アセンションスレなのでアセンションについてまとめました。
これからここで語ることはほぼ全て「受け売り」です。
私自身が得た「気付き」や日常で起きた「事実」はほんの1%程度でしかありません。
またここを見ている大半の人は「霊魂」「輪廻転生」「神霊(神)」
「人生の目的(意味)」等と言う言葉にも比較的抵抗の
少ない人が多いと思いますので宗教用語も使っています。
宗教的思考に抵抗がある人は読まない方がいいかもしれません。
これらを信じるか信じないかは貴方にお任せします、全て「自由」です。
念のために何度でも繰り返しますが
「信じるものが救われる」あるいは「正しい」と言うものでもないし、
「信じない者が罰せられる」もしくは「間違い」と言うものでありません。
「信じるものが恩恵を受ける(得をする)」と言うものでもありません。
121 :
神も仏も名無しさん:2008/04/21(月) 19:03:38 ID:VJIqp1aI
一般に言われるアセンションとはあくまで「地球の次元上昇」であり、
個々人の次元上昇は人生の積み重ねによって日々成し遂げられています。
これらの時期は個人差(人生差、経験差)があるためにバラバラです。
2012年のアセンションで全人類が等しく次元上昇するワケではありません。
それにつられて次元上昇する人はすでにそこまでの積み重ねが出来ている、
もしくはそのタイミングと同じくして自分の積み重ねが一定域に達した、
と言う理由によるものでアセンションだからではありません。
アセンションで次元上昇する人はアセンションがなくても次元上昇出来る人です。
逆に次元上昇できない人はアセンションがあろうと次元上昇は出来ません。
ただ常より力が満ちて活発になることから個人個人の次元上昇も
後押しされており、「その域」にまで達しやすくはなっています。
アセンションと宗教的思想をミックスすることに
抵抗のある人もいるでしょうがこれらは本来同根です。
人間がこの世で自分を磨き高みを目指しているように
地球も人間同様意識を持った生命であり
人と同じように日々高みを目指しています。
これは道端の石も虫や鳥も変わりありません。
つまりこの世(現世)は自身を磨くための修行場と言えます。
アセンションとは修行場自体の変化であり、そこにいる者全てに
激変を要求するため大事となっているのです。
アセンションを平たく言うと
「今まで使ってた小学校を中学校にします。
在校生は別に小学校を用意するのでこれからはそちらに通ってください。
卒業生はそのまま中学一年生としてここに通ってください。」
と言った感じです。
123 :
神も仏も名無しさん:2008/04/21(月) 19:08:51 ID:l/TM9HBT
>>123 受け売りですが「次元上昇」とは「その存在の波動(振動数)」が
一定域を超えることでこの三次元世界から上の世界に
移行したように「見える」現象を指します。
(厳密にはそこに在って、認識出来なくなるだけです)
幽霊を例に出しますが幽霊が見えなかったり、物体をすり抜けられるのは
「霊体の振動数」が物質体のそれよりも高く速いからだとされます。
(物体も極言すれば「波」ですが、音波は石等を透過できます)
>>122の続き
既存の宗教の問題点
既存の宗教の多くは神と人、人とそれ以外(鳥獣虫石)の間に線引きをしました。
本来それらは全てまったき同じものです。
差があるとすれば経験差による発達の違いのみです。
(それがとてつもなく大きいとも言えますが)
神、人、獣、虫、石は全く同じものです。
例えるなら
神が蝶、人が蛹、獣が芋虫、虫が卵と言ったところです。
またこれは全く同じ才能を持ち合わせた
人間の年齢差にも言い換えることが出来ます。
神が大学生なら人は高校生、と言う風に。
そのため神を「崇める」行為は滑稽ですし動植物を見下す行為もおかしなことです。
畏敬の念が湧き上がるのは当然ですが崇めたりすることは道化だと教えられます。
126 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/04/21(月) 19:36:47 ID:o2JM0CDO
誰もいなかったですでFA
人生の目的
人生の目的は自己の練磨により、より高みを目指すことです。
究極的には「神に帰る(神であることを思い出す)」ことです。
人は「人生を生きる」ことで経験を積んで行きます。
その経験を積む中で必ずいくつもの「気付き」を得るでしょう。
この気付きの積み重ねが一定域に達すれば各段階の「悟り」に到達します。
「悟り」を得る段階に達すると「次の階梯」に進みます。
悟りに至った存在はもはやその場(三次元世界)に留まる必要がなく
次のステージ(四次元、五次元・・・)にてまた新たに修行を始めます。
それらを繰り返しながら最終的には「皆が」神を顕現します。
アセンションと言う「イベント」に囚われず
むしろ「自分の人生のために」考えてみてください。
自己の練磨
自己の練磨とは「気付き」を得る、得るように「努める」ことです。
「気付き」とは頭で理解することではありません。
真理を知識として頭で理解するだけでは無意味です。
心における「気付き」を得てはじめて身に付きます。
なのでいくら書籍や真理に接して知識を得たからといって、
その人がその分だけ高みに昇っているワケではありません。
光を外(神、師、知識)にばかり求めないでください。
光は「己の内」にこそあります。
神は全てを愛し導きはしますが救いはしません。
自らを救うものだけが自らによって救われるのです。
それは究極的には己も神だからです。
そして人には自らを救わない自由をも与えられています。
他の神はその貴方の自由に干渉しません。
貴方の人生は貴方と言う神のものなのです。
気付き
「気付き」とは心に響き、共鳴することです。
自身の価値観や感性に合致し、「腑に落ちる」ことでもありません。
どちらかと言うと思考の枠外にあることの方が多いでしょう。
気付きは個々人によって全く異なります。
まったく同じ人生がないように、同じものも何一つありません。
そのため他人はおろか、偉大な大師の人生すら参考にはなりえません。
もし参考になるのなら皆が釈迦の人生をなぞれば良いだけです。
ですが釈迦の人生を(なぞれたとして)なぞったところで
悟りを得ることが出来るのは釈迦ただ一人だけでしょう。
気付き2
気付きとは実際、日常のなんでもないところに転がっています。
釈迦の悟りのきっかけは「乳粥」にありました。
(それまでの人生は過酷なものでしたが)
またあるものは悟りを求めたものの得られず、
迷っているときにこんな言葉を耳にしました。
男「この店で一番いい肉をくれ」
肉屋「ウチの肉は全部一番さ!」
一見なんでもないと思えるこのやりとりが彼の気付きとなりました。
「気付きの種」はいたるところに無数に転がっています。
これらが「導き」です。
ようはそれを「自ら」掴むか否か、です。
気付きの種は常にどこにでもありますし
誰にでも平等に与えられています。