1 :
神も仏も名無しさん:
心理学的に宗教家には大人しい人が多いという。
大人しい人や社会的に弱い人が、自分の弱さを
宗教の教えにより、強さへと転換し辻褄を合わせ合理化する。
考え方の大転換からくる幸福感を保とうとする行為が信仰だ。
例えば人にやり返せない弱い自分が嫌いな人間が、
「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ」という教えを学ぶことで
やり返さない自分は正義だ、やり返す人間こそ弱いのだ…と、
自分を肯定づける。
(これは宗教の非暴力や無抵抗という教えすべてに言えること)
また、大人しさを謙虚さにすり替え、貧乏を節制にすり替え、
叶わない欲求を無欲という思想でごまかし、寂しさを神仏の愛でごまかし、
愛する者がいないことを、神への愛、人類愛でごまかす。
最後に、天国や成仏や人格の向上や団体の方向性など、
目的を持たせることで、人間に本来ある向上心の欲求を満たしている。
すべては明かされた。
宗教や信仰は…短所や弱さへの合理化だったのだ…。
弱くない人間はいない。信じるものは救われる。
3 :
神も仏も名無しさん:2008/02/18(月) 17:27:05 ID:DE+NriAL
簡単に言えば、(裏をかえせば)
謙虚→自己主張の弱さ
清貧→貧乏
無欲→欲を達成する力量のなさ
無抵抗→やりかえす度胸のなさ
神仏の愛→人から愛されていない
慈悲→誰も愛する者がいない
奉仕→天国へ至るための身勝手な徳業、または施されたいからする
天国、あの世→生活面で生きがいがない
人は自身の欠点を見つけると改善しようとする。
例えば消極的な人間は積極的になろうとし、貧乏な人間はお金持ちになろうと努力する。
現実を変えていくことが本来は、自然なありかたなのだが、
彼らは現実を改善しようとはせず、思考を転換することで精神的な安定を保っている。
彼らが社会でより葛藤する原因は、現実を嫌でも見せられるから。
現実に直面したとき、改造した思考が脆くも崩れ去ることを大いに恐れる。
弱かった当時の自分に戻ってしまうのではないかと。
(実は考え方を変えているにすぎないのだが)
現実にいては自分の弱さを自覚してしまう、
そのため自然と山にこもったり、集団内のみで集い生きようとする。
それが出家信者であり、宗教団体である。
4 :
神も仏も名無しさん:2008/02/18(月) 17:46:32 ID:DE+NriAL
また宗教家というのはなぜ知恵者で思慮深いのか?
この理由は、様々な事柄を自分に都合よく合理化してきたため、
固定概念をぶっ壊し、違う視点から捉えるという考え方が得意なため。
その知恵と思慮深さに、普通の人は尊敬するのだろうが、
尊敬に値するほどの立派なお方が、じゃあなぜ政治家にならないか、というと
今まで言ったように、彼らは脳内のみを変革してきたにすぎず、
現実は何も変えてきてはいないし、変える力量もないからだ。
理想論ばかり想像するだけが得意で、その理想論を口にすればみな褒め崇めてくれる。
自分のことを深い人間だと思ってくれる。それだけなのだ、実は。
5 :
神も仏も名無しさん:2008/02/18(月) 18:29:06 ID:DE+NriAL
誰でも少しくらいは、自分に都合よく解釈している所があるだろう。
しかし、宗教家の場合は度をこしている。
そのため、一般の人の目には「洗脳」のように映る。
宗教の教義の中の一つでも当てはまり、思考改造による合理化が起これば、
雪崩式に合理化は進む。一つ信じてしまえば、すべてが真実のように思えてしまう心理。
その結果、普通では考えられない思想を信じてしまったり、
ある特定の神仏を実在として崇めるようになる。
そして宗教は「偶然の一致」を利用する。
「この本尊を拝めば病気が治る」など言って、本来は自然治癒によって治ったものを、
さもこの本尊の功力によって治ったのだと教えることで、信仰へ導く。
6 :
神も仏も名無しさん:2008/02/18(月) 18:41:50 ID:DE+NriAL
ちなみに偶然の一致を利用した宗教は、
現世利益信仰(新興宗教)に多い。
信心したらお金持ちになった、願い事が叶った、病気が治ったなど。
祈りが叶ったなら、この信仰は本物だろうと、
偶像やら難解な経典やらを大切そうに崇拝する。
他の信者も確信していることから、より一層確信は深まってゆく。
そういうこっと
理解が浅い。
前にも言ったが弱くない人間はいない
優れた人ほどゆるぎない信仰心を持っているもの
信じるもののない人間は罰当たりな困った人間 それは弱いままの人間
阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕
警視庁防犯課
二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
10 :
(^ω^):2008/02/19(火) 00:04:34 ID:nUN5u4LY
(^ω^)10だぉ〜ん♪
>>8 >前にも言ったが弱くない人間はいない
自分を弱いと感じているのに、強くなろうともせず、
人間はみな弱い者である…と普遍づけ、自分の弱さはそれでいいんだ
と開き直るところ。ここが宗教家特有の欠点である。
自分は弱い→人はみな弱いもの→弱い自分は変じゃない
このような合理化をする。
ちなみに普通の人は、
弱い自分が嫌いで強くなろうと努力し、
実際に強くなっていくことで弱さを克服する。
しかし宗教家は、弱い自分が嫌いだが強くなることができず、
強さの定義を変える(強さは優しさだ、無抵抗だ)ことで
その変更された定義(宗教的思想)に自分を沿わすことにより、
強くなった錯覚がとても心地よい。
現実を変えるのが普通の人間で、
思考を変えるのが宗教家だと。
やはり勘違いがあるようだが
自助努力で克服できるようなものは弱さとは言わない。
キリスト教がまがい物の宗教であることは否定しないがね。
>>13 宗教には弱さを合理化する部分があるが、
それだけでは弱者のひがみでしかないし、本人はそれだけでは不安になってくる。
そのため、修行や精神力など、また人格的向上などを望ませることによって
「自分は弱者の合理化なんかじゃない」「ちゃんと強くなろうと頑張ってるんだ」
と安心しようとする心理が働く。
>自助努力で克服できるようなものは弱さとは言わない。
自分の努力では克服できないものが普遍的にあるとすると、
それはもう弱さではない。それが普通の状態。なにを変える必要があろう。
しかし現に強い人間弱い人間は存在する。社会的、精神的、肉体的、知的。
仕事頑張ればいいんです。世間に踏みつけられればいいんです。
体鍛えればいいんです。勉強すればいいんです。
宗教へ向かう人間は基本的に弱者の場合が多い。
弱者が自分の都合のいいように現実世界を捉えたがる。
それが宗教です。
また今まで書いてきたことは、キリスト教にかぎったことではありません。
すべての宗教や思想に言えることです。
すべての〜〜とか言ってる時点で嘘が明白なので。
質の高いものはその程度の低い段階を超えて教えているものだょ
すべてのですよ。
自分の宗教に当てはめてみてください。
17 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 12:03:34 ID:ZMBLz/HO
主は「私の恵みは、あなたに十分である。という、わたしの力は、弱さのうち
に完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリスト
の力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、
私が弱いときにこそ、私は強いからです。 〜コリント人への手紙U〜
18 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 12:41:40 ID:0uBfsVpJ
氏氣のクソババァ!地獄の轟火で永遠に苦しめ!
氏羅胃、鮒衣、彌裏、輿鯉、縊鹿羽、脾出吐、大簾蝸、
餡慟、おまえら地獄で蛆虫と一緒に苦痛の中をのたうちまわれ!
信者の輿死吐、魔枝、汚雫は今生で死ぬ瞬間まで
激しく苦しい狂わんばかりの串難が与えられますように!
俺の人生を滅茶苦茶にしたコイツらに燃える炭火を!報いを!
