仏も名無しさん:2008/05/04(日) 15:29:58 ID:xc9FS06V
渋谷区ってやっぱ物価高いの?
ところで、長老はやはり一来果ぐらいの人なのかね。
ふとしたきっかけで瞑想に興味が出てきたので
日本ヴィパッサナー協会の10日間コースに
参加してみたいと思うのですが
参加された方いますか?
全くの初心者でも大丈夫なのでしょうか?
一人で瞑想をしてから参加すべきでしょうか。
>>605 日本ヴィパッサナー協会の10日間コースは全くの初心者向けです。
へんに練習などして悪い癖をつけない方がいいと思いますよ。
>>600 長老の写真見て夢中になるという感覚はわからないです。
>>606 あそこ早朝おきから、飯も午後以降食えないとか厳しいよねw
頑張って下さい。
609 :
神も仏も名無しさん:2008/05/05(月) 01:48:53 ID:CpWO3oNt
610 :
神も仏も名無しさん:2008/05/05(月) 05:10:07 ID:Q41oThEm
>>609 読んでみました。以下抜粋と感想です。
>坐禅ということは まっすぐということやまっすぐというのは 背骨をまっすぐ 首筋をまっすぐ
右にも傾かない 左にも傾かないまっすぐということは 正直ということや
身心は一如(一つ)やから 体をまっすぐにしたら心もまっすぐになっとる
これは最近実感した事なので、裏づけを得たようで嬉しかったです。
半月ほど前にマッサージに行き、背骨が曲がってると言われローラー台にて
背骨を伸ばす施術を受けました。
するとそれから3日ほどは驚くほど妄想不善心が少なくなりました。
私の場合、瞑想1時間で妄想が弱まる効果はせいぜい2〜3時間なので
ローラー数十分で3日も効果が続くとは驚きでした。
>真理を黙って実行するというのが 大自然だ誰に褒められるということも思わんし
これだけのことをしたら これだけの報酬がもらえるということもない
時が来たならば ちゃんと花が咲きそして黙って 褒められても 褒められんでも
すべきことをして 黙って去っていくそういうのが 実行であり 教えであり 真理だ
これは深いですね、究極の当たり前とでもいいましょうか。
当たり前の事なのに深くて重みのある言葉だと思います。
611 :
神も仏も名無しさん:2008/05/05(月) 08:01:39 ID:/pPaOrvo
体と心は密接な関係があるでしょうね。歯の噛み合わせを直したら不定愁訴が直ったとかよくあるみたいです。
一神教は頭に上ること、仏教は腑に落ちることって言いますね。
仏教はハラを経由して現実を理解するものかもしれませんね。あまりこだわり過ぎても良くないかもしれないけど。
身体と言えば、自分すごく身体が硬いんだよね。
小学生の時体育の時間の柔軟がきつくて 周り見ると
誰よりも曲がらないw。
性格と関係あるのかなと何気にずっと思っていたら
物質の分析に身体が固いのは自我と関係してると書いてあり妙に納得しました。
親兄弟、親戚みんな超固いのも妙に納得したんだけど
友人、知人ですごく身体が柔らかくても自己愛がかなり強い人もいて
そこは、納得いかないんです。
その自己愛が強く見えるのは、やはり自分の主観的見方だからなのかな。
613 :
神も仏も名無しさん:2008/05/05(月) 12:06:07 ID:/pPaOrvo
結局なんとも言えないですねw
自分の身体能力に執着しちゃえば駄目ってことでしょうね。自己嫌悪も然りであると。
>背骨を伸ばす施術を受けました。
>するとそれから3日ほどは驚くほど妄想不善心が少なくなりました。
長老の本に限らず、ほとんどのヴィパッサナー関連の本や、ジョン・カバットジンの
医療向けの本、日本の禅の本も背筋を伸ばすことを強調してますね。
もちろん病気で背中を伸ばせない人は出切る範囲でいいんだろうけど、
ポイントとして大事なんだ、、、。
>ハラを経由して現実を理解する
たしか白隠の内観法だと、ハラ、丹田を強調してますよね。
あちらはイメージ法だから、ヴィパッサナーとも違う部分があるかもしれないけど、
アチコチで似た考えがあると言うのが面白い。
その白隠の著作に、孔子が「君子は足裏で呼吸をする」と書いてある、と引用していた。
ヴィパッサナーの立ってする瞑想や、歩行瞑想を思わせる。
論語や禅にあまり興味がなかったけど、共通点もあるんだなと感じました。
616 :
神も仏も名無しさん:2008/05/05(月) 14:17:57 ID:Q41oThEm
>>612 それもあるかもしれませんね、私も体が硬くて自我が強い(笑
>>611 >>614 やはり心と体は密接な関係なのですね。
心の態度が体に現れ、姿勢など体の使い方が心に影響を与えるのですね。
姿勢悪いから気をつけねば。
>615
「君子は〜」が意味していることとヴィパッサナーの歩行瞑想とは違う
ヴィパッサナーをしているなら他は追わない方が良い
12時間座るつもりがケツの骨が痛くて
5時間半でギブアップ。
特に変化はない。
>>618 どんなこと考えてた?
ずっと観察できてた?
俺5分くらい座るともう雑念が騒ぎ出すw
620 :
神も仏も名無しさん:2008/05/05(月) 15:42:28 ID:5r+265eb
>>618 最近思うんですが、
何らかの変化や結果を求めてガツガツして瞑想したらダメなのかな。
早く結果を出したいと思うのは、怠けの煩悩だから。
>>619 キチンと指導受けたわけじゃないんだけど・・・
妄想が出た瞬間サティできるときと
何十秒か妄想に沈んでいてハッと気付くときが
あるよ。
ところで詳しい人に聞きたいんだけど
ふくらみ、ちぢみを観てるっていうけど
それってサマタと違うの?
マハシ式はサマタとヴィパを一緒にやるって
何かで読んだけど。
622 :
神も仏も名無しさん:2008/05/05(月) 17:57:33 ID:3UTUnwMU
きっと、預流果の聖者様(信者調べ)が答えてくれるよ
brownさん質問があります。
妄想に浸っている人に妄想を気付かせるには、どうしたら良いんでしょうか?
良い質問だw
>>623-624 おおむね賛成だが、自分が「あれが妄想に浸っている人」だと「妄想している状態」だったら本末転倒なんだが…
まあ、仕方ないや。「自分は妄想に浸っていない」と豪語できる人がいるとは思えないし。
今こうやって書いているのも妄想かもしれないし。
実は、
>>623のような質問ができて羨ましいと思っている自分がいる。
気合入れて慈悲の瞑想するよ
627 :
621:2008/05/05(月) 21:35:51 ID:UhgOvPnf
俺の真面目な質問に答えてくれる人は居ないのかい?
>>627 まあ、気長に待てば誰かが答えてくれるでしょう。
掲示板ってのはチャットとは違うし、瞬間的に答えが返ってくるものではないぞ。
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■■高齢処女の人のスレ■■3 [30代]
。。。。。
だがぶらうんさんの答えは聞きたくないでな。
631 :
神も仏も名無しさん:2008/05/05(月) 22:20:04 ID:5r+265eb
>>621 ヴィパッサナーにも禅定は必要なわけだから、
サマタ的要素は必要では?
ヴィパッサナーは「ありのままを観る」。
サマタは、たとえば架空の仏の姿とかに集中したりしてもできる。
息を中心に観察するにしても、
そこから派生して変化する心身を
ありのままを観ることに力点をおくのが、
ヴィパッサナーでは。
632 :
brown:2008/05/05(月) 22:23:12 ID:AZJE7ley
>>623 妄想に浸っている人に妄想を気付かせるには,決定的な方法があります。
まず,@好きな物,A嫌いな物,B正しいと思う事,C間違っていると
思う事,D恋人,Eむかつくやつ(brown以外で),F死への恐怖
これらを思い浮かべます。はっきりと思い浮かべる。ここが大事。
次に,それぞれの思い浮かべたものの逆の位相を発見します。ここ難しい。
例えば,@好きな物といっても実は嫌いな要素を含んでいる。F恐怖と
いっても実は救いでもある。このように発見します。
その両方が本当にそうだなあという確信に至るまで,その想いに住します。
確信に至れば,その確信の認識の流れを続けます。すると,最も正しい見解
と呼ばれる見解に達します。
このようにして全ての妄想が実際に破壊されます。
633 :
605:2008/05/05(月) 22:25:48 ID:iUwbtkMZ
>>632 一つだけ判らないところが有ります。
D恋人の逆の位相とは何でしょうか?
丁寧に答えて下さってありがとうございますm(_ _)m
635 :
brown:2008/05/06(火) 00:01:49 ID:AZJE7ley
>>634 恋人のことは頭のてっぺんからつま先まで美しく見えます。本来自分中心に
回るべき世界が,彼女中心に回るようになります。個我の超越です。
しかし,そのようであっても実は自分がかわいい。自分が彼女が好き。
その欲を満たしたいという面もある。これら,両方伴っている。
あるいは,今は見目麗しい彼女。月日が経てばずうずうしいおばたりあん。
さらにすれば,しわくちゃのばばあ。これどうしようもない事実。ついには
白骨に。だからといって,現在はその全てを手に入れたいエロイ肉体。
これも事実。その両方持ってる。
どちらかを選択すると,一方が覆われ,妄想に陥る。どちらかを否定すると,
その方が覆われ,やはり妄想に陥る。両方に同時に気づいているときに現実の
慧解脱がある。
636 :
brown:2008/05/06(火) 00:09:54 ID:+2WKwZz2
>>635 重要なことは,無理に相反する矛盾した見解を並べることではなく,現実
に即することだ。常に現実に執着することによって,現実に即した慧解脱が
ある。
現実には二種類ある。外の現実と内の現実だ。この両方に忠実に,じっくりと
思索し,洞察していくと,はっきりとした真実として両方が見えてくる。
智慧が深まれば,修行中でも生活中でも,如何なる瞬間にも,瞬時に,
全ての両見解は,大いなる智慧の蔵の中で,対消滅し,戯論は寂滅する。
>>635 いや〜判り易いです。
これは八正道「正見」の実践法か何かですか?
638 :
brown:2008/05/06(火) 00:25:01 ID:+2WKwZz2
>>637 そうですね。
正見とは,@如何なる見解も相対的で,いずれが正しいとは断言できないこと,
Aしかし,常に正しい理解を求める努力をすること,B内外に渡る全部分との
調和なしには何事も起こらないという見解と因果律やカルマの力の理解に
基づくこと,の3つに従った見解を成長させる修行道を言います。
brownのすすめてるやり方ほど手法化したやり方じゃないが、
むかついた相手に対しては、その人の背景と言うか、動機について考えてる。
「過去不幸なことがあったんだろう」みたいな想像じゃなくて、
「どんな怒りにもその人なりの事情がある」という事実に気づくようにしてる。
自分自身、一個の人間であり、心は自我の色眼鏡で世界をみる性質をもっている。
他の人も、そうした妄想に駆られてるわけであり、自分にもあることだから、責められない。
640 :
神も仏も名無しさん:2008/05/06(火) 00:41:08 ID:7nxkecsL
>>639 「あの人だって本当は悪い人じゃないんだ」
と自分にいい聞かせないと、なかなか相手を慈しめないですね。
本当は、どんな悪人でも関係なく慈しむべきなんだろうけど。
>>638 は〜、Bが難しいですね。縁起の法でしょうか。
なにわともあれ重ねてありがとうございました。
642 :
brown:2008/05/06(火) 00:57:29 ID:+2WKwZz2
怒りの対治には,
>>639の方法が最も効果がある。慈しみは理解によって
生じるから。
だが,これは中々難しい。自己観察ではなく,他者観察。外的現実の理解。
でもきちんとやれば,本当の慈無量心がとめどもなく生じてくる。
643 :
細川徳生:2008/05/06(火) 00:57:54 ID:+8flLipw
細川徳生です。
brownさん自身前に仰ってたことでもありますね。
645 :
brown:2008/05/06(火) 01:14:21 ID:+2WKwZz2
>>641 Bの理解は難しい。簡単に言えば,悪を断ち,善をなすこと。
@を極論すれば,善悪の区別はないということ。判断への偏りを取り去って
しまう。しかし,それはそれで極端論に過ぎず,「見解のないことがよい」
という極端な禅宗風の見解に陥ってしまう。そこで,AとBがある。
Bは,善悪の区別を超えるので,反って,善を採ることができるぞ,
ということを意味している。そういう自由。大自由。そこに心からの善の
喜びがある。
「善をしなければならない」からではなく「善を選択できるから」する。
このように道徳に接すれば,「お前はこの戒律ができていない」などと
他人に指摘する過ちは避けられる。
「内外に渡る全部分との調和」をめざしたいです
647 :
brown:2008/05/06(火) 01:28:36 ID:+2WKwZz2
>>646 brownもそこから外れたり,それを目指したりして生きていきます。
よく理解できないけど、怒りと貪りを足して2で割るような方法だよね、
まどろっこしくない?
