>>501 いい質問じゃ。
死とは例えば旅行のようなものと言えよう。
人は旅行する時には目的地や行き方など調べ、なるべく快適に過ごそうと思うものじゃろう。
滞在が長くなるほど、沢山の情報を知ろうと思うものじゃ。
それによって不安を無くし、楽しい期待が高まるものじゃ
もし長く旅行しなければならないのに、行き先も行き方も判らないのなら、不安に苛まれ、ストレスを多く受け、不安から逃れ様として多くのものに執着するだろう。
死とは永遠の旅路のようなものじゃ。
永遠に行かねばならないのに、多くの者は行き先も行き方も判らない。
それ故に人々は毎日、不安に苛まれ、金や権力や名声に執着し、互いに争い、この世を苦しみながら生きておる。
死の不安が煩悩の原因であるとも言える。
しかし、もし、死を超える事が出来たなら、死によって消える事の無い不死の境地に辿り着いたなら、もはや死の不安に怯える事は無い。金や権力や名声に執着する事も無くなり、争わず、この世を楽しみながら生きていけるじゃろう。
そして死を迎えようという時にも、お釈迦さまの様に楽しいとすら言えるじゃろう。
死によって変化するものは何であるか、恐れていたもの何なのか、それらが理解出来れば、死の不安は無くなり、初めてより良く生きる事が出来るのじゃ。
死を超えると言う事は、むしろ不安を無くし、より良く生きる事であるとも言えるのじゃ。