って考えて、復讐できない自分の気の小ささを基督教で補完してるわけか俺は…
19 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 13:49:19 ID:BMLysNWT
>>17 これぞまさに弱さへの合理化。
弱い者が強くなろうとせず、
弱いままでで満足、むしろ弱いほうがいいんだ、という辻褄合わせ。
弱者の僻みを肯定づけるような教えです。
20 :
希望@救い主2008年:2008/02/21(木) 14:08:35 ID:3f1C7QPh
自分の弱さを認めれる人のほうが、
ステキだと思う。
自分の弱さを知っている人は、
相手の弱さもみとめられる。
背伸びしなくていい。身の丈をしっているほうが^^
君は君らしく。神さまが作られた君のままが、とても綺麗だよ。
21 :
1:2008/02/21(木) 14:09:30 ID:BMLysNWT
普通、自分が強者の場合、弱者に対して優しくなれ、
強くなっていこう!と親心から持ち上げようとするものだが、
自分が弱者の場合、弱い者同士の傷の舐めあい、
強い者に対して「それは本当の強さじゃない」「傲慢は悪だ」など信じることで、
嫉妬心をなぐさめ、強者よりも真理的な面で自分のほうが強者だと考え優越感を持とうとする。
弱者が宗教によって変わることができるのは、今まで弱者だった自分が、
宗教的教え(弱者の合理化)により強者へと180度変わるため。
ひがんでばかりいた弱い自分が、
優越感と自信によって人に優しさを与える強い自分になる。
思考のちょっとした変化で、こうまでなる。
彼らは自分の合理化を阻止しようとする、社会的強者、積極的で威圧的な者を、
傲慢だ、物質主義だ、と軽蔑することによって彼らを見下し、
それによって弱者の合理化を現実的価値観から守っている。
22 :
ignis ◆uCYSQgnL7E :2008/02/21(木) 14:10:24 ID:A+L/H8cS
ニーチェってやつですか
23 :
1:2008/02/21(木) 14:36:33 ID:BMLysNWT
>>20 宗教家はいっけん自分の弱さを認めているような口ぶりですが、
実のところ自分の弱さを合理化しているにすぎないんです。
本当に自分が弱い人間だと理解し、強い者に憧れるなら、
そのように強くなっていこうと努力するじゃないですか?
しかし宗教家は「自分は弱いが、すべての人間も弱いのだ」と定義づけ、
「弱い自分は普通なのだ」と思い込もうとする。
そう思うことで安心するんです。自分だけが弱いのは嫌だから。
また宗教的教え(弱者の合理化)を信じることによって、
弱い自分という自覚から、強い自分という自覚へ転換します。
本当は弱い自分を変え強くなろうと努力するところに人生の意味があり、
弱い者は、嫉妬や軽蔑などせず、強い者に対して尊敬と敬意を評し、
自身も憧れるのであればそのようになっていくよう努力することが正しいと思うんです。
しかし、宗教家ははなから強くなろうともせず(したが諦めた)、
新しいルール(真理)を作り、そのルールの中で自分達こそ強者であり、
現実的に強いとされている者はじつは弱者なのだ、とすることで、
精神的な安定を保っているにすぎません。(そうする動機は弱者のひがみからです)
彼らはいつまでたっても、強さを身につけることはできませんし、
ず〜っと弱いままの自分にどこかひっかかってるはずです。
24 :
1:2008/02/21(木) 15:03:00 ID:BMLysNWT
弱者や強者という言葉はなるべく使わないことにしよう。
例えば自分のブサイクな容姿が嫌いな人がいたとする。
化粧なり整形なりで美しくなろうとするのが普通の人。
ブサイクの定義を変え、自分の容姿はまともだと捉えようとするのが宗教家。
25 :
希望@救い主2008年:2008/02/21(木) 15:25:35 ID:3f1C7QPh
>>23 マザーテレサを分析してみてw
社会的にノーベル平和賞をもらっている。
26 :
希望@救い主2008年:2008/02/21(木) 15:28:39 ID:3f1C7QPh
>>23 また、自分が天にかえるとき、仏教や神道の葬式をするんじゃないのかな。
>>23は、無宗教の葬式を両親にできると、いえる?
宗教を否定し、日本を否定しているように思われる。
27 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 15:40:01 ID:+fCD7k/8
宗教を肯定する訳じゃないですが。
人は弱くもあり、強くもある。
感情の天秤が傾いているに過ぎない。
人生経験により、自分に自信が持てれば天秤の傾きは強い自分に傾く。
失敗すれば弱い自分に傾く。
それじゃ疲れるから、天秤を揺らさない強さを身に付けようと努力をしましょうか
というの考えが私の唯一の信仰。
28 :
希望@救い主2008年:2008/02/21(木) 16:05:44 ID:3f1C7QPh
>>27 7割は共感します。
3割は、その努力を自分の力だけでしようとしないのが、クリスチャンなのかもしれない。
ゆだねるというか、神さまに全てのこれからを任せるという雰囲気が
キリスト教では大切とされている。
それは、諦めではなく、天命にまかせるという感じかなw
29 :
希望@救い主2008年:2008/02/21(木) 16:07:50 ID:3f1C7QPh
たとえば、種をうえるにしても、昔の人のほうは
自然の力というか、その種が自分の力で育っていくのは
大自然の恵みであるって、実感したと思う。
土があり、水がある。
太陽があり、空気がある。
すみわたる、空がある。
はるがあり、秋があり、夏があり、冬がある。
地球は美しい。
日本は美しい。
30 :
1:2008/02/21(木) 16:10:33 ID:BMLysNWT
>>25 マザーテレサは生涯結婚しなかった。普通なら寂しいだろう。
彼女は神やイエスの愛によって孤独を埋めていた。
奉仕によって貰う愛を求めていた。
それらの愛が結婚しない彼女を慰めていた。
神やイエスの意向に沿わすことが自分にとって幸福であったのだ。
そう、あなたがたが愛する男性の意向に沿わそうとするように。
マザーテレサは慈善事業でもなんでもなく、キリストに仕えてるだけ、と言った。
彼女が奉仕活動をした理由は、世界のためではない、人々のためでもない。
実は神とイエスの為だったのだ。
神やイエスに愛されるには、彼らの望みに答えなければならない。
すると自然とそのような奉仕活動になっていったのだ。
奉仕活動は神やイエスに愛されたかった自分自身のための行動だったのだ。
彼女は本当に神とイエスを愛していた。愛は盲目である。
自己犠牲さえもいとわない。はたから見れば立派な奉仕活動家と映っただろうが、
本人からしてみれば、神やイエスという愛する旦那さんの意向に沿わしているにすぎなかった。
実は従順なよき妻であっただけのことなのだ。
それを世間はさも立派に崇めるから、彼女は動揺した。
自分はそんな賞賛されるような、人間ではない、と。
彼女の脳内では亭主関白なキリストが存在し、
彼を愛するMな自分がいる。彼を恐れながらも愛し、
愛されるために奉仕をしなければならない。
そのような心理が働いていた。
31 :
1:2008/02/21(木) 16:12:43 ID:BMLysNWT
>>26 ここで言う宗教とは信仰です。
信仰し実践している信者のことを言ってます。
葬式宗教はまた別です。
32 :
希望@救い主2008年:2008/02/21(木) 16:16:53 ID:3f1C7QPh
今も、インドの人の心には、マザーテレサの心が生きている。
あの小柄の女性の思い出が、あのカルカッタの地でいつまでも、
いつまでも、語り継がれていくと思う。
マザーが天にかえったひ、
僕は泣いた。
インド人は泣いた。
あげ
34 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 09:56:37 ID:EP6AjPX7
>>3 的確に、日本人クリスチャンの的をついていると思う。
これまで、キリスト教に興味を持ち、いろいろなクリスチャンと接したが、
全部そんな感じだった。
ちなみに、説教を聴いていると、だんだん思考能力が低下していく兆候があったので、
危険だと思い、教会に行かなくなり、クリスチャンとの接触も中止した。
キリスト教=洗脳。
これは、間違いないというのが、答えでした。
>>1 宗教を論理的に否定できずにいた自分の心をうまく説いてくれてる。
逆宗教とでもいうべきなのか
宗教の論理的な部分を論理的に否定できてるね。
ただ
>>1の考え方は、
「人の心を救う」という部分や「人が苦労に打ち勝ち明るく前向きに生きる」という部分へ対案を出しているわけではないので
宗教的教えの方が今の人間社会には有意義なのかな、とも思ってしまいます。
学者的なレポートの一つとしては面白いのだけれど
その先の「苦しい境遇の自分を生かす為に合理化し正当化するのはやめたとして、では、今後どうすればいいか」を
聞きたい。
36 :
..:2008/02/27(水) 11:32:15 ID:d6oyGf59
>>1 強いヒトで魅力が有るヒトがいるかというと, そうは限らないね. 逆に弱いと見做されていても, 素敵なヒトは居るね。
37 :
1:2008/02/27(水) 14:33:05 ID:cXKVtTxS
>>35 ただ一つ。
現実を改善していくこと。それだけです。
境遇を正当化せず、足りないものを身に着けていくこと。
合理化し正当化した時点で、人間の向上は停止します。
逆境がバネになり、より自分の可能性を大きくしていく人が沢山いるように、
本来、苦境や逆境また弱さというものは、反動エネルギーとなり、
より強く向上する為にあるものです。
しかし宗教家が苦境や弱さを合理化する行為は、反動エネルギーを消滅させ、
人間を廃人と化させることに等しい。
自分に都合のいい思想で、はじめ心は安定するでしょうが、それまでなのです。
家族円満でプライベートも社会でも充実してる人間はそのままでよろしい。
コンプレックスや弱さを持っている人間は、それをバネにして頑張っていく。
しかし弱さを持った人間が一時的な精神の安定のために宗教に依存すると、
例えるなら麻薬のようなもので、一時的な気持ちよさを求め続けていくと、
より深入りすることになり、偶像崇拝や死後の世界観など洗脳は深まっていきます。
ここまでくるともう現実的な事柄はすべてが無価値に思え、
神を求め真理に則し死後の世界を求め生きていくようになります。
そうして家族を犠牲にし、自分の精神を神仏に売り渡すのです。
すこし話が逸れてしまいましたが…
ようは現状に満足している者、強い者はそのままでよろしい。
満足できない者、弱い者はその弱さをバネにして強く生きていくこと。
弱い者は間違っても宗教に入ってはいけない、ということ。
宗教に入ったが最後、心の平安はあるでしょうが、人間的向上を犠牲にすることになる、と。
38 :
1:2008/02/27(水) 14:51:07 ID:cXKVtTxS
>>36 強くても弱くても、魅力的な人もそうじゃない人もいます。
また、ある人から見て魅力的に感じても、
別の人から見るとそうじゃなく感じることもあります。
魅力というというのは、基本的に
自分の足りない部分を持っている人間。
自分と似たような人間。
この2タイプに魅力を感じるわけであって、しかもそれすべて「主観」でしかないのです。
これが絶対的な魅力だ、ということは存在しないんです。
すると、強さ弱さと魅力を同一視することはできないんですよ。
弱い人が、強い人に憧れる面で魅力を感じますし、
弱い人が、弱い人に共感の面で魅力を感じますし。
弱くて良いんだ、弱くて。文句のある奴は俺のサビたナイフで
顔面の整形手術をしてやる。消毒なしでな。
40 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 15:10:59 ID:tUtyN/wa
問う。
強さとは何ぞや?