嫌いと好きを考えるだけでも結構集中力を削がれるよ。
感情的なものは気付きで排除して、観察に集中した方が良いと思うな。
brownさん、感情がでかくなって飲み込まれたときの対処法を教えてください(主に怒りです)。
650 :
brown:2008/05/06(火) 01:49:43 ID:+2WKwZz2
>>649 飲み込まれたというのは,もうどうしようもなく,心がぐちゃぐちゃに
なったことを恐らく言うんでしょう。怒りとかでかっかとなって。
そのときは対処のしようがないんです。冷静にその怒りを分析する心の
余裕なんてないから。「逃げる」。この一手です。つまり,時間を待つ
しかないんですね。心配しなくても心は時間が経てば,放っておいても
普通程度には静まるから。とにかく考えない。その状況から離れる。
嫌なやつを視界から離れた場所に行く。一番の拠り所は時間です。
(これは相手の怒りもそうですよ。怒っておかしくなっている人間にどう
接しても直らない。そそくさと逃げる。時間を置く。)
それでも心が荒れ狂って苦しいときは,深呼吸する。何十回でも何百回でも。
机とか物を叩き壊す。とにかく体を動かす。運動する。酒を飲んで寝る。
>>650 ありがとうございます。
>飲み込まれたというのは,もうどうしようもなく,心がぐちゃぐちゃに
なったことを恐らく言うんでしょう。
もうそのとおりです。とても観察するなんて余裕はありません。
ただただ苦しい。こうなってしまうと人間どうしようもありませんね。
できれば怒りが大きくなる前に手をつけたいところです。
本当に日頃の訓練・心がけしかしかありませんね。
ありがとうございました。できれば「逃げる」必要をなくしたいです。
652 :
神も仏も名無しさん:2008/05/06(火) 02:18:11 ID:HOo+LWEd
瞑想中に時計の秒針の音がいくらラベリングしても消えない。
消えて「膨らみ」「縮み」に戻ってもまたアイツが聞こえてくる…
背筋が曲がりだしたことに10分に1度は気付く…
こんな感じで半年続けてますが、全然ダメだ…
>>640 俺も日常で腹の立つことが多いですが、自分を切り離して考えてみると、
相手もやはり自分と同様に、煩悩に苦しんでる存在である事実に変わりはないというか。
「人」と「鳥」みたいな生物種の区分のように明確に分けられる「悪人」「善人」はいないと思う。
自分もある状況や因縁の積み重ねで、ある場面では悪人と呼ばれる可能性もあるわけだし、
それは他人も同じで、俺からみて悪人に見える人も、それなりの業や因縁の結果、
たまたまその場所でそう見えるだけかもしれない。
スマさんのいうとおり、幸福になりたい、という気持ちは人間の共通。
怒りにまみれて傷つけあうより、慈悲のやりとりの中で生きたいというのは生物的欲求だと思います。
俺も相手も、妄想に取り付かれて怒りたくもないのに怒る病人。
病人が病人を責めるのではなく、他人に害を与えがちな人ほどせっぱつまった病人なんだから、
同病相憐れむ気持ちも、と思っています。
いつもそう思えないですが、できるだけ慈悲を心掛けたいと思ってます。
654 :
brown:2008/05/06(火) 02:33:39 ID:+2WKwZz2
>>652 時計を別の部屋に移すべきですね。
秒針の音がラベリングして消えたら,それは聴覚異常ですよ。
アイツは,秒針の音ではなく,秒針の音にいらつく,ソイツなんですよ。
あるいは,秒針の音を消そうと想うアイツです。
そいつらを消していっても,秒針の音は途切れることなく続いていく。
なぜなら,時計とは,時間を刻むように,そのように作られているから。
しかし,@カチッ,Aカチッ,Bカチッ,Cカチッ,・・・。同じように
聞こえても,@とAとBとC・・・と全部違う。ところが,色々な想い
であるアイツたちは,ずっと同一のやつが続いているんですよ。ずっと,
ずっと,付きまとっている。ストーカー。
このように,無常なものが現実。常なものが妄想。現実にありのまま気づく。
妄想は念じて消える。
>>652 それでいいのでは?
「時計の音に気づいた」「背筋が曲がりだしたことに気づいた」
で上等だと思う。
スマさん曰く「瞑想中に雑念が沸いたからといって瞑想がうまくいってないという
ことではありません」と。
現実を嫌悪せず、ただ確認するのがヴィパッサナーだと思うので、
時計の音を嫌悪して消えることを望んだり、背骨が曲がっていたことを嫌悪せず、
その都度ラベリングをするだけで十分だと思う。
専門家ではないので、詳しい人がいたら訂正して欲しい。
656 :
神も仏も名無しさん:2008/05/06(火) 03:15:07 ID:HOo+LWEd
なるほど…『「カチッ」は全部違う』というのでなんか全然気分が変わりました。
アイツがまたやってくるのが楽しみになってきました。
brownさんありがとうございます。
657 :
神も仏も名無しさん:2008/05/06(火) 09:46:52 ID:7nxkecsL
>>652 「全然ダメだ」とは、
具体的にはどういうことなのでしょうか?
658 :
神も仏も名無しさん:2008/05/06(火) 11:11:03 ID:HOo+LWEd
>>657 う〜ん、やっぱりアイツに対する『怒り』だと思います。
あとはヴィパッサナ自体に対する嫌悪。
私は子供の頃、タイに住んでいて、小学校はお寺だったんです。雨季にお寺で1ヶ月位過ごす習慣があったのですが、ヴィパッサナの時間はは大嫌いでした。
社会人になってタイに仕事に行くことが多くなったのですが、1年前に当時の先生(お坊さん)に再会する機会があってヴィパッサナを勧められました。「勧められた」と言うより「試して見ろ」って感じでしたが。
お寺で何日か瞑想を指導してもらったときは確かに「体が消える」くらい集中力が高まっていることが実感できたので日本に戻ってきても独りで続けていたのですが、例のアイツですよ…
そしたら子供頃瞑想が大嫌いだったのも思い出され…
アイツがアイツらになってきて、いくらラベリング入れてもつきまとってくるようになったんです。
怒りが相当あるようだね。
瞑想中に雑音に悩まされるのは、怒りが原因。と長老もおっしゃっていますよ。
そして「アイツ」は自分自身ってことに気がつくこと。
それが心から納得できると楽になるね。
心が清らかになる実践には、やはり慈悲の瞑想、ヴィパッサナー、そしてお釈迦様の教え、
この3本柱のバランスが大変大切だと近頃感じています。
音が気になるときのラベルに「音、音、音」と貼るより「怒り、怒り、怒り」と貼ると効き目があることもあります。
でもやはり、その時の気づきにぴたっと合うラベルを貼ることが肝心ですね。
敵は他にあらず。自分自身です。
660 :
神も仏も名無しさん:2008/05/06(火) 12:53:28 ID:HOo+LWEd
>>659 ありがとうございます。アイツ=妄想、アイツ=自分自身というのも腹に落ちます。皆様から指摘頂けて嬉しいです。
タイではラベリングって結構適当に教えてもらったので慣れません。分析に入り込んでしまいます。観察ではなくなった時にアイツが来るような気もしています。
こんな時はアーナパーナに戻るようにしています。また慈悲の瞑想はカラニーヤメッタスッタについて子供の頃覚えさせられたのでこちらを念じています。
長老の本と違うかもしれませんが、「哲学ではない」と書いてあったので気にしていないのですが…
それは生き霊ですか
663 :
神も仏も名無しさん:2008/05/06(火) 13:45:43 ID:7fR0sHuF
いまから歩いてこよう
タイの一時出家の制度なんだが 昔はなんて馬鹿な国と思っていた
瞑想を日常的にやっている今となっては非常にうらやましい
10日会社休むのも絶対無理だもの
>それでも心が荒れ狂って苦しいときは,深呼吸する。何十回でも何百回でも。
机とか物を叩き壊す。とにかく体を動かす。運動する。酒を飲んで寝る。
あのー・・ これまったく普通のストレス解消なんですけど(笑)
こういうレスするからbrownさんのこと胡散臭く思えるんです
>心が清らかになる実践には、やはり慈悲の瞑想、ヴィパッサナー、そしてお釈迦様の教え、
この3本柱のバランスが大変大切だと近頃感じています。
これは本当にそうですね 一つでも欠けるとうまくいかないです
>>666 それでは感情にとらわれたときの対処法で
ヴィパナサ的な解決方法がありましたら教えてください。
ブラウンさんに質問です。
前レスにもあった「集中して身体が消える」という体験は
私もよくあるのですが、それだと「観察」ではなくなって
しまいサマタになってしまいますよね。
この辺り解説を願えれば幸甚です。
669 :
神も仏も名無しさん:2008/05/06(火) 16:46:52 ID:3WnMTyQe
a
>>666 おそらく
>>649さんは仏法に出会ってまだそんなに間が無いのだと思います。
観察力が弱い状態では怒りを初期段階で捉えられず、それによって
サティもままならないほど怒りが大きく育ってしまう事もあるのでしょう。
そんな慈悲の瞑想もサティも不可能なほど感情に支配されてしまったら
物に当たったり酒飲んで寝たほうが、怒りを人に向けるよりはよほどいいと思います。
ずっとそれでは困ったものですが
>>649さんはどうにかしたいと思っているのだから
次第に感情に支配される事も少なくなるでしょう、それまでの応急処置という意味だと思います。
あと
>>649さん
怒りが出ないようにするには肉を食べないようにすると
慈悲の瞑想に勝るとも劣らないほど有効ですよ。
>>667 机とか物を叩き壊すと周囲に迷惑です(笑)
brown本人もそんなことやってないでしょうよ
そういうことやっても収まらないのでどうしましょうか?というのが前提なのです
たとえばどういう時ですか?
「この世の中は善人ばかりではありません ライバルもいるし、悪い人もいるし
自分を邪魔する人も馬鹿にする人もいる 自分に落とし穴を掘ってやろうと
色々たくらんでいるでいる人もいる 世の中はバラバラです
だから自分の芯がしっかりしないと「皆幸福であってほしい」とは思えないのです
落とし穴を掘る人も 足を引っ張る人も 苛めばかりしてる人も
「誰もが幸福であってほしい」という気持ちは 自分に芯がなければ持てません
「慈しみ」を実践できること自体立派な人格ができている証拠なのです」
スマさんの「慈経」の引用ですみませんが
世間的な安易なストレス解消手段用いるより
同じ世間的な手段なら逃避的なものじゃなくて自分に力をつけて環境そのものを
コツコツ変えていくことも必要なんじゃないかなと思う
瞑想で万事解決ということはないと思うよ
僕らは在家だし 実生活に役立たんことはイラン
>>671 ついかっとなって怒りにとらわれてしまうときどうしますか?
悟るまでは程度の問題で、ただ怒らない環境のときだけ
怒らないというのでは根本的な解決になってませんよね?
理不尽な目にあったり、人が死んで悲しくてどうしようもなかったり。
そういうときにはどうすればいいんですか?
だから普段の生活でのサティが非常に意味を持ってくる。
例えば、蛇口を回す。水を見る。水に触れる。冷たいと感じる。。。。
と常にサティが入るようになると自分に起こった感情もすぐに見つけられるようになると思います。
焦らないことが一番です。怒りや悲しみが起こってすぐに気がつけなくても徐々にできるようになりますから。
常に今の自分に気がついていることが重要です。お互いに精進していけますように。
675 :
brown:2008/05/06(火) 21:24:58 ID:+2WKwZz2
>>668 >前レスにもあった「集中して身体が消える」という体験は私もよくある
それは高度な瞑想状態ですね。
入り方(これはみんなのためになるので,ある程度詳細にお願いします),
その場合の心身の状態(姿勢,体の意識はないということで,感覚の状況,
思考・感情の対象,状況,注意力の状況),その境地から出たときの推移
(直後の状況,どれくらいの時間でどれくらいに移行するか)を教えて
ください。
>>674 それはもちろんそうなのですが、抗えないほどの感情の波が押し寄せてきた場合はどうするのですか?
呼吸に集中、感覚に集中といってもまるで実感がない、サティを入れる余裕すらないときです。
突然大きな地震が起きたり、突発的な出来事には慌てふためくのが大半ではないでしょうか?
そういったときの対処法を聞きたいのです。
感情を抑えるのがヴィパサナ的なのかな?
あるがままなのがヴィパサナだと思う。
感情が出ることが問題なのではなく、人間は無意識のうちに感情を
抑えてしまう傾向があり、むしろこれが原因で様々な病が起こって
いる。
無意識に抑えてしまっている感情を見つけ、それにサティを入れるこ
とが出来たら、人間は変わる。
怒りを抑えることよりも、無意識に抑えてしまっている怒りの感情を見
つけ出すことのほうが大切だよ。
どうしても感情をおさえたいというのなら、サマタ瞑想とかやれば
いいんじゃないの?