41 :
1:2008/02/27(水) 15:41:07 ID:cXKVtTxS
>>40 社会的な強さ、経済的な強さ、身体的な強さ、精神的な強さ、知的な強さ、
積極性、外向性、その他…。
光りと闇、表と裏、対極のある事柄にはすべて強さ弱さが存在するでしょ。
困窮⇔裕福 完敗⇔圧勝 向上⇔堕落 明るい⇔暗い 臆病⇔豪胆などなど。
宗教では強さは優しさだ、無抵抗だ、謙虚さだ、と、
強さの定義をバラエティ豊かに勝手な解釈をしてますが。
人に嫌われる恐れから優しくし、抵抗する度胸がないから無抵抗でおり、
大人しく自己主張できないことを謙虚さだとする、
これはまったく強さじゃないですよ。
それを強さだとし、自分は真理的には強者だったと思い込むことは、
愚かきわまりない。
俺は昼寝でもするから頑張ってくれたまへ。
43 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 16:00:53 ID:tUtyN/wa
では強者は弱者によってしか存在し得ないものとなるが、
弱者がいなくなったならば何によって強者たりうるか?
人
間
だ
も
の
。
み
つ
を
自分に負けてる奴が他人に勝ってどないすんねん?
46 :
1:2008/02/27(水) 17:06:59 ID:cXKVtTxS
>>43 相対的な世界だからこそ強者がいれば弱者もいる。
すべての人間が強者になれば、強者は強者でなくなる。
強者が普遍的になれば、より新たな強さの定義が生まれるであろう。
それに向かってさらに向上していくのが人間。
しかし、そもそも全ての人間が同じ程度の強者になることはありえない。
強者の枠の中にも、また弱者と強者が生まれるもの。
また、ある一部分では強者であっても、ある部分では弱者である場合がほとんどである。
強さの定義は様々にあるのだから。
強くなることによって得られる優越感を我々人間は求めている。
もちろん宗教家も同じく。それは動物的本能なのだから。
そして優越感を抱くからこそ人にも優しくできるものである。
女性やお年寄りや子供になぜ人は優しいのか?自分よりも弱い存在だからである。
動物に対してなぜ優しいのか?人間よりも下等な生き物だからである。
では逆に、権力者や政治家や拝金主義者になぜ人は嫌悪感を抱くのか?
自分よりも強い者だからである。
何を言いたいかというと、優越感によって優しさは生まれるということ。
宗教家は自分達のみが真理を知っている神に選ばれし者である選民意識が、
彼らにとっては優越感なわけだ。だから人類愛や慈悲などを抱くことができるんです。
47 :
ignis ◆uCYSQgnL7E :2008/02/27(水) 17:09:04 ID:izmAsGJI
強くなりましょう教てことです?
48 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 17:12:09 ID:tUtyN/wa
相対的な強さは相対的である前提条件下でのみ強いのであって
絶対的強さとは言えない。前提条件を付さねば強いのでないのならば
それを強さとしてしまうには不確かであり脆弱であるとしたのが
宗教家、或いは哲学者であって、強さは前提条件下によって如何様にも
変化しうる流動的なものだからこそ、強い弱いの相対を超えることこそ
宗教的テーゼとも言えるだろう。
先端科学は宗教に通ずる。
宇宙的観測には強さも弱さもないからだ。
49 :
1:2008/02/27(水) 17:15:30 ID:cXKVtTxS
>>45 自分に負けて他人に勝つような人は、
自身のハードルが相当高いんでしょう。
ハードルを下げる、またはなくすのが宗教です。
自信がないから「勝った勝った」ってやりたがるんだろ。
勝ってどないすんねん?
52 :
1:2008/02/27(水) 17:27:39 ID:cXKVtTxS
>>47 宗教に入るなら現実において強くなったほうがいい、ということです。
現状に満足している人は強くなろうとも思わないだろうし、
そのままでいいんですよ。
ただ、欠点や弱点を宗教的思想によって合理化するのは逃避じゃないかな、と。
それなら、欠点や弱点を克服していく生き方のほうが自然だし、
正しいのではないかな?と。思ったわけです。
無理に弱さの辻褄合わせしなくても。弱さをバネに頑張ればいいという考えです。
弱いものをより弱くするのが宗教。
Mを量産して変態M女を世間に送り出すのが宗教の役目。
変態m奴隷が簡単に手に入るようにする装置。
変態を製造機なんて変態宗教以外にないからな。
54 :
1:2008/02/27(水) 17:43:48 ID:cXKVtTxS
>>48 相対的な価値観からすれば強弱であっても、
絶対的な価値観からすれば強弱ではないし、
そもそもそんな基準は存在しない。ということですか?
2つだけ。
まずこの地上世界というのは相対的世界だという事実。
次に、絶対的強さとは言えなくとも、
相対的世界からすると、まぎれもない強さであるということ。
55 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 17:46:52 ID:u6MgA54o
>>53 一理ある 罪人を創り、救いを与えるまさにマッチポンプ
56 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 17:48:25 ID:jivmhCki
ポジ人間か、ネガ人間かだけだと思われる。
強さに憧れる人もいれば、弱さに屈する人もいる。
生命力の強さは、人間が裸になったとき現れる。
エゴで着飾っていても、服を脱いだら自信無くす人は多いんじゃ?仕事を定年して、生き甲斐なくす人は多いんじゃ?
そこで、人間力=ネガポジがあるなしが測られる。
歳をとって体力、気力がなくなればネガになる。
そこにポジの信仰があれば生きる救いになりえるんじゃ?
若さは永遠じゃない、だからこそ、永遠の真理である神にすがるんだから良いじゃない。
57 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 17:59:53 ID:tUtyN/wa
>>54 地上世界が相対世界?