少なくともそれは、ヴィパサナの範疇じゃないから。
679 :
brown:2008/05/06(火) 21:53:28 ID:+2WKwZz2
>>668 一般論からすると,もう一つのリアリティであるシャマタをどのように
作ったか,つまり,その心の静止をもたらす入り方の段階で,どれだけ
心の分析ができているかによるが,十分な分析過程が踏まれている場合,
そのシャマタをヴィパシュヤナーに統合していくことができます。
そのプロセスを,「禅定修行」と呼びます。つまり正サマディーですね。
考察的シャマタがもう一つのリアリティに到達すると,もはや煩悩が生じる
ことはなくなり,考察が深まれば,心はそれ自らの本質によって,自動的に
精神統一するように機能するようになります。
その場合,体を意識してもサマディーは妨げられず,感情が起こっても
サマディーは妨げられず,思考が起こってもサマディーは妨げられず,
というようにサマディーを深めていくことができます。
すると禅定の最終地点において,精神統一が日常生活を貫いて,いかなる環境に
おいても不断に経験されるようになります。これがシャマタと
ヴィパッシュヤナーが分かちがたく結びついた禅定の完成形です。
ここでの論点は
ヴィパッサナを知ってはいるが使いこなせていない人が
ある時激しい怒りの感情に支配され、
慈悲の瞑想を行っても感情が入らないため意味をなさず、
サティを入れても的確でなかったり時すでに遅しであったりした時に
どうすれば良いのか?と言うことではないでしょうか?
俺だったら涙目で観察するけどなw
>>670さん
すみません、レスいただいていたのに見落としていました(汗
>>680 まさにその通りです。
静かなところで心が落ち着いているのは当たり前で、
騒々しいところではすぐかき乱されて・・・
自分てなんてダサいんだろうと感じます。
日々修行してレベルアップするしかないのですが・・・
またいつ馬鹿になるかも分かりません・・・
>>681 もう観察の余地がないんです。
馬鹿でアホでどじでまぬけでどうしようもない状態なんです。
抜け出てそうだといえるのですが、そのときはもうパニックなんです。
>>670 食べ物が感情を左右する一因とはいいますね。
肉食は控えたいと思います。魚は大丈夫でしょうか?
刺身とか好きで・・・
>>675 そんな難しいことは分析したこともないし
分析すれば消えてしまいます。
ただ光のようなものが見え、身体の感覚はなく
ふと気がつくと呼吸だけがある、ってかんじですね。
685 :
brown:2008/05/06(火) 22:17:35 ID:+2WKwZz2
>>682 好きな物は何ですか?幸福感というか,思わずにやっとしてしまうもの。
>>680 だから、抑えるべきなのかどうかということなんですよ。
それはもうしかたがないことなんだし・・・・・
諦めたら?
>>685 笑ってるときが一番楽ですね。
にやっとしてしまうもの・・・おっぱいですねw
なんであんな柔らかそうなんだろうと思ってしまいますね。
688 :
brown:2008/05/06(火) 22:24:04 ID:+2WKwZz2
>>684 分析したら消えるんですね。すると心の浄化分析が必要ですね。浄化分析が
十分に進むと,思考を働かせてもそれが消えにくくなるんです。浄化分析と
いうのは,自分の感情や思考を一個一個見つめていく,分析していくという
ことですね。
多,無常,苦,空性の洞察を繰り返していくということです。
「抑圧」の定義って正確にはどんな感じ?
感情に言動が支配さない様に内面でこらえる様に感情を感じているのも「抑圧」?
実際に内面で感情が暴れてるのを無きものにしようと意識で押さえつければ「抑圧」だと思うけど。
おれはタンメンが好きだ
691 :
brown:2008/05/06(火) 22:31:51 ID:+2WKwZz2
>>687 じゃ,おっぱいがいいですかね。
基本的に,感情が膨らんで荒れ狂ったら逃げるしかないんですが,それでも
なんとか対処するためには,準備が必要なんですよ。安全地帯でする準備ですね。
夜静かなところで,結跏趺坐し,精神集中して瞑想状態に持っていった後,
おっぱいを観想するわけです。
そして,その幸福感の感情を強く念じていつでもスイッチを入れられるように
しておくわけです。写真とか実物とかを見ないでも,それを思い浮かべて
幸福な感情が出てくるように。
で,例のパニックがきたら,いきなりおっぱいの観想に移るわけです。
このとき,何の脈略なく,急激に,パニックをそのままに放っておいて,
瞬時に移るのがポイントです。
>>683 私は肉は食べないようになってしばらくになりますが
元々は肉は大好物でした、野菜はほとんど食べず魚も肉に比べたら
あまり食べませんでした。
その頃はもう恥ずかしいかぎりですが正に”怒りのカタマリ”でした。
気に入らない事があれば、仮に無くてもわざわざ自ら敵を作り
相手を文字通り暴力で力ずくでねじ伏せようとした人間でした。
そんな私ですが仏法に出会い、少し時間はかかりましたが
肉を絶ってみると明らかに怒りが減少していきました。
1週間もすれば効果がわかると思います。
あと私も魚は食べます、私も刺し身は大好きです。
今では肉に未練はありませんが魚にはまだ少し未練があるようです。
でもいずれは野菜だけ食べて生きていけたらと思っています。
>>683さんも無理に今すぐ肉をやめる事はないと思いますよ、今やめたいなら別ですが
私も魚もやめた方がいいと思いながら今でも食べています、
肉をやめるのにも数年かかりました、経緯は長くなるので割愛しますが
タイミングもあると思います。
>>689 それも抑圧だと思うよ。
感情に支配されてしまう自分を、あるがままに受け入れることが大切じゃないかな。
支配されないようになった方がいいのだろうけど、そのためにはまず、支配されて
いる自分を認め受け入れなくてはね。
694 :
brown:2008/05/06(火) 22:42:01 ID:+2WKwZz2
>>684 >>688の前提でいくと,体が消えたときに,体を起こすんですよ。ゆっくり。
ゆっくり立ち上がる。その体が消えた境地を壊さないように注意深く。
すると,幻の身体という,夢の中の体みたいなものですね。そういう感じで
体を認識し,動かすことができるわけです。それは現実の肉体そのものなんだけど。
そしてまたゆっくり座る。そして,体を消す。
また幻身を起こす。消す。これを繰り返していくと,体の感覚があっても,
その知覚の流れに妨げられずに,その静止の平和の流れも続いていくように
なるんですよ。
つまり,観察(ヴィパシュヤナー)と止滅(シャマタ)を統合できるわけです。
>>691 わかりました。やってみたいと思います。ありがとうございます。
>>692 ありがとうございます。大体毎日交互に肉→魚と食べています。
これからは魚や植物性たんぱく質重視でいこうと思います。
>>691 ワロタ
このスレなら真に受けてに実践する人いそうだね
>>686 では感情が抑えられないならば、その感情の赴くままにしておけ
と言うことでしょうか?
人には色々なタイプの人がいます。
暴走する感情を内側に向ける人もいれば、外に発散しようとする人もいます。
前者の場合は回りに目立った被害は及ぼさないかもしれませんが
後者の人も世の中には沢山いるのです。
怒りの感情を外部に向けて撒き散らせば場合によっては大変なことになります。
そうならない為の智恵は無いだろうかという話なのです。
ブラウンさんの話は参考になると思いますよ。
>>694 有難うございます。
具体的に言って頂けると馬鹿なこの頭
でも理解できます。
実践してみます。
ところで何処でそんなメソッドを教わったのですか?
それとご自身で発見されたのですか?
今日は休みます。おやすみなさい。
みなさんも良い夢を。
699 :
brown:2008/05/06(火) 23:04:08 ID:+2WKwZz2
>>698 教えは何でも理知的かつ現実的で効果のあるものを貪るように学び,
体験,メソッドは自身で色々試みてみて開発したものです。
>>693 一人のときは何とかなっても、他の人といるときは困っちゃうね
感情の赴くままに感情を観察しながら生きられれば一番合理的なんだろうけど
>>681 >俺だったら涙目で観察するけどなw
あなたは優しい人ですね、これが出来たら最高だと思います。
見習いたいです。
怒ったらジッと耐えろって長老本で書いてたと思う
徹底した慈しみには不動明王に表現される位の勇気が必要だと痛感する
忍耐と堪忍ですよ
共感してくれて嬉しいです
怒り関連で、役に立った本。
どれも同じこといってるな、と思った。特に上三冊はものすごく役に立った。
「ブッダの真理のことば 感興のことば」 中村元訳
「自省録」 岩波文庫 マルクス・アウレーリウス
「ダライ・ラマ 怒りを癒す」 ダライ・ラマ14世
「微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践」 ティク・ナット ハン
「ブッダの真理のことば 感興のことば」 中村元訳
「怒りについて」岩波文庫 セネカ
このスレ的に肝心な長老の怒り本は未読だった。
偶然にも昨日買ってきてたので、今日から読もうとおもう。
連投すみません。書店で立ち読みしただけなんですが、
「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方 カンポン・トーンブンヌム
を読んだ方いますか?
事故に遭われ障害者になった方が、ヴィパッサナーで悟りを開いたと言う本ですが、
とても興味深かった。
人生受け入れがたいことが多いが、こういう体験談はとても参考になるのではないかと思いました。
brownさんのはエロヴィパッサナーともいうべき新ジャンルなので
こういうとこよりも自身のHPで(実際あるそうだね)
自演Q&A方式(笑)紹介した方がいいんじゃないかな
brownさんのレスすべて読んでるわけじゃないが、読むときは、
ハンドルみて先入観をもちたくないから、前もって先入観や偏見にサティを入れてる。
うなづける時もあれば、理解の範疇外の時もある。
煽られても反応しない点は、評価してる。
ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践 地橋 秀雄 (著)
このスレ的には、とりあえずこの辺買って読んでみれば良いでしょうかね?
713 :
神も仏も名無しさん:2008/05/07(水) 07:56:58 ID:lU18m4ci
>>676 普段の修行が足りなかったとあきらめるしかないのかも。
714 :
195:2008/05/07(水) 12:29:18 ID:qjKbBa9b
brownさんは勝儀からの発言なので世俗のひとには解らんわな
もう少し仏陀の様にたいき説法も考慮してください。
>>195さんなら
>>140さんだと思うんだけど、それならブラウンさんの意見は
「とんでもない邪見」「brownは自分の考え、心情、生活態度を仏教の言葉を使って正当化してるだけ。」
って立場じゃないの?それだと勝義じゃないと思うが。
俺はそっちもそれなりの意見だと思って聴いてたんだけど、、、、。
批判は批判で、参考材料が増えて、それはそれでありがたいんだが、変節したなら訂正もしてもらいたい。
それとも邪見であり同時に勝義なのだろうか。
俺のいまの理解力では理解できない。
brownさんの意見は同意が半分、理解できないが三割、反対が二割くらいかな、、、。
やっぱりヴィパッサナーに関してはそれなりの著作を読んだほうが間違いない。
質問は参考にするくらいが無難だと思う。
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まだのこってんじゃん ちょwww
718 :
神も仏も名無しさん:2008/05/07(水) 18:57:38 ID:jR82yqiV
すまん。女で悟った人おったら教えて欲しい。
尼僧の告白の中に
720 :
神も仏も名無しさん:2008/05/07(水) 20:16:52 ID:YSa8UJgq
岩波文庫か タイトルがひわいすぎ
どんな連想してんだよw
722 :
神も仏も名無しさん:2008/05/07(水) 20:47:37 ID:LpWAV2sm
>>712 グロ貼っているあなたは、悪いカルマを積みましたね
>>712を見た人は結構な数に上るでしょう。一人一人への影響は大したことはなくても、それらを積み重ねれば、結構なカルマとなるでしょう
あなたは、それらの総量のカルマを刈り取らなくてはなりません
とんだ不浄観の修行だなw
ただのびっくりばこやん
ちゃんとサティ出来たかな?
726 :
神も仏も名無しさん:2008/05/07(水) 22:22:25 ID:jR82yqiV
>>719 >>720 ありがとー。なかなかそそるタイトルやね(*^_^*)
しかしな。思うんやが、女性に限らず、ある意味みんな最初から悟ってるんやないか。男はなんだかんだ勿体ぶって、ようやく悟るってゆうか、悟りに権威付けをしたいんよ。本当は自然に、枠を取れば、もう悟ってるんやないの。おばはんは感覚で、もう悟ってるんやないの。
仏典の解説読んでるけど、そんなにのほほんとした牧歌的な話じゃないみたいだけどな。
すごくシビアに自分を見つめることが要求される感じだけど。
728 :
brown:2008/05/07(水) 22:58:47 ID:3Un2Nww+
>>712 だれかこれのちゃんとした「不浄観」のやつ作ってくださいよ。
たぶん,段々しわくちゃになっていく方がいいと思う
最初はとびきりの美人で
周りにいくらでもサンプルあるんじゃないの。
最近かわいい子供を見てもお年寄りが、
お年寄りを見たら子供がイメージされます。
とてもありがたいことです。
分かりにくい独白失礼します。
仏教の教え(と瞑想実践)には、本当にお世話になっているんだけど、
時々、それ理想論だよね(役に立たないよ、言うだけなら簡単だよ)、
みたいに思うことがあったり、
また、
なにか疑問が生じ、それについて自問自答したとき、「そこは中道で」
という答えで解決できてしまい、中間エリアが広いため、
ものすごく当たり前な回答になってしまう。
当たり前やん、仏教に教えてもらわなくても、分かることやわ。と突っ込みをいれたり。
そういう不満の類の感情があります。
もう少し具体的なほうがレスしやすいんじゃないの
なんという素直なカキコ。
覚者気取りの人よりずっと良いと思う。
現実として受け止められないんでしょ?