違うな。
人間が相対価値にしてるだけだよ。
58 :
1:2008/02/27(水) 18:07:11 ID:cXKVtTxS
>>48 例えば、腕相撲には勝ち負けがありますよね。
勝者は強者ですし、敗者は弱者です。
では何によって勝ち負けが決まるかというと、ルールです。
手が台についたほうの負け、というルールがあるわけです。
ルールを変えて、手が先に台についた方の勝ちとすると、
強さの定義は変わってきますね。そこが相対的なとこなんですね。
ルール(世間一般の基準)は国や民族によって様々ですし、動物にさえありますから。
宗教の真理や神仏というのもルールを変更したにすぎないかもしれません。
世間のルールを変えて、宇宙の真理という身勝手なルールを創造し、
新しいルールの中で強者になる。
それもまた、相対的価値観なんでしょうね。
59 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 18:10:51 ID:u6MgA54o
>>56 逆もあるけどね
有限だからこそ今を一生懸命悔いないよう生きるという人もいるでしょう
>>46 自分よりも弱い存在に優しくしてるというより
強い存在は優しさや情けを必要としないからじゃない
60 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 18:14:15 ID:u6MgA54o
相対価値の人間が生み出す世界は相対世界なだけ
何がエリートだ、豚は皆殺しにしてやる(ゲラゲラ
62 :
1:2008/02/27(水) 19:05:17 ID:cXKVtTxS
>>57 相対的世界ですよ。
絶対的というのは、他と比較するものがないということです。
この世には善悪、正邪、高低、などが存在する相対的な世界です。
人の背丈から、IQから、能力まで、まちまちで、
動物においても植物においても言えることです。
この世が絶対的世界だとすると、個性もなければ種別もないということになります。
皆が平等で、同じ背丈、能力を携えていなければなりません。
とういうことは、この世は相対的世界ということでしょう。
63 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 19:16:10 ID:tUtyN/wa
>>62 相対世界にしている主体があるということ。
つまり世界は相対ではなく相対になっているということ。
相対世界が絶対条件ではないよ。
後悔ってなぁいつだって手遅れになってからするもんさー
65 :
1:2008/02/27(水) 19:20:43 ID:cXKVtTxS
>>63 おっしゃることは十分理解してます。
捉える側の価値観によって対象はいかようにも捉えられると。
これは、哲学で言うとこの「観念論」というやつですね。
66 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 19:33:06 ID:tUtyN/wa
>>65 相対価値を超えて我は厳然と存在するところに宗教哲学のテーゼが
発生する。いくら相対を謳ったところで体は疲れるし、腹は減る。
価値を超えたところの存在とは何か?
「在る」に向かう観念的精神的道程こそが信仰の実践というもの。
たんなる強弱で計れるものではないのよ
という結論
在るを仮定すると神という記号が出てくる。
仮定しないならば夢幻の世で宜しい。
いずれも信仰であるから。
67 :
1:2008/02/27(水) 19:41:22 ID:cXKVtTxS
>>66 「在る」を目指して一体何があるのでしょう?
何かもわからない目的を目指して信仰する意味は一体なんでしょうか?
68 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 20:01:59 ID:u6MgA54o
>>1 てかね宗教がそういう現世的弱さカバーの合理化じゃない人間もいるんですよ
強くて金持ちで欲もある程度満たしてきて飽きたゆえとかね
死を前にそういうものはすべて消えうせてしまう空しさ
経済界の大物には宗教者結構いるんです
弱者のための宗教というイメージはいらない
69 :
1:2008/02/27(水) 20:35:51 ID:cXKVtTxS
>>68 強者も信仰すると。このパターンは今まで触れていなかったですね。
彼ら強者は本当に残念でなりません。
宗教的思想では、傲慢や利己主義は悪だ、拝金主義は悪だ、など説いています。
なぜ説いているのかというと、弱者が都合のいいように現実を解釈するためです。
本来宗教の教義や思想は、弱者が優越感を持つのに都合よく出来上がっているのです。
その教義思想を強者が信仰するとどうなるかというと、
彼らは強く生きてきたにもかかわらず、
自分の今までの行いは悪であった…と懺悔し反省することになります。
神仏に向かって懺悔の日々です。
そして神仏を崇拝し、彼らには都合の悪いであろう思想を信じ、生きていくことになります。
積極的で外交的な長所を、謙虚慎ましさという教えによって封じ込められ、
財産を持ち裕福な生活を、清貧節制という教えでないがしろにされ、
欲求を達成してきた力量を、無欲という教えにより放棄し、
それでなければ天国や浄土には入れないと脅すことにより、
彼ら強者は従順に従うようになっていきます。
卑しい事など何もしていないのに、罪人となり、業の重い人間というレッテルを自分自身で貼る。
この過程により、彼ら元々の強者は、弱者よりも弱者と化してしまう。
だが、そこが宗教の思う壺なのだ。
これにより弱者が強者に勝るという方程式が完成する。
70 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 20:42:18 ID:tUtyN/wa
>>67 別に目指す必要もないしどうでも良いものだよ。
ただ、キミが始めに定義した強い弱いは全く的はずれだということだけ。
>>69 キミが所謂強者でないことだけはわかったw
71 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 20:47:08 ID:u6MgA54o
>>69 残念ってw
悪でなくとも傲慢や拝金主義が幸せとは限らないことを
経験すればわかるのではないかしら
本当に強い人間は優越を感じて確かめる必要ないでしょ
相対での強さは脆いし不安定ですよ
72 :
1:2008/02/27(水) 21:03:31 ID:cXKVtTxS
>>70 「在る」を目指す意味がわからないのですね。なのに目指している矛盾。
それと、
的外れと感じるのは、もしかしたらあなただけかもしれませんよ。
普通に考えて、存在してますからね。
存在しなければ、強い弱い、という言葉、
さらに言えば対義語自体が存在しなかったはずですから。
存在するということは、現にあるということの証明になるでしょう、強い弱いの定義は。
定義が間違っているのだとしたら、
強い弱いの定義を教えてくださいな。
絶対的には存在しない、というのはなしで。
73 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 21:03:43 ID:yt+h3oSf
強い奴なんているの?
74 :
1:2008/02/27(水) 21:20:45 ID:cXKVtTxS
>>71 >傲慢や拝金主義が幸せとは限らないことを
>経験すればわかるのではないかしら
積極的で覇気のある人間であってけして傲慢ではない人間も、
宗教的教義によって、傲慢悪であった…と自己卑下するもの。
頑張りにより財産を持って裕福な生活をしていただけなのに、
教義により、自分は拝金主義者であった、と思い込んでしまうもの。
それらが幸せではないというより、本当の幸せではないのだと思い込まされる所を問題視しています。
>相対での強さは脆いし不安定ですよ
絶対的な強さとはなんでしょ?本当に強い人間とは?
75 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 21:27:33 ID:tUtyN/wa
>>72 目指すという概念と成るという概念、成っているという概念があって
どれが答えなのかはわからない。これまた一概には言えない。
全てが正解だし全てが間違いでもある。
価値はどこから来るのか?
価値たる所以の曖昧さの中で意識せずとも流水のように価値付ける
自然体が得られる様に。
宗教、精神修養も一つの処世術となるんだよ。
強い弱いの定義なんて意味があるの?
76 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 21:30:39 ID:u6MgA54o
>>74 物事に屈しない精神とか自分に打ち勝つとかは
少なくとも他者との優越からくる強さでないものもあるよね
教義によって本来の裕福な生活を卑下するのでなく
感謝してそれを生かすという発想する人もいるでしょ
77 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 21:33:46 ID:Fagmju/S
宗教 = チンチンいじり
78 :
1:2008/02/27(水) 21:45:48 ID:cXKVtTxS
>>75 「在る」というのは精神世界で言う「いまこの瞬間に在る」ということですか?
それならなんとなく理解できます。おっしゃっていることもわかります。
しかし「在る」を求めたところで、じつはもう在るんですよ?
そんなことは、実はどうでもいいんです。
生きている以上まったく意味がありません。
実体験ですから。そういう時期もありました。
>宗教、精神修養も一つの処世術となるんだよ。
仏陀の教えや孔子の論語など、色々ありますけどね。
それらの裏にある心理を知ってしまったけど。
>強い弱いの定義なんて意味があるの?
意味がないのだとすると、なぜ格闘家はあそこまで頑張るのか、
なぜ弱い自分を変えようと努力するのか。
意味があるからこそ、人は強さを求め弱さを克服していくものじゃないでしょうか。
そこにこそ生きる意味がある気がします。
79 :
1:2008/02/27(水) 22:00:46 ID:cXKVtTxS
>物事に屈しない精神とか自分に打ち勝つとかは
>少なくとも他者との優越からくる強さでないものもあるよね
それはそうでしょうが、自分がこだわるものは、相手のものも気になる心理が働きます。
自分に打ち勝った自分を、無意識に人と比べてしまうものなんです。
例えば、アガリ症の人間がアガリ症を努力によって克服したとします。
しかし、彼は自分よりもゆうゆうと演説してる人間と比べては劣等感を感じ、
自分よりおどおどした人間に対しては優越感を抱くのです。
すべてに言えることです。誘惑に打ち勝つのも、欲を制御するのも。
自分に打ち勝つといっても、
やはり自分の色眼鏡はどこへいってもついてくるんです。
その色眼鏡をかけているかぎり、その視点で他者と自分を比較し、優越または劣等を感じます。
>感謝してそれを生かすという発想する人もいるでしょ
こういう人は大抵、莫大な寄付だのお布施などするんです。
自分が浄土に行きたいための利己的な動機からなのですが…。
80 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 22:08:29 ID:u6MgA54o
>>79 >自分が浄土に行きたいための利己的な動機からなのですが…。
宗教者に対する色眼鏡が濃いのは君でしょ 純粋に困ってる人に手を差し伸べようと
思うことあるでしょ
そもそも自己満足以外の行為なんて存在しないからいいじゃん
他者のためという名目のものも他者の満足が自分の満足という帰結だから
81 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 22:16:56 ID:u6MgA54o
>>79 色眼鏡ははずすことできない人間ゆえ相対の中で
強くなることが生きる意味って結論?
82 :
1:2008/02/27(水) 22:25:19 ID:cXKVtTxS
>純粋に困ってる人に手を差し伸べようと思うことあるでしょ
同情心というのは、自分よりも弱い立場の人間に抱くもの。
極端な言い方をすれば、見下しているんです。
見下された人間ははたしてどんな気持ちを抱くでしょうか?
いい思いはしないでしょうね。
例えば、電車でお年寄りに席を譲り断られる、その感じです。
同情は人に対して失礼にあたるんですよ。
83 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 22:29:47 ID:u6MgA54o
>>82 自分が年寄りになって立っているのが体力的に辛い時
譲ってもらって君は見下されてるとか嬉しくないわけだ
疲れてる時に差し出される手が同情なんていらんに
脳内変換なるんですかw
84 :
1:2008/02/27(水) 22:31:11 ID:cXKVtTxS
>>81 そんな感じです。
普遍的な意味ではなく、あくまでも自分が感じている意味ですけどね。
85 :
1:2008/02/27(水) 22:43:50 ID:cXKVtTxS
>>83 性格でもあるのでしょう。
甘え根性のある人間は、助けられたいと他力になるでしょうし、
自分に厳しい人間は、人の助けなどいらん!と自力になるでしょう。
甘え根性のある人間が、自分も人に助けられたいから人を助けるという行動をする。
助けられたいと思いもしない人間にとって、上から差し出される手は
失礼極まりないんですよ。
自分はそんなヤワな人間じゃない!と。
86 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 22:45:08 ID:u6MgA54o
>>85 あなた老いて介護が必要になって自分じゃ動けないときも拒否るの?
男女の差異、若さ老いの差異
それを把握することは
見下しでもなく強さ弱さの線引きでもなく
相対の中で必要な現実の把握なんですよ
87 :
1:2008/02/27(水) 22:55:42 ID:cXKVtTxS
>>86 介護が必要になったときは、自分のなさけなさに涙するでしょう。
感謝というよりも、はやく殺してくれ!って言うでしょね。
世間一般に親切や善とされていることも、
人によっては大きなお世話になったり、
逆に相手の為にならないということも多々あるんです。
大した悩みでもないのに、大げさに心配してくる偽善者の迷惑さ。
88 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 22:58:26 ID:u6MgA54o
あっそうwならいずれ介護の時ぜひ拒否して殺してって叫べば
口だけの強がりな人って多いよね
89 :
1:2008/02/27(水) 23:07:46 ID:cXKVtTxS
それではまた。
長いことありがとう。
うーむ
考えさせられました
理論的には強さ弱さは相対的なものとはいえ、人間も動物である以上、本能的に拒否したい状況というのがある
殴り合いをするからにはボコボコにされたくない
相手をボコボコにしてやりたい
こういう感情から自由な人は、もし居たとしても、はっきり言って異常でしょう
ところが人間は誰でも絶対に勝てない敵を抱えていますよね
ボコボコにされることを認めるしかない相手というのはある
言うまでもなく死です
どんなに強い人間でも非常に大きな妥協を迫られる
セックスのついでに避妊に失敗して間違って産まれて来た「強者」!
エッチのオマケな人生。
強がりの一つも吐いていないと辛くてやって行けないよな。
分かる分かる。
振り向けば底なしの心の闇だもんな。
95 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 01:42:12 ID:fbwNYVRd
>>90 そう死の克服が宗教だったりする
死は皆平等に訪れる
その時1の言う現世の強者弱者もない
広い海の真ん中で浮き輪もなしに独りで立ち泳ぎを続けてるような
生活だ。
イカダの上から棒で突っついてサメのいる方に押しやってやるかな。
98 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 21:11:25 ID:wonmX/rt
>>1 >やり返さない自分は正義だ、やり返す人間こそ弱いのだ…と、
自分を肯定づける。
そもそもカッとなってやり返す方が簡単で、耐えることの方が難しいと思うけど
やり返すことが強いって前提も変だよ
99 :
1:2008/02/29(金) 01:45:36 ID:5N1x0yY8
度胸がなくてやりかえせない人、
度胸があるけど、あえてやりかえさない人。
前者にとって無抵抗の教えは自分に都合がいい。
後者にとっては我慢がしいられるけど、
だからこそ価値があるのだと信じこんでいる。
ここで言っているのは前者のようなタイプについて言っているわけ。
つまり、やり返す力量のない人間が無抵抗を正義だと思い込むことで生まれる優越感。
そこを危惧しているわけです。
やり返せない悔しさを、弱者の合理化で正当化する行為は愚かである、と。
悔しいなら力をつけてやり返せるようになるべきではないか、と。
>やり返すことが強いって前提も変だよ
やり返すことが強いと言ってるのではなく、
やり返すことが本来は自然な姿であるということ。
自然なかたちを放棄し、自分に合理的な思考で無抵抗を装う不自然さ。
宗教的教義を信じるあまり、人間本来の自然な感情や行動が失われていく危険性。
100 :
1:2008/02/29(金) 01:58:19 ID:5N1x0yY8
>>90 >>95 人はみな死が怖い。
宗教家は死後を自覚し、死の恐怖をある程度脱する。
ここで、世間的な強者よりも優位になる。
弱者が強者に勝るという大転換が起こるのだ。
それによる優越感と仮の強さにより、
宗教家という弱者は真理というルールの中で強者となるのだ。
101 :
1:2008/02/29(金) 02:37:30 ID:5N1x0yY8
なぜ人は強さを求めるのか。それは優越感を得たいからである。
社会的地位、肉体的強靭さ、学歴、名誉、などなど。
強さには様々あり、人それぞれ追い求める強さは違うだろう。
真理的な智慧も、また一つの強さであり、それにより優越感を抱くものだろう。
しかし、ここで矛盾が生じる。
宗教家は、傲慢や横柄を戒める。人を見下すな!偉ぶるな!と戒める。
謙虚であれ!見下すことなかれ!と教えているにもかかわらず、
彼ら宗教家は、真理的強さを持つことにより、
他人よりも自分のほうが勝っているのだという、優越感を必ず抱いている。
自分達のみがこの真理を知っているという独善性までも生まれる。
宗教に入ると心地よいし、布教しようと猪突猛進になるのは、
これらの心理が働いているからである。
彼らも普通の人間なのである。強くなりたいし、優越感も得たい。
しかし世間一般のルールの中では強者になれないから、
宗教的ルールの中で強者になりたがろうとするのだ。
これらに本人はまったく気付いていないので、口では理想論をはくのだが、
その心理を見た場合、まったく崇高なものではなく、
逆に、偽善的になっている面で、普通の人間よりも誠実ではないし、純粋でもないのだ。
102 :
神も仏も名無しさん:2008/02/29(金) 03:59:05 ID:XQBemhXB
宗教家とくくってるけど、一般的な社会がすでにそうなってる。
と言うか、強さを優越感と言っておいて、優越感に浸るなと指摘するのはどうなの。
弱者が強くなれば、優越感やらなんやら今まで抑制されてた欲求が一気に排出されるかもよ。
強さとは優しさです。強くなれってのは、強さの中に優しさを生かせと言う事。
権力、見栄などはエゴ。
無意味に威張り散らす宗教家がいるならば、エゴだらけと言うほかない
103 :
神も仏も名無しさん:2008/02/29(金) 04:48:46 ID:koWYFDRi
101 :1 さんに大分同意します。 では、「信仰」を棄却した 釈迦という人物はどうでしょうか。
彼は
過去を追うな、未来を願うな。過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ到っていない。現在の状況をそれぞれよく観察し、明らかに見よ。今なすべきことを努力してなせ。
と言いました。
104 :
1:2008/02/29(金) 11:20:08 ID:5N1x0yY8
>>102 優越感に浸ることはいけないとは言っていない。
むしろ自然な感情だし、いいことなのだと思っている。
優越感によって自信は得られるものだから。
ただ、宗教家の場合は優越感(慢心)を悪だとしていて、
内心では優越感を感じてしまっているのに、
謙虚さを装うところが偽善であり不誠実者である、と言っているわけです。
自分は優越感と慢心に浸っている人間だ〜!と胸を張って言えばいいんですよ。
>強さとは優しさです。
前にも言いましたが、宗教は強さの定義を勝手に解釈し、
強さは優しさだ、など教えるが、この強さの定義も弱者に都合よく出来上がっている事実を知りなさい。
強さと優しさはイコールではない。
では優しさの定義とはいったいなんでしょう?