理想だと感じること自体あなた自身、それを真理だと感じていないってことではないのかな?
怒りが後を引いて情けないです。
詭弁というかうっとおしい言い訳に翻弄された時の怒りがひつこく残ってすっきりしません。
下らない事に付き合わされた自分のマヌケさが悔しいのと相手の卑怯さがいらだたしい。
サティの入れ方が下手なんでしょうか。
詭弁をいう人にはどう対処したらいいのでしょうか。まあ「お前が馬鹿だからしゃーない」的
回答が予想されますが。ひとつサビのきいたお答えありませんでしょうか。
おっぱいを想えw
737 :
神も仏も名無しさん:2008/05/07(水) 23:53:38 ID:3RPqd7CR
>>731 まあ仏教は基本的に強制じゃないし、別に面白おかしいことを言ってるわけじゃないよw
当たり前やんってことが、なかなか実行できないのが人間だしね。
オレがいかに間抜けかってことは思い知らされるよ。
738 :
brown:2008/05/08(木) 00:03:47 ID:Xg7Q5xdF
>>735 そんな言い訳ばかりしている詭弁をいうやつには怒るべきです。
なんというひどい人でしょう。人間のくずですね。不善の塊です。
醒めて怒るってヤツですか?
今日はブラウン調子悪いな
もう寝ろ!
>>735 ああ、また詭弁を言っていると冷静になる。
論の内容には耳を貸さない。
論破しようとしない。議論しない。
相手に自分の考えを納得させようとしない。
自分は君とは考えが違うとだけ伝えて立ち去る。
こんなんでどうでしょ
>>736 >>738 >>741 レスありがとね。嬉しいです。
無視したいんだけど、利害がからむ相手でね。
ま、仕事関係とかそんなとこ。あ〜俗世間はめんどくせ。
スレタイを変更します
やらしい!楽しい!今すぐできる
【結跏趺坐で】brown師のエロヴィパッサナー瞑想入門【おっぱい観想】
>>731 >ものすごく当たり前な回答になってしまう。
当たり前やん、仏教に教えてもらわなくても、分かることやわ。と突っ込みをいれたり
『三歳の子供でも知っているが、80歳の老人でも実践出来る人は少ない。』
これを実践する事こそ仏教の真髄だと私は思います。
ちょっとスレ違いでしたね。
スレ違いついでにもう一つ
私仏法ヴィパッサナに御縁を頂いてとても助かったのですが
『一番尊敬している人は誰?』と聞かれたら
実はマザーテレサなんです。
『悪い事をせずに良い事をする、悪い事を思わずに良い事を思う。』
これを泥まみれの世俗の中でこれでもかというほど実践したマザー
カッコイイ・・・マジで・・・
ただ彼女はクリスチャンであったために神の救いを求めてしまった。
(自らの救いを求めた訳ではない)
それが得られるはずも無く、晩年は絶望感もあったようです。
残念です。
でも彼女ほど『善の実践』をそこら中に撒き散らした人を私は他に知りません。
山に篭って悟りを開き、現象世界の無常を達観して見つめる覚者より
マザーが素敵に見えてしまう、マザーのようになってみたい。
おそらく煩悩ですねこれ、でもなりたい。
その為にヴィパッサナします。矛盾してるんだろうなきっと。
チラ裏失礼しました。
746 :
神も仏も名無しさん:2008/05/08(木) 07:55:22 ID:sRQW07Ae
>>731 あたりまえのことを、あたりまえだと気付き、
あたりまえに実行できるかといえば、なかなかできないですよね。
だから修行が必要なわけでしょう。
「理想論だよ」と思ううちは、
まだまだ私達の修行が足りないだけなのでしょう。
「もっと修行すればわかることだよ」
という答えも、あたりまえすぎますが。
747 :
神も仏も名無しさん:2008/05/08(木) 08:22:56 ID:sRQW07Ae
>>745 大乗仏教はそういう考えですね。
ただ、何が最高の救いかといえば、仏教の真理を伝えることでは。
そのためには、やはりちゃんと悟った指導者が欲しい。
出家者には、悟りをめざして修行して欲しい。
748 :
神も仏も名無しさん:2008/05/08(木) 10:14:29 ID:GTg91wmW
>『一番尊敬している人は誰?』と聞かれたら
お釈迦様です、と答えらず、
>マザーテレサなんです
と答える人はキリスト教のスレに行くべきであると思ひます。
Namo tassa bhagavato arahato sammasambuddhssa.
と唱えているのなら、『一番尊敬している人は誰?』と聞かれたら
迷わず 『お釈迦様です』と言えなきゃおかすいでつ。
誰が誰を尊敬しようと、色んな人がいて別にいいがな
世俗的な意味での善行は難しい
自分が良いと思っても、時や場合、相手によって良いことにも悪いことにもなったり
良いことをしていると思い込んでいる自分にうぬぼれたり
ダルマに即して生きることが最高の善なのかもね
あ、もちろん困っている人がいて、それを解決できる手助けができるならそれはした方が良いと思う。
でも確か「死者たちの物語」に、財産を誰彼構わず布施することに熱中した金持ちよりも、
旅人に方向を指差して道案内をした人の方が高い天に転生したとかいうような話があったと思うのだけど
良いことをするにしても知慧を使って、する事自体を楽しんで、したことには執着しない方がいいのかもしれないな・・・
連スマソ
んだな。
>>745 マザー・テレサは菩薩だからね。自分の悟りなど考えなかった人
聖テレジアは一挙手一投足を神を意識しながら行動していたとのこと。
凡夫の自分よりはいまここに集中していたと言えそうだ。
それに、マザーテレサほど、慈悲の瞑想に習熟してた人はいないだろう。
長老によれば、慈悲の瞑想をしなくてもいい人がいる、それは、前世で
どんな人の苦しみも自分のことのように取り除いてあげたくなる人、といっていた。
所属する宗派が違えど、彼女らは仏法の目指す高みにかなり近いところにいると感じる。
地橋さんはマザーテレサを批判してたよ。
普通のレベルから見ると、なかなかすばらしいんだけど、
仏教の慈悲のレベルにはいってないんだってさ。
755 :
神も仏も名無しさん:2008/05/08(木) 12:30:04 ID:vOYSdccI
仏教レベル高すぎ どんだけ要求高いんだよ
地橋はそんなこといえる立場なのかよw
マザーテレサ以上のことやってから言ってみろっての。
おれは仏教派だけど、そういう傲慢な奴が仏教を語るのはこころよく思わない。
マザーテレサは、慈悲の側面を今世で押し進めたから、
来世では自分の修行に専念できる境遇に生まれるのかもしれない。
私は平凡であることに憧れが有りました。
しかしそれが妄想であると気付きました。この世の何処にも「平凡な人」など居ないのです。
ただ人間が居るだけです。
それは同時に、悟りを得たとしても人は人であるのだと気付きました。今ここに有るのだと感じました。
同意。
斎藤茂太は、平均値と言うのは、さまざまなばらつきを前提として
存在するものであり、すべてにわたって平均的な人間、というのは
理論上存在し得ない、概念だけの産物、と言っていました。
それなのに、平均値にこだわりノイローゼになりやすい社会だとか。
何事も数値化、理想化して、それを追いかてしまいがちだけど、その前にありのままのいまを認めなければ、いまを見過ごしてしまう。
人が他人を「悪人」「善人」とレッテルを貼るのも、そういう概念にすでにとらわれているという気がする。
相手を肩書きで判断するのも、便宜上必要なこともあるだろうけど、
気づきの目で見れば、自分だけでなく相手も「一無位の真人」。
他者と対峙する時、相手の実存をありのままにみるようにしたら、民族紛争や世代や格差間の軋轢、宗教的対立も減るだろう。
761 :
神も仏も名無しさん:2008/05/08(木) 15:19:50 ID:53tW67X6
>>748 お釈迦様は自灯明法灯明とは言ったが釈迦灯明なんて一言も言ってないからな。
お釈迦様は確かに偉大ではあるが、もう入滅してる。
過去の偉人は転生したかも知れないが、お釈迦様は解脱した。
お釈迦様はそう言う意味では存在の跡が完璧に消えている。
お釈迦様も自分を神格化されたくないだろうし、いつまでもお釈迦様にしがみ付いてるようじゃ仏教徒失格であります。
お釈迦様の教えが必要なくなってから言え。理想論はいいから。
お釈迦様及びその教えは否定してなくてよ。
そうじゃなくて、お釈迦様を盲目的にアイドル視してる奴はちょっとどうかと思うんだよ。
善友だものね
765 :
神も仏も名無しさん:2008/05/08(木) 16:59:25 ID:GTg91wmW
>>764 善い返しをありがとね。
一〇 アーナンダよ。実に、わたしを善き友とすることによって、〈迷いの
世界のうちに〉生まれる〉という性質をもっている人々は、〈生まれる
こと〉から解脱するのである。〈老いる〉という性質をもっている人々
は、〈老い〉から解脱するのである。〈病い〉という性質をもっている
人々は、〈病い〉から解脱するのである。〈死〉という性質をもってい
る人々は、〈死〉から解脱するのである。〈悲しみ、嘆き、苦しみ、悩
み、悶え〉という性質をもっている人々は、〈悲しみ、嘆き、苦しみ、
悩み、悶え〉から解脱するのである。
766 :
神も仏も名無しさん:2008/05/08(木) 18:27:17 ID:WzbPKVnD
私を善友にしなさいと言ったとしても偶像にしなさいとは言わないと思うけど?w
ブッダは、私の言っていることをもまず疑いなさいとも仰った。
これは個人崇拝の危険に対する警句だ。
マザーテレサよりブッダの方が云々言う奴はどう考えてもブッダのことアイドルにしか見れてないだろ。
ブッダもマザー・テレサも善友にすればいい。
>>748 質問ですが、ブッダは、「尊敬する人を聞かれたら、わたしを一番尊敬するというように」と教えたのでしょうか。
そういう一節があれば興味があります。出典を教えていただきたい。
ブッダもテレサも会ったことないけどお友達><
こんなのがよっぽど頭に花が咲いてるんじゃないか?
まあ冗談だけどな
>>769 わたしはまだお釈迦様の教えが必要なので、善友にさせていただきたいと思います。
友達って自分ではそう思っていても相手はそう思っていないこともあるよね
「善友にさせていただきたいのですが・・・」って言われたらちょっと引く
マザーテレサもブッダもこの世にいないけどお友達><
こっちから学ぶことしかできないのにね
テレサは「私は貧困者を救う事に興味があり
貧困の原因には興味はない」と言ったそうだ。
究極の自己満足だね。だから俺は嫌いだ。
病の原因には興味はなく、看病する事に興味がある
看護婦さんだね。
なんか私がマザーテレサの話をした事で議論になっちゃいましたね、
すみません。
マザーテレサを尊敬すると言ったのはその行動が私にとって
あまりにも衝撃的だったからで、
つまり人々に対する物理的な救済行動、これは自分に無いものなので
そこに強い憧れを感じたのです。
一方仏陀は精神的、内面からの救済法を人々に伝えました。もちろんこれも
素晴らしい事であるし、普遍的な救いで物理的限界が無いので
より多くの人を救えると言う意味において、仏陀のそれはマザーを
はるかに凌ぐのだと思います。
仏教スレで『最も尊敬するのはマザー』などと言ってしまえば
『お釈迦様よりマザーが上』と言ったように思われて当然ですね。
語弊がありました訂正します、特にお釈迦様と比べてどうとかそういう意味
ではないのです。そもそも私ごとき凡夫が2人の偉人をランク付けすること
など出来るはずもないわけで。
物質世界にドップリ浸かってる今の私にはマザーの行動は魅力的で
目標としたいと思ったのです、その意味での尊敬です。
そしてその気持ちを常に維持するには仏陀の教えもまた不可欠なので
『マザーを仏陀と同じくらい尊敬している。』と訂正させてください。
>>772 そうですね
仏陀のそれは根本治療
マザーは対処治療
東洋医学と西洋医学のようなものなのでしょうね。
仏教を知ってから自分の汚いところが目立つようになった
苦しい
もっともっと気付きたいもの
>>772 >私は貧困者を救う事に興味があり
貧困の原因には興味はない
貧困の原因を解決するには経済システムの改革とその成功が必要であり
いまだかつてそれを実現した人はいません、仏陀もイエスも出来ませんでした。
仮にこれから出来たとしてもものすごい時間がかかるでしょう、
その間にもどんどん苦しむ人が出て来るわけです。
マザーは今目の前で苦しんでいる人を”今救いたい”
この気持ちが強かったのではないでしょうか?そんなに嫌わなくても・・・
>>775 それだけ自己観察出来ているという事でしょうね。
だれもが通る道だと思います、がんばって。
ブッダは慈悲の価値を説いている。慈悲の実践者マザーテレサを尊敬したからと言って、
仏教的に問題はどこにもない。
780 :
神も仏も名無しさん:2008/05/08(木) 21:18:03 ID:sRQW07Ae
>>771 日本・中国の仏教用語でいう「善友」とは「善知識」のことであり、
仏教について教えてくれる師匠的存在のことでしょう。
テレサ擁護者は心は心自身を騙す。
エゴはエゴ自身をだます。
エゴとはそれほど巧妙だということをあまり
理解していないのではないか?
ある意味善良な人達なんだろう。
しかし俺みたいな複雑なヒネクレ者は
見えてしまうんだよね。
凡人以上のエゴ、ズルさが・・
>>775 修行すすんでるね。喜ばしいことですね。
尊敬と言っても、そんなに大げさにとらえることもないでしょう。
マザー・テレサも我々と同じ人間、弱さもあっただろうし、敵視や軽蔑することもない。
弱さがあったとしたら、そこは慈悲の視線でみれば、怒りもおさまります。
784 :
brown:2008/05/08(木) 21:53:44 ID:Xg7Q5xdF
>>742 >>738で気づいて欲しいのは,
>>738がありのままのサティであること。
それに真剣に気づけば,「そうでもないな。完全に悪の塊ということは
ないぞ。卑怯は卑怯だが全面的に卑怯ではないな。」又は「今回はまさに
卑怯だけどいつもではないな。だから全く卑怯な人間というわけでもないぞ」
という真実にも同時に気づくはずです。
これが,無我や無常への気づきなんですよ。そうすると,怒りは現に消滅
するわけです。
もっと智慧が優れてくれば,「あんな詭弁をいうやつには怒るべきだ」という
思考によって,「詭弁をいうあやつに対する怒り」という感情が生じ,
それらが互いに連想し合って,互いに支えあって,強化し,いつまでも
続いていくのだという姿が分かるようになるはずなのです。
これらの貴重な洞察がどのように生じるのでしょうか?どうすれば生じる
のでしょうか?
それは,最初の,
>>742というありのままのサティによって生じるのです。
全く誠実な,何事かを決めつけるようなことのない,欺瞞のない,ありのまま
の,裸のサティによって,初めて生じる洞察です。
四の五の言う前に実践できるのか?と
>>781 マザーの行動を本質的に見れば自己満足エゴであったというのは理解出来ます。
ではエゴはエゴを騙そうとする事を理解したあなたは
どんな成長を遂げたのでしょうか?
禅問答のようになってしまいますが
仏法を学び悟りを得ようとするのもエゴ
それを邪魔するのもエゴ
悟りを得るまでエゴを抱えて生きていかなければならないのが明白であるなら
エゴとどう対峙していくのが良いのでしょうか?
787 :
神も仏も名無しさん:2008/05/08(木) 21:55:03 ID:xTNtAhk3
788 :
brown:2008/05/08(木) 21:57:57 ID:Xg7Q5xdF
>>788 ありがとうございます。
でも全然大した事ないんです、慢や怒りの心が出てました。
>>784 お見事ですね。
>>786さんへの答えは
>>784氏が
答えてくれました。
どんな成長を遂げたか、と聞かれても
「エゴはエゴを騙す、という事を観た」と
いうだけですね。
最後の質問は純粋な質問ではなく
あなた自身答えを持っていると感じました。
それでいいのではないですか?
エゴという実体はないわけですから
世間で生きるときには使うしかないでしょう。
まだ聞いてないけどテラワダHPにスマさんがマザーテレサにふれてるらしい講話MP3あったね
792 :
790:2008/05/08(木) 22:11:58 ID:7Xj42i/v
最期の最期では「悟りたい」という欲を
おとすしかないでしょうが。
まさにエゴがエゴをだます瞬間を見ました。
>>790 時系列を超越してますが(笑)
でもなるほど答えになっているのかも知れません。
あと最後の質問は私なりの考えはありますが答えを持っているという事
ではありません。
答えを持っている人がいるならば聞いてみたいと思っただけです。
ちなみに私の考えは
善心不善心ごちゃ混ぜのエゴであるならば
なるべくそこから善心だけを選択した言動をするべきだという事です。
マザーは他の人よりもそれを上手に実行した人に見えるのです。
仏を知りながら嘘をつく汚い人間です
>>795 どうぞこれからもブッダとマザーを同じ様に尊敬してください。
では私は消えます。
>>795 どうぞこれからもブッダとテレサを同じように尊敬してくださいw
では、私は消えます。
連投失礼仕りました。
あ
大体わかった。
平気で虫殺しちゃうなあ・・・
やっぱり嫌悪感でいけいけごーごーで殺してしまう
これからの季節、蚊が増えてきたらやっぱり殺すと思う
血を吸ってる蚊を、ジーッと観察すると、けっこう情がわきますよ。
前世の奥さんかもしれないねw
人間だって地球の寄生虫みたいなもん
蚊は病原体を媒介するので、自分だけでなく下手すると周りの命も危ない
なんとか近づけないようにすれば殺生もしなくて済む・・・などと考えてみたり
そういえば、小さい頃、ゴキブリを見つけたとき
何故、大人があんなに必死に殺そうとするのか理解できなかった。
蚊や蜂のように刺す訳でもなく、毒があるわけでもないのに、、、
コオロギならそっと摘んで外に逃がしてやるのに、、、と。
でも、今はだいっきらいなんですけどねw
ゴキブリは足早いw
810 :
神も仏も名無しさん:2008/05/09(金) 19:47:22 ID:q1bQyxz/
生きとし生けるものすべてが幸福を望んでいる
幸福というより死にたくないだけ。
812 :
神も仏も名無しさん:2008/05/09(金) 22:14:12 ID:UNnbVnGa
地橋って、強力な慈悲の波動を出しているから毒蛇に噛まれる心配はなかった、みたいな事書いているよな
あれって、電波としか受け取れないのは漏れだけか?
>>812 慈悲に「強力」って形容詞を選ぶ時点であやしい
「強力」は波動にかかっているかもな。
去年の9月に蜂に背中を刺されて七転八倒した自分は
その時まだ「慈悲の瞑想」を知りませんでした。
それどころか、ヴィパッサナー瞑想を知ったのが今年の
2月。
精進し末世。
捨身飼虎の話からすると、食われるときは食われるような、、、、。
>>812 自分が心配しなかったというだけの話では?
818 :
神も仏も名無しさん:2008/05/10(土) 09:09:16 ID:Yd0bOX5N
>>817 慈悲の瞑想しているから心配しない、っていうだけで十分に電波ではなかろうかと
他人のもつ確信にとやかく言ってもはじまらんだろーが
820 :
神も仏も名無しさん:2008/05/10(土) 10:59:12 ID:7ecqkzi9
恐怖も怒りの一種だったっけ?
ヘビに噛まれることの妄想と恐怖を克服したのかな
地橋さん庭で蜂の巣に入って顔刺されたらしい
慈悲が足りなかったのか慈悲と関係なく刺されるのか
ワロタw
いや笑っちゃいけないがw
私が思うに相手が高等生物であるほど慈悲の効果が強く表れると思う。
対人間ではそれは明らかに感じることが出来る、
次に犬などの哺乳類、対して爬虫類や両生類、虫などは難しいと思うけど
私は慈悲を思いながら野生のスズメに手からエサを食べさせた事があります。
不安とか恐怖って、どんな煩悩になるのか。
アンビダンマを参照しても、のっていない。
見・怒・混乱あたりになるのかな。
パユットー師の「仏法」を買った。
が、スマ長老の方がヤッパ読み易い。
ムツゴロウさんの慈悲はすごい
>>824 そうだな。
仏典の引用部分がまだよくわからない。
でも受とか触とか、ひとつひとつの説明はこっちの方が詳しい。
今日買ったから休みの日(平日)読んでみるよ。
>>824 そうだね。あの人、ちょっとおかしいんじゃまいかって、思うほどだねww
つーか、ホントにおかしいのかも(汗)
熊に目玉までなめられてたよ〜
そうだねスマ長老はおかしい。底の浅い本。読みやすいけど、何も残らない。
お前ら仏教学者にでもなりたいの?
幸せになりたいだけだよ。きっと。
それも、単に「頑張ればお金が手に入って」云々の幸せじゃなくて、
「幸福感を感じられる何か」を探しているんだろうね。
書籍に書かれていることに何か価値を見出せたらそれも幸せかも。
屋外で坐を組んで瞑想したことある人居ますか?
私やってみたいんですが、場所や他人の眼が心配で実行には至りません。
833 :
神も仏も名無しさん:2008/05/11(日) 00:08:54 ID:TTQuc03C
長老は専門分野の話は信頼できるが、専門外の話はさせちゃまずい人と認識してます。
いろいろな本を読んで知識ばかりが増えても、幸せになれない
のでは本末転倒ってやつ。
大学の講義でも一番前に座って熱心に聞いているヤツが
成績悪かったりするのは良くある話。
健康や環境問題を勉強して、詰め込んだ知識を一所懸命に
叫んでいる人間が必ずしも健康に暮らしていないなんてのも
良くある話。
2chばっかやった場合は、幸せにもなれないし、知識も増えない。
836 :
神も仏も名無しさん:2008/05/11(日) 00:26:38 ID:HyMLjGfv
あれこれ詮索したり、他の宗教と優劣を比較したりしないで、
素直に言われるままに修行する人が、
いちばん悟りやすいのかもね。
宗派によるヴィパッサナーのやり方の違いなんかは、
たいした問題じゃないのかも。
でも、そういう一直線に実践する人が、
たまたまカルトに最初に出会っちゃったら不幸。
つぎからスマナサーラ、スレタイからはずさない?
この人の名前だけ入れんの不自然だろ。
>>836 素直に言われるままに修行する性格で、かつ変なカルトに関わらないでそれなりのものにすっと出会う人は
よほど過去生でがんばって今生に備えた人と言えるかもしれませんね。
自分にはそういうのはなさそうだな(´・ω・`)
仏教やヴィパサナに出会っただけでかなりの幸運だと思うけど?
スレタイよりも、参考文献や参考リンクをテンプレとして加えた方がいい。
スマさんもはそこに入れておけばいい
>>839 そうですね、まだ自分はもっとがんばれば仏法に出会うまでの苦しみを自分の力でもっと減らす事ができて、
もっと早く仏法に出会うことができたんじゃないかとの妄想にしつこく囚われてるみたいです。
>>830 ヴィパッサナーやる時に、自分の中で、触から受が生じるのを
観察する時に役立つだろう、ってことで基礎を知りたかっただけ
だよ。
触ってなに?
受っていわれてもわからん
って状態だと、仏典読んでも実践に結びつかないし。
認識作用との触(接触和合)から受(苦、楽、不苦、不楽)が生まれます。
訂正。
不苦不楽はひとつの言葉です。読点は不要でした。
スマさんの名前外したら過疎ると思うな
前のヴィパスレも消えちゃったし
単なるネラーの瞑想談義には興味わかない
過疎るかもしれんが、荒れにくくなるから俺はいいと思う
寺和田スレとかぶるからここはヴィパサナ専用スレにしてほしい
テーラワーダ仏教についてって米も外してほしいくらい
協会の話題はあっちに任せりゃいい
食事の時にサティを入れながら食べると 大benの大きさが普段の半分位になるのは気のせいか?
用benの時にもサティを入れるとben秘解消することは確かなようだけど。
ラッパーの姿が思い浮かんだとサティ
>>847 (肛門が開いた)と感じている
(ウンコが顔を出している)と感じている
臭い・・・
冷静に考えてみるとヴィパッサナー瞑想ってやっぱ変だわ。
いちいちこんなことやってられないよ。
850 :
神も仏も名無しさん:2008/05/11(日) 16:52:37 ID:dCRrWZ6r
>847
私も大benについては同様に少なくなってると感じる。
サティのせいというよりも、合宿瞑想中はゆっくり時間かけてよく噛んで
食べるせいと思う。食物残渣はより細かくなってるだろうし、食事量も
少量気味。
ただ、サティ中は雑念少ないので、胃腸の働きは調子良い可能性はありますね。
>849
いちいちこんなことやらないといけません。
特にトイレタイムはサティが切れやすいです。
そう思ったら「(やってられないわ)と思っている、思っている」
とサティする。
851 :
神も仏も名無しさん:2008/05/11(日) 18:10:09 ID:wleqgW3b
射精の時はどうサティ入れたらいい?
852 :
神も仏も名無しさん:2008/05/11(日) 18:21:30 ID:ldIJ8YnJ
いきます いきます
飛びます 飛びます
ハハ!二郎さんかよ。。
マジな話初心者が一日中サティいれたら
唯のぼーっとした人間になるよ。
しかもスローモーション。
コアラかナマケモノだろ。
スマ長老が民間企業に入ったら3日でクビだろうなw
クリシュナムルティがマックでバイトしてるとこ想像してみ。。
怒りを観察すると「怒っている自分」などは
存在せず唯怒りだけがある。
怒りこそ自分である。
喜ぶときは喜びこそ自分である。
よって自分は存在しない。
このような理解でいいのだろうか?