105 :
1:2008/02/29(金) 12:30:19 ID:5N1x0yY8
>>103 釈迦について。
終わった過去を患らわず、わからない未来に取り越し苦労せず、
今だけを意識して生きていれば、心は平安である…ということでしょう。
釈迦は苦しみが嫌で嫌でしょうがなかったんです。極度の不安性だった。
彼の言葉に「この心はつねにあわてふためいている、常におびえている。」
とありますが、人は主観的生き物ゆえ、
これは釈迦自身の心理的な弱さを示しているのだと捉えることができます。
少しトラウマがよみがえることだけで、有りえないほど震えていたんではないでしょうか。
欲や執着も度を超すと犯罪になりますが、そこまで咎めるべくものでもありません。
釈迦は極度の潔癖ゆえの怖がりだったのでしょう。
すべてを潔癖にしたかったのです。そのためには欲や執着までも「悪」だと定義するほどになってしまいました。
人に善いことをしたら、人からもよくされる。親切にしたら、親切にされる。
自分が清くなることにより清き水流れる、という保身の動機から
善や清さ誠実などを説いた。嫌われたり憎まれたり悪く思われることを極度に恐れた人間だった。
「悩みの生じた者には喜びが起こる、喜びの生じた者には悩みが起こる、
私は悩むことも喜びも存じない。」など言ったり中道を説いたという背後には、
変化を恐れ、ほんの少しの精神の揺れさえも神経質になっていた釈迦自身が想像できます。
慈悲の心を保つことで、人から嫌われることの不安、人への恐怖心、
また孤独や心のスキマ、それらを補っていた。
釈迦は、執着をなくせと言っていながら、自分は「精神」に誰よりも強く執着していた。
執着し意識するがゆえ、ほんの少しの心の動きさえも大きく感じられてしまい、
苦痛に感じたのだ。それを万人も自分と同じように苦痛に感じるのだろうと錯覚し、
布教したのだが、彼に共感する者は保守的で精神の弱い弱者のみであった。
宗教家が弱者というのは、この所からも来ている。
弱者は次第に死後の世界を捏造し、弱者こそ浄土へ至れるのである、とした。
106 :
1:2008/02/29(金) 13:15:38 ID:5N1x0yY8
人は善悪両面を内在している。
人は赤ちゃんの頃、すべてを信じていた。
大人になるにつれて嘘をつき疑うことをおぼえていった。
人は本来、信じたい欲求をもっているし、信じようとする生き物である。
しかし信じることができない世の中であり、人間どもである。
その葛藤のままではしんどく、その部分に手を差し伸べるのが、宗教である。
宗教の教え、善、愛、優しさ、平安、感謝、奉仕、などの教えが、
本来信じることを望む我々人間の善の心の琴線に触れ、宗教へ惹かれていくのである。
きれいごとであろうが、それらを信じることで精神が穏やかになるのである。
彼らはこのスレを読むとたちまち苦痛が生じるだろう。
読むと信じていたものが粉々に打ち砕かれ、絶望を抱く恐れが出てくるのだ。
その点でこのスレを読んでくれる人は、現実と直面することを恐れぬ勇気ある者であると思う。
まぁ怖いもの見たさからくるものもいるだろうし、
宗教を嫌悪している者からすれば都合がいいのだろうが。
ここで言いたいのは、表(光)を見るのもいいが裏(闇)も知っていれば、
洞察力も養える。一方から見れば善く思えても、他方から見れば悪とさえなるのだ、と。
それだけ。知ってもらいたいのは。
107 :
神も仏も名無しさん:2008/02/29(金) 13:17:21 ID:Pm4YXL4V
何だかんだ言ったつて しょせんこの世は 男は経済力 女は美人であることよw
108 :
神も仏も名無しさん:2008/02/29(金) 14:25:44 ID:XQBemhXB
〉104
優しさと言うのは強さにある。逆もおなじ
自然の強さ、弱肉強食は、弱きものを強者が食べて、強きものも土に帰り、弱きものの糧となる循環。
肉体的に強く、精神的にも強くあるものは健康にも恵まれ支配者になれる資質がある。
資質の中に優しさが含まれなければ、支配されるものは奴隷とかわりない扱いを受ける。
憎まれ、妬まれ、殺される危険さえある。
それに怯え、疲れ強者も体を壊し、精神も弱め弱きものにその座を奪われる。
かもしれない。
愛すものは、愛され、優しさをうけ、慕われる。
強者は孤独であると思う。弱さを見せれば終わる。
求めるべきは優しさであり、愛し、愛される事である。
競争社会の行き着く所は、弱いものが滅び、強者が栄えるが、歴史をみれば明らか、立ち上がるものにその強者も滅ぼされる。
間違った強さを求めたからでしょう。
今の日本をみれば答えがすでにだされてる。
今の日本に夢を見れない人がどれだけ多いか、強さに溺れ何か忘れてきたせいじゃないかと思う。
今が転換期。
今の強さは明日の栄光を保証しない。
それで良いなら、ご自由に
109 :
1:2008/02/29(金) 15:18:23 ID:5N1x0yY8
>>108 優しさという気持ちは、優越感から生まれる。
優越感は強さから生まれる。つまり、
強い→優越感→自信→優しさ
弱い→劣等感→卑下→ひがみ
このようになる。
だから強くなるしかないのだ。
弱者が優しくする場合、自分と同様の弱者に共感を覚え慰め合う優しさしか生まれない。
それは本当の優しさと言えるだろうか?依存心ゆえの優しさの仮面をかぶる弱さではないだろうか?
本当の優しさは強さから生まれるという事実。
気質が優しい人間は弱さからくる保守的な人間である。
やられたくなりから、やらないだけ。
110 :
1:2008/02/29(金) 15:40:00 ID:5N1x0yY8
師匠や先輩や上司など、自分よりも上の者は厳しい。
弱い弟子を強くするために、あえて厳しくするものである。
彼ら弟子が強くなったとき、はじめて強さからくる優しさを知る。
その時に彼ら弟子は気付くであろう。本当の強さとはいったいなんであるかを。
気質が優しいことが優しさなのか?やりかえさないことが優しさなのか?