同じ観察から「怒りも喜びも自分ではない」という結論も導きだせるかもよ。
860 :
神も仏も名無しさん:2008/05/11(日) 22:54:10 ID:HyMLjGfv
>>857 でも、教員の仕事は勤められてたでしょう?
ID:4ZL/TRnz
あなたオモロイわw
でも、実際に観察する対象は、内処と外処の接触による感覚(認識)なので
自分の内面だけをみているわけでなく、認識対象である外界も観察している
わけだから、実際の生活に支障をきたすとしたら、やり方間違ってるんじゃ
ないのかな。
と、「仏法」を読んだニワカ理解だがいってみる。
その場にあわせるのが一番ですよ。状況を無視するか気づくか
坐ってるとふっと気が遠くなりそうになることがあります。
これは眠気でしょうか
>>857 あのな、スローモーションは初心者のサティだ。
サティの達人がスローモーションするわけないだろ。
彼らはどんな動きのときでもサティ出来る。
だいたい、スローモーションはマハシだけのやり方だろ?
ゴエンカさんのところでは、そんなのしないよ。
>>865 スローモーションだけの話をしてるんじゃないだろ
そういう世俗に合わせた生き方はちょっと難しいと言ってるんじゃないの
理想論かもしれないけど、だからこそそれができた人は本当に素晴らしいね
和光同塵って、まあ格義仏教の言葉だけど、そういう人こそ至人ではないかと思う
スローモーションでなければ、たいていの人間は無理。
が、スローモーションでは現実的に意味がない。
で、スローモーションでなく現実の生活において支障無く
できるようになるまでの年数を考えると、まず100%の
人間がこの世からおさらばしてしまう。
結局、サティを入れ続けるというアイデアは良いけど、
所詮は絵に描いた餅で、ほとんどの人間がマスターする前に
死んじゃうんだよね。
それなら、もっと楽しいことを探し続ける努力をしたほうが
ずっと良い人生を送れるんじゃないかと・・・
868 :
神も仏も名無しさん:2008/05/12(月) 12:22:49 ID:oIP1vnt3
>>867 何のためのサティなのか。
サティが目的じゃなく、サティしてるうちに、
苦・無常・無我に心底納得することが目的じゃないでしょうか。
日常の速度でサティできなくても、
一日何時間・何十分かのスローモーションのサティのときに、
苦・無常・無我を覚る可能性もあるのでは?
苦を覚るとか、納得するのでは瞑想として効果がないと
いうことではないかと思うんですよね。
だって、嫌な外部刺激を受けたときに、その外部刺激に
対して自分の妄想が付加されて感情を害したり、ひいては
心身の不調を招くことなどがきれいサッパリ解消されない
のでは何の意味もないでしょ。
本などを読むと、もっと先のことまで書いてあって、自分に
とって好ましくない外部刺激そのものまで起こってこない
ようになると言っているので、もの凄く期待してしまうわけだけど。
やはり、現実には非現実的だったんだ。
870 :
ななし:2008/05/12(月) 13:08:34 ID:QY3a4Mwt
たいらつなのは、日々のそうじだ。瞑想はそのあとだ。
マハシでも、おなかの膨らみ縮みの瞑想はスローじゃないだろ。
普通の速度でやるのが、ヴィパサナなんだよ。
その普通が だいたい現代社会において粗雑で落ち着きがないので
ジェントリーにゆっくりうごくほうがいいよね。動きに気づきを用いるのであれば
指導者に相談しましょう
いちいちスローモーションとかにこだわらず
今を気づけってことでしょ。
自分のしている行動を意識して気づいていると
過去、未来の妄想は確かに無くなる。
そしていつか自分の死を迎える時に、いかにそれに気づいていられるか。
そこにいくためのサティだと私は思っていました。
こだわっていたら前へはすすめないですよね。
ソローでやるのは、あくまで初心者用のサティの練習のためだよ。
ほんとうはスローとか、そういう動きを意識しないほうがいいんじゃないの?
おなかの膨らみ縮みがそうでしょう。
スローにしようとかいうのも妄想だからね。
ゴエンカさんのところでは、「意識的にスローにしてはいけない」と言うよ。
雀鬼の桜井さんによると、瞬間的にパイを切るのが
もの凄く重要らしい。
迷いを捨て、直感を研ぎ澄ませることができるのは
瞬間的動作しかないんだろう。
サティも歩行瞑想にあるようなゆっくりしたものでは
なく、瞬間的にサティを入れる訓練を初心者の最初
からやるべきなんだと思う。
877 :
神も仏も名無しさん:2008/05/12(月) 18:27:09 ID:oIP1vnt3
>>869 苦・無常・無我に納得するのは預流果のさとりではないのでしょうか。
さとりのために瞑想してるわけでしょう。
>>877 一来果の悟りは、どういう基準なのかご存じでしょうか。
もしくは、それらが明記された文献などご存じでしょうか。
ヨガとヴィパサナーって併用してもいいものなんですか?
ヨガでいう瞑想とはまたちがいますよね?
こっちはサマタということでしょうか、解脱が目的なら各種ヨーガ修行しながら
ヴィパサナーをやるのがベターなのか、いまいちわかりません。
八正道って、ヤマやニヤマと同じようなものととらえていいんですかね
いろいろヴィパサナ関係のサイトみてみたけど、よくわからないんですよね
詳しいサイトでも本でもいいので教えてください。
ヨガによって定が深まるんならいいんじゃないかと思うがな
ヴィパサナやるときはチャクラとか考えない方がよさそう
TM瞑想の癖が付いてヴィパサナに支障が出た人の話が協会公式サイトのQAに載ってた
>>881 ありがとうございます。
巻末に書いてありました。
「悟り」っていうのは結局、誰もその正体を知り得ないんだと思う。
だから、悟るために瞑想をしているとしたら、瞑想技法だけでも
修得はやっかいを極めるのに、その到達地点が得体の知れない
「悟り」の境地というのでは、それこそ迷いの中から抜け出せない
まま一生終わっちゃうよ。
仏典や仏典の解説書の類を、入門書一冊でもいいから読んでみたことがありますか?
>>885 ここは仏教典や教え、悟りなど、高いところに目標を
置いて精進されている方が多いのかも知れないです
けれど、自分の場合、瞑想の目的がそこにないので。
というのは、日常生活で何か嫌なことがあるとすぐに
怒る癖を直したいとか、だらしのない仕事や片づけの
できない人、あるいは物事を俯瞰したり、洞察したり
することができずに、直情的に浅薄判断して変な発想
をしたり、違う方向へ動いてしまう人を許せない性癖
(イライラ)を直したいと思って瞑想本を手にするように
なったんですよね。
悟りとは、実は身近なところにある心地よい平安なの
かもしれないけれど、一般にはどこか遠くにある究極
の到達点のように思われてるし、その意味で抽象的
になりがちでしょ。だから、悟りという言葉を使わない
ように、具体的な体感や改善・変化を求めたいわけ。
なるほど。
悟りは四つの段階を踏んで深まるといいますが、その第一段階とされる
預流果に至るだけでも、怒りやイライラなどは大幅に軽減される、と解説
されていますね。
二段階目以降は、瞑想修行を深めないと到達できないそうです。
知慧の開発だから
脳みそフル活用しよ
瞑想していても、心の奥底で
あーバカバカしいと思う自分がいる。
こんなことするくらいなら、
初めから生まれてこなくても良かったのに、
と思う。
本当は、他人の幸せなんかどうでもいいよ。
慈悲の瞑想は、嘘を別の嘘で塗り替える作業かも。
でも頑張る。
891 :
神も仏も名無しさん:2008/05/13(火) 07:56:53 ID:5tE6uCmu
>>886 仏教では煩悩がリストアップされてるわけだから、
日常生活のイライラや迷いとかも、煩悩で説明できるでしょう。
で、煩悩が消えていくのが「さとり」ではないでしょうか。
>>890 慈悲の瞑想は洗脳のように感じるが
実際には脱洗脳だ、といったインドの聖者がいるよ。
怒りだとか憎しみだとかそういうものが洗脳であり
それを解いて行くプロセスだと。
貴方のような正直さが上達するには一番大切なんじゃない?
>>890 慈悲の瞑想の良くないところは、お経のような文言が
定型文として決まっていて、それを機械的に読み上げるだけ
でしかないというところだね。
だから、ウソを別のウソで塗り替えるような思いになるのかも。
ただ実際には、仏教どころか、教義・教典のない神道でも
同じことを言う。
また、普通に生活している無宗教の(と自分では思っている)人の
体験でも、嫌な相手に嫌な感情を持ち続けると良いことはないとか、
嫌な相手のことを恨まないでいる(いつまでも考えていない)と
自分が解放され、その相手とは自然に縁が切れていく事例は
いくつもあるようだから、これはもう一つの宇宙法則なんじゃないかと
思う。
894 :
神も仏も名無しさん:2008/05/13(火) 12:29:45 ID:5tE6uCmu
>>893 慈悲の瞑想もサマタ瞑想だからね。
決まった言葉(マントラや念仏など)をくりかえし念じて
妄想で念じるのを中断しないようにするのは、
サマタ瞑想のオーソドックスな形では。
慈悲の心を育てることばかりに気をとられて、
妄想を断じることを忘れては、
「瞑想」にならないのでは?
空手などにたとえると、
サマタ(止)は、型の練習で
ヴィパッサナー(観)は、乱取りとか実践練習みたいなもんですかね。
慈悲の瞑想をサマタと考えたことはなかったけど、
マントラには合っていればコカコーラでもなんでもなり得るから、
確かにサマタ的に唱えればサマタにもなり得るかもしれない。
でも慈悲の瞑想のそれぞれの文言は慈悲喜捨を表して、
マントラよりも言葉の意味が重視されていると思う。
解脱には厭世観の確立が不可欠になるけれども、
そうすると社会との協和を失いかねない。
だからマントラというよりもむしろ
OSの刷新というか出力系の改善というか
よりプラグマティックなものだと思うよ。
このスレの書き込みによるとスマナサーラ長老によるとクリシュナムルティは預流果だそうですが、
長老ご自身はどうなんですか?
動画などを見るとクリシュナムルティの方が遙かに波動が高いように感じます。
と思ったら地橋さんはサマタ系の瞑想と書かれているねw
イメージを使うサマタ瞑想か
でもマントラとしては使うのかな?
ともかく勉強不足でしたスマソm(- -)m
>>897 どう考えたってクリシュナムルティは悟ってるだろう。
あの人が悟ってなかったら誰が悟ってるっていうんだ?
>>899 私もそう思いますが、預流果と確定的に判定できると言うことは
判定したスマナサーラ長老はそれ以上であるはずだと思うんです。
(その判定が正しければですが・・・)
俺的にはスマ長老はヨルカ、クリシュは阿羅漢で確定してます。
>>901 同感です。
ただ、私の場合はそう「思う」というレベルですが。
でも、そうなると長老のいう「クリシュナムルティは預流果」という発言は眉唾だということになり、
一体長老って、何者だ?というこのスレ的には不謹慎な気持ちになります。
さて、どうしたものでしょう。
妄想サルどもはすっこんどれや。
ということでよいのでは
>>902 長老はクリシュがヨルカで生まれて来た、前世ヨルカだった
と言っただけではないのかな?
亡くなる時は阿羅漢だったと。
それでいいんじゃない?
>>904 そうだったんですか。
知りませんでした。
ありがとうございました。 m(_ _)m
長老は自身の悟りのレベルについて、
HPのMP3の法話で質問者に「三明を得ているか?」と問われ「知りません」って答えてるね。
>>897 長老は悟ってるかと聞かれて悟ってないと答えてないので、悟っていると解釈してます
でないと嘘をついていることになるし
でも正直悟っている人ってあんなものかぁと思ってしまう自分が悲しい
質問によっては機嫌悪いしね。
>>906 質問者の抱えている苦悩を解決するための質問以外は、答える必要ないでしょうね。
悟ってるかの証明は難しい
>>904 Kについてはそのとおりで、スマ長老もKが預流果だなんてこと一言も言ってない。
ただ、阿羅漢でもないだろ。
阿羅漢だったらハゲを恥ずかしがったりしないはずだからね。
>>911 詳しく希望。ハゲの件。
ダンテスもEOもラジニーシも覚者だと言ってるよ。
クリシュの本15冊くらい読んだけど覚者しか書けないと思う。
913 :
神も仏も名無しさん:2008/05/13(火) 19:54:35 ID:4P7NUkch
クリシュは不世出の覚者だと思う。
キッチン日記に記載されています。
正確には、恥ずかしがるというより、
薄毛の部分を目だ立たないように整えていたという事です。
身だしなみですね。
私は25年前Jの本に出会いましたが
まさに釈尊が生まれ変わったらかくあるべし、
と感じました。
唯彼は全てのメソッドを否定してるんですよね。
受動的観察のみ。ま、ヴィパサナと言えばヴィパサナですが。
スレチですがラマナ・マハリシ知ってる人居ますか?
ブッダのやすらぎの声聴きながら書いてます。
>>914 知ってるよん。「私とは誰か?」ていう真我探求薦めてる人だよね。
その弟子のプンジャジの弟子のガンガジの本持ってるがこれもいい。
ガンガジ?しらないよ!お主何者だ?