いいや違う。
本当の優しさとは、厳しさであり、弱者を強者へと持ち上げようとする親心である。
そのために師匠や親、上司などは、弟子や子供など弱者に厳しくするものなのだが、
彼ら弱者は、いかんせん強者の厳しさを、悪だととらえる。
自分を攻撃してくるのだと捉える。
すると弱者は強者に対して恨み妬む。強者の親心が理解できないゆえ。
弱者に恨みをかった強者は、強さを生かし弱者を見離したり攻撃したりさえする。
それが弱肉強食の問題を生む。
弱い者が強い者の親心を理解し、尊敬し自分も強くなろうと努力すればいいものを、
弱者がふんぞりかえり傲慢になることがすべての悪源なのである。
111 :
神も仏も名無しさん:2008/02/29(金) 17:34:25 ID:XQBemhXB
世の中には全く本を読まない人がいる。
逆もいる。
活字か苦手な人に、本をプレゼントしても喜ばない、喜んでも読まない、もしくは必死に読んでそれっきり。
それから本にハマる人もいる。
読んで偉いか、そうでないかとか別に問題じゃないよ。
その人の個性なんだから。
よかれと読まそうと押し付けるのはエゴだよ。
とりあえずプレゼントしてみて様子をみてみる。
何が言いたいのかと言うと、人には人の価値観があり、考えもある。
コレ正しい!ってのは皆の正しいでないし、間違いでもない事は理解したい。
信仰もしかり
112 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 22:07:48 ID:z4Pm0AgX
信仰は現実逃避。というのはもちろん同意。
釈迦について。
105 :1:さんがおっしゃる 極度の不安症 という言い方はピンと来ません。
それならば世の民がするように 現実逃避や信仰に逃げ込めば良いだけの話。
オレは釈迦の気持ちがよく分かる。というか同意。
潔癖症であるがゆえに 人間の歪みを見過ごせず その根源に眼を凝らして根本原因を探った。
ま 潔癖症が弱さだ、と言うならそうであるが。 弱いだけで済まされるなら安直過ぎる。
仔猫、見事にスルーされとる...
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ミ ,.,.,...':,_ミ ○ ;ミ '; ;ミ ○ ;ミ_:'
ミ,.,;.,.;,,. 丶, ,:"丶,,:" ミ,.,;.;,.丶
115 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 23:11:50 ID:lFNjZpc5
1は猫だったのかそうかそうか
116 :
おお:2008/03/01(土) 23:18:08 ID:A7x6Vxpy
105 :1:2008/02/29(金) 12:30:19 ID:5N1x0yY8
1の意見だが、きちんと調べて、批判するよりも、
1の脳における情報、選択、論理構築で成り立っているのが、良く理解できる。
調べなくても1は完全に神のごとくに知っていると、
1への信仰を期待している様に見える。
117 :
おお:2008/03/01(土) 23:20:37 ID:A7x6Vxpy
論理学的に言えば、結論が先行して、理由づけが後から来る形式。
ある意味、信仰する宗教の論理構造と同じである。
1の論法はね。
118 :
おお:2008/03/01(土) 23:21:55 ID:A7x6Vxpy
神が存在し、神の法則が先に存在し、理由付けと論理が後から付いてくる。
1の論理構造も等しい。
1よ 正当防衛はわかるけど、争いや復讐は何も生み出さんよ
(論にのっとた議論とかのことじゃなく
売り言葉に買い言葉って低次元の話な)
やり返すのが自然な感情だと推奨するのは
争いをするのが本来だと本能のままやりたい放題行動してたら動物だよ
そっちのが危険な世になるだろう 暴力なんかな
それを制する教訓程度に宗教教義は悪くない
120 :
おお:2008/03/01(土) 23:36:56 ID:A7x6Vxpy
予想だがの様なタイプは先に結論が完結している。
宗教被害者なのだろう。
宗教被害者は、その被害を受けた宗教の思考構造に似てしまう。
被害受けた宗教が排除的思考の宗教であれば、当然、宗教離脱した後でも、排除的思考が先行する。
結論が先行する。
1の求める方向性は、人間の思考構造とは何かを、論理的に哲学的に結論を出す事であろう。
121 :
神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 20:00:51 ID:sduobOV+
>>101 世間一般で強者で宗教やってる人なんて多いよ
オウムだって東大や頭のいい人達、基督教は経済力ある富裕層多いよ
献金とかしなきゃならないしね
世俗の強者でも満たされないものがあるんだよ
いずれ死んだら消え失せる強さであることに虚無を感じたりね
というか今の若者は強くなりたいなら弱者のイメージな宗教に
すがるのかっこ悪いって避けるでしょ
122 :
神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 21:14:33 ID:pigjVk3f
>世俗の強者でも満たされないものがあるんだよ いずれ死んだら消え失せる強さであることに虚無を感じたりね
その意味では 宗教者は弱者 というより単に 「飢えた者」かな。
飢えた馬鹿を釣るのは容易い。
123 :
神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 01:15:52 ID:yqB7WCGE
>>119 やり返す力量と度胸がない人間が大多数だから、
自然発生的に「強さとは無抵抗」という弱者の辻褄あわせの倫理が出来上がったのだろう。
やり返すことは相手に気付きを与えるいい機会になる。
無抵抗を続けていれば相手は図に乗る一方だろう。
そのような人間に無抵抗で対処することは、彼らの悪癖を助長させることに等しい。
相手と本気でぶつかり合うことで、相手に自身を反省させ改善を促すことができる。
そのような態度こそ、こちら側のあるべき姿なのではなかろうか?
表面では無抵抗を装い心の奥でやつは愚者である、と蔑む宗教家よりもよっぽど誠実である。
やり返すことこそ、本当の善なのである。
124 :
神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 01:19:13 ID:yqB7WCGE
>>120 被害というほどでもないが、当時は信仰者だった。
自分の弱さを正当化していたのは、まぎれもない自分自身だった。
125 :
神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 01:25:52 ID:FxPEUeIq
124=1? なんだ宗教離脱者だったのかスレ主は
126 :
神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 01:33:22 ID:ZCkEhNlN
信仰してる人はシンプルに物事を考えてるだけで別に特別弱虫でも
なんでもない
むしろ誰でも何かに寄りかからないといけない
人に寄りかかる人間ほど弱くて被害者意識強く悲劇のヒロインごっこだと思う
よって神に寄りかかる人ほど賢者だと思う
127 :
神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 01:38:02 ID:FxPEUeIq
と言っても誰一人一人では生きてない
その恩恵を忘れ神だけなんて突っ走る信者も危ない
128 :
神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 01:47:47 ID:FxPEUeIq
1は男らしくなるために宗教やめて格闘家となりました めでたしめでたし
129 :
福和尚:2008/03/03(月) 01:51:41 ID:arD2shxd
仏教徒は特に弱い
130 :
神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 02:05:07 ID:yqB7WCGE
人は一人では生きていけないのではなく、一人で生きることが許されないのだ。本能的に。
人間は群れをなす動物。
よって一人になると精神が孤独を感じ、人と戯れることを望もうとする本能が働く。
この世で生きる以上、人と関係をもたざるをえない。
それを世間では、人は一人では生きていけない、と言う。
精神的にも物理的にも、一人では生きていけない仕組みが成り立ってしまっているのだ。
この本能を利用し群集心理で宗教を創造したのだ。
また、群れをなす動物の共存意識の本能が、他への思いやりになり助け合いという行動を生む。
一人で生きられる強き人間は、弱者からすれば邪道であり排他的だという偏見をいだかれる。
そして自然界を見渡せば群れをなす動物は「弱い動物」に限定されるという事実。
131 :
神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 11:19:15 ID:7oGKOKWv
126は愚かな宗教依存者にケテイしていますね。 そしてそのまま死ね。w
132 :
神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 11:41:01 ID:fo0UmZ3d
なぜ神という言葉が存在するのか?