ラマナとクリシュナムルティの話が出るなんて
ホントうれしい。
前に大乗スレでカキコして無視されたからな。
「あるがままに」持ってるけど途中でとまってる。
やっぱ一気に読まないと印象薄れるね。
また読み直してみよう。
すごい超然としてる人だよね。
ラマナの「私はだれか」古本屋に売っちゃって
また買おうとしたらプレミアついてやんの。
ババジって有名な人なんだね。
「覚醒の炎」注文したよ。
楽しみだ、ありがとう。
あなたは何故不幸なのか、それはあなたの
行動の99%があなたの為のものであるにも
かかわらず「あなた」など存在しないからだ。
byラマナ・マハリシ
これを読むと涙が出てくるんだよね。
そこは泣くとところじゃないと思うぞ
泣きたいのはこっちだよw
わからんかなあ。
同じ人類でこういう事を言う人がいるんだよ。
その感動・・・
妄想に浸ってるだけだろ
w
>>913 >薄毛の部分を目だ立たないように整えていたという事です。
恥ずかしがってなきゃ不自然に髪をなでつけてハゲを隠そうとしないよ。
覚者であるにしても、せいぜいが預流果ってとこでしょ。
預流果でも充分すごいんだが。
925 :
神も仏も名無しさん:2008/05/13(火) 22:12:41 ID:4P7NUkch
>>925 せいぜいが預流果ってのは憶測。
阿羅漢ではないってのは疑いようのない事実。
927 :
神も仏も名無しさん:2008/05/13(火) 22:47:11 ID:Fdn9z117
禿げ隠しを女優に指摘されて、沈黙が続いたっていうくだりは笑える
まあ、Kも人の目は気にしていたってことだな
あの件は面白かった。
929 :
brown:2008/05/13(火) 23:41:18 ID:/AmoxUCK
人のことはいいから,自分の修行をしなさい。
>>914 「受動的観察」で思うことがあるんだが、
今流行の「引き寄せの法則」というのがあるよね。
この「引き寄せの法則」は、何もオージー女性が今頃になって
本を書くまでもなく、誰でも多かれ少なかれ体験しているんじゃ
ないかと思うわけ。
自分でも何十年も前から良くも悪くも何度も体験してきて、
時には死ぬほど痛い目に遭っているんだけど、そういう力
というものが働いているのは事実だと言える。
となると、ヴィパッサナー瞑想の受動的観察ばかりでは
防御一辺倒で、「引き寄せの法則」で言うような、自分の思い
が自分の見るであろう世界を創るという視点に欠けていると
思うんだな。
つまり、打たれても平気、打たれ強い、・・・こんなことばかりでは
ヴィパッサナー瞑想が不完全なものであるということを露呈して
いるわけで、こんなもんでは当然に悟りが開ける道理がないし、
それ以前に自分の思いというものが汚れていたり、とっ散らかって
いたりするのでは、津留晃一さんが本で書いているような
「この世界は、自分の考え方の反映である。」という宇宙の法則を
うまく活かしきれないままになってしまう気がするんだよね。
931 :
brown:2008/05/13(火) 23:53:52 ID:/AmoxUCK
思考が現実化することは絶対にない。
超能力はあり得ない。
計らいが効力を持つことは決してない。
欲望や思考が意味を持つことは一度もない。
それを一瞬でも理解したら,全てを理解する。
というのは,一瞬は無限だから。
>>931 >思考が現実化することは絶対にない。
日常レベルでさえ、至るところで思考は現実化しているよ。
例えば、夏の暑い日に汗をかいてのどが渇いたから
自動販売機でジュースを飲みたいなあと思えば、そのように
自然に行動して自動販売機も見つける(見つかる)し、欲しい
ジュースだってオレンジ100%が飲みたいと思えばアップルは
選ばないよね。
933 :
brown:2008/05/14(水) 00:06:40 ID:I5ZlMvAI
仏陀曰く,「無いものを有るといい,有るものを無いという者は,邪な見解
を抱いて地獄に堕ちる」
前世はない。来世もない。死後の世界はない。転生もない。地獄はない。
天界はない。天や何かのシステムが下す悪業の報復もない。霊はない。
霊障もない。超能力もない。計らいの効力はない。思考が現実化すること
はない。ウサギの角はない。これらが無いものである。
善悪の区別はある。五蘊はある。苦しみはある。解脱はある。修行はある。
自我はある。時間はある。因果はある。カルマの力はある。
生きている意味はある。救いはある。現実はある。社会はある。物質はある。
この世はある。心の本性はある。存在の本性はある。悪人はある。
雑音はある。サイの角はある。これらが有るものである。
934 :
brown:2008/05/14(水) 00:08:16 ID:I5ZlMvAI
>>932 そういうことはある。
しかし,思考は現実化しない。
主観と客観を分けよ。
思い(主観というか自発的潜在的な意思)が現実化するというのは、
そのこと自体、主観が世界を創るということだから、主観と客観の
区別には当たらないよね。
>>932 ヴィパッサナをするなら自己啓発やヨガの本ではなく
岩波なんかの初期仏典を参考にすると良いと思うよ。
937 :
brown:2008/05/14(水) 00:23:52 ID:I5ZlMvAI
物質は,ニュートンの法則に従って,力の方向に動く。そこに思考が
働いても1ミクロンも1フェムト秒も,物は動かない。
心は現実,本来の心統一,現実からの離反,それによる苦しみ,カルマの力
という法則に従って,計らいが静まり,散漫な心がおとろえれば,楽しみ
となり,欲望という破壊者に支配され,思考という強盗に奪われれば,
苦しみとなる。心は持続する。それが成就しませんようにと祈願しても,
一刹那たりともかなわない。
このように外的宇宙と内的宇宙が,ともに調和しつつ存在するのである。
938 :
brown:2008/05/14(水) 00:28:10 ID:I5ZlMvAI
主観的な想いは,行為によって,客観に伝わるのである。
行為に依らず,思考によって現実化しないのである。
しかも,行為の動機となった思考と,行為の結果の間には,厳密な因果関係
は成立しないのである。なぜなら,自我以外の様々な条件の影響を受ける
からである。
それを,個我の欠如という。
これが縁起の法である。
どうやら、ヴィパッサナー瞑想は「思考は現実化しない」
という教義か仏教の教えかがベースになってできあがった
ものなのかな。
それがゆえに、外部刺激や外部情報は自分ではどうする
こともできないものであると定義。
しかるに、それら外部刺激、外部情報には必ずしも自分に
良いものばかりではなく、どうかすると自らの妄念・雑念を
付着させやすいものが多く、そうなると単なる刺激・情報も
自己の付着させた妄念・雑念によって自らを精神的にも
肉体的にも不調におとしめるという好ましからざる作用が
あると現実を定義。
そこで、自分の思考ではどうすることもできない外部刺激・
外部情報がいたずらに流れ込み、自らの妄念を付着させて
二の矢を受けるなどの現実的問題を解決せねば、悟りは
とうてい得られない。もちろん、それ以前に心の平和すら
維持できない。・・・と定義。
そこで、ヴィパッサナー瞑想によって・・・云々
・・・ということなのかな。
940 :
brown:2008/05/14(水) 00:34:19 ID:I5ZlMvAI
主観を滅して客観に至るべきでもなく,客観を滅して主観に至るべきでも
ないが,主観と客観の分別は重要である。
その分別ができない限り,いつまでも信仰の妄想は続く。
要するに,人は,そのどちらかを切り捨ててしまうのである。
そうして混乱した白昼夢へと陥っていく。
しかし,それらはともに存在するのである。
彼らは,知らず,愚かなために受け入れがたいからである。
941 :
brown:2008/05/14(水) 00:39:28 ID:I5ZlMvAI
世界に影響を与えることはできる。他人に影響を与えることはできる。
物を動かすことはできる。それらは,行為によるのである。それらは
することができる。
しかし,私が意図した,その理想と,その行為の結果との間に,正確な
因果関係は絶対に成立しない。因果関係が成立することは,宇宙が始まって
以来一度もなかったし,これからも,未来永劫ないのである。
そのように定まっているから。
だからといって,私が行為して,少しでも,何かを良い方向にと計らうこと
はできる。それは苦しみであるが。
その苦しみを正しく引き受ける者,彼を菩薩という。
悟ると二の矢を受けなくなるとの仰せです。
>>938 「思い」が「行動・行為」を通さずに「現実化」した例を体験しているんだよね。
そういう体験がいくつもあるので、昔は不思議だなあと思っていたけれど
このところの「引き寄せの法則」を待つまでもなく、思いは現実化するのだ
と普通に思うようになって今に至るわけ。
それがあるので、受動的な対処だけの瞑想は、なにかがおかしい・・・と。
944 :
brown:2008/05/14(水) 00:49:12 ID:I5ZlMvAI
>>943 現象論からいうと,「思い」が「行動・行為」を通さずに「現実化」した事例
が全くないとは言えない。そういうことはないというのが法則なのだが,
それが偶然に一致するということはある。
むしろ実際にはそれなりに頻繁にあるのである。偶然だが。
世界は偶然に満ちているから。
現代科学から見ると「とてもこんなことを信じていた人がいたなんて
信じられない」昔の考え方(迷信)が,昔は当然のように信じられていた
ようなものである。おかしな考えでも,ある程度はそれなりに該当する
のである。
その考えを変えさせることはできない。思考は現実化しないから。
自分で気づくしかない。でも,気づくことはある。偶然でもそれは起こるから。
ちょっと割り込みますが、
お坊さんが修行すると座っている場所まで浄化されるって話を聞いたのですが(慈経にて)
東京だけでも清めてほしい場所があるのでお願いできませんでしょうか。
・秋葉原
・池袋
・新宿
・原宿
以下東京23区の都会。
そういえば、新宿はよく虚無僧だの托鉢をするお坊さんがたくさんきていたが、
あれも場所を浄化するための方法か?
例えば、自分の(少なからずの)体験の集積から
自分の思いがあると、その思いを実現させてあげようとして
自分を取り巻く周囲のすべての気(不正確だけど)が
なにがしかの作用変成をして、現実に起こる現象を
変えてしまうという体験的結論がある。
思考は現実化しないというのも、この文章をどのように分解解釈し、
再構築してできあがっているかを詳しく見れば、富士山をどちらの
方向から登ろうかの違いのような気がする。
それは「思考は現実化する」と言うよりも、正しくは「願えば叶う」だね。
誰しも願いが全て叶っているわけではないだろうし、全て叶わないわけではないというのが現実ではないかな。
ヨガのグルのような超能力を求めているのかも知れないけれど、
仏教はおそらく超能力を否定していないとしても、その獲得が目標ではないから。
ブッダの目的は迷いの生存・輪廻からの解脱であって、ヨガ的苦行を放棄してからブッダになった。
ヴィパッサナもそれに至る道の一つなんではないかな。
948 :
brown:2008/05/14(水) 01:22:15 ID:I5ZlMvAI
あるとき,村長アシバンダカプッタが釈尊のところにやってきて,
「バラモンは祭式を行って人々を天に生まれさせる力を持っているという。
偉大な修行を成就された世尊もまた,そのような力を持っているのですか?」
と尋ねた。これに対し釈尊は問いをもって応えた。
「村長よ,ここに一人の人がいて,人を殺し,物を盗み,嘘をつくなど,
あらゆる邪な行為をなしたとせよ。さてその人が死んで,そこに大勢の人が
集まった。そして,『この人は死んで後,天に生まれますように』と祈祷した
としたら,この人は,大勢の人の祈祷の力によって,天に生まれるだろうか?」,
村長は,「いいえ,その人は天に生まれることはできません」と答える他
なかった。
釈尊はさらに問うて,「村長よ,ここに一人の人がいて,湖の中に石を投げ
込んだとせよ。そのとき,そこに大勢の人が集まって,『石よ,浮かんで来い』
と祈祷したとしたら,その石は大勢の人の祈祷の力によって,浮かび上がって
くるだろうか?」,「祈祷しても,石が浮かんでくるはずはありません」,
949 :
brown:2008/05/14(水) 01:22:41 ID:I5ZlMvAI
「それと同じである。村長よ,あらゆる邪な行為をなした者は,如何に
祈祷したからといっても,死して後に天に赴く道理はない。その人は命終わりて後,
地獄に赴く外ないのである。」このような問答を通じて,村長は,釈尊の
教えるところを理解し,納得することができた。さらに釈尊は続けて,
「では,これはどうか?村長よ,ここに一人の人がいて,生ける者を殺さず,
他人の物を盗まず,偽りを述べず,あらゆる善き行為をなしたとせよ。
さてその人が死んで,そこに大勢の人が集まった。そして,『この人は
死んで後,地獄に堕ちますように』と祈祷したとしたら,この人は,
大勢の人の祈祷の力によって,地獄に堕ちるだろうか?」,「いいえ,
その人が地獄に堕ちる道理はありません」,「村長よ,ここに一人の人がいて,
湖の中に油の壷を投げ込んだとせよ。すると,壷が壊れて油が水面に浮いたとせよ。
そのとき,そこに大勢の人が集まって,『油よ,沈め』と祈祷したとしたら,
その油は大勢の人の祈祷の力によって,沈んでいくだろうか?」,「いいえ,
油が水の底に沈む道理はありません」,「それと同じである。村長よ,
あらゆる善行を積んだ者が,如何に祈祷したからといっても,死して後に地獄に
赴くことはあり得ない。その人は命終わりて後,天に生を受けるに決まって
いるのである」
善を実行しようと決意し、不善を絶とうと決意したもので、それを行った者は天に生まれる。
善を実行しようと決意し、不善を絶とうと決意したものでなければ、それを行いに移さない。ゆえに天に生まれることはない。
行動の源は思考である。そして、行動によって事態は変化する。
「思考→行動→結果」 これは真実。
思ってるだけで自分に都合のいい偶然が起こるというなら、それはオカルト。
偶然は一定確率であるだろうが、願っただけでそれが増すということはない。
思考は言動・実行を通じてのみ現実に働きかける。
昨夜の文字の羅列みてるとなんか無理ぽって思うね。
素直さや柔軟さのかけらも見えない苦しそうだね皆さん。って感じ。
ま、自分に言ってみる訳だがw
難しくてよく分からないけど、「思考は現実化しない」は、
いわゆるマーフィーの法則 (潜在意識にインプットしたものは現実となる)
を否定するものなの??