それは生き物の遺伝子がより高度な存在を求めて生きているから、その一番上に神という言葉を作り脳ではなく遺伝子がそれを求めた
そこから人間が自然災害やその他の有害な出来事を恐れ、その恐れという心の闇を抑制するために神にすがった
つまり"神など物理的に存在しない"という言葉は的外れな見解であって、遺伝子が神という言葉を作らざるをえなく。心の闇が神という言葉にすがらざるをえなかったのです
133 :
素人:2008/03/03(月) 11:57:45 ID:haG/VECe
ざっと流し読みしましたが、
>>1さんの一連の主張が既に、「宗教的である(少し言い換えれば、弱さの合理化wである)」、
というように見えました。
違いますか?w
134 :
1:2008/03/03(月) 13:19:40 ID:yqB7WCGE
>>133 宗教を嫌悪する人間にとってこの主張は都合がよく、その点で、
宗教を信じることが強さとする場合、この主張は弱者の合理化ということになるだろう。
宗教家からすれば、この主張は弱さの合理化に感じるだろう。
しかし、そのように感じるのは彼らの偏った色眼鏡によってである。
宗教は強者であるという偏った色眼鏡をもたぬ我々からすれば、
この主張をする側に弱者の合理化を見出すことはない。
むしろ世間一般で強者とされることこそ強者であるという定義は、
多数決で間違っているとは思えない。
よってこの主張が弱者の合理化であるという偏見は、改めたほうがいい。
135 :
1:2008/03/03(月) 13:54:53 ID:yqB7WCGE
人の本能についてふれてみよう。
人は群れをなす動物である、と先に言った。
オオカミやサルなど、群れで生きる動物には「ボス」が存在する。
(人間世界に地位や肩書きがあるのは、この群れの本能がそうさせている)
群れの中で弱者はボスに従うことで自分を統制し戒め、順応していこうとする。
(マゾの心理である)
父親が権威化するのも、弟子が師匠を求めるのも、おなじ心理が働いている。
ここからが重要なのだ。
宗教家は世間的なボスに嫌悪感をいだき、その結果「神仏」という都合のよいボスを創造した。
弱者にとって都合のよい「神仏というボス」が、世間の強者を弱者へと下降させ、
弱者に都合のよいボスに従うことによって、弱者が自分を見出すのである。
世間的なボスを失った者は、一人で生きることができない。
集団に属していたいし、新たなボスに依存していたい。
この心理が働いて、宗教団体ができ、教祖や神仏が崇拝されるのである。
現代はボスの存在があやふやになり、(先生、父親、政治家の絶対性)
その結果、人々は自分を見失い精神は不安定になり、
ここで、宗教によって絶対的なボスと集団を与えることによって、救われるのだと、
宗教家は信じているし、原理的にはそうなのだが、
彼ら宗教家も無宗教の人間も、ほとんどの人間がこの事実に気付いていない。
現代が悪に満ちているから、いまこそ宗教が必要なのではなく、
世間的な強者であるボスが軽視されることによる弊害の穴埋めが、宗教なのである、と。
世間的な強者が再度、尊敬される時代になったとき、人々は心の平安を取り戻すであろう。
民主主義や市民平等が結果として、集団動物の本能を阻害し、
人々の心を不安にさせている事実を知るがよい。
136 :
1:2008/03/03(月) 14:16:15 ID:yqB7WCGE
荘厳な神仏像。
豪華で憐憫な神社仏閣教会。
なぜ神仏は荘厳に作られているのか?
理由は簡単である。
神仏こそ絶対的な強者であるという見せつけ。ただそれだけ。
立派に作れば、あぁすごい、ということになる。
それらをさも、宇宙の神秘に触れてしまったかのような、
接し方をする宗教家よ。
今日はひな祭りですね
人形が一年の災厄を受け持ってくれるというのですが、これも偶像崇拝の一種なのでしょうかね
138 :
おお:2008/03/04(火) 00:12:54 ID:eIXnVunc
1よ。まず、人間の思考、文化とは何かをどうして存在するのかを考えるべきだ、
安易な論理構築しすぎている。
まず、正確な洞察が要求されるであろう。
これは、宗教ではなく、論理的認識の必要性であって。
1の社会認識は論理的に幼稚過ぎますね。
その激しさは、相当の宗教被害のトラウマに基いて論じているように見える。
1自身が
1こそ絶対的な強者であるという見せつけ。ただそれだけ。
立派に作れば、あぁすごい、ということになる。
それらをさも、宇宙の神秘に触れてしまったかのような、
接し方をする1よ。
と言いたくなる様な文面に思える。
もっと、人類の歴史を真面目に勉強しなさい。
宗教ではなく、正しい認識として、
http://bariken.exblog.jp/7596680 殺害予告で小4女児を通告 ネットに、「いたずらでやった」 [ 03月04日 12時38分 ]
共同通信
埼玉県警少年捜査課は4日、インターネットのサイトに埼玉県内の小学生の殺害予告を書き込んだとして、
軽犯罪法違反(業務妨害)の非行事実で、千葉県内の小学4年女児(10)をさいたま市児童相談所に通告した。
調べでは、女児は2月15日午後7時半ごろ、自宅のパソコンから「埼玉の小学生の女子を2月29日13時に殺します」
と書き込んだ疑い。女児はいたずらでやったという。
140 :
神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 22:59:51 ID:tGpT5Vi9
136 :1 なども納得できるのだが とにかく長い。
141 :
おお:2008/03/05(水) 23:06:36 ID:cUfNL2EM
ま、冷静に、宗教構造と問題点と欠点を分析するのが、大事さ、
●●●信仰は弱さへの合理化だった●●●
の1のスレタイの方向性は有効性があるんだけど、、
1も、そのテーマに集約して、批判すれば有効ですけどね、
信仰はおかしい、に集中すればいいんだけどね。
知らない仏教とか、社会構造を言い出すから、批判が的外れになるんですけどね。
>>1みたいなこと書かなくったって、宗教を信ずる人は
自分が非力ということを知っていて信仰しているんじゃないのかと思う
私もカトリック教会に通う人間だけど
私は弱いからこそ教会が必要って認めてるつもりだし
医者を必要とするのは病人であって健康な人じゃないからね。
143 :
神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 14:59:21 ID:pWNZ1w03
イエスは「独身を受け入れられる人は受け入れなさい」って、仰ってた
1
信仰はヘーゲルの絶対精神だよ
あげ
神々や宗教への信仰って、結局は本人が何に救いを求めてるかだと思うんだよね
うちの会社にキリストさまを信仰しておられる方がいるけど、その方はちょっと精神的な問題を抱えている。それでも『一心不乱に祈っていると、神の声が聞こえてきて僕を助けてくれる』と仰ってるし
自分の中に弱い部分があるから何かに縋りたいのは人間の本質みたいなものじゃないのかな
俺はおそらく1よりあらゆる面(社会的、経済的、身体的、精神的、知的に、
かつ積極性、外向性、その他…)で健康的で屈強な信仰者を知ってるが、
それとて1に言わせれば信仰を持ってるゆえに、「弱い」ということになる
んだろう?
そうなると、「それでも弱いんだよ!」という方が、情けないような気がする。
>>1 人によっては、確かにその通り。
>「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ」
その割りにキリスト教徒は好戦的じゃないか w
149 :
神も仏も名無しさん:2008/05/19(月) 12:29:31 ID:V9os+9y7
>>148 左の頬を出すと同時に右手も出すんだろ?w
1の理屈で言えば中国のやっていることは正しい。
アメリカ強者で最高。弱い国は努力してアメリカを目指そう。
でおk?
弱いけど強くなる努力をする気力が無い。
かといって死ぬのもちょっと。
1にとってこういう奴(俺)はどうなの?
消えろ?
死ね?
だったら俺には関係ないし、
ただ強くなれ言われても気力も無い。
勘違いの優越感でも生きる力にはなる。
自らの特質を持って環境に対峙するのが生き物だろうから
弱さと欺瞞を武器に強さを手に入れることも
ある意味正しい(ニーチェの都合のいい使い方ですまん)
逃げること、擬態すること、群れることは生き物の選択の一つでは?
というのは本当はどうでもよくて、全部読んでないのでどっかに書いてたら
すまん。俺が強くなるにはどうすればいい?
ただし、俺は弱さをがんばって合理化してきた人間だから
それを変えれる方法を具体的に示してほしい。
152 :
151:2008/07/03(木) 23:58:39 ID:9244zHNR
連投
この屈折したくらい性格の生物的なメリットはどこにあるのか?
ずっと考えてきたけど、もしかしたら自身のメリットではなく
ウィルスのメリットかもしれない。
あるウィルスは猫の体内でしか複製できないらしいのだがそのウィ
ルスがネズミの体内に入った場合、猫を怖がらないだけでなく近づ
いていくらしい。また水中で繁殖するタイプの寄生虫がバッタに入
った場合、水に飛び込むらしい。
で、さっきの猫ウィルスが人に入った場合、統合失調症になるとい
う報告があるそうだ。女性は着飾り社交的となり、多くの男性と関
係を持ち、男性は身なりを気にしなくなり社会性が薄れていく傾向
があるらしい。で思ったんだがウィルスにとって、ある程度免疫を
落としつつ、かといって死なないのが一番いいんじゃないかと。
ここで思うのが宗教的生活態度。節制はするけど、精力はつけない。
自分の中に悪があると思っていたけど実は外から入ったのかもしれ
ない。
朝日を浴びて健康的に生きるのを拒絶してしまうのはウィルスのせい
である可能性だってある。昔は胃がんがウィルス由来なんていったら
笑われていたように。
これは「迷惑な進化」っていう本を読んで思ったことです。
実はまったく詳しくありませんw
誰か詳しい方が居られましたらご光臨をお願いしたいのですが
m(_ _)m
153 :
神も仏も名無しさん:
age