>>943 受動的な観察、瞑想だけが自我を強めず
行為の動機まで見せてくれるんじゃない?
少しでも積極的になれば自我が介在して
正しい観察は出来なくなる。
思考はエネルギーであり物質に影響を与える。
故に思考は現実化する。
だから悪い事を思うな、と言われてるんだろう?
ブラウンさんは前世や来世も否定してるが
輪廻は無いということですか?
ヴィパ中につき思考厳禁
仏教スレなので仕方ありませんが、
釈迦がこう言ったから、ということですべて正しいとなるのも違和感があります。
釈尊の発言とされている一つ一つホントに存在するかも確かめようもないですし。
正しいと仮定して各自が自分のこころで検証する宗教だからね
人に言われたら違和感あるだろ
958 :
神も仏も名無しさん:2008/05/14(水) 15:44:17 ID:DsNC2XfW
で、瞑想によって苦しみがなくなり無敵になった人はいますか?
今売っているものの中でおすすめの仏教の本があったら教えてください。
A・スマナサーラ長老の書籍以外で。
960 :
神も仏も名無しさん:2008/05/14(水) 16:20:05 ID:y45bqGEN
961 :
神も仏も名無しさん:2008/05/14(水) 18:08:37 ID:tq5MPjhb
先生
>>960 Amazonで調べてみたら、その本30年くらい前に発行されて廃刊になっていた。
プレ値がついていた。2万円くらい。
同じ題名で山折 哲雄さんの本はまだ現役のようだ。
それでも発行されてから5年以上経っているので、なるべく新しいのをお願いします。
>>962 改訂版がでてるよ。
「仏教要語の基礎知識」で検索してみ。
用語じゃなくて、要語ね。
>>963 ああ、本当だ。存在した。
…こういう本はやっぱり都市部とかAmazonなんだろうなぁ…
隣町にあるかどうか。
っていうかブクオフには?いや、あるとは考えない方が…
その他にこのスレのタイトルのような「瞑想法」に特化した本でお奨めはありませんか?
けど、「その前にこの本読め」というのが正攻法なのかな…
あんがい小手先で瞑想法かじるより面白いのかもしれない。>仏教要語
>>964 その本面白くないよ。
サンガ社「仏法」by ポー・オー・パユットー
国際語学社「ミャンマーの瞑想」by マハーシ長老
後者は瞑想者必読。1500円で薄いほんだが素晴らしい。
仏教要語は、辞書的な使い方になっちゃってるな。
仏法の方は、腰を据えて読まないといけないが、それだけの価値はある。
>>965 その2冊持っている人がうらやましいよ。
一方は4000円近くかかるし、もう一方はAmazonだと中古しかとりあつかっていないよ。
それだとブクオフや近所の本屋に問い合わせしないとキツイよ。
仏教要語の基礎知識と合わせて読んだらプラシーボ効果が発生するか?
>>966さんのレビューを信じて今入手できる仏法+αまでにするか…
(今ミャンマー大変な事になっているんだから増版すればいいのに>ミャンマーの瞑想
そうすればマハーシ長老経由でミャンマーに支援金がまわるんじゃないか?
それとも軍部はそれすら許してくれないのか?)
>>967 ミャンマーの瞑想は普通に本屋で注文したよ。
一生の中での4000円じゃないかw
一生のテキストだよ。
>>968 俺もAmazon以外のWeb書店で調べてみたけど
…ミャンマーの瞑想が札幌店にあるってどういうことなのか?
あるところにはあってないところにはないってことか…
ま、ここでの書き込みがきっかけとなって「ミャンマーの瞑想」がバンバン書店に置かれるといいな。
え?有り難みが薄れるし、買う人少ないからヤメレって?
僧侶によるものではないけど
「呼吸による癒し」もオヌヌメできるかも
971 :
brown:2008/05/14(水) 21:54:29 ID:I5ZlMvAI
>>954 誰も前世や来世を経験できない。輪廻は有る。ほとんどの人が経験している。
思考というエネルギーは,感情と相互変換される。その煩悩の織物は,
「私の肉体」に影響を与える。その間には,因果関係がある。しかし,
他人の肉体や自然環境との間に正確・直接な因果関係は生まないのである。
私が便意をもよおしたとき,他の誰かがお手洗いに行っても,どうにも
ならない。私のお腹が減ったとき,誰が食事をすればよいのだろう?
水を思考することによって,渇きを癒すことはできない。ただ水を飲むこと
によってのみ渇きを癒すことができる。
「私というものは無い」とか,「思考は現実化する」などという者は,
こういう,はっきりとした事実をじっくりと考察すべきだろう。
それを悟れば,善悪を知る者となる。しかし,それを誤解すれば,思考や見解
によって悟り得ることになってしまうだろう。修行・解脱は不要なものと
なってしまうだろう。またその果実は,単なる思考や見解ということに
なってしまうだろう。何も現実の体験として現れてこないことになるだろう。
なんか、ここで議論されている教えって、
以前、大学で教わったシステム理論と
似ているような、似ていないような・・・・・
しかし、サティの入れ方が、上達してきた。
怒り・恐れ・不安は、キチンとサティできずに、
その気配を感じると、ラべりングを入れて退散していたが、
最近は、しっかりとサティを入れることができている。
お腹の膨らみ・チジミも意外と味わい深いことを発見。
974 :
brown:2008/05/14(水) 22:21:28 ID:I5ZlMvAI
>>958 人間の心には,秘められた限りない悦楽の泉があります。
それを遮るものは何もなく,どのような現世経験も,それを打ち壊すことは
できません。
瞑想に熟達することで,全ての経験がその泉に溶け込んでいきます。
その体験はこの世の中で修行することで,誰でも開いていくことができます。
完璧な癒し。やさしく絶妙で,温かく,対象の限定のない愛に包まれる。何物
をも望まない,生きているだけで幸せな,これまで「望まないこと」を遠ざけ
てきた「何か未だ他にある」と言う感覚が失われたところ。不安な気分の
失われた静寂。いつも何かかすんでいた見ることそのものの世界。新鮮で,
鮮やかに見えるその花々は,初めてみるもの。「ああ,こうなっていたのか」
と驚き,「こういう仕掛けだから今までわからなかったわけだ」と大笑いし,
この世のありとあらゆる喜びの中で最大の,この世のありとあらゆる楽の中で
最も安楽な,この世のありとあらゆる認識の中で最も妙なる真実が顕現する。
それはあらゆる経験の中で最勝の経験なのである。
5HEZ90ht
ガタガタうっせえな、数すぞ
なんでそんなに怒るのよw
数せるもんなら数してみろや!!
数息観もたまにはイイね
ミャンマーでは、瞑想の本がいろいろ出てるらしい。
大衆にはゴエンカの本が売れてるらしい。
数すぞごるぁ!
>>973 熟達者の方にお聞きしたいのですが、
・ラベリングを入れる
・サティを入れる
この両者の違いを具体例でご教示いただけませんか?
ヴィパ瞑想本を読んで我流で始めてみましたが、
2つが同じものに思えて、違いがよくわからないままなんです。
ラベリングをいれる→言葉で確認
サティをいれる→単に気づく
って感じちゃう?俺も初心者やけど。
ここら辺の用語の使い分けはきっちり統一されてるのか分からないね
欲 し ぃ ・・・>仏法
仏教の実践や勉強をやりはじめてから、
やたらお金かかるわー
来月までまって、出費を減らす努力をすべきかと思いつつ、
今生は修行できる類まれなるチャンスで、しかもいつ死ぬかわからない、
いつ勉強に時間取れなくなるほど忙しくなるか分からない、となると、
つい買ってしまう。
>>974 こういうニンジンをぶら下げて、終わりの無い修行地獄の人生へ引きずり込む。
果たしてこの境地に至れるのは何割だろうか、いや、それどころか本当に居るのか。
そこを信じるかどうかが仏教における信仰である。
仏教の修行地獄に陥らないためには、いやどうせ厳しい修行を
するのであれば、もっと真理に近い修行がある。
それは、いついかなる時でも、楽しいと思うこと、自分の魂が喜ぶ
ようなことを探し続け、選択し続け、体験し続け、感じ続け、感謝し
続ける修行。
眉間に皺が寄ったら負け。
怒ったら負け。
心配したら負け。
不安に思ったら負け。
恨まれたら負け。
恨んだら負け。
凹んだら負け。
・・・・・
難行ぞ。
無宗教でも上辺だけの明るさじゃなくて いつも良い心で人に好かれ前向きに生きてる人っているよね。
自分は、真理を学び瞑想実践しててもそのような友人知人のように明るくないんだなこれが。
時々、空しくなるぜ。ここんところそんな不善心所いるもんだから眠気がすごいし顔つきもやばい。
チラ裏すんません。
ヴィパサナでラベリングって言葉があるけど、
確認したときはもうすでに過去のことなんだよね。
なんかそれって思考との結びつき、妄想を強めるだけのような気がするんだよな。
例えば足を下ろすとき、「着」は一瞬なのに、「着」とラベリングしている間にも
すでに「圧」はかかっていて、そのかかりはじめを意識できていなかったりとか。
・・・まあ俺がレベル低い故の疑問かもしれないけれどorz
990 :
神も仏も名無しさん:2008/05/15(木) 17:43:28 ID:mL15IyWz
>>989 スマさんの説明ではラベリングは動作の前にする。
「歩きます」とラベリングしてから歩く。
つまり、脳の命令をラベリングすることになる。
>>985 俺も同じだよ。それでいいよ。
本当にいつ死ぬかわからんも。
>>987 くだらんポジティブシンキングなんかに
用はない。すっこんどれ。
>>988 それぞれのカルマがあるから人と
比べるな。
仏教を知った貴方が彼らより幸せになるのは
時間の問題。あ、比べてしまったw
ラベリングしないで、気づきだけだとクリシュナムルティと同じですか。
ホップ、ステップ、ラベリングぅ〜♪
995 :
brown:2008/05/15(木) 22:27:31 ID:Vb+S3lHW
>>986 そうですね。だけど本当の決意を導く「信」というのは,「苦」ですね。
世俗の何事もそれを解決できない「苦」がこの世にはありますね。
真剣な人は,それに向き合ってしまいますね。いつかそれに気づいてしまいます。
真剣に生きている人は,それに執われていきますね。解脱に執着するようになりますね。
いつも,いつもそれに心が執われてしまいますね。どうしようもなくなります。
行き場を失ってしまいますね。それを解決しないと,生きることも,死ぬ
こともできなくなりますね。そういうところに追い込まれますね。
だから,決して目的に達するまで止まりませんね。全てを賭けて走り続け
ますね。そこに取引はないですね。これだけ修行したから,これだけの
結果を得るとかいう損得勘定はないですね。ただ走ることしかそこには
ないですね。
996 :
brown:2008/05/15(木) 22:34:56 ID:Vb+S3lHW
自分の全存在がその清らかな執着の中に溶け入ったときに,預流向は成就
しますね。
その確信が喜びの気持ちと共に沸き起こってくるときに,預流果,つまり
歓喜地に達しますね。
997 :
brown:2008/05/15(木) 22:48:18 ID:Vb+S3lHW
>>988 あなたの心は優れている。
夜明け前は最も冷える。
しかし,耐えて,ただただ時間がいくらか経てば,やがて朝日が
燦然と輝く。
真剣に生きる者に,余裕はない。
何もかも塞がってしまう。
ダークサイドの帳がおり,この世は暗黒に包まれ,
今,ここが地獄になる。
今,ここから逃げることはできない。
何時になっても,何処に行っても,そこは,今,ここだから。
しかし,真剣な者に,夜明けは,不意に訪れる。
というのは,それは,絶望の影のように,すぐそこに伴っているから。
その「〜ですね」「〜ますね」
ってやめてくれるほんとに。
気持ち悪いから。
きもち悪くないのでやめなくていいと思う
はは〜
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。